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〔CLEAR! ジャーナル四天王(90)〕 否定された『減塩パラドックス』―降圧の基本は、やはり減塩。

食塩摂取と高血圧とは、いわば切っても切れない関係にある。 薬剤による降圧療法は日常的に行われているが、各国の高血圧診療ガイドラインでは、薬物療法に先行する生活習慣の改善(life style modification)、なかでも『減塩』の履行・遵守を強く勧めている。高血圧診療における、生活習慣の改善の代名詞が『減塩』であり、日本高血圧学会でも学会をあげて『減塩』に取り組んでいる。たとえば、例年開催される学会のランチは減塩弁当であり、また昨年初めて行われた減塩サミットの共催に名を連ねた。 本論文は、こうした『減塩』の価値を、改めて再確認する内容をSystematic Review・メタ解析の手法を用いて報告している。いまさらとも言われかねない『減塩』の価値を検討し、証明する試みがなされ、BMJに発表された背景には、2011年に相前後してJAMAに発表された2本の論文で、『減塩パラドックス』、すなわち過度の減塩が心血管イベントを増加させる可能性が報告されたことが強く影響している1), 2)。これらの論文では、減塩が心血管イベントの抑制につながらない根拠として、減塩によるレニン・アンジオテンシン系の活性化や、交感神経系の活性化、脂質異常の悪化の可能性があげられている。 これらの論文は、JAMAに掲載されると瞬く間に反論、疑義が寄せられ、議論の的となった3)~11)。反論の中核となった論点は、食塩摂取量の推定方法 (標準的な24時間蓄尿サンプルによる推定ではなく、single urine sampleによる推定に基づいている)、データ採集の方法(数年間の隔たりがあるコホートについて解析をしており、データ採集時期に重大な差がある)であり、誤った手法によって収集されたデータが、誤った結論を導いた可能性が指摘されている。 著者らは、改めて厳格な選定基準のもと選定した研究成果に対して、Systematic Review・メタ解析を行った。その結果は、従来通り『減塩』の有効性を支持するものであり、世界的・公衆衛生学的な取り組みの修正を迫るものではなかった。CKDの評価項目にも採用されているsingle urine sampleによる簡便な評価法は、疾病についての啓蒙や、さまざまなコストの軽減、データ収集の容易さをもたらすメリットがある。しかし、このような簡便さによって、科学的な評価に耐えるデータ収集が損なわれている可能性があることを見過ごしてはいけない。ポストホック解析や、観察研究による問題提起は重要であるが、科学に求められていることは、普遍的な真実の解明であることを忘れてはならないのではないか。参考文献1) Stolarz-Skrzypek K, et al. JAMA. 2011; 305: 1777-1785.2) O'Donnell MJ, et al. JAMA. 2011; 306: 2229-2238.3) Aleksandrova K, et al. JAMA. 2011; 306:1083.4) Bochud M, et al. JAMA. 2011; 306: 1084.5) Cook NR. JAMA. 2011; 306: 1085.6) de Abreu-Silva EO, et al. JAMA. 2011; 306: 1085-1086.7) He FJ, Appel LJ, et al. Kidney Int. 2011; 80: 696-698.8) Labarthe DR, et al. JAMA. 2011; 306: 1084-1085.9) Rebholz CM, et al. JAMA. 2011; 306: 1083-1084.10) Whelton PK. JAMA. 2011; 306: 2262-2264.11) Mann S. JAMA. 2012; 307: 1138-1139.

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アルツハイマー病治療、学歴により疾患への対処に違いあり?

 イタリア・ジェノア大学のSilvia Morbelli氏らは、アルツハイマー病(AD)患者の前駆期(prodromal)における学歴別の脳代謝状態を検討した。その結果、高学歴の患者では神経の温存あるいは代償性の神経ネットワークの存在を背景に、より良好な疾患への対処が望める可能性を示唆した。Journal of Nuclear Medicine誌オンライン版2013年4月16日号の掲載報告。 研究グループは、高学歴の前駆期AD患者における、神経変性の認知予備能(resilience)に基づく代謝を検討することを目的とした。対象は、健忘型軽度認知障害患者(後にADへと移行)64例と、対照90例で、脳18F-FDG PETを施行し、両グループ被験者を低学歴群(対照42例、前駆期AD 36例)と高学歴群(同:48例、28例)に分けた。まず、教育状況をマッチさせた患者および対照において脳代謝を比較し、次に前駆期AD集団の高学歴群と低学歴群の代謝を比較した。また両群の比較により、高い教育状況と関連する代謝の抑制および代償の領域を特定した。さらに、その有意な抑制ならびに代償を示す部位を、関心領域(ROI)法を用いて測定し、脳内部位相関分析を行い代謝の連携(ネットワーク)を調べた。すべての解析は、SPM8[ピークレベル時非補正のp<0.001、クラスターレベル時偽発見率補正(年齢、性別、MMSEスコア、中核症状)のp<0.05]により実施した。 主な結果は以下のとおり。・高学歴前駆期AD患者は、左下側頭回、中側頭回、左中後頭回において、低学歴前駆期AD患者に比べ、重篤な低代謝を認めた(ROI抑制)。・一方で右下側頭回、中側頭回、上前頭回においては、相対的に代謝亢進を認めた(ROI代償)。・代償領域は、主に右背外側前頭前皮質(DLFC)に一致し、高学歴前駆期AD患者においては、両半球のいくつかの皮質領域(前頭側頭皮質、海馬傍回、楔前部)と代謝との間に幅広い相関がみられた。一方で低学歴前駆期AD患者ではみられなかった。・これらの代謝との関連が、生理的ネットワークまたは代替ネットワーク、あるいはこれら2つの組み合わせにおいてもみられるか否かを明らかにするため、高学歴対照(神経温存)においても同様のDLFC代謝連携の解析を行った。・その結果、右DLFCの関連部位は、高学歴前駆期AD患者と一部重複していたが、広範囲には渡らなかった。・以上より、高学歴前駆期AD患者は、神経変性の認知予備能のみならず右DLFCにおいて重要な役割を果たしている代償性の神経ネットワークを背景に、より良好な疾患への対処が望めると考えられた。関連医療ニュース ・認知症、アルツハイマー型とレビー小体型の見分け方:金沢大学 ・日本人の認知症リスクに関連する食習慣とは? ・抗認知症薬4剤のメタ解析結果:AChE阻害薬は、重症認知症に対し有用か?

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糖尿病は軽度認知障害発症リスクを上昇させる

 高齢者において、糖尿病が軽度認知障害(MCI)発症リスクを上昇させることが米国メイヨークリニックのRosebud O. Roberts氏らの研究によって明らかになった。また、本研究により対象者の性別やMCIサブタイプ、障害領域の数によってその相関の強さが異なることも示された。Alzheimer's & dementia誌オンライン版2013年4月3日付の報告。 2型糖尿病が、アルツハイマー病に移行する可能性がある健忘型MCIや、血管障害由来の非健忘型MCIの発症リスクを上昇させる可能性があることは知られている。本試験では、高齢者を対象に、2型糖尿病とMCIとの関連について、MCIサブタイプ(健忘型、非健忘型)や、性別による関連も含めて検証した。 この前向き集団研究は、ミネソタ州オルムステッド郡在住の70歳以上の高齢者1,450人を対象に行われた。ベースライン時とその後15ヵ月ごとに、認知機能評価に用いられる神経心理学的検査、神経学的検査、臨床認知症評価法(CDRスケール)を実施し、コンセンサス会議の診断基準によってMCIや認知症の評価を行った。2型糖尿病の既往は、ベースライン時の医療記録から確認した。 主な結果は以下のとおり。・経過観察期間中央値は4年で、1,450人中348人がMCIを発症した。・2型糖尿病とMCI発症に相関がみられた(ハザード比:1.39、95%信頼区間:1.08~1.79)。・2型糖尿病とMCIサブタイプ別による関連をみたところ、健忘型MCI(1.58、1.17~2.15)、複数領域・健忘型MCI(1.58、1.01~2.47)、単一領域・健忘型MCI(1.49、1.09~2.05)、非健忘型MCI(1.37、0.84~2.24)であった。・とくに強い相関がみられたのは、男性の複数領域・健忘型MCI(2.42、1.31~4.48)、男性の複数領域・非健忘型MCI(2.11、0.70~6.33)、女性の単一領域・非健忘型MCI(2.32、1.04~5.20)であった。

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全年齢対象の非ホジキンリンパ腫に対するR-CHOP療法、強化療法vs.標準療法/Lancet

 びまん性大細胞型B細胞性非ホジキンリンパ腫に対するR-CHOP療法の全年齢を対象とした強化療法(毎2週投与)について、標準療法(毎3週投与)と比べて有意な改善を示さなかったことが報告された。英国・ロイヤルマーズデンNHS財団トラストのDavid Cunningham氏らが第3相無作為化試験の結果、報告した。これまでに、2004年に60歳以上を対象とした試験でCHOP強化療法(毎2週×6サイクルvs. 毎3週×6サイクル)の全生存の改善が示されていた。ただし、その後日本で行われた強化療法(毎2週×8サイクル)を検証した小規模試験では改善が示されず、またCHOP+エトポシド療法の検討においても全年齢の全生存改善は示されなかった。Lancet誌オンライン版2013年4月22日号掲載より。毎14日投与と毎21日投与を比較 本検討は、新たにびまん性大細胞型B細胞性リンパ腫と診断された未治療の患者における、リツキシマブとシクロホスファミド+ドキソルビシン+ビンクリスチン+プレドニゾロン(R-CHOP)療法の全年齢層におけるベネフィットを検討することを目的とした。 対象は、英国内119施設でステージIA~IVと診断された18歳以上の患者とし、R-CHOP毎14日×6サイクル+リツキシマブ毎14日×2サイクルを受ける群(R-CHOP-14)と、R-CHOP毎21日×8サイクルを受ける群(R-CHOP-21)に1対1の割合で無作為に割り付け(マスキングなし)検討した。 主要評価項目は、全生存期間(OS)とした。 R-CHOP-14群は、シクロホスファミド750mg/m2、ドキソルビシン50mg/m2、ビンクリスチン2mg、リツキシマブ375mg/m2を1日に、経口プレドニゾロン100mg/m2を1~5日に、これを毎14日×6サイクルし、続いてリツキシマブ375mg/m2/日の毎14日×2サイクルを投与した。 R-CHOP-21群は、シクロホスファミド750mg/m2、ドキソルビシン50mg/m2、ビンクリスチン1.4mg(最大2mg)、リツキシマブ375mg/m2を1日に、経口プレドニゾロン40mg/m2を1~5日に、これを毎21日×8サイクル投与した。2年OS達成、R-CHOP-14群82.7%、R-CHOP-21群80.8%で有意差はない 1,080例が、R-CHOP-21群(540例)、R-CHOP-14群(540例)に割り付けられた。 追跡期間中央値46ヵ月(IQR:35~57)において、2年OS達成は、R-CHOP-14群82.7%(95%信頼区間[CI]:79.5~85.9)、R-CHOP-21群80.8%(同:77.5~84.2)で有意差は認められなかった(ハザード比[HR]:0.90、95%CI:0.70~1.15、p=0.3763)。2年無増悪生存にも有意差は認められなかった(75.4%vs. 74.8%、HR:0.94、95%CI:0.76~1.17、p=0.5907)。 また両群ともに、国際予後指標高値、予後不良の分子的特性、発生細胞を予測するベネフィットは示されなかった。 グレード3または4の好中球減少症の発現が、R-CHOP-21群で高く(60%vs. 31%)、同群では予定されていなかった遺伝子組換え型顆粒球コロニー刺激因子の投与が行われた。一方、R-CHOP-14群ではグレード3または4の血小板減少症の発現頻度が高かった(9%vs. 5%)。その他に発熱性好中球減少症(11%vs. 5%)、感染(23%vs. 18%)のグレード3または4の有害事象の発現頻度が高かった。 非血液学的有害事象の頻度は、両群で同程度であった。 これらの結果を踏まえて著者は「R-CHOP-14はR-CHOP-21よりも有効ではなく、R-CHOP-21が依然として標準的なファーストライン療法である」と結論している。

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非定型抗精神病薬治療、忍容性の差を検証

 英国・UCLスクール・オブ・ファーマシーのNoor B. Almandil氏らは、小児と青年期若者の非定型抗精神病薬治療による体重増加とその他の代謝への影響について、システマティックレビューとメタ解析を行った。解析に組み込まれたのは、オランザピン、リスペリドン、アリピプラゾールの3剤であった。Pediatric Drugs誌2013年4月15日号の掲載報告。 本解析では、体重増加への影響を主要目的とし、その他の代謝への影響を副次目的とした。EMBASE、PubMed、BIOSIS、International Pharmaceutical Abstractsなどのデータソース、および特定された試験の参考文献リストも対象として文献の検索を行った。適格としたのは、二重盲検無作為化対照試験であり、小児および若者(18歳以下)における非定型抗精神病薬使用と、代謝への有害作用(体重増加、脂質、グルコース、プロラクチン値異常)との関連を調べた試験とした。有害作用の検討は、主要エンドポイントあるいは副次エンドポイントであるかを問わなかった。 主な結果は以下のとおり。・プラセボと各試験薬を比較した、21試験・被験者2,455例が解析に組み込まれた。リスペリドンとの比較は14試験・1,331例、オランザピンは3試験・276例、アリピプラゾールは4試験・848例であった。・解析の結果、プラセボと比較して、各試験薬の体重増加の平均値は、オランザピン3.45kg(95%CI:2.93~3.98)、リスペリドン1.77kg(同:1.35~2.20)、アリピプラゾール0.94kg(同:0.65~1.24)であった。・その他代謝については、8試験において、リスペリドン治療群におけるプロラクチン値の統計的に有意な上昇が報告されていた。・また、2試験において、オランザピン治療群のグルコース、総コレステロール、プロラクチン値の統計的に有意な上昇が報告されていた。・一方でアリピプラゾール群について、プロラクチン値の統計的に有意な減少が3試験で報告されていた。・脂質、グルコース、プロラクチン値の変化については、メタ解析を行うにはデータが非常に限定的であった。・以上から、3剤とも体重増加との関連が統計学的に有意であること、最も体重増加が大きいのはオランザピンであり、アリピプラゾールはわずかであった。副次アウトカムについては、比較可能な複数試験は特定されたが、データはメタ解析の実施および確定的な結論を導き出すにはあまりにも不十分であった。関連医療ニュース ・薬剤誘発性高プロラクチン血症への対処は? ・第二世代抗精神病薬によるインスリン分泌障害の独立した予測因子は・・・ ・第二世代抗精神病薬、QT延長に及ぼす影響:新潟大学

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疼痛性障害に対し、学際的な通所疼痛リハビリテーションプログラムが有効

 米国・ノースウェスタン大学ファインバーグ医学部シカゴリハビリテーション研究所のChristine M. Gagnon氏らは学際的疼痛リハビリテーションプログラムの効果について検討し、多くの患者で精神的苦痛と疼痛が減少するとともに、就労が可能となったことを示した。Pain Practice誌2013年4月号(オンライン版2012年8月3日)の掲載報告。 本研究の目的は、労災補償請求患者のための学際的な通所疼痛リハビリテーションプログラムの有効性を評価することであった。 対象は101例で、主に慢性腰痛を有していた(75%)。 1日8時間、4週間(月曜から金曜)にわたり、個人およびグループによる段階的なプログラムを進めた。プログラムには、疼痛心理学、理学療法、作業療法、弛緩訓練/バイオフィードバック、有酸素運動、プール療法、職業カウンセリング、患者教育および内科的治療が含まれた。 評価項目は、プログラム完了状況、就労状況、復職状況、ベックうつ病評価尺度(BDI)、状態・特性不安尺度(STAI)、疼痛破局的思考尺度(PCS)、マクギル疼痛質問票視覚的ア評価尺度(MPQ VAS)とした。 主な結果は以下のとおり。・プログラム完了者のほとんど(91%)が就労できる状態になり(80%はフルタイム、11%は徐々に)、約半数(49%)は復職した。・プログラム完了者において、うつ病(p=0.000)、疼痛破局的思考(p=0.033)および疼痛(p=0.000)は有意に減少したが、不安については有意差はなかった(p=0.098)。・プログラム未完了者(早期退所または中止した患者)では、統計学的有意差はないものの、疼痛スコア(MPQ VAS)がプログラム開始前(61.20)に比べ、最終観察時(70.33)のほうが高かった。・退所時または退所後早期の痛みの増加は、オペラント因子が原因である可能性が示唆された。~進化するnon cancer pain治療を考える~ 「慢性疼痛診療プラクティス」連載中!・腰椎圧迫骨折3ヵ月経過後も持続痛が拡大…オピオイド使用は本当に適切だったのか?  治療経過を解説・「痛みの質と具体性で治療が変わる?!」痛みと大脳メカニズムをさぐる・「痛みの質と具体性で治療が変わる?!」神経障害性疼痛の実態をさぐる

