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「認知症予防のために運動が良い」ということは、多くの人が耳にしたことがあるでしょう。とくにアルツハイマー病のリスク要因のうち、運動不足は自らの力で改善できる(修正可能な)重要な要素の一つとされています。しかし、「具体的にどれくらい歩けばいいのか?」「運動が脳の中で一体何をしているのか?」という核心的な部分は、これまでハッキリとはわかっていませんでした。 この疑問に対し、一つの答えを示す研究が、医学誌Nature Medicine誌に発表されました1)。この研究は、従来の曖昧な自己申告による運動量ではなく、「歩数計」で客観的に測定した歩数と、最新の脳画像診断(PET検査)を組み合わせています。その結果、アルツハイマー病の進行を遅らせるために必要な「歩数の目安」と、運動が脳を守る「メカニズム」が、具体的にみえてきました。脳に「アミロイド」が溜まった人ほど、歩く効果は絶大この研究は、ハーバード大学加齢脳研究に参加した、認知機能が正常な296人の高齢者(50~90歳)を対象に行われました。参加者は研究開始時に歩数計を7日間装着し、1日の平均歩数を測定されました。その後、最大14年間にわたり、毎年認知機能テストを受け、定期的に脳のPETスキャンでアルツハイマー病の原因物質とされる「アミロイドβ(Aβ)」と「タウタンパク質」の蓄積量を追跡しました。そして、分析の結果、興味深い事実が判明しました。それは、「歩く」ことによる認知機能低下の抑制効果は、研究開始時点ですでに脳内にAβが溜まっていた人(つまり、アルツハイマー病の初期段階)においてのみ、顕著にみられたのです。脳がきれいな状態(Aβが溜まっていない)の人では、歩数と将来の認知機能低下との間に明確な関連は見られませんでした。つまり、「歩く」という行為は、すでに病気のリスクを抱えている人にとって、認知症の発症を遅らせる強力な「防御因子」として働いていたのです。研究報告によると、Aβが溜まっている人が3,001~5,000歩程度歩くだけでも、座りがちな人(3,000歩以下)に比べて認知機能の低下が平均で約3年遅くなり、5,001~7,500歩歩く人では、低下が平均で約7年も遅くなる可能性が示されました。歩行がブレーキをかけるのは「タウ」の蓄積では、なぜ歩くことが認知機能の低下を遅らせるのでしょうか? 多くの人が「運動がAβの蓄積を減らすのではないか」と考えるかもしれません。しかし、今回の研究結果で、歩数(身体活動)は、Aβの蓄積量とは無関係であることが示されました。よく歩く人でも、歩かない人でも、脳内のAβは同じように蓄積し続けたのです。では、何が違ったのか? それは「タウタンパク質」でした。Aβが溜まっている人において、よく歩く人ほど、タウタンパク質が脳に蓄積するスピードが有意に遅かったのです。アルツハイマー病は「Aβが引き金となり、タウが実行犯となって神経細胞を壊す」という流れで進行すると考えられています。今回の研究は、Aβという「引き金」がすでに引かれてしまっている人でも、「歩く」ことによって「タウ」という実行犯の暴走にブレーキをかけられる可能性を示したのです。そして、この「タウの蓄積を遅らせる効果」こそが、認知機能の低下を遅らせる主な理由であることも示されました。目標は1万歩でなくて良いこの研究が示すもう一つの重要なメッセージは、必要な歩数の目標値です。健康のために「1日1万歩」という目標がよく掲げられますが、高齢者にとってこれはかなりハードルの高い目標です。しかし、今回の研究では、認知機能の低下やタウの蓄積を遅らせる効果は、1日の歩数が「5,001~7,500歩」の範囲で頭打ち(プラトー)になることが示されました。それ以上、たとえば1万歩歩いても、追加の効果はあまりみられなかったのです。さらに言えば、最も活動量が少ない「非活動的」なグループ(1日3,000歩以下)と比較した場合、その次の「低活動」グループ(1日3,001~5,000歩)でも、認知機能低下の速度は有意に遅くなっていました。この結果は、座りがちな生活を送っている高齢者にとって、「まずは5,000歩を目指す」という、より現実的で達成可能な目標が、認知症予防の観点からも重要であることを示しています。研究の限界と今後の課題この研究は強力なデータを提供するものですが、いくつかの限界点も理解しておく必要があります。第一に、これは「観察研究」であり、因果関係を完全に証明するものではありません。「歩くからタウが減った」のではなく、「タウが溜まり始めている人は、症状に出ないまでも活動性が低下し、結果的に歩数が減った」(逆の因果関係)という可能性を完全には否定できません。ただし、研究チームは、研究開始時点で認知機能に差がなかったことや、さまざまな統計的調整を行うことで、その可能性は低いとしています。第二に、歩数は研究開始時点でのみ測定されており、長期間の活動量の変化は追跡されていません。また、歩数計では水泳やサイクリング、筋力トレーニングといった「歩行以外」の運動や、運動の「強度」は測定できていません。第三に、研究参加者は主に高学歴の白人であり、この結果がより多様な人種や社会的背景を持つ人々にも当てはまるかどうかは、さらなる検証が必要です。とはいえ、これらの限界を考慮しても、客観的な歩数計のデータと長期的な脳のPET検査を組み合わせて、「適度な身体活動(1日5,000歩程度)が、Aβリスクを持つ人のタウ蓄積を遅らせ、認知機能低下を抑制する」という具体的なメカニズムを示唆した意義は大きいと思います。「Aβが陽性の座りがちな人」を対象に運動介入を行うことの重要性を示す、力強いエビデンスとなるでしょう。 参考文献・参考サイト 1) Yau WYW, et al. Physical activity as a modifiable risk factor in preclinical Alzheimer’s disease. Nat Med. 2025 Nov 3. [Epub ahead of print]