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映画「路上のソリスト」(その2)【「不幸」になる権利はあるの?私たちはどうすればいいの?(ホームレスの自由権)】Part 2

(2)人道的な観点―逆に非人道的になるから支援センターのスタッフは、ロペスに「診断は役に立たない」「必要ないのは、彼を病人扱いする人間だ」とも答えます。そして、「友情を裏切るのは、彼の唯一のものを壊す」とやんわり忠告します。もう1つの人道的な観点として、本人が望んでいないので、保護することは逆に非人道的になるからです。もちろん、炊き出しなどの食料の支給はホームレスたちが望んでいることなので、人道的で望ましいです。そして、施設に入所させるなど決まった場所に住まわせることや、定期的に入浴させて清潔にさせることなどは、粘り強く説得して、彼らが納得するのであれば、人道的で望ましいです。しかし、それでも彼らが望まないのであれば、非人道的になってしまい、望ましくないことになります。よくよく考えると、日本国憲法でも定められている「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とは、本人が選ぶ権利であって、社会が押し付ける義務ではないです。つまり、人道的かどうかは、私たちが望ましいと思うかどうかではなく、彼らが望んでいるかどうかであるということです。これは、医療関係者としても、非常に悩ましい問題です。ロペスは「ナサニエルは精神障害によってホームレスとなり不幸だ」と考えました。しかし、これはあくまでロペスのような社会適応をしている多数派の解釈にすぎません。ここから、幸せか不幸かは、社会(多数派)で受け入れられているか、常に多数決で決められてしまう危うさがあることがわかります。つまり、精神障害者が何を幸せと思うかは、最終的には本人が決めることであり、その自由に精神医療が介入することは、「幸せの押し付け」であり、逆に非人道的になってしまうということです。そもそも、ナサニエルは、ホームレスとして日々一生懸命に生きています。一方、ロペスは、社会的には成功していますが、いつも記事の締め切りに追われて疲れきっていました。よくよく考えると、どちらが幸せか、何を持って幸せか、わからなくなってきます。なお、健康か病気かという線引きも多数決で決められてしまう危うさについては、身体完全性違和という特殊な状態を解説した関連記事1をご覧ください。<< 前のページへ | 次のページへ >>

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映画「路上のソリスト」(その2)【「不幸」になる権利はあるの?私たちはどうすればいいの?(ホームレスの自由権)】Part 3

ホームレスにどうしたらいいの?ロペスは、「助けてるつもりだった」「でも、助けようとしていた本人に敵意を持たれてる」と悩み、元妻に打ち明けます。すると、彼女は「必要な時にそばにいる友達でいて」と助言するのです。このセリフはまさに、ロペスとナサニエルの関係だけでなく、ロペスと元妻の関係もほのめかしているようです。ラストシーンでは、ロペスは仲直りの印として、ナサニエルと握手します。この握手は、ナサニエルが「自分の手は汚いから」と握手を拒んだ最初のシーンとは対照的で感動的です。ナサニエルは、いろいろあったけどロペスなら自分を受け入れてくると思えるようになったのでした。つまり、ホームレスへの最善の対応は、本人が困っていると決めつけて干渉するのではなく、困っていても関係ないと無関心になるのでもなく、本人が困っていると言ってきたらできることを支援することでしょう。これは、家族でもなく、他人でもなく、友達の関係です。そんな社会になることを願うという、この映画のメッセージのように思えてきます。このように自由権の視点で考えると、もちろんホームレスが増えていく社会は危ういわけですが、逆にホームレスがまったくいない社会も危ういように思えてきます。「路上のソリスト」とは?ロペスは、離婚して一人寂しく暮らしていました。そして、インターネットの普及によって、彼が勤務する新聞社にはリストラの波が押し寄せていました。「ソリスト」とは独奏者という意味で、もちろんナサニエルを指しています。同時に実は、もう1人の「路上のソリスト」として、人生の路頭に迷う孤独なロペスでもあることを暗示しているようです。そんななか、2人は出会うのです。ラストシーンでは、ベートーベンのコンサートを、ナサニエルの姉、ナサニエル、ロペス、そしてロペスの元妻が横並びで一緒に聴いています。ナサニエルが路上からアパート暮らしをするようになり、疎遠だった姉に助けを求めるようになったのと同じように、ロペスが元妻とよりを戻すことをほのめかしているように見えます。ロペスがナサニエルの人生に影響を与えたのと同じように、ナサニエルもまたロペスの人生に影響を与えたのでした。この映画は、ナサニエルの物語であると同時に、ナサニエルと深くかかわることで変わっていったロペスの物語でもあります。テーマは、ホームレス問題であると同時に友情でもあります。最後のロペスによるナレーションで、「統合失調症は友達ができると社会性が増すという論文がある」と紹介され、締めくくられます。これは、統合失調症であるナサニエルだけでなく、そうではないロペスにも当てはまるという、この映画のもう1つのメッセージでしょう。1)「ホームレス消滅」p.60、p.219、p.240、p.250、p.256:村田らむ、幻冬舎新書、20202)「ルポ路上生活」pp152-154、pp160-162:國友公司、彩図社、20233)「ホームレス収容所で暮らしてみた~台東寮218日貧困共同生活~」p.10、p.45:川上武志、彩図社、2021<< 前のページへ■関連記事映画「路上のソリスト」(その1)【それが幸せ?なんで保護されたくないの?(ホームレスの心理)】Part 1ドキュメンタリー「WHOLE」(前編)【なんで自分の足を切り落としたいの!?(身体完全性違和)】Part 1

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アニメ「インサイド・ヘッド2」(その2)【なんで不安やうつは「ある」の?どうすれば?(病的感情)】Part 2

シンパイが暴走すると?―病的感情のリスクシンパイは、「もう、ライリーにヨロコビたちは必要ない」と言い出し、なんと司令部からヨロコビたちを追放します。そして、ライリーが生まれてからヨロコビたちが大事に育ててきた「私はいい人」というジブンラシサの花を引っこ抜きます。そして、シンパイたち「大人の感情」のキャラクターたちだけで、ライリーの感情をコントロールしようとするのです。やがてシンパイは、「未来をしっかり見据える。起こりうるミスを全部予想しておくよ」と言い出し、次々と最悪のシナリオの映像を映し出して、ライリーに想像させます。すると、ライリーは「私は全然だめ」という心の声が聞こえるようになり、夜寝つけなくなります。そして、夜にこっそりコーチの部屋に忍び込み、コーチの評価ノートをのぞき見します。ライリーは、不安のあまり善悪の判断がつかなくあり、打算的になっていくのでした。さらに、次の日の試合中に、不安に飲み込まれてしまい、過呼吸の発作(パニック発作)を起こしてしまうのです。これは、「脳の暴走」です。ちょうど、シンパイがあまりにも動き回るため、感情操縦デスクの周りにできたオレンジ色の大きな渦巻きとして描かれていました。その中では、シンパイが固まって動けなくなり、点滅していました。このままでは、このあとに「脳の息切れ」である、うつがやってきて、ぐったりとして動けなくなりしばらく何もできなくなることを暗示しています。つまり、ダリィの出番になりそうです。これらが、不安とうつという病的感情のリスクです。なんでシンパイは暴走したの?シンパイは、暴走する前に、「大事なのは、これまでのライリーがどうであるかよりも、これからのライリーがどうなるべきかなんだよ」「ライリーの将来のために、彼女は変わらなければならない」と言っていました。つまり、思春期とは、単に自分がどうしたいかだけでなく、周り(社会)がどうしてほしいかも意識する時期です。自分が自分のことをどう感じているかだけでなく、相手(社会)が自分のことをどう感じているかも重要になってきます。そんななか、仲良しだった2人の親友が違う高校に行くと聞かされて裏切られたと感じたこと、その2人に当てつけで無視したり皮肉を言ってしまったこと、そして念願のアイスホッケーのチームに入れるかどうかの試練に直面していることなどが重なって、大きなストレスになっています。これが、シンパイが暴走した原因です。ここで誤解がないようにしたいのは、私たちはこれらのストレスはないに越したことはないと思いがちですが、実はむしろ必要です。これらのストレスがあるおかげで、思春期の子供は、これらのストレスを乗り越えて自己成長するからです。これは、ストレス関連成長(SRG)と呼ばれています。ただし、これらの思春期のストレスを乗り越えられずに、過呼吸を繰り返したりだるさが続く場合があります。これは、思春期危機と呼ばれています。その原因は、大きく2つあります。1つは、いじめなどのようにストレスが大きすぎる場合です。もう1つは、不安を感じやすいなど、もともとストレスに弱い場合です。<< 前のページへ | 次のページへ >>

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アニメ「インサイド・ヘッド2」(その2)【なんで不安やうつは「ある」の?どうすれば?(病的感情)】Part 3

本当のジブンラシサの花とは?ヨロコビたちが感情操縦デスクにようやく戻ってきたあと、ヨロコビはオレンジ色の感情の渦巻きの嵐の中で固まっていました。ヨロコビは、何とかシンパイをデスクから引きはがします。そして、もとのジブンラシサの花を戻します。しかし、シンパイから「ヨロコビの言う通りだよ。ライリーらしさは私たち感情が決めるものじゃない」と言われて、ヨロコビはハッとします。そして、さっき戻したばかりの花をまた引っこ抜くのです。すると、もともとジブンラシサの花が栄養源としている地下の「信念の泉」に流れ着いていた無数のさまざまな記憶のボールから、まるで芽のように光がどんどんと出ていき、新しいジブンラシサの花が現れるのです。そして、ライリーの心の声が頭の中に次々と響いていきます。「私はわがまま」「私はやさしい」「私は全然だめ」「私はいい人」…「私は強い」「私は弱い」「私は助けてもらいたい時もある」と。最後、ヨロコビは、新しいジブンラシサの花を抱きしめ、他の感情のキャラクターたちも次々と集まって抱きしめます。このシーンは感動的です。ジブンラシサの花とは、まさに自分らしさのメタファーであり、心理学では自我と呼ばれます。自分らしさとは、「私はこうだ」という自分に納得していることなのですが、実はそれは1つの「私」の良い面ではなく、だめなところも含めたいろいろな「私」の面をすべて受け入れるということなのです。すると、自分を大切に思えて、自分は大丈夫と思えてきます。自分は愛されるために完璧である必要はないと気付いていきます。それを、感情のキャラクターたち全員がジブンラシサの花をそのまま丸ごと全員で抱きしめるシーンとして、わかりやすく描いています。このように自分は完璧である必要はない、良いところもだめなところも含めてこれが自分だと思えることは、自己イメージの安定と呼ばれています。すると、やがて相手に対しても完璧であることを求めなくなります。良いところもだめなところも含めてこれが相手だと思えることは、他者イメージの安定と呼ばれています。こうして、相手も愛するために完璧である必要はないと気付き、相手も大切に思えるようになるのです。逆に言えば、自己イメージが安定していないと、相手に完璧さを求めてしまいがちになります。相手を理想化して、その後にちょっとでも違っていると幻滅することを繰り返してしまいます。これは、思春期の恋愛における「蛙化現象」を説明できます。「インサイド・ヘッド2」とは?「インサイド・ヘッド2」のキャッチフレーズは「どんな自分もまるごと好きになる」であり、テーマは「自分自身を受け入れる」でした。ラストシーンで、感情のキャラクターたちが、ジブンラシサの花をみんなで抱きしめたことで、過呼吸になっていたライリーは、その後に落ち着きます。そしてすぐに、もともと仲良しだった2人に謝り、仲直りします。そして、その後は、ホッケーの試合を心から楽しむのでした。彼女は、本来の自分らしさを取り戻し、さらに成長したのでした。自我とは、思春期になると、ヨロコビたち(基礎感情)が最初に主導したように「ただ自分はこうしたい」と好きに思うことではなく、シンパイたち(社会的感情)が主導したように「こうなるべき」と無理に思い込んだり損得勘定に走ることでもなく、「社会の中でこうしていきたい」と自然に自覚するようになることです。この先が、自我の確立です。そして、何より、その自我によって日々の人生を楽しむことでしょう。今回は、思春期になったライリーの成長を、感情のキャラクターたちと一緒に私たちも見守る構図になっています。世界中の親子にとっての普遍的な物語であり、思春期の子供に接する親だけでなく、まさに思春期の子供たちが自分の気持ちを俯瞰することにも役立つでしょう。<< 前のページへ■関連記事アニメ「インサイド・ヘッド2」(その1)【なんで恥ずかしくなるの?なんで恥ずかしさは「ある」の?(社会的感情)】Part 1ウォーキングデッド【この世界観だからこそわかる!「コロナ不安」への処方せん】ツレがうつになりまして。【うつ病】

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アニメ「インサイド・ヘッド2」(その1)【なんで恥ずかしくなるの?なんで恥ずかしさは「ある」の?(社会的感情)】Part 2

社会的感情の相互関係とは?この映画に登場する社会的感情のキャラクターはハズカシとイイナーの2つだけですが、表1に示したように、全部で8つあります。これは、バックによる社会的感情2)を参照しています。うぬぼれ(傲慢)は自分の愛情欲求が満たされることへの反応で、誇り(自慢)は自分の承認欲求が満たされることへの反応です。この2つも実際はごっちゃになって使われることが多いです。たとえば、ライリーがヴァルから特別に夜のパーティに誘われたと思ったシーンが当てはまります。この時は、代わりにイイナーがはしゃいでいました。一方、あわれみ(同情)は、かわいそうと相手の愛情欲求が満たされていないことへの反応で、さげすみ(軽蔑)は、相手の承認欲求が満たされなかった、つまり期待に応えることをしないことへの反応です。あわれみが援助行動を促すのに対して、さげすみは罰したいという制裁行動(正義感)を促します。たとえば、ヴァルが新人のライリーに何かとフォローしてかわいがろうとしているのは、援助行動です。一方、ヴァルの親しいチームメイトのダニが「ったく、あのミシガンちゃん(ライリー)、いきなりミスったね」と、コーチを怒らせたライリーの悪口(バッシング)を言うのは、制裁行動です。そして、これらの社会的感情には相互関係もあります。たとえば、自分の愛情欲求が満たされていないと、相対的に相手の愛情欲求が満たされているように思えてきます。これが、冒頭で触れた「自分を恥ずかしく思う一方で、そうじゃない人をうらやましく(ねたましく)思う」状態です。逆に、自分の愛情欲求が満たされると、相対的に相手の愛情欲求が満たされていないように思えてきます。これが、冒頭で触れた「自分はモテる(うぬぼれる)と、そうじゃない人を気の毒に思う(あわれむ)状態です。さらに、相手を「かわいそう」(あわれ)と決めつけたり、そのようなセリフを連発する人は、実は自分が無意識に優越感(うぬぼれ)に浸ろうとしていることもわかります。同じように、相手の承認欲求が満たされていると、相対的に自分の承認欲求が満たされていないように思えてきます。つまり、相手をうらやましく思うと、自分は悔しくなります。逆に、相手の承認欲求が満たされないと、相対的に自分の承認欲求が満たされているように思えてきます。つまり、正義感を発揮する(さげすむ)と、誇らしい気分になります。これがいわゆる「メシウマ」であり、バッシングの心理です。関係性として整理すると、うぬぼれと誇りは明らかな快感情ですが、あわれみとさげすみは相対的な快感情であることがわかります。そして、恥ずかしさと悔しさは明らかな不快感情ですが、ねたましさとうらやましさは相対的な不快感情であることがわかります。なお、バッシングの心理の詳細については、関連記事4をご覧ください。<< 前のページへ | 次のページへ >>

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アニメ「インサイド・ヘッド2」(その1)【なんで恥ずかしくなるの?なんで恥ずかしさは「ある」の?(社会的感情)】Part 3

社会的感情の起源とは?社会的感情の機能とは、自分(または相手と比べた相対的な自分)の愛情欲求と承認欲求が満たされるように行動を促す心理であることがわかりました。そして、このような行動を練習するのは、とくに大人(社会)の仲間入りをする直前の思春期であることもわかります。それでは、そもそもなぜこのような感情は「ある」のでしょうか?ここから、進化心理学の視点で、恥ずかしさを例に挙げて、社会的感情の起源を掘り下げてみましょう。約700万年前に、人類が誕生しました。そして、約300万年前には、人類はアフリカの森からサバンナに出ていきました。そして、猛獣から身を守り、限られた食料を分け合うために、血縁の家族同士が集まり部族をつくるようになりました。この時、思春期になると男子は狩りの集団に、女子は子育ての集団にそれぞれ入っていくわけですが、その集団でうまくやっていこうとする社会脳が進化しました。そして、集団に受け入れられないことへの不快感情が出てくるようにも進化しました。これが羞恥心の起源です。逆に、この心理がないと、集団で身勝手なことをしてしまい、仲間外れにされます。当時の仲間外れは死を意味します。つまり、羞恥心がない人(遺伝素因)は、現代に存在していないということです。ちなみに、「恥」という漢字は、恥ずかしくなると耳が赤くなることから、「耳に心がある」という語源から来ています。そして、この赤面のメカニズムも進化心理学的に説明できます。現代では、緊張して顔を赤らめるのは、恰好悪いと思われがちです。しかし、これは原始の時代には必要でした。なぜなら、人類が言葉を話すようになったのは、せいぜい約20万年前だからです。それまでの280万年の間、人類は、言葉なしで表情や身振り手振りでコミュニケーションをしていました。そんな中、新しく集団に入る時、現代のように「ちょっと緊張していますが、仲良くしてください。よろしくお願いします」という言葉の代わりに、顔を赤らめてもじもじすることは、まさにこの言葉を非言語的なメッセージとして送っていることになり、好感が待たれてとても適応的です。つまり、現代では言葉があるために不要な赤面反応は、原始の時代には必要であったというわけです。なお、人類の起源地であるアフリカにいる黒い肌の人種の赤面はわかりにくいです。だからこそ顔の中で肌が比較的に薄い(毛細血管が見えやすい)耳がとくに赤くなるように進化したのでしょう。もちろん、恥ずかしさによる顔の火照り感から、もじもじするという反応は確実に伝わります。また、ハズカシのように手が緊張で汗ばむのは、約数千年前に類人猿が誕生してから、森の中でより素早く枝から枝へと移動するためのすべり止めの役割がもともとありました。現代ではとても困る手汗反応は、原始の時代には新しい集団に入ってさっそく動き回って活躍するためにはやはり必要であったというわけです。恥ずかしさと同じように、その他の7つの社会的感情も、原始の時代の部族集団(社会)で助け合って生き残り子孫を残すため、つまり生存と生殖の適応度を上げるように約300万年間で進化した心理機能であることがわかります。そして、社会的感情における相互関係も、その助け合いにおける平等と公平のバランスを取るように促すため、つまり個人としてだけでなく集団としても適応度を上げるように進化した心理機能であることもわかります。ちなみに、ねたましさ(嫉妬)の心理の起源については、すでに関連記事5で詳しく解説していますので、ご覧ください。1)「進化と感情から解き明かす社会心理学」p.196:北村英哉・大坪康介、有斐閣アルマ、20122)「感情心理学・入門」p.145、p.175:大平英樹、有斐閣アルマ、2010<< 前のページへ■関連記事インサイド・ヘッド【なんで悲しみは「ある」の?どうすれば?(感情心理学)】Part 1インサイド・ヘッド(続編・その1)【やったのは脳のせいで自分のせいじゃない!?】Part 1カインとアベル(前編)【なんで嫉妬をするの?】苦情殺到!桃太郎(前編)【なんでバッシングするの?どうすれば?(正義中毒)】Part 1カインとアベル(後編)【なんで嫉妬は「ある」の?どうすれば?】Part 1

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コウノドリ(その1)【なんで不妊治療はやめられないの? その心理的なリスクは?(不妊の心理)】Part 1

今回のキーワードがんばりすぎる(過剰適応)とらわれる(強迫)のめり込む(嗜癖)燃え尽きる(破綻)頭が硬くなる(べき思考)元を取りたいと思う(負け追い)政府は、2022年4月から不妊治療に公的医療保険を適用する方針を打ち出しています。また、不妊治療で体外受精を行っている女性の半数以上に軽度以上の抑うつの症状がみられる調査結果が報じられました。一方で、不妊治療はなかなか止められない現実もあります。なぜ止められなくなるのでしょうか? その心理的なリスクは何でしょうか?これらの答えを探るために、今回は、ドラマ「コウノドリ」の不妊に関連したエピソードを取り上げます。このドラマを通して、不妊の心理を精神医学的に解き明かしてみましょう。なんで不妊治療は止められないの?主人公は、産婦人科医の鴻鳥(こうのとり)。総合病院の産婦人科のチームのリーダー的存在です。彼がかかわる妊婦や患者とその人間関係を中心にストーリーが展開していきます。中でも、不妊治療は、やり始めるとなかなか止められなくなるようです。それでは、なぜ不妊治療は止められなくなるのでしょうか? まず、その原因を、大きく3つに分けて精神医学的に解き明かしてみましょう。(1)がんばりすぎる-過剰適応鴻鳥が43歳の妊婦をフォローするエピソードがあります(シーズン1第6話)。合同カンファレンスで、鴻鳥の同僚である四宮は、その妊婦について「長期間の不妊治療で疲弊しきっている人を見ると、どこかで線引きすべきではとも思いますね。実際、出産とともに燃え尽きて、育児を放棄する人もいるわけですから」と発言します。不妊治療が止められない1つ目の理由は、がんばりすぎるからです。これは、「がんばればうまく行く」「これだけがんばっているんだから、できるはず」という過剰適応の心理が根っこにあります。とくに、もともと勉強、スポーツ、仕事、結婚でうまくやってきた人ほど、その成功体験によって、この心理に陥りやすくなります。なぜなら、知的能力、身体能力、コミュニケーション能力と同じように、生殖能力も努力によって高まるものだと思ってしまうからです。また、私たちは、知的能力、身体能力、コミュニケーション能力については、小さい頃から、その限界を少しずつ自覚して、自然に受け入れています。ところが、生殖能力に限っては、結婚後に明らかになるため、急すぎてなかなか受け入れられなくなります。そして、とくに女性の場合はその能力が年齢とともに低くなっていくという現実もあります。(2)とらわれる-強迫鴻鳥が不育症(流産を繰り返すこと)に悩む夫婦をフォローするエピソードがあります(シーズン2第9話)。妻は、なかなか妊娠できず、妊娠しても流産を繰り返すことで、専業主婦として家事も手につかなくなり、うつ状態になり、寝込んでいます。そんな妻を見た夫は「俺はさ、子どもがいない2人だけの人生も良いと思ってる。2人なら、好きなことできるし、旅行にだって…(行けるし)」と言いかけます。すると、妻は言いかぶせるように「全然嬉しくないよ。慰めにもなってない」とイラついて答えます。そして、夫は、しょんぼりするだけなのでした。もはや、深刻すぎて夫婦げんかもできない状況です。不妊治療が止められない2つ目の理由は、とらわれるからです。これは、「子どもができたらいいな」という希望ではなく、「子どもはできなければならない」「子どもができることが唯一の幸せな人生である」という強迫の心理が根っこにあります。とくに専業主婦で、もともと仕事や趣味(自分のやりたいこと)に思い入れがなく、社会的な活動をしてこなかった人ほど、アイデンティティが定まっていないため、この心理に陥りやすくなります。なぜなら、「○○ちゃんママ」という待望の親アイデンティティが得られず、ママ友グループという居場所に入れないからです。(3)のめり込む-嗜癖先ほどの高齢の妊婦は、鴻鳥に「生理が来るたびに、あーまただめだった。次は大丈夫かもしれない。ここまでがんばったんだから止められない」と不妊治療をしていた当時の自分の様子を語ります。一方で、不妊治療専門医は、別の患者に「(体外受精の成功率は)相沢さんの年齢(38歳)だと30%を切るくらい。それも、40歳を過ぎると10%程度に下がります」と率直に言っています。不妊治療が止められない3つ目の理由は、のめり込むからです。これは、時間が経てば経つほど可能性が低くなるのに、「次こそはできる」「今やめたら後悔する」「可能性があるうちは続けたい」という嗜癖(依存)の心理が根っこにあります。次のページへ >>