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慢性胃食道逆流症、噴門形成術は薬物治療より長期アウトカムも良好/BMJ

 慢性胃食道逆流症(GORD)への腹腔鏡下噴門形成術は、薬物治療と比べて長期的な生活の質(QOL)についても改善することが明らかにされた。英国・アバディーン大学のA.M.Grant氏らが行った多施設共同無作為化試験「REFLUX」の結果で、BMJ誌オンライン版2013年4月18日号で発表された。GORD患者に対する腹腔鏡下噴門形成術は、短期的な症状の軽減については、薬物治療よりも良好である可能性が高いことを示すエビデンスは示されていたが、長期的アウトカムについては不明だった。5年後のQOLスコアを比較 研究グループは2001~2004年にかけて、英国内21ヵ所の医療機関においてGORD患者810例について試験を開始した。被験者は、試験開始時点でGORD症状が12ヵ月以上継続しており、無作為化または自己選択により、噴門形成術または薬物治療を受けた。噴門形成術のタイプについては外科医が選択し、また薬物治療については専門医がその最適性について再検討した。両群とも治療管理については担当医の裁量に任され通常プライマリ・ケアで行われた。 5年後に追跡可能だった246例について、噴門形成術と内科的治療によるアウトカムを比較した。 主要アウトカムは、生活の質(QOL)に関する疾患特異的質問票(REFLUX質問票)に対する自己申告に基づく回答のスコアだった。その他にも、健康状態(SF-36、Euro-QOL EQ-5Dによる)の評価、逆流症予防薬の服用、合併症について調べた。5年後QOLは手術群で良好、嚥下障害や嘔吐障害などの有害事象発生率は両群で同等 5年後の評価時に噴門形成術を行っていたのは、手術群に無作為化された患者の63%に当たる112例と、薬物治療群に割り付けられた患者の13%に当たる24例だった。 5年後に回答の得られた被験者のうち、逆流症予防薬を服用していたのは、手術群44%に対し、薬物治療群では82%と2倍近くに上った。 また5年後のREFLUXスコアも、手術群が薬物治療群より有意に高く、平均格差は8.5(95%信頼区間:3.9~13.1、p<0.001)だった。 5年後のSF-36スコアやEQ-5DスコアといったQOL指標についても、手術群が薬物治療群より良好だったが、有意差はなかった。 嚥下障害、鼓腸、嘔吐障害の長期発生率については、いずれも両群で同程度だった。

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CHD、脳卒中患者の健康的な生活習慣の実践状況が明らかに/JAMA

 冠動脈心疾患(CHD)および脳卒中患者における健康的な生活習慣の実践率は世界的に低く、所得が低いほど実践状況も悪くなることが、カナダ・ハミルトンの公衆衛生研究所のKoon Teo氏らが行ったPURE試験で示された。急性冠症候群患者の観察試験では、より健康的な生活習慣を遵守することで再発リスクが低下することが確認されており、禁煙は死亡や心筋梗塞のリスクを低下させ、質のよい食事や定期的な運動は死亡や心筋梗塞後の心血管疾患の再発リスクを低減することが明らかにされている。一方、CHD、脳卒中患者における健康的な生活習慣の世界的な実践状況は、これまでほとんど知られていなかったという。JAMA誌2013年4月17日号掲載の報告。健康的な生活習慣の実践状況を前向きコホート試験で評価 PURE(Prospective Urban Rural Epidemiology)試験は、CHDおよび脳卒中患者における喫煙の回避、健康的な食事の摂取、定期的な運動の実践状況を評価する前向きコホート試験。 2003年1月~2009年12月までに、17ヵ国[高所得(HIC):3ヵ国、中所得上位(UMIC):7ヵ国、中所得下位(LMIC):3ヵ国、低所得(LIC):4ヵ国]の628地域(都市部348地域、地方280地域)から、35~70歳の15万3,996人が登録された。 喫煙状況(喫煙、禁煙、生涯非喫煙)、運動レベル[低:<600MET(metabolic equivalent task、代謝等量)-分/週、中:600~3,000MET-分/週、高:>3,000MET-分/週]、食事[食物摂取頻度調査票(Food Frequency Questionnaire:FFQ)で分類、代替健康的摂食指標(Alternative Healthy Eating Index:AHEI)で定義]について評価した。喫煙:約5分の1、高レベルの運動:約3分の1、健康的な食事:約5分の2 7,519人がCHD(発症時期は中央値で5.0年前、平均年齢57.4歳、女性53.7%)または脳卒中(4.0年前、56.8歳、53.1%)の既往歴があると自己申告した。 このうち、喫煙者が18.5%、就業中または余暇時に高レベルの運動を行っている者が35.1%、健康的な食事を摂っている者は39.0%で、14.3%はこれら3つの健康的な生活習慣をまったく実践しておらず、3つとも行っていたのは4.3%のみであった。 喫煙を止めた者の割合は全体では52.5%で、内訳はHICが74.9%、UMICが56.5%、LMICが42.6%、LICは38.1%であった。運動レベルは所得が高い国ほど上昇したが、この傾向に有意な差は認めなかった。 健康的な食事の摂取率はLICが25.8%と最も低く、LMICは43.2%、UMICは45.1%、HICは43.4%であった。 著者は、「さまざまな所得レベルの国のCHD、脳卒中患者における健康的な生活習慣の実践率は低く、所得が低いほど実践状況は悪くなる可能性が示された」と結論し、「世界のどの地域にも適用可能な、簡便かつ効果的で低コストの2次予防戦略の開発が求められる」と指摘している。

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乳児期の重度のアトピーや食物アレルギー、小児期のマラセチア感作リスクと関連

 1歳未満の乳児期に重度のアトピー性皮膚炎や食物アレルギーを有すると、小児期にマラセチアに対する感作を有するリスクが高くなっていたことを、フィンランド・タンペレ大学病院のO-M. Kekki氏らが10年間のフォローアップの結果、報告した。マラセチアは、ヒトの皮膚に常在する酵母様真菌だが、アトピー性皮膚炎では疾患の増悪に関与することが知られる。Pediatric Allergy and Immunology誌2013年5月号(オンライン版2013年4月3日号)の掲載報告。 研究グループは、乳児期から食物アレルギーやアトピー性皮膚炎を有している小児について、10年フォローアップ時でのマラセチアに対する感作の有病率を調べた。 対象は、1歳未満でアトピー性皮膚炎かつ牛乳/小麦アレルギーと診断された乳児187例であった。アトピー性皮膚炎の部位は、初診時の診療記録で評価し、10年フォローアップ時はSCORADで評価した。また、11歳時にImmunoCAPにて、マラセチアに対する特異的IgEを評価した。 主な結果は以下のとおり。・被験児187例は、24例(13%)が牛乳アレルギーを、71例(38%)が小麦アレルギーを、92例(49%)が牛乳と小麦アレルギーの両方を有していた。アトピー性皮膚炎の重症度の内訳は、軽度が94例(50%)、中等度が57例(30%)、重度が36例(19%)であった。・10年フォローアップ時点で、19例(10%)が継続して牛乳または小麦アレルギー(もしくはその両方)を有していた。アトピー性皮膚炎は147例(79%)が軽度であり、30例(16%)がSCORADスコア0であった。・被験児187例のうち、マラセチア属特異的IgE陽性(≧0.35kU/L)者は27%であった。M. sympodialis特異的IgE陽性者は20%であった。・乳児期のアトピー性皮膚炎の範囲は、10年フォローアップ時にマラセチア特異的IgEを有するより高いリスクと関連していた。・食物アレルギーのリスク比は、マラセチア特異的IgE陽性の場合、3.11(95%CI:2.05~4.72、p<0.001)であった。

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妊娠中の抗うつ薬服用は出生児の自閉症リスク増大と関連/BMJ

 妊娠中の抗うつ薬服用(SSRIと非選択的モノアミン再取り込み阻害薬)は、出生児の自閉症リスク増大と関連していたことを、英国・ブリストル大学のDheeraj Rai氏らによる住民ベースのネスティッドケースコントロール研究の結果、報告した。知的障害との関連はみられなかったという。しかし著者は、今回示された関連性について、妊娠中の重度のうつ病が自閉症リスクを増大する原因なのか、あるいは反映しているのかについてはさらなる研究が必要だとまとめている。また、「自閉症が認められたのは、服用者の1%未満の子どもについてであったことから、妊娠中の抗うつ薬服用が有意にリスクの増大に関与した可能性は低いと思われる」と言及している。BMJ誌オンライン版2013年4月19日号掲載の報告より。出生児59万例を対象にネスティッドケースコントロール研究 本研究は、父親のうつ病歴および母親の妊娠中の抗うつ薬使用と出生児の自閉症との関連を調べることを目的としたものであった。 研究グループは、2001~2007年のスウェーデン、ストックホルム住民の0~17歳児58万9,114例を対象に、自閉症例と年齢・性でマッチさせた対照群を特定しネスティッドケースコントロール研究を行った。症例群は4,429例(知的障害あり1,828例、なし2,601例)、対照群は4万3,277例であった(うち自閉症例1,679例、妊娠中の抗うつ薬使用データがある対照1万6,845例)。 主要評価項目は、知的障害ありなしでみた自閉症診断例とした。 父親のうつ病歴とその他の特性は小児の出生前のレジスターで前向きに記録された。1995年以降に生まれた子どもについては、母親の妊娠中の抗うつ薬使用の記録(出産前の初回面談時に記録)が利用可能であった。妊娠中に抗うつ薬服用、自閉症リスクは3.34倍、ただし発生ケースの割合は0.6%未満 結果、子どもの自閉症リスク増大と、母親のうつ病歴との関連が認められた(補正後オッズ比:1.49、95%信頼区間:1.08~2.08)が、父親のうつ病歴とは関連がみられなかった(同:1.12、0.69~1.82)。 服用薬について得られたデータに基づく解析の結果、この関連は妊娠中に抗うつ薬を服用していたと報告した母親のみに認められ(同:3.34、1.50~7.47、p=0.003)、SSRIか非選択的モノアミン再取り込み阻害薬の種類は問わなかった。 またすべての関連は、知的障害はみられない自閉症のケースで高く、知的障害を伴う自閉症のリスクが増大するというエビデンスはなかった。 因果関係があると仮定しても、妊娠中の抗うつ薬服用における自閉症の発生ケースは0.6%であった。

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やっぱり説明は大切!医師の分かりやすい説明は糖尿病治療に対する患者理解度と相関する-本邦での報告-

 良好な医師-患者間コミュニケーションは糖尿病治療における患者理解度と※1自己効力感を高めることが、帝京大学の井上真智子氏らの断面調査研究によって示された。また筆者は、患者のもつ伝達的・批判的※2ヘルスリテラシーも同様に、糖尿病治療における患者理解度と自己効力感に相関することを示した。BMC family practice誌オンライン版2013年3月23日号掲載の報告。※1自己効力感:自己管理行動に対する自信や可能性に対する認知<※2各ヘルスリテラシーの定義>・機能的ヘルスリテラシー:日常生活で効果的に機能するための読み書きの基本的スキル・伝達的ヘルスリテラシー:さまざまな形のコミュニケーションツールから健康情報やその意図を引き出し、その情報を状況変化に応じて適応させるスキル・批判的ヘルスリテラシー:情報を批判的に分析し、ライフイベントやその時々の場面をよりコントロールするためにその情報を使うスキル 対象は、日本国内の17のプライマリ・ケアを行うクリニックで診療経験のある2型糖尿病患者326例。対象者にはヘルスリテラシー(機能的・伝達的・批判的)に関するアンケートに答えてもらい、その結果から糖尿病治療に対する患者理解度と自己効力感を評価した。また、医師-患者間コミュニケーションを評価するために医師の説明が明確かどうかについても調査した。 主な結果は以下の通り。・269例を解析した結果、伝達的・批判的ヘルスリテラシーは糖尿病治療に対する患者理解度(β=0.558、0.451、p<0.001)および自己効力感(β=0.365、0.369、p<0.001)と正の相関がみられた。・医師の説明の明確さは、糖尿病治療に対する患者理解度(β=0.272、p<0.001)と自己効力感(β=0.255、p<0.001)に相関していた。・多変量解析の結果、ヘルスリテラシーと医師の説明の明確さは、糖尿病治療に対する患者理解度と自己効力感にそれぞれ独立して相関していた。

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薬物依存合併の初発統合失調症患者、精神症状の程度に違いがあるか?

 ドイツ・ゲオルク・アウグスト大学のT. Wobrock氏らは、初発統合失調症患者において、薬物使用障害(薬物乱用または依存:SUD)合併の有無による精神病理および神経認知機能に及ぼす影響を検討した。その結果、統合失調症患者のSUD合併例と非合併例の、精神薬理および神経精神機能は同様であることを報告した。先行研究およびメタ解析では、コントラバーシャルな結果が示されており、大半の研究は母集団が小さく、かつ初発統合失調症患者のみに焦点をあてたものではなかった。Schizophrenia Research誌オンライン版2013年3月25日号の掲載報告。 研究グループは、European First Episode Schizophrenia Trial(EUFEST)の事後解析を行い、SUD合併患者(初発統合失調症-SUDあり119例:内訳はベースライン時にSUDあり88例、SUDの既往31例)と、SUD非合併患者(初発統合失調症-SUDなし204例)のベースラインおよび観察期間6ヵ月における精神薬理と認知行動を比較検討した。神経認知機能は、Rey Auditory Verbal Learning Test(RAVLT)、Trail Making Tests A and B (TMT)、Purdue Pegboard and Digit-Symbol Codingにより評価した。 主な結果は以下のとおり。・患者の31.1%がSUDを合併しており、22.2%が大麻を使用していた。・SUD合併患者と非合併患者の間で、PANSSスコア、錐体外路症状、神経認知機能において有意な差は認められなかった。ただし、観察期間6ヵ月時、SUD合併患者では精神運動速度に関してより良好な状況がみられた(TMT-A、p=0.033、Cohen's d=0.26)。・興味深いことに、観察時点で薬物使用中のSUD患者は、使用を控えている患者と比べて、陽性症状の増加がみられた(PANSS陽性スコア、p=0.008、Cohen's d=0.84)。・16歳以前にSUDを発症した患者では、ベースラインのPANSSスコアが高かった。・さらに、大麻を高頻度に使用している患者において、症状改善の減少および錐体外路症状との関連だけでなく、大麻の使用期間が長いほど認知機能が高いという関連が示された。関連医療ニュース ・統合失調症患者とタバコ、どのような影響を及ぼすのか? ・薬剤誘発性高プロラクチン血症への対処は? ・統合失調症の陰性症状有病率、脳波や睡眠状態が関連か

