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理学療法士が足りない

相馬中央病院整形外科石井 武彰2012年10月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 私は平成24年4月より相馬市にある相馬中央病院で整形外科医として勤務しています。初期臨床研修後に九州大学整形外科に入局し、3年間の関連病院での研修後、昨年は大学院で病理の仕事をしていました。震災後の川内村で行われた健康診断に参加したことより、福島県浜通りに関心を持っていたところ、相双地区で整形外科医が不足し求められているとの話を聞き、縁があって相馬中央病院で働く事となりました。 半年の診療を振り返ると、理学療法士不在によるもどかしさを強く感じます。相馬中央病院には理学療法士がいません。よく患者さんより「入院してちょっとリハビリさせてもらえないだろうか?」と聞かれます。他院で急性期の治療が終了して当院に転院する事を希望される方からは「相馬中央さんで、リハビリしてもう少し歩けるようになって(家に)帰りたい」との希望をうけます。入院をうけることはできても理学療法士による専門的なリハビリを提供する事はできません。看護師が看護業務の中から時間を捻出して、歩く練習、立つ練習を手伝ってもらっているのが現状です。ただでさえ病床あたりの看護師数が少ない地域です。患者さんのニーズを満たせているかはわかりません。 事務に聞いてみると募集はかけているが、なかなか理学療法士が見つからないとの事でした。関連施設から週に数回作業療法士が応援に来てくれます。ようやく見つかったリハビリスタッフとのことでした。調べてみて驚いたのですが日本理学療法士協会ホームページによると福島県(人口203万人)には理学療法士養成校が1校あります。一方、私の地元である福岡県(同507万人)には理学療法士養成が14校あるようです。相馬地区に理学療法士が不足しても無理はありません。実際に、東大国際保健の杉本さんのまとめをみると東北、東日本で理学療法士が少ないのが一目瞭然です。≪参照≫理学療法士数 人口1,000人あたり【県別】 http://expres.umin.jp/mric/mric.vol.603.jpg 言うまでもありませんが、リハビリスタッフも現在の医療には欠かす事のできない存在です。整形外科のように運動機能の落ちた方の治療だけにとどまらず、内科入院した方でも高齢者などの入院によるADL低下のリスクが高い方には理学療法士の介入が効果的です。体調に不安のある中、積極的に動こうという人は少なく、上げ膳据え膳でベッド上生活をすると、明らかに筋力が低下していきます。理学療法士が介入することで、少なくとも毎日20分程度は個別に訓練します。場合によっては1日数回訓練が行われます。看護師がリハビリのために捻出できる時間はあまりありません。患者さんの回復、ADL低下予防には大きな違いとなります。 他にも、理学療法士不在の病院には問題があります。入院中の患者さんが院内で転倒事故を起こすと、医療スタッフは責任を感じます。そのため、なんとかつたい歩きで移動していた方など歩行に不安のある方には、一人では歩かないようにお願いする事があります。しかし24時間一人の患者さんのそばにいる事は不可能です。結果として入院する事による活動度の制限が増えてしまいます。ここに理学療法士が介入できると、入院生活中に過度の活動制限を避ける事が出来るばかりか、退院後の自宅での生活について専門的なアドバイスをする事も出来ます。 最近、腰が痛くて動けないと入院を希望して受診してきた高齢の男性がいます。約3週間にわたって食事・排せつをベッド上で行う寝たきりの生活を送っていたそうです。レントゲンでは骨折はありませんでしたが、家族にも疲れがみられ、出来る限りのサポートをと思い入院して頂く事としました。話を聞くと仮設住宅暮らしで、つかまる所がなくて立つことができなかった、同じく高齢の奥さんとの二人暮らしで、奥さんに支えてもらう訳にもいかなかったとのことです。病院の環境で確認するとつかまり立ちは自立しており、歩行器歩行も可能でした。本人には動くきっかけと環境が必要だったのかもしれません。仮設住宅、そして地域には潜在的なリハビリ難民がいることが示唆されます。 仮設住宅から復興住宅に移る時に足腰が立たなくなっていては意味がありません。地域高齢者のADL維持を図るには明らかに運動器疾患をサポートする医療スタッフが不足していると感じられます。被災地にはこれらの人材も求められています。

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〔CLEAR! ジャーナル四天王(23)〕 STEMIにプライマリPCIが有効、秋の夜長に想うこと

循環器内科医がもっとも達成感を感じる場面はいかなるものであろうか? おそらく多くの医師の答えは次の場面であろう。急性心筋梗塞、それも激しい胸の痛みに苦悶しているSTEMI患者に、緊急冠動脈造影から引き続きプライマリPCIを施行し、無事に再開通療法に成功した場面である。先ほどとは別人のように落ち着いた表情の患者を前にして、深夜に病院に駆けつけた苦労もふっとんでしまう充実感がある。 このたびフランスの医師グループからJAMA誌2012年9月12日号に興味深い報告がなされた。1995~2010年の15年間のSTEMI患者の死亡について調査した結果、全心血管死は減少しており、その要因の一つとして、プライマリPCIの施行頻度が15年間に11.9%から60.8%に増加したことが挙げられるという。 この報告に対する小生の第一印象は、「STEMI患者に60%程度のPCI施行率なんて信じられないほど低い」というものである。日本では、STEMI患者に対しては禁忌がないかぎりは、プライマリPCIが標準的となっており、高齢者を含めても85%以上のSTEMI患者に選択されている。それも、ここ数年ではなく10年以上前からである。これは、日本人のPCI施行医がSTEMI患者の治療においてプライマリPCIによる確実な血行再建の有効性を確信していたからにほかならない。 JAMAという一流誌に日本人から見て当然のように思える内容が掲載される、そのことの持つ意味をいろいろと考えてみた。夜な夜な本論文を読みながら小生が抱いた感想を紹介したい。 このように、本邦で24時間体制で心カテ室を稼働可能な状態に維持し、PCIを独立して施行可能な医師が待機しているという体制を構築することは、医師だけでなく医療関係者すべての献身的な自己犠牲と過重労働のうえに成立している。 そのわれわれが確信するプライマリPCI有効性を、人口ベースの大規模データで証明し、世界標準エビデンスとして牽引する原動力に高めることができなかったことには、忸怩たる悔しさを感じる。日本でPCIに従事する医師は、自己犠牲のヒロイズムに酔うのではなく、プライマリPCIの有効性を明確に情報発信し、それを理解してもらう過程の中で、過重労働に頼らない長期的に維持可能な安定したシステムの構築を社会に訴えるべきであったのかもしれない。 猛々しい夏も終わり物思いに耽ってしまう秋の夜長であった。芋焼酎のグラスを片手に書いた科学的ではないコメントをお許しあれ。

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第6回医療事故に係る調査の仕組み等のあり方に関する検討部会感想文

医療制度研究会中澤 堅次2012年9月21日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。前回までの論点整理と、第三者機関の調査の実務についての討論と、医療安全支援センターの実績に関するヒアリングの三点が予定され議論が行われました。前回までの論点整理の後、弁護士の構成員より、第三者機関の設置するという合意が、ただ一人の構成員により難しいとされ、両論併記になっていることに異論が出されました。ただ一人とは小生のことですが、専門性、個別性の高い医療事故調査は、日ごろ関係のない第三者機関が介入し議論することは難しいという現実論と、公的に設置される第三者機関は初めてのことだからよく議論して慎重にという意味で述べたと説明しました。事務局の論点整理は、方向性が異なるものは両論併記という形で整理されており、この件については見識が高いと感じ感謝しています。以下に今までの論点整理として今回まとめられたものを要約して示します。●第5回までの論点整理1)事故調査を行う目的について原因を究明し再発防止を図り、医療安全と医療の質向上を図る2)調査結果の取り扱いについて匿名性を担保して公表する。<対論あり>個別の案件が多く特定される可能性が高いので匿名性の程度は十分な検討が必要。調査結果の説明は遺族に対して文書を添え口頭で説明する。その際遺族の説明を受けたくないという意向も尊重することが必要。3)調査を行う組織について医療事故が発生した医療機関の職員による院内調査と、公正公平性の確保と院内調査の支援および調査結果の共有を目的とした第三者機関が必要。<対論あり>専門性の高い事柄の調査は専門性の高い医師を動員する必要があるが、医師不足の現状では難しい。4)院内調査と第三者機関による調査の関係について院内調査で原因究明と家族への説明を行う。診療関連死はすべて第三者機関に提出する。<対論あり>調査の妥当性は家族が決めるのだから、第三者機関は家族の申し出により作動するようにするべき。第三者機関には院内調査の結果を精査する役割を設ける。医療機関が独力で調査を行えない場合は地域の病院が支援する。第三者機関の調査依頼は家族、医療機関双方の依頼をうけいれる。医療機関からの依頼には家族の承諾を得る必要がある。診療関連死は全例第三者機関に届け出て、第三者機関が調査の仕方つまり、院内か、第三者機関との共同か、第三者機関単独かを決める。<対論あり>全例届け出は線引きが難しく、全例に過誤を疑う構造になるので、院内調査に納得しない場合に家族が第三者機関に届け出るようにすることが必要。5)第三者機関の基本的な性格について第三者機関は公的機関でなければ刑事司法との調整は難しい。<対論あり>医療行為の良し悪しの判断を行い、処分及び訴訟に利用できる判断をする性格は第三者機関に持たせるべきではない。第三者機関には独立性、中立性、透明性、公正性、高度な専門性が必要で、なおかつ地域差の無いものである必要がある。6)第三者機関の調査権限について改善や、真実の解明のため、現場への立ち入り調査、ヒアリングの権限が必要。患者側からの要請で行うのであればカルテの提出を拒否できないから権限を付与する必要はない。具体的には、届け出を受ける。院内か、第三者と院内の共同か、第三者機関単独か調査のしかたについて道筋をつける権限、第三者機関単独の場合は資料提供を拒否されない権限、情報提供を行う権限。<対論あり>調査の結果が他の処分や訴訟に使われるのであれば、医療機関側に調査を拒否する権利を保障するべき。●討論:第三者機関における調査の実務について第三者機関が行ってきた調査の実務について、モデル事業を推進してきた山口(徹)構成員から内容が示され、十分機能したという意見が出されました。院内調査の内容も十分に検討して結論を出したので、かけ離れたものになることはなく妥当な結論が出ているということでした。里見構成員からは、院内事故調と第三者機関の関係についての認識が示され、合意はできているとの見解でした。事故調査は第三者機関で十分行えるが、それを全てに行うのは大変なので、最初は院内事故調査委員会を開き、ある種の結論が出て、双方が納得し、十分に原因が究明されているならよしとして、その中で議論が十分に詰まっていないと判断された場合は、第三者機関に調査を依頼する二階建て構造にすることが決まっていると理解している。あとは院内事故調査委員会が開けないところに補助の仕組みを作る。そのときの第三者の権限をどうするか議論すればよいという見解でした。医療者側の解釈ですが、基本はこのようになるようです。この後解剖の必要性が議論となり、専門医が不足し労力がかかる割には原因分析に資する知見は少ないという意見を出しましたが、医療機関代表などの構成員は、原因究明にも、ネガティブデータを得る上でも解剖は重要だと考えており、病理医が絶滅危惧種という事態も容認したうえで、解剖が出来るように体制整備を行うという意見が多数を占めました。現実に不可能なことを理想論と区別せずに議論するのは日本の一般的な特徴ですが、解剖を条件とするのはハードルが高くよくないという意見もあり後の議論になると思います。●ヒアリング:医療安全支援センターの業務について医療安全支援センターは、平成19年の医療法改訂で、各県や保健所が設置されている都市などに配備が義務化された、患者の苦情に対応する公的な機関です。今回はその実績報告でした。苦情を受け付けた統計、各地方のセンターの教育研修、医療機関への照会などが業務ですが、職員が転任で変わるなどのむずかしさも報告されていました。事例に即して医療機関に問い合わせをすることは行っておらず、アメリカの患者の権利擁護事務所のような明確なミッションがあるとは思いませんでした。次回の検討課題に、医療安全支援センターと事故調の議論が予定されているので、第三者機関に届け出る受け皿のような役割が想定され、大学病院の集まりや、救急学会などもそのつもりのようです。院内調査をまず行うことについては改善とも言えますが、第三者機関を通じて上からの関与で医療安全を図ろうとする、もっとも効果のない硬直した方法論を基本にしていることは変わっていないという疑念を今回の議論からは感じます。次回は9月28日(金)に行われます。

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君も医師として「国際協力師」にならないか?

「医師のキャリアパスを考える医学生の会」主催(代表:秋葉春菜氏〔東京女子医科大学医学部4年〕)の第17回勉強会が、2012年8月19日(日)、東京医科歯科大学・湯島キャンパスにおいて開催された。当日は夏休みの期間中にも関わらず医学生、社会人を中心に約40名超が参加した。今回は医師でNPO法人宇宙船地球号代表の山本敏晴氏を講師に迎え、「海外で、国境を越えて活躍している医療関係者達~宇宙船地球号にご搭乗中の皆様へ~」と題し、講演を行った。国際協力を俯瞰するはじめに山本氏の自己紹介のあと、「国際協力とは何か」と題して、現在の国際協力の種類や体制、これからの展開についてレクチャーが行われた。最も強調されていた内容は、『国際協力』は、無給のボランティアとして行うだけではなく、有給の仕事として行う方法もある、ということだった。その就職場所となる組織は、大きく分けて4つある。〔1〕国際機関(国連(WHO、ユニセフ等)など)、〔2〕政府機関(外務省の国際協力機構(JICA)など)、〔3〕民間のNGO(非政府組織)、〔4〕民間の企業(開発コンサルタント会社など)。以上の、いずれの組織でも、医師などが雇用され、有給の仕事として国際協力を行っている人が多数いるという。〔1〕の国連職員等の場合、アメリカの国家公務員に準じた給与が支払われ、勤務年数と昇進に伴い増額されていく。〔2〕の日本のJICA専門家などの場合、日本の一般的な勤務医と同等か、それ以上の給与が支払われる。〔3〕のNGOの場合、薄給または無給である。例えば、山本氏がかつて所属した「国境なき医師団」の場合は、2012年現在、毎月約13万円程度が支払われる。〔4〕は日本政府の外務省から国際協力事業を受注する「会社」で、医療・公衆衛生分野の事業を実施する場合もある。その場合、医師なども雇用される。〔1〕国連職員等と〔2〕JICA専門家等の場合、国家公務員と同等以上の待遇で途上国等へ派遣されるので、待遇(給与、年金、保険など)は国内並みに安定する。また、国際協力と聞くと、途上国の田舎で、電気も水道もない生活を送ると思っている人が多いが、そのようなことはなく、(〔1〕と〔2〕の場合は)派遣国の首都にいくことが多く、そこにある高級ホテル等に泊まることが多い。業務は派遣先の国の(医療・公衆衛生に関わる)政策立案(及びその政策の実施補助)などが主体であるなどと述べた。一方で、〔3〕のNGOでのボランティアの場合、収入は低いため、仮にそれに参加したとしても、自分や家族の生活費を捻出できないため、持続的な活動を行うことはできず、半年から2年程度で止めてしまう人が多い。このため、継続的に国際協力を行っている人の8割以上は、〔1〕、〔2〕、〔4〕のいずれかの方法で、有給のプロとして国際協力を行っているという。ただし、〔1〕、〔2〕、〔4〕では途上国の保健省(日本の厚生労働省に相当)への政策提言・アドバイスが、主な仕事となるため、医師が自分で患者の診察や治療をすることは、ほぼない。このため、「自分で直接、患者さんを診療するタイプの国際協力」を行いたい場合、お金にはならないが、〔3〕のNGOのボランティアとして行うしかない。中庸案としては、日本赤十字社が日本各地で運営する病院で、普段は勤務をしておき、自然災害が途上国で起きた際に、それに対する(日赤からの)緊急援助として(短期間の間だけ)出動する、という方法もある。いずれにしても、「『なんらかの形で持続的に国際協力に従事している人々』のことを、山本氏は『国際協力師』と呼び、数年前から、その概念を普及しているのだ」と語った。シエラレオネの現実次に「世界で一番いのちが短い国 シエラレオネ」の説明が行われた。銀座・新宿等で多数の写真展を開催している山本氏が、自ら撮影した写真を示しつつ、現地の内戦の様子や「なぜ平均寿命が短いのか?」が語られた。だがまず、山本氏は、同国の「素晴らしさ」について、触れだした。意外なことに、「持続可能な社会」という意味では、日本の方が「途上国」で、シエラレオネの方が「先進国」だと言う。同国の田舎では、日本の江戸時代のような生活をしており、電気などはない。このため、高度な医療はできない。よって、悪く言えば、近代文明から遅れていると言えるが、よく言えば、「(将来枯渇してしまう石油などのエネルギーに依存しないため)持続可能な生活を、ずっと営んでいるのだ」と言う。このためむしろ、「同国に国際協力をしてあげる」というよりも、「日本人が(江戸時代までは行っていたのに)忘れてしまった「持続可能な社会」(未来まで、ずっと続けていける(医療も含めた)生活のスタイル)を思い出させてくれる国であった」と山本氏は言う。次に、山本氏は、シエラレオネが、ボロボロになっていった経緯を説明した。シエラレオネでは、ダイヤモンドが採れる。これを狙って、欧米の営利企業が、その採掘を巡り同国で紛争を起こした。内戦だけでなく、隣国リベリアからの軍事侵攻も発生し、人々の生活は崩壊していった。多くの医療施設が破壊され、多くの医師や看護師が、国外に逃亡してしまった。その結果、乳児死亡率も、5歳までに子どもが死んでしまう割合(5歳未満子ども死亡率)も、ともに「世界最悪」という国になってしまった(2000年頃)。また、5歳まで生き残った子どもたちも、争う軍事組織らのいずれかに「子ども兵」として雇われ、麻薬漬けにされたまま、「戦争の道具」(生きた兵器)として戦場に連れていかれる。こうして、平均寿命34歳(2002年ユニセフの統計で世界最低)という国ができあがってしまった。こうした現状に対し、山本氏は、自らが現地で医療活動を行うだけでなく、自分が日本に帰ってしまった後も、未来永劫、シエラレオネで続けていけるような「医療システム」の構築を目指した。現地で医療機関(病院と診療所、さらにその連携制度など)を創設し、そこで働く医療従事者の人材育成を行った。そして、これからこうした国々へ支援にいこうという聴講者へ「現地の言葉を覚えること」、「現地の文化と伝統医療を尊重すること」、「西洋医学や日本の医療の手法を、一方的に押し付けないこと」など、体験者ならではのアドバイスを送った。アフガニスタンの現実続いてアフガニスタンに赴任した時の話題となり、同地では、(患者を診る医師としてではなく)プロジェクト・リーダー(コーディネーター)として、同国北部領域における母子保健のシステム構築に従事していたことを語った。同国では現在も(政府とタリバーン等の軍閥間での)紛争が続いており、「世界で一番、妊産婦死亡率が高い」ことと、その理由などが述べられた。国際協力師として世界に関わらないか最後に再び、国際協力を行っていく形として、民間NGOの無給のボランティアとして途上国に派遣されるだけでなく、有給のプロとして、例えば、JICAなどの専門家として赴任する選択肢もあることを強調した。また、今後国際協力を行っていこうという聴講生に向けて、(最も医療が遅れているとされる)アフリカ諸国で国際協力をやりたいのであれば、フランス語を習得した方がいいという助言をした。アフリカ諸国は、昔、フランスの植民地だった国が多いためである。さらに、(途上国の病院等の見学ツアーである)「スタディーツアー」や「ワークキャンプ」を一度は体験してみるのもよいと勧めた。その他、公衆衛生分野(予防、水と衛生など)であれば、医師でなくとも参加できるので医師以外の方でも大学院で「公衆衛生学修士」をとって、参加して欲しいと述べた。それに関連して、「世界を見て思ったことは、予防医学こそが究極の医療ではないかと思う」と述べ講演を終えた。質疑応答次のような質問が、山本氏に寄せられ、一つ一つに丁寧に回答されていた。――援助や支援の在り方について国際協力には、(1)地震などの自然災害の直後や、紛争地帯の中に入っていく「緊急援助」と、(2)それらが落ち着き、途上国の政府や地方自治体が、ある程度、正常に機能している時に行う、「開発援助」がある。(1)と(2)では、まったく違うことをする。(1)は、直接的な(狭義の)医療を行うことが多いが、(2)では、途上国政府への政策提言など、医療システムや公衆衛生の構築(広義の医療)をすることが多い。貧しい途上国への開発援助は、昔は、(マラリアや肺炎などに対する)感染症対策と母子保健(乳児死亡率の改善、妊産婦死亡率の改善など)の改善を目的としていた。ところが、(国連が定めたミレニアム開発目標の終わる)2015年以降、WHOは、大きく方針を変える予定だ。今後は、途上国でも、糖尿病、高血圧などの生活習慣病(いわゆる成人病)が増える傾向にあるため、それらに対する対策(治療と予防)が、主流になる可能性が高い。ちなみに、国際協力の世界では、そうした疾患のことを、「非感染性疾患(NCD)」と言う。――現在の山本氏の活動について現在は、直接的な国際協力(狭い意味での国際協力)からは離れ、『国際協力師』を増やすことを主な活動としている。運営しているNPOの活動は3つある。(1)『国際協力師』を直接的に増やすために、本を執筆したり、啓発するためのさまざまなサイト(ホームページ、ブログ、ツイッター等)を制作している。(2)『お絵描きイベント』という、ちょっと変わった活動もしている。世界中の人々に「あなたの大切なものは何ですか?」と質問をし、その絵を描いてもらい、そこから導き出される、その国の『社会背景に眠っている問題点』を洗い出し、各国の問題をわかりやすく説明し、さらにそれに対し各組織が行っている国際協力活動を紹介する事業を行っている。世界の約70ヵ国・地域で実施した。書籍版が4冊(小学館等から)出版されており、またウェブサイトとしても公開している。(3)一般の企業に対して、「企業の社会的責任(CSR)」のランキングを付けている。利益を追求するだけでなく、環境への配慮を行い、社会貢献も実施するような企業を増やしていくためだ。2年に一度、ウェブサイト上で公開している。同様に、「病院の社会的責任(HSR)」に関するランキングも、現在、検討中である。要するに、すべての組織に、「持続可能性」への配慮を行うように啓発をしている。――国連のミレニアム開発目標(MDGs)2015の評価と意義についてMDGsは大体達成できていると思うが、数字的には、妊産婦死亡率の低下と乳児死亡率の低下が達成できていない。これはこれからの課題だと思う。ただ、この目標を定めたことで先進国が巨額のお金を出資し、資金ができ、一定の効果はあったので評価できると思う。――海外の地域医療で役立ったこと、また逆に日本に持ち込んで役立ったことは?アフリカの田舎では、医師がいないか、足りない。このため、看護師(または、普通の村人で、ある程度の研修を受けた人)が、病気を診断したり治療したりしている。看護師や村人では判断できない、難しい症例の場合は、携帯電話のSMS(ショート・メッセージ・サービス)を使って、首都などにいる医師に連絡をする。こうしたことは、途上国で当たり前のように行われている。日本では、医師法があるため、「医師でなければ診断や治療をしてはいけない」ことになっているが、日本の無医村や離島も、アフリカの田舎に近い場合がある。よって、アフリカの真似をして、日本でも、IT機器(携帯電話やパソコン等)を使って、遠隔地医療を「医師でない人が行って、どうしても医師が必要な場合は、医師がIT技術でアドバイスを送る」ということも考えられる。日本では、毎年、医療費が増加しており、国の借金も膨らんでいる。今後、さらに高齢化社会になるため、毎年1兆円ずつ、国の社会保障費(医療・公衆衛生・年金など)が増えていくことがわかっている。その理由の一つが、医者の人件費が高いことである。一般の日本人の平均年収は430万円だが、医師のそれは1,500万円をはるかに超える。このような「高い」人件費を使わずに、今後の日本の医療を実施していく必要がある。「お金をかけないで行う」、あるいは「費用対効果」を考えるということも、これからの医師には必要だ。2000年から導入された介護保険制度は、まさにこれである。高齢化社会を迎え、また国の財政が破綻しかかっている中、医療従事者であっても、「患者さんにその時点で最高の医療を(予算などまったく気にせず)提供する」ことだけを考えるのではなく、なるべく、お金をかけず、環境にも優しく(電気をあまり消費せず、ゴミをあまり出さないように配慮して)医療システムが未来まで続けていけるように配慮することが必要である。最後にスタッフの伊藤大樹氏(東京医科歯科大学医学部4年)が「国際協力の貴重なお話を有難うございました。これからも充実した勉強会を開催していきますのでよろしくお願いします。また、会では協力いただけるスタッフを募集しています。気軽に参加ください」と閉会挨拶をのべ、3時間にわたる勉強会を終了した。■講演者略歴■関連リンクNPO法人「宇宙船地球号」山本敏晴ブログ* * * * * *医師のキャリアパスを考える医学生の会

