21.
いじめ対策―私たちが生かす取り組みいじめの危険因子を探っていくと、どうやら、学校の仕組みやあり方そのものに、いじめをはびこらせる要因があることが分かってきました。それは、「みんな仲良し」というベタベタ感(集団凝集性)と、クラスのノリ(同調)による不安定なルール(集団規範)でした。私たちは、クラスという集団と同じく、組織という集団にいます。ですから、私たちが、子どものいじめや学校社会の危うさをよく知ることで、大人のいじめや職場の組織のあり方を見つめ直すことができそうです。ここからは、いじめへの具体的な対策を考えることを通して、私たちの組織集団が、いじめや対人トラブルなどで煮詰まらずに、なるべく健康的であり続けるためのヒントを見つけていきましょう。大きく2つの対策が上げられます。それは、ベタベタ感(集団凝集性)をコントロールすること、そして、ルール(集団規範)がブレないことです。(1)ベタベタ感(集団凝集性)をコントロール―表2いじめの危険因子を探っていくと、どうやら、学校の仕組みやあり方そのものに、いじめをはびこらせる要因があることが分かってきました。それは、「みんな仲良し」というベタベタ感(集団凝集性)でした。本来、このベタベタ感は、友達作りのチャンスとして、ある程度は必要です。ただ、どの程度まで必要なのかという視点を持つことが大事だということです。なぜなら、このベタベタ感が行きすぎると、「仲良しの強制」になってしまい、関係が煮詰まり、逆説的に、いじめが起こり、大きくなり、長引くからです。そのベタベタ感の要素は、個体的な「近さ」(均一性)、時間的な「近さ」(固定性)、空間的な「近さ」(閉鎖性)でした。それでは、学校は、これらを具体的にどうコントロールしていけばいいのでしょうか?1. 人はそれぞれ違うことに気付かせる―多様化1つ目に問題なのが、個体的な「近さ」、つまり、集団のメンバー同士がどれだけ見た目や考え方が似ているか(均一性)でした。この「みんな同じ」という横並び意識は、集団主義の日本文化を土台に、平等、協調性、管理を重んじる学校文化によって、蔓延してしまいました。この均一性のコントロールのためには、学校社会における生徒たちの見た目と考え方に介入していく方法があります。a. 見た目の多様化まずは見た目です。制服は自由として、髪染めやピアスを含めたヘアースタイルの校則を緩和することです。この校則は、非行が蔓延した80年代には一定の効果はあったようですが、もはや時代錯誤の時期に来ています。b. 考え方の多様化次に、考え方です。もちろん、集団のノリに合わせることは大切な時はありますが、その物差しが全てではないことを学校教育として示さなければなりません。いじめが起こりやすくなる小学校高学年(前青年期)からは、学業、スポーツなどでの能力や頑張りをみんなに見える形で公表して、評価することです。子どもをなるべく競争に曝(さら)さないようにするという今までの教育のあり方は、「みんなと違うこと」に怯えてしまう「去勢」されたひ弱な大人になり、ストレス耐性を弱めてしまい(脆弱性)、引きこもりなどのメンタルヘルスの問題を引き起こしています。ディベートの授業を取り入れて、あえて相手と反対の主張をさせる取り組みも1つです。ある程度の競争や自己主張は必要だということです。なぜなら、そもそも大人の社会が競争と人それぞれの主張で成り立っているからです。学校教育としては、協調性というコミュニケーション能力だけの「競争」ではなく、競争はいくつもあるということを示すことです。そこから、世の中には、自分を計るいろんな物差しがある、いろんな価値観がある、つまり「みんなそれぞれ違う」ことに気付かせることです(多様化)。個体的な「間合い」です。自分が「みんなと違うこと」は、人と比べた自分の得意不得意を見極める良いチャンスでもあります。そうすることで、コミュニケーション能力だけでなく、自分の得意なことを伸ばすこと、自分流を見つけることに目が向きます。さらには、相手の違った価値観を受け入れていくことにもつながっていきます。相手との主張のぶつかり合いにこそ、相手への本音の理解や敬意を学んでいくチャンスがあるからです。c. 