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妹の恋人【統合失調症】

統合失調症統合失調症を描く映画やテレビドラマは、深刻で重い作品が多いようですが、「妹の恋人」は軽いタッチで現代風です。コミカルでラブロマンスもあり、安心して見ることのできる映画です。主役のサムは若かりし頃のジョニーデップが演じており、これは見逃がせません。ヒロインのジューンは、幼い頃に火事で両親を亡くして以来、そのショックで心を病んでしまい、統合失調症を発症してしまいます。家で気ままに好きな絵を描いて過ごしていますが、兄に雇われてやってくる家政婦が気に入らず難癖をつけてしまうので、家政婦は毎回すぐにやめてしまいます。遊びで兄と卓球をしていても、「ズルしたのは兄だ」と言い張り、挙句の果てにものを投げるなど聞き分けのない一面もあります。そして、腹いせに火遊びを部屋の中で悪びれもなくしてしまいます。また、外出する時にシュノーケルをかぶり片手に卓球のラケットを持ち交差点で騒ぎを起こし、事態を収拾させようとする警官に「私には外出する権利がある」と告げるなど、まとまりのない言動も見られます。これは、支離滅裂と呼べる病気の症状です。このように、もともとの気ままな性格に加えて病気の症状も重なると、自立して日常生活を送ることは難しくなっていきます。一方、兄ベニーはただ一人の家族であるそんな妹ジューンを自分のこと以上に大切に見守ってきました。町の自動車修理屋で働いていますが、仕事中もいつもジューンのことが気になり、しょっちゅう電話をしています。ジューンの世話に追われてしまうため、せっかく魅力的な女性からデートに誘われても断ってしまう始末です。このままだと自分の生活が潰れてしまうと思いつつも、妹の主治医から勧められるグループホームに入れるかどうかで頭を抱えます。そんな折、ポーカーゲームで負けた罰ゲームとして友人の従兄弟であるサムを居候させることになります。学習障害転がり込んできた居候のサムは、風変わりな出で立ちでほとんど無口ですが、パントマイムなどの大道芸に才能があり、彼のしぐさや芸は見る者を虜にしていきます。そして、そんなサムにジューンは好意を寄せていきます。サムはビデオ屋でちゃんと接客ができていますが、読み書きができないという点で学習障害が疑われます。ジューンとサムは出会った瞬間からお互い惹かれあい、その素朴で純粋に相手を思う気持ちが、見ている私たちにも伝わってきます。もともと、精神障害者も根は私たちと同じです。しかし、いまだに、精神障害者=「頭がおかしい」=「何をするか分からない」という図式が昔から根強く残っているのも事実です。実際、テレビや映画の中で怪物のような犯罪者が描かれ、よく誤解を招いています。この映画の中で触れられている劇中映画「高校生連続殺人鬼」でも相手を切り刻み返り血を浴びて高笑いしている殺人鬼のシーンがあり、衝撃的です。これはあえて反面教師として教訓的に出した脚本家の意図があると思いますが、皮肉なものを感じます。精神障害者と犯罪者は全く別の次元で捉えてほしいです。まれに凶悪な犯罪者が精神障害者であったというニュースが流れると、それが誇張されていくのではないかと悲しい気持ちになります。この映画では、ジューンとサムは偶然的な出会いをしますが、実際には作業所、デイケア、障害者のイベント、病院・クリニックの外来などで障害者同士が出会い仲良くなることは多々あり、結婚することも少なからずあります。2人の惹き合う気持ちがクライマックスに達し、手で油絵を描くシーンや風船でメロディを奏でるシーンは他愛もないですが、BGMがぴったりで幻想的でロマンチックです。一方、兄ベニーとウェイトレスで友達のルーシーとの恋仲は、お互いの気持ちを薄々感じつつもその気持ちの表し方が儀式的で遠回し、時にひねり過ぎて回りくどく、そして自分の気持ちとは裏腹の態度を示し駆け引きをしようとします。ちょうどジューンとサムとの純で正直な関係とは対照的で、その違いが際立っていておもしろいです。心理教育ベニーは自分の人生を犠牲にしてまでジューンのことを大切に思うわけですが、この兄ベニーの妹ジューンへの関わり方は、強く愛しているだけに過干渉で批判的になりがちです。これは、「家族の感情表出(EE, expressed emotion)」と呼ばれ、ベニーのような家族を「高EE家族」と呼んでいます。ベニーは、介護疲れのストレスも溜まるなか唐突に妹とサムとの恋仲の関係を聞かされたことを引き金に、ジューンに「おまえはクレイジーだ」「施設行きだ」と言い放ってしまいます。そして、ジューンの緊張と不安はピークに達してしていきます。ジューンは兄ベニーにサムとの恋愛を否定され、サムと駆け落ちしようとバスに飛び乗るわけですが、あまりの緊張と不安でストレスが極限状態に達します。バスの中で病状は悪化し、周りの物音に対して過敏になり、幻聴も聞こえてきます。その辛さでパニックになり、言動がまとまらなくなります。結局、バスの中で暴れてしまい、救急隊に取り押さえられて閉鎖病院に運ばれてしまいます。以前の診察の時に主治医の先生が兄ベニーに説明する場面でも「彼女にはストレスと神経のイラつきが一番の敵なの」と言っているように、ストレスは病状に大きく影響します。幸いにも、サムの人を惹きつける個性に影響を受けベニーの視野は広くなっていたのと、サムの「あんたは何を怖がっているんだ?」との一言で、自分と妹との関係を見直すようになります。ベニーは自分が妹のことで頭がいっぱいになり過ぎていたことにようやく気付いたのでした。心の病を持つ人に対しての適度な距離感を意識することの大切さをこの映画から学び取れることができます。その後のベニーとサムが協力して閉鎖病棟に忍び込むシーンはコミカルで楽しいですし、ジューンの3階の病室の窓の外にサムが宙にぶら下がって飛んでいるシーンはメルヘンチックで感動的です。グループホーム前半の部分でジューンの主治医が兄ベニーに勧めていた「グループホーム」は、日本語の字幕が「施設」となっているので、私は少し違和感を持ってしまいました。施設という言葉の響きが「孤児院」「矯正施設」などのネガティブなイメージを連想してしまうからです。「グループホーム」は、場所にもよりますが、もっと自由で寮みたいなところです。世話人さんと呼ばれる寮長さんみたいな人がいます。病院生活と独り暮らしの間を取り持つクッション的な存在で中間施設の一つです。主治医の先生自身がグループホームを勧める理由はいくつかありました。まず、そもそも家に閉じこもりっきりで、かかわるのは兄だけというのは人間関係がとても閉鎖的で社会性が乏しくなってしまう点です。さらに、兄のかかわり方にも問題があり病状に悪い影響を与えていた点です。さらに、グループホームで仲間ができるという点です。仲間との人間関係を築いていく中で社会性を養うことができるからです。最後に、そこで職業訓練を受ければ、パートの仕事に就ける可能性がある点です。ここまで来ると、精神障害者と言えども仕事をして自立して立派に社会適応できていると言えます。これは、本人のためにも当然いいことですし、また、自分の生活が潰れそうな兄にとっても妹の面倒を見続ける精神的、肉体的、経済的負担が減り、喜ばしいことです。最終的には、ジューンとサムは結ばれ、仲良く2人でアパート生活を始め、とても微笑ましいハッピーエンドで終わります。これはこれで人間関係を築き、社会生活を営んでいるという点で、素敵なことだと思います。果たしてこのままうまくいくかどうかは実際にやってみないと分かりませんが・・・主治医の先生の言うように「心配だけど試してみましょう」という気持ちは良く分かります。うまくいかないことがあったとしても、アパートの家主はベニーの恋人となったルーシーですし、ベニーも様子を見に伺うことをマメにすれば、すばらしいサポート体制になりそうです。ライフイベントジューンの統合失調症の発症は、幼い頃に両親を火事で亡くしたことがきっかけとなっているようで、これはストーリーの途中でエピソードとして触れられています。その影響からか、ジューンは火遊びをやめようとしませんでした。実際に、統合失調症の発症メカニズムは様々な要素が考えられていますが、その中で、「脳の機能異常」と「心理社会的なストレス」が大きな割合を占めています。「脳の機能異常」は遺伝負因、胎児期・出生時のトラブルなどの原因が上げられます。「心理社会的なストレス」は、そのまま心理的なストレスのことなのですが、よく「ライフイベント」と呼び、「人生の出来事」と言い換えることができます。例えば、受験、就職、学校や会社や家族(嫁姑関係)でのいじめなどです。その中で、統計的に最も発症の引き金となっているのが、この映画にもある親の死なのです。家族療法もともとの原題“Benny & Joon”は、そのまま兄のベニーと妹のジューンを並べたもので、なかなかアメリカの映画にありがちな淡白なタイトルだったのですが、邦題の「妹の恋人」は、聞いた瞬間にいろいろと想像力を描き立てられます。「妹の恋人」とはつまりサム(ジョニーデップ)のことで、確かに主役的に演出されているので、邦題でフォーカスをあえてサムに向けたことは納得がいきます。それをさらに、兄ベニーと妹ジューンの関係性で表している点はあっぱれだと思います。もともとの兄妹仲を描きつつ、そこに転がりこんできたサムを含めての3人の関係をうまく一言で言い表しています。紆余曲折ありましたが、結果オーライの「家族療法」とも言えそうです。

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グッドウィルハンティング【反応性愛着障害】

ヒューマンドラマこの映画は、まさに心揺さぶるヒューマンドラマです。信頼できる人生の指導者を見出せずにさ迷っている若者と、信頼していた人生のパートナーである妻を失い絶望しているセラピストが巡り合い、反発しながらも触れ合い、化学反応を起こします。そして、お互いの癒されなかった心が開かれ、それぞれが新しい人生の旅路へ足を踏み出すのです。素行障害主人公のウィル・ハンティングはボストンの下町育ちの20歳です。気の置けない3人の幼なじみたちに囲まれて暮らし、建設作業や清掃などの仕事をともにしています。彼の仲間が唯一の家族で、小さな世界ですが、その世界を抜け出す必要を感じてはいないようです。しかし、別のグループとのケンカにより、彼の心の中に潜んでいた攻撃性が露わになります。逮捕後の裁判のシーンでは、傷害、窃盗など数々の非行を繰り返す生い立ちが明かされます。実際に、彼は仲間以外に対してはとても口汚く、素行にはかなり難がありました。未成年でこのような反社会的な行動パターンを繰り返す場合は、素行障害と呼ばれ、いわゆる「不良」「暴走族」などが当てはまります。そして、成人後にも同じような犯罪行為を繰り返せば、反社会性パーソナリティ障害に診断変更されます。後半でセラピストのショーンが案じるような爆弾テロリストもこの診断に含まれます。高知能ウィルはブルーワーカーでありながら図書館で教科書を借りて独学で数学の勉強を熱心にしていました。そして、あえて大学の清掃員になり、廊下に提示された数学の難問を夜な夜なこそこそと解きます。また、裁判では弁護士抜きで巧みな理論武装で自分の弁護をしています。実は、彼には高い知能と才能があったのです。その才能を見出していた大学教授のランボーの計らいにより、ウィルは条件付きで刑務所行きを免れます。その条件とは、ランボーの下で数学の問題を解くこととセラピーを受けることでした。ウィルは、渋々セラピーを受けさせられるわけですが、全く素直ではありません。事前にセラピストの著書を読破して、セラピー中に逆にセラピストの本性を暴いたり、悪ふざけをしたりするため、次々とセラピーたちは手を引いていきます。特に6人目のセラピストのショーンとの出会いは最悪でした。逆上したショーンは、ウィルの首をつかんでしまいます。一般的には、この時点でセラピーは続行不能ですが、ショーンは違っていました。あえて、セラピーを引き受けたのです。見捨てられ不安ショーンはウィルの心の闇に気付きます。そして、率直に指摘します。「今の君は生意気な怯えた若者」「自分の話をするのが恐いんだろ」と。彼は一見傲慢で突っ張っているように見えますが、実は心の奥底では怖くて不安で、だからこそ強がって相手を攻撃することで自分を必死に守っていたのでした。強がりは恐れの裏返しなのでした。セラピーを重ねることで徐々に心を許し始めたウィルは、新しい恋人がいかに素晴らしいかをショーンに誇らしげに語りますが、次に会うのをためらっていることを打ち明けます。その訳は、「今のままの彼女は完璧」で次に会うとそのイメージを壊してしまうかもしれないからだと。すると、ショーンは問います。「君も彼女にとって完璧な自分を壊したくないのでは?」「スーパー哲学だ」と。ショーンは見抜いていたのでした。ウィルが人間関係を深めようとしないのは、実は自分に自信がなく、本当の自分のことを知られるともう受け入れてもらえず、捨てられてしまうのではないかという不安の表れであることを。これは、見捨てられ不安と呼ばれます。ウィルは、隠れて数学の問題を解いていたのも、大人たちに悪態を突いていたのも、恋人にその後に連絡をとろうとしないのも全て、見捨てられるかもしれないという不安から、先に「見捨てる」という行動パターンをとっていたのです。反応性愛着障害ショーンに自分の本心を気付かされたウィルは、恋人のスカイラーにウソの家族の話をしながらも、関係を深めようとして、その2人の距離は徐々に縮まっていきます。裕福で恵まれた環境で医者になろうとするハーバード大生のスカイラーと孤児で貧乏な下町育ちのブルーカラーのウィルは、育ちも生活水準も際立った違いがありとても対照的ですが、お互いの魅力に惹かれていきます。しかし、スカイラーが医学校に進学するためにカリフォルニアに共に引っ越すことをウィルに誘ったところで、2人の関係は山場を迎えます。ウィルは答えます。「もしその後におれのことが嫌いになったら?」と。彼の見捨てられ不安が極度に高まり、彼は立ち去ってしまいます。なぜウィルは自分に自信がなく、見捨てられ不安が強いのでしょうか?その理由は、彼の暗い生い立ちにありました。実は、彼は孤児で里親をたらい回しにされた揚句、継父から虐待を受けていたのでした。心に傷を負い、その癒えない傷から親への愛着は芽生えません。愛着がなければ情緒的な交流が乏しくなり、やがては他人への恐れや警戒心が強まり、親密になればなるほど自分が傷付くことを極端に恐れ、見捨てられ不安が募っていきます。愛着とは、幼少期に親からの無条件な愛情により育まれ、何があっても絶対に親に守ってもらえるという「安全基地」が出来上がることで、そこを心のよりどころに親を含む家族から他人への信頼感や外界への積極性に広がっていくものです。この信頼感や積極性はエリクソンが唱える乳幼児期の発達課題です。反応性愛着障害は小児期に診断されるもので、他人との情緒的な交流に問題を認めることを成人後も繰り返すなら、情緒不安定性パーソナリティ障害に診断変更されます。相手に対する不信や見捨てられ不安が強いため、信頼関係が築けず、人間関係が深まらない問題を抱えます。受容ショーンは、その他の権威的で格式ばったセラピストとは対照的でした。自分の過去をざっくばらんに語る明け透けさ、散らかった部屋などありのままの飾らなさ、沈黙が続く時に居眠りをする無邪気さがウィルの警戒心を解き、心を許していったようです。ウィルは自分のことを話すとなると言葉が見つからないことをショーンから指摘されます。「君自身の話なら喜んで聞こう」「君って人間に興味がある」「答えを知ってても君には教えない」「答えは自分で探すんだ」と。実は、ウィルは相手に対してだけでなく、自分自身に対しても、自分のことをさらけ出すのに臆病になっていたのです。その後、スカイラーを振ってしまったことで荒れて、刹那的になっているウィルにショーンは静かに核心をつきます。「自分が孤独だと思う?」「心の友(ソウルメイト)はいないか?」と。もちろんウィルには気の置けない仲間たちがいますが、自分が本気で何かに打ち込むために刺激してくれる友としては、物足りなかったのでした。その後、セラピーは行き詰まります。そのことで、ランボーがショーンのところに怒鳴り込み、大口論となります。しかし、その場面にたまたま、ウィルが遭遇したことで、これが突破口となります。実は2人は20年来のライバルで大きなわだかまりがありました。その思いの丈をついにお互いが吐き出した直後でした。まずは関係者の2人が本音をぶつけ自分をさらけ出したのでした。ランボーは数学のノーベル賞とも呼ばれるフィールズ賞を過去に受賞した栄光にすがって俗物的な生き方をする一方、ショーンは最愛の妻を失ったことで影のある生き方をしており、とても対照的です。その後のセラピーで、ショーンは自身もかつて虐待を受けた当事者であったことを明かし、ウィルに心の底から共感し、何度も語りかけ優しく抱きしめます。「君のせいじゃない、君のせいじゃないんだよ」と。セラピーのクライマックスです。ショーンがウィルの存在を丸ごと受け止めたことで、ショーンがウィルにとっての安全基地であり、ソウルメイトとなり、それまでの「自分は無力でダメな存在だ」という自己嫌悪や罪悪感から解放され、心の傷が癒されていったのです。アイデンティティの確立ウィルは仕事中に、一番の親友チャッキーから言われます。「お前は宝くじの当たり券を持っている」「皆その券が欲しい」「でもおまえはその宝くじを換金する度胸がないだけ」「それをムダにするなんておれはお前を許せない」と。一番の親友だからこそ、ウィルの幸せを考えて言えるセリフでした。ウィルは、仲間と働きながら暮らす素朴な日常の世界から、才能によって手に入れられる新しい世界へ踏み入れるのに尻込みしている自分に気付かされます。そして、自分の才能を行かせる会社の就職面接を真面目に受け、自分の社会での役割をようやく見出そうとしています。これは、エリクソンが唱える青年期の発達課題であるアイデンティティの確立です。自分が自分を受け入れ、自分とは社会の中でこういう人間であると納得することです。ウィルの仲間も薄々気付いていました。そして、ウィルの21歳の誕生日にオンボロの車をプレゼントします。それは、スカイラーを追ってカリフォルニアへ行き、新しい自分の未来を拓けとの暗黙のメッセージのようです。死別反応セラピーでショーンが亡くなった妻のことについて語った言葉が印象的です。「僕だけが知っている癖・・・それが愛おしかった」「愛していれば恥ずかしさなど吹っ飛ぶ」と。人は全く完璧ではないことを知り、むしろ不完全なところも含めてその人の全てを受け入れられるか、その人を特別な人であると感じることができるかということです。自分にとって特別な誰かであり、そして、誰かにとって自分が特別であるということです。それは、自分が自分自身と真正面から向き合い、そして、相手とも真正面から向き合って初めて育まれるものです。そして、その固い絆により、その相手こそがソウルメイトとなります。しかし、ショーンはそのソウルメイトを失っていたのでした。そして、その喪失感を2年間引きずり、生きる張り合いを見出せていません。亡き妻への思いから抜け出せなくなっていました。大事な人の死別による反応、つまり死別反応は誰でも起こりうる正常な反応ですが、それが長引いています。ウィルは、ショーンに切り返します。「自分はどうなんだ」「(今は)心を開ける相手なんているか」「いつか再婚をしないのか?」「燃え尽きてる」「人生を降りたのでは?」「これこそスーパー哲学だ」と。ウィルの言葉により、ショーンは過去に囚われ、行き詰っている自分に気付かされたのです。ウィルのアイデンティティの危機を心配する一方、自らの危機も自覚します。シネマセラピー最後の別れでウィルはショーンに心の底から言います。「これからも連絡をとりたい」と。ウィルにとってのソウルメイトがショーンであることをお互いに確信した瞬間でした。そして、ウィルは、恋人のスカイラーというもう一人のソウルメイトのいるカリフォルニアへ車を走らせるのです。ラストシーンの真っ直ぐに伸びる道路は、これからウィルが切り拓いていく澄み切った未来を象徴しているようでした。見ている私たちは、ウィルが人間不信から回復する姿を目の当たりにして、ウィルと同じ心地良さを追体験することができます。巡り逢いにより癒されなかった孤独が未来を切り開く活力に変わっていく様が生き生きとそして爽やかに描かれています。ショーンはウィルを見事に癒すことができました。そして、実は同時に、ショーンはウィルによって癒され、救われたのでした。亡き妻への失意を乗り越え、世界を旅する決意を固めます。なぜなら、ショーンはウィルのソウルメイトとなったことで、自分の役割を再確認し、前に進む勇気をもらったのです。自分が誰かのために特別であることは勇気や活力を与えることを私たちに教えてくれます。私たちも、ウィルやショーンと同じように人生を旅しています。人間関係に行き詰りを感じる時こそ、私たちはこの映画を見ることで、ウィルやショーンの生き様に刺激を受け、ソウルメイトという絆の大切さを再確認して、さらに人生の奥深い旅を続けていくことができるのではないでしょうか?