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『ボストン便り』(第41回)「世界の主流としての当事者参画」

星槎大学共生科学部教授ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー細田 満和子(ほそだ みわこ)2012年8月31日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。紹介:ボストンはアメリカ東北部マサチューセッツ州の州都で、建国の地としての伝統を感じさせるとともに、革新的でラディカルな側面を持ち合わせている独特な街です。また、近郊も含めると単科・総合大学が100校くらいあり、世界中から研究者が集まってきています。そんなボストンから、保健医療や生活に関する話題をお届けします。(ブログはこちら→http://blog.goo.ne.jp/miwakohosoda/)*「ボストン便り」が本になりました。タイトルは『パブリックヘルス 市民が変える医療社会―アメリカ医療改革の現場から』(明石書店)。再構成し、大幅に加筆修正しましたので、ぜひお読み頂ければと思います。●マサチューセッツ慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎と繊維筋痛症(CFIDS/ME and FM)の会「この夏、ME/CFSの研究は大きく前進するための舵を切った」と、半年ぶりに再会したナンシーは、いつものように低いトーンの落ち着いた声で静かに言いました。彼女は、「マサチューセッツ CFIDS/ME and FMの会」の理事の一人です。この病気に30年以上も罹っていて、病気についての専門知識は深く、医学研究の進捗状況や医師たちの動向、さらにアメリカ内外の他の患者団体の動きにも精通しています。ナンシーは患者のための地域活動もしていて、地区患者会の例会の場所をとったり、会員に連絡したりしています。例会当日の会場設営もしていて、会員に和やかな楽しい時間を過ごしてもらおうと、スーツケース2つにお茶やお菓子を準備し、季節にちなんだ飾りつけもします。私が同行させて頂いた2月のバレンタインの月の例会は、ピンクと赤がテーマで、テーブルクロスは赤、紙皿や紙コップやナプキンはハートの模様で、ハート形の置物も用意されていました。ナンシーから手渡された、最近のアメリカ政府のME/CFS対策についての書類には、次のようなことが書かれていました。2012年6月13日と14日に、HHS(The Health and Human Services)は、慢性疲労症候群諮問委員会(The Chronic Fatigue Syndrome Advisory Committee: CFSAC)を開催しました。委員には10人のメンバーが選ばれましたが、臨床の専門家、FDA(食品医薬品局)代表を含む7人の元HHSメンバーのほかに、患者アドボケイトもメンバーとして入りました。そして、3時間にわたる公聴会が行われました。その他にも7つの患者団体の代表が報告をする機会が設けられました。さらに、このCFSACとは別に、HHSは所属を越えて協働できるために慢性疲労症候群の特別作業班(Ad Hoc Working Group on CFS)も結成しました。そこには、CDC(疾病予防管理センター)、NIH(国立健康研究所)、FDA(食品医薬品局)など各部局の代表も含まれています。こうした委員会や作業班が作られた背景には、オバマ大統領の意向があるといいます。インディアナ・ガジェットというオンライン新聞によると、ネバダ州のリノに住むME/CFS患者の妻は、2011年5月にオバマ大統領に、ME/CFS患者の救済、特にこの病因も分からず治療法もない病気の解明の為に、研究予算を付けて助けて欲しいという手紙を出しました。これに対してオバマ氏は、NIHを中心に研究を進めるための努力をすると回答しました。また、オバマ氏は、偏見を呼ぶCFSという病名にも配慮を示し、MEと併記したとのことでした。新聞記事は「これでオバマは新しい友人を何人か作った」と結ばれています。全米で約100万人いると推計されているこの病気の患者が味方になるなら、目前に大統領選を控えたオバマ氏にとって政治的に大きな力になることでしょう。●スウェーデンにおける自閉症とアスペルガーの会スウェーデンのストックホルム県に住むブルシッタとシュレジンは、ふたりとも「自閉症とアスペルガーの会」の有給職員です。ブルシッタには33歳になる自閉症の息子さんがいて、シュレジンには20歳になる自閉症と発達障害の息子さんがいます。8月に発達障害児・者への施策や医療を視察するためにスウェーデンを訪れたのですが、その際にこの二人にお会いしました。「自閉症とアスペルガーの会」は、患者も患者家族も、医療提供者も社会サービス提供者も学校関係者も、関心がある人がすべて入れる会です。親が中心になって1975年に設立され、ストックホルム県内では会員が3,000人います。全国組織もあって、こちらは会員が12,000人います。活動としては、メンバーのサポートをしたり、子どもたちの合宿を企画したりしています。ホームページがあり、機関誌も出しています。ブルシッタによれば現在の会の中心的な活動は、政治的な動きだといいます。確かに会の活動が様々な施策を実現してきたことは、色々なところで実感しました。今回、ストックホルム県内の、様々な制度を見聞したり施設(発達障害センター)を訪れたりしました。その際に、こうした制度や施設をコミューン(地方自治体)に作らせるように働きかけてきたのは、「自閉症とアスペルガーの会」のような親たちや専門職が加入している自閉症や発達障害の患者会だったということを、何人もの施設の長の方々から聞きました。さらには、自閉症に対する大学の研究にも、こうした患者会は大きな役割を果たしています。カロリンスカ研究所に付属する子ども病院における自閉症研究グループであるKIND(発達障害能力センター)は、企業やEU科学評議会などからの資金援助を受けていますが、その時大きな後押しになったのが、「自閉症とアスペルガーの会」だったといいます。KINDのディレクターのスティーブン・ボルト氏は、会からの大きな支えを強調していました。スウェーデンでは1980年代にハビリテーションのシステムが作られ、生きてゆくうえで支援が必要な人々に対する支援が整えられてきましたが、十分とは言えないままでした。それが1994年に施行されたLLS(特別援護法)によって、支援の制度は大きく前進しました。この法律の制定にも、患者団体などの利益団体の働き掛けが大きな後押しになったそうです。2004年にスタートした自閉症のハビリテーションセンターや、2007年にスタートしたADHD(注意欠陥・多動性障害)センターでも、責任者の方は口々に、患者会が政治家に働きかけることでセンターが誕生したと言っていました。そして、このような支援を受けることは、ニーズのある人々の権利なのだと繰り返していました。●各国での患者会の現状スウェーデンに先立って訪れたアルゼンチンで開かれた国際社会学会でも、各国で患者会が医療政策決定において重要な役割を担っていることが報告されました。私が発表した医療社会学のセッションでは、イギリスからは「当事者会・患者会とイングランドのNHS(National Health Service:筆者挿入)の変化」、イタリアからは「トスカーナ地方における健康保健サービスの向上と社会運動の役割」と題される研究成果が紹介されました。それぞれ、地域におけるヘルスケア改革に、当事者団体や患者団体のアドボカシー活動が大きな役割を果たしたことに関する実証研究でした。最後に私の発表の番となり、「日米における患者と市民の参加」と題した、日本とアメリカの合わせて7つの患者会に対する、アンケート調査とインタビュー調査の結果を報告しました。この調査は、2010年から2011年にかけて行われたもので、患者会の意味と役割について、メンバーに意識を尋ねたものです。アンケートに対しては、日本では132票、アメリカでは109票の有効回答が寄せられ、インタビューの方では23人の方が対象者になってくださいました。患者会は、脳障害、脳卒中、筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群、ポストポリオ症候群、卵巣がんなどでした。当初は、アメリカの患者会の方が日本よりも、政治的問題に発言してゆくアドボカシー活動への関心が高く、実際に活動も行っているという仮説を立てましたが、どちらの国も同程度に関心が高く、活動をしているという結果が認められました。ただし日米とも、患者会がアドボカシー活動を積極的に行うようになってきたのは、ここ10年から20年のことだといいます。それまでは、患者や親たちは問題を個人で抱え込むしかなかったといいます。患者や親たちは、病気による身体的あるいは生活上の苦しさを理解されず、ましてや支援など受けることもできませんでした。そして逆に、病気のことをよく知らない一般の人や医療者から、非難するような言葉や態度を浴びせられてきたといいます。30年以上も筋痛性脳脊髄炎の患者であったナンシーの言葉を借りれば、「社会からは理解されず、医療者から虐待されてきた」というのです。それは発達障害を持つ子や親も同様でした。スウェーデンでも80年代くらいまでは、ADHDや自閉症を持つこども達は、さまざまな失敗をしては親や教師から叱られ、親の方も育て方が悪いと周囲から非難されてきたといいます。●日本の患者会昨年9月に、東京で開催されたランセットの医療構造改革に関するシンポジウムでは、タイからの登壇者に「日本では患者会との協働はどのようになっているのですか」と聞かれ、「患者会は、自分たちの半径5メートルしか見ていない」ので意見を聞いても仕方ないというようなことを権威ある立場の日本人医師が答え、椅子から転げ落ちるほどびっくりしました。ランセットの会議に招待されるような方が、そのようなことを国際社会の場で発言するとは、日本の医師をはじめとする医療界の認識の浅さや遅れではないか忸怩たる思いがしたものです。このことは、以前にMRICにも書きましたが、この状況は今後変わってゆくでしょうか。日本でも、いくつかの患者会はアドボカシー活動をしています。例えばNPO法人筋痛性脳脊髄炎の会(通称、ME/CFSの会)は、偏見に満ちた病名を変更させるために患者会の名前を変えました。そして、この病気の研究を推進してもらいように、厚労副大臣や元厚労大臣を始め、何人もの国会議員や厚労省職員に面会し、研究の重要性と必要性を訴えかけました。さらに、ME/CFS患者が適切な社会サービスを受けられるようにするため、いくつもの地方自治体の長や議会に要望書を提出し、複数において採択されてきています。さらにME/CFSの会は、この病気の世界的権威ハーバード大学医学校教授のアンソニー・コマロフ氏に、会が11月4日に開催するシンポジウムに向けてのメッセージも頂きました。ME/CFSは、未だに日本では医療者からも家族からも想像上の病気や精神的なものと誤解され、患者が苦しんでいることをご存知のコマロフ氏は、この病気が器質的なものであることを繰り返し、日本でも研究が進められるように呼びかけました。実際に研究が進んだり、社会サービスが受けられるようになったりといった具体的な成果はなかなか上がって来ていませんが、この様に患者会は、様々な活動を行い、続けていればいつか実現すると信じて続けられています。●当事者参画の可能性アルゼンチンの国際社会学会で同じセッションに参加していらしたシドニー大学教授のステファニー・ショート氏は、「私たち社会学者は、特に私の世代は、マルクス主義の影響が大きかったから、体制批判とか、社会運動とか、っていう視点で見ちゃうのよね。でも、今は時代が変わったわね」、とおっしゃっていました。彼女はまた、私の行った日米調査の調査票を使って、今度はオーストラリアでやろうという共同研究の話を持ちかけてくれました。もちろんぜひ調査を実施してみたいと思っています。次の国際社会学会の大会は横浜で開催されます。ちょうど私の所属する星槎大学も横浜に事務局がありますので、医療社会学の面々のパーティ係を任命されました。会場探しもしますが、その時までに、日本の行政や医療専門職が患者会の役割を重視し、患者のための医療体制ができてきたという報告をこの学会で発表できるようになればいいと思いました。謝辞:スウェーデンの患者会は、セイコーメディカルブレーンの主催する研修で知り合いました。研修を企画して下さった同社会長の平田二郎氏、研修参加を推奨し財政的支援をして下さった星槎グループ会長の宮澤保夫氏に感謝いたします。また、日米患者会調査の実施に当たって、資金の一部を助成して下さった安倍フェローシップ(Social Science Research Councilと日本文化交流基金)に感謝の意を表します。<参考資料>インディアナ・ガジェット オバマ、CFSについて応えるhttp://www.indianagazette.com/b_opinions/article_75b181eb-bd88-5fe4-bc90-f7b09f869ffd.html略歴:細田満和子(ほそだ みわこ)星槎大学教授。ハーバード公衆衛生大学院リサーチ・フェロー。博士(社会学)。1992年東京大学文学部社会学科卒業。同大学大学院修士・博士課程の後、02年から05年まで日本学術振興会特別研究員。コロンビア大学公衆衛生校アソシエイトを経て、ハーバード公衆衛生大学院フェローとなり、2012年10月より星槎大学客員研究員となり現職。主著に『「チーム医療」の理念と現実』(日本看護協会出版会)、『脳卒中を生きる意味―病いと障害の社会学』(青海社)、『パブリックヘルス市民が変える医療社会』(明石書店)。現在の関心は医療ガバナンス、日米の患者会のアドボカシー活動。

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「身体のために禁煙しましょう」、さて先生ご自身は?医師の喫煙率2012