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コウノドリ(その1)【なんで不妊治療はやめられないの? その心理的なリスクは?(不妊の心理)】Part 2

不妊治療の心理的なリスクは?不妊治療が止められない原因として、がんばりすぎる(過剰適応)、とらわれる(強迫)、のめり込む(嗜癖)という独特の不妊の心理があることが分かりました。それでは、これらの心理的なリスクは何でしょうか? ここから、そのリスクを、それぞれ考えてみましょう。(1)燃え尽きる-破綻1つ目の過剰適応の心理のリスクは、燃え尽きる、つまりその破綻です。先ほどの四宮のセリフで触れられたように、身体的にも、精神的にも、そして経済的にも疲弊するリスクがあります。また、先ほどの不育症の女性は、鴻鳥に「子どもがほしくて、やっぱりあきらめきれないから、ここに来ているんですけど。でも、妊娠してないってことが分かると、少しほっとする自分がいて。一瞬でもお腹の中に赤ちゃんがいるのが怖くて。(私は)何言ってんですかね」と打ち明けます。これは、本来妊娠が判明することが望ましいはずなのに、流産を繰り返したために、また流産して悲しみに暮れるのを予期してしまうことです。そして、パニック症の予期不安と同じように、「予期悲嘆」が起きてしまい、妊娠を回避しようとする矛盾した心理が沸き起こっています。とくに体外受精の場合、受精卵(胚)ができた段階で心理的に「子どもができた」と認識してしまうため、着床しないことは心理的に「流産した」と受け止めてしまいがちになります。これは、排卵誘発による心身へのストレスと相まって、誕生による希望と喪失による失望を繰り返す感情の「ジェットコースター」に乗り続けていることになります。また、結果的に子どもができなければ、「私だけが置いてけぼり」「私はだめだ」と自尊心が低くなったり、「なんで私だけが?」という怒りや「がんばっていないのに、子どもがいる人はずるい」という恨みに転じてしまう危うさがあります。なお、過剰適応の心理の詳細については、関連記事1をご覧ください。(2)頭が硬くなる-べき思考2つ目の強迫の心理のリスクは、「こうでなければならない」「こうあるべき」と頭が硬くなる、つまりべき思考です。ドラマの妻のように、もはや妊娠以外のことは何も考えられない(考えてはいけないと思い込む)精神状態です。最終的に子どもができなければ、「夫の血をつなげるというお勤めが果たせなかった」「血のつながりがなければ自分たちの子どもではない」と考え、次善の策として養子や里子について検討することが難しくなってしまう危うさがあります。また、子どもをつくるだけのためにセックスをしてきたので、「子どもをつくらないなら、セックスに意味がない」という発想になり、セックスレスになる危うさもあります。セックスとは、本来、単に生殖だけでなく、快楽やコミュニケーションの意味合いも大きいのにです。さらに、もともと、大人になっても将来の夢が「お母さんになること」のままである場合や子どもをつくることが前提で結婚した場合、この心理がさらに強まり、子どもができなければ離婚リスクが高まります。欧米がパートナーとの関係を大事にするカップル文化であるのに対して、日本はもともと親子の関係を大事にする親子文化が根強いため、なおさらです。子どもができたとしても、親アイデンティティが強まることによって、とくに女性は子ども中心の人生の中、「子どもはすくすくと成長しなければならない」「子育てが自分の唯一の幸せである」と思い込んでしまいます。そのため、その後に、母乳、自然食、早期教育、習い事、お受験などの「子育て競争」への思い入れを強め、「毒親」になるリスクがあります。ましてや、子どもの障害が見つかった場合は、親アイデンティティが揺らぐので、「こんなに私はがんばっているのに」「夫の血が悪い」「子どものせいで不幸になった」という発想になる危うさもあるでしょう。なお、「毒親」の心理の詳細については、関連記事2をご覧ください。(3)元を取りたいと思う-負け追い3つ目の嗜癖のリスクは、元を取りたいと思う、つまり、負け追いです。ドラマの43歳の妊婦の発言のように、それまでに費やした労力、時間、そして高額な治療費を無駄にしたくないと思う気持ちが高まります。これは、損を取り返したいと思う点で、ギャンブル依存症にも通じる心理です。ドラマの女性は、10%の「ギャンブルに勝った」から、得るものがありました。しかし、残りの90%の人は「負け続けてどんどん失っている」という点で、この心理の危うさがうかがえます。なお、ギャンブルの心理の詳細については、関連記事3をご覧ください。<< 前のページへ■関連記事Mother(前編)【過剰適応】八日目の蝉【なぜ人を好きになれないの?毒親だったから!?どうすれば良いの?(好きの心理)】「カイジ」と「アカギ」(前編)【ギャンブル依存症とギャンブル脳】

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急性期精神疾患に対するベンゾジアゼピン系薬剤の使用をどう考える

 興奮を伴う急性期の精神疾患患者に対し、ベンゾジアゼピン系薬剤(BZD)の使用は一般的である。オーストラリア・カンバーランド病院のDonna Gillies氏らは、急性期精神疾患に対するBZDと抗精神病薬の有用性をCochrane Schizophrenia Groupレジストリ(2012年1月)に基づくレビューにて、比較検討した。その結果、BZD単独による効果は不良で、抗精神病薬との併用においても明確なアドバンテージがみられないことを報告した。結果を踏まえて、著者は「BZDをその他の薬剤に追加することによる明確なアドバンテージはみられず、むしろ不測の有害事象を起こす可能性がある。第一世代抗精神病薬を単独で使用することを正当化するのは難しく、本分野におけるより質の高い研究が望まれる」とまとめた。Cochrane Database of Systematic Reviewsオンライン版2013年4月30日発表の報告。 急性期精神疾患、とくに暴力行為あるいは激越を認める場合には緊急の薬理学的鎮静が求められ、いくつかの国ではBZD(単独または抗精神病薬との併用)がしばしば用いられている。本研究では、問題行動のコントロールおよび精神症状の軽減におけるBZDとプラセボ、またはBZDと抗精神病薬の効果を比較検討した。Cochrane Schizophrenia Groupレジストリ(2012年1月現在)を検索し、急性精神病患者を対象としBZD(単独または抗精神病薬との併用)と抗精神病薬(単独またはその他の抗精神病薬、BZD、抗ヒスタミン薬との併用)を比較したすべての無作為化臨床試験(RCTs)を抽出した。対となる変数のアウトカムに対しては、相対リスク(RR)と固定効果モデルによる95%信頼区間[CI]を算出した。連続変数のアウトカムに対しては、群間平均差(MD)を算出した。 主な結果は以下のとおり。・臨床試験21件、1,968例について検討した。・BZDとプラセボの比較試験(1件)で、中期(1~48時間)の「改善なし」のリスクはプラセボ群でより高かったが、大半のアウトカムは2群間で有意差を認めなかった(102例、1試験、RR:0.62、95%CI:0.40~0.97、エビデンスレベル:きわめて低い)。・BZDと抗精神病薬の比較試験で、中期における「改善なし」の患者数に2群間で差はみられなかった(308例、5試験、RR:1.10、95%CI:0.85~1.42、エビデンスレベル:低)。しかし、BZD群では中期の錐体外路症状の出現が少なかった(536例、8試験、RR:0.15、95%CI:0.06~0.39、エビデンスレベル:中)。・BZD+抗精神病薬とBZD単独の比較試験において、2群間に有意差は認められなかった。・BZD+ハロペリドールとハロペリドール単独の比較試験において、中期の改善に差は認められなかったが(155例、3試験、RR:1.27、95%CI:0.94~1.70、エビデンスレベル:きわめて低い)、併用療法群でより大きな鎮静がみられた(172例、3試験、RR:1.75、95%CI:1.14~2.67、エビデンスレベル:きわめて低い)。ただし、併用療法群はオランザピン(60例、1試験、RR:25.00、95%CI:1.55~403.99、エビデンスレベル:きわめて低い)またはジプラシドン(60例、1試験、RR:4.00、95%CI:1.25~12.75、エビデンスレベル:きわめて低い、国内未承認)との比較では改善がみられなかった。・ハロペリドール+ミダゾラムとオランザピンの比較では、改善、鎮静および行動において併用療法が優れるといういくつかのエビデンスが認められた。関連医療ニュース ベンゾジアゼピン系薬剤の使用で抗精神病薬多剤併用率が上昇?! 統合失調症治療にベンゾ併用は有用なのか? ベンゾジアゼピン系薬物による認知障害、α1GABAA受容体活性が関与の可能性

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妹の恋人【統合失調症】

統合失調症統合失調症を描く映画やテレビドラマは、深刻で重い作品が多いようですが、「妹の恋人」は軽いタッチで現代風です。コミカルでラブロマンスもあり、安心して見ることのできる映画です。主役のサムは若かりし頃のジョニーデップが演じており、これは見逃がせません。ヒロインのジューンは、幼い頃に火事で両親を亡くして以来、そのショックで心を病んでしまい、統合失調症を発症してしまいます。家で気ままに好きな絵を描いて過ごしていますが、兄に雇われてやってくる家政婦が気に入らず難癖をつけてしまうので、家政婦は毎回すぐにやめてしまいます。遊びで兄と卓球をしていても、「ズルしたのは兄だ」と言い張り、挙句の果てにものを投げるなど聞き分けのない一面もあります。そして、腹いせに火遊びを部屋の中で悪びれもなくしてしまいます。また、外出する時にシュノーケルをかぶり片手に卓球のラケットを持ち交差点で騒ぎを起こし、事態を収拾させようとする警官に「私には外出する権利がある」と告げるなど、まとまりのない言動も見られます。これは、支離滅裂と呼べる病気の症状です。このように、もともとの気ままな性格に加えて病気の症状も重なると、自立して日常生活を送ることは難しくなっていきます。一方、兄ベニーはただ一人の家族であるそんな妹ジューンを自分のこと以上に大切に見守ってきました。町の自動車修理屋で働いていますが、仕事中もいつもジューンのことが気になり、しょっちゅう電話をしています。ジューンの世話に追われてしまうため、せっかく魅力的な女性からデートに誘われても断ってしまう始末です。このままだと自分の生活が潰れてしまうと思いつつも、妹の主治医から勧められるグループホームに入れるかどうかで頭を抱えます。そんな折、ポーカーゲームで負けた罰ゲームとして友人の従兄弟であるサムを居候させることになります。学習障害転がり込んできた居候のサムは、風変わりな出で立ちでほとんど無口ですが、パントマイムなどの大道芸に才能があり、彼のしぐさや芸は見る者を虜にしていきます。そして、そんなサムにジューンは好意を寄せていきます。サムはビデオ屋でちゃんと接客ができていますが、読み書きができないという点で学習障害が疑われます。ジューンとサムは出会った瞬間からお互い惹かれあい、その素朴で純粋に相手を思う気持ちが、見ている私たちにも伝わってきます。もともと、精神障害者も根は私たちと同じです。しかし、いまだに、精神障害者=「頭がおかしい」=「何をするか分からない」という図式が昔から根強く残っているのも事実です。実際、テレビや映画の中で怪物のような犯罪者が描かれ、よく誤解を招いています。この映画の中で触れられている劇中映画「高校生連続殺人鬼」でも相手を切り刻み返り血を浴びて高笑いしている殺人鬼のシーンがあり、衝撃的です。これはあえて反面教師として教訓的に出した脚本家の意図があると思いますが、皮肉なものを感じます。精神障害者と犯罪者は全く別の次元で捉えてほしいです。まれに凶悪な犯罪者が精神障害者であったというニュースが流れると、それが誇張されていくのではないかと悲しい気持ちになります。この映画では、ジューンとサムは偶然的な出会いをしますが、実際には作業所、デイケア、障害者のイベント、病院・クリニックの外来などで障害者同士が出会い仲良くなることは多々あり、結婚することも少なからずあります。2人の惹き合う気持ちがクライマックスに達し、手で油絵を描くシーンや風船でメロディを奏でるシーンは他愛もないですが、BGMがぴったりで幻想的でロマンチックです。一方、兄ベニーとウェイトレスで友達のルーシーとの恋仲は、お互いの気持ちを薄々感じつつもその気持ちの表し方が儀式的で遠回し、時にひねり過ぎて回りくどく、そして自分の気持ちとは裏腹の態度を示し駆け引きをしようとします。ちょうどジューンとサムとの純で正直な関係とは対照的で、その違いが際立っていておもしろいです。心理教育ベニーは自分の人生を犠牲にしてまでジューンのことを大切に思うわけですが、この兄ベニーの妹ジューンへの関わり方は、強く愛しているだけに過干渉で批判的になりがちです。これは、「家族の感情表出(EE, expressed emotion)」と呼ばれ、ベニーのような家族を「高EE家族」と呼んでいます。ベニーは、介護疲れのストレスも溜まるなか唐突に妹とサムとの恋仲の関係を聞かされたことを引き金に、ジューンに「おまえはクレイジーだ」「施設行きだ」と言い放ってしまいます。そして、ジューンの緊張と不安はピークに達してしていきます。ジューンは兄ベニーにサムとの恋愛を否定され、サムと駆け落ちしようとバスに飛び乗るわけですが、あまりの緊張と不安でストレスが極限状態に達します。バスの中で病状は悪化し、周りの物音に対して過敏になり、幻聴も聞こえてきます。その辛さでパニックになり、言動がまとまらなくなります。結局、バスの中で暴れてしまい、救急隊に取り押さえられて閉鎖病院に運ばれてしまいます。以前の診察の時に主治医の先生が兄ベニーに説明する場面でも「彼女にはストレスと神経のイラつきが一番の敵なの」と言っているように、ストレスは病状に大きく影響します。幸いにも、サムの人を惹きつける個性に影響を受けベニーの視野は広くなっていたのと、サムの「あんたは何を怖がっているんだ?」との一言で、自分と妹との関係を見直すようになります。ベニーは自分が妹のことで頭がいっぱいになり過ぎていたことにようやく気付いたのでした。心の病を持つ人に対しての適度な距離感を意識することの大切さをこの映画から学び取れることができます。その後のベニーとサムが協力して閉鎖病棟に忍び込むシーンはコミカルで楽しいですし、ジューンの3階の病室の窓の外にサムが宙にぶら下がって飛んでいるシーンはメルヘンチックで感動的です。グループホーム前半の部分でジューンの主治医が兄ベニーに勧めていた「グループホーム」は、日本語の字幕が「施設」となっているので、私は少し違和感を持ってしまいました。施設という言葉の響きが「孤児院」「矯正施設」などのネガティブなイメージを連想してしまうからです。「グループホーム」は、場所にもよりますが、もっと自由で寮みたいなところです。世話人さんと呼ばれる寮長さんみたいな人がいます。病院生活と独り暮らしの間を取り持つクッション的な存在で中間施設の一つです。主治医の先生自身がグループホームを勧める理由はいくつかありました。まず、そもそも家に閉じこもりっきりで、かかわるのは兄だけというのは人間関係がとても閉鎖的で社会性が乏しくなってしまう点です。さらに、兄のかかわり方にも問題があり病状に悪い影響を与えていた点です。さらに、グループホームで仲間ができるという点です。仲間との人間関係を築いていく中で社会性を養うことができるからです。最後に、そこで職業訓練を受ければ、パートの仕事に就ける可能性がある点です。ここまで来ると、精神障害者と言えども仕事をして自立して立派に社会適応できていると言えます。これは、本人のためにも当然いいことですし、また、自分の生活が潰れそうな兄にとっても妹の面倒を見続ける精神的、肉体的、経済的負担が減り、喜ばしいことです。最終的には、ジューンとサムは結ばれ、仲良く2人でアパート生活を始め、とても微笑ましいハッピーエンドで終わります。これはこれで人間関係を築き、社会生活を営んでいるという点で、素敵なことだと思います。果たしてこのままうまくいくかどうかは実際にやってみないと分かりませんが・・・主治医の先生の言うように「心配だけど試してみましょう」という気持ちは良く分かります。うまくいかないことがあったとしても、アパートの家主はベニーの恋人となったルーシーですし、ベニーも様子を見に伺うことをマメにすれば、すばらしいサポート体制になりそうです。ライフイベントジューンの統合失調症の発症は、幼い頃に両親を火事で亡くしたことがきっかけとなっているようで、これはストーリーの途中でエピソードとして触れられています。その影響からか、ジューンは火遊びをやめようとしませんでした。実際に、統合失調症の発症メカニズムは様々な要素が考えられていますが、その中で、「脳の機能異常」と「心理社会的なストレス」が大きな割合を占めています。「脳の機能異常」は遺伝負因、胎児期・出生時のトラブルなどの原因が上げられます。「心理社会的なストレス」は、そのまま心理的なストレスのことなのですが、よく「ライフイベント」と呼び、「人生の出来事」と言い換えることができます。例えば、受験、就職、学校や会社や家族(嫁姑関係)でのいじめなどです。その中で、統計的に最も発症の引き金となっているのが、この映画にもある親の死なのです。家族療法もともとの原題“Benny & Joon”は、そのまま兄のベニーと妹のジューンを並べたもので、なかなかアメリカの映画にありがちな淡白なタイトルだったのですが、邦題の「妹の恋人」は、聞いた瞬間にいろいろと想像力を描き立てられます。「妹の恋人」とはつまりサム(ジョニーデップ)のことで、確かに主役的に演出されているので、邦題でフォーカスをあえてサムに向けたことは納得がいきます。それをさらに、兄ベニーと妹ジューンの関係性で表している点はあっぱれだと思います。もともとの兄妹仲を描きつつ、そこに転がりこんできたサムを含めての3人の関係をうまく一言で言い表しています。紆余曲折ありましたが、結果オーライの「家族療法」とも言えそうです。

