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映画「かがみの孤城」(その4)【学校がなかなか変わらない訳は?だから私たちにできることは?(反応性自我障害)】Part 2

それでもなんで学校を変えられないの?これからの学校のあり方とは、社会と同じように、やはり民主国家型であることがわかりました。そして、これは、実際に海外の多くの国ですでに実践されています。また、日本の学校が独裁国家型のままである問題点は、海外の教育研究者から散々指摘されてきました。にもかかわらず、なぜ日本の学校はなかなか変わることができないのでしょうか?それは、やはり社会を自ら変えていくこと、そして選び選ばれるという社会的な自我(アイデンティティ)が求められること自体に抵抗を感じる、自我の弱い人が日本には多いからでしょう。たとえば、何が「普通」か、何が「変」かを気にして、周りと違うことをすることに不安を感じる人です。そして、世間(主流秩序)が望ましいとされることに重きを置き、体裁を気にする人です。また、文科省のような権威に対して表立って意見するのを嫌がる人です。その割に、陰では不平不満を言い続ける人です。その1と2で説明したとおり、このメンタリティは、社会的な自我が弱いままなのに、社会構造の変化によって個人的な自我だけが強まってしまっている状態です。このギャップこそが、不登校だけでなく、新型うつ(職場不適応)、ひきこもり、少子化(非婚)、そして日本的バッシングなども含めた、さまざまな日本の社会問題に共通する根っこの病理であると考えられます。これらをまとめて、「反応性自我障害」と名付けることができます。ちょうど、反応性愛着障害が虐待などの養育環境によって反応的に愛着が育まれないのと同じように、反応性自我障害は「工場型一斉授業」という学校環境によって反応的に自我が育まれない状態です。パーソナリティ(性格)の特性として捉えると、回避性パーソナリティが最も近いでしょう。実際の研究では、不登校がその後の人生に与える影響として、学歴が低くなることを差し引いても、仕事、生活レベル、結婚の状況が思わしくなくなっているという結果が出ています1)。これは、たとえ不登校のあとに本来の学歴を達成したとしても、大人になって社会的な自我(アイデンティティ)が十分に育まれていないことを示唆します。この自我は、不安や受け身の気質からもともと弱い日本人が多いのに加え、「工場型一斉授業」によってさらに押し殺され、不登校になることで育むチャンスを完全に失うというわけです。現在、この「反応性自我障害」によって、学校に行かない人、働かない人、結婚しない人、子供をつくらない人が増え続けており、持続可能な社会であり続けることが難しくなってきています。もちろん、自分なりの考え(自我)があって、あえてそうしている人はもともと一定数います。それは、生き方の自由であり、多様性です。問題なのは、そうではない「反応性自我障害」に陥っている人が増えてきていることです。「反応性自我障害」は、日本文化と深く結び付いている点では、もはや日本の国民病(文化結合症候群)とも言えます。実際に、”futoko”(不登校)、”hikikomori”(ひきこもり)という英単語がすでにあるくらいです。この流れで、いずれ“hikon”(非婚)という英単語も生まれるでしょう。なお、文化結合症候群の詳細については、関連記事2をご覧ください。文化進化の視点に立てばもともと日本では、独裁国家型である封建社会の価値観(文化)と「反応性自我障害」を生じさせる不安や受け身の気質(遺伝子)は、お互いに結びつきを強めてきました(共進化)。しかし、その1でも説明したとおり、時代は変わりました。文化進化の視点に立てば、遺伝子と同じように、文化も淘汰されます。遺伝子進化が何万世代も繰り返してちょっとずつ変化するのに対して、文化進化は技術革新などによって数世代の間でも大きく変化します。それに遺伝子進化が追いつかないから、その国は繁栄するだけでなく衰退する(淘汰される)こともあるわけです。これは、過去の歴史が証明しています。たとえば、かつての帝国主義や資源依存の国などです。そして、封建社会の価値観が残る国(文化)も当てはまるでしょう。ただし、遺伝子進化と違って文化進化は、改革によって国自体の淘汰を免れることができます。この点で、日本が静かに衰退していくか盛り返すかは、「反応性自我障害」ではない、つまり社会的な自我のある残りの私たちが何を選択していくかにかかっています。なお、文化進化の詳細については、関連記事3をご覧ください。「かがみの孤城」とは?映画の後半で、城に通い続けて自我が芽生えたこころは、家の前で見かけた萌ちゃんに駆け寄ることができます。これまでの彼女にできなかった、さりげなくも大きな第一歩です。こころは、萌ちゃんから「ああいう子たち(いじめ女子グループ)ってどこにでもいるし、今度の学校(次の転校先)でもいるかもしれないけど。私今度こそ嫌なものは嫌って言う。だからこころちゃんも」「何かされてる子がいたら、今度こそ助けたいと思う」と言われ、「うん」と力強く頷きます。城だけでなく、現実の世界でも、こころが友達とお互いに影響し合い、自我が大きく成長していく感動のシーンです。タイトルの「孤城」とは、孤立無援のこころたちの城であると同時に、孤高にも自分らしく生きていくこころたち自身であるという意味が見いだせそうです。このことからも、この映画のテーマは、まさに誰かとかかわり合うことで自我を育むことでしょう。同じように、不登校への学校改革の第一歩を知った私たちの「孤城」とは、一人ひとりが社会的な自我を持って意見を発信し合い、学校を、そして社会を変えていくムーブメントを巻き起こすことではないでしょうか?1)「不登校がその後の生活に与える影響」:井出草平、大阪大学<< 前のページへ■関連記事映画「かがみの孤城」(その2)【実は好きなことをさせるだけじゃだめだったの!?(不登校へのペアレントトレーニング)】Part 3NHK「やさしい日本語」【英語が話せないのは日本語が難しいから???実は「語学障害」だったの!?(文化結合症候群)】Part 3ドラマ「ドラゴン桜」(後編)【そんなんで結婚相手も決めちゃうの? 教育政策としてどうする?(学歴への選り好み)】Part 2

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ちびまる子ちゃん(続々編)【その教室は社会の縮図? 男子校と女子校の危うさとは?(恋愛能力)】Part 2

どうやって恋愛能力を高めるの?男女別学のリスクとは、身近にいる異性を好きになれない(消極性)、異性をそのまま受け止められない(ストレス脆弱性)、異性と一緒にいて楽しめない(排他性)であることがわかりました。言い換えれば、現実の異性への「惚れ慣れ」(自発性)、「異性慣れ」(セルフコントロール)、「交際慣れ」(共感性)という恋愛(生殖)における非認知能力が高まらないことがわかりました。つまり、恋愛を「能力」として、捉え直すことができます。名付けるなら、恋愛能力です。これは、心理学者フロムの「愛するという技術(art of loving)」という名言を裏付けます。それでは、どうやってこの恋愛能力を高めましょうか? 言い換えれば、どうやって異性を好きになり、受け止め、一緒にいて楽しめるのでしょうか?その答えは、現実の異性への「惚れ慣れ」「異性慣れ」「交際慣れ」をとくに思春期にすることです。つまり、思春期にこそ、この生殖における非認知能力を高める練習をする必要があるということです。この理由を、愛着形成や性格形成のメカニズムをヒントにして、癖になりやすさ(嗜癖性)の臨界期の観点から、発達心理学的に掘り下げてみましょう。なお、臨界期とは、特定の刺激に対して脳(脳神経回路)が反応しやすい(可塑性が高い)特定の時期です。これは、反応しやすくなる時期と反応しにくくなる期限があることを意味します。期限があるのは、次のステップ(発達段階)に進むために必要な脳のメカニズムであると考えられています。(1)愛着という能力は乳児期に高まる愛着とは、乳児が授乳する母親にくっついていたいと思うことです。これは、抱っこや愛撫などの親との肌の触れ合いの刺激に繰り返し曝されることで、乳児の脳内のオキシトシンとドパミンが連動的に活性化され、親を後追いする愛着行動として発達していきます。このメカニズムがなければ、乳児はおっぱいをもらうアピールができずに餓死してしまうかもしれません。この点で、愛着は、依存行動(嗜癖)であると同時に能力であると言えます。名付けるなら、愛着能力です。この依存形成(愛着形成)の期間(臨界期)は、生後半年から2歳までの乳児期であることがわかっています。つまり、授乳期に一致します。この期間で、愛着能力が高まり、特定の親への愛着が固定化されるのです。逆に言えば、臨界期がなければ、次々と違う大人への愛着行動を示してしまい、親子の絆が定まらなくなります。また、この期間に、ネグレクト(虐待)によって愛着行動をしていないければ、愛着は充分に形成されません。これは、反応性愛着障害と呼ばれます。なお、愛着の嗜癖性の詳細については、関連記事1をご覧ください。(2)性格という能力は児童期・思春期で高まる性格とは、周りの人に対しての、その人の感じ方、考え方、行動の仕方です。これは、学校環境(社会環境)での友達とのかかわりの刺激に繰り返し曝されることで、子どもの脳内のドパミン、セロトニン、オキシトシンが主に活性化され、周りの人たちにうまくつながっていようとする社会適応行動として発達していきます。このメカニズムがなければ、子どもは社会に出て周りとうまくやっていきたいと思えず、社会生活をするのが難しくなります。この点で、性格も、愛着と同じく、依存行動(嗜癖)であると同時に能力であると言えます。名付けるなら、社会適応能力です。この依存形成(性格形成)の期間(臨界期)は、児童期と思春期であると考えられます。つまり、義務教育の期間にほぼ一致します。この期間で、社会適応能力が高まり、アイデンティティという性格が固定化されるのです。それ以降は30歳くらいまでに徐々に可塑性がなくなっていくと考えられます。逆に言えば、臨界期がなければ、自分の性格も相手の性格も定まらず、人間関係を安定して築くのが難しくなるでしょう。また、この期間に、不登校、いじめ、非行などによって社会適応行動をしていなければ、性格は適応的には形成されないリスクがあります。これは、パーソナリティ障害と呼ばれます。なお、性格の嗜癖性の詳細については、関連記事2をご覧ください。(3)恋愛という能力は思春期に高まる恋愛とは、すでにご説明した通り、異性を好きになり、受け止め、一緒にいて楽しめることです。そして、これは、実際の異性とのかかわりの刺激に繰り返し曝されることで、思春期特有の性ホルモンが活性化され、脳内のドパミン、セロトニン、オキシトシンの活性化とあいまって、異性に近づこうとする恋愛行動として発達していくことが考えられます。この点で、恋愛も、愛着や性格と同じように考えれば、依存行動(嗜癖)であると同時に能力であると言えます。この依存形成(恋愛心理の形成)の期間(臨界期)は、まさに思春期であると推定されます。その一番の根拠は、性ホルモンを分泌する生殖器の発達が10~20歳までの思春期に限定されていることです。実際に、初恋の年齢で最も多いのは10歳前後で、その初恋相手で最も多いのはクラスメイトであることがわかっています。逆に、10歳以降にクラスメイトなどの実際の異性からの刺激を極端に排除すれば、先ほどのアンケート調査で示されたように、量的にも質的にも恋愛行動での問題が現れるというわけです。つまり、この期間で、恋愛能力が高まり、見た目や性格などの異性の好みのタイプ(恋愛心理)が固定化されるのです。それ以降は30歳くらいまでに徐々に可塑性がなくなっていくと考えられます。逆に言えば、臨界期がなければ、新しく別のタイプの異性を好きになる可能性があり、特定の好みの異性とのパートナーシップを安定して築くのが難しくなるでしょう。ちょうど、友情は、児童期で不特定多数の友達たちによって量的に育まれますが、思春期になると同じ好みや考え方の特定少数の親友によって質的に育まれていきます。同じように、恋愛心理は、思春期である程度の異性のクラスメイトたちによって量的に育まれますが、成人期になると好みのタイプの特定の交際相手によって質的に育まれていくと言えるでしょう。これは、成人期の発達段階(エリクソンによる)である親密性を裏付けます。ちなみに、不倫については、まったく別の生殖戦略になります。この心理の詳細については、関連記事3をご覧ください。よって、男女別学だけでなく、共学であっても、この期間に、恋愛行動をある程度していなければ、恋愛能力が充分に高まらないと言えます。この状態は、名付けるなら「反応性恋愛障害」です。なお、これは、理想化した異性は好きだけど実際の異性は好きになれないという葛藤がある場合に限定します。そもそも異性そのものが好きではない同性愛や無性愛(アセクシャル)は除外します。<< 前のページへ | 次のページへ >>

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コウノドリ(その1)【なんで不妊治療はやめられないの? その心理的なリスクは?(不妊の心理)】Part 1