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私は「うつ依存症」の女【情緒不安定性パーソナリティ障害】

毎日がメロドラマこの映画は、もともと原作者の自伝的小説を映画化したもので、実話に基づいているだけに、主人公とその母親の暴力的なまでの心の揺れが生々しく痛々しく描かれており、見ている私たちはその迫真の演技に引き込まれていきます。主人公にとってはまさに毎日がメロドラマであり生きるか死ぬかの極限にいるのです。そんな主人公が思春期を生き抜いた80年代をこの映画は忠実に再現しており、バックに流れる当時流行したメロディも感傷的です。主人公の心の揺れは、情緒不安定性パーソナリティ障害によるもので、この映画はその特徴やメカニズムを忠実に分かりやすく描いています。今回は、この映画を通して、この障害の理解をみなさんといっしょに深めていきたいと思います。逸脱行動―自分を大切にできない主人公のリジーは、2歳の時に両親が離婚してから、その後は母親と2人で暮らしていました。教育熱心な母親は、子育てを一生懸命にやり抜き、そして、晴れてリジーを念願であったハーバード大に入学させることに成功しました。そして、リジーに言います。「あなたは自慢の娘よ」と。まさに理想の娘、優等生の良い子です。リジーも不安な面持ちを見せながらもまんざらでもない様子です。入学後、大学の授業に真面目に参加して、学生寮のルームメイトと親友になり、彼氏もできて、パーティではしゃぎ、そして音楽雑誌のジャーナリズム大賞を受賞するなど華やかで輝きのある有望な学生生活を送り、全てがうまく行っているかに見えました。しかし、彼女にはどこかしら陰がありました。実は、すでに歯車は狂い始めていたのでした。4年ぶりに突然父親が訪問にやってきて心が乱れたのをきっかけに、恋人と初めて夜を共にしたことをネタにパーティを開き、遊び半分のはずだったドラッグを眠気覚ましに乱用し、人の話を聞き入れず徹夜を続けて生活が乱れ、自分の誕生日会では母親や祖父母に悪態を付くなど逸脱行動が目立つようになります。さらには、かつてのパーティで酔った勢いで親友の彼氏を誘惑して関係を持っていたのでした。これは性的逸脱です。そして、悪びれもせず開き直ってしまいます。まるでもともと彼女の中に潜んでいた「悪魔」が目覚め始めたようです。自分が自分であるという一体感が揺らぎ、自分を大切にできなくなっています。情緒不安定―繊細なあまりに傷付きやすい心自分の誕生日会を自分自身でメチャクチャにした翌日のリジーの様子が強烈です。母親との口論の末、「私が悪かったわ」「私を愛してくれる家族を傷付けたわ」と涙を流して母親に抱きついたと思ったら、次の瞬間、「何が誕生日会よ」「あんたのペットじゃないわ!」と泣き叫びます。そして、その数秒後にはまた「私ったら何てひどいことを・・・。ごめんなさい、許して」と漏らし、また母親に抱き付く始末です。甘えと反抗が入り乱れています。もはや母親は、あまりにも精神的に不安定な娘に呆れて戸惑うばかりです。このように、愛情、憎しみなどの感情が、些細なことで両極端に大きく揺れてしまう症状を情緒不安定と言います。「ペット」が引き合いに出されたのは、母親が「結婚後に妊娠するまで退屈で話し相手が欲しくて猿を飼っていたわ」と言っていたのを思い出し、自分がその猿と重なったからでしょう。真反対の感情がほとんど同時に湧き起こっているので、アンビバレンス(両価性)とも言えます。情緒不安定はもろく傷付きやすいことですが、裏を返せば、繊細で感性が鋭いことでもあります。ストーリーのところどころで紹介される彼女の繊細な文章表現には納得がいきます。空虚感―見捨てられ不安―愛が重すぎるリジーは通い始めたセラピストに言います。「普通の人は傷付いても自分で治っていくものだけど、私は血が出たまま」「治ればいいの」「人生は先に進むしかないもの」と。人生を歩むことに対して冷めていて、満たされない空しさがにじみ出ている特徴的なセリフです。彼女を支配しているのは、この空虚感でした。これを「憂うつが徐々にそして突然にやって来た」と受け止めています。そんな空虚感で落ち込んでいるリジーは、「レーフが救いの神に選ばれたのだ」と思い立ちます。かつてパーティでハメを外して男子トイレで出会ったレーフの登場です。レーフは会場の分からない演奏会に誘ってしまったのはまず君に会いたかったからだと素直に打ち明けるなど誠実味があります。どう見られるか表面的なことばかり気にするリジーとは対照的です。リジーが例えるようにまさに救世主で、新しい恋人となります。しかし、情緒の揺れは止まりません。レーフとデートで踊りに行っても、ほんの少しの間、レーフが別の女性とカウンターでおしゃべりをしただけで、カッとなりその場を衝動的に立ち去ってしまいます。情緒不安定によりとても傷付きやすく、見捨てられたと思い込み、悲しみや怒りが抑えられないのでした。レーフが実家に帰っている時に、電話がつながらないことに不安を募らせ、ひっきりなしに10回も電話して、挙句の果てに遠方のその実家まで飛行機で乗り込んだのでした。見捨てられまいとして、付きまとい、すがり付くなどのなりふり構わない行動をとり、結果的に相手の自由を束縛してしまうのです。この心理は、「電話魔」「メール魔」「ストーカー」などの現代の社会問題に通じるものがあります。良く言えば愛が深いのかもしれませんが、やはり愛が重いです。そして、相手はその重さに耐えられなくなってしまうのです。スプリッティング(分裂)―生きるか死ぬかリジーは親友にレーフのことを自慢します。「真の愛とは生きるか死ぬか壮絶なものよ」「あなたのは体だけでしょ」 と。その言葉に親友は怒りを通り越して呆れてしまいます。さらには、「最愛の人をあまりにも愛しているために、その人を殺してその灰を食べるということに共感できる」「それが相手を完全に所有する唯一の方法だから」と心の中で悟ります。リジーのものごとのとらえ方がとても極端で、偏って、歪んでいることが分かります。認知の歪みです。これは、空虚感や見捨てられ不安により、彼女は常に全か無か(all or nothing)、二者択一の究極の選択肢しか持ち合わせていないからでした。白黒思考、二分思考とも言います。そして、両極端の感情である心地良さと不快さのバランスがうまく保てない心理状態に陥っています。これはスプリッティング(分裂)と呼ばれます。このスプリッティングにより、「良い人か悪い人か 」「敵か味方か」という発想に行き着き、その気持ちが些細なことでコロコロと移ろいやすいのです。これが、理想化とこき下ろし(幻滅)です。リジーのセラピストに対するとらえ方が分かりやすいのです。最初は「この人に任せてもだめだ」と幻滅して、その後、レーフとうまく行っている時には理想化し頼りにしており、レーフと別れたら「期待したのに辛いだけじゃないか」と怒鳴り込んで幻滅しています。セラピストだけでなく、母親、恋人、親友などとの対人距離も、ちょっとしたことで好きになりべったりとくっ付き、その後にちょっとしたことで嫌いになり暴言を吐き離れてしまい、とても不安定です。さらには、ものごとへの取り組みも不安定で、幸せの絶頂でこれが永遠のものではないと悟ることで不安に襲われ、取り乱して目標が実現する直前で全てを台無しにする特徴もあります。自傷行為―自らを傷付ける行いリジーは、薬を飲み続けるかどうかセラピストと相談していた時、セラピストに言われたある一言で、とっさにその場を立ち去り、トイレに行き、グラスを割り、リストカットをしようとします。その一言とは、「薬を飲み続けることを私は勧めるけど、決めるのはあなたよ」です。一見、何でもないような一言ですが、リジーの受け止め方は違っていました。この時にリジーは、セラピストを理想化し全てを委ねており、セラピストに決めてもらいたかったのです。ところが、「自分が決めなければならない」「突き放された(見捨てられた)」と極端に受け止めたのです。さらに、リジーはリストカットすることで「死にたいほど辛いという気持ちを分かってほしい「助けてほしい」という無意識のメッセージであり、アピールの心理もあったのです。時々、リジーはふと幼少期を回想します。実は、リストカットのような自傷行為が始まったのは、リジーがまだ小学生の時でした。カミソリの刃で自分の足を切り付けるようになります。当時より「自分は何てだめなんだ」という自己否定感が高まり、「自分を痛め付けて罰したい」という自罰性が現れていました。逸脱行動の先駆けとも言えます。また、同時に空虚感もくすぶり始め、「その空しさを紛らわしたい」「生きている実感を味わいたい」「新しい自分になりたい という気持ちから、気分をリセットするための憂さ晴らしとして依存的に繰り返すようになります。このように、自傷行為には、アピール性、自罰性、依存性の3つの側面があります。傷付きやすい自分を自ら傷付け、そして逸脱行動により周りの人をも傷付けていってしまうのです。情緒不安定性パーソナリティ障害このように、自己否定感、空虚感から見捨てられ不安などの情緒不安定が煽られ、認知の歪み、スプリッティング、理想化とこき下ろしが現れ、自己破壊的な逸脱行動が繰り返され、その果てに自傷行為により他人を巻き込むようになり、もはやその人の性格や生き様などのパーソナリティ(人格)として根付いてしまっているので、情緒不安定性パーソナリティ障害の診断と診断されます。境界性(ボーダー)パーソナリティ障害とも呼ばれます。そして、対人トラブルを引き起こし、二次的にうつの状態に陥っていると言えます。特に、人間関係の幅や深みが広がり複雑になる思春期に症状が目立って現れるようになります。現代の情緒不安定性パーソナリティ障害の特徴的な行動パターンは、用意周到で本気の自殺行為よりも、衝動的で助かる見込みのある自傷行為が圧倒的です。例えば、動脈に達しないリストカット(いわゆる「ためらい傷」)、致死量に達しない過量服薬、3階までの低層からの飛び降りなどです。そもそもギリギリ助かることが本人によって無意識にも想定されています。さらに、アピール性がエスカレートした場合は、別れを切り出した恋人に対して「別れるなら死ぬよ」という脅し文句に使われることもあります。いわゆるお騒がせな「狂言自殺」です。これは操作性と呼ばれています。父性不在―無責任な父親それでは、なぜリジーは情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまったのでしょうか?その答えに辿り着くためには、幼い頃からのリジーの家庭環境に目を向ける必要があります。まず、もともと父親は、離婚後に気まぐれに突然現れるのみで、口先では「一番愛している」と調子の良いことを言うだけです。リジーに医療費の支払いをしていない事実を問い詰められた時は、逆切れして、全然連絡をくれなくなったからだと話をすり替え、挙句の果てに支払いは母親の責任だと言い張り、無責任な態度で開き直ります。父性不在です。母性過剰―支配的な母親次に、母親を見てみましょう。入学日の当日、独りで引っ越し荷物を運べると言うリジーを頭ごなしに否定したり、娘が書いた記事の受賞や経歴をあたかも自分の手柄のように吹聴する母親の様子は、私たちに何か嫌悪感を抱かせます。良く言えば、子煩悩で面倒見がいいように見えますが、悪く言えば、娘の考えに耳を傾けず、一方的に自分の考えを押し付けるばかりで、過保護で過干渉です。大学生になり、自活しようとする娘を完全に子ども扱いしています。また、冒頭のシーンで、母親は、リジーの自室にノックもせずに入ってきて、しかも娘が全裸であるのにも気にも留めず、部屋の中をウロウロ歩き回り、一方的に「カーペットも持っていこう」と言い出しています。一方、リジーも特に恥ずかしがることはありません。この2人の様子にはかなりの違和感があります。まるで、飼い主とペットのような振る舞いにさえ見えてきます。張り切り過ぎている母親にリジーがうんざりして、「別に作家になるのにハーバードに行かなくても」と漏らすと、母親は過剰に反応して、「何言っての?」「私が今日という日をどんなに待ち望んだことか」「ハーバードに行かなければ誰もあなたのことなんか気にも留めないわよ」と。「誰も」というのは「母親である私は」というニュアンスが暗に込められているのが明らかです。愛情を注ぐことに条件を付けています。入学後しばらくして、母親は、変わり果てたリジーを見て、苛立ち、甲高く小言を言い続けて、ついには激怒します。「何このありさま!? 「こんなことに付き合っていられないわ」と。そこには、慰め、いたわりなど共感する包容力は一切ないのでした。逆に、リジーが音信不通になったことで母親は心配していましたが、その後、娘が元気で恋人とうまく行っていると分かると素直に喜べません。娘が自分から離れていってしまうような感覚にとらわれて、泣き崩れています。これは、母性過剰と言えます。機能不全家族―家族の力が働かないリジーは過去を振り返ります。「父がいなくなり全く関わりがない分、母が執拗に関わってきた」と。父親が不在の場合、相対的に母性が過剰になり、そして、必然的に母子の密着が高まります。一人っ子であればなおさらです。さらに、男性より女性の方が共感性が強い分、母親-娘という女性同士の組み合わせが一番です。「母が母自身の男友達についてリジーに相談をしなかったのは父だけだった」という事実は強烈です。つまり、母親は自分の男友達を全てリジーに開けっぴろげにしていたのです。リジーは心の中で母親の本心を言い当てています。「自分の失敗を娘で償おうとした」と。母親は、リジーの将来に強すぎる期待を寄せる余り、要求水準が高くなっていたのでした。言い換えれば、母親による娘の支配です。過剰な期待は、愛情に条件を付けることで、支配にすり替わっていたのです。娘を一人の「個人」「大人」と見なすことができなくなっていました。「心配なの」「愛しているの」という言葉のもとに、先回りして過干渉を続け、自分の延長の存在ととらえています。