分煙化、禁煙エリアの拡大と、社会全体として嫌煙モードが高まる一方の昨今。もちろん院内も例外ではなく、全館禁煙という施設も増加している様子。2011年の「全国たばこ喫煙者率調査」(JT実施)によると、日本全体では21.1%。2010年10月の値上げの影響を受けて大幅に下がった2011年調査と比較すると、減少率は鈍化しているようです。そんな中、患者さんに禁煙を勧める立場にある先生方の喫煙率はどうなのか?ケアネットで2011年9月に実施したアンケートでは8.6%。さて約1年後の今回の結果はいかに?「医師の喫煙率2012」、前回と比較しながらご覧下さい。また、疾患リスクとの関係から少しずつ高まりつつある「喫煙者は医療の負担額を上げるべき」という考え方についても賛否をうかがってみました!結果概要はこちらコメントはこちら設問詳細タバコについてお尋ねします。JTが2012年5月に実施した「全国たばこ喫煙者率調査」によると、現在の全国の喫煙者率は21.1%でした。うち男性は32.7%(前年比-1.0ポイント)、女性は10.4%(同-0.2ポイント)と、男女とも漸減傾向にあります。なお対前年比で見ると、昨年調査時は2010年10月の値上げの影響を受け全体で2.8ポイント下がりましたが、今年度調査では0.6ポイントの減少に留まりました。そこで先生にお尋ねします。Q1. 先生は喫煙されていますか。喫煙している以前喫煙していた喫煙したことがないQ2. 「喫煙は医療費増につながっているため、喫煙者は保険料や医療費などの負担額を上げるべき」という考え方がありますが、いかがお考えですか。賛成反対どちらともいえないQ3. コメントをお願いします(ご自身の喫煙に関して、禁煙された方はそのきっかけ、院内の喫煙環境、禁煙外来を含め患者・家族からの要望や状況など、タバコに関わることでしたら何でも結構です)アンケート結果Q1. 先生は喫煙されていますか。Q2. 「喫煙は医療費増につながっているため、喫煙者は保険料や医療費などの負担額を上げるべき」という考え方がありますが、いかがお考えですか。2012年8月17日(金)実施有効回答数:1,000件調査対象:CareNet.com医師会員結果概要医師の喫煙率は7.1%、国民全体での変化に比較し高い減少率調査対象者の喫煙率は7.1%、2011年9月に実施した同調査では8.6%であり、1.5ポイントの減少となった。国民全体では2012年21.1%(前年比-0.6ポイント)、2011年21.7%(同-2.8ポイント)と減少率の鈍化が見られる一方(JT実施「全国たばこ喫煙者率調査」より)、医師の喫煙者は着実に減りつつあることが見て取れる。なお「喫煙したことがない」医師は、前回と変わらず56.7%という結果となった。「喫煙者は医療の負担額を上げるべき」 、考え方には約6割が賛成"喫煙は医療費増につながるため、喫煙者は保険料や医療費などの負担額を上げるべき"という考え方に対する賛否を尋ねたところ、賛成58.1%、反対15.5%となった。賛成医師からは「なぜ非喫煙者が喫煙による疾患の医療費も負担しなければならないのか」「疾患リスクが上昇することは証明されているため、応分の負担を求めるべき」といった意見が多く寄せられた。反対派からは、「飲酒・肥満・塩分過多など他の生活習慣や嗜好品の扱いはどうするのか」「喫煙者確認が困難」などのコメントが寄せられた。禁煙のきっかけ「患者からの視線」「子供のため」「院内の禁煙拡大」など様々以前吸っていたが禁煙に成功した医師は全体の36.2%。きっかけとしては、「自身が禁煙を勧める側にあるため」「COPDの患者を見て」など立場上の理由のほか、「子供ができたこと」「院内が完全禁煙となり、喫煙のたびに外出しては仕事にならない」など環境の変化によるものも多く挙がった。CareNet.comの会員医師に尋ねてみたいテーマを募集中です。採用させて頂いた方へは300ポイント進呈!応募はこちらコメント抜粋 (一部割愛、簡略化しておりますことをご了承下さい)「結婚を機に禁煙しました。家族への影響を考えると喫煙を続けるという選択肢はなく、喫煙歴は10年でしたが、あっさり禁煙できました。 今では嫌煙家で海外のように禁煙者をもっと守るような環境に日本も早くなってほしいと切に願っています。」(30代,男性,耳鼻咽喉科)「もともと喫煙していないが、医療費の増大につながっていることは明らかで、喫煙者に応分の負担を求めるべき。」(50代,男性,消化器科)「自動車保険のようにリスク細分化するのも手かと思う。不健康な人の負担を上げるよりも、健康な人にメリットが出る制度が望まれる。」(30代,男性,呼吸器科)「禁煙のきっかけは子供が生まれたことでした。 精神科病院なので病棟の全面禁煙はできておりません。」(40代,男性,精神・神経科)「禁煙に一番影響を与えるのは周囲の環境変化だと思う。実際自分の場合も結婚や子供の誕生がきっかけであった。そういうきっかけを利用すると不思議と難なく禁煙できるのではないか?」(40代,男性,内科)「職員の反対があり、禁煙外来が開設できていません。抵抗勢力が身内に多いです。」(30代,男性,神経内科)「体に何もいいことがないのに、いつまでも販売して続ける国の考えがさっぱりわからない」(30代,男性,外科)「喫煙をするのであればそのリスクとコストをかぶる覚悟が必要な時代なのでしょうね」(30代,男性,産業医)「勤務時間に喫煙している医師を見かけるが1回10分としても6回で1日1時間となり、非喫煙者に比べ労働時間も少なくなっている。喫煙者については保険料、医療費、たばこ税の増額は当然のこと。」(40代,男性,血液内科)「喫煙は嗜好の問題なので、他人に迷惑をかけない限りは許容されるべきと考えます。医療費増につながっているのは喫煙の他にも過食やアルコール多飲などもあるわけですから、喫煙者のみ負担額を上げるというのはおかしな話です。わたし自身は運動を始めたため、必然的に禁煙に至りました。喫煙していると運動が苦しかったからです。」(50代,男性,外科)「自分では喫煙歴はありません。あそびで1回ふかしたことがある程度。 個人的には喫煙には非常に冷たい気持ちですが、喫煙したい人が喫煙する場所が全くなってしまっているのはちょっとかわいそうに思うと気もあります。私に迷惑がかからないところで勝手に吸うことまで制限して欲しいとは思いません。」(40代,男性,耳鼻咽喉科)「患者によくないという以上、医者が喫煙していたらまったく信頼が得られない。」(40代,男性,外科)「喫煙が健康に悪いことはわかっていても医師が喫煙しているケースは多い。現在病院敷地内は禁煙だが、入り口の外に出て並んで吸っている人を多数見かけ、非常に印象が悪いと常々思っている。」(40代,男性,基礎医学系)「喫煙は百害あって一利無しなのは一目瞭然のため、とにかく全国民を強制的に禁煙させるように強く働きかけるべきである」(30代,男性,循環器科)「たばこ1箱1,000円に」(40代,男性,小児科)「自分だけへの影響であれば自己責任だが、間接喫煙として周囲へ悪影響を及ぼすため、売られていること自体間違い。」(30代,男性,総合診療科)「マナーの悪い喫煙者はどこにでもいます。喫煙は百害あって一利なし、健康にも、環境にも、有害です。喫煙自体を法律で禁じてもらいたいくらいです。」(30代,女性,形成外科)「禁煙した人にメリットがあるよう示してあげることも大切である。」(50代,男性,循環器科)「本人以外にも多大な影響を与える以上、一定の制限は止むを得ないと思います。本人の喫煙する権利とのバランス考量は必要と思いますが、原則として新規に習慣喫煙者が登場しない方向へ政策的に誘導すべきだと考えます。」(40代,男性,呼吸器科)「自分自身は喫煙しないから喫煙者がどう扱われても影響ないが,何でも厳しくしようという風潮はいずれ自分の身にも及ぶと予想されるので,一種の防波堤として喫煙者にそう厳しく当たるな,と思っている,」(50代,男性,皮膚科)「婚約時期に禁煙し、その後1度も喫煙したことがない。健康のためだけの禁煙は難しいのでは。家族などの大切なひとのための禁煙であれば、うまくいく可能性が高いと思う。」(50代,男性,泌尿器科)「全面禁煙に賛成です、ある意味、周りの人に迷惑がかかると考えると麻薬より悪いかも」(40代,男性,循環器科)「中途半端な値上げではなく、海外並に価格をあげるべき」(40代,男性,小児科)「今は禁煙の場所が増えたので、自分の家以外で吸おうと思うと、院外や学外へ行かなければならず、そうなると仕事にならないので、医者の喫煙者も本当に少なくなったと思います。」(30代,女性,神経内科)「30年前医局で禁煙の風が吹き、外来の机から突然灰皿がなくなったことをきっかけにやめました。」(60代,男性,内科)「喫煙者はリスクが高いので当然。また、禁煙治療が保険で行われるのもどうかと思う。タバコを吸わない人がなぜ喫煙者の禁煙にともなう治療費を払わないといけないのか」(50代,男性,呼吸器科)「30年前になりますが、病院の勤めが昼夜問わずで忙しすぎて、このままでは、恐らく健康を害してしまうと判断し、禁煙をしました。以後は全く吸っていません。喫煙する人の気持ちもわかりますし、喫煙したことのない人の気持ちもわかります。ただ、今の風潮ではやはり喫煙環境が悪くなるのは致し方ないことかと思います。」(60代,男性,小児科)「COPDの患者さんから「先生、俺みたいになりたくないなら、タバコはやめたほうがいいよ」と言われたのがきっかけで、ニコチンパッチやガムを使ってやめました。」(40代,男性,麻酔科)「受動喫煙による疾病リスクの増加の問題も有り,この厳しい財政状況の中では,喫煙者に多くの財政負担を求めるのは必然の流れ.」(40代,男性,内科)「喫煙は明らかに癌やCOPD、心血管疾患のリスク上げることが証明されているので、自己負担を上げ、責任を取らせるべき。非喫煙者が喫煙者の負担を強いられるのは問題。」(30代,男性,循環器科)「高校生の頃タバコ吸ってましたが、医学部に入って辞めました。あのころは運動していたんで、禁煙で成績が良くなったのが励みでした。禁煙は減塩と同じで個々人への働きかけとともに社会への働きかけも必要です。製薬メーカーももっと禁煙に力を入れてほしいです。MRさんでタバコを吸っているのは論外でしょう。 タバコはひと箱2000円でもいいと思います。」(40代,男性,代謝・内分泌科)「『タバコは嗜好品ではなく薬物』 『喫煙者は病気であり治療が必要』 『その害を国が率先してお墨付きを与え国民にまき散らしている』 という啓発が必要」(30代,男性,神経内科)「喫煙する人が疾患にかかりやすいのだから、受益者負担で高くすべきだと思う。父は吸っているから肺気腫のような症状が出ているが、自業自得であるし、医療費が高くても仕方がないと感じる。私自身はそれを見ているので吸いたくもないし周囲ですっているのも嫌である。」(40代,男性,神経内科)「喫煙者かどうか正しく申告するはずがないので、タバコの販売価格に上乗せする形で徴収し医療費へ回すべきだと思いますね。」(50代,男性,耳鼻咽喉科)「医療に従事する者として禁煙は早くしたかった。が、なかなかできなかった。子供ができたことで一念発起し、自分のためでなく、子供のために、とやめた。 現在院内では看護師と事務職の喫煙率が高い。喫煙後うがいなどをしているようだが、時々においが残り、そのまま患者さんのところに行くので、患者さんがどう思っているのか、気になる。」(40代,男性,産業医)「個人の嗜好なので、条例・法律規制しないかぎり個人の自由。副流煙・受動喫煙に対する配慮は必要。」(40代,男性,整形外科)「税金をたくさん払っているのだから、そこは考慮してほしい。やはり分煙。 喫煙者を悪者にするなら販売自体をやめてほしい」(40代,男性,泌尿器科)「禁煙外来の充実が望ましいが、労力の割には点数が少ないように感じられ、余裕のある医療施設でないと普及が難しいと思います。」(40代,男性,内科)「10数年間1日20本吸っていましたが30歳代後半に不整脈を自覚したのをきっかけに禁煙しました。当時は禁煙補助薬もなく、禁煙の最初の1-2週間がとてもつらかったのを今でも覚えています。」(50代,男性,内科)「禁煙外来をしたいが,保険で診療ではCO測定を必須としているが測定器は10万円以上もするため断念している。また,喫煙を止めた者の割合等を、社会保険事務局長に報告しなければならないなど敷居を高くしすぎている。当局は医師を全く信用していない。」(50代,男性,循環器科)「生活保護を受けている人が、明らかにタバコが原因になっているCOPDの治療を受けつつもタバコを吸い続けているのをみると、今の医療制度はおかしいんじゃないかと思う。」(30代,女性,外科)「保険料の設定において、各個人のリスクを勘案するのは現実的でない。 それよりもタバコが健康にすごい害をもたらす、タバコから市民権を奪うような風潮になってほしい。そのためにはマスコミの力が必要であるが、マスコミは大スポンサーであるJTに遠慮してタバコの真実の姿を視聴者に伝えられないところに大きな問題がある。」(30代,男性,呼吸器科)「受益者負担を考えると喫煙は医療費を押し上げているのだから押し上げている分は喫煙者に負担してもらうのが合理的。」(40代,男性,腎臓内科)「入院患者が職員の自転車置き場などでたむろしてたばこを吸っているのは何とかならないのかなぁと思います。小児の患者に付き添っている患者の母親が、患児を連れて他の人たちといっしょに吸っているのを見ると、受動喫煙の知識とかもないのかと唖然とします。」(40代,男性,その他)「まず、歩きタバコは傷害罪にしたほうがいい。」(40代,男性,精神・神経科)「健診学会、ドック学会のデータを見ても、喫煙の害は明らかです。健康を害して国民総生産を押し下げているものと思います。国の対応も甘くもっと積極的に禁煙キャンペーンをはるべきと思います。」(50代,男性,その他)「喫煙していたのは若いころだけで、特に抵抗なく禁煙しました。院内は室内禁煙で、喫煙所が1か所のみあります。医療費(保険診療)はリスクのある人にも平等に負担される仕組みが日本での前提ですから、これを崩せばいくらでもリスクを考えた負担(あるいは加入拒否)がまかり通るように思います。保険者に加入者の健康維持を働きかけさせるという観点からは、喫煙者が加入したら保険者に補助をして、そのかわり禁煙にどれだけ導いたかを評価してもよいかもしれません。」(50代,男性,小児科)「保険料や医療費をどのくらいにするのかを決めるのが大変でしょうし、現場も大変でしょう。「私は喫煙者です」という自己申告制ですね。 それよりもタバコの値段を上げる。 喫煙のきっかけは何だったのでしょうか。好奇心・大人ぶりたいなどではないでしょうか?」(70代以上,男性,産婦人科)「喫煙したことで医療費の増加に影響しているかもしれないが、1日1本の人と1日0本の人では程度が変わってくると思います。喫煙量に関係なくでは不満が出るでしょうし、その際にその人個人の喫煙量がどのくらいかを証明することができないでしょうし、難しいと思います。喫煙した結果の医療費を上げるよりも、喫煙する際のたばこ税を相当額上げることの方がいいと思います。」(30代,男性,救急医療科)「医師になった時に禁煙しました 喫煙が法律で禁止されているわけではないので、負担増については少し疑問です 喫煙だけでなく飲酒も問題ですし」(50代,男性,内科)「タバコや副流炎の害悪をアピールすることや分煙,禁煙の徹底が大切なのであって,喫煙者の医療費を上げることは当然,患者が嘘をつくことにつながるため反対である.金銭的に負のインセンティブをつけるならたばこ税を調整・増額すればよい.」(40代,男性,神経内科)「喫煙は中毒(依存症)です。誰かが適切に指導すれば禁煙もその継続も可能です。個人的には、あの臭いはもう受け付けないです。」(40代,男性,内科)「喫煙者のマナーの悪さ(道端でたばこを吸って吸殻はそのままポイ・・・など)は耐え難いものがある。たばこ税はもっともっと上げるべきだし喫煙者の医療費負担を上げてもいいぐらいだと思う。」(40代,男性,小児科)「自分は健康にかなり気を遣っているが、喫煙者と同じ保険料、医療費を払うのは解せない。喫煙者の負担を増やすべきである。たばこ関連税は全て医療保険に回すべきである。 目の前で吸わなくても、外で吸ってから部屋に入られると、それだけで部屋の中がタバコ臭くなり、迷惑である。」(40代,男性,放射線科)「禁煙してみると生活があまりに快適になるので、他人にも勧めたくなります。」(60代,男性,神経内科)「明らかな発ガン物質を"堂々と""合法的に""PRまでして"売っているなんて信じられない。」(50代,男性,産業医)「喫煙する医師は患者からどう見られているか考えた事が無いのだろうか?また人に迷惑をかけてはいないという言い訳は成立しない。」(40代,男性,代謝・内分泌科)「85歳です。40年ほど前完全禁煙しました。 小児科は忙しく余り吸う暇がありませんでしたが、当時タバコを吸うことは男のステイタスであったような気がします。まだ煙草の害が余り説かれていなかったころでしたが、医師の中にたばこの害を説く熱心な方がいて禁煙を勧めていました。その方の影響を受けました。それから強引に、喫煙する方の子供は診察しません。と張り紙をして禁煙運動をしてきました。3,40年も前ことです。少しは効き目があったようです。」(70代以上,男性,小児科)「全ての疾患をタバコにつなげる風潮がある。実際診療していてタバコはそれほどrisk factorになっているのか疑問をもつことが少なくない。今のところ健康寿命も世界一だがこの世代の人々は喫煙率は非常に高かった。日本の医療レベルが制度・技術ともに抜きんでていたから、と言えばそれまでだが果たしてそれが全てなのだろうか?」(40代,男性,外科)「咳が止まらないと受診した患者さんが喫煙を続けていることがよくあります。咳止め薬を希望されますが無駄だと思います。」(40代,男性,循環器科)

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福島の病院が、初めての研修医を迎えて

南相馬市立総合病院・神経内科小鷹 昌明2012年8月8日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。福島県南相馬市の病院が、はじめて研修医を受け入れたのは、震災後500日が経過しようとする頃だった。当院の研修シラバスには、次のような文言が謳われている(これは、昨年より亀田総合病院から出向してきた“原澤慶太郎・在宅診療科医師”の掲げた目的である)。まずは一読してもらいたい。~なぜ、今、南相馬なのか。研修医諸君に改めて問いたい。これから医師として羽ばたいてゆく君たちにとって、はたして南相馬は対岸の火事と言えるだろうか。少なくとも私たちは、そうは思っていません。むしろ若い医師たちに、この現場を伝えていく責務を感じています。原発事故に伴う被曝の問題に、私たちがどのようにして課題を乗り越えていくのか、世界が注視しています。有史以来、未曾有の超高齢化社会、いわゆる2025年問題が叫ばれて久しいですが、世界もまたglobal agingへと突き進んでいます。そうした時代を医師として生きる君たちにとって、“高齢者医療”は避けては通れない問題です。眼前に突きつけられた現実から目を背けてはいけません。南相馬に広がっているのは、20年後の日本の紛れもない姿です。地域医療の抱えるさまざまな社会的問題に対して、solutionを模索する姿は、これからのひとつの医師像ではないでしょうか。Scientistとしての視点を保持しながら、さまざまなスタッフとの恊働から生まれる集合知で問題解決を図って行く。その過程を是非とも共に体験してもらいたいのです。~私は、「そうか、そういうことだったのか」と思った。これまで散々、ここへ来た自分自身の目的や意味を考えてきた。本メディアにおいても、想いと葛藤とを綴ってきた。それが、このような形で簡単に明文化されていた。常勤医17人の、この私たちの被災地病院が、復興のために次の手を打った。それは臨床研修指定を取得することであった。亀田総合病院(神戸大学医学部出身)にて初期研修中の2年次医師が、「希望で当院にも研修に来る」と知らされたのが5月だった。私たちはその日のために、付け焼き刃かもしれないが、場当たり的かもしれないが、準備を行った。大急ぎで研修プログラムを作成したり、各部署にお伺いを立てて周知させたり、日程表を作って吟味したりした。それは突貫工事に近いものであった。私も、「神経内科科長(ひとりだが)」として、元、大学病院准教授として、そのプログラム作りに参画した。ハッタリに近いかもしれないし、大風呂敷を広げ過ぎた感はあるが、手作り的なシラバスが一通り完成した。その矢先の7月に、彼はやってきた。循環器志望の、この若者は、被災地診療を体験したくて訪れた。私たちが、研修医に伝えられることは何であろうか。有意義な研修システムというのは、果たしてどういうものであろうか。原発事故が暗い影を落としているこの地で、私たちは、日々目の前の患者の診療に追われている。20キロメートルの警戒線が解除された今でも、答えの見出せない問題を抱えたまま、この市には4万5千人が暮らしている。そうした患者の悩みや不安に応えている。食料品目や産地に気を配ることで、低線量被曝は増加しないことが示されたにも関わらず、子供たちの帰還率は4割にも満たない。若い世帯が県外に避難したことから家族は離散し、作付けや漁を禁じられた住民は、生きがいを失い、目標を絶っている。多くの高齢者世帯が取り残され、仮設や借上住宅に住む人々の間には、疎外感によるひきこもりや、孤独死の問題が徐々に色濃くなっている。メディアでは到底伝えきれない根深く、執拗な問題が、この地を覆っている。きちんとした研修を受けられる病院は、指導医の教育に対するスキルが高く、症例が豊富で、検査や治療のためのツールが揃っていることである。多様な人材と潤沢な資金とで、研修医を一手に引き受けている大学病院や基幹病院は、全国にたくさんある。そういう病院におけるカリキュラムやマニュアルは、きっと明確なものであろう。「当院では、一定期間にこういうことが学べます」とか、「優秀なスタッフが、それを支援いたします」とか、いうものではないか。正直、そのようなものは、この病院にはない。私たちが与えられる研修システムは、他とは少し違うかもしれない。なぜなら、この病院で感じる何かを学びに変える手立てに、マニュアルなど作成しようがないからである。私たちの現場では、「この地で寝たきりになったら、分かりますよね・・・」、「脳梗塞や心筋梗塞の危険性を減らすのではなく、なってはダメなのです」、「最後まで介護する人にしか、病状の説明はできません」、「福祉や介護の充実のためには、生きるのも仕事です」、「障害は何ともできないけど、生涯なら何とかできるかもしれない」というようなことを言っていかなければならないのである。この地でひとりの患者を自律させるには、さまざまな職種や人種を巻き込まなければ成り立たない。NPOやボランティア団体、事業所や協会、行政やメディアなどとタッグを組む必要がある。充分であろうはずはないが、それでもあらゆるリソースを動員して、支援体制を布く必要がある。私たちの医療には解答がない。だから、正解を学ぶことはできないし、規範を教える術もない。ここで学ぶことは、もちろん、医療技術を向上させるとか、医学的知識を増幅させるとか、そういうことを目指すことに異論はないが、それよりも“自分は何ができないか”を理解し、自分にできないことは、誰にどのように支援されればそれが達成できるのか。「そういう人に支持されなければ、有効に自分の学びが活かされることはない」ということを体感することなのである。一手先、二手先を見据えて「自分にできないこと」と、「自分にできること」とを、きちんとリンケージすることなのである。日本の医療は世界最高レベルなのに、「満足度は最低ランクである」と揶揄される。やるせない思いがする。日本の医療は、なぜそうなってしまったのだろうか。それは、「医療費の公的支出が他国と比べて少なく、診療報酬が全体的に低く抑えられている。医師が、数多くの業務をこなして長時間働くという現状があり、現在の医療レベルは、医師の滅私奉公によって支えられているからだ」という、もっともらしい解答が用意されている。「ベルトコンベア式診療」、「クレーム患者の存在」、「患者たらい回し」、「医師不足」、「効率化医療」、「コンビニ受診」など原因はさまざまであろうが、身も蓋もない結論を言うならば、「医療者が医療に不快感を示している」からである。だから、この病院での研修では、せめてその一点だけでも払拭させたいと願う。ここでの研修というのは、症例を経験することだけではなく、どういう患者を、どういう上級医と、どういうふうに考えるかで、限られた情報と資源との中で、いかに愉快に、かつ有意義に過ごすかを追求することなのである。そういうことを探り当てるのも、重要な知的技術だし、意欲的思考だと思う。及川先生(当院脳外科医・副院長)が臨終を告げる現場に遭遇した。「今から、じいちゃんにしてあげられる最後のことをすっから。いいかい、じいちゃんの胸と口に手を当てて、よーく耳と掌で感じるんだよ。がんばってきたけんど、心臓と呼吸が止まってしまったんだよ」「自分以外の人間に最後にしてあげられること」、言葉にすれば単純なことかもしれないが、それは死の確認作業だった。当たり前のことかもしれないし、私が言うのもおこがましいが、先生は、かつて私が所属していた大学病院医師が束になっても教えられなかった看取りを、一瞬で示してくれていた。私は、「医療はこうあるべきだ」というようなことをずっと考えてきた。大学病院なのだから、最後の砦なのだから、という気持ちで使命を果たそうとした時期もあった。そして、それが叶わなければ、勝手に憤り、利己的にやる気をなくしていた。今になって思えば、そういう態度だった理由は、「資源を度外視する大学診療が正論だ」と考えていたからである。ここでの医療の正論は、患者の中にあった。持てる能力を駆使して、医療という現場を生き抜いてこられたことに大きな自信と誇りとを持っている。しかし、厳しさの中での経験が、自信過剰で鼻持ちならない傲慢な医師、あるいは逆に虚無的で無機質な医師を生む可能性があることも、同時に自覚している。20代の私は、自己欺瞞と傲岸不遜とで自分が何者かも分からず、ましてや他人も、そして世の中も分からなかった。他人を振り回し、他人に振り回されていた。30代になっても落ち着くことはなく、精神はますます偏狭に、態度はますます狷介となった。思慮が足りず、早合点しがちで、行動がときに上滑りし、ちょっとしたことで自己嫌悪し、短気で気難しく、過信と煩慮とで迷走していた。英国に留学し、苦労したことで、35歳を過ぎた頃から少しずつ世間を知り、40歳を超えたあたりで、ようやく深遠でも高慢でもなく、ごく日常的な次元で物事を客観的に捉えられるようになってきた。個別的、具体的なことよりも、普遍的、抽象的なことに関心が向くようになった。移り変わる物事を追いかけるよりも、変わらない事柄を考えている時間の方が長くなり、自分が何者で、何ができ、何ができないかが、ようやく理解できるようになった。そして私は、この地で、再び翻弄されている。被災地での取り組みに刺激され、触発され、身もだえしている。ここには、キャリアを積んだ医師たちが迷っている現実があり、いい大人たちが逡巡している現場がある。そういう私たちの“ためらいの行動”というものに、どうか共鳴してもらいたい。研修医にとって、ここはある意味、異質な空間かもしれない。「あるようでいて、それすらもないもの」、「ないようでいて、実は見えていないだけ」というものがたくさんある。医療者として患者の治療はもちろんだが、住民の生活にも入り込んでもらいたい。そして、たとえば、仮設住宅に住む人々の健康管理の一端を担ってもらい、彼らの身体情報を次の研修医へと伝え、バトンを渡すように申し送り、受け継いでいってもらいたい。実際、亀田総合病院からやって来た研修医の彼は、仮設を1区画ごとに回り、“熱中症予防”に関する講話を展開している。高齢者からも、「孫が来たようだ」と大変評判が良いようだ。当院の研修カリキュラムは、(少なくとも私にとっては)研修医のためのものではなかった。恥ずかしいことだが、私自身の目標を改めて自覚させるものであった。卒後研修医たちは、明確化されたシラバスを吟味して、研修病院を探すことであろう。医師が、医療以外のさまざまな行事やボランティアに参画していることから、ここには、シラバスに乗せられない何かがある。研修カリキュラムは予め存在するものではなく、これからの研修医たちと創っていくものであった。私は、人と付き合うことが愉しくなり、人に任せることが頼もしくなった。そして、少しずつだが、自分のやりたいことが分かってきた。

