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(1)「何歳まで治療すべきか」に明確な答えはあるのか?<今回のPoint>「何歳まで治療すべきか」に明確な答えはない高齢者は臨床試験で過小評価されており、エビデンスの外にいることが多い構造化された意思決定プロセスはSDMの質を高める<症例>88歳、女性。進行肺がんと診断され、本人は『できることがあるなら治療したい』と希望している。既往に高血圧症、糖尿病と軽度の認知機能低下があり、パフォーマンスステータス(Performance Status:PS)は1〜2。診察には娘が同席し、『年齢的にも無理はさせたくない。でも本人が治療を望んでいるなら…』と戸惑いを見せる。遺伝子変異検査ではドライバー変異なし、PD-L1発現25%。cancer silver tsunamiが到達する前に解決すべき課題標準的な薬物療法を勧めるべきか、毒性の少ない治療にとどめるべきか。あるいは支持療法を中心とした方針とするか――。どの選択肢にも正解・不正解があるわけではなく、医師としての判断が問われる場面です。しかも、こうしたケースは珍しくありません。むしろ、今、多くの医師が、日々の診療の中で「何歳まで治療をすべきか?」という問いと向き合っているのではないでしょうか。日本は世界有数の長寿国であり、すでに65歳以上の人口割合(高齢化率)は世界最高水準に達しています。2023年時点でその割合は29.1%、2050年には37.1%に上ると推計されており1)、今後も高齢化のさらなる進行が見込まれます。がんは高齢化とともに増加する代表的な疾患であり、都市部を除く多くの地域で「高齢のがん患者が当たり前」という時代がすでに到来しています。現場の臨床医は、いわば“cancer silver tsunami”への対応を迫られているのが現状です。各種がんの診療ガイドラインでは、「暦年齢のみを理由に治療を控えるべきではない」と明記されており、患者の身体的・認知的背景や併存疾患、フレイルの有無などを総合的に判断することが求められています2,3)。たとえば大腸がんの診療ガイドラインでは、年齢にかかわらず適応となる(fit)/問題がある(vulnerable)/適応とならない(frail)の層別化を行うための評価フローも提示されています(図1)4)。(図1)一次治療の方針を決定する際のプロセス画像を拡大するとはいえ、実際の臨床では「何歳まで手術や薬物療法を提案すべきか」「治療リスクはどう見積もるのか」といった問いに、明確に答えてくれるガイドラインはほとんどありません。さらに、薬物療法を選択するとしても、レジメンの選定・投与量・期間の調整など、悩ましい判断は尽きません。臨床試験データは“選ばれし高齢者”のものこの難しさの背景には、高齢者が臨床試験で過小評価されている現実があります。多くのpivotal studyでは年齢制限は設けられていないものの、実際に登録される高齢者は非常に少数に留まっています。米国では65歳以上のがん罹患率は全体の約42%を占めますが、FDA登録試験で高齢者の登録割合は24%、NCI主導試験では10%未満に過ぎないと報告されています5)。たとえ高齢者に限定した第III相試験が行われたとしても、登録されるのは臓器機能が良好でPSも問題ない“選ばれた高齢者”です。つまり、目の前の患者が試験対象者と同じかどうか判断するための“物差し”が、われわれの手元にも臨床試験報告の中にも存在しない、という現実があるのです。米国・National Comprehensive Cancer Network(NCCN)の高齢者がん診療ガイドラインでは、治療を始めるにあたっての意思決定プロセスがフローチャートで示されており、その中でShared Decision-Making(SDM)の重要性が段階的に整理されています(図2)。(図2)意思決定プロセスのフローチャート画像を拡大する多くの臨床医は、日々の診療の中で個々の患者に応じた判断を経験的に行っていると思われますが、このような構造化されたプロセスを意識的に辿ることで、GA(Geriatric Assessment)の実施や、その結果の解釈にも自然とつながっていきます。そしてそれは、最終的にSDMの質を高めることにも寄与するはずです。とくに、治療開始前(あるいは診断時点)から「治療の目標」と「患者の価値観」をすり合わせておくことは、がん診療における極めて重要なステップです。私自身の経験からも、たとえ緩和的治療であっても、患者が「治る」と期待していたことで、医師との間で治療のゴールに齟齬が生じるケースを数多く見てきました。本連載では、高齢者がん診療における実際の“悩みどころ”を共有しながら、そのヒントや手がかりをお届けしていきます。次回は「高齢者がん診療のキホン」として、治療開始前の評価、とくにGAの実践方法について取り上げる予定です。高齢者機能評価(GA)とは高齢がん患者においては、暦年齢やPerformance Status(PS)だけでは捉えきれない身体的・精神的・社会的な多様性が、治療の選択や予後に大きく影響する。高齢者機能評価(GA:Geriatric Assessment)は、身体機能、認知機能、併存疾患、栄養状態、社会的支援などを多面的に把握するツールであり、がん治療に伴うリスクの評価や治療方針の決定に活用される。老年医学の領域で用いられるCGA(Comprehensive Geriatric Assessment)は、医師・看護師・リハビリスタッフなど多職種による包括的介入を前提とし、継続的な評価を通じてケアプランを策定することを目的とする。一方、がん領域におけるGAは、薬物療法開始前に脆弱性をスクリーニングし、治療強度の調整や必要な介入を検討する「意思決定支援のツール」として位置付けられる。近年では、GAの実施とそれに基づく介入が患者に利益をもたらすことを示す無作為化比較試験(RCT)の結果が多数報告され、国内外のガイドラインにおいても、高齢者のがん薬物療法前にGAを実施することが強く推奨されている。さらに、短時間で実施可能な簡易GAツールの普及や、iPadなどを活用した電子化も進み、臨床現場での実践が広がりつつある。1)内閣府:令和6年版高齢社会白書(全体版)2)日本肺癌学会編. 肺癌診療ガイドライン2024年版 ver.1.1. 2024.3)日本乳癌学会編. 乳癌診療ガイドライン2022年版. 金原出版. 2022.4)大腸癌研究会編. 大腸癌治療ガイドライン 医師用 2024年版. 金原出版. 2024.5)Sedrak MS et al, CA Cancer J Clin. 2021;71:78-92.6)NCCN Clinical Practice Guidelines in Oncology (NCCN Guidelines): Older Adult Oncology Version 2.2025 — May 13, 2025講師紹介