私たちが生かす取り組み「同じこと」が前提の価値観から、「違うこと」が前提の価値観へ発想を転換していく必要があることが分かりました。この多様化の視点で、私たちが組織集団に生かす取り組みとして、白衣やナース服の規定に幅を待たせることから、いろいろな経歴や出身の人材を幅広く受け入れることだということです。さらには、組織の考え方が同調圧力によって偏らないように(集団的浅慮)、自分たちから選ばれた人が、わざと反対意見を述べる役割を作る取り組みもあります(悪魔の擁護者)。ちょうど、「さくら」が根回によって同調するのとは真逆の役割です。そうすることで、他の人たちも違った意見を言いやすくなり、多角的で実りある話し合いが生まれていきます。2. 人間関係は変わっていくことに気付かせる―流動化2つ目は、時間的な「近さ」、つまり、集団のメンバー同士がどれだけの時間いっしょにいるかでした(固定性)。この問題点は、1年から2年という長期間で相手がほとんど変わらない、つまり、担任教師やクラスメートたちとの人間関係が固定化されてしまうことで、「みんな仲良し」が深まりすぎて、お互いのことを知り尽くしてしまうことです。そして、心の間合い(心理的距離)が近すぎることで、逆に必死に仲良くしようと気を使い、ヘトヘトになり、煮詰まることです。a. 組替え学期制この固定性のコントロールのためには、学校制度そのものに介入していく方法があります。まず、いじめが起こりやすくなる小学校高学年(前青年期)からは、組替えは1学期(半年)に1回はすることです。そして、クラス内の班替えや席替えも半月から1か月に1回することです。つまり、学校教育として、人間関係は、期間限定であること、人間関係は常に移り変わっていくことに気付かせることです(流動化)。時間の「間合い」です。その期間で、同じ友達と仲良くやっていく大切さだけでなく、時が来たら、新しく友達を作る大切さも学ぶことができます。もはや、いじめ自殺が現実に繰り返し起こっている以上、人間関係の煮詰まりを子どもに我慢させ続けることは、教育の本来の目的ではないはずです。b. 私たちが生かす取り組み流動化の視点で、私たちが組織集団に生かす取り組みとして、やはり組織は人材を循環すべきだということが分かります。組織の性質によって、期間はそれぞれですが、目安としては3年くらいではないでしょうか?長く同じ場所にいることは、勝手が分かってしまうだけに、「なあなあ」な関係になり、お互いへのチェックが甘くなり、隠蔽体質も芽生えてしまいます。古株が既得権を振りかざし、組織として停滞して腐敗するリスクが高まります。つまり、「流れない水は、やがて濁って腐る」というわけです。集団に人の出入りにより、流れがあることが必要不可欠です。3. 人間関係は教室の中だけではないことに気付かせる―開放化3つ目は、空間的な「近さ」、つまり、集団のメンバーがどれだけ閉ざされた空間にいるかという密閉性でした(閉鎖性)。この問題点は、望んでいない相手でも顔を合わせなければならないこと、そこから心の間合い(心理的距離)の調節ができないということです。少年Aは、いじめのターゲットになってから、誰からも話しかけられませんでした。このように、クラス全員で無視する、全員で悪口を言うなどのコミュニケーションタイプの陰湿ないじめが可能になります。この閉鎖性のコントロールのためには、学校教育の新たな試みが必要にあります。a. 集団を「またぐ」取り組みまずは、集団の境界をもっと「またぐ」ことです。すでに行われている「またぐ」ことは、合同クラス、選択教科別クラス、能力別クラスなど、いつもいるクラスとは別に設けられているクラスを受けたり、クラブ活動に参加することです。ただ、これだけでは、まだまだいつもいるクラスの影響力が大きすぎます。「またぐ」のは、クラス、学年だけではく、学校、地域、そして理想的には国までも広げていくことができないかということです。学年をまたいだ取り組みとしては、小学校高学年が低学年のお世話をすることです。すでに年1、2回程度の交流はあるようでが、重要なのは、このかかわりが、月1回程度に定期的にそして継続的になされることです。学校をまたいだ取り組みとして、一部の地域の試みで、中学校の生徒たちが小学生たちの世話をしているようです。