娘は、自分の思い通りになる所有物であり、自分の生き直しの存在であり、自分の分身でした。もはや虐待にさえ見えてきます。実は、これこそがまさに落とし穴だったのです。良かれと思い母親が必死にやってきたことが、実は大きく裏目に出てしまっています。子どもの成長において、「自分は掛け値なく大事にされている」「無条件に愛されている」という実感があれば、自然に自己肯定感や基本的信頼感が芽生えていくものです。ところが、父親は自分を守ってくれないという父性不在、母親は条件付きの愛情しか注がないという母性過剰による愛情の歪みから、自己否定感、不信感、空虚感が煽られていき、後々に情緒不安定などの性格や歪んだ認知の問題、つまりパーソナリティ障害になっていく可能性が高いです。現代の日本の「お受験ママ」「ステージママ が子どもを追い込んでいく姿はリジーの母親に重なり、危うさを感じます。また、単身赴任の多い日本の父親は、子どもと触れ合う時間が少なく、大事な場面でいない点で、リジーの父親に重なって見えてどきっとします。勉強、スポーツ、芸能における子どもへのスパルタ式のかかわり方は、無条件の愛情という家族の固い絆が前提にあってこそ成り立つのです。アダルトチルドレン―もの分かりの良すぎる大人びた子リジーは初潮の時に母親に告げられた言葉を思い出します。「これであなたも終わり」「面倒の始まりよ」と。また、母親は「結婚は人生の墓場よ」とも言っています。娘の成長に対してとても否定的で、そこからリジーの自己否定感が募っていきます。また、幼い頃から両親が大声で罵倒し合い、いがみ合う様子を目の当たりにしてきました。両親がお互いの悪口を言い合い、そしてそのウソを見抜いてきました。信じている2人からそれぞれ矛盾したことを言われて二重に縛られること、ダブルバインドです。そんな息詰まる家庭環境でリジーは、生き残るために順応しました。そして、「ママが戻って欲しいって言ってるよ」と父親に言うなどそれぞれの両親に対して間を取り持とうとウソをついてきました。リジーはもともと物分かりが良かったのです。親に気を使い、無理に自分の気持ちを抑え込んで、良い子を演じて生きてきました。「大人びた子ども」、つまりアダルトチルドレンです。しかし、そこには子どもの発達に必要な自己肯定感、自尊心は育まれません。そしてやがてはリミッターを振り切り自分の気持ちをコントロールできなくなり、情緒は不安定になっていき、そして、ついに思春期に爆発したのでした。世代間連鎖―受け継がれる家族文化それでは、なぜ母親はこうなってしまったのでしょうか?その鍵は、実は母親と祖父母との関係性にありました。母親は祖父母が訪ねてくる前にタバコを吸っていたことがばれないように灰皿を片付けたり、リジーの悪態を必死で取り繕おうとあえて涼しい顔を装っている場面を見てみましょう。母親は祖父母に対してまさに「良い娘」、子育てを立派に成し遂げた「良い母親」を演じようとしています。一方、祖母は、リジーの態度の悪い様子に取り乱し、いい年して大人げないというか「年寄りげ」ないです。そして、祖父は呆然としているばかりで存在感がないです。その後、母親が不幸にも強盗に遭い大けがをしたことについて、祖母はリジーの目の前で「こうなったのはリジーに原因がある」と犯人探しを始めます。その時も祖父は戸惑った表情で無言のままです。リジーがかつて母親の前で良い子を演じていたように、実は母親も祖母の前で良い子を演じているのです。母親は祖母に対して腹を割って話す、本音で話すということができないため、ありのままの自分をさらけ出せず、心が通じ合っていません。体裁ばかり気にして中身のない薄っぺらな家族像が透けて見えます。母性過剰により愛情が歪んでいます。そして、祖父も父親も存在感が薄い点で、父性不在も一致しています。もしかしたら、父性不在と母性過剰で育った娘は、選ぶ夫は父親に似て存在感のない弱い男か、または強い男でも自分の方が母親のようにより強くありたいために結果的に離婚して、その子どもにとって父親の存在感をなくしてしまっているのではないかと思います。リジーの家系は、父性不在、母性過剰の典型的な機能不全が家族文化として受け継がれ、世代間連鎖していることが伺えます。つまり、祖先を遡れば、祖母も曽祖母から母性過剰による歪んだ愛情の洗礼を受けたのかもしれません。逆に、子孫を辿れば、リジーが子育てをする状況になった時は、同じような悲劇が繰り返される可能性も潜んでいるということです。もともと日本は、単一民族で集団主義的であるため、見た目や考え方が似通っており、均一な名残があります。それだけに、人柄や能力などの中身よりも、家柄、学歴、所属、年齢などの外面的な体裁を重視し、差別化を図る傾向にあります。そのため、リジーのような家族の中での取り繕い、絡み合いが、日本では生まれやすいと言えます。共依存―頼られる喜びなぜレーフは、リジーを好きになってしまったのでしょうか?もちろん、もともとタイプであったり、リジーのエキセントリックな行動が人とは違うということで魅力を感じたということはあります。しかし、それ以上にレーフを突き動かしたものがありました。実際のレーフのリジーへの関わりを見ながら探っていきましょう。まず、カフェでのデートの場面。レーフがリジーに紅茶を入れてあげるだけでもちょっと世話焼きですが、その入れ方を間違えてリジーの紅茶が飲めなくなった時、リジーがもう要らないという言葉に反して、レーフはお節介にも注文してしまいます。その後、何の根拠もなくリジーに「浮気したくせに」と言いがかりを付けられ、テーブルの食器をひっくり返されたのに、レーフは立ち去り走り続けるリジーをけなげに追い、謝り倒します。レーフは、寛容で包容力がありますが、裏を返せば世話焼きでお節介なあまりに自分を押し殺してしまっています。そんなレーフはリジーの母親と重なり、リジーは親近感を抱くと同時に苛立ってもいます。リジーがレーフの実家に乗り込んだ時、レーフの世話焼きキャラの由来が明らかになります。それは、レーフの妹が知的障害で、大声を上げたり、暴れたりするのを献身的にあやしているのでした。リジーはその妹と自分が重なって見えてしまい、ショックを受け、レーフに暴言を吐きます。「こういうのが趣味?」「快感なんでしょ」「人の不幸を楽しんでいる」と。それは、レーフにとってもショックであったかもしれません。それは、ある意味では言い当てられているからです。実際、リジーのような情緒不安定な女性は、レーフのような共依存的な男性と惹き合う傾向があります。やはり、世話焼きな男性としては、不安定な女性を放って置けず、助ける喜び、頼られる喜びで心を満たすからでしょう。認知行動療法―ものごとのとらえ方の練習リジーは「誕生日会は私のためではなく、母親が祖母から褒めてもらうためにやっていただけなんだ」とセラピストに答えます。確かにそういう理由があったとしても、精神的に健康的な人なら、「もちろん自分のためにもやってくれた」「家族が集まるきっかけとしても大切だった」という様々な理由も思い浮かぶはずです。ところが、リジーは思い込んだらその1つの極端で歪んだ認知に飛び付いてしまうのでした。セラピストは、決め付けることは一切せず、共感しながら誘導的な質問をし続けて、その認知の歪みを気付かせ、解きほぐしていきます。ものごとには様々な認知があり、バランス良くその認知を再構築していくトレーニングをします。これが認知行動療法です。そこから、ものごとにはグレーゾーンがあり、例えば相手を安易に信じるわけでもなく、無暗に疑うわけでもなく、二者択一ではないバランスをとる思考のトレーニングを繰り返しやっていきます。認知行動療法は、ある意味、ピアノのレッスンのような習い事であり、理性的に頭で理解すると同時に、様々な認知パターンを感覚的に刷り込んでいく作業が必要でもあり、労力を伴います。例えば、同じように誰かのために仕事をしたとしても、「いいように使われた」と思うか、「お仕えすることができた」と思うかは認知の大きな違いです。チャリティ精神のように、人の幸せを自分の幸せと感じることができるか、または「人の不幸は蜜の味」ということわざが示すように、人の不幸を自分の幸せと感じるかは、個人差があり、これが認知の違いでもあります。リジーは最終的に自叙伝を書き上げ、しかも映画化され、今回私たちがそのDVDを見ているわけですが、実は、自叙伝、日記など自分のことを書くという行為は自己表現であり、自分自身を客観的に見つめ直す作業です。客観的な視点を持つことで、冷静になり、様々な認知をとらえ直す格好のチャンスになりえます。まさに自分のことを書く作業は「自己認知行動療法」と言えます。家族療法―家族内のシステムへの働きかけ母親が強盗に遭い、大けがを負い、自宅で介護が必要になったことで、リジーの精神状態は一時的に落ち着いてしまいます。その理由は、母親が身体的にも精神的にもリジーに干渉できなくて、心理的な距離ができたからでした。そして、母親はついに気付き、リジーに告げます。「あなたは私の全て」「それがあなたを苦しめたのね」「私のために何かになる必要はないわ」「私のためにいい子になることもない」と。リジーは「そう、私には負担だった」と答えます。お互いが問題点を確認した瞬間です。もともと母親自身、心は満たされていませんでした。その満たされない心を娘に目をかけることで満たそうとしていたことを悟ったのでした。そして、母親が変わったことで、リジーも自分が納得する自分らしい生き方に目覚めようとしています。親は、仕事や趣味などを通して子育て以外の生きがいも見つけて、子育てだけを生きがいとしないようにすること、そして、その仕事、趣味を通して自分の子ども以外との人間関係を深めて、子どもだけとの人間関係、つまりは密着しないことを心掛けることです。そして、同時に「どんなことがあってもお前を守る」「そのままのお前を愛している」といいう無条件の愛情を子どもに注ぐことが大切です。ストーリーの中では、セラピストはあまり家族へ働きかけているようには描かれていませんが、実際はリジーが小学生の段階で特に母親に早期介入する必要がありました。情緒不安定になってしまった最大の原因が、家族内のシステムの問題であったわけですので、本来はセラピストが家族を呼んでいっしょに面接をして、家族の関係性を改善していくことが望ましいです。これが家族療法です。また、場合によっては、直接その家に第三者を定期的に送り込むことも重要です。それは、祖父母、叔父叔母、親戚などの血縁関係から、隣人、担任教師、家庭教師、医療スタッフなどの非血縁者まで様々です。最近は、メンタルフレンドというカウンセラー的家庭教師がいます。家庭に第三者の目があるというシステムが、親や子に家庭環境を客観視させることにつながるのです。行動療法―人生のルール作りリジーは、なりふり構わない行動により、親友を散々ひどい目に合わせても、その後に困ったら泣きついて助けを求めようとします。さすがの人のいい親友もあきれ果て、最後は「もう無理」と冷ややかに見限ります。限界設定です。こうして、リジーは親友、恋人を失っていき、誰からも相手にされなくなっていくということを肌で感じていきます。また、リジーがセラピストの目の前でリストカットをしようとした時のセラピストの対応は圧巻です。セラピストは無言で見つめ続け、彼女がガラスの破片を落としたところで、立ち去っていきます。決して、優しくはしないのです。これは、自分の行動は自分で責任をとらなければならないという静かでそして強烈なメッセージです。そのためのかかわりとして必要なことは、対人距離が不安定なリジーに対して、セラピストは常に冷静で節度ある一定の距離を保ち、巻き込まれないように細心の注意を払っているのです。対人関係のルールや生活の枠組みを作り、目標が達成できたら得をして、問題行動を認めたら自分で責任を取らせて損をする条件付けにより行動を変化させる仕組みも効果的です。これを行動療法と言います。現実問題として、この障害が良くならない要因の一つに、過保護な家族や共依存的な恋人が過剰な関わりをしてしまい、巻き込まれて失敗の尻拭いをするなど、本人に自分で責任を取らせていないために、同じ過ちを繰り返すという悪循環に陥ることがよくあります。ただ、年を経ると大抵の患者が落ち着いていきます。その理由として、心が揺れるエネルギーが年を経てなくなってしまう点、本人が学習する点、そして周りも学習して距離をとる点があげられます。例えば、この障害は魅力的な若い女性が多いのですが、中年になればその魅力が失われて、構ってくれる男性がいなくなるこということがあげられます。薬物療法リジーは薬を飲むことでずいぶんと「うつ」が良くなったと言っています。情緒不安定による対人トラブルで、うつ、不安、不眠などの様々は二次障害を引き起こします。これらに対しての薬物療法はあくまで対症療法であり、残念ながら特効薬はありません。原題は、“Prozac Nation”という「抗うつ薬の国」で、抗うつ薬の処方がアメリカの社会問題としてレポートしたスタイルをとっています。シネマセラピー情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまった主人公の視点を通して、彼女の心の揺れや苦しみが見ている私たち自身と重なる部分、家族や友人と重なる部分に私たちは気付き、より良く理解し、そして見つめ直すことができます。それは、自分や他人のできることとできないことの限界や境界をはっきりさせて理解することを通して、自分を大切にして自分を見失わないこと、他人を大切にして他人を失わないことです。そこから、リジーの問い続けた「真の愛」が、自分本位に相手を愛することではなく、相手の立場に立って相手を尊重し、一定の心地良い距離を保つことでもあるというより広い視野に立つことができるのではないでしょうか?その時に私たちは共により良い生き方を見い出し、自分の子どもへのかかわり方のあるべき形も自然と見えてくるのではないでしょうか?