今回のキーワードがんばりすぎる(過剰適応)とらわれる(強迫)のめり込む(嗜癖)燃え尽きる(破綻)頭が硬くなる(べき思考)元を取りたいと思う(負け追い)政府は、2022年4月から不妊治療に公的医療保険を適用する方針を打ち出しています。また、不妊治療で体外受精を行っている女性の半数以上に軽度以上の抑うつの症状がみられる調査結果が報じられました。一方で、不妊治療はなかなか止められない現実もあります。なぜ止められなくなるのでしょうか? その心理的なリスクは何でしょうか?これらの答えを探るために、今回は、ドラマ「コウノドリ」の不妊に関連したエピソードを取り上げます。このドラマを通して、不妊の心理を精神医学的に解き明かしてみましょう。なんで不妊治療は止められないの?主人公は、産婦人科医の鴻鳥(こうのとり)。総合病院の産婦人科のチームのリーダー的存在です。彼がかかわる妊婦や患者とその人間関係を中心にストーリーが展開していきます。中でも、不妊治療は、やり始めるとなかなか止められなくなるようです。それでは、なぜ不妊治療は止められなくなるのでしょうか? まず、その原因を、大きく3つに分けて精神医学的に解き明かしてみましょう。(1)がんばりすぎる-過剰適応鴻鳥が43歳の妊婦をフォローするエピソードがあります(シーズン1第6話)。合同カンファレンスで、鴻鳥の同僚である四宮は、その妊婦について「長期間の不妊治療で疲弊しきっている人を見ると、どこかで線引きすべきではとも思いますね。実際、出産とともに燃え尽きて、育児を放棄する人もいるわけですから」と発言します。不妊治療が止められない1つ目の理由は、がんばりすぎるからです。これは、「がんばればうまく行く」「これだけがんばっているんだから、できるはず」という過剰適応の心理が根っこにあります。とくに、もともと勉強、スポーツ、仕事、結婚でうまくやってきた人ほど、その成功体験によって、この心理に陥りやすくなります。なぜなら、知的能力、身体能力、コミュニケーション能力と同じように、生殖能力も努力によって高まるものだと思ってしまうからです。また、私たちは、知的能力、身体能力、コミュニケーション能力については、小さい頃から、その限界を少しずつ自覚して、自然に受け入れています。ところが、生殖能力に限っては、結婚後に明らかになるため、急すぎてなかなか受け入れられなくなります。そして、とくに女性の場合はその能力が年齢とともに低くなっていくという現実もあります。(2)とらわれる-強迫鴻鳥が不育症(流産を繰り返すこと)に悩む夫婦をフォローするエピソードがあります(シーズン2第9話)。妻は、なかなか妊娠できず、妊娠しても流産を繰り返すことで、専業主婦として家事も手につかなくなり、うつ状態になり、寝込んでいます。そんな妻を見た夫は「俺はさ、子どもがいない2人だけの人生も良いと思ってる。2人なら、好きなことできるし、旅行にだって…(行けるし)」と言いかけます。すると、妻は言いかぶせるように「全然嬉しくないよ。慰めにもなってない」とイラついて答えます。そして、夫は、しょんぼりするだけなのでした。もはや、深刻すぎて夫婦げんかもできない状況です。不妊治療が止められない2つ目の理由は、とらわれるからです。これは、「子どもができたらいいな」という希望ではなく、「子どもはできなければならない」「子どもができることが唯一の幸せな人生である」という強迫の心理が根っこにあります。とくに専業主婦で、もともと仕事や趣味(自分のやりたいこと)に思い入れがなく、社会的な活動をしてこなかった人ほど、アイデンティティが定まっていないため、この心理に陥りやすくなります。なぜなら、「○○ちゃんママ」という待望の親アイデンティティが得られず、ママ友グループという居場所に入れないからです。(3)のめり込む-嗜癖先ほどの高齢の妊婦は、鴻鳥に「生理が来るたびに、あーまただめだった。次は大丈夫かもしれない。ここまでがんばったんだから止められない」と不妊治療をしていた当時の自分の様子を語ります。一方で、不妊治療専門医は、別の患者に「(体外受精の成功率は)相沢さんの年齢(38歳)だと30%を切るくらい。それも、40歳を過ぎると10%程度に下がります」と率直に言っています。不妊治療が止められない3つ目の理由は、のめり込むからです。これは、時間が経てば経つほど可能性が低くなるのに、「次こそはできる」「今やめたら後悔する」「可能性があるうちは続けたい」という嗜癖(依存)の心理が根っこにあります。次のページへ >>

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コウノドリ(その1)【なんで不妊治療はやめられないの? その心理的なリスクは?(不妊の心理)】Part 2

不妊治療の心理的なリスクは?不妊治療が止められない原因として、がんばりすぎる(過剰適応)、とらわれる(強迫)、のめり込む(嗜癖)という独特の不妊の心理があることが分かりました。それでは、これらの心理的なリスクは何でしょうか? ここから、そのリスクを、それぞれ考えてみましょう。(1)燃え尽きる-破綻1つ目の過剰適応の心理のリスクは、燃え尽きる、つまりその破綻です。先ほどの四宮のセリフで触れられたように、身体的にも、精神的にも、そして経済的にも疲弊するリスクがあります。また、先ほどの不育症の女性は、鴻鳥に「子どもがほしくて、やっぱりあきらめきれないから、ここに来ているんですけど。でも、妊娠してないってことが分かると、少しほっとする自分がいて。一瞬でもお腹の中に赤ちゃんがいるのが怖くて。(私は)何言ってんですかね」と打ち明けます。これは、本来妊娠が判明することが望ましいはずなのに、流産を繰り返したために、また流産して悲しみに暮れるのを予期してしまうことです。そして、パニック症の予期不安と同じように、「予期悲嘆」が起きてしまい、妊娠を回避しようとする矛盾した心理が沸き起こっています。とくに体外受精の場合、受精卵(胚)ができた段階で心理的に「子どもができた」と認識してしまうため、着床しないことは心理的に「流産した」と受け止めてしまいがちになります。これは、排卵誘発による心身へのストレスと相まって、誕生による希望と喪失による失望を繰り返す感情の「ジェットコースター」に乗り続けていることになります。また、結果的に子どもができなければ、「私だけが置いてけぼり」「私はだめだ」と自尊心が低くなったり、「なんで私だけが?」という怒りや「がんばっていないのに、子どもがいる人はずるい」という恨みに転じてしまう危うさがあります。なお、過剰適応の心理の詳細については、関連記事1をご覧ください。(2)頭が硬くなる-べき思考2つ目の強迫の心理のリスクは、「こうでなければならない」「こうあるべき」と頭が硬くなる、つまりべき思考です。ドラマの妻のように、もはや妊娠以外のことは何も考えられない(考えてはいけないと思い込む)精神状態です。最終的に子どもができなければ、「夫の血をつなげるというお勤めが果たせなかった」「血のつながりがなければ自分たちの子どもではない」と考え、次善の策として養子や里子について検討することが難しくなってしまう危うさがあります。また、子どもをつくるだけのためにセックスをしてきたので、「子どもをつくらないなら、セックスに意味がない」という発想になり、セックスレスになる危うさもあります。セックスとは、本来、単に生殖だけでなく、快楽やコミュニケーションの意味合いも大きいのにです。さらに、もともと、大人になっても将来の夢が「お母さんになること」のままである場合や子どもをつくることが前提で結婚した場合、この心理がさらに強まり、子どもができなければ離婚リスクが高まります。欧米がパートナーとの関係を大事にするカップル文化であるのに対して、日本はもともと親子の関係を大事にする親子文化が根強いため、なおさらです。子どもができたとしても、親アイデンティティが強まることによって、とくに女性は子ども中心の人生の中、「子どもはすくすくと成長しなければならない」「子育てが自分の唯一の幸せである」と思い込んでしまいます。そのため、その後に、母乳、自然食、早期教育、習い事、お受験などの「子育て競争」への思い入れを強め、「毒親」になるリスクがあります。ましてや、子どもの障害が見つかった場合は、親アイデンティティが揺らぐので、「こんなに私はがんばっているのに」「夫の血が悪い」「子どものせいで不幸になった」という発想になる危うさもあるでしょう。なお、「毒親」の心理の詳細については、関連記事2をご覧ください。(3)元を取りたいと思う-負け追い3つ目の嗜癖のリスクは、元を取りたいと思う、つまり、負け追いです。ドラマの43歳の妊婦の発言のように、それまでに費やした労力、時間、そして高額な治療費を無駄にしたくないと思う気持ちが高まります。これは、損を取り返したいと思う点で、ギャンブル依存症にも通じる心理です。ドラマの女性は、10%の「ギャンブルに勝った」から、得るものがありました。しかし、残りの90%の人は「負け続けてどんどん失っている」という点で、この心理の危うさがうかがえます。なお、ギャンブルの心理の詳細については、関連記事3をご覧ください。<< 前のページへ■関連記事Mother(前編)【過剰適応】八日目の蝉【なぜ人を好きになれないの?毒親だったから!?どうすれば良いの?(好きの心理)】「カイジ」と「アカギ」(前編)【ギャンブル依存症とギャンブル脳】

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あなたには帰る家がある(前編)【なんで倦怠期になるの?】Part 2

なんで倦怠期になるの?倦怠期によるリスクは、不倫、母子密着、嫁姑問題であることが分かりました。それでは、なぜ倦怠期になるのでしょうか? ここから、その原因を大きく3つ挙げてみましょう。(1)不安的なコミュニケーションスタイル-愛着スタイル1つ目は、不安的なコミュニケーションスタイルです。コミュニケーションスタイルとは、発達心理学的に言うと、愛着スタイル(ストレンジ・シチュエーション法による)です。ここから、登場人物を3つの愛着スタイルに分類してみましょう。なお、ストレンジ・シチュエーション法とは、乳幼児を親との分離・再会や知らない人(ストレンジャー)との面会という新規な状況(ストレンジ・シチュエーション)にあえてさらして見られる反応を3つのタイプに分類する実験手法です。a. ガミガミ型-不安型真弓は、夫婦関係のストレスに対して過敏に反応し、秀明にたびたび激怒しています。太郎は、先回りして自分の言いなりになることを綾子にしつこく確認しています。このように、夫婦関係で強い側の真弓や太郎はガミガミ言っています。1つ目は、ガミガミ型です。愛着スタイルで言うと、不安型です。これは、乳幼児が、親との分離のあとに泣き出しますが、親と再会しても怒りから泣き止まない反応をすることです。この原因は、親の愛情が気まぐれで一貫していないことが示唆されています。真弓の父親が不倫をしていたことから、母親はその苦労で情緒不安定だったことが描かれています。ちなみに、臨床的には、反応性愛着障害脱抑制型(脱抑制型対人交流障害)につながります。この詳細については、関連記事1をご参照ください。b. ヘコヘコ型-回避型秀明は、激怒する真弓に、顔色を伺ったり、話を逸らしたり、急に作り笑いをして立ち去るなど、向き合おうとしません。綾子は、太郎のモラハラに、笑顔ですべて受け流しています。このように、夫婦関係で弱い側の秀明や真弓はヘコヘコしています。2つ目は、ヘコヘコ型です。愛着スタイルで言うと、回避型です。これは、乳幼児が、親との分離のあとに泣き出さず、親との再会でよそよそしい反応をすることです。この原因は、親の愛情が一貫して乏しいことが示唆されています。綾子の実家は、もともと綾子に対して冷たかったことが描かれています。なお、後半の綾子は、秀明に執拗に迫っていく点で一見不安型にも見えますが、秀明と同棲を始めると、それ以上の距離を縮めようとしなくなる点で、やはり回避型と言えます。ただし、回避型も、根っこの心理は不安です。不安を不安としてそのまま過剰表出するのが不安型であり、不安を抑制しているのが回避型とも言えます。ちなみに、臨床的には、反応性愛着障害抑制型につながります。この詳細については、関連記事2をご参照ください。c. どっしり型-安定型カレー屋の店主の圭介は、真弓の話も秀明の話も親身に聞き、暖かみがあります。離婚歴があるというのは意外ですが、不安型の真弓に思いを寄せていたことが判明した点で、世話焼きの性分(共依存)から前妻が依存的になりすぎて結婚生活がうまくいかなった可能性を想定できます。圭介は、相手をそのまま受け止め、体格と同じく、内面的にもどっしりしています。3つ目は、どっしり型です。愛着スタイルで言うと、安定型です。これは、乳幼児が、親との分離の後に泣き出しますが、親との再会で速やかに泣き止む反応をすることです。この原因は、親の愛情が一貫して注がれていることが示唆されています。以上から、どっしり型が安定したコミュニケーションスタイルであるのに対して、ガミガミ型とヘコヘコ型は不安定なコミュニケーションスタイルであることが分かります。これらの3つのコミュニケーションスタイルの組み合わせによる倦怠期のリスクを表1にまとめてみましょう。たとえば、夫婦の一方がどっしり型の場合は、たとえもう一方がヘコヘコ型やガミガミ型であったとしても、その包容力によって夫婦関係としては概ね安定することが分かります。ヘコヘコ型×ヘコヘコ型の組み合わせの夫婦関係は、夫婦げんかがあまり起きないので、表面的にはうまく行っているように見えます。ただし、お互いに距離が縮まらずに絆自体は深まっていないです。いわゆる仮面夫婦です。ちょうど、同棲していた時の秀明と綾子がそうでした。よって、子どもの不登校やリストラなどの夫婦関係以外のストレスによってリスクが顕在化します。ガミガミ型×ガミガミ型の夫婦関係は、お互いに攻撃し合って疲弊するので、早い段階でリスクが高まるでしょう。(2)男女の脳機能の違い-システム化と共感性2つ目は、男女の脳機能の違いです。太郎は、理屈っぽいです。秀明は、真弓とは話し合いができないから最初から話をしないと割り切る理屈があります。このように、男性は、原因と結果の因果関係である論理(システム)や結果そのものに重きを置く心理があります(システム化)。この心理の詳細については、関連記事3をご参照ください。一方、真弓は、感情に任せて言いたいことを言います。綾子は、感情に従って、しつこく秀明に迫ります。このように、女性は、感情や関係性(プロセス)に重きを置く心理があります(共感性)。この心理の詳細については、関連記事4をご参照ください。このような男女の脳の働きの違いから、男女はなかなか分かり合えないという現実があります。とくに、共感性のとても高い妻が、共感性のとても低い夫に対して、気持ちが通じないためにストレス状態になるのは、ギリシア神話の登場人物にちなんでカサンドラ症候群と呼ばれています。一方で、システム化がとても高い夫が、システム化のとても低い妻に対して、理屈が通じないためにストレス状態になることも同じようにあります。ただし、この状態にはまだとくに名前が付けられていません。よって、この記事では、「逆カサンドラ症候群」と名付けます。ちなみに、名付けがまだされていない理由としては、おそらく、このストレス状態にある多くの夫が、秀明のように理屈が通じないことを理屈で理解してあきらめているため、その不満を妻ほど表立って表出しないからでしょう。この点から、男性に多い不安定な愛着スタイルは回避型であるのに対して、女性に多い不安定な愛着スタイルは不安型であるとも言えるでしょう。(3)男女の社会的な役割の違い-ジェンダーギャップ3つ目は、男女の社会的な役割の違いです(ジェンダーギャップ)。これは、秀明や太郎が外で働き、真弓や綾子が家で家事や育児をしていることです(性別役割分業)。これには、さらに3つのポイントがあります。1つ目は、お互いに関心がなくなることです。たとえば、分業によって、必然的に夫婦が一緒に生活する時間が少なくなります。そして、お互いにやっていることの大変さが見えなくなり、ますます分かり合えなくなります。心理学的には、同じ格好をする、同じ行動をする、同じ考えをすると相手への親近感が高まることが分かっています(同調性)。逆に言えば、別々のことをしていれば、それだけ心が通じ合えなくなるというわけです。もはや夫はATM、妻は家事代行サービス兼ベビーシッターにそれぞれなり下がってしまいます。2つ目は、助け合いを避けるようになることです。たとえば、最初は分業がうまくいっていても、子どもができる(または増える)、夫がリストラされる、親の介護が必要になる、夫婦のどちらかが病気になるなど、結婚生活で状況が変わることはいくらでもありえます。この時、分業にとらわれていると「家事育児をちゃんとしない妻が悪い」「稼ぎがない夫が悪い」「先にルールを破ったあなたが悪い」という心理が働くからです。分業は、結婚生活を維持するための手段であるはずが、目的そのものになってしまい、逆に結婚生活を維持できなくなる危うさがあります。また、分業が長い期間続くことで、ますます夫は家事育児に抵抗を感じるようにもなるからです。これは、専業主婦を長らくやっている妻が再就職に抵抗を感じるのと同じです。3つ目は、上下関係ができやすくなることです。たとえば、「誰のおかげだ?」と言う太郎のセリフのように、稼いでいる側(夫)が稼いでいない側(妻)よりも、偉そうに振る舞い、夫婦の決定権を握ることです。そのわけは、稼いでいない側が経済的に自立していないことで離婚した場合に経済的に困難になるリスクを稼いでいる側が見透かし、その足元を見るようになるからです(モラルハザード)。こうして、「頼れる夫」「尽くす妻」というステレオタイプ、いゆわる「男尊女卑」が揺るぎないものになっていきます。もちろん、この逆パターンもあります。ワーキングママが専業主夫に対して「私が働いてんのよ」といびることです。かかあ天下型は、「頼れる夫」というあるべき形(ステレオタイプ)ではないことへの夫の葛藤があります。一方、亭主関白型は、「尽くす妻」というあるべき形(ステレオタイプ)が行きすぎていることへの妻の葛藤があります。さらには、この「頼れる夫」は、モラルハラスメントのリスクを高めます。これは、妻が言いなりになるため、夫がやりたい放題になることです。たとえば、家計が夫の管理下に置かれ、妻が自由に使えるお金の余裕がないことです。また、妻が家事育児の負担を一方的に強いられ、時間や労力の余裕がなくなることです。このリスクは、とくに、子どもが1人目、2人目、3人目と増えるごとに高まります。つまり、「頼れる夫」によって「尽くす妻」を強いられることです。これは、もはや奴隷と言えるでしょう。なお、モラルハラスメントの心理の詳細については、関連記事5をご参照ください。また、「尽くす妻」は、共依存のリスクを高めます。この心理の詳細については、関連記事6をご参照ください。とくに日本は、ジェンダーギャップ指数において世界121位(2019年)です。世界的にも、夫婦が、お互いに関心がなくなり、分業というルールにとらわれ、上下関係ができやすい文化であることがよく分かります。ひと言で言えば、夫婦の分業は夫婦の分断を招くと言えるでしょう。 ■関連記事1.グッドウィルハンティング【反応性愛着障害】2.八日目の蝉【なぜ人を好きになれないの?毒親だったから!?どうすれば良いの?(好きの心理)】3.「カイジ」と「アカギ」(前編)【ギャンブル依存症とギャンブル脳】4.マザーゲーム(前編)【ママ友付き合い、なんで息苦しいの?(「女心」の二面性)】Part 15.美女と野獣【実はモラハラしていた!? なぜされるの?どうすれば?(従う心理)】6.だめんず・うぉ~か~【共依存】1)夫婦という病:岡田尊司、河出書房文庫、20162)共感する女脳、システム化する男脳:サイモン・バロン=コーエン:、NHK出版、2005<< 前のページへ