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グッドウィルハンティング【反応性愛着障害】

ヒューマンドラマこの映画は、まさに心揺さぶるヒューマンドラマです。信頼できる人生の指導者を見出せずにさ迷っている若者と、信頼していた人生のパートナーである妻を失い絶望しているセラピストが巡り合い、反発しながらも触れ合い、化学反応を起こします。そして、お互いの癒されなかった心が開かれ、それぞれが新しい人生の旅路へ足を踏み出すのです。素行障害主人公のウィル・ハンティングはボストンの下町育ちの20歳です。気の置けない3人の幼なじみたちに囲まれて暮らし、建設作業や清掃などの仕事をともにしています。彼の仲間が唯一の家族で、小さな世界ですが、その世界を抜け出す必要を感じてはいないようです。しかし、別のグループとのケンカにより、彼の心の中に潜んでいた攻撃性が露わになります。逮捕後の裁判のシーンでは、傷害、窃盗など数々の非行を繰り返す生い立ちが明かされます。実際に、彼は仲間以外に対してはとても口汚く、素行にはかなり難がありました。未成年でこのような反社会的な行動パターンを繰り返す場合は、素行障害と呼ばれ、いわゆる「不良」「暴走族」などが当てはまります。そして、成人後にも同じような犯罪行為を繰り返せば、反社会性パーソナリティ障害に診断変更されます。後半でセラピストのショーンが案じるような爆弾テロリストもこの診断に含まれます。高知能ウィルはブルーワーカーでありながら図書館で教科書を借りて独学で数学の勉強を熱心にしていました。そして、あえて大学の清掃員になり、廊下に提示された数学の難問を夜な夜なこそこそと解きます。また、裁判では弁護士抜きで巧みな理論武装で自分の弁護をしています。実は、彼には高い知能と才能があったのです。その才能を見出していた大学教授のランボーの計らいにより、ウィルは条件付きで刑務所行きを免れます。その条件とは、ランボーの下で数学の問題を解くこととセラピーを受けることでした。ウィルは、渋々セラピーを受けさせられるわけですが、全く素直ではありません。事前にセラピストの著書を読破して、セラピー中に逆にセラピストの本性を暴いたり、悪ふざけをしたりするため、次々とセラピーたちは手を引いていきます。特に6人目のセラピストのショーンとの出会いは最悪でした。逆上したショーンは、ウィルの首をつかんでしまいます。一般的には、この時点でセラピーは続行不能ですが、ショーンは違っていました。あえて、セラピーを引き受けたのです。見捨てられ不安ショーンはウィルの心の闇に気付きます。そして、率直に指摘します。「今の君は生意気な怯えた若者」「自分の話をするのが恐いんだろ」と。彼は一見傲慢で突っ張っているように見えますが、実は心の奥底では怖くて不安で、だからこそ強がって相手を攻撃することで自分を必死に守っていたのでした。強がりは恐れの裏返しなのでした。セラピーを重ねることで徐々に心を許し始めたウィルは、新しい恋人がいかに素晴らしいかをショーンに誇らしげに語りますが、次に会うのをためらっていることを打ち明けます。その訳は、「今のままの彼女は完璧」で次に会うとそのイメージを壊してしまうかもしれないからだと。すると、ショーンは問います。「君も彼女にとって完璧な自分を壊したくないのでは?」「スーパー哲学だ」と。ショーンは見抜いていたのでした。ウィルが人間関係を深めようとしないのは、実は自分に自信がなく、本当の自分のことを知られるともう受け入れてもらえず、捨てられてしまうのではないかという不安の表れであることを。これは、見捨てられ不安と呼ばれます。ウィルは、隠れて数学の問題を解いていたのも、大人たちに悪態を突いていたのも、恋人にその後に連絡をとろうとしないのも全て、見捨てられるかもしれないという不安から、先に「見捨てる」という行動パターンをとっていたのです。反応性愛着障害ショーンに自分の本心を気付かされたウィルは、恋人のスカイラーにウソの家族の話をしながらも、関係を深めようとして、その2人の距離は徐々に縮まっていきます。裕福で恵まれた環境で医者になろうとするハーバード大生のスカイラーと孤児で貧乏な下町育ちのブルーカラーのウィルは、育ちも生活水準も際立った違いがありとても対照的ですが、お互いの魅力に惹かれていきます。しかし、スカイラーが医学校に進学するためにカリフォルニアに共に引っ越すことをウィルに誘ったところで、2人の関係は山場を迎えます。ウィルは答えます。「もしその後におれのことが嫌いになったら?」と。彼の見捨てられ不安が極度に高まり、彼は立ち去ってしまいます。なぜウィルは自分に自信がなく、見捨てられ不安が強いのでしょうか?その理由は、彼の暗い生い立ちにありました。実は、彼は孤児で里親をたらい回しにされた揚句、継父から虐待を受けていたのでした。心に傷を負い、その癒えない傷から親への愛着は芽生えません。愛着がなければ情緒的な交流が乏しくなり、やがては他人への恐れや警戒心が強まり、親密になればなるほど自分が傷付くことを極端に恐れ、見捨てられ不安が募っていきます。愛着とは、幼少期に親からの無条件な愛情により育まれ、何があっても絶対に親に守ってもらえるという「安全基地」が出来上がることで、そこを心のよりどころに親を含む家族から他人への信頼感や外界への積極性に広がっていくものです。この信頼感や積極性はエリクソンが唱える乳幼児期の発達課題です。反応性愛着障害は小児期に診断されるもので、他人との情緒的な交流に問題を認めることを成人後も繰り返すなら、情緒不安定性パーソナリティ障害に診断変更されます。相手に対する不信や見捨てられ不安が強いため、信頼関係が築けず、人間関係が深まらない問題を抱えます。受容ショーンは、その他の権威的で格式ばったセラピストとは対照的でした。自分の過去をざっくばらんに語る明け透けさ、散らかった部屋などありのままの飾らなさ、沈黙が続く時に居眠りをする無邪気さがウィルの警戒心を解き、心を許していったようです。ウィルは自分のことを話すとなると言葉が見つからないことをショーンから指摘されます。「君自身の話なら喜んで聞こう」「君って人間に興味がある」「答えを知ってても君には教えない」「答えは自分で探すんだ」と。実は、ウィルは相手に対してだけでなく、自分自身に対しても、自分のことをさらけ出すのに臆病になっていたのです。その後、スカイラーを振ってしまったことで荒れて、刹那的になっているウィルにショーンは静かに核心をつきます。「自分が孤独だと思う?」「心の友(ソウルメイト)はいないか?」と。もちろんウィルには気の置けない仲間たちがいますが、自分が本気で何かに打ち込むために刺激してくれる友としては、物足りなかったのでした。その後、セラピーは行き詰まります。そのことで、ランボーがショーンのところに怒鳴り込み、大口論となります。しかし、その場面にたまたま、ウィルが遭遇したことで、これが突破口となります。実は2人は20年来のライバルで大きなわだかまりがありました。その思いの丈をついにお互いが吐き出した直後でした。まずは関係者の2人が本音をぶつけ自分をさらけ出したのでした。ランボーは数学のノーベル賞とも呼ばれるフィールズ賞を過去に受賞した栄光にすがって俗物的な生き方をする一方、ショーンは最愛の妻を失ったことで影のある生き方をしており、とても対照的です。その後のセラピーで、ショーンは自身もかつて虐待を受けた当事者であったことを明かし、ウィルに心の底から共感し、何度も語りかけ優しく抱きしめます。「君のせいじゃない、君のせいじゃないんだよ」と。セラピーのクライマックスです。ショーンがウィルの存在を丸ごと受け止めたことで、ショーンがウィルにとっての安全基地であり、ソウルメイトとなり、それまでの「自分は無力でダメな存在だ」という自己嫌悪や罪悪感から解放され、心の傷が癒されていったのです。アイデンティティの確立ウィルは仕事中に、一番の親友チャッキーから言われます。「お前は宝くじの当たり券を持っている」「皆その券が欲しい」「でもおまえはその宝くじを換金する度胸がないだけ」「それをムダにするなんておれはお前を許せない」と。一番の親友だからこそ、ウィルの幸せを考えて言えるセリフでした。ウィルは、仲間と働きながら暮らす素朴な日常の世界から、才能によって手に入れられる新しい世界へ踏み入れるのに尻込みしている自分に気付かされます。そして、自分の才能を行かせる会社の就職面接を真面目に受け、自分の社会での役割をようやく見出そうとしています。これは、エリクソンが唱える青年期の発達課題であるアイデンティティの確立です。自分が自分を受け入れ、自分とは社会の中でこういう人間であると納得することです。ウィルの仲間も薄々気付いていました。そして、ウィルの21歳の誕生日にオンボロの車をプレゼントします。それは、スカイラーを追ってカリフォルニアへ行き、新しい自分の未来を拓けとの暗黙のメッセージのようです。死別反応セラピーでショーンが亡くなった妻のことについて語った言葉が印象的です。「僕だけが知っている癖・・・それが愛おしかった」「愛していれば恥ずかしさなど吹っ飛ぶ」と。人は全く完璧ではないことを知り、むしろ不完全なところも含めてその人の全てを受け入れられるか、その人を特別な人であると感じることができるかということです。自分にとって特別な誰かであり、そして、誰かにとって自分が特別であるということです。それは、自分が自分自身と真正面から向き合い、そして、相手とも真正面から向き合って初めて育まれるものです。そして、その固い絆により、その相手こそがソウルメイトとなります。しかし、ショーンはそのソウルメイトを失っていたのでした。そして、その喪失感を2年間引きずり、生きる張り合いを見出せていません。亡き妻への思いから抜け出せなくなっていました。大事な人の死別による反応、つまり死別反応は誰でも起こりうる正常な反応ですが、それが長引いています。ウィルは、ショーンに切り返します。「自分はどうなんだ」「(今は)心を開ける相手なんているか」「いつか再婚をしないのか?」「燃え尽きてる」「人生を降りたのでは?」「これこそスーパー哲学だ」と。ウィルの言葉により、ショーンは過去に囚われ、行き詰っている自分に気付かされたのです。ウィルのアイデンティティの危機を心配する一方、自らの危機も自覚します。シネマセラピー最後の別れでウィルはショーンに心の底から言います。「これからも連絡をとりたい」と。ウィルにとってのソウルメイトがショーンであることをお互いに確信した瞬間でした。そして、ウィルは、恋人のスカイラーというもう一人のソウルメイトのいるカリフォルニアへ車を走らせるのです。ラストシーンの真っ直ぐに伸びる道路は、これからウィルが切り拓いていく澄み切った未来を象徴しているようでした。見ている私たちは、ウィルが人間不信から回復する姿を目の当たりにして、ウィルと同じ心地良さを追体験することができます。巡り逢いにより癒されなかった孤独が未来を切り開く活力に変わっていく様が生き生きとそして爽やかに描かれています。ショーンはウィルを見事に癒すことができました。そして、実は同時に、ショーンはウィルによって癒され、救われたのでした。亡き妻への失意を乗り越え、世界を旅する決意を固めます。なぜなら、ショーンはウィルのソウルメイトとなったことで、自分の役割を再確認し、前に進む勇気をもらったのです。自分が誰かのために特別であることは勇気や活力を与えることを私たちに教えてくれます。私たちも、ウィルやショーンと同じように人生を旅しています。人間関係に行き詰りを感じる時こそ、私たちはこの映画を見ることで、ウィルやショーンの生き様に刺激を受け、ソウルメイトという絆の大切さを再確認して、さらに人生の奥深い旅を続けていくことができるのではないでしょうか?

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私は「うつ依存症」の女【情緒不安定性パーソナリティ障害】