このように、クラスメートとのヨコの関係と教師とのタテの関係だけでなく、先輩後輩というナナメの関係をもっと多く築くことで、人間関係の幅が広がります。また、サマーキャンプやイベント学習などへの参加は、地域をまたいだ取り組みです。さらには、交換留学を推し進め、留学生をクラスに受け入れ、そして外国に留学する中学生が増えれば、違う文化を受け入れることで、自分たちの中にある違う考え方や価値観にもっと理解を示すことができ、日本人はより国際的になっていくことができます。これらの「またぐ」ことを通して、クラスは開かれます。子どもたちに、人とかかわる選択肢はいくつもある、居場所はいくつもあることを知らせることは、人間関係は教室の中だけではないことに気付かせることになります(開放化)。空間の「間合い」です。また、そもそも、子どもの時に、いろんな人に会う、かかわり合うことは、大きな刺激です。心の豊かさやたくましさを育みます。このように、クラスが開かれていることで、クラスが「意気投合」「一致団結」して、みんなでターゲットを無視したり悪口を言うことが難しくなっていきます。ターゲットにされた生徒は、たとえ、無視される相手がいたとしても、別の人間関係でかかわりを持てる相手がいる以上、ただ、無視された相手との付き合いがなくなるだけになります。こうして、健康的な心の間合い(心理的距離)ができていくのです。b. 私たちが生かす取り組みこのように集団が開かれていることは、いろいろな外部へ目を向けることができます。その取り組みとしては、他のグループや科との勉強会や学会への参加です。つまり、情報も循環させる必要があります。さらに、集団が開かれることのもう1つの良さは、いろいろな外部からの目も向けられるということです。それは、監査からの目だけではなくなります。学生を受け入れることが決まってから、学生の目を気にして、急に病棟の雰囲気が変わったという病院がありました。学生やボランティアなどの外部のメンバーを定期的に受け入れることで、自分たちは彼らからどう見られるかとの客観的な視点に立つことができます(客観化)。そして、世の中での標準的な医療のあり方とはどういうものかという自分たち自身への意識付けにもつながっていきます(標準化)。(2)ルール(集団規範)がブレないこと―表3表3 クラスのルール(集団規範)がブレないための取り組み犯罪レベルのいじめ犯罪レベルではないいじめ例1. 加害者いじめは許されないこと、警察通報・被害届を出すということを伝え、貼り紙などで目に見える形にもする。2. 被害者いじめがなくなる保証をする3. 傍観者報告義務・通報義務があることを伝える4. 教師複数担任制5. 学校いじめを解決したことを評価する学校教育反省文奉仕活動学校社会は、「教育の聖域」として閉ざされていることで、外で起きた問題が中に入って来ないので、最も安全で守られた場所のはずでした。しかし、現在では、中で起きた問題が外に出て行かないので、最も危険な場所になっています。皮肉な話です。私たちは、いじめという言葉に惑わされすぎています。今まで、「いじめ」という名のもとに学校での犯罪行為が放置されてきました。問題は、いじめそのものではなく、恐喝、傷害、暴行、窃盗などの犯罪行為が学校で起こったというだけで「いじめ」という教育の問題として処理され、不問にされ、隠蔽され、事実上、野放しにされていることです。つまり、学校が無法地帯だということです。そこで、この学校の中の無法地帯を学校の外の市民社会と同じようにするためには、何が必要でしょうか?もう1つの対策は、学校の外のルールと同じように、学校の中のルール(集団規範)がブレないことです。ここから、いじめを、犯罪レベルのいじめと犯罪レベルではないいじめに分けて整理して見ていきましょう。1. 犯罪レベルのいじめa. 学校以外の場所で行われているとしたら映画の中で、少年Aと美月が教室で手足の自由を奪われ、無理矢理キスをさせられるシーンがありました。もしも、この行為が学校以外の場所、例えば駅前のカラオケ店の一室で行われていたとしたら、どうなるでしょうか?きっと見つけた店員は警察通報するでしょう。