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レディ・プレーヤー1【なぜゲームをやめられないの?どうなるの?(ゲーム依存症)】

今回のキーワード多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲームeスポーツ「デジタルドラッグ」「ゲーム脳」「シンデレラ法」「スマホ育児」AI(人工知能)「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)皆さんは、ゲームをしますか? またはお子さんがゲームをしますか? 今や、ゲームと言えば、多人数同時参加型オンラインロールプレイングゲーム(MMORPG)です。これは、インターネット上のサーバーを介して、不特定多数の人が同じゲームの中で、数人のチーム(ギルド)をつくり、冒険、狩り、モンスター退治などをするものです。自分のプレイの分身(アバター)によって、ほかのプレーヤーと文字のやりとりや会話を行うこともできます。さらにこれからは、VR(仮想現実)ゴーグルによる、よりリアルな体験をするゲームが注目されています。最近では、ゲームをeスポーツと呼び、従来のスポーツ大会の種目の1つに入れようとする動きがあります。また、学校の部活動の1つとして、「eスポーツ部」を認めようとする動きもあります。これは、サークルや同好会ではなく、部活動としてゲーム関連の費用を学校が負担することを意味します。どうやらゲームは、今、世の中でますます広がりを見せています。ところで、そのゲームをやめられない、やめさせられないと困っている人はいませんか? または、そのようは相談を受けることはありませんか? なぜゲームをやめられないのでしょうか? やめられないとどうなるのでしょうか? そもそも、なぜゲームは「ある」のでしょうか? そして、どうすれば良いのでしょうか? これらの疑問を解き明かすために、今回は、2018年の映画「レディ・プレーヤー1」を取り上げます。この映画を通して、ゲームをする心理を脳科学的に、そして、その起源を進化心理学的に掘り下げ、ゲーム依存症の理解を深めましょう。そして、私たちの未来の生き方について、一緒に考えていきましょう。なぜゲームをやめられないの?ストーリーの舞台は、未来の西暦2045年。多くの人は、食べる、寝る、トイレに行く以外は、VR(仮想現実)ゴーグルを着けて、オアシスというネット上のVR(仮想現実)の世界で過ごしています。まさに「食う、寝る、遊ぶ」です。まずここから、このVRの世界を現在のゲームと照らし合わせながら、その3つの特徴を整理してみましょう。そして、「なぜゲームをやめられないの?」という問いへの答えを導きましょう。(1)何でもできる -達成感主人公のウェイドは、「今、現実は重くて暗い。みんな逃げ場を求めている」「(一方で)オアシスは、想像が現実になる世界。何でもできる」と言っています。現実の世界は、ゴミだらけで荒廃しており、彼はぱっとしない日常を送ります。一方、オアシスは、色鮮やかで華やかで、魅力的なキャラクターたちが次々と登場し、冒険、戦闘、自動車レースなどが、毎日繰り返されています。ウェイドは、パーシヴァルという名のアバターで、やりたいことをして、毎日生き生きとした時間を過ごしています。1つ目の特徴は、何でもできる、つまり達成感が得られることです。これは、現在のゲームにも通じています。そのからくりは、主に3つあります。1つ目は、時間とお金をかければ必ずうまくいくように作られていることです。お金をかけるとは、課金システムで強い武器などのアイテムを得て、地位を上げることです。2つ目は、繰り返しやればチャンスが増すように作られていることです。たとえば、「連続ログインボーナス」は、毎日必ずログインして一定期間が経つと、ボーナスがもらえる仕組みです。また、「1日1回だけのチャンス」は、1日1回だけ特級アイテムを得る「ガチャ」(抽選)のチャンスがもらえる仕組みです。逆に言えば、1日1回しかチャンスがないので、毎日必ずログインしてチャレンジするよう仕向けられていると言えます(機会損失の回避)。3つ目は、次から次へと新しい課題が出され、飽きないように作られていることです。これは、ゲームの設定が常にアップデートされるためです。つまり、従来のゲームのようなクリア(ゴール)という概念がなく、延々とやり続けることが可能になります。このように、ゲームをやめられなくなるのは、やればやるほど達成感が得られるからです。逆に言えば、現実の世界では、そう簡単に達成感は得られません。そのわけは、ゲームほど何でもできる状況がそもそもあまりないからです。(2)仲間がいる -連帯感オアシスで、パーシヴァル(ウェイド、以下略)は「エイチは、はっきり言って親友だ。現実の世界では会ったことないけど」と言い、エイチと過ごします。やがて、彼は、オアシスの後継者の権利を掛けた宝探しレースをする最中、ランキングで暫定1位になり、オアシスの住人全員から注目を集めて、人気者になります。そして最後に彼は、エイチたちと5人組の仲間となり、オアシスの共同運営者になります。2つ目の特徴は、仲間がいる、つまり連帯感が得られることです。これは、現在のゲームにも通じています。そのからくりは、主に3つあります。1つ目は、自分の居場所があるように作られていることです。これは、毎回プレイ中にチームのメンバーとコミュニケーションをすることで、仲良くなり、信頼され、つながっている感覚が得られることです(所属欲求)。2つ目は、自分の役割があるように作られていることです。これは、チームで協力することで、お互いに必要とされ、勇気や決断力が認められる感覚が得られることです(承認欲求)。3つ目は、自分の目指すものがあるように作られていることです。これは、チームで敵や宝などの分かりやすいターゲットに向かって突き進んで達成していくことです(自己実現欲求)。これは、ゲームの1つ目の特徴である達成感にもつながります。もはや、チームのメンバーは「戦友」で、ターゲットは「戦果」とも言えます。逆に言えば、自分がやめると、チームのメンバーに遅れをとってしまったり、迷惑をかけることになります。このように、ゲームをやめられなくなるのは、やればやるほど連帯感が得られるからです。逆に言えば、現実の世界は、そう簡単に連帯感は得られません。そのわけは、ゲームほど仲間でいることの理由が見いだせないことが多いからです。(3)気楽である -安全感パーシヴァルは、現実のウェイドと違って、ビジュアルが良く、おしゃれで、身体能力も高いです。もちろん、見た目だけでなく声を変える設定もできます。彼は、アルテミスという女性とデートをして、イケイケのダンスもします。彼は、彼女に「現実の世界で会いたい」「君に恋してる」と言うと、「私の顔はこんなんじゃない。がっかりするよ」と言われてしまいます。また、パーシヴァルは、ライバルのソレントと向き合った時、VRゴーグルを一時的に外して、動悸を隠します。また、オアシスでは、死ぬと所持金は0になりますが、リセットすれば生き返るようになっています。3つ目の特徴は、気楽である、つまり安全感です。これは、現在のゲームにも通じています。そのからくりは、主に3つあります。1つ目は、見せたくない自分を見せないように作られていることです。これは、顔などの見た目から相手にされないのではないかという不安がなくなります。2つ目は、見たくない相手やものを見ないように作られていることです。これは、気が合わない相手でもその場にいなければならないという義務感がなくなります。また、音や光などの感覚刺激は、調節したり遮断することができます。3つ目は、いつでも休めたりやり直しができるように作られていることです。これは、失敗すると取り返しが付かないという緊張感がなくなります。このように、ゲームをやめられなくなるのは、安全感が保たれているからです。逆に言えば、現実の世界は、そう簡単に安全感は保たれません。そのわけは、ゲームほど気楽なままで何かを達成する機会はあまりないからです。ゲームをやめられないとどうなるの? ―ゲーム依存症ウェイドと同居する叔母の恋人は、オアシス内の戦闘ゲームでアバターが死んでしまい、「(高性能の武器を使うために)全部つぎ込んだ。勝てるはずだった」と怒り狂います。同じように、ある幼児は、アバターが死んで、泣き叫びます。ある男性は、飛び降り自殺をしようとします。ある母親は、ゲームに夢中になり、家事や育児に手が付かなくなっています。ウェイドは、「みんな、全部オアシスにつぎ込んでるから、全部失ったら(ゲームに負けてアバターが死んだら)、そりゃ正気も失うよね」と説明します。このように、お金や時間などが奪われて日常生活に差し障るほどゲームがやめられなくなる、コントロールができない状態は、通称、ゲーム依存症と言います。精神医学的には、ゲーム障害(ICD-11)、インターネットゲーム障害(DSM-5研究枠)と呼ばれます。また、先ほどご紹介した「ガチャ」(抽選)によってアイテムを得る課金システムは、必ずしも欲しいアイテムが得られるわけではないので、つい「ガチャ」をやりすぎてお金をつぎ込んでしまうというギャンブル依存症の要素もあります。ここから、ゲーム依存症の特徴を3つに分けて、脳科学的に考えてみましょう。そして、「どうなるの?」という問いへの答えを導きましょう。(1)もっとやりたくなる -渇望先ほどご紹介した達成感や連帯感は、脳へのご褒美、つまり報酬です。とくに連帯感は、社会的報酬と言います。これらは、満足感、幸福感、わくわく感、胸のときめき、快感などと自覚され、ドパミンという脳内ホルモン(神経伝達物質)が大きく関わっています(報酬系)。たとえば、栄養価が高いものを食べると、ドパミンが刺激され、美味しいと感じます。それが、もう1回食べようという動機付けになります。まさに、「味を覚える」「味を占める」というわけです。ゲームは、このドパミンがより効率的に分泌し続けるように人工的に作られたものです。分かりやすく言えば、安楽なままで快感がすぐに得られてしまう覚醒剤に似ています。実際の論文では、脳画像検査(PET)によって、ゲームの開始前と50分後での脳内(線条体)のドパミンの放出量が2倍に増えていると報告されています。これは、覚醒剤(0.2mg/kg)の静脈注射に匹敵します。もちろん現実の世界でも、達成感や連帯感からドパミンがこのレベルに増えることはあります。ただし、その頻度はまれで、時間は一瞬からせいぜい数十分です。美味しいものも満腹になればそれ以上食べられません。それに対して、ゲームは、やっている時間すべてです。つまり、ゲームによるドパミン分泌は、そもそも覚醒剤と同じくらい刺激が強くて長続きするものであるということです。もはやゲームは、「デジタル・ドラッグ」とも言えるでしょう。すると、どうなるでしょうか?1つ目の特徴は、ゲームをもっとやりたくなります(渇望)。言い換えれば、脳がゲームの刺激をより欲してしまいます。そのメカニズムは、大きく3つあります。1つ目は、ゲームの刺激に鈍くなることです(耐性)。これは、ちょうど1回目の覚醒剤の摂取が一番快感で、その後に同じ快感を得るために量が増えていくことに似ています。その理由として、ドパミンを使いすぎて足りなくなっていることがあげられます。もう1つの理由としては、慢性的なドパミンの刺激によって、脳内のドパミンの受け皿(受容体)の数が減ってしまうことがあげられます(ダウンレギュレーション)。これは、過剰な刺激で神経細胞が消耗するのを防ぐため、その反応を抑えることでバランスを保つ生体の調節機能が自動的に働くからです(ホメオスタシス)。2つ目は、ゲームをしないといらいらすることです(離脱症状)。これは、ちょうどアルコール依存症の人が断酒後に手が震えて汗が出るなどのいわゆる禁断症状に似ています。その理由として、慢性的な刺激を受けていると、それがバランスのとれた通常の状態(ホメオスタシス)であると脳が誤認識してしまい、逆に刺激がなくなると脳が異常だと誤作動を起こしてしまうからです。3つ目は、ゲーム関連に敏感になることです(プライミング、キュー)。たとえば、それは、ゲームの宣伝を見ることから、パソコンやスマホの画面をただ見ること、そして自室の椅子にただ座ることなどです。これは、ちょうど覚醒剤依存症の人が注射器を見ただけで覚醒剤を打ちたくなったり、アルコール依存症の人がおつまみを見ただけでビールが飲みたくなったり、ギャンブル依存症の人がネオンサインを見ただけパチンコがしたくなることに似ています。その理由として、刺激を受け続けることで脳神経のネットワークが変わり(短絡回路)、頭の中はその報酬がすべてになってしまうからです(投射ニューロン)。言い換えれば、その刺激と結び付いた情報や体験がセットになって脳に記憶として刻まれることで、報酬が予測されやすくなるからです(報酬予測、条件反射)。ひと言で言えば、「ゲーム漬け」「ゲームに溺れる」ということです。逆に言えば、現実の世界の達成感や連帯感は、苦労しても少ししか得られないばかりか、脳がゲームだけでなく現実の生活の刺激にも鈍くなってしまうため、ますますバカらしくてどうでも良くなってしまいます。つまり、報酬系とは、その人の価値観であり、生き方を決めてしまうものです。まさに、ゲーム依存症になると、その人の生き方が変わってしまうと言えるでしょう。(2)頭が働かなくなる -認知機能障害ドパミンが慢性的に出すぎていると、興奮状態になった神経細胞がやがて消耗していき、死んでいきます(変性)。実際の論文では、脳画像検査(MRIのDTIやVBM)によって、ゲーム依存症の人の前頭葉などで、覚醒剤などの薬物依存症と同じように、神経ネットワークの統合性の低下や萎縮が認められていることが報告されています。すると、どうなるでしょうか?2つ目の特徴は、頭が働かなくなります(認知機能障害)。体が酷使されて弱るのと同じように、脳も酷使されて弱っている状態です。たとえば、衝動的でキレやすくなったり(眼窩前頭葉)、相手の気持ちに無関心で冷淡になったり(前帯状回)、無気力で無関心になります(外包)。これは、ちょうど同じくドパミンが慢性的に出すぎていることで引き起こされる統合失調症の陰性症状に似ています。かつて、根拠がないと批判され、「疑似科学」の烙印を押された「ゲーム脳」が、いまや現実の科学として認められたことになります。ウェイドは、「重くて暗い」現実から軽やかでまぶしいオアシスに逃げ場を求めていきました。しかし、実は、彼はオアシスでの強い刺激を受け続けていることで脳が消耗してしまい、現実が「重くて暗い」ようにますます見えてしまっているという解釈もできるでしょう。ここで、皆さんに考えていただきたいことがあります。それは、ゲームが、冒頭でもご紹介したeスポーツとしてスポーツ大会の種目の1つになったり、学校の部活動になるのは良いと言えるでしょうか? 答えは、ノーです。なぜなら、スポーツの理念(スポーツ基本法)の1つが健康になることであるという点で、ゲームは不健康になるリスクがあまりにも高いからです。もちろん、従来のスポーツもトレーニングをしすぎて体を壊すということはありえます。ただし、決定的な違いは、ゲームは刺激性や依存性があることです。そして、それによって「脳を壊す」おそれが著しく高いことです。そのゲームが従来のスポーツと並んでしまうと、あたかも健康的なイメージを子供にも植え付けてしまいます。ゲーム会社のマーケティング戦略に完全に取り込まれているように思われます。やはり、望ましいのは、ゲームは「eスポーツ」とは名乗らないこと、そしてゲームは「ゲーム大会」として従来のスポーツ大会とは区別し、別々に開催されることです。(3)気疲れしやすくなる -ストレス脆弱性先ほどご紹介した安全感が保たれることは、逆に言えば、ストレスフリーの時間が増えることになります。ストレスとは、相手からどう見られるか緊張したり、相手が何を考えているか察知し、状況により我慢するなど、周りの空気を読む意識的な労力です(社会脳)。また、外界で複雑に絡み合ってざわざわと揺らいでいる音や光などの感覚刺激の無意識的な情報処理です(デフォルトモードネットワーク)。すると、どうなるでしょうか?3つ目の特徴は、気疲れしやすくなります(ストレス脆弱性)。体を動かさないで鈍るのと同じように、頭も動かさないで鈍っている状態です。たとえば、人混みが耐えられなくなったり、初対面の相手に極度に緊張したり、雑談ができなくなったり、逆に、言われたことを過剰に気にするようになることです。これは、ちょうど同じく社会的参加のストレスを避けた「社会的ひきこもり」の精神状態に似ています。ウェイドは、オアシスで、アルテミスとイケイケのダンスをして体を密着させていたのに、現実の世界で会った時はキスするのをためらっていました。これは、もともと彼が奥手であったということに加えて、生身の人間と触れ合うことに緊張しやすくなっていたという解釈もできるでしょう。ゲーム依存症になりやすい人は? ―リスクそれでは、ゲーム依存症になりやすいのは、どんな人でしょうか? そういう人を特徴と状況に分けて、ゲーム依存症のリスクを考えてみましょう。(1)特徴特徴、つまり個人因子としては、主に2つあげられます。a.探究心が強いウェイドは、宝探しのヒントが、オアシスの開発者の言動にあるとひらめき、オアシスの博物館に何度も通い、探し求めます。1つ目の特徴は、探究心が強いことです(新奇性探求)。それを、ゲームが達成感として手軽に満たしてくれます。これは、ADHDとの関連が強いです。その特性としては、興味のあることに飛び付きます(衝動性)。一か八かの勝負事が好きで、スリルと興奮を追い求めます(衝動性)。ひらめきなどの発想の転換が早く、アイデアマンの素質もあります(多動性)。また、ADHDの気の早さ(衝動性)や気の多さ(多動性)と同時に見られる気の散りやすさ(不注意)が、ゲームをすることで改善し、一時的に注意力や集中力が高まることです。そもそもADHDは前頭葉のドパミンの働きが弱いです。そのため、ゲームをすることは、ADHD治療薬と同じようにドパミンの働きを活性化させます。ゲームが、あたかもADHDの自己治癒行動になっています。b.内気であるオアシスの開発者のハリデーは、「オアシスをつくったのは、現実世界はどうにも居心地が悪かったからなんだ」「周りの人たちと、どうつながっていいか分からなかった」「ずうっとびくびくしながら生きてきた」と言っています。現実のハリデーがおどおどしている一方で、オアシスでのアノラック(ハリデーのアバター名)は、堂々として威厳があります。2つ目の特徴は、内気であることです(回避性)。それを、ゲームが安心感として満たしてくれます。これは、社交不安、回避性パーソナリティ、そして自閉症スペクトラムとの関連が強いです。とくに自閉症スペクトラムの特性は、周りの空気を読むのが苦手であることです(社会的コミュニケーションの低さ)。これが、ゲームの中では目立たなくなります。そのわけは、コミュニケーションの目的や手段は、現実の世界では曖昧で複雑である一方、ゲームの中では明確で単純だからです。