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南相馬市の優しい人々のこと

雲雀ヶ丘病院堀 有伸2012年8月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。筆者は、今年の4月から志願して福島県南相馬市にある精神科単科の雲雀ヶ丘病院の常勤医になりました。震災前のこちらの病院では4病棟が稼働し、定床は250人強でした。現在は60床の閉鎖病棟が一つのみ再開されていて、ここが福島県の相双地区で唯一の入院できる精神科病棟となっています。常勤医は3人のみで、各方面からさまざまなご支援をいただいておりますが、厳しい勤務体制が続いています。こちらでの生活がもうすぐ4カ月となります。皆様は原発事故による放射能の影響を最初に連想されるかもしれません。もちろんそのことの不安がない訳ではありませんが、差し迫って感じるのは交通の不便さと住宅事情の悪さです。唯一の鉄道であった常磐線や、南へ向かう道路は原発事故のために断ち切られています。福島市に向かうには自動車を利用しなければなりません。カーブの多い山道を超えて1時間半から2時間かかります。公共交通機関は、2つの会社が運行するそれぞれ1日4本のバスだけになります。余暇などを楽しむ場合には、仙台を目指す方もたくさんおられます。住宅難も深刻です。私も勤務して最初の20日ほどは住まいが見つからず、ビジネスホテル住まいで、そこも毎日ホテル内で部屋を移動する状況でした。病院の昔からの職員の中にも仮設住宅や借り上げ住宅に暮らしている人が少なくないので、不満が言えるような状況ではありません。何とか病院がアパートを借りてくれましたが、そこは市内でも放射線量の高い地域でした。慣れない土地の単身生活で心細かったのですが、身に沁みたのはこちらの人々の気持ちの暖かさです。南相馬市の人々は本当に優しく、世話好きの方が多いのです。みんな気さくにいろいろと話しかけてくれます。しかし、そんな所で耳にする震災に関連した物語にも、驚くような話が少なくありませんでした。例えば、病棟でみんなが「あ~釣りに行きたい」と話しています。その中の誰かが、「あの家は津波で釣りの道具ごと流されたから諦めがつくだろうけど、うちは道具が残っているんだよね」と言っています。別の誰かは、「この前、はじめてお金を出してヒラメを買っちゃったよ」とつぶやいていました。その数日後に別の所で、「ヒラメをさばいたら、人の髪や爪が出てきたんだよ。そうしたら、もうヒラメを見るのも怖くなっちゃった」という話を聞きました。※注 現在、この地域で地元の方が自分で魚を釣ってそれを食べるということは、基本的に行われておりません。哀しさにあふれても仕方のない土地なのに、人々は明るく我慢強いのです。ボランティアなどでこの土地に来ている方々からも、逆に自分たちが土地の人々に癒されたという話を聞くことが少なくありません。海山の恵みに感謝し、きちんと土地と向かい合いながら皆さんが暮らしてきた様子が感じられました。こちらでの勤務が始まってしばらくした段階で、病院の中で他の職員に守られながら居心地良く過ごしている自分に気がついて驚いたことがありました。そして同時に、精神科医泣かせの土地かもしれないとも感じました。皆さん、精神科への通院や服薬を潔とされません。市内には潜在的な精神症状の保持者がたくさんいると予想されるのにも関わらず、なかなか外来を訪れる方が増えないもどかしい思いも持っております。今年の5月28日、警戒区域内の自宅を一時帰宅した男性が自殺を遂げ、現地の人々に強い衝撃を与えました。伝えられている所によると、遺書はなかったものの、今までの商売を継続できなくなったことを日頃から家族に嘆いていたそうです。普段、いろいろな悲しみを呑み込んで何とか暮らしていた方が、一時帰宅という形で失われてしまったものの現実に触れた時に、何かが起こってしまったのかもしれません。地元の保健センターの仲介で、私たちには仮設住宅や借り上げ住宅を訪問する機会が与えられています。ある仮設住宅の集会場でうつ病について説明させていただいたのですが、その時にこんなお話をうかがいました。ある女性がとても精神的につらくなり、市内の心療内科で睡眠薬を処方してもらい、そのおかげで夜に眠れるようになったそうです。しかし仮設住宅の防音は不十分です。その方は睡眠薬で深く眠った結果として、隣人からいびきについて責められてしまいました。それでも相手に不満を述べることもなく、かえって気持ちの余裕をなくしている相手のことを心配されていました。「うつ病」について語る私に対して、決して責めるのではなかったのですが、「先生、申し訳ないのですけど、先生のお話を聞いても私たちのつらいのは解決しないんです」と声をかけてくれた方もおられました。私は悟りました。今までのように病院や診療所の中に座って待っている精神科医療では、この土地の問題には対応できないことを。土地に根づいた生活をしていた方々が、その培ってきた人間関係から引き剥がされました。孤立や混乱、時には対立がある中で、将来の見通しが立たないまま、不自由な生活が長期化しています。どこかで人々の気持ちが折れてしまうのではないかと、多くの人が心配をしています。それでも南相馬市には、自分のことを二の次にして周囲の世話を焼いてくれる人が少なくありません。例えば、より原発に近い地域にもともとお住まいで、現在避難中の方々の一部を受け入れているのも、南相馬市です。福島第一原発の廃炉のための作業が行われていますが、こちらにも当然多くの貢献を行っています。ある意味では、この土地の人々の努力と犠牲の恩恵に、日本全体が浴しているわけです。そして、私たち外部からの「支援者」の世話を焼いてくれているのも、南相馬市の方々です。この南相馬市の人々が我慢強く優しいのに甘えて、周囲が負担を押し付けるばかりで、その苦難が適切に省みられないのだとしたら、それは正当なこととは思えないのです。まだまだ分からないことばかりですが、こちらでの診療活動を続けて行くつもりです。若輩者ですから、皆様からのご指導ご鞭撻をいただけますことを、お願い申し上げる次第です。

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認知症予防のポイント!MCIへのアプローチ

認知症は軽度認知障害(MCI)から始まり、徐々に認知機能が低下していくため、認知症を予防するためのひとつの方法として、MCIの段階でいかに対処していくかが重要であると考えられる。Summers氏らはMCI症例に対する神経心理学的アプローチに関する検討を行った。Neuropsychology誌2012年7月号(オンライン版2012年5月21日号)の報告。MCIの各サブタイプに分類される高齢者81名と健常者25名の計106名を対象に、視覚機能、言語記憶、注意処理機能、遂行機能、ワーキングメモリー、意味記憶の個々の結果をもとに、20ヵ月の縦断的な神経心理学的評価を行った。主な結果は以下のとおり。 ・20ヵ月後、MCI群の12.3%が認知症へ進行、62.9%がMCIの状態を維持、24.7%がMCIから健常レベルに戻った。・判別関数を用いた分析では、試験開始前の神経心理学的テストの成績から86.3%の精度で20ヵ月後の結果を予測することができた。・視覚および言語のエピソード記憶、短期記憶、ワーキングメモリー、注意処理機能の障害パターンによりMCI症例の予後を予測可能であることが示された。(ケアネット 鷹野 敦夫) 関連医療ニュース ・アルツハイマーの予防にスタチン!? ・データバンクでアルツハイマー病の治療実態が明らかに―仏BNA調査― ・MCIの診断・治療に有効な評価尺度として期待「CDR-SB」

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統合失調症患者は“骨折”しやすいって本当?

近年、統合失調症患者では骨粗鬆症の罹患率が高いことが明らかになってきているが、著しい骨密度(BMD)の減少にいたる機序や臨床的意味はまだわかっていない。慶応義塾大学の岸本氏(Zucker Hillside Hospital留学中)らは統合失調症患者における骨粗鬆症と骨折リスク、さらに抗精神病薬誘発性高プロラクチン血症の骨代謝への影響について、最近の知見をもとにレビューを行った。Curr Opin Psychiatry誌オンライン版2012年6月30日付の報告。主な結果は以下のとおり。 ・16報告中15件(15/16:93.8%)において、統合失調症患者は対照群と比較して、低BMDまたは骨粗鬆症の高い罹患率のうち、少なくともいずれかと相関していた。ただし、全体の一貫性はなかった。・高い骨折リスクは、統合失調症と関係し(2/2)、抗精神病薬投与とも関係していた(3/4)。・これらの要因として、運動不足、栄養不足、喫煙、アルコール摂取、ビタミンD不足が示唆された。・抗精神病薬誘発性高プロラクチン血症とBMD低下との関係を調べた報告(9/15:60.0%)では、高プロラクチン血症の影響が少なからず認められた。・本結果は、サンプルが少なく効果の小さなものが含まれており、またプロスペクティブ研究は2報だけであった。・高プロラクチン血症や不健康な生活による影響はまだ明らかになっていないが、統合失調症患者ではBMD低下や骨折リスクとの関係が示唆されることから、予防や早期発見、早期介入が必要であると考えられる。(ケアネット 鷹野 敦夫)関連医療ニュース ・肥満や糖尿病だけじゃない!脂質異常症になりやすい統合失調症患者 ・せん妄対策に「光療法」が有効! ・厚労省も新制度義務化:精神疾患患者の「社会復帰」へ

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「一般名処方加算」新設、その後の実施率は

今回の「医師1,000人に聞きました」、テーマは “一般名処方”。2012年4月より、2012年4月の診療報酬改定における後発医薬品使用促進策の一つとして「一般名処方加算」が新設されたことは先生方ご存知の通りです。この改定を受けて先生方の意識はどう変化したのか?「4月以降実施するようになった」医師は全体でどれくらい?病院と診療所、実施率はどう違う?CareNet.comで2011年12月に実施した一般名処方の実施率調査も比較しながらご覧ください。結果概要はこちらコメントはこちら設問詳細「一般名処方」についてお尋ねします。4月6日付の『日刊薬業』によると、『4月の診療報酬改定で加算点数が新設されたことをきっかけに、全国各地で一般名処方を含む処方箋が増加している。当初は加算新設の効果に懐疑的な見方もあったが、改定施行直後からクリニックを中心に一般名処方が広がっているもようだ。この急増ぶりに東京都薬剤師会は3日付で、処方医や薬局薬剤師が一般名処方に不慣れな中では調剤過誤につながる恐れもあることから、傘下薬局に注意喚起の事務連絡を出した。4月の診療報酬改定では後発医薬品使用促進策の一つとして「一般名処方加算」が新設。医師が一般名処方を含む処方箋を発行した場合、交付1回当たり2点を保険請求できるようになった。一般名処方を含む処方箋について全国の調剤薬局からは、「前年に比べ2割ほど増加した」(札幌市の調剤薬局)、「すごく多い。混乱している」(広島県の調剤薬局チェーン)との声が出ている。大阪府薬剤師会の乾英夫副会長は「府内でも増えている。混乱しているのは確か」と話す。東京都薬は「一般名記載の処方薬を含む処方箋がかなり多い。ここまで来るとは思っていなかった」(事務局)と、予想以上の急増を指摘している。台東区の薬局の薬剤師は「一般名処方の処方箋は全体の25~30%。処方箋発行元医療機関の約9割が一般名処方を出している」と説明する。(略)』とのこと。そこで先生にお尋ねします。Q1. 先生の勤務施設では、一般名処方を行なっていますか?1.行なっている2.一部行なっている3.行なっていないQ2. Q1で「行なっている」「一部行なっている」と回答した先生にお尋ねします。一般名処方に関して、以下当てはまるものを全てお答え下さい。これまで行なっていなかったが、4月以降行なうようになった以前から行なっていたが、4月以降増えたレセコンの設定で自動的に一般名処方となる後発薬のある薬剤はほぼ全てを一般名処方としている処方薬のうち少なくとも1種類は一般名処方としている処方箋の書き方に難しさを感じるどの後発薬を調剤するかは調剤薬局に任せる調剤薬局からの問合せが増えた当てはまるものはないQ3. Q1で「行なっていない」と回答した先生にお尋ねします。今後一般名処方を行なう予定はありますか?1.行いたい2.薬剤によっては一般名処方でも良い3.行いたくないQ4.コメントをお願いします。今回の診療報酬改定、ご勤務施設の方針、処方箋を書く際やレセコンについて感じること、一般名処方の浸透に対してのお考えなど、一般名処方に関することでしたらどういったことでも結構です。アンケート結果Q1. 先生の勤務施設では、一般名処方を行なっていますか?Q1で「行なっている」「一部行なっている」と回答した先生にお尋ねします。一般名処方に関して、以下当てはまるものを全てお答え下さい。Q3. Q1で「行なっていない」と回答した先生にお尋ねします。今後一般名処方を行なう予定はありますか?2012年6月15日(金)~20日(水)実施有効回答数:1,000件調査対象:CareNet.com医師会員結果概要一般名処方を行なっている医師は3割超、前回調査時より倍増 診療所医師では半数を超える勤務施設での現在の実施状況では、「行なっている」との回答が15.1%(昨年5.7%)、「一部行なっている」が19.3%(同11.5%)。何らかの形で実施している医師は17.2%から34.4%と、昨年12月の調査時と比較すると倍増した結果になった。また、そうした医師に状況を尋ね「これまで行なっていなかったが、4月以降行なうようになった」との回答が60.8%。「以前から行なっていたが4月以降増えた」が14.8%であった。また施設規模別で見ると、病院医師で合計30.1%、診療所医師で56.0%の実施率となった。今後について、現在行なっていない医師の6割が「行いたい」「薬剤によっては」と回答一方、現在「行なっていない」と回答した医師に今後の意向を尋ねたところ、「薬剤によっては一般名処方でも良い」51.4%、「行いたくない」40.5%、「行いたい」8.1%という結果となった。『後発薬の信頼性に問題がある』『商品名で覚えていたものを新たに覚えなおすのは難しい』といった回答が多く見られた。「行いたい」とした中では、『自動変換してくれるなら』『面倒なので』など、レセコンに関するコメントを寄せた医師が多かった。「後発薬のある薬剤はほぼ全て一般名処方」としている医師は11.6%その他、現在行なっている医師の状況として「レセコンの設定で自動的に一般名処方となる」との回答が16.3%いる一方で、「処方箋の書き方に難しさを感じる」との回答が16.0%とほぼ同程度となった。「処方箋のうち少なくとも1種類は一般名処方としている」は15.7%、「後発薬のある薬剤はほぼ全てを一般名処方としている」との回答が11.6%。CareNet.comの会員医師に尋ねてみたいテーマを募集中です。採用させて頂いた方へは300ポイント進呈!応募はこちらコメント抜粋 (一部割愛、簡略化しておりますことをご了承下さい)「成分・効能が同じでも患者さんの方からすれば違ったものと捉えることが多いようです。医療費高騰の観点からのみでジェネリックにするのは考え物です。」(60代,病院勤務,リハビリテーション科)「後発品と先発品で適応疾患が異なるのが問題。当院では一般名では印字できないのですべて手書きになります。一般名処方は現状では普及しないと思います。」(50代,病院勤務,精神・神経科)「後発品の数が多すぎて、後発品の商品名で処方しても薬局によっておいているものが違い、その度変更可かどうかと問い合わせがくる。それも面倒なのだが、一般名はなじみがなく処方する際に手間がかかる。先発品の名称で処方しても、「変更可」とチェックを入れれば一般名処方と意味は同じになると思うので、かならずしも一般名でなくていいと思う。もう少し現場のことを考えてほしい。」(30代,病院勤務,外科)「仕事が煩雑になり大変迷惑。」(40代,病院勤務,精神・神経科)「処方された薬剤名を電子カルテに残したほうが良いと思うので手間が増えている。」(50代,その他,内科)「処方箋が長くなるので、印刷されているとはいえ、見づらい。コンピューター入力できない項目(例えば、不均等な服用、汎用しない頓服項目)など、つい書き加えるのを忘れる。医療機関はたいへんな思いをして2点しか加算されない。薬局ばかりが得をしていると感じている。」(40代,診療所勤務,精神・神経科)「移行期は作業が増えるが、将来的には効率的かと思う。」(30代,病院勤務,精神・神経科)「病院全体の問題なので当科の一存では決められない。やるならやるでいいし、やらなくても良い。」(50代,病院勤務,泌尿器科)「一般名処方をしてでも2点を稼がなければいけない保険制度に問題あり。一般名処方が一般化すればやがては2点加算も無くなり、逆に商品名処方だと減点される方向に動くだろう。製薬メーカーのMR活動は消滅。対薬局MS活動が中心になるだろう。医薬品の精度、安全性はどのように担保し、薬害時の補償はどうするのだろうか。」(50代,病院勤務,泌尿器科)「一般名を調べるのに時間をとられて、業務に支障あり。 」(50代,病院勤務,整形外科)「血圧関係では、慣れたARBを使用したいので一般名処方はしたくない。」(60代,その他,産婦人科)「一般名で構わないと思うが、この無理やりなやり方には反発を感じる」(40代,診療所勤務,精神・神経科)「点眼ビンの使いやすさや点眼時の刺激などが各薬剤にて全く異なるので、眼科的にはなじまない」(40代,診療所勤務,眼科)「調剤薬局からの問い合わせが多く、非常に手間を感じている」(30代,診療所勤務,腎臓内科)「一般名処方出来る薬と出来ない薬があるので、混乱している。4月に入って直ぐに後発薬のあるものすべてを一般名処方に変えたが月の半ばでレセコン会社から半分以上出来無いとの連絡があり戻して混乱した。その根拠が分からない。」(50代,その他,眼科)「加算につながることなので、経営上やらざるを得ないが、露骨なジェネリックへの誘導措置であり、気分はあまりよくない。」(40代,診療所勤務,内科)「電子カルテが、製品名を入力しても一般名が選べるとか、サポート機能が充実すれば一般名処方はやぶさかではない」(50代,病院勤務,外科)「自分がわざと安いジェネリック薬を選んで処方しても,薬局で高いジェネリックに変更されている.これまでと逆のことがおこっている.」(30代,病院勤務,神経内科)「いままでよりわかりやすくていいです。ただ、患者さんに商品名を伝えるべきなのか、一般名にするのかは、どちらにしても名前が変わってくることが多いため、患者がどう感じているか心配ではある。」(30代,診療所勤務,膠原病科)「商品名に慣れ親しんだ患者さんやベテラン医師に受け入れられるまで時間はかかると思うが、一般名処方をすると、先発品と後発品を同じ名前で処方できる、一般名で学んだ薬学の知識を新人医師がそのまま使えるというメリットがある。いずれ世間は一般名処方に移行していくと思う。」(30代,病院勤務,呼吸器科)「他の医療機関から来た患者の処方を見るときは、一般名処方の方が、聞いたこともないジェネリック薬品の製品名よりはるかに良いと思います。」(50代,診療所勤務,代謝・内分泌科)「電子カルテの動きが遅くなるため実施していない。」(40代,診療所勤務,耳鼻咽喉科)「いちいち薬局からこの薬にしましたと連絡を受けるのは面倒」(60代,その他,泌尿器科)「後発品の普及をさせたい意図はわかるが 現場の状況を厚生省はよく検討して欲しい」(30代,病院勤務,麻酔科)「いろいろな医療機関で様々な薬を処方されていてその患者が入院した場合何の薬を処方されていたのか調べるのが大変な労力がいる。またすべて同じ効果があるのか疑問。」(60代,病院勤務,外科)「レセコンでは一般名→商品名、商品名→一般名いずれも変換できますので、特に困ることはないのですが、保険点数2点ですからねえ、労力の割には報われないような気がします。」(50代,病院勤務,外科)「一般名が複雑な名称の場合があり(例えばxxxxリン酸塩、など)、また馴染みの少ない名称の場合も少なくなく、処方ミスに繋がる可能性がある。」(50代,病院勤務,代謝・内分泌科)「アップデートの必要がある情報が山のように有るので、覚えないですむ情報に時間を費やすのはさけたい」(40代,病院勤務,外科)「他施設から紹介されてくるケースで、後発品の処方がなされているケースだと何が投与されているのか一々調べなければならない。それなら一般名処方のほうがましに感じる。 」(40代,病院勤務,整形外科)「電子カルテのソフトで対応していかないと,何の薬が出ているのかわからないので,医療事故の原因になるはず…」(50代,病院勤務,呼吸器科)「薬剤師、医師とも不慣れな一般名より、商品名での処方が良いと考えている。現状の「どちらでも良い」という中途半端な状態がもっとも危険。」(50代,その他,外科)「当院の処方は全て自動的に(変更不可)になっている」(50代,診療所勤務,整形外科)「いまだ過渡期になるのでしょうか?かなり前から議論されていますが、いまだに統一した見解、取り決めがなされていないのは疑問に思います」(40代,病院勤務,麻酔科)「これだけ医療ミスが問題とされているのに、 わざわざ一般名にしてミスをするリスクをあげる必要性があるのだろうか?」(40代,病院勤務,膠原病科)「医師になったばかりの頃は、一般名の処方の方が判りやすかったが、段々、経験を積むにつれて、メーカーごとに違う薬剤名の方に慣れ親しんで行った。だから、これから医師になる人々にとっては一般名処方は良い傾向だと思う。」(50代,病院勤務,産婦人科)「一般名のほうがよいが、コメディカル(看護師など)の方々にも浸透するにはまだまだ時間が掛かると思う」(30代,病院勤務,その他)「コンピュータで一般名が選択できるので処方は簡単。」(30代,診療所勤務,産婦人科)「院内処方なので、一般名にするメリットは感じない。制度でそうするというのなら従うが、慣れるまではしんどいな。」(40代,病院勤務,精神・神経科)「処方された薬剤に関する責任の所在を明確にしてほしい」(40代,病院勤務,精神・神経科)「長い目で見れば、製品名と一般名の2種類を記憶する必要がなくなるので、一般名処方は推進されるべきと思います。 」(30代,病院勤務,腎臓内科)「今から、以前覚えた商品名に対する一般名を覚える余力がない。」(40代,病院勤務,血液内科)「後発薬の場合、実際に効果が違うように思うものがあるのも確かであり、指定が必要なものもあるかと思います。 また、患者さん側も薬の名前が違うことに不安を感じるのでは。 混乱を招かないためにも後発薬は一般名そのものや一般名をもじったものにして欲しいものです。」(30代,病院勤務,整形外科)「現場が混乱し、インシデントの原因となるので、一般名処方が必要だとか一般名が定着しているものに限って行なうべきと思います。」(30代,病院勤務,整形外科)「この制度はおかしい。「後発品への変更可」から、「後発品への変更不可」に変化し、ここで一般名にしたところで、現場が混乱するだけ。後発品変更不可としない処方箋に2点つくようにしさえすればよかったのに」(40代,病院勤務,内科)「先発薬にこだわりたい。」(40代,病院勤務,内科)「たった2点のためやるかと思うと、情けないです。」(40代,診療所勤務,産婦人科)「昔ながらによく使用している薬剤を、一般名でいまさら覚えるのがおっくうです。」(40代,病院勤務,呼吸器科)「電子カルテのオプション整備費としてかなりの金額が必要ですので、考慮中です。」(60代,病院勤務,消化器科)「一般名をすぐに連想させるような商品名であると覚えやすいため使用してもよいと考える」(20代,病院勤務,産婦人科)「以前は紛らわしい名前の薬の書き間違いによる医療事故が取りざたされていましたが、ジェネリックや一般名処方ではますます間違いが増えることが明らかです。(処方している医師仲間が言っているので間違いないです。)今は患者の命よりも医療費の抑制が優先される時代なんだと理解しています。」(50代,病院勤務,呼吸器科)「とくに勤務施設からの指示はありませんが、ジェネリック医薬品の採用品がころころ変わるこの頃、一般名での処方のほうが便利かもしれない」(40代,病院勤務,内科)