毎日がメロドラマこの映画は、もともと原作者の自伝的小説を映画化したもので、実話に基づいているだけに、主人公とその母親の暴力的なまでの心の揺れが生々しく痛々しく描かれており、見ている私たちはその迫真の演技に引き込まれていきます。主人公にとってはまさに毎日がメロドラマであり生きるか死ぬかの極限にいるのです。そんな主人公が思春期を生き抜いた80年代をこの映画は忠実に再現しており、バックに流れる当時流行したメロディも感傷的です。主人公の心の揺れは、情緒不安定性パーソナリティ障害によるもので、この映画はその特徴やメカニズムを忠実に分かりやすく描いています。今回は、この映画を通して、この障害の理解をみなさんといっしょに深めていきたいと思います。逸脱行動―自分を大切にできない主人公のリジーは、2歳の時に両親が離婚してから、その後は母親と2人で暮らしていました。教育熱心な母親は、子育てを一生懸命にやり抜き、そして、晴れてリジーを念願であったハーバード大に入学させることに成功しました。そして、リジーに言います。「あなたは自慢の娘よ」と。まさに理想の娘、優等生の良い子です。リジーも不安な面持ちを見せながらもまんざらでもない様子です。入学後、大学の授業に真面目に参加して、学生寮のルームメイトと親友になり、彼氏もできて、パーティではしゃぎ、そして音楽雑誌のジャーナリズム大賞を受賞するなど華やかで輝きのある有望な学生生活を送り、全てがうまく行っているかに見えました。しかし、彼女にはどこかしら陰がありました。実は、すでに歯車は狂い始めていたのでした。4年ぶりに突然父親が訪問にやってきて心が乱れたのをきっかけに、恋人と初めて夜を共にしたことをネタにパーティを開き、遊び半分のはずだったドラッグを眠気覚ましに乱用し、人の話を聞き入れず徹夜を続けて生活が乱れ、自分の誕生日会では母親や祖父母に悪態を付くなど逸脱行動が目立つようになります。さらには、かつてのパーティで酔った勢いで親友の彼氏を誘惑して関係を持っていたのでした。これは性的逸脱です。そして、悪びれもせず開き直ってしまいます。まるでもともと彼女の中に潜んでいた「悪魔」が目覚め始めたようです。自分が自分であるという一体感が揺らぎ、自分を大切にできなくなっています。情緒不安定―繊細なあまりに傷付きやすい心自分の誕生日会を自分自身でメチャクチャにした翌日のリジーの様子が強烈です。母親との口論の末、「私が悪かったわ」「私を愛してくれる家族を傷付けたわ」と涙を流して母親に抱きついたと思ったら、次の瞬間、「何が誕生日会よ」「あんたのペットじゃないわ!」と泣き叫びます。そして、その数秒後にはまた「私ったら何てひどいことを・・・。ごめんなさい、許して」と漏らし、また母親に抱き付く始末です。甘えと反抗が入り乱れています。もはや母親は、あまりにも精神的に不安定な娘に呆れて戸惑うばかりです。このように、愛情、憎しみなどの感情が、些細なことで両極端に大きく揺れてしまう症状を情緒不安定と言います。「ペット」が引き合いに出されたのは、母親が「結婚後に妊娠するまで退屈で話し相手が欲しくて猿を飼っていたわ」と言っていたのを思い出し、自分がその猿と重なったからでしょう。真反対の感情がほとんど同時に湧き起こっているので、アンビバレンス(両価性)とも言えます。情緒不安定はもろく傷付きやすいことですが、裏を返せば、繊細で感性が鋭いことでもあります。ストーリーのところどころで紹介される彼女の繊細な文章表現には納得がいきます。空虚感―見捨てられ不安―愛が重すぎるリジーは通い始めたセラピストに言います。「普通の人は傷付いても自分で治っていくものだけど、私は血が出たまま」「治ればいいの」「人生は先に進むしかないもの」と。人生を歩むことに対して冷めていて、満たされない空しさがにじみ出ている特徴的なセリフです。彼女を支配しているのは、この空虚感でした。これを「憂うつが徐々にそして突然にやって来た」と受け止めています。そんな空虚感で落ち込んでいるリジーは、「レーフが救いの神に選ばれたのだ」と思い立ちます。かつてパーティでハメを外して男子トイレで出会ったレーフの登場です。レーフは会場の分からない演奏会に誘ってしまったのはまず君に会いたかったからだと素直に打ち明けるなど誠実味があります。どう見られるか表面的なことばかり気にするリジーとは対照的です。リジーが例えるようにまさに救世主で、新しい恋人となります。しかし、情緒の揺れは止まりません。レーフとデートで踊りに行っても、ほんの少しの間、レーフが別の女性とカウンターでおしゃべりをしただけで、カッとなりその場を衝動的に立ち去ってしまいます。情緒不安定によりとても傷付きやすく、見捨てられたと思い込み、悲しみや怒りが抑えられないのでした。レーフが実家に帰っている時に、電話がつながらないことに不安を募らせ、ひっきりなしに10回も電話して、挙句の果てに遠方のその実家まで飛行機で乗り込んだのでした。見捨てられまいとして、付きまとい、すがり付くなどのなりふり構わない行動をとり、結果的に相手の自由を束縛してしまうのです。この心理は、「電話魔」「メール魔」「ストーカー」などの現代の社会問題に通じるものがあります。良く言えば愛が深いのかもしれませんが、やはり愛が重いです。そして、相手はその重さに耐えられなくなってしまうのです。スプリッティング(分裂)―生きるか死ぬかリジーは親友にレーフのことを自慢します。「真の愛とは生きるか死ぬか壮絶なものよ」「あなたのは体だけでしょ」 と。その言葉に親友は怒りを通り越して呆れてしまいます。さらには、「最愛の人をあまりにも愛しているために、その人を殺してその灰を食べるということに共感できる」「それが相手を完全に所有する唯一の方法だから」と心の中で悟ります。リジーのものごとのとらえ方がとても極端で、偏って、歪んでいることが分かります。認知の歪みです。これは、空虚感や見捨てられ不安により、彼女は常に全か無か(all or nothing)、二者択一の究極の選択肢しか持ち合わせていないからでした。白黒思考、二分思考とも言います。そして、両極端の感情である心地良さと不快さのバランスがうまく保てない心理状態に陥っています。これはスプリッティング(分裂)と呼ばれます。このスプリッティングにより、「良い人か悪い人か 」「敵か味方か」という発想に行き着き、その気持ちが些細なことでコロコロと移ろいやすいのです。これが、理想化とこき下ろし(幻滅)です。リジーのセラピストに対するとらえ方が分かりやすいのです。最初は「この人に任せてもだめだ」と幻滅して、その後、レーフとうまく行っている時には理想化し頼りにしており、レーフと別れたら「期待したのに辛いだけじゃないか」と怒鳴り込んで幻滅しています。セラピストだけでなく、母親、恋人、親友などとの対人距離も、ちょっとしたことで好きになりべったりとくっ付き、その後にちょっとしたことで嫌いになり暴言を吐き離れてしまい、とても不安定です。さらには、ものごとへの取り組みも不安定で、幸せの絶頂でこれが永遠のものではないと悟ることで不安に襲われ、取り乱して目標が実現する直前で全てを台無しにする特徴もあります。自傷行為―自らを傷付ける行いリジーは、薬を飲み続けるかどうかセラピストと相談していた時、セラピストに言われたある一言で、とっさにその場を立ち去り、トイレに行き、グラスを割り、リストカットをしようとします。その一言とは、「薬を飲み続けることを私は勧めるけど、決めるのはあなたよ」です。一見、何でもないような一言ですが、リジーの受け止め方は違っていました。この時にリジーは、セラピストを理想化し全てを委ねており、セラピストに決めてもらいたかったのです。ところが、「自分が決めなければならない」「突き放された(見捨てられた)」と極端に受け止めたのです。さらに、リジーはリストカットすることで「死にたいほど辛いという気持ちを分かってほしい「助けてほしい」という無意識のメッセージであり、アピールの心理もあったのです。時々、リジーはふと幼少期を回想します。実は、リストカットのような自傷行為が始まったのは、リジーがまだ小学生の時でした。カミソリの刃で自分の足を切り付けるようになります。当時より「自分は何てだめなんだ」という自己否定感が高まり、「自分を痛め付けて罰したい」という自罰性が現れていました。逸脱行動の先駆けとも言えます。また、同時に空虚感もくすぶり始め、「その空しさを紛らわしたい」「生きている実感を味わいたい」「新しい自分になりたい という気持ちから、気分をリセットするための憂さ晴らしとして依存的に繰り返すようになります。このように、自傷行為には、アピール性、自罰性、依存性の3つの側面があります。傷付きやすい自分を自ら傷付け、そして逸脱行動により周りの人をも傷付けていってしまうのです。情緒不安定性パーソナリティ障害このように、自己否定感、空虚感から見捨てられ不安などの情緒不安定が煽られ、認知の歪み、スプリッティング、理想化とこき下ろしが現れ、自己破壊的な逸脱行動が繰り返され、その果てに自傷行為により他人を巻き込むようになり、もはやその人の性格や生き様などのパーソナリティ(人格)として根付いてしまっているので、情緒不安定性パーソナリティ障害の診断と診断されます。境界性(ボーダー)パーソナリティ障害とも呼ばれます。そして、対人トラブルを引き起こし、二次的にうつの状態に陥っていると言えます。特に、人間関係の幅や深みが広がり複雑になる思春期に症状が目立って現れるようになります。現代の情緒不安定性パーソナリティ障害の特徴的な行動パターンは、用意周到で本気の自殺行為よりも、衝動的で助かる見込みのある自傷行為が圧倒的です。例えば、動脈に達しないリストカット(いわゆる「ためらい傷」)、致死量に達しない過量服薬、3階までの低層からの飛び降りなどです。そもそもギリギリ助かることが本人によって無意識にも想定されています。さらに、アピール性がエスカレートした場合は、別れを切り出した恋人に対して「別れるなら死ぬよ」という脅し文句に使われることもあります。いわゆるお騒がせな「狂言自殺」です。これは操作性と呼ばれています。父性不在―無責任な父親それでは、なぜリジーは情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまったのでしょうか?その答えに辿り着くためには、幼い頃からのリジーの家庭環境に目を向ける必要があります。まず、もともと父親は、離婚後に気まぐれに突然現れるのみで、口先では「一番愛している」と調子の良いことを言うだけです。リジーに医療費の支払いをしていない事実を問い詰められた時は、逆切れして、全然連絡をくれなくなったからだと話をすり替え、挙句の果てに支払いは母親の責任だと言い張り、無責任な態度で開き直ります。父性不在です。母性過剰―支配的な母親次に、母親を見てみましょう。入学日の当日、独りで引っ越し荷物を運べると言うリジーを頭ごなしに否定したり、娘が書いた記事の受賞や経歴をあたかも自分の手柄のように吹聴する母親の様子は、私たちに何か嫌悪感を抱かせます。良く言えば、子煩悩で面倒見がいいように見えますが、悪く言えば、娘の考えに耳を傾けず、一方的に自分の考えを押し付けるばかりで、過保護で過干渉です。大学生になり、自活しようとする娘を完全に子ども扱いしています。また、冒頭のシーンで、母親は、リジーの自室にノックもせずに入ってきて、しかも娘が全裸であるのにも気にも留めず、部屋の中をウロウロ歩き回り、一方的に「カーペットも持っていこう」と言い出しています。一方、リジーも特に恥ずかしがることはありません。この2人の様子にはかなりの違和感があります。まるで、飼い主とペットのような振る舞いにさえ見えてきます。張り切り過ぎている母親にリジーがうんざりして、「別に作家になるのにハーバードに行かなくても」と漏らすと、母親は過剰に反応して、「何言っての?」「私が今日という日をどんなに待ち望んだことか」「ハーバードに行かなければ誰もあなたのことなんか気にも留めないわよ」と。「誰も」というのは「母親である私は」というニュアンスが暗に込められているのが明らかです。愛情を注ぐことに条件を付けています。入学後しばらくして、母親は、変わり果てたリジーを見て、苛立ち、甲高く小言を言い続けて、ついには激怒します。「何このありさま!? 「こんなことに付き合っていられないわ」と。そこには、慰め、いたわりなど共感する包容力は一切ないのでした。逆に、リジーが音信不通になったことで母親は心配していましたが、その後、娘が元気で恋人とうまく行っていると分かると素直に喜べません。娘が自分から離れていってしまうような感覚にとらわれて、泣き崩れています。これは、母性過剰と言えます。機能不全家族―家族の力が働かないリジーは過去を振り返ります。「父がいなくなり全く関わりがない分、母が執拗に関わってきた」と。父親が不在の場合、相対的に母性が過剰になり、そして、必然的に母子の密着が高まります。一人っ子であればなおさらです。さらに、男性より女性の方が共感性が強い分、母親-娘という女性同士の組み合わせが一番です。「母が母自身の男友達についてリジーに相談をしなかったのは父だけだった」という事実は強烈です。つまり、母親は自分の男友達を全てリジーに開けっぴろげにしていたのです。リジーは心の中で母親の本心を言い当てています。「自分の失敗を娘で償おうとした」と。母親は、リジーの将来に強すぎる期待を寄せる余り、要求水準が高くなっていたのでした。言い換えれば、母親による娘の支配です。過剰な期待は、愛情に条件を付けることで、支配にすり替わっていたのです。娘を一人の「個人」「大人」と見なすことができなくなっていました。「心配なの」「愛しているの」という言葉のもとに、先回りして過干渉を続け、自分の延長の存在ととらえています。娘は、自分の思い通りになる所有物であり、自分の生き直しの存在であり、自分の分身でした。もはや虐待にさえ見えてきます。実は、これこそがまさに落とし穴だったのです。良かれと思い母親が必死にやってきたことが、実は大きく裏目に出てしまっています。子どもの成長において、「自分は掛け値なく大事にされている」「無条件に愛されている」という実感があれば、自然に自己肯定感や基本的信頼感が芽生えていくものです。ところが、父親は自分を守ってくれないという父性不在、母親は条件付きの愛情しか注がないという母性過剰による愛情の歪みから、自己否定感、不信感、空虚感が煽られていき、後々に情緒不安定などの性格や歪んだ認知の問題、つまりパーソナリティ障害になっていく可能性が高いです。現代の日本の「お受験ママ」「ステージママ が子どもを追い込んでいく姿はリジーの母親に重なり、危うさを感じます。また、単身赴任の多い日本の父親は、子どもと触れ合う時間が少なく、大事な場面でいない点で、リジーの父親に重なって見えてどきっとします。勉強、スポーツ、芸能における子どもへのスパルタ式のかかわり方は、無条件の愛情という家族の固い絆が前提にあってこそ成り立つのです。アダルトチルドレン―もの分かりの良すぎる大人びた子リジーは初潮の時に母親に告げられた言葉を思い出します。「これであなたも終わり」「面倒の始まりよ」と。また、母親は「結婚は人生の墓場よ」とも言っています。娘の成長に対してとても否定的で、そこからリジーの自己否定感が募っていきます。また、幼い頃から両親が大声で罵倒し合い、いがみ合う様子を目の当たりにしてきました。両親がお互いの悪口を言い合い、そしてそのウソを見抜いてきました。信じている2人からそれぞれ矛盾したことを言われて二重に縛られること、ダブルバインドです。そんな息詰まる家庭環境でリジーは、生き残るために順応しました。そして、「ママが戻って欲しいって言ってるよ」と父親に言うなどそれぞれの両親に対して間を取り持とうとウソをついてきました。リジーはもともと物分かりが良かったのです。親に気を使い、無理に自分の気持ちを抑え込んで、良い子を演じて生きてきました。「大人びた子ども」、つまりアダルトチルドレンです。しかし、そこには子どもの発達に必要な自己肯定感、自尊心は育まれません。そしてやがてはリミッターを振り切り自分の気持ちをコントロールできなくなり、情緒は不安定になっていき、そして、ついに思春期に爆発したのでした。世代間連鎖―受け継がれる家族文化それでは、なぜ母親はこうなってしまったのでしょうか?その鍵は、実は母親と祖父母との関係性にありました。母親は祖父母が訪ねてくる前にタバコを吸っていたことがばれないように灰皿を片付けたり、リジーの悪態を必死で取り繕おうとあえて涼しい顔を装っている場面を見てみましょう。母親は祖父母に対してまさに「良い娘」、子育てを立派に成し遂げた「良い母親」を演じようとしています。一方、祖母は、リジーの態度の悪い様子に取り乱し、いい年して大人げないというか「年寄りげ」ないです。そして、祖父は呆然としているばかりで存在感がないです。その後、母親が不幸にも強盗に遭い大けがをしたことについて、祖母はリジーの目の前で「こうなったのはリジーに原因がある」と犯人探しを始めます。その時も祖父は戸惑った表情で無言のままです。リジーがかつて母親の前で良い子を演じていたように、実は母親も祖母の前で良い子を演じているのです。母親は祖母に対して腹を割って話す、本音で話すということができないため、ありのままの自分をさらけ出せず、心が通じ合っていません。体裁ばかり気にして中身のない薄っぺらな家族像が透けて見えます。母性過剰により愛情が歪んでいます。そして、祖父も父親も存在感が薄い点で、父性不在も一致しています。もしかしたら、父性不在と母性過剰で育った娘は、選ぶ夫は父親に似て存在感のない弱い男か、または強い男でも自分の方が母親のようにより強くありたいために結果的に離婚して、その子どもにとって父親の存在感をなくしてしまっているのではないかと思います。リジーの家系は、父性不在、母性過剰の典型的な機能不全が家族文化として受け継がれ、世代間連鎖していることが伺えます。つまり、祖先を遡れば、祖母も曽祖母から母性過剰による歪んだ愛情の洗礼を受けたのかもしれません。逆に、子孫を辿れば、リジーが子育てをする状況になった時は、同じような悲劇が繰り返される可能性も潜んでいるということです。もともと日本は、単一民族で集団主義的であるため、見た目や考え方が似通っており、均一な名残があります。それだけに、人柄や能力などの中身よりも、家柄、学歴、所属、年齢などの外面的な体裁を重視し、差別化を図る傾向にあります。そのため、リジーのような家族の中での取り繕い、絡み合いが、日本では生まれやすいと言えます。共依存―頼られる喜びなぜレーフは、リジーを好きになってしまったのでしょうか?もちろん、もともとタイプであったり、リジーのエキセントリックな行動が人とは違うということで魅力を感じたということはあります。しかし、それ以上にレーフを突き動かしたものがありました。実際のレーフのリジーへの関わりを見ながら探っていきましょう。まず、カフェでのデートの場面。レーフがリジーに紅茶を入れてあげるだけでもちょっと世話焼きですが、その入れ方を間違えてリジーの紅茶が飲めなくなった時、リジーがもう要らないという言葉に反して、レーフはお節介にも注文してしまいます。その後、何の根拠もなくリジーに「浮気したくせに」と言いがかりを付けられ、テーブルの食器をひっくり返されたのに、レーフは立ち去り走り続けるリジーをけなげに追い、謝り倒します。レーフは、寛容で包容力がありますが、裏を返せば世話焼きでお節介なあまりに自分を押し殺してしまっています。そんなレーフはリジーの母親と重なり、リジーは親近感を抱くと同時に苛立ってもいます。リジーがレーフの実家に乗り込んだ時、レーフの世話焼きキャラの由来が明らかになります。それは、レーフの妹が知的障害で、大声を上げたり、暴れたりするのを献身的にあやしているのでした。リジーはその妹と自分が重なって見えてしまい、ショックを受け、レーフに暴言を吐きます。「こういうのが趣味?」「快感なんでしょ」「人の不幸を楽しんでいる」と。それは、レーフにとってもショックであったかもしれません。それは、ある意味では言い当てられているからです。実際、リジーのような情緒不安定な女性は、レーフのような共依存的な男性と惹き合う傾向があります。やはり、世話焼きな男性としては、不安定な女性を放って置けず、助ける喜び、頼られる喜びで心を満たすからでしょう。認知行動療法―ものごとのとらえ方の練習リジーは「誕生日会は私のためではなく、母親が祖母から褒めてもらうためにやっていただけなんだ」とセラピストに答えます。確かにそういう理由があったとしても、精神的に健康的な人なら、「もちろん自分のためにもやってくれた」「家族が集まるきっかけとしても大切だった」という様々な理由も思い浮かぶはずです。ところが、リジーは思い込んだらその1つの極端で歪んだ認知に飛び付いてしまうのでした。セラピストは、決め付けることは一切せず、共感しながら誘導的な質問をし続けて、その認知の歪みを気付かせ、解きほぐしていきます。ものごとには様々な認知があり、バランス良くその認知を再構築していくトレーニングをします。これが認知行動療法です。そこから、ものごとにはグレーゾーンがあり、例えば相手を安易に信じるわけでもなく、無暗に疑うわけでもなく、二者択一ではないバランスをとる思考のトレーニングを繰り返しやっていきます。認知行動療法は、ある意味、ピアノのレッスンのような習い事であり、理性的に頭で理解すると同時に、様々な認知パターンを感覚的に刷り込んでいく作業が必要でもあり、労力を伴います。例えば、同じように誰かのために仕事をしたとしても、「いいように使われた」と思うか、「お仕えすることができた」と思うかは認知の大きな違いです。チャリティ精神のように、人の幸せを自分の幸せと感じることができるか、または「人の不幸は蜜の味」ということわざが示すように、人の不幸を自分の幸せと感じるかは、個人差があり、これが認知の違いでもあります。リジーは最終的に自叙伝を書き上げ、しかも映画化され、今回私たちがそのDVDを見ているわけですが、実は、自叙伝、日記など自分のことを書くという行為は自己表現であり、自分自身を客観的に見つめ直す作業です。客観的な視点を持つことで、冷静になり、様々な認知をとらえ直す格好のチャンスになりえます。まさに自分のことを書く作業は「自己認知行動療法」と言えます。家族療法―家族内のシステムへの働きかけ母親が強盗に遭い、大けがを負い、自宅で介護が必要になったことで、リジーの精神状態は一時的に落ち着いてしまいます。その理由は、母親が身体的にも精神的にもリジーに干渉できなくて、心理的な距離ができたからでした。そして、母親はついに気付き、リジーに告げます。「あなたは私の全て」「それがあなたを苦しめたのね」「私のために何かになる必要はないわ」「私のためにいい子になることもない」と。リジーは「そう、私には負担だった」と答えます。お互いが問題点を確認した瞬間です。もともと母親自身、心は満たされていませんでした。その満たされない心を娘に目をかけることで満たそうとしていたことを悟ったのでした。そして、母親が変わったことで、リジーも自分が納得する自分らしい生き方に目覚めようとしています。親は、仕事や趣味などを通して子育て以外の生きがいも見つけて、子育てだけを生きがいとしないようにすること、そして、その仕事、趣味を通して自分の子ども以外との人間関係を深めて、子どもだけとの人間関係、つまりは密着しないことを心掛けることです。そして、同時に「どんなことがあってもお前を守る」「そのままのお前を愛している」といいう無条件の愛情を子どもに注ぐことが大切です。ストーリーの中では、セラピストはあまり家族へ働きかけているようには描かれていませんが、実際はリジーが小学生の段階で特に母親に早期介入する必要がありました。情緒不安定になってしまった最大の原因が、家族内のシステムの問題であったわけですので、本来はセラピストが家族を呼んでいっしょに面接をして、家族の関係性を改善していくことが望ましいです。これが家族療法です。また、場合によっては、直接その家に第三者を定期的に送り込むことも重要です。それは、祖父母、叔父叔母、親戚などの血縁関係から、隣人、担任教師、家庭教師、医療スタッフなどの非血縁者まで様々です。最近は、メンタルフレンドというカウンセラー的家庭教師がいます。家庭に第三者の目があるというシステムが、親や子に家庭環境を客観視させることにつながるのです。行動療法―人生のルール作りリジーは、なりふり構わない行動により、親友を散々ひどい目に合わせても、その後に困ったら泣きついて助けを求めようとします。さすがの人のいい親友もあきれ果て、最後は「もう無理」と冷ややかに見限ります。限界設定です。こうして、リジーは親友、恋人を失っていき、誰からも相手にされなくなっていくということを肌で感じていきます。また、リジーがセラピストの目の前でリストカットをしようとした時のセラピストの対応は圧巻です。セラピストは無言で見つめ続け、彼女がガラスの破片を落としたところで、立ち去っていきます。決して、優しくはしないのです。これは、自分の行動は自分で責任をとらなければならないという静かでそして強烈なメッセージです。そのためのかかわりとして必要なことは、対人距離が不安定なリジーに対して、セラピストは常に冷静で節度ある一定の距離を保ち、巻き込まれないように細心の注意を払っているのです。対人関係のルールや生活の枠組みを作り、目標が達成できたら得をして、問題行動を認めたら自分で責任を取らせて損をする条件付けにより行動を変化させる仕組みも効果的です。これを行動療法と言います。現実問題として、この障害が良くならない要因の一つに、過保護な家族や共依存的な恋人が過剰な関わりをしてしまい、巻き込まれて失敗の尻拭いをするなど、本人に自分で責任を取らせていないために、同じ過ちを繰り返すという悪循環に陥ることがよくあります。ただ、年を経ると大抵の患者が落ち着いていきます。その理由として、心が揺れるエネルギーが年を経てなくなってしまう点、本人が学習する点、そして周りも学習して距離をとる点があげられます。例えば、この障害は魅力的な若い女性が多いのですが、中年になればその魅力が失われて、構ってくれる男性がいなくなるこということがあげられます。薬物療法リジーは薬を飲むことでずいぶんと「うつ」が良くなったと言っています。情緒不安定による対人トラブルで、うつ、不安、不眠などの様々は二次障害を引き起こします。これらに対しての薬物療法はあくまで対症療法であり、残念ながら特効薬はありません。原題は、“Prozac Nation”という「抗うつ薬の国」で、抗うつ薬の処方がアメリカの社会問題としてレポートしたスタイルをとっています。シネマセラピー情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまった主人公の視点を通して、彼女の心の揺れや苦しみが見ている私たち自身と重なる部分、家族や友人と重なる部分に私たちは気付き、より良く理解し、そして見つめ直すことができます。それは、自分や他人のできることとできないことの限界や境界をはっきりさせて理解することを通して、自分を大切にして自分を見失わないこと、他人を大切にして他人を失わないことです。そこから、リジーの問い続けた「真の愛」が、自分本位に相手を愛することではなく、相手の立場に立って相手を尊重し、一定の心地良い距離を保つことでもあるというより広い視野に立つことができるのではないでしょうか?その時に私たちは共により良い生き方を見い出し、自分の子どもへのかかわり方のあるべき形も自然と見えてくるのではないでしょうか?