また、興味のあることには、のめり込みます(こだわり、過集中)。特性であるこだわりが生かされているとも言えます。さらに、自閉症スペクトラムの別のこだわりである音や光、肌触りへの敏感さ(感覚過敏)が、ゲームの環境では、調節・遮断することができるため、快適になることです。(2)状況状況、つまり環境因子としては、主に2つあげられます。a.居場所がないウェイドの両親は早くに病死しているため、ウェイドは叔母さんとその恋人の家に居候し、とても肩身の狭い思いをしています。1つ目の状況は、居場所がないことです(自尊心の低さ)。それを、ゲームが連帯感として満たしてくれます。これは、反応性愛着障害や境界性パーソナリティとの関連が強いです。自分を大切にしてくれるつながり(愛着対象)がないため、それを極度に欲してしまいます。また、自尊心の低さは、社交不安や回避性パーソナリティの根っこにもなっています。b.ストレスがたまっているウェイドは、叔母の恋人から暴力を振るわれ、叔母さんからは「あんたも出ていきな」と言われ、家出してから3日間、ゲーム漬けになっています。2つ目の状況は、ストレスがたまっていることです(ストレス負荷)。それを、ゲームが達成感、連帯感、安心感のある逃げ場として満たしてくれます。これは、適応障害やPTSDなどのストレス障害との関連が強いです。最近の研究では、トラウマなどのストレス体験を脳に記憶させることをある程度阻害するために、その体験から6時間以内にコンピューターゲームのテトリスをやり続ける予防策が提唱されています。まさにストレス解消法です。ゲームが、あたかもストレス障害の予防行動になっています。なぜゲームは「ある」の?そもそも、なぜゲームは「ある」のでしょうか? ここから、ゲームの起源を進化心理学的に考えてみましょう。そして、ゲームの三大要素に重ねてみましょう。(1)コミュニケーションをするため -相手約2億年前に哺乳類が誕生し、生まれてからより多くの記憶を学習する脳を進化させました。たとえば、ネズミは、相手のネズミと上になったり下になったりするじゃれ合いをします(プレイ・ファイティング)。また、犬は、相手の犬に頭を下げてお尻を上げて尻尾を振るあいさつ遊びをします(プレイ・バウ)。それらは、人間の1歳児から好まれる、体が触れ合うじゃれ合いや「グーチョキパーでなにつくろう」「てをたたきましょう」などの手遊びに通じます。ゲームの起源の1つ目は、コミュニケーションです。相手との相互作用によって、身体感覚を発達させ、あいさつをはじめとするコミュニケーションを学習するようになったと考えられます。ゲームの三大要素の1つに重ね合わせると、コミュニケーションとして相手がいることです。相手とは、ゲームでいう対戦相手、競争相手、つまり敵に当たります。さらには、チームメイト、協力関係の相手、つまり味方も当てはまります。(2)トレーニングをするため -ルール約700万年前に人類が誕生し、約300~400万年前に相手の気持ちをくむ脳を進化させました(社会脳)。それは、2歳児から好まれる「おままごと」などのふり遊び、見立て遊び、ごっこ遊びに当たります。そして、約10~20万年前に喉の構造を進化させ、言葉を話すようになり、抽象的な思考ができるようになりました。それは、現代の4歳児から好まれる「鬼ごっこ」「カード遊び」などのルール遊びに通じます。ゲームの起源の2つ目は、トレーニングです。ルール遊びを理解することを通して、社会生活のルールの学習をトレーニングとして積み重ねるようになったと考えられます。ゲームの三大要素の1つに重ね合わせると、トレーニングとしてルールがあることです。ルールとは、ゲームでいう武器を揃えることや戦略に当たります。(3)シミュレーションをするため -勝ち負け約1万数千年前に農業革命が起こり、人間は、食料という富を蓄積し、定住するようになりました。すると、部族同士の縄張り争いや略奪、つまり戦争が頻発するようになりました。また、食料の取り置きが可能になったため、時間の余裕ができるようになりました。その暇つぶしや娯楽として、戦いのまねごと、シミュレーションをするようになったでしょう。それは、現代の大人からも好まれるスポーツなどの競技に通じます。ゲームの起源の3つ目は、シミュレーションです。競技で勝ち負けの結果を重視することを通して、実際の社会生活をうまく切り抜けるシミュレーションの能力を発達させるようになったと考えられます。ゲームの三大要素の1つに重ね合わせると、シミュレーションとして勝ち負けがあることです。勝ち負けとは、ゲームでいう得点、生死、結果に当たります。このように、ゲームが「ある」のは、コミュニケーション、トレーニング、そしてシミュレーションをして、生存や生殖に有利になる手段として発達したからと言えます。人類は、「ホモサピエンス」(賢い人)と呼ばれますが、それだけでなく、「ホモ・ルーデンス」(遊ぶ人)とも呼ばれています。これは、遊びという現実から離れた想像力を持つ人類という意味です。ただし、その想像力の賜物(たまもの)であるゲームが、これからの技術革新によって、生活を支える手段を超えて、生活(人生)のすべて、つまり目的そのものになってしまう時代に来ています。どうすれば良いの?それでは、そんな生活と結び付きを強めるゲームの特徴を踏まえて、ゲーム依存症にどうすれば良いのでしょうか? その対策を主に3つ挙げてみましょう。(1)オフラインの時間を設ける ―ゲームの制限ウェイドは、オアシスの運営者となり、新しい取り組みを進めます。彼は、「3つ目の変更はいまいちウケなかったけど、火曜日と木曜日はオアシスを休みにしたんだ。」「人には現実で過ごす時間も必要だよ」と言っています。1つ目の対策は、オフラインの時間を設ける、つまりゲームの制限です。たとえば、韓国では、オンラインゲームをするためのIDが必要で、ユーザーが16歳未満の場合は、0時から6時までオフラインになるシャットダウン制が設けられています(「シンデレラ法」)。個人だけでなく、家族や社会としての取り組みも重要になるでしょう。たとえば、家族全員でオフラインにする時間帯を設定するなど家族の一体感も利用できます。また、オフラインによる制限の程度は、アルコール依存症や薬物依存症などの物質の依存症と、過食嘔吐(摂食障害)や抜毛症や自傷行為(境界性パーソナリティ)などの行動の依存症の中間であると考えることができます。もちろん、ゲームをアルコールや薬物のように完全に断つ制限ができれば一番良いです。たとえば、それは、ゲームのメインアカウントを消去すること、刺激(キュー)となる通知も来ないようにすることです。しかし、ゲームは、デジタル機器との結び付きが強く、食べること、毛を抜くこと、リストカットをすることと同じくらい身近に溢れ手軽にできてしまう行動です。そのため、まず日常生活に差し障らない上限のお金や時間を決めて制限するのが現実的でしょう(ハームリダクション)。(2)現実の世界で社会生活をする ―「リアル」な体験ウェイドは、現実の世界で、サマンサ(アルテミスの実名)に「ここってゆっくりだね。風も人も」と言います。サマンサの住まいは自然の緑に囲まれており、オアシスの無機的な世界とのギャップに気付かされ、見ている私たちもほっとします。ラストシーンで、オアシスの開発者のハリデーはウェイドに「ようやく分かったんだよ。確かに現実はつらいし、苦しいし」「でも、唯一、現実の世界でしか、うまい飯は食えないってな。なぜなら、現実だけがリアルだから」と言っています。2つ目の対策は、現実の世界で社会生活をする、つまり「リアル」な体験です。つまり、ただゲームをしなければ良いというわけではなく、もともと人間に必要な社会生活を十分にすることです。なぜなら、私たちの脳は、原始の時代から大きく変わってはいないからです。そのために、ゲーム以外の、たとえば、相手に直接会ったり、スポーツをするなど、ゲームの代わりになる達成感や連帯感をあえて見いだし、安心感のない適度なストレスをあえて味わうことです。(3)子供に予防する ー低年齢化の予防ハリデーの子供時代、テレビゲームばかりしている様子が当たり前のように映し出されます。3つ目は、子供に予防する、つまり低年齢化の予防です。たとえば、使用時間帯と使用時間制限を書面にするなど、親子でルール作りをする取り組みです(ペアレンタル・コントロール)。フィルタリング機能やタイマー機能を駆使することもできます。同時に、先ほど触れたように、ほかの「リアル」な体験を一緒にすることです。学校や病院などの理解者、第三者を介入させるのも一案です。子供の予防対策が重要な理由は、ゲームの開始年齢が早いほど、ゲーム依存症の発症リスクが上がることが分かっているからです。子供の脳は、大人よりも刺激に敏感で、影響を受けやすいです(可塑性)。そして、影響を受けたら、大人よりも回復しにくいです。だからこそ、より刺激(嗜癖性)の強い、アルコールとタバコは20歳から、パチンコやポルノは18歳からと法律的に制限されています。ちなみに、スマートフォンのアプリでぐずる乳児をあやす、いわゆる「スマホ育児」は、どうでしょうか? とても危ういです。なぜなら、乳児には刺激が強すぎるからです。実際に、日本小児科医会からは「スマホに子守りをさせないで!」というポスターが出され、問題の提言がされています。現時点で、子供へのスマートフォンは制限されていないので、実質0歳から見せることができます。タバコは、麻薬へのゲートウェイ・ドラッグと言われます。「スマホ育児」は、ゲーム依存症への「ゲートウェイ・デジタルドラッグ」と言えるかもしれないです。よって、子供に早くからその「味」を覚えさせない取り組みが重要になります。そういう意味では、今後の社会的な取り組みとしては、刺激の強いゲームの宣伝を規制することになるでしょう。これは、ゲーム依存症の特徴でも触れたように、子供をなるべくゲームの刺激にさらさないことです。海外で映画の喫煙シーンがR指定になっているように、手がかり刺激(キュー)への反応性を高めなくするためです。私達の未来の生き方は? ―「幻」か「リアル」かパーシヴァルが「オアシスでは、結婚もできるし、離婚もできる」と説明するシーンがあります。その後、「オアシスで現実の世界で見つけられないものをやっと見つけた。生きがいとか。友達とか。愛も見つけた」とオアシスの住人に高らかに語るシーンもあります。彼はオアシスで大まじめで苦労もしています。自分は頼りにされていると実感もしています。オアシスで生きることが、人生そのものになっています。ストーリーの中では、現実の世界とうまくつながり、ハッピーエンドになりました。しかし、もしその達成感や連帯感、そして苦労さえもが、AI(人口知能)によって本人に都合良く作られたものだったらどうでしょうか?その答えに近いことをアルテミス(サマンサ)が答えています。彼女は、パーシヴァルに「あんたが見てるのは、私が見せたいと思ってる私」「私の夢に恋してるの」「あんたはリアルの世界に生きてない」「あんたが生きてるのは幻の中」と言い放っています。サマンサの父親は、課金による借金で強制労働をさせられて、現実の世界で死んでいました。彼女は、その敵討ちのためにオアシスの宝探しレースに参加していたのでした。彼女は、実は駆け引きに長けた現実主義者なのでした。ゲームと現実の世界の決定的な違いは、「幻」か「リアル」かです。「リアル」とは、単に食べ物が美味しい、セックスが気持ち良いだけでなく、仕事や人間関係がうまくいかないで逃げ出したくなる生々しい苦しさや葛藤も含まれます。そして、その「リアル」な苦労があるからこそ、些細な喜びにも意味を見いだせます。そして、苦労するからこその「リアル」な人間的成長があります。たとえば、山頂まで自分で登るのと、VRゴーグルを着けて空を飛んで登った気分になるのとでは、山頂に立つ喜びの「味」やそれを感じる「舌」の感度がまったく変わってくるということです。現在のゲームでも、時間とお金をかければ、自分に都合の良い理想の親友、パートナー、そして子供をつくることができます。それは、ユーザーが満足することを最優先にした「友情ごっこ」「恋愛ごっこ」「子育てごっこ」というコンテンツです。そこに、「リアル」な苦労はありません。その「幻」をどこまで生活(人生)の一部にするかです。つまり、「幻」をどこまで「リアル」の代わりとして望むかということです。私たちの未来の生き方が問われてきます。その生き方を見極めるために、3つの価値観を考えてみましょう。(1)「こうでなければならない」1つ目は、「こうでなければならない」という価値観です。これは、これまでの社会の価値観です。その社会構造としては、貧富の格差がありました。これは、約1万数千年前の農業革命によって生まれ、200年前の産業革命によって広がりました。その社会を生き残る個人の価値観としても、たとえば「親や先生の言うことを聞かなければならない」「友達と仲良くしなければならない」「勉強しなければならない」「仕事をしなければならない」「出世しなければならない」「結婚して子供を生まなければならない」「子育てをしなければならない」「子供を良い学校に行かせなければならない」「親の介護をしなければならない」という義務感がありました。そこには、親をはじめとする社会の同調圧力が個人に対して機能していました。同時に、その価値観に従ってさえいればうまくいくので、個人としても、あまり深く考えなくても良かったのでした。良く言えば、受け身で生きていれば良かった時代でした。(2)「どうであっても良い」ところが、時代が変わりつつあります。20世紀後半の情報革命により、社会よりも個人に重きがますます置かれるようになりました。「かけがえのない自分」「特別な存在」という自意識を根っこに、忍耐や自己犠牲よりも、個性や自己実現が尊ばれるようになりました。このような多様化した社会では、もはや「こうでなければならない」という価値観は通じにくくなります。そして、AI(人口知能)の登場です。貧富の格差を生み出す「面倒な仕事」がすべてAI化されたら、社会はどうなるでしょうか?2つ目は、「どうであっても良い」という価値観です。これは、これからの社会の価値観になるでしょう。2040年頃に「シンギュラリティ(技術的特異点)」というAIが人間の知能を超える転換点を迎えると言われています。その頃には、「生活革命」が起きるでしょう。それは、人間が何もしなくても生活(人生)が送れることです。ストーリーの設定である2045年のオアシスのように、「食う、寝る、遊ぶ(VRの世界で過ごす)」という生活が現実になるでしょう。この点で、現代の「ひきこもり」は、未来の生活を先駆けていると言えるかもしれません。彼らがますます増えているのも、彼らこそが時代の最先端だからとも言えるかもしれません。(3)「こうありたい」ただし、果たしてその生活は自分が望んでいるものでしょうか? 仕事をしないで遊んで暮らせているから、得しているようにも見えます。しかし、実はその分、何かを失って損しているかもしれないです。その生活は、安楽かもしれませんが、退屈で楽しくないかもしれません。なぜなら、やはり「リアル」な苦労をしていないからです。たとえば、それは、「友達とけんかする」「第一志望の学校に落ちる」「がんばっても仕事がうまく行かない」「交際相手から振られる」「夫婦喧嘩をする」「子供の夜泣きで眠れない」「子供が反抗期になる」「親が認知症になる」などの生々しい人生経験です。これらの「リアル」な苦労をしてこそ得られる人間的成長やそれを乗り越えた時の喜びがあります。なぜなら、先ほどにも触れましたか、私たちの脳は、ほとんど原始の時代のままだからです。原始の時代の環境と同じく、苦労することもセットであってこそ脳は恒常性(ホメオスタシス)を保つからです。ちょうど飽食の現代だからと言って食べ過ぎたりお酒を飲み過ぎたりすると、また便利な時代だからと言って運動不足になると不健康になるのと同じです。AIの時代だからと言って、ストレスフリー、つまり「ストレス不足」になると、不健康になるとも言えるでしょう。それでは、ストレスフルながらも人間的成長やその喜びを得るための価値観とは何でしょうか?3つ目は、「こうありたい」という価値観です。たとえば、けんかしながらも相手の気持ちに思いをはせることで、相手のことをより深く理解できるようになります。雑務を含め自分が最初から最後までかかわった仕事だからこそ思い入れや、やりがいを感じます。腹を立てながらも粘り強く子供の面倒を見ることで子供への愛情が深まり、そして子供からの愛着も深まります。逆に言えば、AIを相手にしていたら、「リアル」なコミュ力は高まりません。AIに仕事を任せたら、仕事をこなす能力も思い入れも高まりません。AIに子育てを任せたら、子供が懐くのはAIであり、自分ではなくなるかもしれません。つまり、自分が納得して「こうありたい」と主体的に思う気持ちが重要になっていきます。そして、その程度は、人それぞれになっていくでしょう。それは、未来の社会構造を大きく揺るがす、文化の較差と言えます。進化心理学的に言えば、受け身なままで安楽に生きれば、遺伝子(ジーン)も文化(ミーム)も残せません。残す人が、その先の未来をつくります。つまり、何をしたいか、何を与えたいか、そして何を残したいかは自分次第であることをますます問われる時代になってきました。そして、どういう自分になりたいか、どういう生き方を子供(次の世代)に伝えたいか、そしてどういう社会をつくっていきたいかを考えさせられます。「レディプレーヤー1」とは?「レディプレーヤー1」とは、初期のテレビゲームの最初に表示される「プレーヤー1、準備を」という意味です。原作者の思い入れからタイトルとされました。これを先ほどの3つの生き方に重ね合わせると、かつて人生はプレーヤーの1人としてクリアすべきという価値観がありました。つまり、人生は苦労しなければならないという考え方です。今や、人生はプレーヤー1(主役)として好きに生きていける価値観が広がりつつあります。これは、人生は苦労しなくても良いという考え方です。そして、その先は、「リアル」な人生のプレーヤー1(主役)としての「レディ」(心構え)をより意識する価値観が生き残ると言えるでしょう。つまり、人生は苦労したいという考え方です。この映画から、「リアル」な人生という苦労する「ゲーム」を通して、今、その瞬間の苦労をあえて買って出る、その苦労に意味付けをすることの大切さに気付くことができるのではないでしょうか? そして、「幻」への受け身ではなく、「リアル」への働きかけの大切さをより学ぶことができるのではないでしょうか?■関連記事(外部サイト含む)2019年サンプルスライド「嗜癖性障害」「カイジ」と「アカギ」(前編)【ギャンブル依存症とギャンブル脳】酔いがさめたら、うちに帰ろう。(前編)【アルコール依存症】酔いがさめたら、うちに帰ろう。(後編)【アルコール依存症】だめんず・うぉ~か~【共依存】1)スマホゲーム依存症:樋口進、内外出版社、20182)インターネット・ゲーム依存症:岡田尊司、文春新書、20153)進化発達心理学―ヒトの本性の起源:D.F.ビョークランドほか、新曜社、2008