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ちびまる子ちゃん【パーソナリティ】

「いるいる、こんな人!」―パーソナリティとは?みなさんは、今までに出会った人で、「いるいる、こんな人!」と思わず別の誰かを連想してしまったことはありませんか?私たちは、いろいろな人とかかわっていく中で、新しく出会った人が、自分のすでに知っている誰かに重なってしまうことがあります。そして、その人が、国民的人気アニメ番組「ちびまる子ちゃん」のあの個性的なキャラクターたちに似ていると思ったことはありませんでしたか?普段の日常生活で私たちの心を惹きつけたり、逆にヤキモキさせる人たちが、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターたちに重なってしまうのはよくあることです。その理由は、「ちびまる子ちゃん」に登場するキャラクターたちの多様で魅力的な個性には、メンタルヘルスで扱われる性格の傾向(パーソナリティの偏り)が巧みに描かれているからです。彼らの存在こそ、「ちびまる子ちゃん」が20年を超える長寿番組となったことに大きく貢献しているように思います。今回は、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターたちの特徴を深く探っていきましょう。そこには、魅力と同時に危うさ(リスク)も潜んでいます。そこから、私たちが実生活で人とより良くコミュニケーションをするためのヒントを見つけていきましょう。パーソナリティの源 ―個体因子と環境因子厳密には、パーソナリティは、成人後に完成するという前提があります。なぜなら、まる子の年頃はまだまだ心の成長の途中で、柔軟性(可塑性)があるので、一概にパーソナリティを決め付けることはできません。しかし、あまりにも特徴が出ているので、あくまでパーソナリティの傾向やリスクとして、みなさんにぜひご紹介したいと思います。【男子】丸尾くん―生真面目キャラ―発達の偏り、強迫性パーソナリティまず、最も強烈なキャラクターの丸尾くんです。「ズバリ!○○でしょう」が口癖で、一貫して丁寧な言葉使いで一本調子な話し方が特徴です(コミュニケーションの偏り)。学級委員としていつもハツラツとしていますが、学級委員で居続けることに執念を燃やし、そのためには並々ならぬ努力もしています。ここから、彼に強いこだわりがあることが分かります(想像力の偏り)。次の学級委員の選挙を前に、ライバルが出てくるのに神経質になった丸尾くんは、クラスメート1人1人に「困っていることはありませんか?1つくらい絶対にあるでしょう」と強引に迫っていくエピソードがあります。そして、まる子たちに「親切の押し売りだ」「何でもないのにいちいち声をかけられたら迷惑なんだよ」だと責められます。ここから、彼は、こだわりが強いあまりに融通が利かず、空気が読めずに空回りしていることが分かります(社会性の偏り)。目指すのが、みんなのお手本でありながら、日頃から女子に「奇妙キテレツ」と思われてもいます。さらには、花輪クンのきれいなお母さんを見て帰ってきた時、丸尾くんは自分のお母さんに「母さま、なぜあなたは美しくないのですか?」と悪気なく聞いてしまいます。彼は、相手の心を汲み取って(心の理論)、人に合わせるバランス感覚は鈍いのでした。これらの3つの特徴から、丸尾くんはどうやら発達の特性(発達の偏り)が際立っています。さらに、成長して空気の読みづらさが目立たなくなっても、こだわりに囚われてしまうことが癖(完璧癖)になってしまうリスクがあります(強迫性パーソナリティ)。彼のこれらの特徴は、彼の心構え(パターン認識)や周りの理解によって、良さや魅力にもなりえます。こだわりは、ひたむきさ、熱意、真面目さにもなりえます。実際に、彼は、勉強だけでなく、お楽しみ会の手品や運動会の応援や合唱の練習など何ごとにおいても一生懸命にする努力家です。学級委員として、みんなのためにみんなが嫌がることも喜んでやります。そして、女子に対しての純情な一面もあります。私たちが丸尾くんから学べるコミュニケーションのコツは、丸尾くんのような人に何かしてほしい時、まず細かく具体的な指示を出して、脱線しないようにレールをしっかり敷いてあげることです(構造化)。そして、そのレールに乗せて、本人のひたむきさを生かすことです(パターン学習)。私たちが、丸尾くんのひたむきさを高く買ってあげることができれば、「立派なサラリーマン」「マイホーム購入で親孝行」「ノーベル賞受賞」という丸尾くんの夢をきっと応援したくなるのではないでしょうか?表 丸尾くんの二面性危うさ魅力こだわり、完璧癖、融通が利かない空気が読めず空回り奇妙キテレツひたむき、熱意生真面目、努力家純情花輪クン―セレブキャラ―自己愛パーソナリティまず、家庭環境が際立って恵まれているのが、花輪クンです。彼は、いわゆるセレブです。しかも、家の財力があるだけでなく、英語やフランス語などの語学、ピアノやバイオリンの音楽、お茶とお花の教養などのあらゆる英才教育を受けてきています。通学は、車という特別扱いが当たり前です。さらに、端正な顔立ちで、クラスの女子からの圧倒的な人気があり、口癖は「ベイビー」です。唯一の欠点は、字が下手なことくらいです。このように、子どもの頃から全てにおいて恵まれた環境で、挫折も知らないまま育った場合、何ごとも自分の思い通りになると思ってしまいます(万能感)。すると、パーソナリティの傾向としては、自信に溢れてしまい(自己評価が高い)、自分に酔いしれて自惚れやすくなります(誇大性)。そして、いつもチヤホヤされたいと思うようになります(賞賛欲求)。また、自惚れが強ければ、人を見下してしまいやすくなり、自分以外の恵まれない環境の人たちの気持ちが分かりにくくなります(共感性欠如)。その一方で、もともと守られていることで、自分を大切に思う気持ちが強く(自己愛)、妥協をしません。これが向上心としてより良く生きる原動力になるので、攻めは強いです。しかし、もしもその守りがなくなってしまったら、どうでしょう?つまり、持っているものを持ち続けている限りは強いのですが、持っているものがなくなってしまった時は、どうでしょう?例えば、お父さんの会社が倒産したら?成長して端正な顔立ちではなくなったら?大病を患ってしまったら?人間関係のトラブルで信頼を失ったら?彼は、何ごとも思い通りにできるという自分のイメージ(自己イメージ)が人一倍強いです。それだけに、実は、慣れていない苦しい状況によるストレスに対しては人一倍に打たれ弱いのです。このように、自己イメージと現実とのギャップに苦しむリスクが高まります(自己愛性パーソナリティ)。つまり、攻めには強いですが、守りにはとても弱いという弱点があるのです。私たちが花輪クンから学べることは、恵まれすぎていることは、逆に、人間的な成長にとってプラスにならないという客観的な視点です。むしろ、生きていて思い通りにならないことにこそ、心を鍛え養うエッセンスが潜んでいます。失敗や挫折を跳ね返す経験は、私たちの心の糧(かて)になり、心をより豊かにするために大事なことであると言えます。表 パーソナリティの源危うさ魅力自惚れやすい(誇大性)チヤホヤされたい(賞賛欲求)人の気持ちが分かりにくい(共感性欠如)守りは弱い自信に溢れている(自己評価が高い)より良く生きる原動力(向上心)になる妥協しない攻めは強い永沢―ひねくれ者キャラ―反社会性パーソナリティ花輪クンとは対照的に、家庭環境が恵まれていないのが永沢です。彼には、火事で家を失った暗い過去があります。昔は「明るい少年だった」と言われていますが、火事を境にして、今は暗く、「どいつもこいつも」といつも不平不満を口にして(不信感)、誰に対しても口が悪いひねくれ者です(敵意感情)。火事で自分だけ惨めな思いをしたことから、「自分が損をすること」にとても敏感になのです(不公平感)。「世の中は平等で公平である」という育むまれるべき感覚(規範意識)が彼の中で揺らいでいます。彼には、気難しくてすぐに殴る父親と愛情表現が乏しく厳しい母親がいます。この両親に対して、すでに小学校3年生にして反抗的な一面があります。うっぷん晴らしで、彼を慕う藤木を冷たくあしらったり、おとしめたりします(攻撃性)。「損をしないためには他人を利用する」というものごとのとらえ方が芽生えてしまい、理屈っぽくて相手の気持ちがよく分からなくなっています(共感性欠如)。校外の社会科見学で、出発の時に、わざと姿をくらませて、出発できないようにして、みんなを困らせようとしたエピソードもありました。図書室の本「みんなに好かれる性格になる本」を、永沢が読むべきだとまる子に言われたことに腹を立てて、怒りが治まらずに本を引き裂くエピソードもあります(衝動性)。彼の攻撃性や衝動性は、やがて訪れる反抗期にエスカレートすれば、不良グループに属し非行に走るリスクがあります。そして、成人後には社会のルール違反を繰り返すリスクがあります(反社会性パ-ソナリティ)。しかし、同時に、彼の反抗心や反骨精神、闘争心は、将来的に尊敬できるロールモデルに巡り合い、良い方向付けができれば、古いしきたりや価値観に縛られることなく、新しい発想や価値観をもたらすエネルギー源にもなりえます。不信感や不公平感は、現状に甘んじることのない問題意識の高さでもあります。衝動性は、フットワークの軽さでありチャレンジ精神の旺盛さでもあります。つまり、彼は、時代のパイオニアや改革者になる可能性も秘めているということです。表 永沢の二面性危うさ魅力不信感、不公平感ひねくれ者、反抗心攻撃性衝動性問題意識が高い反骨精神、闘争心パイオニア、改革者軽いフットワーク、チャレンジ精神藤木―気にしすぎキャラ―回避性パーソナリティ藤木は、ハートはとても弱い泣き虫の臆病者です。臆病な行動をとってしまって、どんなに永沢に付け込まれて「卑怯者」呼ばわりされても、藤木は永沢を慕います。「永沢くんにもいいところがある」と永沢をかばおうとする姿勢は、健気(けなげ)で優しさがありますが、同時に、これはいじめられっ子の典型的な心理でもあります。一人ぼっちにはなりたくないという怯えがあり、たとえ意地悪な相手であっても、かかわりを持ちたいと思うのです。この状況は、永沢の気分によっては、いじめにエスカレートするリスクが潜んでいます。彼はクラスメート全員から、ことあるごとに「あいつ卑怯だからな」とからかわれ、卑怯者のレッテルを貼られます。まさに、弱々しいしい彼がターゲット(スケープゴート)にされるいじめの構図です。また、藤木自身もそれに甘んじてしまい、「どうせおれは卑怯者だから」と卑怯なことをする都合の良い言い訳にして、卑怯なことを繰り返してしまいます(ラベリング理論)。さらに、残念なことは、彼は卑怯者呼ばわりされたことを涙して両親に打ち明けたのに、その両親は「そうなった原因はお前だ」「いや、あんただ」と責任のなすり合いをして夫婦ゲンカに発展してしまったことです。全く、藤木は両親から守られておらず、ますます心の支えや安心感(安全基地)がなくなってしまいます。こうして彼は、自分に自信がなくなってしまい(自己評価が低い)、将来的に、引っ込み思案で引きこもりになるリスクが高まります(回避性パーソナリティ)。ただ、彼のパーソナリティは、裏を返せば、慎重で協調性があり、争いを好まない平和主義者という見方もできます。彼の良さである穏やかさや優しさが発揮されるには、プレッシャーをひどく与えないコミュニケーションが望まれます。表 藤木の二面性危うさ魅力臆病、引っ込み思案自分に自信がない(自己評価が低い)引きこもりのリスク慎重、穏やか協調性がある、優しさ平和主義はまじ―お調子者キャラ―演技性パーソナリティはまじは、クラス一のお調子者です。いつもいろいろな芸をして、クラスメートを笑わせています。「だいたいなぁ、長山(読書家で優等生のクラスメート)みたいに真面目ばっかじゃ面白くねえんだよ。子供らしくない子供はみんなに嫌われるぜ」と彼は力説します。この発言から読み取れるのは、彼は「みんなに嫌われる」かどうかに価値を置いている点です。つまり、彼は人一倍、「みんなに好かれたい」のです。みんなを喜ばせて注目の的になりたいという欲求が強く、派手好きで、周りへの働きかけがとても積極的です(能動性)。実際に、彼のようなキャラクターは、やり手のセールスマンに多く、世渡り上手(社交性)で出世しやすく、また、芸能界ではムードメーカーとしてもてはやされ人気者になります。はまじの教訓は、「人生なんに面白おかしく過ごしたやつの勝ちだ」です。お気楽でウケ狙いのノリの良さはあるのですが、気に入られることばかりに気をとられてしまうとどうなるでしょうか?自分自身を振り返ることが疎かになり、媚びるばかりの「中身のない薄っぺらいヤツ」になるリスクもあります(演技性パーソナリティ)。真面目さや内面性を問われる集団では、親しみやすさは馴れ馴れしさになってしまい、派手さはけばけばしさになり、目立ちたがり屋、チャラい男、ブリっ子女子として煙たがれ、疎まれるリスクもあります。表 はまじの二面性危うさ魅力目立ちたがり屋、大げさ馴れ馴れしいけばけばしい媚びる、中身がない、薄っぺらいお調子者、ムードメーカー親しみやすさ、世渡り上手派手好きノリが良い、演出がうまい【女子】まる子―愛されキャラ―依存性パーソナリティ主人公のまる子は、面白いことに好奇心があり、楽天的です。みんなに気に入られ、愛される魅力的なキャラクターです。はまじとはお調子者同士でよく似ており、気も合うようですが、まる子は、はまじほど積極的ではありません(受身)。しかし、要領が良い分、甘え上手、お願い上手で、だらしない面がたくさんあります。例えば、おじいちゃん大好きっ子で、おじいちゃんにはよくおねだりをします。また、お姉ちゃんには「まる子の一生のお願い、これで17回目だよ」と言われたり、お父さんに「お前の一生は何回あるんだ」と突っ込まれるなど、まる子は一生のお願いを連発しています。飽きっぽくて怠け癖があり、よく朝寝坊をして、遅刻ぎりぎりセーフでいつも学校に通っています。すぐにいらないものを買うなどお金の浪費癖も目立っています。このようなだらしなさは、見通しが甘く(無責任)、人を当てにして(主体性がない)、生きてしまうリスクがあります(依存性パーソナリティ)。まる子の家族(おじいちゃんを除く)は、まる子を気安く助けないようにしていますが、これは、とても良いコミュニケーションのコツと言えます。表 まる子の二面性危うさ魅力だらしない、飽きっぽい怠け癖、浪費癖無責任、主体性がない楽天的、受身甘え上手、頼み上手気に入られる、愛されるたまちゃん―しっかり者キャラ―共依存まる子と大の仲良しなのは、たまちゃんです。彼女は、ピンチになるまる子をいつも全力で助けてくれます。例えば、まる子が言いたいことをついはっきり言ってしまい、みぎわさんや前田さんとやり合った時、ハラハラしながらも仲直りさせようとします。また、まる子ができ心からカンニングをして、その後ろめたさからみんなに打ち明けようとすると、たまちゃんはまる子に「絶対に言っちゃだめ」「言ったら絶交だからね」と言います。そして、心の中で誓います。「私はまるちゃんをかばうよ。どんなことがあってもかばう。絶対にみんなから責められたりしないようにするよ」と。まる子がたまちゃんに頼りがちなだけに、たまちゃんは、いつもまる子を放っておけなくなります。実は、たまちゃんのようなしっかり者が、そのしっかりしている力を発揮するには、周りにだめな人がいてくれる必要があります。将来的には、だめな人を放っておけない、自分を頼ってくれるだめな人を探し求めてしまうお節介屋さんになる可能性もあります。頼られることに頼る、つまり必要とされることを必要とするようになり、相手も自分もだめにしてしまうリスクがあります(共依存)。たまちゃんは、なぜこんなにしっかり者なのでしょうか?その答えは、たまちゃんのお父さんの存在にありました。たまちゃんのお父さんは、カメラマニアで、「何でも記念を写真に撮っておきたい」というこだわりが強く、相手の気持ちを汲み取る心(心の理論)が鈍いようです(発達の偏り)。シャッターチャンスを逃すまいとしてしょっちゅう常識外れな行動に走ります。「風邪で苦しんでいる自分の記念だ」と自分で自分の写真を撮るほどのこだわりがあります。ですので、周りに風変わりに思われることが多々あり、たまちゃんに世話を焼かせ、困らせています。たまちゃんは、将来的には、自分には恥ずかしい父親がいるという引け目から、よりいっそうとしっかり者になって、人の役に立つ仕事(対人援助職)に就くのではないかでしょうか?表 たまちゃんの二面性危うさ魅力お節介しっかり者、頼まれ上手世話焼きみぎわさん―思い込みキャラ―妄想性パーソナリティみぎわさんは、洋服、持ち物、好きなもの全てが乙女チックで女の子らしく、学級委員を務める優等生です。そして、とにかく花輪クンのことが大好きです。花輪クンのことにはつい敏感になってしまい、彼に優しい言葉をかけられただけで、気に入られていると思い込み、大喜びしてしまいます(被愛妄想)。逆に、クラスの女子が花輪クンと仲良く話していると、「花輪クンを狙っているでしょ!」と詰め寄り、嫉妬心を燃やします (嫉妬妄想)。授業中に、まる子がクラスメートの女子から受け取る手紙を、たまたま花輪クンが回してくれた時、それを見たみぎわさんは花輪クンがまる子に手紙を渡したと思い込み、大激怒します。そして、みぎわさんはまる子に「放課後、話をつけましょう。体育館の裏で待ってるわ」と書いた手紙を渡すのでした。みぎわさんの思い込みの激しさは二面性があります。疑い深く嫉妬深くて、妄想癖があるために、花輪クン以外のクラスメートには、ヒステリックで高圧的になっていくリスクがあります(妄想性パーソナリティ)。一方、彼女は、思いこんだら一直線のエネルギーを持っているとも言えます。このエネルギーを用心深さ、勘の良さ、対抗心、想像力の豊かさに有効活用することもできます。みぎわさんの「暴走」に対して、花輪クンは、はっきりしたことを言わず(中立)、心の間合い(心理的距離)をとって、巻き込まれないようにしています。これが、まさにコミュニケーションのコツと言えます。表 みぎわさんの二面性危うさ魅力疑い深い嫉妬深い妄想癖用心深い、勘が良いすぐに対抗心を燃やす想像力が豊か前田さん―怒りんぼ泣き虫キャラ―情緒不安定性パーソナリティ登場回数は少ないわりに強烈な印象を残すのが、前田さんです。彼女は、掃除係で、掃除にかける思いは熱くて良いのですが、気が強く、掃除を盾に威張り散らすことが多いです。そして、挨拶代わりに文句を言って威圧して、周りに気を使わせます。人に指図することも多く、大晦日に通りすがりのまる子に荷物を持たせたこともありました。彼女の最大の特徴は、相手に言うことを聞かせるためにすぐに怒り出すことと、逆に反撃され、行き詰り追い込まれるとすぐに泣き出すことです(衝動性)。大激怒して散々まる子たちを困らせたあと、自分が困ったら今度は大号泣するのです。そして、泣くことで、相手から手助けや譲歩を引き出し(操作性)、問題が解決すると、ケロっと泣きやみ、また威張り散らし始めるのです。また、「私に味方はいない」と漏らし、相手は敵か味方かという発想が強いようです(スプリッティング)。このように、すぐにかっとなったり、すぐに泣き出したりする行動パターンを繰り返していると、感情が揺れやすいことが本人の生き様になり、人間関係で苦労するリスクが高まります(情緒不安定性パーソナリティ)。一方で、この心の様は、感受性の豊かでもあり、このエネルギーを文学や音楽、演技力などの芸術センスに生かすこともできます。コミュニケーションのコツは、本人の感情の揺れに振り回されないように、近付きすぎずにやはり一定の心の間合い(心理的距離)が大切になります。表 前田さんの二面性危うさ魅力感情が揺れやすい感受性が豊か野口さん―ミステリアスキャラ―統合失調性パーソナリティ野口さんは、一見、無表情、無口のネクラでひっそりしていて、クラスの中で陰が薄いです。しかし、「クックックッ」という笑い声や、「しーらない」「言えやしないよ」と低いフラットなトーンの口癖は独特です。しかも、実は、かなりのお笑い好きで、「お笑いは、まず身近な所から見つけていこうね」と言い、しょっちゅう何かしでかすまる子の様子を、電柱の陰から密かに伺うなど、神出鬼没な一面もあり、かなり強烈な印象があります。まる子が前田さんにからまれ、何とか切り抜けた後に、野口さんはまる子に「これからも前田さんのことは、温かく見守っていこうね」「あ、またそろそろ泣くぞ」とボソっと告げるなど超越した視点を持っています。野口さんの特徴は、家族や友達との親密さを求めず、周りと距離を取ろうとする一匹狼キャラであることです。音楽の歌のテストの時には、壇上に出て「歌いたくありません」ときっぱり拒否をするエピソードもあります。ミステリアスで孤高でマイペースな一方、奇妙に思われて孤立して、社会生活が送りづらくなるリスクもあります(統合失調性パーソナリティ)。本人のペースを尊重しつつ、必要な時は社会との橋渡しをしてあげることがコミュニケーションのコツと言えます。表 野口さんの二面性危うさ魅力孤立奇妙社会生活を送りづらい孤高、超越した視点ミステリアスマイペース【まとめ】個性 ―パーソナリティの偏りこれまで、ちびまる子ちゃんの代表的で個性的なキャラクターたちを見てきました。彼らをより良く知ったことで、さらに彼らが私たちの身近な誰かに重なったり、または自分自身に重なってしまったりはしていないでしょうか?実は、彼らの特徴は、傾向やリスクとして、メンタルヘルスで扱うパーソナリティの偏りをほぼ全てカバーしているのです(表)。表 メンタルヘルスで扱うパーソナリティの偏り傾向またはリスクのあるキャラクターパーソナリティ強迫性丸尾くん自己愛性花輪クン反社会性永沢回避性藤木演技性はまじ依存性まる子共依存たまちゃん妄想性みぎわさん情緒不安定性前田さん統合失調性野口さんちびまる子ちゃんの友達関係―社会の縮図その他のクラスメートとして、リーダーキャラの大野君と杉山くん、お嬢様キャラの城ヶ崎さん、おバカキャラの山田、口癖キャラのブー太郎、胃弱キャラの山根、食いしん坊キャラの小杉などがいます。彼らを加えると、ちびまる子ちゃんたちがコミュニケ―ションを織りなし繰り広げる教室は、まさに私たちの社会の縮図です。ちびまる子ちゃんのキャラクターたちをヒントとして、実生活での相手のことをよく知り、同時に自分自身のことをよく知り、そして、相手と自分の関係性を見つめ直すことに生かすことができるのではないかということです。コミュニケーションにおいて、相手がどんな人なのかというパーソナリティの傾向を踏まえた上で、その魅力の裏にある危うさ(リスク)を想定して接するのと、そうでないのでは、心の余裕は全く違ってしまいます。ちびまる子ちゃんの作品を通して、人の個性の魅力と危うさという二面性をより良く知っていくことで、私たちの人生はより豊かになっていくのではないでしょうか?1)「ちびまる子ちゃん大図鑑」(扶桑社)2)「ICD-10(精神および行動の障害、臨床記述と診断ガイドライン)」(医学書院)3)「DSM-IV-TR(精神疾患の分類と診断の手引)」(医学書院)