つまり、犯罪レベルのいじめとは、その後に教師が介入できたとしてもできなかったとしても、カラオケ店で行われていたとしたら、そこの店員はすぐに警察通報するというレベルであることです。また、少年Aのノートなどの持ち物への落書きや、それらをゴミ箱への投げ捨て、教室の窓からの投げ落としのシーンでは、それらがカラオケ店の備品と考えればどうでしょうか?実際、このような行為が繰り返され、学校の介入でも改善されないのであれば、やはり、加害者を特定して、録画などの証拠を持参し、学校が警察に被害届を出すべきです。しかし、実際の学校ではどうでしょうか?生徒への「教育的配慮」や、生徒との「信頼関係」を理由に、警察の介入を望まない教師や学校が多いのではないでしょうか?もちろん、生徒・教師・保護者の間の信頼関係をもとにした教育的配慮は必要です。しかし、誰かを傷付けている犯罪レベルの状況で、加害者の生徒を学校の外のルールに委ねないことに一体、どんな「教育的配慮」や「信頼関係」の意味があるのでしょうか?そんな状況で、そもそも被害者はどうなるのでしょうか?b. 被害者への取り組み―「絶対に死ぬな」とは言わない映画の熱血教師のウェルテルは、授業中に、クラスメート全員の前で、いじめの被害者は少年Aだと名指しします。そして、「それぞれの個性をどんどん磨いていってほしい」との話にすり替わり、「みんなもう二度とやるなよ」などとのニュアンスで力強く一方的に説教して終わります。具体的にどんないじめなのか、具体的にどうしていくのかなどの話し合いが一切ありません。いじめ自殺が騒がれる昨今、被害者へのかかわりが注目されています。ウェルテルのような熱血教師なら、いじめ被害者に「命の大切さ」を語り、「絶対に死ぬな」と言いそうではないでしょうか?しかし、実は、このかかわりは、効果が期待できないばかりか、逆に、とても危ういのです。なぜなら、「命の大切さ」を強調することは、「大切にされていない自分の命は何なんだ」と被害者を混乱させてしまい、追い詰めてしまうリスクがあるからです。さらには、「絶対に死ぬな」と説教したとしても、いじめによって思考が「麻痺」している被害者には、「死ぬか生きるか」という究極の2択を指し示すことになってしまい、結果的に自殺のリスクを高めてしまいます。被害者へのかかわりとして、優先的なことは、加害者に絶対にいじめをさせない具体的な厳しい取り組みをすることを保証することです。間違っても、被害者に、「仲良くしなさい」と説教したり、加害者と無理矢理に握手させようとしないことです。c. 加害者への取り組み―モラルだけではなく、ルールにも訴える加害者が特定できたとしたら、ウェルテルなら「いじめは良くない」と涙目で熱く語るでしょう。しかし、このようにモラルに訴えるのには、限界があります。なぜなら、いじめは集団心理の病理だからです。そして、彼らにとってモラルよりも「おもしろさ」が上回ってしまうからです。さらに言えば、彼らは反抗期の真っただ中で、人権やヒューマニズムなどのきれい事や「大人の正論」は生理的に受け付けられないという心理の発達段階にあるからです。よって、「いじめは良くない」というモラルに訴えるだけでなく、「いじめは許されない」「いじめは罰せられる」というルールに訴えることが必要不可欠です。つまり、いじめは、犯罪レベルであれば、学校であっても、教師の裁量によってではなく、その行為そのものによって、警察通報され、司法の介入があるというメッセージを生徒に伝えることです。もっと言えば、いじめかどうかについて判断する前に、暴力などの犯罪があったかどうかについてまず判断するということです。犯罪レベルのいじめをした場合には、学校の「教育的配慮」や、教師との「信頼関係」だけではもはや限界があるということをあらかじめ生徒に伝えることです(限界設定)。この警察通報が「自動的」になされるという限界設定は、いじめの抑止の効果を大いに期待できます。さらには、それでもいじめが事例化した時は、その加害者のためにもなるということです。なぜなら、警察通報されると分かっていてもいじめをする加害者は、家族の問題や発達の問題を抱えている可能性が高いからです。これらの問題は、学校教育だけでは太刀打ちできません。