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ちびまる子ちゃん【パーソナリティ】

「いるいる、こんな人!」―パーソナリティとは?みなさんは、今までに出会った人で、「いるいる、こんな人!」と思わず別の誰かを連想してしまったことはありませんか?私たちは、いろいろな人とかかわっていく中で、新しく出会った人が、自分のすでに知っている誰かに重なってしまうことがあります。そして、その人が、国民的人気アニメ番組「ちびまる子ちゃん」のあの個性的なキャラクターたちに似ていると思ったことはありませんでしたか?普段の日常生活で私たちの心を惹きつけたり、逆にヤキモキさせる人たちが、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターたちに重なってしまうのはよくあることです。その理由は、「ちびまる子ちゃん」に登場するキャラクターたちの多様で魅力的な個性には、メンタルヘルスで扱われる性格の傾向(パーソナリティの偏り)が巧みに描かれているからです。彼らの存在こそ、「ちびまる子ちゃん」が20年を超える長寿番組となったことに大きく貢献しているように思います。今回は、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターたちの特徴を深く探っていきましょう。そこには、魅力と同時に危うさ(リスク)も潜んでいます。そこから、私たちが実生活で人とより良くコミュニケーションをするためのヒントを見つけていきましょう。パーソナリティの源 ―個体因子と環境因子厳密には、パーソナリティは、成人後に完成するという前提があります。なぜなら、まる子の年頃はまだまだ心の成長の途中で、柔軟性(可塑性)があるので、一概にパーソナリティを決め付けることはできません。しかし、あまりにも特徴が出ているので、あくまでパーソナリティの傾向やリスクとして、みなさんにぜひご紹介したいと思います。【男子】丸尾くん―生真面目キャラ―発達の偏り、強迫性パーソナリティまず、最も強烈なキャラクターの丸尾くんです。「ズバリ!○○でしょう」が口癖で、一貫して丁寧な言葉使いで一本調子な話し方が特徴です(コミュニケーションの偏り)。学級委員としていつもハツラツとしていますが、学級委員で居続けることに執念を燃やし、そのためには並々ならぬ努力もしています。ここから、彼に強いこだわりがあることが分かります(想像力の偏り)。次の学級委員の選挙を前に、ライバルが出てくるのに神経質になった丸尾くんは、クラスメート1人1人に「困っていることはありませんか?1つくらい絶対にあるでしょう」と強引に迫っていくエピソードがあります。そして、まる子たちに「親切の押し売りだ」「何でもないのにいちいち声をかけられたら迷惑なんだよ」だと責められます。ここから、彼は、こだわりが強いあまりに融通が利かず、空気が読めずに空回りしていることが分かります(社会性の偏り)。目指すのが、みんなのお手本でありながら、日頃から女子に「奇妙キテレツ」と思われてもいます。さらには、花輪クンのきれいなお母さんを見て帰ってきた時、丸尾くんは自分のお母さんに「母さま、なぜあなたは美しくないのですか?」と悪気なく聞いてしまいます。彼は、相手の心を汲み取って(心の理論)、人に合わせるバランス感覚は鈍いのでした。これらの3つの特徴から、丸尾くんはどうやら発達の特性(発達の偏り)が際立っています。さらに、成長して空気の読みづらさが目立たなくなっても、こだわりに囚われてしまうことが癖(完璧癖)になってしまうリスクがあります(強迫性パーソナリティ)。彼のこれらの特徴は、彼の心構え(パターン認識)や周りの理解によって、良さや魅力にもなりえます。こだわりは、ひたむきさ、熱意、真面目さにもなりえます。実際に、彼は、勉強だけでなく、お楽しみ会の手品や運動会の応援や合唱の練習など何ごとにおいても一生懸命にする努力家です。学級委員として、みんなのためにみんなが嫌がることも喜んでやります。そして、女子に対しての純情な一面もあります。私たちが丸尾くんから学べるコミュニケーションのコツは、丸尾くんのような人に何かしてほしい時、まず細かく具体的な指示を出して、脱線しないようにレールをしっかり敷いてあげることです(構造化)。そして、そのレールに乗せて、本人のひたむきさを生かすことです(パターン学習)。私たちが、丸尾くんのひたむきさを高く買ってあげることができれば、「立派なサラリーマン」「マイホーム購入で親孝行」「ノーベル賞受賞」という丸尾くんの夢をきっと応援したくなるのではないでしょうか?表 丸尾くんの二面性危うさ魅力こだわり、完璧癖、融通が利かない空気が読めず空回り奇妙キテレツひたむき、熱意生真面目、努力家純情花輪クン―セレブキャラ―自己愛パーソナリティまず、家庭環境が際立って恵まれているのが、花輪クンです。彼は、いわゆるセレブです。しかも、家の財力があるだけでなく、英語やフランス語などの語学、ピアノやバイオリンの音楽、お茶とお花の教養などのあらゆる英才教育を受けてきています。通学は、車という特別扱いが当たり前です。さらに、端正な顔立ちで、クラスの女子からの圧倒的な人気があり、口癖は「ベイビー」です。唯一の欠点は、字が下手なことくらいです。このように、子どもの頃から全てにおいて恵まれた環境で、挫折も知らないまま育った場合、何ごとも自分の思い通りになると思ってしまいます(万能感)。すると、パーソナリティの傾向としては、自信に溢れてしまい(自己評価が高い)、自分に酔いしれて自惚れやすくなります(誇大性)。そして、いつもチヤホヤされたいと思うようになります(賞賛欲求)。また、自惚れが強ければ、人を見下してしまいやすくなり、自分以外の恵まれない環境の人たちの気持ちが分かりにくくなります(共感性欠如)。その一方で、もともと守られていることで、自分を大切に思う気持ちが強く(自己愛)、妥協をしません。これが向上心としてより良く生きる原動力になるので、攻めは強いです。しかし、もしもその守りがなくなってしまったら、どうでしょう?つまり、持っているものを持ち続けている限りは強いのですが、持っているものがなくなってしまった時は、どうでしょう?例えば、お父さんの会社が倒産したら?成長して端正な顔立ちではなくなったら?大病を患ってしまったら?人間関係のトラブルで信頼を失ったら?彼は、何ごとも思い通りにできるという自分のイメージ(自己イメージ)が人一倍強いです。それだけに、実は、慣れていない苦しい状況によるストレスに対しては人一倍に打たれ弱いのです。このように、自己イメージと現実とのギャップに苦しむリスクが高まります(自己愛性パーソナリティ)。つまり、攻めには強いですが、守りにはとても弱いという弱点があるのです。私たちが花輪クンから学べることは、恵まれすぎていることは、逆に、人間的な成長にとってプラスにならないという客観的な視点です。むしろ、生きていて思い通りにならないことにこそ、心を鍛え養うエッセンスが潜んでいます。失敗や挫折を跳ね返す経験は、私たちの心の糧(かて)になり、心をより豊かにするために大事なことであると言えます。表 パーソナリティの源危うさ魅力自惚れやすい(誇大性)チヤホヤされたい(賞賛欲求)人の気持ちが分かりにくい(共感性欠如)守りは弱い自信に溢れている(自己評価が高い)より良く生きる原動力(向上心)になる妥協しない攻めは強い永沢―ひねくれ者キャラ―反社会性パーソナリティ花輪クンとは対照的に、家庭環境が恵まれていないのが永沢です。彼には、火事で家を失った暗い過去があります。昔は「明るい少年だった」と言われていますが、火事を境にして、今は暗く、「どいつもこいつも」といつも不平不満を口にして(不信感)、誰に対しても口が悪いひねくれ者です(敵意感情)。火事で自分だけ惨めな思いをしたことから、「自分が損をすること」にとても敏感になのです(不公平感)。「世の中は平等で公平である」という育むまれるべき感覚(規範意識)が彼の中で揺らいでいます。彼には、気難しくてすぐに殴る父親と愛情表現が乏しく厳しい母親がいます。この両親に対して、すでに小学校3年生にして反抗的な一面があります。うっぷん晴らしで、彼を慕う藤木を冷たくあしらったり、おとしめたりします(攻撃性)。「損をしないためには他人を利用する」というものごとのとらえ方が芽生えてしまい、理屈っぽくて相手の気持ちがよく分からなくなっています(共感性欠如)。校外の社会科見学で、出発の時に、わざと姿をくらませて、出発できないようにして、みんなを困らせようとしたエピソードもありました。図書室の本「みんなに好かれる性格になる本」を、永沢が読むべきだとまる子に言われたことに腹を立てて、怒りが治まらずに本を引き裂くエピソードもあります(衝動性)。彼の攻撃性や衝動性は、やがて訪れる反抗期にエスカレートすれば、不良グループに属し非行に走るリスクがあります。そして、成人後には社会のルール違反を繰り返すリスクがあります(反社会性パ-ソナリティ)。しかし、同時に、彼の反抗心や反骨精神、闘争心は、将来的に尊敬できるロールモデルに巡り合い、良い方向付けができれば、古いしきたりや価値観に縛られることなく、新しい発想や価値観をもたらすエネルギー源にもなりえます。不信感や不公平感は、現状に甘んじることのない問題意識の高さでもあります。衝動性は、フットワークの軽さでありチャレンジ精神の旺盛さでもあります。つまり、彼は、時代のパイオニアや改革者になる可能性も秘めているということです。表 永沢の二面性危うさ魅力不信感、不公平感ひねくれ者、反抗心攻撃性衝動性問題意識が高い反骨精神、闘争心パイオニア、改革者軽いフットワーク、チャレンジ精神藤木―気にしすぎキャラ―回避性パーソナリティ藤木は、ハートはとても弱い泣き虫の臆病者です。臆病な行動をとってしまって、どんなに永沢に付け込まれて「卑怯者」呼ばわりされても、藤木は永沢を慕います。「永沢くんにもいいところがある」と永沢をかばおうとする姿勢は、健気(けなげ)で優しさがありますが、同時に、これはいじめられっ子の典型的な心理でもあります。一人ぼっちにはなりたくないという怯えがあり、たとえ意地悪な相手であっても、かかわりを持ちたいと思うのです。この状況は、永沢の気分によっては、いじめにエスカレートするリスクが潜んでいます。彼はクラスメート全員から、ことあるごとに「あいつ卑怯だからな」とからかわれ、卑怯者のレッテルを貼られます。まさに、弱々しいしい彼がターゲット(スケープゴート)にされるいじめの構図です。また、藤木自身もそれに甘んじてしまい、「どうせおれは卑怯者だから」と卑怯なことをする都合の良い言い訳にして、卑怯なことを繰り返してしまいます(ラベリング理論)。さらに、残念なことは、彼は卑怯者呼ばわりされたことを涙して両親に打ち明けたのに、その両親は「そうなった原因はお前だ」「いや、あんただ」と責任のなすり合いをして夫婦ゲンカに発展してしまったことです。全く、藤木は両親から守られておらず、ますます心の支えや安心感(安全基地)がなくなってしまいます。こうして彼は、自分に自信がなくなってしまい(自己評価が低い)、将来的に、引っ込み思案で引きこもりになるリスクが高まります(回避性パーソナリティ)。ただ、彼のパーソナリティは、裏を返せば、慎重で協調性があり、争いを好まない平和主義者という見方もできます。彼の良さである穏やかさや優しさが発揮されるには、プレッシャーをひどく与えないコミュニケーションが望まれます。表 藤木の二面性危うさ魅力臆病、引っ込み思案自分に自信がない(自己評価が低い)引きこもりのリスク慎重、穏やか協調性がある、優しさ平和主義はまじ―お調子者キャラ―演技性パーソナリティはまじは、クラス一のお調子者です。いつもいろいろな芸をして、クラスメートを笑わせています。「だいたいなぁ、長山(読書家で優等生のクラスメート)みたいに真面目ばっかじゃ面白くねえんだよ。子供らしくない子供はみんなに嫌われるぜ」と彼は力説します。この発言から読み取れるのは、彼は「みんなに嫌われる」かどうかに価値を置いている点です。つまり、彼は人一倍、「みんなに好かれたい」のです。みんなを喜ばせて注目の的になりたいという欲求が強く、派手好きで、周りへの働きかけがとても積極的です(能動性)。実際に、彼のようなキャラクターは、やり手のセールスマンに多く、世渡り上手(社交性)で出世しやすく、また、芸能界ではムードメーカーとしてもてはやされ人気者になります。はまじの教訓は、「人生なんに面白おかしく過ごしたやつの勝ちだ」です。お気楽でウケ狙いのノリの良さはあるのですが、気に入られることばかりに気をとられてしまうとどうなるでしょうか?自分自身を振り返ることが疎かになり、媚びるばかりの「中身のない薄っぺらいヤツ」になるリスクもあります(演技性パーソナリティ)。真面目さや内面性を問われる集団では、親しみやすさは馴れ馴れしさになってしまい、派手さはけばけばしさになり、目立ちたがり屋、チャラい男、ブリっ子女子として煙たがれ、疎まれるリスクもあります。表 はまじの二面性危うさ魅力目立ちたがり屋、大げさ馴れ馴れしいけばけばしい媚びる、中身がない、薄っぺらいお調子者、ムードメーカー親しみやすさ、世渡り上手派手好きノリが良い、演出がうまい【女子】まる子―愛されキャラ―依存性パーソナリティ主人公のまる子は、面白いことに好奇心があり、楽天的です。みんなに気に入られ、愛される魅力的なキャラクターです。はまじとはお調子者同士でよく似ており、気も合うようですが、まる子は、はまじほど積極的ではありません(受身)。しかし、要領が良い分、甘え上手、お願い上手で、だらしない面がたくさんあります。例えば、おじいちゃん大好きっ子で、おじいちゃんにはよくおねだりをします。また、お姉ちゃんには「まる子の一生のお願い、これで17回目だよ」と言われたり、お父さんに「お前の一生は何回あるんだ」と突っ込まれるなど、まる子は一生のお願いを連発しています。飽きっぽくて怠け癖があり、よく朝寝坊をして、遅刻ぎりぎりセーフでいつも学校に通っています。すぐにいらないものを買うなどお金の浪費癖も目立っています。このようなだらしなさは、見通しが甘く(無責任)、人を当てにして(主体性がない)、生きてしまうリスクがあります(依存性パーソナリティ)。まる子の家族(おじいちゃんを除く)は、まる子を気安く助けないようにしていますが、これは、とても良いコミュニケーションのコツと言えます。表 まる子の二面性危うさ魅力だらしない、飽きっぽい怠け癖、浪費癖無責任、主体性がない楽天的、受身甘え上手、頼み上手気に入られる、愛されるたまちゃん―しっかり者キャラ―共依存まる子と大の仲良しなのは、たまちゃんです。彼女は、ピンチになるまる子をいつも全力で助けてくれます。例えば、まる子が言いたいことをついはっきり言ってしまい、みぎわさんや前田さんとやり合った時、ハラハラしながらも仲直りさせようとします。また、まる子ができ心からカンニングをして、その後ろめたさからみんなに打ち明けようとすると、たまちゃんはまる子に「絶対に言っちゃだめ」「言ったら絶交だからね」と言います。そして、心の中で誓います。「私はまるちゃんをかばうよ。どんなことがあってもかばう。絶対にみんなから責められたりしないようにするよ」と。まる子がたまちゃんに頼りがちなだけに、たまちゃんは、いつもまる子を放っておけなくなります。実は、たまちゃんのようなしっかり者が、そのしっかりしている力を発揮するには、周りにだめな人がいてくれる必要があります。将来的には、だめな人を放っておけない、自分を頼ってくれるだめな人を探し求めてしまうお節介屋さんになる可能性もあります。頼られることに頼る、つまり必要とされることを必要とするようになり、相手も自分もだめにしてしまうリスクがあります(共依存)。たまちゃんは、なぜこんなにしっかり者なのでしょうか?その答えは、たまちゃんのお父さんの存在にありました。たまちゃんのお父さんは、カメラマニアで、「何でも記念を写真に撮っておきたい」というこだわりが強く、相手の気持ちを汲み取る心(心の理論)が鈍いようです(発達の偏り)。シャッターチャンスを逃すまいとしてしょっちゅう常識外れな行動に走ります。「風邪で苦しんでいる自分の記念だ」と自分で自分の写真を撮るほどのこだわりがあります。ですので、周りに風変わりに思われることが多々あり、たまちゃんに世話を焼かせ、困らせています。たまちゃんは、将来的には、自分には恥ずかしい父親がいるという引け目から、よりいっそうとしっかり者になって、人の役に立つ仕事(対人援助職)に就くのではないかでしょうか?表 たまちゃんの二面性危うさ魅力お節介しっかり者、頼まれ上手世話焼きみぎわさん―思い込みキャラ―妄想性パーソナリティみぎわさんは、洋服、持ち物、好きなもの全てが乙女チックで女の子らしく、学級委員を務める優等生です。そして、とにかく花輪クンのことが大好きです。花輪クンのことにはつい敏感になってしまい、彼に優しい言葉をかけられただけで、気に入られていると思い込み、大喜びしてしまいます(被愛妄想)。逆に、クラスの女子が花輪クンと仲良く話していると、「花輪クンを狙っているでしょ!」と詰め寄り、嫉妬心を燃やします (嫉妬妄想)。授業中に、まる子がクラスメートの女子から受け取る手紙を、たまたま花輪クンが回してくれた時、それを見たみぎわさんは花輪クンがまる子に手紙を渡したと思い込み、大激怒します。そして、みぎわさんはまる子に「放課後、話をつけましょう。体育館の裏で待ってるわ」と書いた手紙を渡すのでした。みぎわさんの思い込みの激しさは二面性があります。疑い深く嫉妬深くて、妄想癖があるために、花輪クン以外のクラスメートには、ヒステリックで高圧的になっていくリスクがあります(妄想性パーソナリティ)。一方、彼女は、思いこんだら一直線のエネルギーを持っているとも言えます。このエネルギーを用心深さ、勘の良さ、対抗心、想像力の豊かさに有効活用することもできます。みぎわさんの「暴走」に対して、花輪クンは、はっきりしたことを言わず(中立)、心の間合い(心理的距離)をとって、巻き込まれないようにしています。これが、まさにコミュニケーションのコツと言えます。表 みぎわさんの二面性危うさ魅力疑い深い嫉妬深い妄想癖用心深い、勘が良いすぐに対抗心を燃やす想像力が豊か前田さん―怒りんぼ泣き虫キャラ―情緒不安定性パーソナリティ登場回数は少ないわりに強烈な印象を残すのが、前田さんです。彼女は、掃除係で、掃除にかける思いは熱くて良いのですが、気が強く、掃除を盾に威張り散らすことが多いです。そして、挨拶代わりに文句を言って威圧して、周りに気を使わせます。人に指図することも多く、大晦日に通りすがりのまる子に荷物を持たせたこともありました。彼女の最大の特徴は、相手に言うことを聞かせるためにすぐに怒り出すことと、逆に反撃され、行き詰り追い込まれるとすぐに泣き出すことです(衝動性)。大激怒して散々まる子たちを困らせたあと、自分が困ったら今度は大号泣するのです。そして、泣くことで、相手から手助けや譲歩を引き出し(操作性)、問題が解決すると、ケロっと泣きやみ、また威張り散らし始めるのです。また、「私に味方はいない」と漏らし、相手は敵か味方かという発想が強いようです(スプリッティング)。このように、すぐにかっとなったり、すぐに泣き出したりする行動パターンを繰り返していると、感情が揺れやすいことが本人の生き様になり、人間関係で苦労するリスクが高まります(情緒不安定性パーソナリティ)。一方で、この心の様は、感受性の豊かでもあり、このエネルギーを文学や音楽、演技力などの芸術センスに生かすこともできます。コミュニケーションのコツは、本人の感情の揺れに振り回されないように、近付きすぎずにやはり一定の心の間合い(心理的距離)が大切になります。表 前田さんの二面性危うさ魅力感情が揺れやすい感受性が豊か野口さん―ミステリアスキャラ―統合失調性パーソナリティ野口さんは、一見、無表情、無口のネクラでひっそりしていて、クラスの中で陰が薄いです。しかし、「クックックッ」という笑い声や、「しーらない」「言えやしないよ」と低いフラットなトーンの口癖は独特です。しかも、実は、かなりのお笑い好きで、「お笑いは、まず身近な所から見つけていこうね」と言い、しょっちゅう何かしでかすまる子の様子を、電柱の陰から密かに伺うなど、神出鬼没な一面もあり、かなり強烈な印象があります。まる子が前田さんにからまれ、何とか切り抜けた後に、野口さんはまる子に「これからも前田さんのことは、温かく見守っていこうね」「あ、またそろそろ泣くぞ」とボソっと告げるなど超越した視点を持っています。野口さんの特徴は、家族や友達との親密さを求めず、周りと距離を取ろうとする一匹狼キャラであることです。音楽の歌のテストの時には、壇上に出て「歌いたくありません」ときっぱり拒否をするエピソードもあります。ミステリアスで孤高でマイペースな一方、奇妙に思われて孤立して、社会生活が送りづらくなるリスクもあります(統合失調性パーソナリティ)。本人のペースを尊重しつつ、必要な時は社会との橋渡しをしてあげることがコミュニケーションのコツと言えます。表 野口さんの二面性危うさ魅力孤立奇妙社会生活を送りづらい孤高、超越した視点ミステリアスマイペース【まとめ】個性 ―パーソナリティの偏りこれまで、ちびまる子ちゃんの代表的で個性的なキャラクターたちを見てきました。彼らをより良く知ったことで、さらに彼らが私たちの身近な誰かに重なったり、または自分自身に重なってしまったりはしていないでしょうか?実は、彼らの特徴は、傾向やリスクとして、メンタルヘルスで扱うパーソナリティの偏りをほぼ全てカバーしているのです(表)。表 メンタルヘルスで扱うパーソナリティの偏り傾向またはリスクのあるキャラクターパーソナリティ強迫性丸尾くん自己愛性花輪クン反社会性永沢回避性藤木演技性はまじ依存性まる子共依存たまちゃん妄想性みぎわさん情緒不安定性前田さん統合失調性野口さんちびまる子ちゃんの友達関係―社会の縮図その他のクラスメートとして、リーダーキャラの大野君と杉山くん、お嬢様キャラの城ヶ崎さん、おバカキャラの山田、口癖キャラのブー太郎、胃弱キャラの山根、食いしん坊キャラの小杉などがいます。彼らを加えると、ちびまる子ちゃんたちがコミュニケ―ションを織りなし繰り広げる教室は、まさに私たちの社会の縮図です。ちびまる子ちゃんのキャラクターたちをヒントとして、実生活での相手のことをよく知り、同時に自分自身のことをよく知り、そして、相手と自分の関係性を見つめ直すことに生かすことができるのではないかということです。コミュニケーションにおいて、相手がどんな人なのかというパーソナリティの傾向を踏まえた上で、その魅力の裏にある危うさ(リスク)を想定して接するのと、そうでないのでは、心の余裕は全く違ってしまいます。ちびまる子ちゃんの作品を通して、人の個性の魅力と危うさという二面性をより良く知っていくことで、私たちの人生はより豊かになっていくのではないでしょうか?1)「ちびまる子ちゃん大図鑑」(扶桑社)2)「ICD-10(精神および行動の障害、臨床記述と診断ガイドライン)」(医学書院)3)「DSM-IV-TR(精神疾患の分類と診断の手引)」(医学書院)