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もう見過ごせない小児虐待

 昨年における児童虐待事件は、過去最多の1,380件が警察により摘発され、被害児童は1,394人だった。そのうち36人が亡くなっており、痛ましい事件は後を絶たない。 2019年3月都内にて、加茂 登志子氏(若松町こころとひふのクリニック メンタルケア科 PCIT研修センター長)が、「虐待について」をテーマに講演を行った。専門医でなくとも、診療を受けている患者が虐待やDVなどの問題を抱えている可能性があるかもしれない。虐待は年々増えている 児童虐待件数は、1990年に統計が開始されて以降、年々増加の一途をたどっている。2017年度中に、全国210ヵ所の児童相談所が対応した件数は13万3,778件(速報値)と過去最多であった。警察の積極的介入などにより発覚件数が増えているとも考えられるが、「おそらく、全体の件数も増えているだろう」と加茂氏は見解を示した。 虐待による死亡数は0歳児が最も多く、2003~2016年度の集計では3歳児以下が77.0%を占めている。同氏は「産後うつをイメージするとわかりやすい。母子心中が日本人では多い」と指摘した。しかし、0~17歳まで、全年齢で死亡事例があり、問題はそれだけではないという。 2017年度の報告によると、児童相談所に寄せられる相談のなかで1番多いのは心理的虐待(54.0%)だ。次いで、身体的虐待(24.8%)、ネグレクト(20.0%)、性的虐待(1.2%)と続く。両親間のDV目撃(面前DV)なども心理的虐待に含まれ、DVと虐待が併存する例も少なくない。「大きく報道されるのは亡くなった事例だが、生きていて虐待やDVを受けている事例はニュースにならない。辛い思いをしている子供はたくさんいる」と、関心を呼び起こした。適切な対応で将来的な虐待を減らす 虐待・DV被害を受けた子供の診断例(DSM-5)として、「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」、誰に対しても愛着を示さない「反応性愛着障害」、誰にでも見境なく愛着行動を示す「脱抑制型対人交流障害」などがある。また、ICD-11においてPTSDは従来のものだけでなく“複雑性”が採用される見込みで、DVや虐待などによる長期反復型のトラウマは「複雑性PTSD」の症状を呈する可能性が高い。 治療は、国際的にEBP(evidence-based practice)の導入が主流であり、トラウマフォーカスト認知行動療法(TF-CBT)、家族のための代替案:認知行動療法(AF-CBT)、親子相互交流療法(PCIT)などが行われている。 被害児童にとって1番重要なことは“被害の場から離れる”ことで、さらに、安全・安心・安眠の確保と、安定した養育環境が必須だという。回復と成長には非専門家による心身のケアが必要であり、適切な対応は、虐待の世代間連鎖をブロックし、将来的な虐待の予防につながるため、社会的なサポートの充実が求められる。普段の診療時、疑わしい患者を見過ごさないこと 米国で行われた逆境的児童期体験(ACE)研究によると、18歳までに受けた虐待などの逆境体験は、精神疾患ばかりでなく、知的発達や学習能力へも影響し、体験数に比例して慢性身体疾患のリスクを高めることが明らかになっている。 同氏は「専門医でなくても、虐待やDVに関与する患者を診る機会は意外とあると思う。とくに、はっきりとした理由なく向精神薬を繰り返しもらいに来る女性患者には注意が必要。こちらから聞くと、答えてくれることもある。そういう人たちを見過ごさないようにすることも大切」と語った。

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八日目の蝉【なぜ人を好きになれないの?毒親だったから!?どうすれば良いの?(好きの心理)】