児童相談所の一時保護などの社会的な介入や精神医学的な評価による医療的な介入が早期に必要になります。誤解されがちですが、いじめの警察通報は、懲罰が目的ではなく、あくまで教育や更生が目的だということです。さらには、暴力などの犯罪レベルのいじめを見た他の生徒は、その場で介入できないとしても、少なくとも市民社会のルールとして、教師や管理者への報告義務、場合によっては警察への通報義務があることを教師からはっきり伝えることです。さきほどの例にあげたカラオケ店の店員がもし「見て見ぬふり」をしたら、通報義務を怠ったと咎められるでしょう。咎められるのは学校の外でも中でも同じことであることを、教師は生徒に伝えるだけでなく、教室に貼り紙を貼るなどみんなが見える形にする取り組みも必要です。d. 教師への取り組み―複数担任制映画の中で、ウェルテルは、少年Bの不登校を抱え込んでいます。同僚や校長には、一切相談していません。この「抱え込み」の心理は、全て自分で解決しよとするあまりに独りよがりになってしまい、生徒との「信頼関係」が「身内」「見逃してやる」にすり替わってしまう危険性があります。同調的な日本文化のもとで、「信頼関係」は、「馴れ合い」「甘え」と紙一重でした(表1)。つまり、「教育的配慮」という大義名分のもと、この「信頼関係」によって、「学校が犯罪を『いじめ』というだけのことにしてくれる」「学校の中なら先生がもみ消してくれる」という動機付けを生徒にさせてしまい、結果的に、いじめ加害者を作り出しているとも言えます。そもそも、教師の社会が、チームプレイではなくなってきている現実があります。教師への評価制度の導入によって、教師も実は、生徒と同じように管理され、競争させられているという現実があります。これは、教師への評価制度の1つの弱点と言えます。よって、自発的に相談することが難しいなら、生徒を教師が複数で見るという連携と責任の共有の仕組みを作る必要があります。複数担任制です。また、いざという時は、警察通報という限界設定があることで、警察という学校の外部の目が入るという心理によって、警察官から自分たちはどう見られるかという教師自身への意識付けにもなり(客観化)、学校の開放化につながります。e. 学校への取り組み―評価する仕組みを変えるさらに根深い問題は、生徒たちが期待する「もみ消し」「握りつぶし」を学校側が自発的に行うこと、つまり、学校の隠蔽体質です。どうして、「正しくあるはず」の学校に隠蔽体質が起こってしまうのでしょうか?それは、実は「正しくあるはず」という私たちの固定観念そのものが、学校を隠蔽体質に追い込んでいるとも言えます。なぜなら、いじめの発生自体、教師や学校しては「正しくあるはず」出来事ではないからです。つまり、いじめの発生自体で、教師や学校の管理責任を問われてしまう可能性があるので、教師も学校も自分の評価を下げたくないのです。こうして、いじめは、「なかったこと」にされ、うやむやにされてしまいがちになります。そして、学校の隠蔽体質はより大きくなっていくのです。いじめは、集団心理の問題や加害者の家族や発達の問題などが絡むため、もはや、教育現場だけの取り組みや心構えでは、最初から「撲滅」することは不可能なのです。世の中で広く共有すべきは、学校でいじめは起きるものだ、大事なのは、起きたかどうかではなく、どう解決したかであるということです。いじめが起きたことだけで、教師や学校を責めるべきではないということです。いじめを「起こさなかった」教師や学校が評価されるのではなく、いじめを「解決した」教師や学校が評価される仕組みを作る必要があります。また、生徒からいじめの報告を受けた教師は、どう対処したかの報告義務があるようにします。このような仕組みへ早急に改善していく必要があります。2. 犯罪レベルではないいじめ―いじめの「予防ワクチン」まず、そもそも人が社会的な動物である限り、いじめはいつでも生まれてしまうことを理解しなければなりません。そして、大事なのは、それぞれのいじめを大きくさせないこと、長引かせない仕組みを作ることです。皆さんは、テレビのいじめ報道で、「いじめ撲滅」などというスローガンを掲げている学校をよく見かけませんか?