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悪性胸水、呼吸困難症状の緩和には胸腔カテーテル留置も胸膜癒着術も効果は同等

 悪性胸水による呼吸困難症状の緩和に対し、胸腔カテーテル留置法と、タルクを用いた胸膜癒着術とを比較した結果、症状緩和の効果は同等であることが報告された。ただし胸腔カテーテル留置法はタルク胸膜癒着術に比べ、当初の入院期間は短く、再胸膜処置の実施率も少なかったが、有害事象発生率は約5倍と高かったことも示されている。英国・オックスフォード大学のHelen E. Davies氏らが、悪性胸水患者106人について行った非盲検無作為化比較試験の結果で、JAMA誌2012年6月13日号で発表した。悪性胸水は呼吸困難を伴い患者は短命である。胸水ドレナージで症状を緩和できるが最も効果的な第一選択の治療は何かは定まっていない。胸腔カテーテル群と胸膜癒着術群を処置後42日間、VASで呼吸困難症状を評価 研究グループは、2007年4月~2011年2月にかけて、英国内7つの病院で治療を受けた悪性胸水患者106人について、非盲検無作為化比較試験を行い、1年間追跡した。被験者を無作為に、胸腔カテーテル留置法を受ける群と、胸腔チューブとタルク混濁液注入による胸膜癒着術を受ける群に割り付け、呼吸困難症状の緩和効果について比較した。 被験者は、処置後42日間にわたり毎日、100mmスケールの視覚的アナログ尺度(visual analog scale:VAS、0mmは呼吸困難なし、100mmは最大呼吸困難度を示す。臨床的に意味のある有意差は10mm)を用いて、呼吸困難症状について評価された。平均格差について、最小変数を補正した混合効果線形回帰モデルを用いて解析した。初回入院期間は胸腔カテーテル群が胸膜癒着術群に比べ有意に短かった 結果、両群で処置後の呼吸困難症状は改善し、42日間の平均VASは、胸腔カテーテル群24.7mm(95%信頼区間:19.3~30.1)、胸膜癒着術群では24.4mm(同:19.4~29.4)と、有意な格差はみられなかった(格差:0.16mm、同:-6.82~7.15、p=0.96)。 6ヵ月後の呼吸困難症状は、胸腔カテーテル群で胸膜癒着術群より大幅に改善がみられ、平均VASの格差は、-14.0mm(同:-25.2~-2.8、p=0.01)だった。 初回入院期間は、胸腔カテーテル群が中央値0日(四分位範囲:0~1)と、胸膜癒着術群の同4日(同:2~6)にくらべ有意に短かった(格差:-3.5日、95%信頼区間:-4.8~-1.5、p

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エキスパートへのQ&A ~エキスパートDrに聞く~

慢性腎臓病(CKD)の概念が提唱され、10年が経ちました。この間、本疾患に対する注目度や臨床医の治療経験が飛躍的に向上し、今では、コモン・ディジーズの一つとなりました。このCKD診療の浸透に大きな役割を果たした『CKD診療ガイド』が、2012年6月に改訂されました。ケアネットでは、『CKD診療ガイド』改訂を機に、CKD診療に関する質問を会員の医師より募集しました。この質問に、常喜信彦先生(東邦大学医療センター大橋病院 腎臓内科 准教授)が回答します。常喜信彦先生東邦大学医療センター大橋病院 腎臓内科 准教授CKD患者を専門医に紹介するにしても、腎臓専門医の人数は少なく、それほど多くの患者を診療することは難しいかと思います。どのような患者であれば、専門医に紹介すべきでしょうか?とくに軽症の患者さんを専門医に送るときの判断について教えてください。たとえ蛋白尿が認められていても、またeGFRが45 mL/分/1.73m2と低下していたとしても、極論を言えばそれ以上悪くならなければ、臨床上まったく問題はないわけですが、進行性のCKDが疑われるならば、専門医への紹介が望まれます。進行性を疑う最も強力なマーカーは蛋白尿の量になります。1日換算量で0.5 g以上認められ、かつその量が半年から1年の経過で増加傾向を示す時には積極的に専門医に紹介すべきです。eGFRについても進行性に低下する場合は同様です。尿蛋白の測定は、どのようにしていますか? 自費で行う場合もありますか? 対象となる患者を教えてください。最も一般的な方法は、随時尿の蛋白尿量を尿中Cr値で割った1日換算量を求める方法です。この方法で算出された1日換算量は、24時間畜尿により求められた蛋白尿と非常によく相関することがわかっています。高血圧、糖尿病、高脂血症といったいわゆる古典的な動脈硬化危険因子で診療中の患者、メタボリックシンドロームの患者には積極的に尿蛋白の測定を行うことを推奨します。蛋白尿をきたす原因として、若年では慢性糸球体腎炎も頻度が高くなります。微量アルブミン尿は保険診療の上では、糖尿病性腎症が疑われる時に適応となります。日常診療の中で、それ以外の疾患にまで微量アルブミン尿を計測拡大させる必要はないと思います。それよりも、まず通常の尿蛋白1日換算量を忘れずに確実に測ることが推奨されます。病状評価にあたり、初診時に何を行いますか? 定期検査の頻度についても教えてください。慢性腎臓病の診断、重症度の評価をするときに必須の検査は、1日換算量の蛋白尿ないしアルブミン尿とeGFR値になります。この2つの検査は必須とお考えください。加えて、腎の形態的異常の把握のために腎臓超音波を行えば、慢性腎臓病の病状評価としては必要な検査はそろいます。今回renewalされたCKD診療ガイドでは、尿蛋白1日換算量とeGFR値から、腎臓専門医への受診間隔の目安が示されています。ご参考いただければと思います。腎臓専門医への受診間隔(月)画像を拡大する血圧やコレステロールもそれほど高くない患者の場合、尿所見とeGFRのみで患者さんの受診を持続させられるものでしょうか? 患者さんの受診モチベーションをあげる方法などありますか?CKD診療ガイドに示されている、慢性腎臓病の重症度評価の色別表を使用されてはいかがでしょうか。将来、末期腎臓病に至るリスクや心血管イベントを起こすリスクが色別に表記されており、患者さんにお見せしても非常にわかりやすい表かと思います。今回、同時に、その表をもとにした、診療間隔目安表も公開されました。ご参考いただければと思います。CKDの重症度分類画像を拡大するLDL-Cと中性脂肪の両方が高いCKD患者さんには、フィブラートとスタチンのいずれを用いればよいでしょうか?まだ、答えの出ていない分野かもしれません。まずフィブラート系の治療薬はeGFR30 mL/分/1.73m2未満では使用できませんので、CKDステージ3までの患者でどう考えるべきか、ということになります。CKD患者における脂質代謝異常の治療に関する証拠はかなり限られたものになり、不十分と言わざるを得ません。しかしながらLDL-CとTGを比較したとき、どちらのパラメーターに関する治療成績が多いかと言えばLDL-Cになるかと思われます。選択するとなれば、LDL-C低下作用に秀でたスタチンになるかと思います。参考までに、スタチンとフィブラートの併用は横紋筋融解症の危険が高まるため、原則禁忌とされています。必然的にCKD患者の高TG血症へはニコチン酸系薬剤を使用することが多くなります。高尿酸血症の管理について、管理する患者や介入開始尿酸値、管理目標値などについて教えてください。高尿酸血症がCKDの発症、進行に深くかかわる因子であることが明らかとなってきました。わが国の報告で、住民健診で尿酸値について男性7.0mg/dL以上、女性6.0mg/dL以上を高尿酸血症と定義したとき、高値群で末期腎臓病への移行リスクが高くなることが報告されています。男性7.0mg/dL未満、女性6.0mg/dL未満を管理目標値と考えてよいでしょう。管理の第一段階は、過食、高プリン・高脂肪・高たんぱく質食の嗜好、常習飲酒、運動不足などを是正する生活習慣の改善です。一方、CKD ステージ 4~5 において生活習慣改善にもかかわらず血清尿酸値が9.0mg/dL 超える無症候性高尿酸血症では、証拠はないものの薬物治療が考慮される場合が多いです。結局は血圧、血糖、脂質を良好にコントロールすることがCKD進行の予防になると考えます。血清クレアチニン正常の患者さんをあえて混んでいる大病院腎臓内科に紹介するメリットは何でしょうか?ひとつは潜在する腎炎の合併を除外するためです。とくに蛋白尿量が多い患者さんでは、その疑いが強くなります。たとえ腎炎であっても、血圧、血糖、脂質の管理を厳密に行うことに変わりはありませんが、腎炎を併発していれば、その腎炎に介入治療することで、腎障害の進行を抑えられる可能性もあります。また、栄養指導、食事療法を行うという意味では、基幹病院の方が有利かもしれません。eGFR60以上でも、3-6ヵ月に1回、腎臓専門医を受診することが推奨されています。