今回のキーワード反応性愛着障害毒親条件付きの愛情自分が許す子育て心理希望皆さんの中で、人を好きになれないと悩んでいる人はいませんか? なぜ好きになれないのでしょうか?逆に、なぜ好きになるのでしょうか? 人を好きになるにはどうすれば良いでしょうか? そもそもなぜ好きという気持ちは「ある」のでしょうか?これらの疑問を解き明かすために、今回は、映画「八日目の蝉」を取り上げます。この映画を通して、反応性愛着障害の理解を深め、好きの心理を進化心理学的に掘り下げ、いわゆる「毒親」を分析します。そして、より良い子育て心理、そしてより良いコミュニケーションを一緒に考えていきましょう。人を好きになれないとは?主人公は恵里菜。彼女は、生後6ヵ月で父親の元不倫相手に誘拐され、4年間、その女性に育てられていたのでした。そして、4歳の時、その女性は捕まり、もとの両親宅に戻ったのでした。しかし、21歳の大学生になっても、彼女は、人を好きになれません。ここから、彼女の心理を3つ探ってみましょう。(1)自分はだめだ -自己否定感恵里菜は「うちの家族は壊れちゃってた」「お父さんは誘拐犯の愛人として仕事を転々として、お酒ばっか飲んで」「お母さんも疲れちゃったんだと思うよ。ずっとパートに行って、全然うちにいなくなった。ご飯はいつもスーパーのお総菜と焼いてないパン」「嫌だったけどそういうものかなと思ってた」と語っています。彼女は、クリスマスなどの楽しい家族のイベントを経験しないで育っていたのでした。ところが、小学2年生の時に友達のお誕生日会で、その子の赤ちゃんからの成長ビデオを見せつけられ、その愛され方の違いにショックを受けるのでした。1つ目の心理は、自分はだめだと思うことです(自己否定感)。自分は大切にされていないと認識することで、自分自身を大切にしなくなり、自分には価値がないと思うようになることです。そこから、自分は頑張ってもどうせうまくいかないと思い込むようになります。(2)心を閉ざす -不信感恵里菜は、アルバイト仲間から飲み会に誘われても、無愛想に断ります。実は幼なじみだった千草が、恵里菜に近付いてきますが、なかなか心を開きません。大学の食堂では、いつも1人で食べています。その理由を千草に聞かれ、「楽だから」と答えています。また、恵里菜は妻子ある岸田に言い寄られて流されるままに交際を続けます。そして、彼に「私、よく分からないんだ。好きになるって、どういうこと?」「好きでいるのやめるってどういうこと?」と尋ねます。彼女は、信頼関係の築き方がよく分からず、近づくことも離れることもできないのでした。2つ目の心理は、心を閉ざすことです(不信感)。自分は大切にされてこなかったので、相手をどう大切にしていいのかよく分からないのでした。人を好きになることも、人から好かれることもあきらめてしまい、心を閉ざしているのでした(反応性愛着障害)。そして、自己否定感と不信感が相まって、人間関係を避けがちにもなっているのでした(回避性パーソナリティ)。(3)自分が悪い -罪悪感恵里菜は「母親も困っていたんじゃないかな」「私が近くにいると事件のことを思い出すみたいで」と言うと、千草から「困るって。なんで? あんたは何も悪くないじゃん」と言われます。その後に「そんなふうに言ってくれる人、今まで誰もいなかった」「岸田さんしかいなかった」「私、嫌だったからさ。母親が泣いたり怒鳴ったりするの、全部自分のせいだと思ってた」と打ち明けます。これが、岸田に心を許した理由でした。しかし、彼女は、岸田の子を妊娠しても、その事実を岸田に告げません。3つ目の心理は、自分が悪いと思うことです(罪悪感)。自分には価値がないので、自己主張ができません。結果的に、何事も人のせいにせず、自分のせいにして、抱え込むのです。なぜ人を好きになれないの?恵里菜が人を好きになれないのは、自分はだめで、心を閉ざし、自分が悪いと思っているからということが分かりました。それでは、なぜそうなったのでしょうか? 4歳以降の恵里菜を育てた実の母親の恵津子の心が鍵になります。 ここから、彼女の心理を3つ探ってみましょう。(1)揺れやすい ―情緒不安定恵津子は、幼い恵里菜の寝かしつけの時、「日記には本当のことを書きなさい」と絵本の読み聞かせを満面の笑顔でしています。その後に、恵里菜から「お星様の歌を歌って」と言われて歌い出しますが、歌が違うと繰り返し言われてしまいます。すると、恵津子は堪えられなくなり、突然「なんでなの?」と鬼の形相で叫び、泣き崩れます。最後は、恵里菜が「お母さん、ごめんなさい」と連呼するのです。このワンシーンだけを切り取れば、もはやホラー映画です。1つ目の心理は、心が揺れやすいことです(情緒不安定)。子どもの恵里菜としては、正直に言いなさいと言われて、そう言ったら、怒鳴られたわけです。これは、親の言っていることとやっていることが矛盾しており(ダブルバインド)、子どもを混乱させ、怯えさせます(心理的虐待)。親を求めて近付いていったら、逆に離れていったわけです。すると、子どもとしてみれば、逆説的ですが、親を求めて近付こうとすることをあえて最小限に抑える、つまり心を閉ざすことで、親との距離をある一定範囲内にとどめておこうとします。これは、何かあった時に逃げ込むべきところであるはずの親自身が、子どもに恐怖を与える張本人でもあるという逆説的で極限的な状況です。例えるなら、親は、もはや守ってくれる安心で安全な基地ではなく、逃れられない恐怖で危険な檻(おり)になっています。これが、恵里菜の自己否定感や不信感を生み出しました。同時に、この恐怖心を植え付けることは、結果的に親が子どもを従わせる無意識の心理戦略になっています(操作性)。(2)独りよがり ―条件付きの愛情恵津子は、戻ってきた4歳の恵里菜がなついてくれず、戸惑います。幼い恵里菜が家出をした時、交番で恵津子は「こんなに心配かけて。どんだけ悪い子なの?」「そんなに、うちが嫌いか?」「そんな悪い子はうちの子じゃないよ」と脅して、突き放します。父親が「いいよ。この子、怖がってる」と止めようとしているのにです。そもそも、恵里菜はその家が嫌だから家出をしたのに、追いかけてきたあげくに「うちの子じゃない」と言われると、混乱してしまいます。また、恵津子は、恵里菜が「そやなくて」「あんな」などの方言を使うと、毎回「それじゃなくて」「あのね」などとすかさず言い直して、直させています。さらに、大人になった恵里菜が、妊娠4ヵ月であることを恵津子に打ち明けた時、恵津子は即座に「堕ろしなさい。今すぐ一緒に病院に行ってあげる」「そんな子ども育てられるはずないでしょ」「父親もいないのに」と感情的に答えます。「ちゃんと恵里菜の話を聞こう」という父親の言葉かけには耳を傾けません。そして、「私だってね、ちゃんとふつうの母親になりたかったのよ」「恵里菜ちゃんのことをふつうに育てたかったの」と打ちひしがれます。2つ目の心理は、独りよがりで押し付けがましいことです(条件付きの愛情)。恵津子は、自分が生後4年間育てていない分、なおさら自分は母親らしくあるべきだ、恵里菜は早く自分の子どもらしくなるべきだというプレッシャーがありました。このプレッシャーは自分を追い詰めると同時に、子どもも追い詰めています。子どもの恵里菜としては、言うことを聞かなければ見捨てられると思い込みます。本来、親の愛情は、どんな時もどんなにしていても大切にされ守ってくれる無条件であるはずです。しかし、言うことを聞かない、「ふつう」ではないと急に見捨てられるという条件付きになっています。これは、恵里菜の罪悪感を生み出しました。同時に、この罪悪感を植え付けることも、結果的に親が子どもを従わせる無意識の心理戦略になっています(操作性)。(3)ひがみっぽい ―被害者感情恵津子は、恵里菜に「親だって思ってないくせに。私のこと、苦しめたいんでしょ」「私が親じゃなかったら、こんな目に遭わなかったのにって思ってるんでしょ」と言い放ちます。そして、包丁を恵里菜に向けて、「私が恵里菜ちゃんを大切かどうやって分かってくれるの!?」と迫ります。もはや脅迫です。最後には、「どうすればいいの? 恵里菜ちゃんに好かれたいの」と泣きじゃくります。恵里菜は、「お母さん、ごめんなさい」とまた謝ります。そして、哀れで気の毒になり、母親の手を握り、抱きしめます。もはや、どちらが母親か分からなくなります。3つ目の心理は、ひがみっぽいことです(被害者感情)。相手の話を聞かず、こんなにしているのにあなたは分かってくれない、ひどいことをするという一方的な自分の視点しかありません。子どもを愛することよりも、子どもから愛されることが第一になっています。また、恵津子は恵里菜に「(誘拐犯は)世界一、悪い女」と吹き込みます。そして、物事がうまくいかないのは「すべてあの女のせいだ」という被害者感情にとらわれ、すり替えられ、自分の問題点や改善点に目を向けられなくなっています。これが、恵里菜の罪悪感や同情を生み出しました。同時に、この同情を植え付けることも、結果的に親が子どもを従わせる無意識の心理戦略になっています(操作性)。ちなみに、恵里菜は、大学進学を機に、母親の強い反対を押し切って、一人暮らしを始めます。また、妊娠報告の際には、相手を「お父さんみたいな人」「家庭があって父親にはなってくれない人」と説明します。誘拐犯になった父親の不倫相手は、かつて父親の子を妊娠しますが、中絶して、子どもが産めない体になっていました。その不倫相手に自分を重ねた、とても挑発的な言い回しです。恵里菜には、支配的な母親に対しての抵抗や復讐心もあるようです。なぜ人を好きになるの?恵里菜が人を好きになれなくなったのは、実の母親の恵津子が揺れやすく、独りよがりで、ひがみっぽいからであることが分かりました。それでは、逆に、なぜ人を好きになるのでしょうか? 4歳以前の恵里菜を誘拐して育てた父親の不倫相手の希和子の心が鍵になります。ここから、彼女の心理を3つ探ってみましょう。(1)とにかく守りたい ―信頼感希和子は、赤ちゃんを見れば不倫をあきらめられると思い、赤ちゃんだけの留守の家に忍び込みました。後の裁判で「あの笑顔に慰められた」「この子を守る」「この子は許してくれている、そう思いました」と語っているように、衝動的に恵里菜を誘拐しました。そして、恵里菜に「薫」という中絶しなければ本来生まれるはずだった子どもの名前を新しく付けます。希和子は、薫(恵里菜、以下略)とともに逃避行を続ける中、「薫と一緒におれますように。明日も明後日もその次も。どうかどうか一緒におれますように」と祈ります。1つ目の心理は、とにかく守りたいことです(信頼感)。守るためにただ一緒にいたいという気持ちから、希和子は薫の存在をそのまま丸ごと受け止めています。薫にとって、安心で安全な基地になっています。対照的に、恵津子は、一緒にいないことが多く、突き放すこともあり、恵里菜をそのまま受け止めてはおらず、決して守ってはいませんでした。(2)全部あげる ―無条件の愛情希和子は、3歳の薫に「いろんなとこ行こう。いろんなものをママと一緒に見よう。きれいなもの全部。ママ、働くよ」と伝えます。その後、薫が4歳になり、警察の捜査が間近に迫っていることを悟った希和子は、写真館に行き、薫との記念写真を撮ります。そして、「薫、ありがとう。ママは薫と一緒で幸せだった」と言い、両手を合わせて膨らませて、何かを上げるしぐさをします。「なあに?」ときょとんとする薫に希和子は「ママはもういらない。何にもいらない。薫が全部持っていって。大好きよ」と言い残します。2つ目の心理は、全部あげることです(無条件の愛情)。「全部持って行って」という言い回しは、裏を返せば、「もうあげられない」という無念さも込められています。それくらい希和子は薫に自分のできるすべて、自分の全部をあげたかったのでした。いろいろ見せて、どきどきわくわくする思い出を一緒に積み重ねたかったのでした。希和子の愛情は無条件です。対照的に、恵津子は、家族のイベントをまったくしておらず、恵里菜に本当に大事なものはほとんど見せず、ほとんどあげていませんでした。(3)ただ幸せを願う ―コミットメント希和子は、最後に逮捕された時、薫を保護する女性刑事に「その子はまだご飯を食べていません。よろしくお願いします」と叫びます。後の裁判の時、希和子は「4年間、子育てをする喜びを味わわせてもらったことを秋山さん(恵津子)夫妻に感謝します」「お詫びの言葉もありません」と述べます。そして、懲役6年の刑で出所してから、薫との記念写真をわざわざ取りに行っています。3つ目の心理は、ただ幸せを願うことです(コミットメント)。逮捕された時、自分の身よりも、薫がお腹を空かせていることがまず気になるくらい、薫のことを一番に考えています。そして、その気持ちは、裁判の時も、出所してからもずっと変わりません。お詫びをはっきり言わなかったのは、薫と一緒にいた4年間はかけがえのない意味のあるものだったと確信しているからでしょう。