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認知症に限らず、運動が心身の健康に良いとすることに反対する者はいないだろうと思っていた。ところが運動は良くないと言った人がいる。それは自動車王と言われるフォード自動車の創立者ヘンリー・フォードだ。彼は「君が健康なら運動する必要はない。君が病気なら運動などをしてはいけない」という有名な台詞を残している。さて1999年に、アーサー・F・クレーマーという学者が、Nature誌に1ページの記事で「早歩きのような有酸素運動が脳の健康に良い」という研究報告をした1)。これを端緒に、最近まで認知症予防の運動といえば有酸素運動という時代になった。ところが近年、米国スポーツ医学会からこれに関するパラダイムシフトがあった。それによれば、高齢者において有酸素運動のみではなく、レジスタンス運動(筋トレ)、また片足立ちのようなバランス運動の3つをやってこそ、運動の効果が生まれるとされる2)。レジスタンス運動といえば筋力をアップ、またバランス運動は認知機能への効果もさることながら高齢者に多い転倒予防にはとても大切だろう。また私自身はデュアルタスク運動も欠かせないと思う。エビデンスが確立した有酸素運動まず有酸素運動による前頭葉が関わる認知機能への効果は、この20年余りになされた多くの臨床研究から確立したものと考えていいだろう。レジスタンス運動は遂行機能に効果的レジスタンス運動とは、筋肉に抵抗(レジスタンス)をかける動作を繰り返し行う運動。たとえばスクワットや腕立て伏せ、ダンベル体操など。10~15回程度の回数を反復し、それを1~3セット無理のない範囲(2~3日に1回程度)で行うことが勧められる。というのは、これは標的筋肉に負荷を集中する運動なので、その筋肉に疲労が残るだけに、十分な回復期間が必要になるわけだ。その効果は筋力・筋の持久力アップから体幹支持筋強化まで及ぶ。また、メタアナリシスから認知機能、とくに遂行機能への効果があると報告されている3)。注意すべきは循環器系への配慮。有酸素運動では動脈硬化度が一時的に低下するのに対し、レジスタンス運動の後では動脈硬化度が60分間にわたって増加する。レジスタンス運動中の一過性の循環器応答として、血圧の著しい上昇が古くから知られている。バランス運動は転倒予防にも静岡社会健康医学大学院大学の田原 康玄氏らの研究によれば、片足で20秒以上体のバランスを保てない人は、それができる人に比べて大脳の小血管の傷害の危険性が高く、認知機能が低下しているという4)。田原氏は、片足立ちのバランスが悪い人は、これが大脳疾患や認知機能の低下を示唆しているものとして注意を払うべきだと言う。この研究参加者は、841人の女性と546人の男性(平均年齢67歳)。参加者は片足立ちの測定と共に大脳のMRIを撮像し、大脳の小血管の状態が調べられた。その結果、20秒以上片足立ちできない人は大脳の小血管傷害(ラクナ梗塞や微小血管からの出血)が多くみられた。この結果から、「加齢に伴い増加する微小血管の傷害は動脈の可塑性を阻害するため、脳血流に悪影響を及ぼす」と考えられている。それはさておき、高齢者の転倒による大腿骨頸部骨折の重要性は深く広まった。その予防法として、ヒッププロテクターは一時世界的に注目され、わが国では柔道の受け身が注目されたこともある。しかし、決め手となる予防法はまだないようだ。その点、バランス運動は決め手にならないまでも、転倒を減らしてくれるものと期待される。デュアルタスク運動で脳を活性化さて近年、臨床研究の蓄積からデュアルタスク運動が、認知機能が健全な人はもちろん、認知症予備軍の軽度認知障害(MCI)の人や認知症の人にも有効とされる。その効果として、認知機能の改善のみならず運動、日常生活動作、QOLの改善まで報告されている。認知への効果からみると、デュアルタスクをやる時に生じる「まごつき」がポイントだろう。「まごつき」とは、思うように指示を実行できない自分への気づきからくる「おかしい、こんなはずでは、…エエィ!」という焦りだろう。そこでトライアルを繰り返し、ようやく「やった!!」に至るまでに繰り返す心の状態が「まごつき」だ。この「まごつき」こそ、これまでは使われていなかった神経細胞や神経回路を新たに活性化させることが期待できる。デュアルタスクに際しては、まず課題に示された運動を真似しようと企画(計画)し、また、自分が動作にした時「これで本当にいいのか?」と管理・制御するはずだ。ここまでのプロセスには「作動記憶」が関与する。ここまでの過程で要となるのは注意の分割だ。さらにこうした課題を正しくやり続けるには、集中・注意の持続が欠かせない。以上の働きでは、前頭葉付近の構造、とくに背側前運動野や頭頂間溝などが重要とされる。前頭葉は脳の司令部ともいわれるが、これは側頭葉や頭頂葉など他の重要な働きをする脳部位に指令を出してくれる場所という意味だ。米国スポーツ学会の高齢者向けの運動ガイドライン2)では、有酸素運動、レジスタンス運動、バランス運動の3つに、デュアルタスクあるいは太極拳まで加えた多種類の運動をバランス良くやることで、体力・知力の維持・増強のみならず、転倒事故の予防にもつながる可能性を強調している。参考1)Kramer AF, et al. Ageing, fitness and neurocognitive function. Nature. 1999 Jul 29;400(6743):418-419.2)2018 Physical Activity Guidelines Advisory Committee. 2018 Physical Activity Guidelines Advisory Committee Scientific Report. Washington, DC: U.S. Department of Health and Human Services, 2018.3)Landrigan JF, et al. Lifting cognition: a meta-analysis of effects of resistance exercise on cognition. Psychol Res. 2020 Jul;84(5):1167-1183.4)Tabara Y, et al. Association of postural instability with asymptomatic cerebrovascular damage and cognitive decline: the Japan Shimanami health promoting program study. Stroke. 2015 Jan;46(1):16-22.