よくよく考えてみれば、人間が序列を好む社会的な動物であり、いじめに本能的な要素があるという現実を直視する以上、「いじめ撲滅」は実現不可能な「おとぎ話」です。仮に実現したとして、果たして子どもがいじめに対して「無菌状態」になっていいのかという問題もあります。なぜなら、大人の社会でも、いじめはれっきとしてあるからです。むしろ、いじめへの「免疫力」を付けるために、「予防ワクチン」として「小さないじめ」は必要ではないかということです。悪口を言われたり無視されたりするなどのコミュニケーションタイプの「小さないじめ」は、心理的な成長の発達段階においてある程度は経験した方が、被害者は自分自身を見つめ直し、そして相手との力関係をそこで認識しようとします。大人のいじめへのトレーニングとしてむしろ良いかもしれないということです。大事なのは、コミュニケーションタイプのいじめが、ベタベタ感(集団凝集性)のコントロールによって、小人数でしかもすぐに終わらせることです。それでも、終わらない時こそ、まさに、学校教育の出番になります。反省文を書かせたり、奉仕活動をさせるなどのルールを明確に設けることです。3. 私たちが生かす取り組み同調性が高い日本文化に生きる私たちだからこそ、逆に、ルール(集団規範)が揺らぐ危うさを知っておかなければなりません。そして、ルールがブレないような取り組みが必要です。その取り組みは、大きく3つあります。1つ目は、管理者がルールのモデルとなることです。例えば、管理者が、性格的に優しすぎて「なあなあ」であったり、精神的に弱っていたりするなど、統率力が弱まっている時は危ういということです(アノミー)。2つ目は、管理者はブレないことです。例えば、管理者が感情的で、時間や状況によって態度が極端に違う場合や(ダブルバインド)、強気なスタッフがミスした時は、気を使って受け流す一方、弱気なスタッフには小言が多いなど、管理者が相手によって態度を変えている時は危ういです(ダブルスタンダード)。また、集団内でのトラブルが起きたら、隠さず、オープンにすることです。そして、ブレない公平なルールに乗っかるべきです。私たち日本人は、トラブルで目立つことは迷惑になり恥ずかしいと思いがちです。しかし、隠すことが、この映画のような閉鎖性や葛藤を生み出します。トラブルにこそ「見える」化が必要です(客観化)。3つ目は、集団のメンバーの大半が、適度な心の間合いを持つことです(心理的距離)。例えば、個人的なことに無暗に首を突っ込んだり、共通の敵をつくろうと誰かの悪口を盛んに言い、共感を求めようとする人がいる時は危ういです。そういう時は、「そうなの?」と話は聞いて受容しつつ、「私、鈍くてよく分からない」とはっきりしたことを言わず、同調をしないのがコミュニケーションのコツです。以上のように、集団が、同調やトラブル隠しによる葛藤や緊張などの感情の高ぶりが少なく、ルールという理性がうまく働き、ブレていないかが健康的な組織作りのコツになります。健康的な組織作り―表4映画「告白」を通して、いじめのメカニズム、具体的ないじめ対策、私たちが生かす取り組みを探ってきました。キーワードは、同調です。そして、この同調は、具体的ないじめ対策で提案した、ベタベタ感(集団凝集性)のコントロール、ルール(集団規範)がブレないことに加えて、私たちが生かす取り組みで触れた「見える」化(客観化)を合わせた3つの要素でバランスをとることができます。私たちは、これら3つの要素をより見つめ直していくことで、より健康的な組織作りができるのではないかと思います。表4 健康的な組織作りベタベタ感(集団凝集性)をコントロールルール(集団規範)がブレない「見える」化(客観化)例1. 多様化違う経歴や出身悪魔の擁護者2. 流動化人材の循環3. 開放化他のグループや科との勉強会や学会(情報の循環)学生やボランティアの受け入れ管理者がルールのモデル管理者がブレないスタッフが心の間合いを保つ外部に目を向ける外部の目を入れるトラブルはオープンにする1)「告白」(双葉文庫) 湊かなえ2)「いじめの構造」(講談社現代新書) 内藤朝雄3)「いじめの構造」(新潮社) 森口朗4)「教室の悪魔」(ポプラ文庫) 山脇由貴子5)「ヒトはなぜヒトをいじめるのか」(講談社) 正高信男<< 前のページへ