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海を飛ぶ夢【自殺、安楽死】

実話だからこそ伝わる真実―もしもあなたの大切な人が生きることを諦めたら?安楽死は日本でも古くからある社会的なテーマで、森鴎外の「高瀬舟」などが有名です。また、「苦しそうだから死なせてやろう」という本人の死ぬ意思の確認のない慈悲殺とイメージが重なってしまうこともあり、よりいっそう私たちは安楽死という言葉の響きに後ろめたさを感じてしまうのも事実です。この映画は、安楽死を願う四肢麻痺の主人公の生き様とその家族や恋人たちなどの周りのかかわりをストレートに描いた実話に基づくドラマです。主人公の死を望む気持ちが、穏やかで揺るぎないものであればあるほどほど、家族は受け入れ難い葛藤で揺れます。そして、私たちが主人公と同じ目線に立てば立つほど、私たちの心も揺れていきます。日本の自殺率は先進国で長年トップクラスというありがたくない記録を更新しており、自殺に手を貸す(自殺幇助)という安楽死について、私たちが独りよがりになって感情的にタブー視せず、いっしょになって理性的に向き合うのは意味のあることではないでしょうか?自殺念慮―なぜ生き生きと死を追い求めるのか?主人公のラモンは、青春時代、船乗りとして世界中を旅して、多くの女性たちと情熱的な出会いをしてきました。そんな彼にとっては、生きること=人生を楽しむ自由があることでした。しかし、25歳のある時、彼に悲劇が襲いました。人生の最高潮にいる彼は、婚約者の目の前でかっこいいところを見せるために、海辺の高い岩場から海面に飛び込みました。そして、引き潮に気付かず、浅瀬に激突し、首の骨を折ってしまったのでした。その後は、首から下の全身の自由を完全に奪われて、寝たきりになってしまいます。彼は、婚約者に一方的に別れを告げ、その後は実家で家族に支えられ、静かに暮らすことになります。海まで自由に飛び回れるという想像力だけを残して。身の回りの介護は、母親の死後、義姉である兄嫁が献身的に続けます。排泄の処理だけでなく、床ずれを防ぐため3時間ごとに姿勢を変えることまでやっています。体の自由を奪われて26年経った51歳の時、彼は意を決します。死を持って自分の運命に折り合いをつけようとしたのです。彼の死を望む理由は、「尊厳がないから」でした。彼にとっての尊厳、つまり自分らしさとは自立していること、自分で自分をコントロールできることだったのです。そして、自分らしく生き抜くため、死ぬことに一生懸命になっていくのでした。スピリチュアルペイン(実存的苦痛)―存在していることへの心の痛み彼は自らをこう形容します。「死んだ体にくっついた生きた頭」と。また、「なぜいつも笑顔なの?」と尋ねられた彼が、「人の助けに頼るしか生きる方法がないと自然に覚えるんだ」「涙を隠す方法をね」と答えるシーンは印象的です。彼の精神的な苦痛や苦悩を一言で物語っています。実話で明かされていることとして、母親がラモンの近くで倒れた時、動けないラモンは母親が死んでいくのをただ見守っていることしかできなかったことがありました。万能であった彼にとって無能で無力な状態に置かれることは惨め過ぎて耐えられなかったです。彼にとってのその後の人生は、動かない肉体に心を囚われ、飼い馴らされて生き続けるという生き地獄だったのでした。そして、死とは、囚われの身から解放されることなのでした。「唯一、死が自由をもたらしてくれる」と確信しているのです。このように、人生や存在していることに対する無価値感、家族などの他者への依存や罪悪感などから生まれる心の痛みは、スピリチュアルペイン(実存的苦痛)と呼ばれます。体の痛みとは違い、癒すのには一筋縄ではいかないようです。自殺の共感―なぜフリアは一緒に自殺することを一度決意したのか?ラモンと同居している家族は、義姉、兄、甥、そして父です。家長でもある兄は語気を強めて言い放ちます。「(自殺に)おれは絶対に手を貸さん。誰にもさせん」と。もともと兄も船乗りでしたが、ラモンの介護のために、農業に転業したというわだかまりや意地もありそうです。また、父は言います。「神様がお望みになる限り生を全うせねば」と。彼の自殺の手助けをする人は家族にはいません。かと言って、餓死や舌噛みによる自殺は望んでいません。彼はあくまで苦しまずに死にたい、安らかに死にたい、それが尊厳ある死だと考えているからです。そんな中、彼を支える人権団体の弁護士の1人であるフリアは、彼の考えを理解していきます。なぜなら、彼女自身、体も心もだんだん衰えていく難病(多発性硬化症)を患っていたのです。足腰が弱り、記憶があやふやになるという発作を繰り返し、自分が自分でなくなる恐怖を肌で感じていたのでした。彼女には夫がいますが、ラモンに共感し好意を寄せていくのでした。そして、彼の本ができたら、いっしょに自殺する約束をしたのです。ラモンが死を追い求めるのに対して、フリアは死に迫って来られるという境遇の違いがあります。彼女は頭がしっかりしている間に自分からその恐怖を終わりにさせたいと考えていました。しかし、最後には自殺を思い留まります。そのわけは、「それが人生」「任せよう」と言う夫の必死の説得により、夫の支えで生き続けることを心変わりしたからでした。自殺の受容―なぜロサは自殺の手助けをしたのか?ラモンは、テレビで自分のありのままの姿をさらけ出したことで、世の中に波紋を呼びます。個人の権利として安楽死を社会に訴えたのです。たまたまテレビで彼を知ったロサはたまらず彼を訪ねます。都会的で知的でクールなフリアと対照的に、ロサは子連れで離婚歴があり、田舎臭くておしゃべりで世話焼きな女性です。当初、ラモンに対するロサの思いは、愛情というより母性に溢れています。ラモンはロサの世話好きな母性本能をくすぐってしまい、ロサはとにかくラモンのお世話をしたい気持ちでいっぱいになります。「どんなに辛いことがあっても逃げちゃだめよ」と励ましてしまい、ラモンをイラつかせもします。 そんなロサでしたが、ラモンとのかかわりの中で少しずつ変わっていきます。辛い時に押しかけても話を聞いてくれてユーモア溢れるラモンに「あなたから多くのものをもらっていると深い感謝と情愛を寄せます。その後、「僕を本当に愛してくれる人は死なせてくれる人だ」とのラモンの言葉が彼女に心に響き、ついに彼を愛している証として、自殺の手助けを受け入れたのでした。それは、ラモンが死んでいなくなっても、自由になった彼の魂に抱きしめられて、彼の魂を愛し続けることができると悟ったからでした。支持的精神療法―反面教師的な神父の説教テレビに出演した四肢麻痺の神父はラモンについてコメントします。「彼の周りからの愛情が足りないからだ」と。これは、当時の教会の実際の声明のようで、家族はかなりのショックを受けています。その後、その神父はわざわざラモンの家まで訪ねてきて、説教を始めます。その様子はコミカルでもあり、シリアスでもあります。この映画での神父の描かれ方は、正論ぶって尊大で押しつけがましく、まさにメンタルヘルスのかかわり方において反面教師です。この神父を見て、単に「がんばれ」とか「信じれば救われる」などの一方的な激励、説教、議論、犯人探しが逆効果であることに気付かされます。有効なかかわりとしては、まずは患者の話に耳を傾けること(傾聴)です。患者の考え方に関心を寄せ、よく分かってあげることです。周りに理解され、その患者がそのまま周りに受け入れられていると実感できることで、心を開き、病気を受け入れていくことにつながります。このかかわりは、特に末期がんのメンタルヘルスなどで見受けられます。障害の受容―なぜラモンはありのままの自分を受け入れられないのか?ラモンは車椅子を嫌う理由を問われると、「失った自由の残骸にすがりつくことだ」と言い切り、車椅子生活などの他の選択肢を拒み続けました。そこには、自立的に生きることこそが全てであるという彼の強い信念が私たちに伝わってきます。と同時に、それは彼の頑固な一面でもあり、彼の新しい人生にチャレンジ(価値の範囲の拡大)するチャンスや、彼の劣等感を封じ込める方法(障害の与える影響の制限)を阻んでいます。例えば、彼は、聞き上手でユーモアがありました。彼にはカウンセラーとしての才能があり、人の役に立つことができました。そこから、その役割に打ち込むことが彼の喜びになりうるのです。これは、新しい自分らしさの発見(価値の転換)によって立ち直ること(障害の受容)です。また、兄とのやり取りの場面でラモンはこうも言います。「もしも明日兄さんが死んだら、僕は家族を養えるか?と。身体的な自立の他に、経済的な自立の問題、つまり生活の苦しさも陰にあります。生活に余裕がないため、心にも余裕がなくなっている可能性も考えられます。実存的精神療法―生きていることそのものに意味がある家族との最後の別れのシーンで、甥は、無言でラモンを抱き込みます。ここで、ラモンと甥の特別な関係が伺えます。もともとラモンが甥を言い諭す場面がたびたびある一方で、甥はラモンといっしょにテレビでサッカーの試合を見たがるなどかなり慕っていたのです。まさに父子の関係のような雰囲気を醸し出します。しかし、甥の実際の父はラモンの兄であり、そこにラモンと甥の間には完全には父子の関係になれない一線があることにも気付かされます。 もし仮にラモンに子どもがいたとしたら、どうでしょうか?彼にはすでに妻がいて、息子や娘がいたとしたら、彼はそれでも死を望み続けたでしょうか?興味深いことに、彼が執筆した本の一節に、生まれてこなかった息子への思いを綴った詩があります。それを甥に読ませ、どういう意味か問うシーンがあります。甥を我が子と重ね合わせているのです。ここから読み取れるのは、誰かに独り占めで愛されると同時に、その誰かを独り占めで愛することができたら、そんな誰かがいたとしたら、その愛自体が大きな希望になり、生きる原動力になり、彼の無力感から来る心の苦痛は乗り越えられていたのかもしれません。そもそも我が子の存在する喜びは本能的なものです。つまり、親子という特別な絆が存在していたとしたら、そこには、自分が生きなければならない責任感や義務感と同時に、生きて見守りたいという喜びが湧き起こってくるように思われます。どんなに辛くても生きていることそのものに意味がある、喜びがあると思えたのではないでしょうか? このような考え方は実存的精神療法と呼ばれます。また、実話によると、彼が死にたいという思いを口にするようになったのは、母親が亡くなってからでした。自分を生んでくれた母親を苦しめたくなかったのです。また、父親には死にたい気持ちを直接には一度も語っていません。つまりは、もし仮に母親が生き続けていたとしたら、彼は母の愛で死ぬことを踏み止まっていたようにも思えます。親子愛は、兄弟愛にも増した特別な絆があるようで、自殺を踏み止まらせる強い力があるようです。安楽死を合法化する文化―自由主義のオランダラモンは、わざわざ嫌いな車椅子に乗り、安楽死の権利を得るために裁判所に出向きます。ところが、法廷では「手続きの不備」を理由に取り合ってもらえません。また、挙句の果てに訴えを却下されてしまいます。ラモンのいるスペインの社会で、安楽死の是非は一筋縄ではいかず、判断すること自体がためらわれ、避けられてしまいます。日本を始め多くの国で、尊厳死は認められています。これは、リビングウィル(生前意思)により延命治療を開始しないことです。延命治療とは、例えば、呼吸が止まった時に人工呼吸器を装着することや食事を摂るのが難しくなった時にお腹に穴を空けること(胃瘻)によって直接栄養を胃に送ることです。一方、安楽死とは、ラモンが青酸カリを用意してもらったように、直接死なせる介入を行うことです。このように、尊厳死と安楽死には、一線があるのです。現在、安楽死が合法な国は、オランダを初めとしていくつかあります。オランダはもともと大麻、売春、賭博、同性結婚から安楽死までいち早く合法化しているお国柄です。ここまで自由で寛容な国になった理由は、オランダの風土や歴史に見出すことができます。オランダはもともと国土を干拓で増やした歴史があり、自然環境をコントロールする欲求がとても強い文化を育んでいます。また、中世に絶対君主がいなかったことで商業都市として自由貿易が栄えました。オランダの文化圏の人々は、世界一、合理的で自由主義的であり、自立性を重んじます。それは、自分の死についても同じで、死もコントロールすべきだという価値観が強いようです。安楽死の適応―誰が安楽死できるかの線引き安楽死を認めた場合、誰が安楽死していいかという線引きの問題が新たに出てきます。もともとは末期がんの身体的苦痛に対して適応となっていましたが、緩和ケアが進んだ現在はほとんどの身体的な痛みは取り除くことができるになりました。安楽死の適応は、精神的苦痛に広がり、オランダではリビングウィル(生前意思)による認知症患者への安楽死がすでに行われています。また、本人と両親の同意で未成年の安楽死も認められています。さらに、本人意思の確認のできない重度の障害を持った新生児に対する安楽死も条件付きで認められるようになりました。その根拠となったのは「人間的尊厳のない人生を続けさせるべきではない」という理由でした。これらのことから、安楽死が広がれば、自殺や慈悲殺を推し進めてしまう懸念があります。そもそも、命の価値を自分で決められることを社会が良しとしたら、「人の命は平等でかけがえのないもの」という価値観や倫理観による社会を形作る前提を覆してしまうおそれがあります。命に格差を付け、命のランキングを作ってしまうことになり、「生きていなくていい命」という発想が出てきてしまいます。人の命は平等だからこそ、私たちは社会から公平な扱いを受けることができるという社会システムの根幹を揺るがしてしまいかねない危うさをはらんでいます。安楽死の危うさ―集団主義の日本ラモンと兄の口論が印象的です。兄に安楽死を強く反対されたラモンは「僕を奴隷にするのか?」と訴えますが、兄は「おれこそお前の奴隷だ」「家族みんなお前の奴隷だ」と心中のわだかまりをぶちまけてしまいます。兄はラモンを養うために一生懸命になり過ぎていました。もともとラモンのいるスペインのガリシア地方は気候条件の厳しい地域で、そのためにガリシア人は無骨だが結束力が強いと言われています。ラモンの義姉は、介護に一生懸命で前向きです。介護を自分の役割だと言い、ロサとお世話を取り合うシーンもあります。ここから分かることは、義姉にとってラモンを支えることは喜びでもあるようです。そのことを、ラモンはもっと心を開いて感じ取ることができれば良かったのです。支えることも支えられることも喜びになりうるということです。これを確かめるには、家族の風通しの良いコミュニケーションが必要です。ガリシア人は、家族に気兼ねして息苦しい家庭生活を送る日本人と何か通じる点があるかもしれません。ラモンは「死は感染しやしない」と言っていますが、この日本においては、本当に「感染」しないでしょうか?もともと日本は、武士が切腹することから「死んでお詫びをする」という表現があり、トラブルを解決するための自殺を美学とするメンタリティが根付いていました。切腹の介錯は、安楽死とも受け止められます。特攻隊や集団自決を良しとした歴史もありました。心中や後追い自殺も独特です。現在でも私たちは流行りに気を配り過ぎます。つまり、私たちはいつも世間に気を遣い、とても流されやすく、世間と同じことをしていないと落ち着かない集団主義の文化(同調圧力)を持っています。ラモンは「生きる権利」を「生きる義務」ととらえて、そこから「死ぬ権利」を要求しています。日本人の集団主義の文化の中で「死ぬ権利」が広がっていけば、「同じ状況でなんでおまえは死なないんだ」という理屈で「死ぬ義務」が生まれるおそれが高いのです。同じ状況でも生きていたい人に無言のプレッシャーがかかりやすくなります。実際に「未亡人」という言葉は、「(夫ともに死ぬべきなのに)まだ死なない人」という意味合いがあります。他者配慮の強い日本人ならではの発想で、「周りに気を遣って死ぬ義務」が広がるおそれがあります。シネマセラピーラモンが安楽死を望んだ理由は、自立性の喪失だけではなかったのです。その背景には、頑固さから障害の受容ができず自分の役割を見出せなかったこと、生活の余裕のなさ、家族への気兼ね、特別な絆を持てる誰かがいなかったことなどがあります。これらのことから、自殺や安楽死に至らないようにするために私たちのメンタルヘルスの課題が見えてきます。それは、失った体の自立性を補える医療テクノロジーの進歩や社会が豊かになっていくことに期待しつつ、柔軟な考え方を持つこと、自分の役割を見出すこと、家族と風通しの良いコミュニケーションを通して支えられることを喜びに感じること、そして日々の絆を育んでいくことです。私たちは、ラモンに真っ向から自殺や安楽死について突き付けられました。彼から、単に彼が死ぬべきかどうかということだけでなく、私たち自身がどう生きるか、社会はどうあるべきかということについても様々に考えさせられました。死は忌むべきものではないのです。私たちが死についてもっとオープンにもっと深く語り合う心構えがあれば、私たちがより良く生きていくこと、社会がより良くなっていくことにつながっていくのではないでしょうか?1)「海を飛ぶ夢(地獄からの手紙)」 ラモン・サンペドロ アーティストハウスパブリッシャーズ2)「安楽死問題と臨床倫理」 日本臨床死生学会 青海社3)「安楽死のできる国」 三井美奈 新潮社4)「『尊厳死』に尊厳はあるか」 中島みち 岩波新書5)「僕に死ぬ権利をください」 ヴァンサン・アンベール NHK出版6)「標準リハビリテーション医学」 上田敏 医学書院

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トカトントン【条件反射】

ユーモラスで奥深い作品太宰治の短編小説であるトカトントンは、タイトルからして軽やかでユーモア溢れています。しかし、同時に、主人公の内面を読み解いていくと、実は奥の深い作品であることにも気付かされます。ストーリーは、除隊後のある田舎のしがない郵便局員の若者が、ある作家に宛てた悩み相談の手紙の形をとって進みます。支配観念―軍国主義という熱狂時は敗戦直後。兵舎の広場でラジオから玉音放送が流れ、厳粛で悲壮感が漂う雰囲気の中、軍人から集団自決の覚悟が口にされます。戦争の熱狂がまだ冷めやらぬ中で、その場にいた入隊中のその若者は、「からだが自然に地の底へ沈んで行く」という感覚に囚われ、「死ぬのが本当だ という決意を固めていました。追い込まれた絶望や潔さから来る一つの答えです。 その直後、遠くの方からかすかに金槌で釘を打つ音が鳴り響いてきました。「トカトントン と。厳かなムードを吹き飛ばす能天気で間抜けな音です。すると、その瞬間です。主人公の世界は反転し、色褪せます。そして、白々しくバカらしい気分になってしまったのです。まるで沸騰していた頭に冷水を浴びせられたように、一気に冷めてしまい、もうどうでもよくなったのです。後に彼が告白する「ミリタリズム(軍国主義)の幻影」という熱狂が冷めて、そして目が覚めた瞬間でした。 当時の日本は、戦争に勝つことが全てという軍国主義による国家レベルの熱狂に支配されていました。このように、強い感情に結びついて頭の中を支配する考えは、支配観念と呼ばれます。例えば、熱愛中のカップルがお互いのことで頭がいっぱいになることや、熱狂的なスポーツファンがひいきチームの応援に明け暮れることなどです。支配観念の内容は、妄想というほどとっぴで不合理ではないのが特徴ですが、妄想との密接なつながりがあります。また、カルト宗教などでよく悪用される手口であるマインドコントロール(洗脳)に発展する可能性を秘めています。だからこそ、宗教勧誘の鉄則は、弱っている心にすかさず感情的に働きかけることになります。幻聴―聞こえるはずのない音その後は、平穏な生活を送れるかと思いきや、気分が高揚したり緊迫したりして最高潮になるたびに、トカトントンという幻聴が聞こえてくるようなったのです。そして、その直後に一瞬で気持ちが萎えて醒めてしまい、我に返るという奇妙な症状に悩まされるようになります。書きしたためていた軍隊生活の追憶記の完成を真近にトカトントン。仕事に熱中してトカトントン。デートのクライマックスでトカトントン。社会運動に感極まりトカトントン。マラソンランナーに感動してトカトントン。やがては、死のうと思ってトカトントン。今まさにこの手紙を書いていてトカトントン。そして、主人公は作家に教えを請います。「この音は、なんなんでしょう 「この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう」と。条件反射―心の反響作用まず、トカトントンの音の正体は何なのでしょうか?主人公がトカトントンの実際の音を初めて聞いたのは、敗戦を実感するという際立った体験をした瞬間でした。たまたま聞こえたものですが、インパクトが強烈で特異な瞬間と重なったことで、脳に記憶として鋭く刻まれてしまったのです。しかも、その時の心の動きは、まさに高まっていたテンションが落ちていく瞬間でした。そして、その後に、トカトントンの幻聴が繰り返して出てくるタイミングも、同じようなテンションがピークに達する瞬間です。このように、同じような心の動きをきっかけとして、幻聴などの症状が出てくる場合は、広い意味での条件反射のメカニズムが考えられます。もともと条件反射とは「パブロフの犬」でおなじみです。犬に餌を与えると同時にベルを鳴らすこと(条件付け)を繰り返すと、ベルの音の刺激が唾液を出す脳の働きに刷り込まれていき、やがてベルが鳴っただけで唾液が出るという自律神経の反射が起きるという実験理論です。実際に、私たちの多くが、梅干しを見ただけで唾液が出ます。泣き歌と呼ばれる歌は、それを聞いただけで泣いてしまう人がいます。さらに、実際に、東日本大震災の被災者の中には、数か月経った後でも、被災した当時に嗅いだある花の匂いを再び嗅いでしまうと、その時の出来事を生々しく思い出して、気持ちが揺れる人もいます。その逆も考えられ、感極まった時は泣き歌が頭の中を流れることがありますし、その被災者にとってその花の匂いがあまりにも強烈であれば、当時の出来事を思い出しただけでその花の匂いを嗅げてしまうという幻覚が起こりえます。言い換えれば、匂い(嗅覚性)のフラッシュバックです。フラッシュバックは条件反射の一種とも言えます。主人公の場合、高まったムードに条件付けされて、トカトントンの幻聴が心の反響として聞こえるようになっています。防衛機制―心の安全弁次に、なぜ主人公はトカトントンの音を聞いて白けてしまったのでしょうか?もちろんその音が単純に滑稽だったということもあるとは思いますが、その後の彼の行動パターンを読み解いていくと、そもそも彼の性格そのものに関係がありそうです。トカトントンの幻聴が聞こえるエピソードのいくつかの直前を振り返ってみましょう。例えば、仕事に熱中するエピソードは、もともと仕事熱心でもないのに「なんでもかでもめちゃくちゃに働きたくなって」と急に仕事に没頭しています。政治運動に感極まるエピソードでも、もともと政治には「絶望に似たものを感じて」無関心だったのにも関わらず、ある日の労働者のデモに「胸がいっぱいになり、涙が出」て「死んでも忘れまい」と突然に感動しています。もともとスポーツは「ばかばかしい」と思い、「参加しようと思った事はいちどもなかった」のに、あるマラソンランナーの必死のラストスパートに「実に異様な感激に襲われ」ています。つまり、そもそも彼のテンションが上がるきっかけがかなり唐突なのです。どうやら、彼の性格として、のめり込みやすく熱狂的な面、気分の浮き沈みが激しく感じやすい面が浮かび上がってきます。そんな主人公が、そのまま熱中や熱狂が続けば、いずれいっぱいいっぱいになり、精神的に参ってしまうことが伺えます。実際に、彼は自殺を考えながらも、トカトントンの音に救われてもいます。彼にとってトカトントンの音は、実は、まさにその暴走しパンクしそうな心をリセットさせるリミッターの役割を果たしています。つまり、無意識の心理メカニムズ(防衛機制)としても解釈できそうです。言わば、心の安全弁です。行動療法―信仰という行動の枠組みけっきょく、このトカトントンの音から逃れるにはどうしたら良いでしょうか?このストーリーの最後に、太宰自身らしきその作家からの返答が続きます。彼は聖書の一文を引用して説きます。「このイエスの言に、霹靂を感ずる事ができたら、君の幻聴はやむはずです」と。これは、イエスの教えに従うこと、つまり、キリスト教への信仰心により心の平安を保つことで心を安定させることができると言っているようです。信仰という行動の枠組みに身を置くというのは一種の行動療法でもあり、治療的にも一理あります。また、絶対的なイエスの前に身を伏せるという権威付けも一種の自己暗示療法でもあり、これも一理あります。 認知行動療法―心のあり方を冷静に見つめるただ、メンタルヘルスの治療として、主人公が知りたい「この音からのがれる」現代的な治療は、この幻聴ができるメカニズムをまず自分自身が理解することではないかと思います。それは、熱狂的で感じやすい自分自身の性格であり、敗戦により軍国主義から民主主義への価値観がひっくり返った困惑であり、戦後の混乱して落ち着かない生活状況です。原因となりうるこれらを振り返り、見つめ直すことです。つまりは、自分の心の動きを俯瞰(ふかん)してモニターし、そのための安定した生活スタイルや対処方法(コーピングスキル)を具体的に見い出すことです。この治療は、認知行動療法と呼ばれています。例えば、規則正しい生活をモニターして記録すること、対人距離やその時の気持ちをモニターして気持ちの受け止め方を整理していくことなどです。主人公は、これらを続けていくことを通して、心のあり方を冷静に見つめることができたその時、トカトントンの音が消えてしまっていることに気付くのではないでしょうか?トカトントンの幻聴は危うい気持ちの揺らぎを知らせてくれる心の奥底からのメッセージでもあります。この作品に共感する私たちも、主人公のような体験をした時、その根っこにある自分自身の心のあり方を見つめ直すきっかけを知ることができるのではないでしょうか?

