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新型コロナ感染症が中国・武漢において発生してから10ヵ月が経過した。この10ヵ月の間、感染症の分子生物学的/生理学的病態解明が進み、治療法に関しても抗ウイルス薬、ウイルス誘発免疫過剰状態(血栓過形成を含む)に対する多数の薬物に関する治験、ウイルスに対する不活化ワクチン、遺伝子工学的ワクチンの製造が驚くべきスピードで進行している。それらの結果として、新型コロナ感染症に対する有効な治療方針が整理されつつあり、同一施設における入院死亡率はパンデミック初期に比べ明らかに低下している(Horwitz L, et al. medRxiv. doi.org/10.1101/2020.08.11.20172775.)。初期治療に重要な抗ウイルス薬に関しては、種々の薬物が“篩(ふるい)”にかけられ、RNA-dependent RNA polymerase(RdRp)阻害薬であるレムデシビル(商品名:ベクルリー、Beigel JH, et al. N Engl J Med. 2020 Oct 8. [Epub ahead of print] , Wang Y, et al. Lancet. 2020;395:1569-1578.)ならびにファビピラビル(商品名:アビガン、Ivashchenko AA, et al. Clin Infect Dis. 2020 Aug 9. [Epub ahead of print], Cai Q, et al. Engineering (Beijing). 2020 Mar 18. [Epub ahead of print], 富士フイルム富山化学 9月23日付 News Release)が一定の効果を有することが確認された。一方、RdRpより上位で作用するウイルス―宿主細胞膜融合阻害薬であるクロロキン/ヒドロキシクロロキンならびに3-chymotrypsin protease阻害薬(Protease inhibitor)であるロピナビル/リトナビル(商品名:カレトラ、以下L/R合剤)の効果は確認されなかった。本論評においてはL/R合剤に焦点を合わせ、この薬物が臨床的効果を発揮できなかった理由について考察する。 抗ウイルス薬に関するメタ解析では、L/R合剤が新型コロナ患者の入院日数を短縮する可能性が示唆された(Siemieniuk RA, et al. BMJ. 2020;370:m2980.)。しかしながら、中国ならびに英国で施行された信憑性の高いRCTではL/R合剤の臨床的に意義のある有効性は確認されなかった(中国・LOTUS Study[Cao B, et al. N Engl J Med. 2020;382: 1787-1799.]対照群:100例、L/R群:99例、英国・RECOVERY Trial[RECOVERY Collaborative Group. Lancet. 2020 Oct 5. [Epub ahead of print]]対照群:3,424例、L/R群:1,616例)。 L/R合剤は、HIV-1(コロナと同様に1本鎖RNAウイルス)に対するキードラッグの1つとして、本邦では2000年12月に厚労省の薬事承認を受けたProtease inhibitorである。リトナビルは肝臓の薬物代謝酵素であるCYP3A4の活性を競合的に阻害しロピナビルの血中濃度を維持する。しかしながら、ロピナビルの95%以上は血漿タンパクと結合・不活化されるため、ロピナビルの生体内薬物活性はリトナビル共存下においても高く維持することは難しい。コロナウイルスが感染源である2002年のSARS、2012年のMERSが発生した時には、in vitroの検討でL/R合剤がSARS、MERSウイルスに対して感受性を有する可能性が示唆された。この時の検討結果(in vitro)では、ウイルス感染を50%抑制するL/R合剤の有効血中濃度(EC50)はSARSで17.1 μmol/L、MERSで6.6 μmol/Lであると報告された(日本小児科学会)。HIV-1を抑制するL/R合剤の血中濃度が7.2~12.1 μmol/Lであることを考慮すると(Lopez-Cortes LF, et al. Antimicrob Agents Chemother. 2013;57:3746-3751.)、通常量のL/R合剤投与でMERSは抑制される可能性があるもののSARSの抑制は難しい。新型コロナに対するL/R合剤のin vitro EC50は26.1 μmol/Lであり(Choy KT, et al. Antiviral Res. 2020;178:104786.)、HIV-1を抑制する通常量のL/R合剤投与では到底到達できない濃度であることが理解できる。L/R合剤の投与量を増加すれば臨床的有効性が認められる可能性があるが、その場合には、生命を脅かす重篤な有害事象の発生が予想され臨床の現場で施行すべきものではない。以上のように、生体にとって安全な投与量が低く制限されていることがL/R合剤によって新型コロナ感染症を制御できなかった理由であり、L/R合剤が新型コロナウイルスに対して薬理学的にまったく無効であることを意味するものではない。 結論として、現状のL/R合剤を用いたこれ以上の臨床治験は無意味である。今後HIV-1をターゲットとしたProtease inhibitorを用いて新型コロナに対する臨床治験を実施するならば、近年新たに開発されたダルナビル製剤(商品名:プリジスタ、シムツーザ)などの新型コロナに対するEC50の測定を含めたin vitroの検討とその基礎的/薬理学的結果を踏まえた臨床治験を計画すべきである。