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貧困化と医療・介護

亀田総合病院小松 秀樹 2012年6月14日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 ●自己負担分が払えないので入院できない  2010年4月、私は、千葉県の房総半島南端の亀田総合病院に赴任した。以後、鴨川市の亀田総合病院と館山市の安房地域医療センターで診療を行っている。当地に来て、それまで勤務していた虎の門病院との違いに驚いたことがある。自己負担分のお金が用意できないので、入院できないという患者が珍しくないのである。亀田総合病院では、医療費の自己負担分の未収金が年間6千万円生じている。未収金は累積で3億3千万円になる。本人がお金を持っていないので、多くは回収できない。他にも、貧困化を感じさせる事件があった。無保険状態の患者が、他人の保険証で入院していたのが本人からの申し出で発覚した。同じことが他にもあるかもしれない。●国民健康保険被保険者の所得国民健康保険(国保)実態調査を見ると、貧困化が進行していることが分かる。2010年度被保険者3920万人の前年(2009年)の平均世帯所得、一人当たり平均所得はそれぞれ145万円、83万7千円だった。被保険者の平均世帯所得は2008年、2009年、それぞれ、前年より6%、8.2%減少した。2008年9月のリーマン・ショックが弱者を直撃したのである。1994年度の被保険者の前年の平均世帯所得、一人当たり平均所得はそれぞれ240万円、109万円だった。以後減少傾向が続いた。1993年の値を100とすると、2009年の人口、名目GDP がそれぞれ102、97とほとんど変化していないにもかかわらず、世帯平均所得、一人当たり平均所得はそれぞれ60、77だった。国保被保険者の所得は、名目GDPに比べて減少幅が大きい。自営業者の所得の実態がつかみにくいとはいえ、同じ方法で調査されているので、変化は捉えられているはずである。また、高齢者には、貯蓄はあったとしても、捕捉されない裏収入が多額あるとは思えない。補足説明を加える。2008年4月1日、後期高齢者医療制度の施行に伴い、75歳以上の高齢者が国保から外れ、被保険者数が5110万人から3966万人に減少し、一人当たりの平均所得は91万5千円から95万6千円に増加した#。75歳以上の高齢者を除けば、最近16年間の所得の減少幅はさらに大きいかもしれない。#最初に配信した記事の数字が間違えていたので修正いたしました。お詫び申し上げます(著者)。●生活保護の支給水準国保被保険者の中には、生活保護受給者より所得の少ない人たちが相当数存在する。68歳と65歳の夫婦が生活保護になった場合、1級地1の東京都江戸川区だと、第1類費2人分、第2類費、住宅扶助で月額190,070円、年額2,280,840円、2級地1の千葉県柏市だと月額168,440円、年額2,021,280円、3級地1の千葉県鴨川市だと月額147,020円、年額1,764,240が支給される。医療については、国保と同等の医療が保険料、自己負担なしに現物支給される。介護も、原則として介護保険と同等のサービスが自己負担なしに現物支給される。他に教育扶助、障害者・母子・児童加算などがある。一方で、国保被保険者は平均世帯所得145万円の中から、平均保険料14万3千円を支払っている。しかも、医療機関の窓口で3割を負担しなければならない。国保被保険者の所得は、地域によって全国平均よりはるかに低い。一人当たりの平均所得は東京の119万6千円に対し、沖縄は48万4千円と半額以下だった。鹿児島、徳島、青森、高知も東京の半額以下だった。●館山市の高齢患者再度、医療現場での実感に戻る。亀田総合病院は安房医療圏最大の基幹病院である。館山市にある安房地域医療センターは、2008年、破綻した安房医師会病院を社会福祉法人太陽会が負債込で引き受けたものである。安房地域医療センターは、館山市の二次救急の大半を引き受けている。亀田総合病院の救命救急センターは、安房医療圏のみならず、君津医療圏、山武・長生・夷隅医療圏の南半分、東京都の島嶼を守備範囲にしている。安房地域医療センターに、脱水や肺炎で救急入院する高齢者は、23キロメートル離れた亀田総合病院まで到達する気力と資力がない。しばしば複数の疾患を抱えており、普段から健康だとは思えない。それでも、救急入院患者は初診患者が多い。安房地域医療センターに普段受診しているわけではない。交通費と医療費の自己負担分が重いのかもしれない。●高齢化と孤独化国立社会保障・人口問題研究所によると、日本の人口は2010年から、2030年までの20年間で1195万人減少すると推計されている。 一方で、全国で65歳以上の高齢者人口が726万人増加する。その内の267万人(37%)が首都圏の増加である。国民生活基礎調査によると、2000年には、65歳以上の高齢者のいる世帯の中で、単独世帯が307万9千世帯、夫婦のみの世帯が423万4千世帯だった。2010年には、単独世帯が501万8千世帯、夫婦のみの世帯が619万世帯に増加した。10年間で独居高齢者は63%増加した。国立社会保障・人口問題研究所によると、高齢者の単独世帯数は増加し続け、2030年には、65歳以上の人口の19.5%、717万人が独居になると推計されている。小松らの「医療計画における基準病床の計算式と都道府県別将来推計人口を用いた入院需要の推移予測」(文献1)によれば、療養病床・入所介護需要の増加は著しい。2010年と比較して2030年には847,822床増加する。このうち288,059床、率にして34%が、埼玉、千葉、東京、神奈川における増加分である。首都圏は、現状でも、療養病床・入所介護の需給が日本で最も逼迫している地域である。今後20年間で、現在の3倍の施設が必要になる。孤独化を考慮すると、実際の療養病床・入所介護需要の増加幅はさらに大きくなる。●相対的貧困率相対的貧困率とは、貧困線以下の世帯員数の全人口に占める比率である。貧困線とは、等価可処分所得(世帯の手取り収入を世帯員数の平方根で除した値)の全国民の中央値の半分の金額である。国民生活基礎調査によると、2009年の貧困線は、名目値で114万円である。単独世帯では手取り所得114万円、2人世帯では手取り所得161万円、3人世帯では手取り所得197万円に相当する。2000年台半ばの日本の相対貧困率は、OECDの中でメキシコ、トルコ、アメリカについで4位だった。1985年以来、上昇傾向が続いている。2009年の相対貧困率は、データのある1985年以後最高の16%に達した。国民生活基礎調査では、2009年の全世帯の平均所得金額は549万6千円、中央値は438万円だった。所得金額150万円未満は、全世帯12.2%、高齢者世帯(#)25.2%、児童のいる世帯3.3%、母子世帯19.9%だった。高齢者世帯、母子世帯に低所得者層が多い。しかし、生活意識調査では、生活が大変苦しいとした世帯は、全世帯27.1%、高齢者世帯21.3%、児童のいる世帯31.0%、母子世帯50.5%であり、子供を持つ家庭、特に母子世帯で生活が大変苦しいと実感されていた。#65歳以上の者のみで構成するか、又はこれに18歳未満の未婚の者が加わった世帯●特別養護老人ホームの個室化(ユニット型)2001年厚労省は、特別養護老人ホーム(特養)を、「終のすみか」と位置付けて、完全個室化する方針を決めた。10名程度の入居者を一つのグループにして、グループごとに食堂、談話スペースなどの設備を設け、自宅に近い環境の中で介護サービスを提供する。居住費については自己負担として徴収することにした。当初より懸念があった。玖珂中央病院吉岡春紀院長の意見(2001年4月11日)を紹介する。意識状態に問題のある場合には個室にする意味はありませんし、むしろ意識障害のある重介護者が一人一人別の部屋になると、今のシステムでは介護スタッフの人数が圧倒的に足りません。全て個室にすることで建設費用は当然アップします。大半が補助金で建設されますが基は税金です。「要介護4」以上の重介護者は介護できないのではないかと思います。個人負担が払えず行き場を失う要介護者を誰が自宅で介護するのでしょうか。質素でよいから使いやすい施設をつくるべきだと思います。吉岡春紀院長の懸念は的中した。2008年7月22日の読売新聞は、新型特養の経営悪化を伝えた。開設2ヶ月前の05年10月、政府の社会保障費抑制策を受け、介護報酬が大幅に削減された。入居者から1人月額8万円の居住費を徴収できれば赤字にならず、借入金も返済できる計画だった。ところが、同時に導入された低所得者対策で、計算が狂った。施設が受け取る低所得者分の居住費に、月6万円(本人負担と公費補てん)という上限額が設けられたためだ。この結果、「居住費は、建設費用をもとに、入居者との契約で自由に設定できる」という当初の国の方針に沿って月6万円以上の料金を設定した施設では、軒並み経営が苦しくなった。「これからは特養も、質の高いハード、ソフトを目指せという国の方針に沿って整備したのに、はしごを外された気分。」2010年4月、利用者の負担軽減と供給を増やすために、厚労省は特養の個室の面積基準を8畳から6畳に狭める方針を打ち出したが、個室推進の方針を堅持している。この現状に対し、群馬県の大澤正明知事は以下のように語って厚労省の現状認識を批判した。「今入居されている方の中には、国民年金をフルに受給できない方もたくさんいらっしゃいます。理想論で『ユニット型』を進めるというのは、私は、現状認識が少し違うのではないかなという思いがあります。そのため、群馬県としては『多床室』も併設して進めたいと思っています。やはり、『多床室』と『ユニット型』では、一か月の入居費用も6万円前後の差があります。」長野県の社会福祉法人敬老園の理事長である斎藤俊明氏も、ブログで個室化に異議を唱えている。5ヶ所の特養。現入所者340人のうち、本日現在、平均年齢85歳(男性81歳、女性87歳)、男性27%、女性73%。平均介護度は4.3と重度です。女性が多いことは、介護サービス全体にいえますが、男性に比べて年金の額が低額の方が多いことも費用負担の少ない多床室のニーズが高い要因の一つでもあります。この春(2012年)開設した特養。個室の希望者が2%、50の個室を埋める苦労に比べ、多床室は、満床でスタートし、3月31日現在では、多床室希望の待機者が815人を超えています。就業構造基本調査によると、看護・介護するために離職した人数は、年間10万人前後を推移してきたが、最新のデータ(2006年10月から2007年9月)では、年間14万4800人に達した。長年在宅医療に携わっている小野沢滋医師によると、入所介護の費用を負担できない貧困家庭で、息子や娘が仕事を辞めて介護に専念せざるをえなくなっている事例が目立つという。彼の経験では、退職する息子、あるいは、娘の平均年齢は、52歳だとのこと。52歳で仕事を辞めると、彼らの生活資金が枯渇する。貧困が再生産される。無理な在宅介護は、虐待、自殺、殺人の原因となる。厚労省は、特養に対し、要介護度4、5の重度者を70%以上にすることを義務付けている。入所者の多くは認知症が進んでいる。厚労省の個室化方針には矛盾がある。重度の要介護者は個室だと目が届きにくく、介護もしにくい。個室化によるプライバシーの尊重より、介護しやすい多床室での手厚い介護が優先されるべきである。特養は、入所介護施設としては、利用者の負担が最も低い。現在、特養の入所待ちが、数十万人になり、「終のすみか」が圧倒的に不足している。「背景にあるのは、危機に立つ国家財政と、厚労省のかたくなとも思える在宅介護への誘導である」(河内孝『自衛する老後』新潮新書)。厚労省の方針は、高齢の要介護者を健康にして自宅に戻すことが可能であり、それを目指すことが正しいという無理な理念に基づいている。人生は、生老病死の順に進んでいく。老、病の後には死が来る。まれに、要介護者が、元気になって自宅に帰れたとしても、次はそうはいかない。独居を含めて、高齢者のみの世帯が増加し続けている。人生の終末期を個人に押し付けるのは不可能になった。超高齢化社会では、老病死を前提にして、社会全体で死を上手にこなしていかないと、不幸の総量を増やす。●厚労省のかたくなな態度はなぜ生じるのか歴史を俯瞰すると、家族と部族がいてそこで生産がほとんど成り立つような分節分化の時代、封建社会や資本家と被搾取階級という分類が可能な初期資本主義社会など階層分化の時代を経て、現代社会は、社会システムの機能分化の時代になった。現代社会では、医療を含めて、経済、学術、テクノロジーなどの専門分野は、社会システムとして、それぞれ世界的に発展して部分社会を形成し、その内部で独自の正しさを体系として提示し、それを日々更新している。例えば、医療の共通言語は統計学と英語である。頻繁に国際会議が開かれているが、これらは、医療における正しさや合理性を形成するためのものである。今日の世界社会は、このようなさまざまな部分社会の集合として成り立っている。それぞれの部分社会はコミュニケーションで作動する。ニクラス・ルーマンはコミュニケーションを支える予期に注目し、社会システムを、規範的予期類型(法、政治、行政、メディアなど)と認知的予期類型(経済、学術、テクノロジー、医療など)に大別した(文献2)。規範的予期類型は、「道徳を掲げて徳目を定め、内的確信・制裁手段・合意によって支えられる」。違背に対し、あらかじめ持っている規範にあわせて相手を変えようとする。違背にあって自ら学習しない。これに対し、認知的予期類型では知識・技術が増大し続ける。ものごとがうまく運ばないときに、知識を増やし、自らを変えようとする。「学習するかしないか―これが違いなのだ」。ルーマンは「規範的なことを普遍的に要求する可能性が大きく、その可能性が徹底的に利用されるときは、現実と乖離した社会構造がもたらされる」と警告する。例えば、耐震偽装問題に対する過熱報道をうけて、建築基準法が改正された。07年6月20日に施行されたが、あまりに厳格すぎたため、建築確認申請が滞ったままの異常な状態が続き、建築着工が激減した。多くの会社が倒産に追い込まれた。日本のGDPが1%近く押し下げられたとする推定もある。耐震偽装そのものによる実被害は知られていないが、過熱報道は日本経済と建築業界、そして日本国民に大被害をもたらした。東日本大震災で行政が迅速に対応できなかったのも、行政が実情ではなく、法律に基づく統治システムだったからである(文献3)。行政は,法,すなわち過去に作成された規範と前例に縛られている。しかも、法は、適切に運用されていなくても、国家の権威と暴力を背景にした強制力を有する。したがって,行政は、過去になかった事態に対し、未来に向かって、臨機応変に試行錯誤しつつ、最適な行動を選択することが原理的にできない。 肥満を目の敵にした特定検診でも感じたことだが、厚労官僚は、特定の個人や団体から聞いた規範色の濃い仮説に、安易に乗る傾向があるのではないか。仮説が法的に規範化されると後戻りが難しい。それにしても、特養個室化へのこだわりは強すぎる。現在(2012年6月)の社会・援護局長の山崎史郎氏が、課長時代に、特養の個室化を強力に推進したと聞く。行政は、科学と異なり、正しさより、法に基づく地位で発言権が決まる。厚労省のかたくなな態度には、人的要因があるかもしれない。●結論日本の国家財政が危機的状況にある中で、国民が高齢化し、孤独化している。格差が広がり、貧困層が増え続けている。生活保護を受給していない貧困層の中に、医療を受けにくくなっている人たちが相当数存在するのは間違いない。加えて、今後、首都圏では要介護者が爆発的に増加する。一方で、母子家庭問題に象徴されるように、若年者への社会保障があまりに軽視されすぎてきた。高齢者だけを優遇しすぎると、少子高齢化がさらに進み、高齢化対策が難しくなる。貧困化、孤独化が進む中で、厚労省がこだわる特養の個室化は、実情に合わない。需要の多い多床室の供給を大幅に増やすべきである。厚労省による在宅介護へのかたくなな誘導は悲劇を生む。現状の制度では、首都圏の爆発的な高齢化に対応できない。日本の財政状況で、万全を求める余裕はない。家族に頼らない質素な介護の方法を考え出す必要がある。医療・介護で雇用を増やすべきではあるものの、無駄遣いが許されるわけではない。医療・介護全体として費用を指標化し、全体として質素にしていく必要がある。必要な介護を提供するためには、高額な割に成果の少ない医療を保険診療から外すことも検討しなければならない。モラルハザードを防ぐためには、利用者による費用負担の大きさとサービス水準の逆転は可能な限り避けなければならない。「等しきは等しく、不等なるものは不等に扱わるべし」(アリストテレス)。 <文献>1 小松俊平, 渡邉政則, 亀田信介: 医療計画における基準病床数の算定式と都道府県別将来推計人口を用いた入院需要の推移予測. 厚生の指標, 59, 7-13, 2012.2 ニクラス・ルーマン:「世界社会」 Soziologische Aufkl?rung 2, Opladen, 1975. 村上淳一訳・桐蔭横浜大学法科大学院平成16年度教材)3 小松秀樹:大規模災害時の医療・介護. 『緊急提言集 東日本大震災 今後の日本社会の向かうべき道』pp64-73, 全労済協会. 2011年6月.

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福島での意味

南相馬市立総合病院神経内科 小鷹 昌明 2012年6月13日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。  「MRICの記事を読みましたが、本当のご意見をお聞かせください」ということで、数回程度インタビューを受けた。それらは、医療系ジャーナリストやテレビ局ディレクター、写真家、新聞記者、難病患者支援団体、あるいは個人的な研究目的でやってきた人たちであった。質問の中心は、決まって「なぜ、大学病院を辞めたのか? 目的は?」ということであった。一言、「かつての自分を取り戻すため」と言えれば格好いいのかもしれないが、暫定的に「私の中にも、まだまだチャレンジグでエキサイティングな部分が残されているのか」、「被災地の人たちとのネットワークとはどういうものなのか」、「医療を中心とする街の復興には何が必要なのか」、延いては、「感動や生きがいをどうすれば味わうことができて、いかにすれば、それを持続させられるのか」、そして、「そのためにはどのように個性を引き出せばよいのか」など、思いつくまま漠然と回答した。しかし、そのような返答では十分な理解を得られないらしく、「なぜ、福島県浜通りの、この放射線被爆地帯なのか?」というように、質問は続いた。確かに私は、大学病院を退職するにあたり、「准教授など、成りたくても成れないのだよ」という説得を何度も受けた。“成りたくても成れないものにようやく成れる”という満足を得たいのか、“やりたかったらすぐやらせてもらえる”という納得を求めたいのか。結局、私は後者を選択しただけである。それは、「発動したいことが発動できて、発言したいことが発言できる」という現場で、すなわち、思想に則って生きられる境遇である。無論どこへ行ったとしても、私の言説がすべて正しいわけではけっしてないし、やりたい行動がすべて許されるわけでもない。赴任して2ヵ月が経とうとする中で、この土地にもだいぶ慣れてきた。桜は散り、新緑の眩しさも一段落したこの時期に、インタビューを受ける度に自問自答してきた“ここに来た理由”について、再度考察を加える。人間は本来、我が儘で、身勝手で、自分よがりな生き物である。若い頃の私は、状況を省みずに行動し、周りを振り回し、周りからも翻弄されてきた。「変化や変革を求めていくことが人生だ」という考え方しかできなかったし、常に“正解”にたどりつくよう“意味”を求め、“等価”を条件に人生をやり過ごしてきた。歳を重ねるごとに、“適応”や“維持”といったものが行動の原則であると感じるようになってからは、“正解”を得ることではなく“成熟”を待つことが、生きるうえでも、医療を行ううえでも大切であると認識するようになった。“正解”は即断即決を理想とするが、“成熟”は時間が大切である。神経難病のような患者を診たり、周囲の仲間との同調を図ったりしていくには、私自身も長期的な視野のもとで、長いスパンをかけて自分の置かれている立場を理解し、心身の変調に素直に従い、これまで見えていたものが見えなくなり、見えていなかったものが視界に入り、次第に変化する世の中の相貌を解釈する大切さを自覚するようになった。そういう“定常状態”というか、“低目安定”を生きるための術を考えるようになり、その一環として、成るべくして成っていく“システムとしての機能”の重要性にも気付かされてきた。そして、私は、この南相馬市を訪れた。就任して間もなく、私はこの病院で一人目の患者を看取った。高齢者の広範囲な脳梗塞で、来院したときには既に昏睡状態であった。「せめて一命を取り留めなければ」と、施した救急処置によって小康状態を保つことができた。縁もゆかりもない、右も左も分からない、知り合いなど誰もいないこの土地の患者に対して、それはもう、ただ医師の責務として、条件反射的に行った医療行為であった。残念ながら、患者は3日後に亡くなった。この患者は超高齢であり、過去にいくつもの疾病を抱えてきたし、正直を言えば、いつお迎えが来てもおかしくない方だった。もちろん医師として、特別な事情がなければ人命救助は当たり前であり、延命処置にも積極的である。それは、どのような患者、どのような現場、どのような状況においても同様である。だから、「この人ひとりを助けることに、どんな意味があるのだろう」などと考える余地は、当然ない。いくら私とて、そのような想いは、感覚として身に付いている。そういうことを考えると、世の中というものも「偶然その場に遭遇し、意外にも手を差し伸べることになり、行きがかり上そうなった」という行為の集まりで成り立って欲しいと願う。「たまたまそこに出くわしてしまったが故に、巻き込まれて、なんだか知らないけどいろいろやってしまった」という、言ってみれば、そういう合理的でないものに人は動かされるし、意味付けは後からなされるものである。“意味”とは、ある価値に則った合理性のことだが、意味があることの方が正しくて、そうした価値観でしか物事が動かない世の中よりも、偶然居合わせてしまった状況で、意味を度外視して行動できる世の中の方が、ずっと暮らしやすいような気がする。医療行為で言うならば、私と偶然出会わなかった違う誰かの診療は、違う誰かの手によって、本能的でもよいから円滑に行われて欲しい。「異なる地域の誰かの相手は、その地域の誰かがやってくれるだろう」と思えば、さほど気にせず、それほどプレッシャーにも感じず、それぞれの地域で、それぞれの医療者が余裕を持って働いていける。私がこの地に来て、最初に感じた理想としての医療は、「当たり前のことが当たり前になされる体制」についてであった。医師の私が言うのも気が引けるが、人助けや人命救助なんてものに、さしたる意味など考えない方がいいのかもしれない。意味を超えた行為だから、人はどんな現場でも、それを実行することができるし、理由など考えずに仕事に没頭できるのである。そもそも人道的支援などというものは、ものすごく衝動的で、我欲的で、こう言っては何だが自己満足的な行為である。合理的どころか、理性的でも、分別的でもほとんどない。私がここに来たことも、そういうことなのかもしれない。冒頭の部分で、何とか動機を考えてはみたものの明確な説明ができなかった理由は、結局そういうことのようである。「何かをしよう」というよりは、無意味、不合理、非論理的、直観的な部分に、単に突き動かされて来た。きっとそれだけだったのかもしれない。救急車で運ばれて来た女性患者は、頭部外傷だった。仕事中に誤って側溝に落ち、コンクリートに額をぶつけた。擦過傷は骨まで達していた。結果的に5針を縫う処置となったために、縫合中に何度か痛みを訴えた。しかし、その声は終始明るく、痛みに耐えるというよりは、何かと闘っている形相で、むしろ痛いことを噛みしめているようだった。しかし、そうした態度も、現状を聞かせてもらうにつれて涙声に変わった。聞くところによると、親と息子とを津波で失い、全ての家財を無くした患者自身も、仮設暮らしであった。額の傷と心の傷と、どちらもキズには違いないが、「明るくなければ生きられない」、「笑っていなければがんばれない」と、言葉を絞り出していた。この患者にとって、本当に痛いのは額の傷ではなかった。そんなものよりは何倍も何倍も辛い、厳しい今の生活実態があった。意識消失発作の精密検査を目的として入院した女性患者は、やはり仮設入所者であった。車の運転中に突然意識を失い、そのまま自損事故を生じさせた。器質的な疾患は検出されず、問診して判ったことは、鎮痛薬依存ということであった。絶え間なく自覚する頭痛に対して、市販の鎮痛薬を多量に服用していた。覚醒作用を有する沈痛成分は、初期には不眠を導く。そうした現象を打ち消すために睡眠導入薬も、同時に多用していた。狭い仮設の部屋内では、いわゆる“嫁姑問題”が絶えなかった。密着した生活環境では、たとえ家族であったとしても、些細なことで人を苛立たせる。「電気を消せ」、「風呂の水を使いすぎるな」、「静かに歩け」などの口論が日常茶飯事であった。失われた家の権利を巡って家族は対立し、「誰も信用できない」と打ち明けた。だからと言って、どこかで身体を休めることもできず、家計を支えるためには、肉体労働を重ねるしかなかった。退院のときまで、面会者はいなかった。どんな世界でも生きていくのは大変である。それは、被災地に限ったことではないかもしれない。しかし、想像を絶するほどの圧倒的な現実が、住民を覆っていた。この険しい日常がこの地を囲っていた。確かに震災など起こらなくとも、非日常はいかようにも日常の中に潜り込んでくる。小さなトラブルは常に起こっているし、大きなアクシデントだって、いつ発生するとも限らない。雷雨や突風、竜巻や台風、事件や事故など、明日、何があるか分からないのが、今の世の中である。しかし、偶発的にどんな災害が発生しようと、大きな事故が起ころうと、悲惨な事件が生じようと、当たり前だが、そのようなものに意味などない。余地や予見など、できようにもない。だから、私は、その瞬間までこの日常を続けるしかないであろうし、多くの人もそうであろう。それが“生きる”ということなのではないか。結果的にそこが自分に与えられた環境となり、ここで生きるしかないと覚悟したときに、人は初めて口惜しさとか、妬ましさとか、自分の邪悪さとか、罪深さとか、攻撃性とか、生きていくことを考える。偶然にも昨日は何事もなく、今日を、この瞬間を迎えることができた。だからといって、それがずっと続く保証もない。次には、新しい別の何かが非日常となって発生する。しかし、この些細な日常が剥ぎ取られて非日常を経験したとしても、絶望を感じたとしても、私たち庶民にできることは、次の日常が回復するまで、ひたすら昨日と同じ暮らしを続けるしかないのではないか。ここには、耐えている人たちが大勢いる。生きる意味を必死に探している人たちがいる。だから意味を追求しようとして取り組んでいる人たちや、強い使命感や合理性で行動している人たちを、もちろん否定するつもりはない。メディアや外部の人はそれを求めたがるし、その方がすっきりしていて分かりやすいのも事実である。インタビュアーたちは、私の“人道的使命感”だとか、“職業的責任感”だとか、“良心的義侠心”だとかいう回答を期待していたようだが、実際のところは、単なる興味や関心だけで、めぐり逢い、立ち入り、成るべくして成るように、たまたまたどり着いてしまった。そして私は、今、この現場にどういうわけか居合わせている。何の脈絡もなく、なんの因果もなくここにいる。ここで必要なのは合理性でも、論理性でも、ましてや理屈や道理でもなかった。ひたすら、丁寧に患者と対峙するだけの現実的日常だけであった。もしかすると、それが私にとっての、ここでの“意味”なのかもしれない。結局、私は何をしに来たのか。何がしたいのか。福祉や介護だとか、ネットワークだとか、生きがいや感動などと言っているが、もちろん、そうしたものを充実させたいし、実践していく心づもりはある。しかし、だからと言って、それらを極めたり、達せられたりできるとは思っていない。“システムとしての機能”のためには、長い長い年月をかけた成熟が必要である。出会いや思いつきや触発を繰り返していく中で、少しずつ周囲との協働が構築され、本質というか、意義というか、そういうものが自ずと見えてくるのではないだろうか。たとえ本質にたどり着けなくとも、その過程を何かに応用して、何か役に立つものとして実行できればそれでいいと思う。今の私の考察から考えると、できることは、結局そういうことなのかもしれない。