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僕の生きる道【自己成長】

テーマは死と成長―もしもあなたがあと1年で死を迎えるとしたら?私たちは、人の平均寿命はだいたい80年で、事故や病気でその寿命が縮まる可能性もあるという現実を頭では分かっています。しかし、実際に、心の中ではそんなことは忘れて、「自分はいつまでも生きている」「明日は明日の風が吹く」と思い込んではいないでしょうか?2003年に放映されたテレビドラマ「僕の生きる道」は、タブー視されがちな死について、真っ直ぐに向き合っています。余命1年を宣告された主人公の一生懸命さに、平和ボケして何となく生きている私たちは、頭を一発殴られた気分にさせられ、目が覚めます。死について考えることは、どう生きるかを考えることでもあります。そして、考えることが私たちの新たな心の成長につながっていきます。今回は、このドラマを通して、みなさんと死について、生きることについて、そして生死を通して私たちがさらに成長することについて考えていきましょう。悪い知らせの伝え方―間(ま)の大切さ主人公の中村秀雄は、進学高校の生物教師です。教師としての目標もなく、老後の遠い先のことを考え、事なかれ主義で、自ら「28年間、無難な人生を過ごしてきた」と認めています。そんな彼に突然、定期健診の再検査の通知がきます。そして、再検査の結果、余命1年の胃がんと宣告されたのです。主治医の態度が印象的です。間(ま)をとりながら、神妙な表情で静かに問いかけます。「検査結果について、大切な話があります」「できたら、検査結果はご家族の方と聞いていただきたいんです」と。その間も十分な沈黙の時間をとります。告知前の間(ま)は、心の準備をしてもらう警告の合図でもあります。ドラマでは、直後には描かれてはいませんが、告知後は、時間をかけて、今後の話し合いをすることも大切です。これからの目標や秀雄らしい生き方について触れていくことです。否認―自分ががんであることが信じられないあと1年しか生きられないという現実を突き付けられた秀雄は、頭の中が真っ白になります。その日は、虚ろな目で、何とか仕事をこなしています。そして、一睡もできず、翌日から荒れていきます。朝から投げやりになって飲酒し、夜には遭遇したひったくりの少年たちに苛立ち、抵抗して、さらに暴行を受けます。翌々日、彼は主治医の診察室に押しかけ、怒りに満ちて強く訴えます。「僕がこんな目に遭うはずがない「こんなの不公平だ」「絶対何かの間違いだ」と。これらは、ショック、怒り、否認というがん告知に対する通常の心の反応です。心が一時的に現実を受け止め切れず、信じられないのです。認知行動療法―置かれた状況に対しての別の見方や考え方の援助主治医は、秀雄の行き詰った心を受け止めて、そして解きほぐすように、静かにそして力強く言います。「確かなことが一つだけある」「それは、君が今、生きているということ」と。死ばかりを考える秀雄に、残りの人生をどう生きるかに目を向けるよう促す一言です。このように、本人が置かれた状況に対して別の見方や考え方の援助をするやり取りを認知行動療法と言います。その夜、自分の小学校の卒業文集の「幸せな人間とは後悔のない人生を生きている人」という自分の文章を見て、泣き出します。彼は、後悔していたのです。「あの頃思い描いた人生を生きてこなかった」と。絶望―安楽死、自殺を望む心の叫び受験指導で、ある生徒に志望校をあきらめるよう言い切った秀雄は、心の中で思います。「僕もあきらめている」「人生最後の日がやってくるのを」「ただ待つしか道はない」と。そして、好き勝手にお金を浪費してみたものの空しいだけで、自分が棺にいる悪夢にうなされ、がんによる痛みも出てきます。耐えられなくなり、彼は主治医に「毎日が怖い」「何の痛みも感じないよう楽にしてください」と訴えます。当然ながら、安楽死は聞き入れられず、絶望した秀雄は、崖から飛び降り自殺を図ります。しかし、奇跡的に助かってしまうのです。そして、病院から母親への何気ない電話で、「僕が生まれた時、どう思った?」と質問して、母親の答えに、彼は号泣します。その答えとは、「この子のためなら、自分の命は捨てられる」だったのでした。この瞬間から、秀雄は前向きな気持ちに心が切り替わります。主治医に「1年て、28年よりも長いですよね」と噛みしめるように確認します。「僕に自分で死ぬ権利なんかない」「僕は生きる」「人生最後の日まで」と決意し、残りの人生を悔いのないように生きたいとの前向きな思いが湧き起こってくるのでした。これが、がん告知の最終段階である適応です。がん告知後の心理状態は、キューブラー・ロスによる「死ぬ瞬間」で、否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容の5段階が有名ですが、実際には、段階的にプロセスを経るというよりは、いろいろな心理がごちゃ混ぜになっています。ちなみに、取り引きとは、「自分はまじめにやってきたのだから、きっと良い治療法が間に合うに違いない」と思い込み、手術や民間療法で何とか助かりたいとすがる心理ですが、秀雄には見られませんでした。自己成長―余命1年であることを知ったからこその成長秀雄は、授業の最初に、自らの「読まなかった本」のエピソードを取り上げます。余命1年の自分の運命と1年後に受験を迎える教え子の運命を重ね合わせ、「この本の持ち主は読む時間がなかったのではなく、読もうとしなかった」「(やるべきことを先送りせず)この1年、やれるだけのことをやろう」と呼びかけます。これは、教師として生徒のために一生懸命になろうという自分の決意表明でもありそうです。その後は、不器用ながら、秀雄なりに一生懸命に周りにかかわろうとします。このような一生懸命さは、空回りしながらも、生徒から教えられながらも、少しずつ生徒やみどりたち職員にも伝わっていきます。例えば、「ありのままの気持ちを伝えよう」「それが僕にとって、今を生きるということだから」と気持ちを固め、今まで憧れだった同僚のみどり先生に自分の恋心を素直に伝えます。医者を目指していながら妊娠騒動で命を軽々しく思っているある生徒に、心の底からのメッセージを手紙で伝えます。「命の尊さを分かってほしい」「(患者の)心の痛みも分かってあげられる医者になってほしい」と。また、本気で歌手を目指すある生徒には、「必ず歌手になってください」「僕のためにも」と言い、叶わなかった自らの夢を暗に託します。その後、彼が言い出した合唱コンクールにクラスの生徒が全員揃って参加して、一体感が生まれます。こうして、彼は、がんで余命1年であることを知ったことで、さらなる人間的な心の成長(自己成長)を遂げていきます。ナラティブアプローチ―自分自身に距離を置かせて気持ちの整理を促す秀雄が空回りして落ち込んでいた時、主治医のかける言葉がまた印象深いです。主治医は、預言者のように厳かに言います。「君が信念を貫いていれば、いつかきっと、君に味方してくれる人が現れるよ」「その人は、ある日突然やってくる。一番最初に現れたその人を絶対逃がしちゃダメだ」「その人は生涯を通じて君の味方になってくれる」と。暗示的ですが、とても心のよりどころとなる温かいかかわり方(支持的精神療法)をします。また、「彼女(恋人のみどり)が僕の病気を知ったら、どうなるんでしょうか?」といつまでも打ち明けることに恐れをなしている秀雄に、主治医が問いかけます。「(病気を知って)君の人生はどう動きだした?」と。主語を「君」とせずに「人生」として、物語ふうな語り口(ナラティブアプローチ)をすることで、問題そのものを秀雄の感情から切り離して捉えさせ(外在化)、秀雄に気持ちの整理を促します。さらに、秀雄がみどりとの結婚をためらっていた時に、主治医が秀雄に投げかけた引用が印象的です。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日、私はりんごの木を植える」と。これは、宗教改革の立役者ルターが言ったとされている名文句です。りんごの実という明日への希望を持って、今日を一生懸命に生きようというメッセージに受け止められます。と同時に、たとえ未来で全てが失われたとしても、今を一生懸命に生きていたという事実は失われないというメッセージにも受け止められます。大事なのは、自分を取り巻く世界がどうなるかではなく、世界が滅亡しようとも繁栄しようとも、自分自身がいつもどうありたいかということであることを、私たちに教えてくれます。フランクル心理学―『人生が自分に求めてきていること』秀雄は、限りある生にありがたみを感じ、そこに意味を見出そうとしています。彼にとって「今を生きる」とは、教師として創造的に仕事をすること(創造価値)、みどりや生徒たちのために一生懸命になること(体験価値)、持って生まれた運命に前向きな態度をとり続けること(態度価値)なのでした。これは、まさに『人生が自分に求めてきていること(フランクル心理学)』に当てはまります。この秀雄の成長は、「自分の考えをしっかり持っていて、それを行動に移せる人」というみどりの理想のタイプにハマったのでした。その後に、病気を知ったみどりが、秀雄との結婚に猛烈に反対する父親に対して言います。「生まれて初めて、自分の生きる理由を見つけたの」「私は今、中村先生(秀雄)と一緒にいるために生きているの」「結婚して、家族になって、彼を支えて、そして・・・彼を見送るために」「私は、自分自身の人生を生きたいの」と。みどりも、自分の人生の主体的な意味付けをしようと成長していきます。投影―他人は自分を映し出す鏡同僚の数学教師の久保は、イケメンで話や教え方がうまく生徒から人気があり、合コンに行けば、モテモテです。国から研究を任されるエリートで、みどりの父親でもある理事長からも気に入られ、全く非の打ちどころがありません。キャラクター的に正反対な秀雄を際立たせます。そんな久保が好意を寄せていたみどりが、よりによって秀雄の恋人になったことを知り、動揺します。職員室で秀雄に研究を羨ましがられても、「本当は俺のこと、バカにしてたりして」と言い放ち、秀雄をきょとんとさせます。これは、久保の心の中が、秀雄を鏡にして映し出されています(投影)。つまり、実際に秀雄は久保をバカにすることなどありませんが、久保の方がもともと優越感に浸っていたので、秀雄に負けて立場が逆転した時に、彼のその優越感が劣等感となって、溢れ出てしまったのでした。その後に、久保は秀雄の病気を知ったことで、「みどり先生が自分のものになる」とすぐに損得勘定をしてしまった自分自身が許せなくなり、仲良しの同僚に打ち明けています。「おれはずっと人生、舐めてたんだよ」と。久保も、死と向き合っている秀雄という鏡を通して、自分自身を見つめ直し、成長していくことができたのでした。カタルシス―押し殺していた気持ちを吐き出す秀雄は母に「甘えたりわがままを言う(父親のようには)」「迷惑なんかかけたりしないから」と言っていたように、ずっと自分の気持ちを押し殺して生きてきました。そんな秀雄の病気のことを知った時にみどりは、自分に何ができるか秀雄の主治医に訊ねます。主治医のアドバイスは、「話し相手になってあげてください」「彼がつらい時に、つらいって言える相手になってあげてください」でした。自分の運命を受け入れるには、秀雄独りだけではやはり太刀打ちできないことを主治医は分かっていました。そして、母も秀雄に手紙で伝えます。「誰かに甘えられたり、頼られたりすることで幸せになれることもあるんだからね」と。支えることも、支えられることも、等しく幸せであるというメッセージが伝わってきます。そしてついに、秀雄はみどりと結婚します。その後、新婚旅行で行った温泉宿で、「死にたくないよぉ」と幼い子どものように声を出して泣きじゃくり、みどりに抱き寄せられます。押し殺していた気持ちをついに吐き出したのです(カタルシス)。「僕は世界で一番幸せなのだから」と感じているからこそ、心の奥に押し込んでいた本心が溢れ出てしまったのでした。無意識に張っていた緊張の糸が緩んでしまったのです。彼は死と背中合わせの戦場にいながら、みどりがそばにいることで安らぎを感じていたのでした。ディグニティセラピー―自分の人生を尊厳あるものに秀雄は、余命1年と言われてから、ビデオ日記をつけていました。その理由は、「(今までの)僕が歩いてきた道には、足跡が付いていないような気がしたから」でした。しかし、その後、途中でビデオ日記をつけるのをやめてしまいます。その理由は、彼は、教師として生徒たちに自分の精一杯の思いを伝えて、自分の「足跡」を残すことができていると確信したからでした。彼は主治医に「合唱を通じて生徒に伝えたいことがある」と言い、生徒たちに「高校生である君たちが、今、歩いている道にしっかりと足跡をつけてほしい」と呼びかけています。また、秀雄は、みどりとの結婚式の写真を全く撮らないようにしました。その理由を「今、この瞬間の出来事が、いつか過去になってしまうと思いたくなかった」「今この瞬間を生きるほうが大事」と言っています。これは、自分が写真に残らないことで、みどりが再婚しやすくなるようにとの秀雄の配慮でもありました。人の尊厳は、究極のところ、人生にどういう意味を見出すかということです。そして、多くの人は自分の何かが誰かに受け継がれ、生き続けることを望んでいます。秀雄は、写真などの媒体ではなく、教え子たちにすでに自分のありのままの思いを伝えていくことで、自分の生きる意味を彼なりに見出すことができていました。多くの人は、なかなか秀雄のように伝えることができる恵まれた立場にいるわけではないです。最近では、家族や親しい友人へのメッセージとして、「最も誇りに思っていること」「大切な人に伝えたいこと」について本人の生前のインタビューを編集して文書に残す取り組み(ディグニティセラピー)も行われるようになってきています。死生観―つながっていた人への温かみいよいよ命の期限が近付いている中、みどりは秀雄に訊ねます。「(死後)どうしても秀雄さんに会いたくなったら、どうすればいいんだろう」と。秀雄は、「プロポーズした大きな木のある所に来てください」「必ず僕は会いに行きますから」と約束します。これは、亡くなった人との心を通わせる場の設定です。その場は、遺された人の心のよりどころとなります。秀雄は死に臨んで、死生観が研ぎ澄まされていたのです。この逝った人が遺された人たちを見守り続けるという守護霊の発想は、自分のつながっていた人やコミュニティ(地域や職場なの自分が属する集団)への温かみに溢れており、遺された人たちに安らぎを与えます。集団主義の強い日本人の多くが共感する死生観です。自分が天国に召されるかどうかに重きを置く西欧の個人主義の死生観とは対照的です。自我統合感―人生は自分なりにやり尽くしたそして、とうとう合唱コンクールの当日、「僕は最後まで生きたいんです」と言い、入院中の病院からの外出を願い出ます。しかし、主治医は心の中とは裏腹に、許可できないと言い張ります。秀雄は、「(コンクールを見届けないと)僕にとって生きたとは言えません」と言い、こっそり病院を抜け出し、みどりに支えられながら会場にぎりぎり駆けつけるのでした。実際の臨床の現場では、ほぼ外出許可が出ると思われます。ターミナルケア(終末期医療)においては、命を縮めるリスクがあったとしても、現在ではQOL(人生の質)の方が重視されるからです。よくあるのが、「今生の思い出に海を見たい」という希望を叶えてあげることです。会場で、教え子たちの歌声を聞き終えた秀雄は穏やかに言って息を引き取ります。「今では、後悔したはずの28年間が、とても愛おしく感じます」「ダメな人生だったんですけど、とても愛おしいです」と。彼は、みどりがいっしょにいてくれたかけがえのない、世界にひとつだけの人生を生き抜いたのでした。今を前向きに生きているからこそ、かつて悔んだ28年間の過去も愛おしくなります。彼は、人生は自分なりにやり尽くしたと感じていたのでした(自我統合感)。実際に、このような感覚を研ぎ澄ます取り組みとして、回想法(ライフレビューインタビュー)があります。これは、高齢者や終末期がん患者に「人生で重要なこと」「印象深い思い出」「人生の分岐点」などを問うことで、現在の自分をより肯定的に受け入れるようになること(人生の再統合)で、デグニティセラピーに通じるものがあります。生きた証―思いをつなぎ続けるリレー秀雄が亡くなって5年後、学校に新任の生物教師がやってきました。それは、何とかつての秀雄の教え子だった吉田でした。彼は、かつて久保に「絶対に官僚にならなきゃいけないんです」と勉強一筋で張り詰めてしまい、秀雄のやり方を否定していました。久保から「へぇ。なりたいんじゃなくて、ならなきゃいけないんだ」と突っ込まれたこともありました。ちなみに、これは吉田に自分自身の心の声を聴くよう仕向けた問いかけ(ロジャースのクライエント中心療法)です。だからこそ、秀雄が内実、一番気に掛けていた生徒でもありました。秀雄が合唱をやろうと言い出したのも実は吉田がきっかけだったのでした。秀雄が指揮者をできなくなった後に、代わりの指揮に託したのも、吉田でした。そんな吉田が、初めての授業で生徒に伝えたのは、かつて秀雄が吉田たちに伝えたあの「読まなかった本」でした。こうして、彼は秀雄の思いを受け継いでいくのでした。そして、また新たな芽となって次の生徒たちの中で生き続け、そして、受け継がれていくことを予感させます。人は、もちろん子どもを授かって自分の血が受け継がれていくこと強く望みます。しかし、同時に、もしかしたらそれ以上に、自分の思いが受け継がれることも望んでいるのではないでしょうか?人は、他の全ての動物とは違い、命を運ぶ単なる「器」ではなく、命と同時に思いをつなぎ続ける「リレー選手」なのです。その思いとは、人だからこそ持っている豊かな文化であり、進歩し続ける文明なのです。逆に、進化論的に言えば、思いをつなぐことを望まない遺伝子は、文化や文明を発展させることはないわけで、はるか昔に自然淘汰されてしまったのではないでしょうか。つまり、私たちがリレーする思いのバトンタッチは、科学的に言えば、遺伝子にプログラムされています。そして、文学的に言えば運命付けられており、宗教的に言えば神の思し召し通りということになります。そして、それが結果的に「足跡」としてその人の生きた証となり、つながれたバトンは遺された誰かのためになっていくのです。シネマセラピー秀雄にとっての「僕の生きる道」は「僕たちみんな人類の生きる道」の一部に確実になっていることに私たちは気付きます。そして、リレー選手として「僕の生きる道」を完走できた秀雄の喜びが最後に伝わってきます。私たちが、秀雄の目を通して死を目の当たりにすることで、今生きているという当たり前なことを特別ことに感じることができれば、私たちも秀雄と同じように、より良い自己成長をしていくことができるのではないでしょうか?1)「僕の生きる道」(角川文庫) 橋部敦子2)「精神腫瘍学クイックリファレンス」(創造出版)3)「自己成長の心理学」(コスモスイブラリー) 諸富祥彦4)「ナラティブアプローチ (勁草書房) 野口裕二5)「ナラティブセラピー」(金剛出版) アリス・モーガン6)「ディグニティセラピー」(金剛出版) 小森康永7)「死生学」(東京大学出版会) 小佐野重利8)「コンセンサス癌治療」(へるす出版)  小川朝生、内富康介

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アビエイター【強迫性障害】

ハワード・ヒューズ―完璧主義の光と影この映画の舞台は、20世紀前半のアメリカ。黎明期の航空業界と全盛期のハリウッドを股にかけて活躍した実在の人物、ハワード・ヒューズの激動の半生が描かれています。彼は若くして、資産家の両親を失い、その莫大な遺産を受け継ぎ、航空工学の才能と情熱により、飛行機作りと映画作りに明け暮れ、時代のパイオニアとして大成功をおさめます。また、数々のハリウッドの美女たちと浮名を流し、世界一の富と名声をほしいままにします。そんなハワードを衝(つ)き動かすものは、生まれながらの完璧主義と執着心でした。しかし、同時に、それらは諸刃の剣として、彼を苦しめ、数多い奇行の逸話を残しました。社会的な成功者としての強さと心の闇を持つ者としての脆さ、この彼のギャップは、私たちの好奇心を大いに焚きつけます。今回は、この映画を通して、みなさんといっしょにハワード・ヒューズの光と影をメンタルヘルスの視点から探っていきましょう。強迫観念―完璧さを求める心の囚われハワードは若くして、製作した映画で大ヒットを飛ばし、また、自身の設計、操縦した飛行機により世界最速の記録を塗り替えます。さらに、世界一周を4日で成し遂げるという新記録も樹立して、華やかなハリウッドで一躍スポットライトを浴びるようになります。これらの偉業の原動力は、ものごとを何でも丁寧に几帳面にやろうとする彼の完璧主義の性格によるものでした。映画製作では、撮影に納得しないと、時には同じシーンを100テイク近くも撮り直し、編集作業では同じ映像を繰り返し確認し、膨大な時間を費やしています。飛行機製作では、機体の流線形の美しさや操縦かんの触り心地にこだわり続けます。しかし、完璧主義は職業的に生かされる一方、完璧さを求めるあまり、完璧じゃないと気が済まなくなり、本人も周りも苦しむことにもなります。ハワードは、心を許した恋人に打ち明けます。「時々、本当はありえないかもしれないおかしな考えに取り憑(つ)かれ」「正気を失うんじゃないかと怖くなる」と。彼は、自分の心の闇にうすうす気付いていたのでした。自分の性分のおかげで、社会的に成功して、世の中をコントロールできるようになってはいます。しかし、同時に、その性分が裏目に出てしまい、自分でバカバカしい(不合理)と思えることにまでこだわり、その考えに心を囚われ(侵入思考)、自分の心をうまくコントロールできなくなっていくのです。これは、まさに心に強く迫ってくる考えで、強迫観念と呼ばれます。強迫行為―バカバカしいと分かっているのに、やらずにはいられないパーティ会場で、ハワードがトイレで手を洗うシーンが印象的です。彼は、恋人が上層部の男のご機嫌とりをしてベタベタしている様子に苛立ち、トイレに駆け込みます。そして、念入りな手洗いが始まるのです。その後のトイレでの手洗いでのシーンでは、血が出るまでゴシゴシと手洗いを続けます。その痛々しさは、見ている私たちにも伝わってきます。彼に一体、何が起きているのでしょうか?実は、彼の完璧主義は、美しさから清潔さへの追求においても発揮されていました。彼は、ちょっとしたストレスをきっかけに、手の不潔さが気になってしまい、手洗いをしなければ気が済まないという強迫観念で頭の中がいっぱいになります。そして、ついには、手洗いを始めてしまい、止めたいと思いながらも完璧だと自分で納得し安心するまで手洗いを止められないのでした。もはやきれい好きの度を越しています。このように、バカバカしいと分かっているのに、やらずにはいられない行為、やめられない行為を、強迫行為と言います。特に、手洗いを繰り返す行為を洗浄強迫と呼びます。また、確認を繰り返す行為は確認強迫と呼びますが、彼の映画作りや飛行機作りでの度を越した執拗な確認癖は、これに当てはまるとも言えそうです。強迫性恐怖―心の囚われが不安を招くハワードは、飛行機の操縦かんをセロフィンで包んで、清潔にしようとしています。また、トイレでは、たまたま居合わせた体の不自由な男性が、タオルを取ってほしいと頼みますが、彼は「できないんだ」と申し訳なさそうに断っています。もちろん、出る時にトイレのドアノブも触れません。そんな彼が、最愛の恋人が口を付けた牛乳ビンをちょっとためらいながらも思い切って飲むシーンは、また印象的です。その後、恋人とうまくいかなくなり、社会的にピンチになるなどのストレスが引き金となって、症状が悪化していくことが分かりやすく描かれています。強迫観念はエスカレートしていくと、恐怖が募ってきます(強迫性恐怖)。不潔さに対しての強迫観念から不安が強まる場合は、特に不潔恐怖と言います。いわゆる潔癖症です。きれい好きは、裏を返せば、不潔恐怖になりうるのです。彼自身、やがては不潔さを気にするあまり、部屋から出られなくなっていきます。また、不完全さに対しての強迫観念から不安が強まる場合、不完全恐怖と言います。やり直し―完璧でなければ最初から全てをやり直すハワードの浮気が原因でその最愛の恋人が家を出て行った直後のシーン。彼は、自分の衣類が雑然と部屋に投げ出されている状況が際立って目に入ってしまい、不潔さや不完全さへの強迫性恐怖が一気に押し寄せてきます。そして、衝動的に家にあった衣類を全て燃やし始めます。最後には、自分が着ていた服までも燃やし、生まれたままの姿で棒立ちになるのでした。過去を脱ぎ捨て、リセットを望むかのように。これは、完璧でなければ最初から全てをやり直すという、やり直し(取り消し)と呼ばれる心理メカニズム(防衛機制)でもあります。彼の完璧主義の信念に通じるものでもあります。完璧さを求めるあまり、言い換えれば、不完全恐怖から逃れるために、完璧か無のどちらかでなければ気が済まなくなり、無にしてやり直すという強迫行為です。強迫儀式―自分の行動の儀式化その後、ハワードは、飛行機事故で体が不自由になり、ライバル会社に自分の会社を乗っ取られそうになるというプレッシャーもあいまって、ついに、部屋にこもって出られなくなります。そして、彼は、紙、髭、爪が伸び放題のまま、顔も体も洗わずに、素っ裸で延々と自分自身に訴えかけます。「最初から繰り返せ!」と。そして、自分の行動を決められた手順で正確に実行しようとします。まるで儀式を執り行うかのように、同じ言葉や動きを繰り返すのです。これは、強迫儀式と呼ばれます。さらに、この儀式が心の中の言葉やイメージを思い浮かべる行為にまで及ぶと、体の動きがゆっくりになっていきます(強迫性緩慢)。例えるなら、ギアが硬すぎて吹かされ続けている車のエンジンです。こうして、彼の本来の才能や情熱は、食事の用意の仕方やばい菌に触れない方法などの儀式の確立に注がれていったのでした。もともと彼は欲しいものは全てを手に入れられる立場にあり、自分にできないことはないという感覚(万能感)が強かっただけに、誰も彼を止めることができませんでした。だからこそ、病状も深刻化していったと考えられます。強迫性障害―強迫観念と強迫行為を主とする部屋ごもりが長くなるにつれて、ハワードはゴミをため込むようになります。彼の部屋には、彼がものに触れる時に使ったティッシュが山のように床に散乱しています。そして、なんと自分のおしっこを入れたビンを整列させて並べています(強迫的ため込み、強迫的保存症)。潔癖な性格のはずなのに、自分の出した垢、爪、ティッシュ、おしっこなどは大丈夫なのでした。もはや清潔かどうかの判断基準は、彼の思い込み(認知の歪み)によって大きく狂ってしまっていたのです。彼の苦悩と狂気が強烈に描かれているシーンです。これは、最近、社会問題にもなっている「ゴミ屋敷」の主人の収集癖にもつながってくる症状とも言えます。そのゴミに価値があるかどうかは本人の思い込みによるものが大きいようです。また、彼は言葉を繰り返して言ってしまい、止まらなくなる症状がいくつかのシーンで見られます。「青写真を見せろ」「ミルクをもって来い」「最初からやり直せ」「風邪をうつしたくない」「未来への道だ」などの言葉でした。相手や周りに変だと思われることは重々自覚しており、苦しそうに手で口を塞いでいます。このように、やってはいけないと思えば思うほど(禁断的思考)、やらずにはいられなくなる行為も強迫行為と言えます。以上を振り返ると、ハワード・ヒューズは、強迫観念と強迫行為を主として、強迫性恐怖、強迫儀式、強迫性緩慢、強迫的ため込み、禁断的思考などの多彩な症状も見られる、重度の強迫性障害を患っていたことが伺えます。原因(1)―思い通りの子ども時代それでは、ハワードはなぜ強迫性障害になってしまったのでしょうか?すでに、彼の完璧主義で潔癖な性格とストレスについて触れましたが、そもそもなぜ彼はこんな性格になったのでしょうか? ハワードの生い立ちを調べると、14歳で飛行訓練を受けるなど、彼はとても裕福な家庭で育ちました。しかも、11歳にして故郷ヒューストンで第1号となる無線放送セットを作り上げるなど、頭も抜群に良かったようです。幼少期の病気による聴覚障害を除くと、彼は一貫してもてはやされ、自分の思うままの子ども時代を過ごし、挫折などの失敗体験が少なすぎていました。これが、彼の完璧主義の性格を作り上げたようです。原因(2)―母親の言いつけさらに、母親の絶大な影響がありました。彼が幼少期に母親から言いつけられる記憶を思い出すシーンがあります。裸の自分が母親に体を洗われている場面です。母親から「か・く・り(隔離)・・・、分かるかしら?」「伝染病がどんなに恐ろしいかも知っている?」「あなたは安全じゃないのよ」と言い諭されています。ここから、母親自身が不潔なものに対して神経質で過保護であることが伺えます。実際の伝記にも、母親は学校の先生、ボーイスカウトの隊長、サマーキャンプの指導員に「病気の人に近付けないで」との内容の手紙を書いていたというエピソードが残っています。彼の周りも母親の訴えに気を使って、彼を見かけると、「具合は悪くないか?」と過剰に気にかけていたようです。このようにして、幼い頃から、母親を中心として周りが病気を予防しようと過剰にかかわること(弁別刺激)により、彼は清潔であれば褒められるということを学び(オペラント学習)、潔癖は良いことであるという考え方(認知)が、繰り返し刷り込まれていった(強化)のです。これが、彼の潔癖な性格を形作りました。そして、大人になったハワードが具合を悪くした時につぶやくのは、「か・く・り・だ(隔離だ)」でした。あの母親の言葉です。この言葉は、彼の生涯において根深く付きまとっていることが伺えます。まさに、彼の人生の本質的な部分です。この隔離とは、もともとはコレラなど伝染病の患者を隔離する意味がありますが、自分の感情や行動に実感が伴わなくなる心理メカニズム(防衛機制)である「(感情の)隔離」「分離」をほのめかしているようにも思えます。部屋にこもって強迫儀式や強迫性緩慢に陥っている彼は、まさに、心を囚われ、自分自身が「隔離」されてしまっているのでした。ちなみに、最近、ばい菌や臭いをイメージ化した過剰な徐菌や消臭のテレビコマーシャルをよく見かけます。この影響が子どもたちをハワードのような不潔恐怖だけでなく、口臭・腋臭などの自分の匂いへの恐怖(自己臭恐怖)を持つ神経質な大人へと駆り立てていくのではないかと心配になってしまいます。実際に、清潔すぎる環境で育った子どもたちは、異物に対しての免疫が過敏に働き(アレルギー)、喘息や花粉症になりやすくなると言われています。さらには、体のアレルギー反応だけでなく、心の「アレルギー反応」として、汚れたものや臭うものへの恐怖が高まってしまうということも考えられるわけです。原因(3)―遺伝的な傾向ヒトが完璧さを求める欲求にもっと根源的な理由はないでしょうか?完璧さとは、対称性、正確性、美意識であり、そこには秩序があります。この秩序の欲求は、どうやら、動物の縄張りを守る習性(縄張り行動)に由来し、脈々と私たちの遺伝子にもそれぞれ多かれ少なかれ受け継がれ、組み込まれているようです。ですので、この遺伝的な傾向が強いだけで、強迫性障害になりやすくなるとも言えます。つまり、ハワードの強迫性障害は、子ども時代の裕福さや母親などの周りのかかわり、成人後のストレス(環境因子)だけでなく、ヒトそれぞれが元来持っている遺伝的な傾向(個体因子)も絡み合った結果として、出来上がったのではないかということが考えられます。治療―薬物療法と認知行動療法部屋にこもっていたハワードでしたが、ライバル会社と手を組んでいる議員から汚職の疑いをかけられ、ついに強制的に公聴会に呼び出されます。彼が外出を決意した時、助けにやってきた恋人とのやり取りが興味深いです。彼女は言います。「さあ、ここ(洗面所)で顔を洗いなさい」「私はどこにも行かないわよ」と。「きみには清潔に見えるかい?」というハワードに、彼女は「何も清潔なものなんかないわよ」「でも私たちはベストを尽くすものよ」と言い、彼に顔を洗わせる後押しをします。これは、あえて恐怖の対称に曝(さら)されて逃げ出したくなる反応を妨害し、馴らしていく(馴化)という治療法でもあります(曝露反応妨害法)。すっきりした彼は、思わず言います。「結婚しないか?」と。うわての彼女は「私のためにやってくれたのね」と受け流します。好ましい行動に対して賞賛を与えており、この行動を強化しようとしています(オペラント強化技法)。かつて幼少期に強化された潔癖な考え方を拭い去り(学習解除)、不潔にこだわらないという新しい考え方に修正しようとしています。このように、もともとの不潔なものに対する思考パターン(認知パターン)、行動パターンを変えていく治療法をまとめて認知行動療法と呼びます。現在の強迫性障害の治療は、薬物療法とこの認知行動療法が主流です。シネマセラピーラストシーンでハワードは、ついに、世界最大の飛行機を完成させ、自らが操縦し、飛行を達成させます。この飛行機は、今でも最長の翼幅を持つ航空機として、記録を保持し続けています。しかし、映画では描かれていない晩年の彼は、強迫性障害を悪化させ、事故による痛みの治療で覚えてしまった麻薬を乱用してしまい、薬物依存症にもなっていました。彼は、全財産をなげうってまで、飛行機作りに全てを賭けていました。そこまでして彼が飛行機をこよなく愛したのは、飛ぶことで全てを超越し、心の安らぎが得られるからだったようです。彼は、アビエイター(飛行機操縦士)として、自分の飛行機を完璧に操縦することができました。しかし、皮肉にも、自分の心は、完璧さを求めるあまりに制御が利かない「自動操縦」になってしまい、生涯最後まで「手動操縦」をうまく行うことはできなかったのでした。ハワード・ヒューズの生き様と心の病気は、まさにコインの裏と表です。私たちは、ハワードから完璧さや潔癖さを求めることの危うさを教わることで、ほどよい心の操縦法を見出していくことができるのではないでしょうか?1)エキスパートによる強迫性障害(OCD)(星和書店) 上島国利2)標準精神医学(医学書院) 野村総一郎3)STEP精神科(海馬書房) 岸本年史4)“Howard Hughes: His life and Madness”5)Donald L. Barlett & James B. Steele