もう一度人生をやり直すとしても、同じことをすると確信しているからでしょう。そこには、法律的な善し悪しは別にして、信念(コミットメント)があります。はっきりお詫びをしてしまったら、それが間違いだったと認めることになります。原作では、薫との4年間の思い出を心のよりどころにして、希和子が生き続ける様子が描かれています。かつて子どもの産めない体になった希和子は、恵津子から「がらんどう」と言われました。その後の希和子は、もはや決して「がらんどう」ではないことが分かります。その4年間が希和子の生きた証になったのでした。対照的に、恵津子は、自分の思い通りになるという自分の幸せを第一にしてしまい、恵里菜の幸せを第一にしていませんでした。人を好きになるとは? 人を好きになるには?4歳まで恵里菜を育てた希和子は、とにかく守りたくて、全部あげたくて、ただ幸せを願っていることが分かりました。そんな希和子との空白の記憶を、恵里菜は千草と回想旅行をする中、少しずつ思い出していきます。そして、ラストシーンでは、恵里菜に劇的な心の変化が起こります。彼女は、人を好きになりはじめるのです。ここから、その心理を3つ探ってみましょう。そして、人を好きになるにはどうすれば良いか考えてみましょう。(1)自分は大丈夫 ―自己肯定感恵里菜は、かつて希和子と仮住まいをしていた小豆島を訪ねた時、「薫ちゃ~ん、ご飯やで」「薫、ブランコしよ」「薫、気い付けて遊べや」「薫、早うおいでや」と周りの大人や子どものみんなから声をかけられていた記憶を蘇らせます。そして、写真館の主人に、希和子が恵里菜との記念写真を年月が経って取りに来た事実を聞かされます。その写真には、恵里菜を抱いた希和子の涙をこらえた笑顔が映っていました。1つ目の心理は、自分は大丈夫だと思うことです(自己肯定感)。もともと、自分はだめだという自己否定感を抱いていました。しかし、自分が希和子に心から愛されていた記憶を思い出しただけでなく、たとえ会えなくても今もどこかで自分の幸せをただ願っている眼差しを感じたのです。自分は大切にされていると認識できたことで、自分自身を大切にするようになっていきます。そこから、自分は何かあっても大丈夫だと思えるようになったのです。ちなみに、大人になった恵里菜のボーイッシュな服装は、かつて小豆島で着ていたお下がりの男の子用の服装に重なります。恵里菜の一人暮らしのアパートが和室であるのも、かつての小豆島の仮住まいに重なります。恵里菜が自転車で坂を下る時に脚を開くしぐさは、かつて希和子の自転車に乗せられて脚を開いていたポーズに重なります。希和子との記憶は、すでに恵里菜の心や体に染みついていたということに私たちは気付かされます。人を好きになるには、まず自分を好きになっていることがポイントになります。たとえば、自分のポジティブな面に目を向けることです。また、恵里菜が恵津子から距離を置いているように、逆にネガティブな面には目を向けないことです。(2)心を開く ―信頼感恵里菜は、もともと「世界一悪いあの女(希和子)がうちをめちゃくちゃにしたんだ」と思っていました。しかし、ラストシーンでは、恵里菜は「憎みたくなんかなかった」「お母さんのことも、お父さんのことも、あなた(希和子)のことも」「この島に本当は戻りたかった」「そんなこと考えちゃいけないと思ってた」と千草に打ち明けます。そして、「私、なんでだろう。もうこの子(生まれてくる子)が好きだ。まだ顔を見ていないのに」と泣きながら笑顔で言います。2つ目の心理は、心を開くことです(信頼感)。もともと、不信感から周りへの憎しみが強まっていたのでした。しかし、自分を大切に思えるようになったことで、周りの人も大切に思えるようになったのです。心を開き、「憎い」から「ありがとう」に変わったのでした。人を好きになるには、自分の理解者と一緒にいることがポイントになります。たとえば、恵里菜が千草と一緒にいたように、家族以外に友人などの仲間、カウンセラーでも良いですし、さらには新しい出会いを受け入れることでもあります。(3)自分が許す ―寛容の精神恵里菜は、かつて千草に「なんで母親になれるって思うの? なれるわけない。子育てなんてできるわけない」「だって、知らないもん。どんなふうにかわいがって、叱って、どんなふうに仲良くなっていいか分かんない。母親になんかなれない」と打ち明けていました。しかし、ラストシーンでは、写真館から走り出し、「私、働くよ。働いて、いろんなもの見せてあげるんだ。かわいい服、着させて、おいしいもの食べさせて、何にも心配いらないよって教えてあげる。大丈夫だよって。世界で一番好きなんだよって何度も言うよ」と力強く言います。千草から「生まれたら、お父さんとお母さんに見せに行こうよ」と聞かれると、「かわいがってくれるかな」と笑顔で言います。3つ目の心理は、自分が許すことです(寛容の精神)。もともと、恵里菜は憎しみや罪悪感を抱いていました。しかし、周りを大切に思えるようになったことで、今度は自分が周りに何かしてあげたいと思えるようになったのです。恵里菜の言動から、そのエネルギーに満ち溢れた躍動感も伝わってきます。恵里菜は、親や誘拐犯を赦し、自分自身を赦し、自分の境遇を前向きに受け入れるように変わったのです。人を好きになるには、相手をよく知り、理解することがポイントになります。たとえば、恵里菜が恵津子のことを理解したように、「親には親の事情があった」「親も完璧ではなかったけど、親なりに自分を頑張って育ててくれた」「親を反面教師として、自分はより良い親になれる」とポジティブに思えることです。先ほどにも触れましたが、距離はとったままで、とくに仲良くするわけではないです。自分の心の平和を得ることを一番の目的とすることです。なぜ好きという気持ちは「ある」の?これまで、人を好きになれない心理となれる心理の特徴とその原因である親の心理を掘り下げてきました。それでは、そもそもなぜ好きという気持ちは「ある」のでしょうか? その心理を2種類に分けて、進化心理学的に考えてみましょう。(1)子育てしたい ―無条件に好き哺乳類が約2億年前に誕生してから、その母親は子どもを哺乳する、つまり乳を与えて育てるというメカニズムを進化させました。これは、自分の栄養を与えるという自己犠牲の上に成り立っています。飽食の現代では想像しにくいですが、常に飢餓と隣り合わせの原始の時代、それでも母親は命がけで自分の栄養を子どもに分け与えて、子孫を残してきました。人類が約700万年前に誕生してから、母親と父親と子どもたちが一緒に暮らす家族をつくり、父親も猛獣などの天敵や自然環境から命がけで子どもを守りました。そうする種がより生き残りました。1つ目は、子育てしたいという心理です。これは、自己犠牲や命がけという点で、本来、無条件です。そして、原始的である点で、食欲や性欲などの身体的な欲求と並ぶ精神的な欲求、エゴイズムの1つとも言えます。この心理は、これまで「母性」と呼ばれていました。ただし、「母性」という言葉は、母親や女性に限定的なニュアンスが伴います。実際には、この心理は、母親だけでなく、父親や祖父母をはじめ、血のつながっていない養父母を含めた養育者全般にもあります。よって、これは、子育て心理と言い換えることができるでしょう。ただし、食欲や性欲が旺盛な人もそうじゃない人もいるのと同じように、子育て心理も程度の違いがあります。希和子は、この心理が旺盛であったために、誘拐してまで恵里菜を無条件に愛そうとしました。犯罪行為である点では決して許されないのに、同時に、私たちはその行為に心打たれるのは、希和子の愛が無条件だからでしょう。子育て心理は、理屈では割り切れない要素があります。また、この心理は、情の深さや献身さにもつながっているという点で、希和子が恵里菜の父親との不倫関係を解消できなかった原因にもなった言えるでしょう。一方、恵津子は、子育て心理が旺盛ではなかったことが分かります。なぜでしょうか? その心理の程度の違いは、3つの要因が考えられます。1つ目の要因は、子育て期間です。この心理は、生まれてから子育てをすること自体を通して高まるものです。また、子どもから愛情を求められることを通して高まるものです。恵津子は、その大事な期間を恵里菜が4歳になるまで奪われていました。2つ目の要因は、世代間連鎖です。まさに恵里菜は、恵津子と同じように、この心理が危うくなっていました。恵里菜は、希和子との記憶を思い出していなければ、生まれてくる子に対して、恵津子と同じような仕打ちをしていたでしょう。同じように、恵津子の母親は、恵津子ほどではないにしても、子育て心理が旺盛ではなかった可能性も考えられます。3つ目の要因は、もともとの気質です。最近の研究では、子育て心理の程度の違いの要因として、遺伝子の配列の違いが報告されています。ちょうど食欲や性欲の程度の違いも、遺伝的な違いがあるのと同じです。子育て心理は、遺伝的にも文化的にも受け継がれていると言えます。(2)つながりたい ―条件付きで好き人類が約300~400万年前に草原(サバンナ)に出てから、家族は、よりいっそう猛獣に狙われたり、食料が獲れないという自然の脅威に直面しました。そのため、血縁によってつながった村(社会)をつくり、助け合いました(社会脳)。そして、そうする種がより生き残りました。2つ目は、つながりたいという心理です。これは、助け合いにならなければつながらないという点で、条件付きです。家族以外の人間関係においては、無条件に好きにはなれないです。たとえば、職場や学校の人間関係においては、お互いに協力するからこそ、つながっています。友人関係や夫婦などのパートナーシップにおいても、お互いに協力したり一緒にいて心地良いからこそ、つながっています。恵津子は、自分が満足しなければ、恵里菜を好きになれない点で、条件付きだったということです。18世紀の産業革命以前の封建社会では、誘拐という特殊な事情がなくても、恵津子のような条件付きの愛情は、とくにめずらしくなかったと考えられます。その理由は、産業革命以前は、個人よりも社会に重きが置かれていました。貧困の状況では、「間引き」「口減らし」「子捨て」さえもありました。恵津子のように、恐怖心、罪悪感、同情を植え付けて、子どもを従わせることは、むしろ社会にとっては好都合でした。しかし、約200年前の産業革命により、個人主義が広がりました。さらに、1990年以降の情報革命により、個人主義が強まったことで、社会よりも個人に重きが置かれるようになりました。そして、昨今、条件付きの愛情を注ぐ恵津子のような親は、毒親と呼ばれるようになりました。子どもを毒する、つまり害を及ぼす親という意味です。彼らは、子どもが幸せになることよりも、自分が幸せになることを第一にします。たとえば、子どもはペットのような自分の所有物であるという感覚を持っています。まるで親友であるかのように子どもに愚痴を垂れ流します。恵津子の場合は誘拐犯の悪口でした。実際によくあるのが、母親が父親や姑の悪口を子どもに吹き込みます。逆に、子どもが自分の考えに従ってくれないと不安になります。子どもを従わせるために、「親不孝者」「恩知らず」「親への態度が悪い」という言い回しを親自らが多用します。これは、親子関係の問題を、本質(内容)ではなく、見かけ(形式)ですり替えています。「八日目の蝉」とは?恵里菜と再会して間もない千草が「蝉って何年も土の中にいるのにさ」「たった7日で死んじゃうなんてあんまりだよね」と言うと、恵里菜は「ほかのどの蝉も7日で死んじゃうんだったら、別に寂しくない。だってみんな同じだし。でも、もし8日目の蝉がいたら、仲間みんな死んじゃって。そのほうが悲しいよ」と言います。回想旅行をする最中、千草が「八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかった何かを見られるんだもの。もしかして、それすごくきれいなものかもしれないよね」と言うと、恵里菜は「そうかもね」と静かにうなずきます。恵里菜は、「八日目」という状況を「ふつう」じゃないこととしてネガティブにとらえていました。それが、「ふつう」じゃなくても、「ふつう」じゃないからこそ、自分ならではのものが見れるとポジティブにとらえ直しています。それは、ひと言で言えば、希望でしょう。私たちも、病気や事故などの災難に遭い、「八日目」を迎えた時、「ふつう」じゃないと絶望するか、それでも希望を見いだすかは、私達自身の心のあり方次第であるということに、この映画を通して気付かされるのではないでしょうか? そして、その心のあり方こそが、人を好きになることにつながっていくのではないでしょうか?■関連記事(外部サイト含む)2019年サンプルスライド 「反応性愛着障害」積木崩し真相Mother(続編)【虐待】Mother(中編)【母性と愛着】1)乳幼児のこころ:遠藤利彦ほか、有斐閣アルマ、20112)愛着障害:岡田尊司、光文社新書、20113)「毒親」の正体:水島広子、新潮新書、2018