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医師と「法への不服従」に関する論考

神戸大学感染症内科岩田 健太郎 2012年6月12日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 平岡諦氏の「日本医師会は「医の倫理」を法律家(弁護士)に任せてはいけない」(MRIC. vol. 496. 497)を興味深く読みました。平岡氏は「医の倫理」は「法」よりも上位にあり、日本医師会は「医の倫理」に遵法を要求していることから、法律家(弁護士)が「医の倫理」規定に参画するのは間違っていると主張します。本稿の目的は平岡氏のこの大意「そのもの」への反論ではありません。平岡氏が指摘するような日本医師会の医療倫理への「操作」や歴史的プロセスについて、あるいはそこにおける弁護士の意味や役割についてぼくは十分な情報を持っていませんし、また関心事でもないからです。しかし、部分的には異議を持ちましたので、その点については、あくまでも各論的に指摘したいと思います。アメリカ医師会の倫理綱領を紹介して平岡氏はそこで「『法への非服従』を謳っている」と説明し、「A physician shall respect the law and also recognize a respondsibility to seek changes in those requirements which are contrary to the best interests of the patient」という文章を紹介します。しかし、「法への非服従」には二つの意味があります。一つは現行法を遵守しつつ、その法が「悪法である」と主張して変化を求めること、もう一つは現行法を悪法だと無視して進んで違法行為を行うことです。平岡氏が主張する「法への非服従」は後者にあたります。しかし、アメリカ医師会の文章では「seek changes」と書かれていますから、素直に読めば前者の意味と理解するのが自然です。平岡氏は自身の見解、医師の「法への非服従」にあまりにこだわるあまり、AMAの見解を曲解しています。ナチスドイツが行ったユダヤ人やその他の民族の大虐殺、そして医療の世界における非道な人体実験は我々の倫理・道徳的な観念に大きな揺さぶりをもたらしました。問題は、これらの非道な行為が「悪意に満ちた、悪魔的な集団によって行われた」というより、ハンナ・アーレントらが指摘するように、普通の常識的な人物たちが当時の法と上司の命令に素直に従って行った悪烈な行為であったことが大きな問題であったのです。ですから、それに対する大きな反省を受けて、「明白に犯罪的な命令には従ってはならない」(ハンナ・アーレント「イスラエルのアイヒマン」みすず書房 225ページ)という考えがでてきました。これが平岡氏の言う「法への非服従」でしょう。さて、「明白に犯罪的な命令には従ってはならない」は普遍的な原則です。ナチスドイツの法と命令に従った全ての人に適応可能な原則なのですから。したがって、「法への非服従」を求められる職業は平岡氏が主張するように医師だけに要求される倫理観ではありません。看護師などの他の医療者や、教師や、あるいはあらゆる社会人にも適用可能な原則です。しかし、ナチスドイツにしても、日本の731部隊にしても、その人体実験は極端なまでに悪らつで、また例外的な悪事でした。医療者は一般的に善良な意志を持っており、また善良なプラクティスを心がけています。それが必ずしも患者にとって最良な医療になる保証はありませんが、少なくともナチスドイツや731部隊的な行為は日常的には行われません。あれは、極めて例外的な事項です。日常的にあんなことが頻発されてはたまったものではありません。例外的なのだから忘却しても構わない、と申し上げたいのではありません。ハンナ・アーレントが指摘するように、そのような例外的な悪らつ非道は「ふつうの人」にも起こりえる陥穽を秘めています。だから、ぼくらはそのような「極端な悪事」にうっかり手を貸してしまうリスクを常に認識しておかねばなりません。繰り返しますが、「明白に犯罪的な命令には従ってはならない」というハンナ・アーレントの格率は、そのような極端な事例において適応が検討されるもので、日常的な格率ではありません。一方、アメリカはかなり強固な契約社会であり、法とか社会のルールを遵守するのが正しいと主張する社会です。アメリカのような契約社会でルールを破っても構わない、という考え方はかなりリスクが大きいのです。医師を含め、医療者も法やルールをきちんと遵守することが日ごろから要求されています。平岡氏のいう「法への非服従」はアメリカ医療の前提にはありません。だからAMAはseek changesとは言っても、act against the lawとは明記しなかったのです。もしアメリカにおいてそれが許容されることがあったとしても、繰り返しますが、極めてレアなケースとなるでしょう。アメリカ以外の社会においても、法への非服従が正当化されるのはナチスドイツ的な極めて例外的な悪事、「明白に犯罪的な命令」に限定されます。しかも、何が犯罪的なのかは自分自身で判断しなければならないのですが、その基準は「あいまい」であってはなりません。ハンナ・アーレントは「原則と原則からの甚だしい乖離を判別する能力」(同ページ)が必要と述べます。「甚だしい」乖離でなければならないのです。臨床試験の医療倫理規定であるヘルシンキ宣言もナチスドイツの人体実験の反省からできたものですが、ホープは極めて例外的なナチスドイツ的行為が、日常的な臨床試験の基準のベースになっていることに倫理的な問題を指摘しています(医療倫理、岩波書店)。あまりにも杓子定規で性悪説的なヘルシンキ宣言のために、患者が医療サービスを十全に受ける権利が阻害されているというのです。形式的で保険の契約書みたいなインフォームドコンセント、過度に官僚的なプロトコルなどがその弊害です。医療倫理を善と悪という二元的でデジタルな切り方をするから、こういう困難が生じるのです。多くの場合、医療の現場は白でも黒でもないグレーゾーンであり、ぼくら現場の専門家に求められるのは、「どのくらいグレーか」の程度問題なのですから。そして、アメリカであれ、日本であれ、他の世界であれ、医師が「法への不服従」を正当化されるのは(正当化されるとすれば、ですが)、極めて黒に近い極端で例外的な事例においてのみ、なのです。また、平岡氏は日本医師会がハンセン病患者の隔離政策に対応してこなかったことを批判します。その批判は正当なものです。しかし、それは「法の改正を求める」という方法と「法そのものをあえて破る」ことが区別されずに批判されています。たとえば、現行の悪法を悪法だと批判し、改正を求めることもひとつの方法なのです。そして、(引用)『医師の職業倫理指針』では「法律の不備についてその改善を求めることは医師の責務であるが、現行法に違反すれば処罰を免れないということもあって、医師は現在の司法の考えを熟知しておくことも必要である」となっています。すなわち、日本医師会は「遵法」のみを医師に要求し、「法への非服従」を医師に求めていないのです。このことは、日本医師会が「悪法問題」を解決していないことを示しています。(引用終わり)と医師会も「法律の不備」を指摘し、改善を求める必要は認めているのですから、少なくともAMAと(WMAはさておき)主張はそう変わりないのだとぼくは思います。また、平岡氏はジュネーブ宣言を引用して「いかなる脅迫があっても」と訳しますが、原文は「even under threat」、、脅迫下においても、、、という言及のみで「いかなる」=under any circumstances、とは書かれていません。この点では平岡氏の牽強付会さ、議論の過度な拡大解釈、が問題になります。平岡氏は日本医師会が「世界標準」から外れており、そこに(WMAに)従わないのが問題だといいます。その是非は、ここでは問いません。しかし、そもそも医の倫理に「世界標準」などというものを作ってしまえば、それは倫理を他者の目、「他者の基準」に合わせてしまうことを意味しています。しかし、たとえWMAがいう「規範」であっても、それが自分の中にある道徳基準を極端に外れている場合は、それに従わないというのが、カントらが説く自律的な倫理観です。AMAがこういっている、WMAがそう訴えている、「だから」それに従うというのは、そもそもその自律的な倫理原則から外れてしまいます。これは本質的なジレンマです。自律と他律のこのジレンマは、ヘーゲルら多くの哲学者もとっくみあった極めて難しい問題ですが、いずれにしても「世界標準だから」医師会にそれに従えと言うのは、自律を原則とする医療倫理における大きなパラドックスではないでしょうか。AMAの倫理規定を読むと、ぼくはいつもため息を禁じえません。http://www.ama-assn.org/resources/doc/ethics/decofprofessional.pdfそこには例えば、Respect human life and the dignity of every individual.とあります。全ての人の生命と尊厳を尊重せよと説きます。しかし、その基盤となるアメリカの国民皆保険に強固に反対してきたのも、またAMAでした(医師の利益が阻害されるからです)。このようなダブルスタンダードが、もっとも非倫理的な偽善ではないかとぼくは考えます。日本医師会がどうあるべきかは、本稿の趣旨を超えるものですが、少なくともAMAやWMAを模倣することに、その回答があるのではないことは、倫理の自律性という原則に照らし合わせれば確かなのです。

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郷に入っても郷に従わず その4 ~食事の心理学

ハーバード大学リサーチフェロー大西 睦子 2012年5月8日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 前回のコラムで、人工甘味料と肥満や糖尿病の関係は、体の生理的反応と人間の行動的、心理的な要素が関与していることをお伝えしました。そこで今回は、『食べる』という行動が起こるまでの心理的な状況を、さらに深く考えたいと思います。例えば、みなさんが5人のお友達とレストランに行くことを想像してみてください。おそらく、5人とも違うメニューを選ぶことが多いと思います。私は和風パスタとチーズケーキを選んだのに、あなたはサラダにステーキを選んだ理由、それはなぜでしょうか。けっこう深い理由があるのです。1)嗜好最近の科学雑誌に、様々な文化の異なるヨーロッパ諸国において、1600人以上の子供たちを対象に、食事の嗜好と肥満の関係についての報告がありました。結果は、肥満の子供たちは、脂肪や糖分の多い食事を好んだということでした。動物実験で、食欲を抑制するホルモンであるレプチンが、空腹感を抑えるだけではなく、食べ物の嗜好にも関与していることがわかってきました。例えば、レプチン濃度が低いと、空腹感が増強するだけではなく、食べ物による喜びも増加します。●ということは、人種や文化の違いにかかわらず、肥満の子供は、高脂肪で甘い食べ物を摂取することによる喜びが強いと考えられますね。2)学習私たちは生後まもなく、食に対する行動的、感情的な反応を覚えます。この頃、親は重要な役割を果たします。なぜなら母親の食事は母乳に移行し、後の子供の嗜好に大きく影響するためです。従って、特に母親の食の影響は強いと思われます。離乳後、子供は自分で食べ始めますが、新しい食べ物に拒否反応を示し、少なくとも繰り返し10回以上経験して、ようやく受け入れます。このころの経験も、後の好き嫌いに影響します。さらに、食べることは、罪と報酬の意味もあります。食事の量や食べるスピードも、親の影響が大きいと考えられています。『ぐずぐずしないで、早く残さず食べなさい。』なんて、親に叱られた経験はありませんか?子供は食べ物を残すことに罪を覚え、出されたものは全部食べる習慣がつきます。3)再学習私たちの食事の好みは幼少期の経験に決まると考えられていますが、大人になって、再学習することによって好みを変えられることも報告されています。●これは、いいニュースです。子供の頃の悪い習慣を、大人になって変えるチャンスがあるのですから。4)食欲ドーパミンは、連続した学習による行動の動機付け(associative learning)と関係している神経伝達物質です。食事開始後、ドーパミンの分泌が上昇し、食欲が増強します。重要なのは、連続した学習によって、食べ物を想像するだけで、ドーパミンが分泌されるようになるのです。例えば、食べ物の写真、料理の音やにおいでドーパミンが分泌され、食欲が増加します。ストレスでもドーパミンの分泌が増え、過食になります。コカイン、覚せい剤は、ドーパミン分放出させ快感を起こします。セロトニンはドーパミンをコントロールする神経伝達物質です。食欲を抑えるには、ドーパミン分泌を抑制し、セロトニンを放出することとなります。最近、インスリンやレプチンもドーパミンに影響を与えることも報告されています。●やる気、ご褒美、学習などに関わるドーパミンは、脳の『快楽物質』とも呼ばれています。ドーパミンをたくさん増やしたい!と思いがちですが、やはりバランスが大切と思います。それは、5)の中毒に関係するからです。5)習慣、依存、中毒これは大トピックです。習慣、依存、中毒には、行動(心理的)問題が大きく影響します。2010年に、動物実験により、過食による肥満の脳内の分子経路が、麻薬中毒者のものと同じだとする報告があり、大変な話題になりました。米国フロリダ州のポール・ケネディ准教授の研究チームは、コカイン中毒者の脳内ではドーパミンが大量に放出され、ドーパミン2受容体が過剰に刺激されていることは明らかになっていましたが、同様な変化を「食事中毒」のラットで証明したのです。●食に限らず、人生において、喜び、幸せは大切ですが、実際はそれだけではないと思います。苦しみ、悲しみを克服しつつ得る喜びを経験することが、人間の成長につながるのではないでしょうか。私もそうなりたいと思います。6)感情感情、例えば、喜び、怒り、悲しみ、不安も肥満に影響します。肥満のひとでは、食事摂取による感情の変化に違いがあるとも言われています。肥満の人は、食べることで報酬を得ます。●誰でも美味しい物を食べると嬉しくなりますが、嬉しさの度合いが肥満の人は強いようです。7)決定意思決定は、自動的に即座にされる経路(これはかなり訓練されています)と、ゆっくりですが、コントロールした上で行われる経路と2種類あります。食べる行為に、この決定は重要な役割があると思いますが、残念ながら、動物実験モデルをつくることが難しく、まだまだ不明な点が多い分野です。●例えばみなさんが飲み物を注文するとき、『とりあえず生ビール(メニュー見ずに注文する人もいると思いますが)』という人もいますし、メニューをよく読んで『このカクテル下さい。』という人もいます。自分で決められず『お勧めは何ですか。』と店員に聞く人もいます。どうしてこんなに人は最終的な意志決定が違うのでしょうか?最後に、肥満には、環境の影響も大きな問題になってきます。環境とは、車など、便利な社会になったため、人々が動かなくなった点、スーパーマーケット、コンビニなどで、高カロリーの食品を消費者が買いやすくしている点(そういった商品が増えた、安くなった、目に留まる位置に置いてある)などです。駅のキヨスクで、大根やキュウリが売っているのは見かけたことはありませんが、お菓子はすぐに買って、すぐに食べることができますよね。『不便、面倒』という言葉は、売り文句にはなりにくいですが、思っているほど悪くはないかもしれません。