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だめんず・うぉ~か~【共依存】

「放っとけないわ!」みなさんは、困っている人を見かけると、「放っとけないわ!」と居ても立ってもいられなくなりますか?「だからこそ、医療現場で働いているんだ」とお答えする人もいるでしょうか?困っている人を助けたいという純粋な気持ちはもちろん良いことです。ただ、逆に、その気持ちが強すぎて、やりすぎてしまい、結果的に相手も自分もだめにしてしまうことはないでしょうか?今回は、このような「世話焼き」「抱え込み」の心理をテーマにして、2006年のテレビドラマ「だめんず・うぉ~か~」を取り上げました。ドキュメンタリーマンガのテレビドラマ化で、コミカルな展開と、リアルな気持ちが絶妙に描かれています。「だめんず」とは、様々なダメ男たちを総称した造語で、「だめんず・うぉ~か~」は、ダメ男たちを渡り歩くダメ女という意味です。もともとは、雑誌「Men's Walker」を文字っているようです。ドラマでは、「だめんず」っぷりを発揮するダメ男たちがメインで紹介されています。浮気男、マザコン男、優柔不断男、嘘つき男、借金男、暴力男、ナルシスト男、見栄っ張り男、没落男など様々です。ここでは、そんなダメ男たちにどうしてもハマってしまう「だめんず・うぉ~か~」であるダメ女たちの心理にスポットライトを当ててみたいと思います。そして、メンタルヘルスの視点から、より良いコミュニケーションのコツについて、みなさんといっしょに掘り下げていきたいと思います。まりあ―どうしてもダメ男を放っとけない主人公のまりあは、大手商社に勤めるベテラン美人秘書です。気立てもよく、仕事もできて、魅力的です。女性にも優しく、みんなの頼れる姉的存在でもあります。しかし、今まで彼女が恋に落ちた相手は、何人もの放っておけないダメ男たちばかりでした。これだけ痛い経験を積んで懲りているだけに、彼女は、ダメ男を見抜く鋭い目を持っています。後輩のナツが、ダメ男に騙されそうになるたびに、「あんな男、やめなさいよ」とお節介も言います。そして、ナツからは「放っといてください」と毎回、嫌な顔をされますが、そのアドバイスがことごとく当たってしまうのです。そんなまりあは、逆に、しっかり者で真面目なIT社長にプロポーズされた時には戸惑ってしまいます。「分かっているんだけど、ときめかない」「だめなのは、男の方じゃなくて、その(ダメな)男を選んでしまう私」と自覚もしています。こうして、まりあは、どうしてもダメ男を放っとけない世話焼きな「だめんず・うぉ~か~」なのでした。友子―1人のダメ男を一途に支え続けるまりあの同期で心許せる友人の友子も、「だめんず・うぉ~か~」です。彼女には、小説家を目指す無職の恋人がいます。彼は言います。「おれさあ、絶対ベストセラー作家になって友子を楽にさせてやるから」と。一見すると好青年ですが、実は、大嘘つきで、二股や三股は当たり前の浮気男でした。そんな彼のことを友子はよく分かっています。そして、嘘がばれるたびに激怒もしますが、彼は「嘘をつくつもりはない」「ただ人を喜ばせたい、面白がらせたいだけなんだよ」と言い、開き直ります。友子は、そんな彼と決して別れようとはしません。それどころか、友子はまりあに打ち明けます。「彼は私がいないとだめなの」「肝腎なことが本当なら、小さな嘘はいいの」と。「肝腎なこと」とは、「おまえのことが一番大切なんだよ」「生涯ずっといっしょにいたいんだよ」との彼の言葉ですが、それすら嘘かもしれないのに、友子は、ダメ男を一途に支える「だめんずうぉ~か~」なのでした。ナツ―イケメンやセレブという外見に気を取られすぎまりあの後輩のナツは、セレブなイケメンとの結婚を目指して、日々、合コンを繰り返しています。とても堅実です。しかし、彼女は、相手がセレブでイケメンという条件をひとたびクリアすると、その男性たちの誘いにすぐに飛び乗ってしまい、自分を売り込もうとするばかりに、自分を安売りしてしまいます。大会社の御曹司からは、「(愛人として)日陰の女になってくれ」と言われて、一瞬、まんざらでもないと思ってしまってもいます。自分の思い描くうわべの幸せに必死すぎるのでした。ナツは、イケメンやセレブという外見に気を取られすぎて、優しさや真面目さや我慢強さなどの男性の内面性が自分に合うかあまり目を向けていません。この心理は、見栄っ張りでケチな金持ち男と結婚したゆり子(まりあの元同級生)や、イケメンで気位が高い没落男を見捨てない久美(まりあの同僚)にも当てはまります。「だめんずうぉ~か~」には、ナツやゆり子や久美のような体裁重視タイプと、まりあや友子のような母性本能タイプの2タイプに分けられそうです(表1)。体裁重視タイプの心理は分かりやすいのですが、母性本能タイプの心理は、実は、対人援助職に就く私たちの心理とも関係が深いので、もっと掘り下げていきましょう。体裁重視タイプ母性本能タイプ(=共依存)特徴相手の外見や経済力にこだわる相手をどうしても放っておけない例ナツゆり子久美まりあ友子共依存―依存されることに依存する母性本能とは、そもそも自分の子どもをどんなことがあっても守ろうとする母親の本能です。この本能は、対人関係における心理として、男女問わず、多かれ少なかれ見られます。特に、まりあのように責任感のあるしっかり者は、そのしっかりしている能力を発揮したいだけに、周りに守るべきダメな人がいてくれる必要があるわけです。そして、ダメな人を放っておけない、自分を頼ってくれるダメな人を探し求めてしまいます。これは、「世話焼き」「お節介」でもあります。やりすぎてしまうと、相手をさらにダメにしてしまう恐れがあります。これは、必要とされることを必要とする、言い換えれば、依存されることに依存する関係性の依存(共依存)です。ややこしい言い回しですが、これは、アルコールや薬物などの物質の依存とは違うタイプの依存です。ダメ男がダメ男として生き続けていけるわけは、ダメ男を好んで支え続ける共依存の女性たちがいるからこそなのです。もちろん、この心理は、人それぞれの相性により、良くも悪くも二面性があります(表2)。困った面良い面「お節介」「ありがた迷惑」「過保護」「過干渉」「押しつけがましい」「甘やかし」「恐妻家」「独占欲」「自己犠牲」「悲劇のヒロイン」「世話焼き」「面倒見がいい」「尽くす」「献身的」「優しい」「世話女房」「一心同体」「チャリティー精神」支援が支配へ―支えたい気持ちが手なずけたい欲望へ最強の「だめんず・うぉ~か~である友子は、まりあにダメ男と別れられない理由を漏らします。「彼、私とだけは別れたくないって言ってくれたの「私のことが一番だって」「そんなこと言ってくれる人、他にいないもんと。とても興味深いセリフです。ここから分かることは、友子には劣等感があることです(低い自己評価)。そして、「あたしくらい彼を信じてあげないと彼ダメダメになっちゃうからね」とも言います。彼女は、ダメ男を支えることで自尊心を取り戻し、自分だけはこの人を救えるという優越感に浸ろうとしているのでした(救世主コンプレックス)。さらに、友子の「彼は私がいないとダメなの(何もできない)という独占的な支援の心理は、「私がいないと彼には何もさせない」という支配の心理(独占欲)にすり替わる重たさや危うさがあります。つまり、支えたい気持ちは、「飼い主」として手なずけたい欲望へと変わりうるのです。この共依存の根っこにある母性本能は、良くも悪くも相手を子ども扱いして、下手をすればペット扱いしてしまい、相手の自立を大きく阻んでしまう恐さがあると言えます。このような共依存の危うさが典型的に見られるのが、アルコール依存症の夫のお世話をし続ける妻の心理です。どんなに夫が酔っ払って、夜中に騒いだり暴れたりして近所迷惑をかけても、妻が代わりに謝罪行脚をして夫の尻拭いをしてしまうのです。妻は謝罪をすることで「悲劇のヒロイン」である自分に酔ってしまうという一面もあり、夫は夫で事の深刻さに気付かず、ますますアルコール依存症が重症になってしまい、やがては夫婦共倒れとなるのです。また、近年、社会問題となっている引きこもりも、支援する過保護な親がいてこそ成り立つ共依存の心理が潜んでいると言えます。共依存の源(1)―機能不全家族それでは、まりあや友子は、なぜ共依存的な性格なのでしょうか?性格は、もともとその人が持っている素質(個体因子)に加えて、その人の生い立ちや家族背景(環境因子)が大きく影響します。ドラマでは、単に母性本能が強い性格として描かれているだけで、彼女たちの生い立ちや家族背景は触れられていません。しかし、実際には、共依存的な性格の源は、幼少期の家族関係がうまく行かず、家族同士の心理的距離が不安定な家庭環境(機能不全家族)に遡ることができます(表3)。まず特徴的なのは、父親が、単身赴任、仕事の多忙、離婚、愛人問題などにより、本来の役割を果たしていない状況です(父性欠如)。すると、もともと父性の特徴である「ものごとはこういうもんなんだ」という規範的な視点(客観化)や、「ここまでは良いが、それ以上は良くない」という冷静な線引きの感覚(限界設定)が育まれにくくなります。もう1つの特徴は、父親がいない分、相対的にも母親が子どもにべったりしてしまうことです(母性過剰)。父親が、いなかったり問題を抱えている状況で、母親は神経質になり、その不安な気持ちの矛先を子どもに向けてしまい、口出しが多くなっていきます(母子密着)。このような母親に育てられた子どもは、やはり同じように過干渉なコミュニケーションスタイルを受け継いでいき(家族文化)、社会生活においても、その心の間合い(心理的距離)は、どうしても接近してしまい、一定に保つことが難しくなってしまうのです。父性欠如母性過剰特徴単身赴任、仕事の多忙、離婚、愛人問題、アルコール依存症、DV(家庭内暴力)など母子密着→過保護、過干渉子どもへの影響限界設定が育まれにくい。母親と同じく過干渉になり、心理的距離が取りにくい。共依存の源(2)―アダルトチルドレンさらには、父親がアルコール依存症やDV(家庭内暴力)で、共依存的な母親がその状況に耐えている家庭環境であれば、子どもは、小さいながらその状況に適応していくために物分かりがよくなっていき(代償性過剰発達)、事態を丸く収めようと、騒ぐ父親をかばったり、殴られる母親を守ったりして、大人びた「良い子」を演じていきます(アダルトチルドレン)。そして、やがては、ダメな父親がいるという引け目(劣等感)を持ったしっかり者になっていくのです。このしっかり者は、しっかり者ぶりを発揮したいために、選ぶ職業は、医療、福祉、教育などの対人援助職であることが多いです。これは、まさに対人援助職に就いている私たちの心理に重なるかもしれません。さらに、選ぶパートナーは、特に女性の場合、母性本能をくすぐる男性や手のかかりそうなやんちゃで危険な香りのする男性になってしまいがちなのです。そして、結果的に、皮肉にも、選んだパートナーがダメな父親と重なってしまい、こうして歴史は繰り返されていくのです(世代間連鎖)。実際に、特に女性の看護師さんが結婚した男性は、年下が多いこと、アルコールやギャンブルなどの問題を抱えている人が多い印象があります。コミュニケーションのコツ(1)―限界設定恋人からどんなにひどい目に遭っても、友子はけっきょく許してしまうのに対して、まりあはビンタをして関係を終わらせようとする違いがあります。まりあのように、これ以上は許せないという見極めや線引きをすること(限界設定)は、特にダメ男に対して大切なことです。まりあの限界設定が甘いところは、まりあがプロポーズを断った相手が、その後に宿なしになり困っていたら、居候をさせてしまうことです。助けることに関しては、距離を置かなければならない相手であっても全力投球をして、結果的に相手を苦しめてしまうのでした。「同情と愛情がごっちゃ」と突っ込まれてもいます(表4)。母親が子どもを大切に思う気持ちに限界はありません。多くの母親が、自分が死んでも子どもを守ると言い切るでしょう。これが、まさしく母性です。相手が子どもなら、もちろんこれは大切なことですが、相手がもういい大人の場合はどうでしょうか?対人援助職の私たちが、困っている人をどこまで支えるかという見極めや線引きをすることは、実は、大きな課題です。なぜなら、私たちは、人助けしたくてこの仕事をしているわけですから。ついついいろいろやってあげたいという「母性本能」を発揮してしまい、良かれとやったことが裏目に出てしまいがちでもあるのです。私たちは、どこまでできるか、つまり、できることとできないことの線引きがブレないように、自分自身のやっていることを意識して(セルフモニタリング)、定期的に職場の仲間たちと足並みを揃えること(客観化)が大切であると言えます。コミュニケーションのコツ(2)―心理的距離エンディングで、まりあは言います。「たとえ選んだのがダメな男でも、愛して寄り添って、一緒に生きていける相手ならそれでいい」と。周りにどんなにダメ出しをされても、自分が相手を許せて幸せなら、確かにそれがその人の価値観であり、生き様と言えます。ただ、問題は、ダメな男がどの程度ダメなのかということです。それを見極めるためには、ほど良い心の間合い(心理的距離)を保つ必要があることです。相手のことで頭がいっぱいになり、近付きすぎてべったりとなってしまったら、相手がどんどん調子に乗っていく姿も、自分がどんどんボロボロになっていく姿もよく見えなくなってしまうからです。ある関連の本には、「(ダメな)男は変わらない。変えられるのは自分の選択だけだ」「危険な男(=ダメな男)と付き合う女性は、(運の悪い)犠牲者ではなく、志願者だ」という言葉があります。「だめんず・うぉ~か~」たちは、「だめんず・うぉ~か~」である理由を単に男運や「男を見る目がない」という能力のせいにするのではなく、あえてダメな男を嗅ぎ分けて選んでしまう自分自身の心のあり方に目を向ける必要があります。このドラマから学べること―「だめんず・め~か~」にならないために私たちは、「だめんず・うぉ~か~ならぬ、「だめんず・め~か~」にもなりうる潜在能力を秘めた対人援助職に就いています。このドラマから学べることは、困っている人を目の前にして、自分はどこまで助けられるか、相手にとって果たして良いことかなどを見極め、線引きをして(限界設定)、ほど良い心の間合い(心理的距離)を保つことです。パートナーシップにおいても、対人援助職においても、自分が無理していないか、相手にとってやりすぎじゃないかという視点を持って、自分自身や相手との関係を見つめ直すことは、より良い人間関係を築く上でとても大切なことではないでしょうか?1)「だめんずうぉ~か~」1巻~19巻(扶桑社) 倉田真由美2)「その男とつきあってはいけない! (飛鳥新社) サンドラ・L・ブラウン3)「共依存」(朝日文庫新刊) 信田さよ子4)「共依存―自己喪失の病 (中央法規出版) 吉岡隆5)「依存症の真相」(ヴォイス) 星野仁彦

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