倫敦通信(第2回)~医療と護身術

提供元:MRIC by 医療ガバナンス学会

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公開日:2012/11/06

 

星槎大学客員研究員
インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員
越智 小枝(おち さえ)

2012年11月5日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行

※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。

先日一時帰国した際、薩摩の野太刀自顕流の伝承者である島津義秀さんとお話しさせていただく機会がありました。攻撃してくる相手を倒すための実践的なお話を色々聞けたので、「看護学部でも是非教えてあげたいですね」と言ったところ、「そんなに必要ですか?」とすこし驚かれたご様子でした。病院で起こる暴力行為は世間ではまだあまり認識されていないのかな、という印象を受けました。

女性のスタッフが増えた昨今、夜間休日の病院で暴力行為に対応する管理職も男性とは限りません。私自身、当直中に病棟からこんな電話を受けたことがあります。
「先生、○号室の意識障害の患者さんがボールペンを持って暴れていて…でも担当の先生が帰ってしまって…」
確かに問題ですが、女医の私にどうしろと、という状況です。半ばやけくそで「つまり私にとり押さえてほしいってこと?」と聞くと、「はい。」とのお返事。さすがに苦笑しながら病棟まで行き、患者さんからボールペンを取り上げて転落防止を確認した上でご家族へ連絡しました。その後の署名などは全てフェルトペンを使いました。
意識障害で病室から走り出してきた患者さんを「膝カックン」で転ばせ、看護師さんが噛みつかれている間にとり押さえたこともありますし、裸で暴れる若い男性を女性看護師と4人がかりでベッドに押し倒した(!)こともあります。この時は妊娠中の看護師さんが危うくお腹を蹴られるところでした。やり返すことは言語道断ですが、力の差がある上に防戦一方、という状況には辛いものがあります。
ここで大事なことは、これらはいずれも一般病棟で起こったということ、患者さんは心神喪失状態であり、こちらの態度などで避けられる事件ではなかったということです。
救急外来になると喧嘩の負傷者や酔っぱらい患者も多いため、状況はさらに悪化します。私の同僚だけでも救急外来で患者さんに殴られた女医さんが何人かいます。

日本看護協会の調査では、身体的暴力・言葉の暴力を合わせると4人に1人の看護師が「暴力を受けたことがある」と回答しており、身体的暴力の96%は患者さんからの暴力だったとのことです(参照1)。
英国でも状況は同様です。2000年に英国で行われた職種別の犯罪調査(British Crime Survey)によると、看護師が暴力行為を受ける確率は5.0%で、警備職(11.4%)の約半分のリスク。介護士は2.6%でこれも全職業の平均値の2倍以上となっており、医療関係者のリスクの高さがわかります(参照2)。言葉の暴力にいたると50%の病院職員が経験しており、暴力行為による医療費の喪失は年間6900万ポンドになるそうです(参照3)。英国NHS(参照4)では2001年からNHS Protectというプロジェクトを立ち上げてこれに当たっていますが(参照5)、驚くことに、その英国においても医療機関での迷惑行為が犯罪として認定されたのはつい最近の2009年であり、医療従事者が患者の暴力から保護されていない実情がうかがわれます。

ではなぜ医療機関では暴力行為が多いのでしょうか?
1つには、患者・医療者両方の精神的ストレスが挙げられます。入院生活や外来での待ち時間は、体調が悪い患者さんにとっては大変な精神的苦痛です。また、医療行為への恐怖が高まった結果、逆に医療に対する過剰な期待が裏切られた結果、暴力行為に至ってしまうこともあるそうです。それに対して医療関係者側でも、長時間勤務の過労状態の時に不適切な発言が増えるため、特に体力のないスタッフが衝突してしまう例が多い、と感じます。
もう1つの原因は患者さんの意識状態の変容です。例えば急性アルコール中毒や急性薬物中毒による酩酊状態がこれにあたります。しかしこの「酩酊状態」はなにも中毒でなくとも起こり得ます。例えば痴呆、重症の肝臓疾患や甲状腺機能異常などの患者さんの意識障害は時折みられるケースです。
また、24時間外に対して開けている病院という施設では、患者さん以外の方が乱入して暴力をふるう、という事件も起こり得ます。以前の勤務先では患者さんの家族が刃物を持って暴れている所を医師が確保した、などという話も聞きました。

ではこのような行為に対して、どのような対策が取られているのでしょうか。多くのガイドラインで提示されているのは
・相談窓口、報告システムの設置
・警備員による巡回
・診察室や待合室の間取りや物の配置
・暴力行為を起こさないような環境作り
といったものです。
しかし、暴力行為の現場でスタッフ自身が身を守る方法については、あまり詳しく述べられていません。護身術の教育が病院単位でなされているところもありますが、学校教育としては導入されていないのが現状です。
これについてNHSは「トレーニングと教育は重要だが、どのようなトレーニングが有効かというエビデンスは確立されていない」という大変英国らしいコメントを添えています。要するに費用対効果がよいかどうか分からない、ということでしょう。
エビデンスを待つまでもなく、実際の現場では、一人ひとりが身を守る知識を持つことは最低限の職業訓練だと思います。腕や肩をつかまれた時に振り払う方法、暴れている患者さんから危険物(点滴台、置時計、ペンなど)を遠ざけること、横になっている人は額を押さえると暴れにくいこと、など。実践しないまでも、これらを知っているだけでもスタッフ自身の態度が変わります。怯えたり立ちすくむ新任スタッフはどうしても攻撃されることが多いため、これはとても大切なことなのです。
また管理職の方は、看護師さんに暴力を振るう患者が、男性や医師(性別に関わらず)の前で急におとなしくなることも多い、ということも知っておく必要があります。これを把握していないと、「スタッフの態度が悪かったのだ」と解釈したり、暴力行為の危険性を低く見積もってしまうことがあるからです。

暴力行為の危険は、専門・階級に関わらず、医療者にとって他人事ではありません。中学校では武道が必修化されましたが、医療系の学校でも、武道でなくとも最低限の護身術は教育してほしいな、というのが個人的な感想です。

<参照>
1.http://www.nurse.or.jp/home/publication/pdf/bouryokusisin.pdf
2.http://www.publications.parliament.uk/pa/cm200203/cmselect/cmpubacc/641/641.pdf
3.http://www.designcouncil.org.uk/Documents/Documents/OurWork/AandE/ReducingViolenceAndAggressionInAandE.pdf
4.NHS:National Health Service。イギリスの国営医療サービス
5.http://www.nhsbsa.nhs.uk/Protect.aspx

略歴:越智小枝(おち さえ)
星槎大学客員研究員、インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院客員研究員。1999年東京医科歯科大学医学部医学科卒業。国保旭中央病院で研修後、2002年東京医科歯科大学膠原病・リウマチ内科入局。医学博士を取得後、2007年より東京都立墨東病院リウマチ膠原病科医院・医長を経て、2011年10月インペリアルカレッジ・ロンドン公衆衛生大学院に入学、2012年9月卒業・MPH取得後、現職。リウマチ専門医、日本体育協会認定スポーツ医。剣道6段、元・剣道世界大会強化合宿帯同医・三菱武道大会救護医。留学の決まった直後に東日本大震災に遭い、現在は日本の被災地を度々訪問しつつ英国の災害研究部門との橋渡しを目指し活動を行っている。