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タダ(無料)ほど高い物はない~医療の無駄について~

つくば市 坂根Mクリニック坂根 みち子 2012年6月1日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 福島県が独自に18歳以下の子供の医療費を無料にするという。これについて全国保険医団体連合会や著名人たちが中心となって福島の子供たちの医療費をタダにすべしと国にも訴えている。大変言いにくいが反対である。一見聞こえのいいスローガンだが、タダほど高い物はない。結局子供たちのためにならない。ただには多くの無駄がもれなくセットで付いてくる。これから先、福島原発に関連してお金は果てしなく掛かる。貴重な財源は本当に必要な時に必要な人に届くような制度設計にしなくていけない。医療に携わっている者なら、ただ(無料)の分野にいかに無駄が多いか知っているはずである。右肩上がりの社会ならば無駄も含めて許容することもあるだろう。だが現実を見て欲しい。今の日本にそのゆとりはない。結局必要な人に使われるべき財源が無駄な部分に使われ、真に必要な人に医療が届かなくなる。今回と同じように子供の医療費無料をうたう自治体や政治家が多い。選挙民の受けはいいがコンビニ受診を誘発している。時間外の医療費は通常の1.2倍から1.5倍掛かるがタダだと使う方にもその認識がない。自分の懐が痛まなければ、仕事を早く切りあげて時間内の病院に行こうというインセンティブが働かない。税金の無駄使いである。過重労働の勤務医対策としても逆行する。時間外のコンビに受診は医療者をとても疲労させる。まして福島県は医師や看護師が足りず四苦八苦している。どうしてもやるなら子供の時間内の医療費無料とすべきである。身体障害者の1級は医療費が掛からない。例えば心臓弁膜症で手術を受けた場合やペースメーカーを入れた場合は、現在では手術前より元気になってまったく普通に暮らせる人が多いが、術後は無条件で身体障害者1級となる。以後の医療費は生涯すべて無料である。疾患に関連する部分のみ無料とか、元気になって普通に暮らせるようになるまで無料という制度ではない。一度1級になると生涯無条件に更新される。一見誰も困らないのでこちらもずっとおかしいと言われながら放置されたままである。透析患者についても同様のことが言える。 以前は腎炎からの透析が多く、透析導入されると田畑を売ってお金を工面しなければいけない時期があった。多くの先人たちの苦労の末、透析はお金の心配をしなくても受けられるようになった。ところが、現在の透析導入理由は糖尿病が一位である。外来もしくは入院で食事や運動療法の指導をしても、まったく聞く耳を持たずに結局最後は透析導入、心筋梗塞、脳梗塞となっていく人もいる。この方々も透析となった時点で身障者1級、医療費はほぼ無料となるが、糖尿からの透析は様々な合併症が出てくるために一人当たりの医療費がと突出して多くなる。生活保護の人たちは医療費が掛からない。最近ようやく統計的にも明らかにされたが、軽症でも繰り返し病院に掛かる人たちがいる。病院側でも確実にお金が取れるので、外来のみならず、入院させて隅々まで検査を繰り返し、3カ月毎に転院してまた繰り返すといういわゆる貧困ビジネスに手を染める病院が後を絶たない。そこまでいかずとも、経営的に苦しい病院では阿吽の呼吸で生保の人たちに少しずつ余分な検査をして稼ぐのは日常茶飯事である。取りっぱぐれがなく、一見誰の懐も痛まないのでこの制度には付け入る隙があるのである。国は医療に営利化を促す点数をつけている。民間の医療機関は赤字になるくらいなら点数の取れる検査や治療をするのは当たり前である。不安定狭心症で心臓カテーテル治療をした人がいた。治療して元気になったがその間一旦職を失ってしまった。同時にやる気も失ってしまったらしい。本人は職探しをするより生活保護を申請した。こちらは労務の可否欄に当然可と書いた。面談に来た役所の人にも、生保より仕事を斡旋して欲しいと話した。すると、役所では話はするが自分でハローワークに行って仕事を捜す以外斡旋はできないと言われた。結局その人は生保をもらい続け、日がな一日テレビを見て糖尿病は悪化していった。健康に不安を持つ人は多い。病院に来てあれもこれも調べて欲しいという方はよくいる。それが病院にとっても利益となり患者の負担にもならなければ、いったい誰がそれを拒むというのだろう。そこで訴訟のリスクも負ってまで余分な検査はすべきでないと患者を説得する医師がどれほどいるだろうか。大学病院をはじめとする公立病院では働く方のコスト意識も低い。大学病院のような高度医療を提供するところに対して医療の内容を吟味するには、相当の専門的力量が要る。従って支払基金も高度医療提供病院の医療内容に関してはかなり素通りが多い。だが、レセプト上位 1%の人が総医療費の30%近くを消費し、レセプト上位 10%の人が総医療費の実に7割を占めているという。総額の医療費が事実上決まっている中で、高額医療費を使い続ける人が増えれば、一方で必要な医療が届かない人たちがでる。問題は目の前の患者に医療費という観点からは無自覚に医療を提供し続ける医療者側にもあるし、枝葉末節にばかり目を向けて、本来その医療が必要かどうかチェックする体制を作ってこなかった支払基金や厚労省にもある。聖域は要らない。すべて公開して欲しい。本質的な点検をやるには支払い側も専門的知識が必要になり、そうなると医療者側にも緊張感がもたらされる。書類さえ整っていれば素通りで、貧困ビジネスにも無料の医療分野にも踏み込まない、枝葉末節にばかり神経を使う今の支払い基金はない方がましである。同時に厚労省の不作為ぶりも目に余る。保険は互いの支え合いのシステムである。医療費の無料という大きな権利を手に入れる時には、医療費は謙抑的に大事に使わなくてはならないという義務も一緒に知って頂かなくてはならない。小学生の頃から社会保障のシステムと使い方を繰り返し教育しなくてはいけない。医療費は無料の人でも明細書を受け取りいくらかかったのか知らなくてはいけない。自分の医療が皆の保険料と税金に支えられていることを理解しなければならない。厚労省は、権利ばかり教えて守らなければいけないルールについて周知する努力はしているのだろうか。まさかそれは文科省の仕事と考えているわけではあるまいか。作家の曽野綾子氏が著書「老いの才覚」の中で、健康保険を出来るだけ使わないようにすることが目標の一つです。幸い健康なら、保険を使わずに病気の方におまわしできてよかったなと思うと述べられていた。この精神が医療保険を維持するために不可欠だが、残念ながらこう考えられる人はとても少ない。先日99才でペースメーカーを入れている人の家族から間接的に相談があった。もうすぐペースメーカーの電池が切れる可能性があるが電池交換に主治医が難色を示していると、家族は希望しているのにどうしたらいいでしょう、ということだった。なんといっていいのか返答に詰まった。セーフティーネットとしての保険の意味を理解していない。電池交換は、最低でも100万円かかる。身体障害者1級なので本人と家族の負担はない。保険は助け合いのシステムです。ペースメーカーのおかげで99歳まで心臓が止まらずに生きてこられたのならもう十分でしょう。どうぞそのお金は後進に譲ってください。そこまで言わないといけないか。この場合自費なら交換してくれと言うだろうかという意地悪な考えも浮かんでくる。罹る疾患によって医療格差が大きくなっている。特定疾患の指定を受けていない難病や高価な抗がん剤を毎月飲み続けなければいけない人にとって、医療費の工面が死活問題となっている。子供たちのワクチン接種も先進国の中で大きく後れを取っているが、財源がネックとなっている。一方、身障者の認定や生保など医療費が無料となる制度では、医療の進歩や相互扶助の精神が制度に反映されず、結果として一部の人たちは野放図に医療費が使えることになっている。透析や身障者であっても払える方には払っていただきたい。生保の人にも一旦払っていただきたい。身体障害者の認定は今の時代に合ったものに改定し本当に必要な人だけに出してほしい。今、医療費は決定的に足りない。医療機関は原価計算をしない公定価格のために慢性の赤字体質であり、医療費のかなりの部分が医療機関を通り越して営利企業に行っている。連続勤務の夜勤を寝ている扱いにして労働基準法違反からも賃金面からもスルーされている勤務医の労働環境もいつまで経っても手当てされない。健康保険は助け合いのシステムであるという啓蒙もなく、無料の医療費を使うときのチェック体制もなく、施された医療の内容を検証する体制がない今のシステムのままでこれ以上無料を増やしてはいけない。モラルハザードが増え大切な医療費が垂れ流されている。今の日本は生活保護者が200万人を越え、団塊の世代は退職し、子供が減って高齢者が増え、若者は就職できずにいる。つまり無産層が増え税金を払う人が減っているということである。その少ない納税者にとってほぼ恒久化した復興増税を含め、近年は実質増税が続き可処分所得は減り続け生活は真綿で首を絞めるように苦しくなっている。東電の賠償金も廻り回って納税者が払うことになるだろう。国に請求するということは、納税者全員で分担しましょうと同意義語である。国も自治体も安易に無料をうたってはいけない。口にする方は気持ちがいいかもしれないが、それはあなた達のお金ではない。本当は子供たちの借金である。今、福島の子供たちの未来を考えてすることは医療費を無料にすることではない。必要な人にはあとから還付すればいい。そこに必ずセットで付いてくる無駄がもったいない。結局子供たちのつけを大きくしてしまう。今の日本にそれだけのゆとりはない。子供たちの未来を考えるからこそ、1円たりとも無駄にしてはいけないのである。

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福島の医療現場から見えてきたもの

南相馬市立総合病院 神経内科小鷹 昌明 2012年6月2日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 2012年3月5日の福島県は、朝から雪だった。震災から1年が経とうとするこの日は、私が大学病院・准教授を退職してから初めて勤務する、市立病院への挨拶の日であった。私は郡山市のホテルから、浜通りまでの足をどう確保したらいいかを考えあぐねていた。病院事務に電話で尋ねたところ、「福島駅までは新幹線で行き、そこからタクシーを利用すればいい」との返答であった。関東の人間から見れば、「まさか」と思うような積雪量であったが、指示された方法は当たり前の交通手段だった。飯舘村を横切る阿武隈山中の県道は除雪されており、事務職員の言うように簡単に往訪を果たした。雪は小雨に変わり、降りしきる南相馬市の街並みは寒々しく、寂しかった。タクシー運転手と昼食を求めてレストランを探したが、オープンしている店はココスだけであった。のっけから不安を感じたが、病院の復興を願う院長・副院長の言葉は熱く、帰り際には事務職員一同が、立ってお辞儀をしてくれた。南相馬市の医療現場に行くことを打ち明けた数少ない知人の中で、私が福島県人からいただいた言葉は、『大学の現場の第一線で活躍されてきた先生が、被災地の医療機関にやって来てくれるということ、そのこと自体が“復興”であると感じました。今の福島には、先生のような明るさと勢い(すみません!)がとっても必要です。私は、「決意して来ました」と熱く語られる人の言うことよりも、「いや~、勢いだけで来ちゃって、やっちゃたかなぁ」と、笑って理由を話してくださった先生がとても好きになりました』という内容だった。正直、虚勢を張った部分もあるにはあったが、自分は期待され、注目され、勇気づけられた。これまでも何度か述べてきたように、私は、「より必要とされる現場に赴く」というシンプルな考察結果を得たので、この地を訪れたのだが、その一言がとても嬉しくて、嬉しくて、自分はこの土地でやっていけると思った。4月から本格的な勤務が始まった。そこには、一般診療科に混じって総合診療科や在宅診療科などが立ち上がっていた。14人いた常勤医は震災直後に一時期4人に減ったが、産婦人科医や小児科医が戻り、外科医も新たに加わり、現在15人に増えていた。いろいろなキャリアを積んだ医師が、いろいろな立場と役割とで、いろいろな働き方で働いていた。自分のやりたい理想の地域医療の実践を求めて、文字通り奮闘していた。それが実に快活というか、風通しが良いというか、気兼ねのない伸び伸びした雰囲気を感じた。意外にも、先輩医師の配慮からか、私の技術がすぐに求められるという状態ではなかった。すでに、非常勤にしろ、ボランティアにしろ、多くの医療者の支援が入っていた。私の診療すべき患者が外来に溢れているという状態では、けっしてなかった。ただ、半数近くの医師は、月単位、あるいは1年程度で移動していく派遣医師であった。もちろん、そうした応援はありがたいことではあったであろうが、短期的な支援しかできない医師では、患者の、延いては市民の信頼も定着していかないのではないか。慣れてきた頃に撤退しなければならないという、とても効率の悪い、綱渡り的な診療体制が続いていた。「今度新しく来た先生ですね。でも、また半年くらいで交代ですか」というような質問を、数人の患者から受けた。この病院で完結するような標準医療を提供するには、人の手はまだまだ足りなかった。隠さずに言うならば、医局でもっとも忙しそうで目立っている人は、それらの応援医師を束ね、もてなすとともに管理しなければならない、元気な“医局秘書”であった(秘書は仮設住宅にお住まいだった)。就任して1ヵ月、私は秘書より早く出勤することも、遅く帰宅することもなかった。南相馬市では、7万1千人いた人口が震災後に1万人にまで減少したが、現在4万6千人(3月末)に回復している。しかし、65歳以上の高齢者がそのうちの3割強を占め、仮設や借り上げ住宅での生活者は、合わせて2割にのぼる。被災地の中でも、原発問題を抱えるこの浜通りの疎外感は、おそらく特異的なものなのではないか。とにかく子供がいない。日曜日なのに公園に人がいない。だから、非常に静かであり、老人も、孫の“おもり”をする必要がない。高齢者は家に閉じ籠もりがちになり、支援の手が届かなければ、やがて“孤立死”が多発することは目に見えている。高齢化が加速度的に進行するこの地域の医療をどうしていけばいいのか。きれい事を言うならば、放射線被曝の低減は当たり前で、それに加えて雇用の確保、生活インフラの整備、教育、医療、福祉の充実、そして、文化的な暮らしを推進していかなければならない。経済や産業の停滞と、生活や文化の低下したこの土地に人が流入しないとしたら、市民は市民の力で支え合っていくしかない。現地でヘルパーを養成するとか、ケア・マネや介護士資格のある人に復帰してもらうとか、保健師にもっと権限を持たせるとか、サービス付き高齢者向け住宅(サ高住)をどんどん推進するとか、治療食をデリバリーするとか、NPOに業務を委託するとか、診療のサポートをすることはもちろんだが、職種を越えた“地域連携医療ネットワーク”の構築が急務だと感じた。南相馬市には、離散してどこでどうしているか分からない人たちが、まだまだたくさんいる。医療の提供側においても、子供を持つ母親の多くがこの土地を離れ、今では、医師よりも看護師や介護士不足の方が深刻である。このため市立病院では、4病棟のうち1病棟が稼働できないでいる。原発事故を契機に転院を余儀なくされた難病患者の多くも、病床不足で市内に戻れない。市に残った神経難病患者に、「もっとも厳しい状況は何か?」を尋ねてみた。「震災前は、デイ・ケアやショート・ステイを利用することができたが、他の土地でも働けるような健康な人たちがバラバラになってしまったので、福祉や介護を支える人が減ってしまった。これまでのサービスを受けられないので、家にいるしかない。しかし、その分、妻に大きな負担を強いてしまっていることが何より辛い」と話されていた。原発に対してストレートな怒りをぶつけるような人は、もうあまりいないし、津波被害の落胆を語る人も、それほど多くはない。そういう意味では、震災後のことを尋ねても、住人の気持ちはさまざまである。「もう、悲惨な過去ばかりを強調するのではなく、復興と再生なのではないか」という風潮と、「まだまだ多くの爪痕を残し、暗く沈んだ空気のままだ」という雰囲気とが交錯している。「復興に向けてがんばろう」と思っている人と、「なるようにしかならない」と思っている人とで、二分されているような気がする。つまり、「結構熱いが、肩の力は完全に抜けている」、そんな印象である。浜通りの人々にとっての海や大地というのは、単なる労働用地でも、物的資源でも、固定資産でもない。自分たちとは分離することのできない恵みや悦びの場であり、いわば共同のエリアである。そんな拠り所を奪われた人々の気持ちとは、一体どういうものなのか。自分の人生の再建に対して逡巡し、思案し、葛藤しているのが、今のこの土地における偽りのない、人々の姿なのではないか。「仮設は3年くらいしか住めない。土台作りもいい加減だからいつまでも住めるはずがない。東電の補償もいつまで続くか分からない。帰れるのか、それともここに新しい街を作るのか。それにしても、一体何が新しい生活なのだろうか?」という自問や、「飲んで食って寝るだけだから、楽と言えば楽だ」、「ここに居るしかないのだから諦めているというか、他に行くところもないから家に閉じ籠もっている」、「パチンコと散歩くらいしかやることないな」と打ち明けている住民に対して、何を届けていったらいいのか。「一夜にして解決できる」と凄んでいる説明や、「被災地に行ったら逆に励まされた」というような紋切り型の感動は、もう薄っぺらな言説にしか思えない。現状を目の当たりして、私は考えを是正せざるを得なかった。「何かを始めたい」と意気込んでは来たものの、“医療復興”というのは、システムを創造したり、パラダイムを変換したりすることではなかった。むしろ丁寧に修繕するとか、再度緻密化するとか、改めて体系化するとか、有機的に規模を拡大するとか、人を集めてそれらを繋ぐとか、そういうことが医療の復興であった。震災から1年が経過したこれからの時期は、言ってみれば救急処置を済ませた後の長い長いリハビリ期間である。“丸ごと刷新”とか、“そっくり改正”いうのではなく、手厚く手直しをしていくことである。復元とか修正とか補正とか綻びを繕うとか、そういうことである。だから私は、そういう場面を捉えたいと思っているし、データで示されないような事実を文章にして伝えたいのだが、そういうことは学術と一線を画する作業であり、学者からは一蹴されるに決まっている。医療の相手は一般の人々であるはずなのに、日本の医学界の中枢にいる人たちの対象は、やはり医師仲間であり、そんな仕事は間違ってもしない。であるからして、私のような医療の周辺にいる人間が言葉を置き換えて、分かりやすい事例を添えて“別の角度から見た医療”を、一般の方に説明しなければならない。そのためにも、直向(ひたむき)に自分というものを手がかりに思索し、自身の感じる違和を大切に、他者と向き合っていくつもりである。市立病院で展開されるであろう医療の現実を伝えていきたい。これが、私が福島に来たもうひとつの理由なのかもしれない。人が人に冷たくなれるのは、その土地に対して人間の出入りが多いときである。流動的な世界では、じっくり人間関係を組み立てることができない。「若い無知な人をじっくり育てる」とか、「老いた非力な人をゆっくり見守る」とか、あるいはまた、「傾いた商店を長い付き合いだから応援する」とか、「地元の特産品や伝統工芸を守ろう」とかいう気にならない。他人のために何かをするということは、想像するほど簡単なことではない。「人間は、自分で体験したことでないと分からない」と、つぶやいていた患者の言葉が引っ掛かる。支援者というのは、時として、当事者を置いてきぼりにして、自分が主役になろうとすることがある。だから、こういう状勢のときは、駆け回って何かをするのもいいが、本当はゆっくり話しを聞くところから始めなければならない。兎にも角にもゆっくり訴えを聞く。聞いて、見て、感じることである。そうした診療はとても地味な作業であり、根気が要る。あまりにも地味なので、「何もしていない」と思われるかもしれないが、新参者の私にできることは、結局、当面、取り敢えずは、人を好きになることぐらいしかなかった。『from FUKUSHIMA to our future』というようなニュアンスの言葉を、どこかしこで聞く。新しい生活に対して、「だいぶ落ち着いてきた」という声も確かに聞く。しかし、それは、やむを得ない選択肢の中での落ち着きであって、低位水準での安定であった。現実には、その土地に居るものにしか分からない、さまざまな葛藤が繰り広げられるであろう。昨年の夏に来たときよりも街の灯りは増えた。ココス以外にも、たくさん飲食店はあった。初めて暮らす潮風の街にも慣れつつある。そして、何よりも小雨の日でも寂しくなくなってきた。生活を立ち上げたばかりではあるが、何とかがんばれそうだ。この市立病院は、市民にとっての最後の砦であり、終着駅でもあった。そして、復興の拠点であり、シンボルであった。かろうじて津波の難を逃れた、市内でもっとも高い7階建てのこの巨塔は、医師4人、患者0人から奇跡的にも再建を果たしつつある。医療者たちの孤軍奮闘により、充分とはけっして言えないが、紛れもなく機能は保持されている。筋萎縮性側索硬化症やパーキンソン病など、進行するだけの疾患を扱う私のような神経内科医は、日々のメンテナンスの仕方を知っている。私は、己のそういう知識を応用して、この街の復興に役立てていくつもりである。

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南相馬市立総合病院での初期研修について

 亀田総合病院初期研修医1年 山本 紘輝 2012年5月27日 MRIC by 医療ガバナンス学会 発行 ※本記事は、MRIC by 医療ガバナンス学会より許可をいただき、同学会のメールマガジンで配信された記事を転載しております。 初めに、昨年起こった東北地方太平洋沖地震でお亡くなりになられた方にお悔やみ申し上げます。南相馬市立総合病院にて実習をおこなった経験から、当院における今後の研修の可能性について私見を述べさせて頂きます。私は母親のルーツが相馬であったこともあり、3.11の災害が起こった後、微力ながら被災地でのボランティアを行いたいと考えておりました。初期臨床研修マッチングの結果、研修が予定されていた亀田総合病院の片多史明先生や、南相馬市立総合病院の金澤幸夫先生、及川友好先生のお力添えの元、国家試験が終わった後に、南相馬市立総合病院にて1週間の実習を行う機会を頂きました。当院では高校の先輩であり、亀田総合病院の先輩でもある原澤慶太郎先生の下でお世話になりました。原澤先生は昨年秋から南相馬市立総合病院で勤務されており、この地の高齢者医療を先導され、約2000人の仮設住宅住民に対して集会所での出張予防接種を行い、血圧の自己測定を根付かせる活動を行っています。さらに4月には在宅診療部を立ち上げました。復興対策のメンバーとして常に革新的なアイディアで、南相馬の復興のみならず、この地がこれから東京、北京で起こる急速進行性の超高齢化社会”Rapidly progressive aging society”のモデルになると考え、日々新しい計画を生み出しています。亀田総合病院では地域選択実習にて南相馬市立総合病院での研修が可能ですが、私としては初期研修の2年間を南相馬にて行うメリットは大きく分けて3つあると考えております。1つめに初期研修は医療の基礎を学ぶ最も大事な2年間ですが、医療において地域に貢献すること、そして複雑な問題を抱えて困っておられる方々に向き合う精神を養うことは重要と考えます。研修を行いながら、未曾有の大災害後の被災地で地域に貢献することは大変有意義と考えます。被災地の現状は自分の目で見なければ分かり得ないと感じました。私は訪問診療に同行させていただいた際、介護者の疲弊を垣間みました。彼ら自身も、震災により避難を余儀なくされ、放射線の影響を危惧し続け、ストレスを受けながら1年以上過ごしています。疲れはピークに達していることでしょう。レスパイトやショートステイで介護者を休ませてあげることが急務となっています。仮設住宅への訪問診療では他にも驚かされた事がありました。部屋が寒く、そしてお風呂の段差があり高齢者にとって、非常に危険な環境でした。実際に段差による事故も起こっています。行政が考える被災地への支援政策と、実際のニーズとがかけ離れていると私は感じました。また、多職種との連携なくして、地域医療は成り立たないという現実も実感することが出来ました。2つめのキーワードとして「Rapidly Progressive aging society(RPAS)」という環境下で医療を行えることにあります。聞き慣れない用語かもしれませんが、南相馬では震災の影響で、放射線の影響を懸念した若い世帯が被災地を離れ、高齢者のみが取り残されてしまっている社会が形成されています。家族の離散は、既存の介護力の低下を意味し、生活に大きな変化をもたらしました。孫に会えず、寂しがっておられたお年寄りの姿には胸を打たれました。RPASを経験することがなぜ大切か、それは20年後の東京、25年後の北京に近似した世界が、南相馬という限定された地域に広がっているからに他なりません。近年、超高齢化社会と少子化が急速に同時並行で起こっています。その結果、当然高齢者中心の社会が形成され、社会のニーズも変化していきます。その変化に対応するためには、このような環境で研鑽を積み、次世代へと繋ぐsolutionを模索することが重要ではないでしょうか。3つ目に被曝に対する知識を深めることがあります。当院では、内部放射線被曝量を量るためのホールボディーカウンター(WBC)を用い、地域住民に対する検診が行われています。住民の方々は何を食べれば、どう行動すれば安全かを知りたいですし、それがわかれば安心して被災地で生活を続けることができるでしょう。被曝に関する知識を深め、住民の方々にフィードバックすることは、この先数十年、この国が取り組むべき課題を先取りすることでもあります。特殊な環境であるかもしれません。しかしながら、私はこの国で医師として働くにあたり、極めて未来志向な、問題解決能力を養える環境が南相馬市立総合病院にはあると感じました。現地で、日々奮闘されておられる先生方、スタッフの方々のご健勝を心よりお祈り申し上げます。

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