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海を飛ぶ夢【自殺、安楽死】

実話だからこそ伝わる真実―もしもあなたの大切な人が生きることを諦めたら?安楽死は日本でも古くからある社会的なテーマで、森鴎外の「高瀬舟」などが有名です。また、「苦しそうだから死なせてやろう」という本人の死ぬ意思の確認のない慈悲殺とイメージが重なってしまうこともあり、よりいっそう私たちは安楽死という言葉の響きに後ろめたさを感じてしまうのも事実です。この映画は、安楽死を願う四肢麻痺の主人公の生き様とその家族や恋人たちなどの周りのかかわりをストレートに描いた実話に基づくドラマです。主人公の死を望む気持ちが、穏やかで揺るぎないものであればあるほどほど、家族は受け入れ難い葛藤で揺れます。そして、私たちが主人公と同じ目線に立てば立つほど、私たちの心も揺れていきます。日本の自殺率は先進国で長年トップクラスというありがたくない記録を更新しており、自殺に手を貸す(自殺幇助)という安楽死について、私たちが独りよがりになって感情的にタブー視せず、いっしょになって理性的に向き合うのは意味のあることではないでしょうか?自殺念慮―なぜ生き生きと死を追い求めるのか?主人公のラモンは、青春時代、船乗りとして世界中を旅して、多くの女性たちと情熱的な出会いをしてきました。そんな彼にとっては、生きること=人生を楽しむ自由があることでした。しかし、25歳のある時、彼に悲劇が襲いました。人生の最高潮にいる彼は、婚約者の目の前でかっこいいところを見せるために、海辺の高い岩場から海面に飛び込みました。そして、引き潮に気付かず、浅瀬に激突し、首の骨を折ってしまったのでした。その後は、首から下の全身の自由を完全に奪われて、寝たきりになってしまいます。彼は、婚約者に一方的に別れを告げ、その後は実家で家族に支えられ、静かに暮らすことになります。海まで自由に飛び回れるという想像力だけを残して。身の回りの介護は、母親の死後、義姉である兄嫁が献身的に続けます。排泄の処理だけでなく、床ずれを防ぐため3時間ごとに姿勢を変えることまでやっています。体の自由を奪われて26年経った51歳の時、彼は意を決します。死を持って自分の運命に折り合いをつけようとしたのです。彼の死を望む理由は、「尊厳がないから」でした。彼にとっての尊厳、つまり自分らしさとは自立していること、自分で自分をコントロールできることだったのです。そして、自分らしく生き抜くため、死ぬことに一生懸命になっていくのでした。スピリチュアルペイン(実存的苦痛)―存在していることへの心の痛み彼は自らをこう形容します。「死んだ体にくっついた生きた頭」と。また、「なぜいつも笑顔なの?」と尋ねられた彼が、「人の助けに頼るしか生きる方法がないと自然に覚えるんだ」「涙を隠す方法をね」と答えるシーンは印象的です。彼の精神的な苦痛や苦悩を一言で物語っています。実話で明かされていることとして、母親がラモンの近くで倒れた時、動けないラモンは母親が死んでいくのをただ見守っていることしかできなかったことがありました。万能であった彼にとって無能で無力な状態に置かれることは惨め過ぎて耐えられなかったです。彼にとってのその後の人生は、動かない肉体に心を囚われ、飼い馴らされて生き続けるという生き地獄だったのでした。そして、死とは、囚われの身から解放されることなのでした。「唯一、死が自由をもたらしてくれる」と確信しているのです。このように、人生や存在していることに対する無価値感、家族などの他者への依存や罪悪感などから生まれる心の痛みは、スピリチュアルペイン(実存的苦痛)と呼ばれます。体の痛みとは違い、癒すのには一筋縄ではいかないようです。自殺の共感―なぜフリアは一緒に自殺することを一度決意したのか?ラモンと同居している家族は、義姉、兄、甥、そして父です。家長でもある兄は語気を強めて言い放ちます。「(自殺に)おれは絶対に手を貸さん。誰にもさせん」と。もともと兄も船乗りでしたが、ラモンの介護のために、農業に転業したというわだかまりや意地もありそうです。また、父は言います。「神様がお望みになる限り生を全うせねば」と。彼の自殺の手助けをする人は家族にはいません。かと言って、餓死や舌噛みによる自殺は望んでいません。彼はあくまで苦しまずに死にたい、安らかに死にたい、それが尊厳ある死だと考えているからです。そんな中、彼を支える人権団体の弁護士の1人であるフリアは、彼の考えを理解していきます。なぜなら、彼女自身、体も心もだんだん衰えていく難病(多発性硬化症)を患っていたのです。足腰が弱り、記憶があやふやになるという発作を繰り返し、自分が自分でなくなる恐怖を肌で感じていたのでした。彼女には夫がいますが、ラモンに共感し好意を寄せていくのでした。そして、彼の本ができたら、いっしょに自殺する約束をしたのです。ラモンが死を追い求めるのに対して、フリアは死に迫って来られるという境遇の違いがあります。彼女は頭がしっかりしている間に自分からその恐怖を終わりにさせたいと考えていました。しかし、最後には自殺を思い留まります。そのわけは、「それが人生」「任せよう」と言う夫の必死の説得により、夫の支えで生き続けることを心変わりしたからでした。自殺の受容―なぜロサは自殺の手助けをしたのか?ラモンは、テレビで自分のありのままの姿をさらけ出したことで、世の中に波紋を呼びます。個人の権利として安楽死を社会に訴えたのです。たまたまテレビで彼を知ったロサはたまらず彼を訪ねます。都会的で知的でクールなフリアと対照的に、ロサは子連れで離婚歴があり、田舎臭くておしゃべりで世話焼きな女性です。当初、ラモンに対するロサの思いは、愛情というより母性に溢れています。ラモンはロサの世話好きな母性本能をくすぐってしまい、ロサはとにかくラモンのお世話をしたい気持ちでいっぱいになります。「どんなに辛いことがあっても逃げちゃだめよ」と励ましてしまい、ラモンをイラつかせもします。 そんなロサでしたが、ラモンとのかかわりの中で少しずつ変わっていきます。辛い時に押しかけても話を聞いてくれてユーモア溢れるラモンに「あなたから多くのものをもらっていると深い感謝と情愛を寄せます。その後、「僕を本当に愛してくれる人は死なせてくれる人だ」とのラモンの言葉が彼女に心に響き、ついに彼を愛している証として、自殺の手助けを受け入れたのでした。それは、ラモンが死んでいなくなっても、自由になった彼の魂に抱きしめられて、彼の魂を愛し続けることができると悟ったからでした。支持的精神療法―反面教師的な神父の説教テレビに出演した四肢麻痺の神父はラモンについてコメントします。「彼の周りからの愛情が足りないからだ」と。これは、当時の教会の実際の声明のようで、家族はかなりのショックを受けています。その後、その神父はわざわざラモンの家まで訪ねてきて、説教を始めます。その様子はコミカルでもあり、シリアスでもあります。この映画での神父の描かれ方は、正論ぶって尊大で押しつけがましく、まさにメンタルヘルスのかかわり方において反面教師です。この神父を見て、単に「がんばれ」とか「信じれば救われる」などの一方的な激励、説教、議論、犯人探しが逆効果であることに気付かされます。有効なかかわりとしては、まずは患者の話に耳を傾けること(傾聴)です。患者の考え方に関心を寄せ、よく分かってあげることです。周りに理解され、その患者がそのまま周りに受け入れられていると実感できることで、心を開き、病気を受け入れていくことにつながります。このかかわりは、特に末期がんのメンタルヘルスなどで見受けられます。障害の受容―なぜラモンはありのままの自分を受け入れられないのか?ラモンは車椅子を嫌う理由を問われると、「失った自由の残骸にすがりつくことだ」と言い切り、車椅子生活などの他の選択肢を拒み続けました。そこには、自立的に生きることこそが全てであるという彼の強い信念が私たちに伝わってきます。と同時に、それは彼の頑固な一面でもあり、彼の新しい人生にチャレンジ(価値の範囲の拡大)するチャンスや、彼の劣等感を封じ込める方法(障害の与える影響の制限)を阻んでいます。例えば、彼は、聞き上手でユーモアがありました。彼にはカウンセラーとしての才能があり、人の役に立つことができました。そこから、その役割に打ち込むことが彼の喜びになりうるのです。これは、新しい自分らしさの発見(価値の転換)によって立ち直ること(障害の受容)です。また、兄とのやり取りの場面でラモンはこうも言います。「もしも明日兄さんが死んだら、僕は家族を養えるか?と。身体的な自立の他に、経済的な自立の問題、つまり生活の苦しさも陰にあります。生活に余裕がないため、心にも余裕がなくなっている可能性も考えられます。実存的精神療法―生きていることそのものに意味がある家族との最後の別れのシーンで、甥は、無言でラモンを抱き込みます。ここで、ラモンと甥の特別な関係が伺えます。もともとラモンが甥を言い諭す場面がたびたびある一方で、甥はラモンといっしょにテレビでサッカーの試合を見たがるなどかなり慕っていたのです。まさに父子の関係のような雰囲気を醸し出します。しかし、甥の実際の父はラモンの兄であり、そこにラモンと甥の間には完全には父子の関係になれない一線があることにも気付かされます。 もし仮にラモンに子どもがいたとしたら、どうでしょうか?彼にはすでに妻がいて、息子や娘がいたとしたら、彼はそれでも死を望み続けたでしょうか?興味深いことに、彼が執筆した本の一節に、生まれてこなかった息子への思いを綴った詩があります。それを甥に読ませ、どういう意味か問うシーンがあります。甥を我が子と重ね合わせているのです。ここから読み取れるのは、誰かに独り占めで愛されると同時に、その誰かを独り占めで愛することができたら、そんな誰かがいたとしたら、その愛自体が大きな希望になり、生きる原動力になり、彼の無力感から来る心の苦痛は乗り越えられていたのかもしれません。そもそも我が子の存在する喜びは本能的なものです。つまり、親子という特別な絆が存在していたとしたら、そこには、自分が生きなければならない責任感や義務感と同時に、生きて見守りたいという喜びが湧き起こってくるように思われます。どんなに辛くても生きていることそのものに意味がある、喜びがあると思えたのではないでしょうか? このような考え方は実存的精神療法と呼ばれます。また、実話によると、彼が死にたいという思いを口にするようになったのは、母親が亡くなってからでした。自分を生んでくれた母親を苦しめたくなかったのです。また、父親には死にたい気持ちを直接には一度も語っていません。つまりは、もし仮に母親が生き続けていたとしたら、彼は母の愛で死ぬことを踏み止まっていたようにも思えます。親子愛は、兄弟愛にも増した特別な絆があるようで、自殺を踏み止まらせる強い力があるようです。安楽死を合法化する文化―自由主義のオランダラモンは、わざわざ嫌いな車椅子に乗り、安楽死の権利を得るために裁判所に出向きます。ところが、法廷では「手続きの不備」を理由に取り合ってもらえません。また、挙句の果てに訴えを却下されてしまいます。ラモンのいるスペインの社会で、安楽死の是非は一筋縄ではいかず、判断すること自体がためらわれ、避けられてしまいます。日本を始め多くの国で、尊厳死は認められています。これは、リビングウィル(生前意思)により延命治療を開始しないことです。延命治療とは、例えば、呼吸が止まった時に人工呼吸器を装着することや食事を摂るのが難しくなった時にお腹に穴を空けること(胃瘻)によって直接栄養を胃に送ることです。一方、安楽死とは、ラモンが青酸カリを用意してもらったように、直接死なせる介入を行うことです。このように、尊厳死と安楽死には、一線があるのです。現在、安楽死が合法な国は、オランダを初めとしていくつかあります。オランダはもともと大麻、売春、賭博、同性結婚から安楽死までいち早く合法化しているお国柄です。ここまで自由で寛容な国になった理由は、オランダの風土や歴史に見出すことができます。オランダはもともと国土を干拓で増やした歴史があり、自然環境をコントロールする欲求がとても強い文化を育んでいます。また、中世に絶対君主がいなかったことで商業都市として自由貿易が栄えました。オランダの文化圏の人々は、世界一、合理的で自由主義的であり、自立性を重んじます。それは、自分の死についても同じで、死もコントロールすべきだという価値観が強いようです。安楽死の適応―誰が安楽死できるかの線引き安楽死を認めた場合、誰が安楽死していいかという線引きの問題が新たに出てきます。もともとは末期がんの身体的苦痛に対して適応となっていましたが、緩和ケアが進んだ現在はほとんどの身体的な痛みは取り除くことができるになりました。安楽死の適応は、精神的苦痛に広がり、オランダではリビングウィル(生前意思)による認知症患者への安楽死がすでに行われています。また、本人と両親の同意で未成年の安楽死も認められています。さらに、本人意思の確認のできない重度の障害を持った新生児に対する安楽死も条件付きで認められるようになりました。その根拠となったのは「人間的尊厳のない人生を続けさせるべきではない」という理由でした。これらのことから、安楽死が広がれば、自殺や慈悲殺を推し進めてしまう懸念があります。そもそも、命の価値を自分で決められることを社会が良しとしたら、「人の命は平等でかけがえのないもの」という価値観や倫理観による社会を形作る前提を覆してしまうおそれがあります。命に格差を付け、命のランキングを作ってしまうことになり、「生きていなくていい命」という発想が出てきてしまいます。人の命は平等だからこそ、私たちは社会から公平な扱いを受けることができるという社会システムの根幹を揺るがしてしまいかねない危うさをはらんでいます。安楽死の危うさ―集団主義の日本ラモンと兄の口論が印象的です。兄に安楽死を強く反対されたラモンは「僕を奴隷にするのか?」と訴えますが、兄は「おれこそお前の奴隷だ」「家族みんなお前の奴隷だ」と心中のわだかまりをぶちまけてしまいます。兄はラモンを養うために一生懸命になり過ぎていました。もともとラモンのいるスペインのガリシア地方は気候条件の厳しい地域で、そのためにガリシア人は無骨だが結束力が強いと言われています。ラモンの義姉は、介護に一生懸命で前向きです。介護を自分の役割だと言い、ロサとお世話を取り合うシーンもあります。ここから分かることは、義姉にとってラモンを支えることは喜びでもあるようです。そのことを、ラモンはもっと心を開いて感じ取ることができれば良かったのです。支えることも支えられることも喜びになりうるということです。これを確かめるには、家族の風通しの良いコミュニケーションが必要です。ガリシア人は、家族に気兼ねして息苦しい家庭生活を送る日本人と何か通じる点があるかもしれません。ラモンは「死は感染しやしない」と言っていますが、この日本においては、本当に「感染」しないでしょうか?もともと日本は、武士が切腹することから「死んでお詫びをする」という表現があり、トラブルを解決するための自殺を美学とするメンタリティが根付いていました。切腹の介錯は、安楽死とも受け止められます。特攻隊や集団自決を良しとした歴史もありました。心中や後追い自殺も独特です。現在でも私たちは流行りに気を配り過ぎます。つまり、私たちはいつも世間に気を遣い、とても流されやすく、世間と同じことをしていないと落ち着かない集団主義の文化(同調圧力)を持っています。ラモンは「生きる権利」を「生きる義務」ととらえて、そこから「死ぬ権利」を要求しています。日本人の集団主義の文化の中で「死ぬ権利」が広がっていけば、「同じ状況でなんでおまえは死なないんだ」という理屈で「死ぬ義務」が生まれるおそれが高いのです。同じ状況でも生きていたい人に無言のプレッシャーがかかりやすくなります。実際に「未亡人」という言葉は、「(夫ともに死ぬべきなのに)まだ死なない人」という意味合いがあります。他者配慮の強い日本人ならではの発想で、「周りに気を遣って死ぬ義務」が広がるおそれがあります。シネマセラピーラモンが安楽死を望んだ理由は、自立性の喪失だけではなかったのです。その背景には、頑固さから障害の受容ができず自分の役割を見出せなかったこと、生活の余裕のなさ、家族への気兼ね、特別な絆を持てる誰かがいなかったことなどがあります。これらのことから、自殺や安楽死に至らないようにするために私たちのメンタルヘルスの課題が見えてきます。それは、失った体の自立性を補える医療テクノロジーの進歩や社会が豊かになっていくことに期待しつつ、柔軟な考え方を持つこと、自分の役割を見出すこと、家族と風通しの良いコミュニケーションを通して支えられることを喜びに感じること、そして日々の絆を育んでいくことです。私たちは、ラモンに真っ向から自殺や安楽死について突き付けられました。彼から、単に彼が死ぬべきかどうかということだけでなく、私たち自身がどう生きるか、社会はどうあるべきかということについても様々に考えさせられました。死は忌むべきものではないのです。私たちが死についてもっとオープンにもっと深く語り合う心構えがあれば、私たちがより良く生きていくこと、社会がより良くなっていくことにつながっていくのではないでしょうか?1)「海を飛ぶ夢(地獄からの手紙)」 ラモン・サンペドロ アーティストハウスパブリッシャーズ2)「安楽死問題と臨床倫理」 日本臨床死生学会 青海社3)「安楽死のできる国」 三井美奈 新潮社4)「『尊厳死』に尊厳はあるか」 中島みち 岩波新書5)「僕に死ぬ権利をください」 ヴァンサン・アンベール NHK出版6)「標準リハビリテーション医学」 上田敏 医学書院

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トカトントン【条件反射】

ユーモラスで奥深い作品太宰治の短編小説であるトカトントンは、タイトルからして軽やかでユーモア溢れています。しかし、同時に、主人公の内面を読み解いていくと、実は奥の深い作品であることにも気付かされます。ストーリーは、除隊後のある田舎のしがない郵便局員の若者が、ある作家に宛てた悩み相談の手紙の形をとって進みます。支配観念―軍国主義という熱狂時は敗戦直後。兵舎の広場でラジオから玉音放送が流れ、厳粛で悲壮感が漂う雰囲気の中、軍人から集団自決の覚悟が口にされます。戦争の熱狂がまだ冷めやらぬ中で、その場にいた入隊中のその若者は、「からだが自然に地の底へ沈んで行く」という感覚に囚われ、「死ぬのが本当だ という決意を固めていました。追い込まれた絶望や潔さから来る一つの答えです。 その直後、遠くの方からかすかに金槌で釘を打つ音が鳴り響いてきました。「トカトントン と。厳かなムードを吹き飛ばす能天気で間抜けな音です。すると、その瞬間です。主人公の世界は反転し、色褪せます。そして、白々しくバカらしい気分になってしまったのです。まるで沸騰していた頭に冷水を浴びせられたように、一気に冷めてしまい、もうどうでもよくなったのです。後に彼が告白する「ミリタリズム(軍国主義)の幻影」という熱狂が冷めて、そして目が覚めた瞬間でした。 当時の日本は、戦争に勝つことが全てという軍国主義による国家レベルの熱狂に支配されていました。このように、強い感情に結びついて頭の中を支配する考えは、支配観念と呼ばれます。例えば、熱愛中のカップルがお互いのことで頭がいっぱいになることや、熱狂的なスポーツファンがひいきチームの応援に明け暮れることなどです。支配観念の内容は、妄想というほどとっぴで不合理ではないのが特徴ですが、妄想との密接なつながりがあります。また、カルト宗教などでよく悪用される手口であるマインドコントロール(洗脳)に発展する可能性を秘めています。だからこそ、宗教勧誘の鉄則は、弱っている心にすかさず感情的に働きかけることになります。幻聴―聞こえるはずのない音その後は、平穏な生活を送れるかと思いきや、気分が高揚したり緊迫したりして最高潮になるたびに、トカトントンという幻聴が聞こえてくるようなったのです。そして、その直後に一瞬で気持ちが萎えて醒めてしまい、我に返るという奇妙な症状に悩まされるようになります。書きしたためていた軍隊生活の追憶記の完成を真近にトカトントン。仕事に熱中してトカトントン。デートのクライマックスでトカトントン。社会運動に感極まりトカトントン。マラソンランナーに感動してトカトントン。やがては、死のうと思ってトカトントン。今まさにこの手紙を書いていてトカトントン。そして、主人公は作家に教えを請います。「この音は、なんなんでしょう 「この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう」と。条件反射―心の反響作用まず、トカトントンの音の正体は何なのでしょうか?主人公がトカトントンの実際の音を初めて聞いたのは、敗戦を実感するという際立った体験をした瞬間でした。たまたま聞こえたものですが、インパクトが強烈で特異な瞬間と重なったことで、脳に記憶として鋭く刻まれてしまったのです。しかも、その時の心の動きは、まさに高まっていたテンションが落ちていく瞬間でした。そして、その後に、トカトントンの幻聴が繰り返して出てくるタイミングも、同じようなテンションがピークに達する瞬間です。このように、同じような心の動きをきっかけとして、幻聴などの症状が出てくる場合は、広い意味での条件反射のメカニズムが考えられます。もともと条件反射とは「パブロフの犬」でおなじみです。犬に餌を与えると同時にベルを鳴らすこと(条件付け)を繰り返すと、ベルの音の刺激が唾液を出す脳の働きに刷り込まれていき、やがてベルが鳴っただけで唾液が出るという自律神経の反射が起きるという実験理論です。実際に、私たちの多くが、梅干しを見ただけで唾液が出ます。泣き歌と呼ばれる歌は、それを聞いただけで泣いてしまう人がいます。さらに、実際に、東日本大震災の被災者の中には、数か月経った後でも、被災した当時に嗅いだある花の匂いを再び嗅いでしまうと、その時の出来事を生々しく思い出して、気持ちが揺れる人もいます。その逆も考えられ、感極まった時は泣き歌が頭の中を流れることがありますし、その被災者にとってその花の匂いがあまりにも強烈であれば、当時の出来事を思い出しただけでその花の匂いを嗅げてしまうという幻覚が起こりえます。言い換えれば、匂い(嗅覚性)のフラッシュバックです。フラッシュバックは条件反射の一種とも言えます。主人公の場合、高まったムードに条件付けされて、トカトントンの幻聴が心の反響として聞こえるようになっています。防衛機制―心の安全弁次に、なぜ主人公はトカトントンの音を聞いて白けてしまったのでしょうか?もちろんその音が単純に滑稽だったということもあるとは思いますが、その後の彼の行動パターンを読み解いていくと、そもそも彼の性格そのものに関係がありそうです。トカトントンの幻聴が聞こえるエピソードのいくつかの直前を振り返ってみましょう。例えば、仕事に熱中するエピソードは、もともと仕事熱心でもないのに「なんでもかでもめちゃくちゃに働きたくなって」と急に仕事に没頭しています。政治運動に感極まるエピソードでも、もともと政治には「絶望に似たものを感じて」無関心だったのにも関わらず、ある日の労働者のデモに「胸がいっぱいになり、涙が出」て「死んでも忘れまい」と突然に感動しています。もともとスポーツは「ばかばかしい」と思い、「参加しようと思った事はいちどもなかった」のに、あるマラソンランナーの必死のラストスパートに「実に異様な感激に襲われ」ています。つまり、そもそも彼のテンションが上がるきっかけがかなり唐突なのです。どうやら、彼の性格として、のめり込みやすく熱狂的な面、気分の浮き沈みが激しく感じやすい面が浮かび上がってきます。そんな主人公が、そのまま熱中や熱狂が続けば、いずれいっぱいいっぱいになり、精神的に参ってしまうことが伺えます。実際に、彼は自殺を考えながらも、トカトントンの音に救われてもいます。彼にとってトカトントンの音は、実は、まさにその暴走しパンクしそうな心をリセットさせるリミッターの役割を果たしています。つまり、無意識の心理メカニムズ(防衛機制)としても解釈できそうです。言わば、心の安全弁です。行動療法―信仰という行動の枠組みけっきょく、このトカトントンの音から逃れるにはどうしたら良いでしょうか?このストーリーの最後に、太宰自身らしきその作家からの返答が続きます。彼は聖書の一文を引用して説きます。「このイエスの言に、霹靂を感ずる事ができたら、君の幻聴はやむはずです」と。これは、イエスの教えに従うこと、つまり、キリスト教への信仰心により心の平安を保つことで心を安定させることができると言っているようです。信仰という行動の枠組みに身を置くというのは一種の行動療法でもあり、治療的にも一理あります。また、絶対的なイエスの前に身を伏せるという権威付けも一種の自己暗示療法でもあり、これも一理あります。 認知行動療法―心のあり方を冷静に見つめるただ、メンタルヘルスの治療として、主人公が知りたい「この音からのがれる」現代的な治療は、この幻聴ができるメカニズムをまず自分自身が理解することではないかと思います。それは、熱狂的で感じやすい自分自身の性格であり、敗戦により軍国主義から民主主義への価値観がひっくり返った困惑であり、戦後の混乱して落ち着かない生活状況です。原因となりうるこれらを振り返り、見つめ直すことです。つまりは、自分の心の動きを俯瞰(ふかん)してモニターし、そのための安定した生活スタイルや対処方法(コーピングスキル)を具体的に見い出すことです。この治療は、認知行動療法と呼ばれています。例えば、規則正しい生活をモニターして記録すること、対人距離やその時の気持ちをモニターして気持ちの受け止め方を整理していくことなどです。主人公は、これらを続けていくことを通して、心のあり方を冷静に見つめることができたその時、トカトントンの音が消えてしまっていることに気付くのではないでしょうか?トカトントンの幻聴は危うい気持ちの揺らぎを知らせてくれる心の奥底からのメッセージでもあります。この作品に共感する私たちも、主人公のような体験をした時、その根っこにある自分自身の心のあり方を見つめ直すきっかけを知ることができるのではないでしょうか?

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