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酔いがさめたら、うちに帰ろう。(前編)【アルコール依存症】

今回のキーワード進化医学報酬系(ドパミン)問題飲酒(プレアルコホリズム)否認共依存心の居場所毒をもって毒を制すアルコール依存症の映画とは?皆さんは、アルコール依存症の人たちとかかわったことはありますか? 彼らは、なぜアルコール依存症になるのでしょうか? そもそもなぜアルコール依存症は「ある」のでしょうか? そして、どうすれば良いのでしょうか?これらの疑問を解き明かすために、今回、2010年の映画「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を取り上げます。 この映画の原作者は、「毎日かあさん」などを代表作とする漫画家の西原理恵子さんの元夫です。実際にアルコール依存症になり、最後は末期がんが判明するまでの彼とその家族の様子が赤裸々に描かれ、 笑いと共感を誘います。また、描写が忠実であるため、アルコール依存症の理解を深める教材としても最適です。 この映画を通して、依存症の心理を、進化医学的な視点で解き明かし、回復のポイントを探っていきましょう。どんな症状がある?―表1主人公の安行は38歳の元戦場カメラマン。 本を書いたことはありましたが、定職には就かず、毎日、酒をひたすら飲み続けてきました。 彼は、それを「朝から晩までのノンストップの飲酒マラソン」と言い表します(連続飲酒)。 かつて、酒を飲んでは妻の由紀に絡み、暴言を吐き、引っぱたくなどの暴力を振るい、 挙句の果てに、妻が一生懸命に描いた大切な漫画の原稿を破り捨てたことがありました(脱抑制)。 そして、「(実の子どもたちを)おれの子じゃねえ」「太田(安行の親友)とやったんだろ!?」と言い出し、怒り出したこともありました。 アルコール依存症の人は、自分に引け目があるため、妻が自分に愛想を付かせて浮気をするのではないかという不安から妄想に発展しやすくなります(嫉妬妄想)。現在、安行は、由紀とは離婚し、2人の子どもとも別れて、実家で母親と暮らしています。居酒屋では飲み過ぎて気を失い(ブラックアウト)、嫌がる店員たちに介抱されます。意識がもうろうとする中、介抱する由紀と子どもたちの幻覚が現れます。帰り道に酒を買い、自宅でさらに飲み続けると、「何とかなるよ、まあ酒でも飲めよ」という自分に都合の良い幻覚も現れます(願望充足型の幻覚)。 その後、失禁をして、吐血もします。吐血(食道静脈瘤破裂)はとうとう10回目に達していました。安行は、断酒を決意します。クリニックで処方された抗酒薬(アルコールを飲むと体調不良になる薬)を飲むのですが、それも束の間。すぐにお酒が欲しくてたまらなくなり(渇望)、ふらふらと探し求め(探索行動)、けっきょくお酒を飲んでしまいます。そして、抗酒薬の効き目で倒れてしまいます。安行の様子は、以下のアルコール依存症の診断基準に照らし合わせると、11項目のほぼ全てを満たしています。安行は、典型的なアルコール依存症です。表1 アルコール使用障害(アルコール依存症)の診断基準(DSM-5) 精神依存身体依存耐性項目(1)長期間で大量の摂取(2)コントロールの失敗(3)探索行動(4)渇望(5)無責任(6)対人的問題(7)のめり込む(仕事や他の娯楽の放棄)(8)身体的な危険性(9)身体的または精神的問題(10)離脱(11)耐性備考上記11項目中2つ以上苦痛があるなぜアルコール依存症になるの?―表2由紀の友人の医師が「(原因は)環境もありますね」「挫折感とか劣等感とかそういったものが引き金になることもある」と言います。ここで、安行がアルコール依存症になった原因として、その危険因子を、個体因子と環境因子に分けて、整理してみましょう。(1)個体因子個体因子としては、まず体質(生物学的感受性)、つまりアルコールの欲しやすさ(嗜癖性) が挙げられます。これは、お酒が好きになる人とならない人という個人差です。嗜癖性が強ければ強いほど、機会飲酒から習慣飲酒、そして連続飲酒に至りやすくなります。昨今の双子研究や養子研究により、酒好き(嗜好性)は約50%遺伝することが分かっています。実際に安行の父親もアルコール依存症でした。さらに、アルコール摂取が1日5合以上、週5日以上、5年以上で多くの人はアルコールをやめられなくなる、つまりアルコール依存症になることが指摘されています。一方、法律で禁止されている覚醒剤は、一度摂取するとすぐにやめられなくなります。つまり、アルコールは、欲する体質に加えて、量と時間をかけることで、人にとって覚醒剤と同じものになってしまうということです。 もう1つは、アルコール依存症に関連した独特の気質、つまりアルコール依存症ならではの性格(パーソナリティ特性)が挙げられます。これには、3つの特徴があります。1つ目は、ついやってしまう軽々しさです(衝動性)。安行は、10回目の吐血をした時、由紀に「あーごめん、またやっちゃったよ」と謝ります。断酒を誓って抗酒剤を飲んだ直後、食べた奈良漬けのアルコール分が引き金となり、「たかがビールだもんな」「大丈夫だよ、これくらい」とつい飲んでしまいます。また、入院中に、制限されている食事であると言われているのに、診察中に「(回復の兆し)だったらカレー食わせろよ!」と主治医につい怒鳴っています。この特徴は、注意欠如多動性障害(ADHD)との関連も指摘されています。2つ目は、とても寂しがり屋であることです(愛着不全)。安行は再び飲んでしまう直前に、由紀と子供たちと別れて「寂しいよ」「悲しい」とつぶやいています。この特徴は、 反応性愛着障害との関連も指摘されています。3つ目は、助けを当てにすることです(依存性)。安行は、「ほんとのほんとに(酒を)やめるよ」と断酒の宣言を繰り返しています。飲んだ直後に、抗酒薬の影響で、倒れて頭を打って流血して、由紀と母親にまた迷惑をかけた時、呆れて何も言わない2人に向かって「なんか言わないの?」「説教とかないんだ」と物足りなく感じています。説教されることで関係性が保たれ、今後も助けてもらえる保証を得たいのです。この特徴は、依存性パーソナリティ障害との関連も指摘されています。 これらの性格の傾向が強ければ強いほど、お酒をやめられなくなります。さらに、長期間の大量の飲酒によって、頭の働きが弱まり(認知機能障害)、この特性がますます際立っていくのです。(2)環境因子環境因子としては、まずストレスが適度に一定ではないことが挙げられます。安行は、もともと戦場カメラマンです。危険な仕事であることやフリーランスで収入が不安定であることは大きなストレスです。そのストレスが多ければ多いほど、そのストレスを和らげるための飲酒量が増えていきます。それでは、逆にストレスが全くない状況が良いでしょうか? 仕事をしていないなどやることがない状況では、刺激を求めて暇つぶしで飲酒量が増えてしまいます。これは、仕事人間だったサラリーマンが退職後に暇を持て余して、朝からお酒を飲み続けてしまうことと同じです。つまり、ストレスは、多すぎることもなく少なすぎることもなく、適度で一定であることが望ましいのです。もう1つは、アルコール依存症を助長する周りとの独特な人間関係(共依存)が挙げられます。これには、3つの特徴があります。1つ目は、周りが流されやすいことです(同調)。母親のかかわり方をみてみましょう。安行が病院で3日ぶりに目覚めて起き上がろうとすると、母親は「だめ!ベッドで安静にって言われてる」と言いつつ、「ちょっとだけ上げてみよっか」と言います。この「ちょっとだけ」は依存症の人たちやその家族がよく使うキーワードです。「だめなものはだめ」とは対照的な言い回しです。2つ目は、周りが助けすぎることです(過保護)。母親は「そんなに死にたけりゃ独りでどっか行って勝手に死んでちょうだい」「家族を巻き添えにしないで」「あとはどうとでも好きにすればいいわ」と厳しく言っていますが、無職の安行を実家で養い、酒を買う金を与え、毎回、トラブルが起きると助けます。入院中も付きっきりです。放っておかずに、毎回、巻き込まれています。言っていること(言語的コミュニケーション)とやっていること(非言語的コミュニケーション)が一致しません(ダブルバインド)。このような状況では、やっていることの方がまさって伝わるため、けっきょく厳しい言葉に逆の意味が込められてしまいます。それは、このパターンが繰り返されることで、「(なんだかんだ言うけど)けっきょくどんな時もあなたを助けるわよ」という逆のメッセージとして強調されて伝わっていくのです。由紀も同じコミュニケーションのパターンをとっています。由紀が入院中の安行のお見舞いに来た時、「そのうちコロッと逝くね、あんた」と子どもたちの前で悪い冗談を言います。そして、子どもたちがいなくなると、「このばかちん」と言い、すでに離婚しているのに、安行にキスをします。由紀は、子どもたちのためとは言え、けっきょく安行が好きで放っておけないのです。3つ目は、周りが手なずけたがることです(過干渉)。母親は、アルコール依存症の専門病棟に入院させるために、有無を言わさず安行を連れ出し、「ここは精神病院。あなたは入院するんです」と一方的に言い放ちます。安行が手ぶらなのに対して、母親は安行の重そうな荷物を運んでいます。なお、映画では強制的に入院されているように描かれていますが、実際は、人権擁護の観点から、そして本人の主体性が治療動機に重要であるという観点から、依存症病棟には、本人の同意による任意入院が一般的です。表2 安行がアルコール依存症になった原因個体因子環境因子体質(生物学的感受性)遺伝気質(パーソナリティ特性)ついやってしまう軽々しさ(衝動性)寂しがり屋(愛着不全)助けを当てにする(依存性)ストレスが適度に一定ではない危険な仕事不安定な収入やることがない共依存的な人間関係周りが流されやすい(同調)周りが助けすぎる(過保護)周りが手なずけたがる(過干渉)依存症の3つの要素とは?―図1依存とは、「依(よ)って存(あ)ること」、つまり何かに頼って生きることで、私たち人間に必要なことです。その何かとは、食べ物や飲み物など体に取り入れるもの(物質の依存)であり、生活習慣などの行動パターン(過程の依存)であり、家族やその周囲とのつながり(人間関係の依存)です。そして、依存症とは、これらにのめり込んでコントロールできなくなること、つまりはやめたくてもやめられなくなることです。 ここから、安行の状況に照らし合わせながら、アルコール依存症を、飲酒そのもの(嗜好の依存症)、飲酒までに至る行動パターン(行動の依存症)、その行動パターンを支える人間関係(人間関係の依存症)の3つの要素に分けて整理してみましょう。(1)アルコールをコントロールできない―嗜好の依存症―図2安行は、入院してしばらくの間、アルコールによる胃腸の障害から、食事が制限されていたため、定期的に献立になっているカレーライスを食べることができませんでした。その後に食事制限がなくなり、目の前のカレーライスを見た時、彼の胸は高まります。そして、病院食の普通のカレーライスを格別な気分で幸せそうに頬張るのです。また、私たちは喉がカラカラの時に水をとてもおいしく感じます。しかし、普段、水はただの水で、おいしいとは感じません。水に限らず、塩、糖、タンパク質、脂肪などもともと自然界にあるものも同じです。このように、私たちの脳は、不足すると気になり(サリエンス)、欲しくなります(渇望)。摂取すると気持ち良くなります(快感)。そして満足すると飽きてきます(無関心)。そうなるように調節が働き(フィードバック)、一定の健康状態を維持しています(恒常性)。これは、私たちがより適応的な行動をするために進化したメカニズムです(報酬系)。ここで、私たちの脳を車に例えてみましょう。すると、報酬系のメカニズムはエンジン(ドパミン)です。何かが足りないストレスの状態(興奮)では、アクセル(ノルアドレナリン)が踏まれ、そのアクセルでエンジン(ドパミン)の回転数も上がります。一方、満たされているリラックスの状態(抑制)では、ブレーキ(GABA)が踏まれ、そのブレーキでエンジン(ドパミン)の回転数も下がります。ところが、アルコールを摂取すると、代わりのブレーキ(ベンゾジアゼピン受容体)が踏まれ、リラックスの状態になります。それは、本家のブレーキ(GABA)の働きを阻み、このブレーキ(GABA)が利かなくなることでエンジン(ドパミン)の回転数が逆に上がってしまうのです。これが、酩酊感や高揚感という気持ちの良い状態です。さらに、多量のアルコール摂取によってエンジン(ドーパミン)の回転数が上がりすぎる、つまり空回転するとどうなるでしょうか? これが、酒乱(中毒せん妄)、泣き上戸や笑い上戸(脱抑制)と呼ばれる悪酔いの状態です。この状態は昔では宗教的な意味付けがされていました。アルコール摂取の問題点は、エンジン(ドパミン)の回転数を上げるばかりで下げるメカニズムがないので、やがていつも欲しくなってしまうのです(精神依存)。お酒が世界の全てになってしまい、起きている時はお酒のことしか考えず、問題が起きてもお酒を飲み続けます。さらには、アルコールが一定濃度、体に満たされ続けるとやがてそれが定常状態になる、つまりアルコールが脳にとって「あるべきもの」になります。よって、アルコールを切らしてしまうと、脳が異常と誤って感知して、禁断症状(離脱症状)が出てしまうようになります(身体依存)。こうして、アルコールの摂取をコントロールできなくなるのです(物質の依存症)。 なお、覚せい剤では、エンジン(ドパミン)の回転数を直接的に上げるため、高揚感を伴う興奮が得られます。よって、アルコールが「ダウナー」(抑制性薬物)と呼ばれるのに対して、覚せい剤は「アッパー」(興奮性薬物)と呼ばれます。ちなみに、ベンゾジアゼピン系薬剤である睡眠薬や抗不安薬も、副作用としてアルコールと同じように「悪酔い」(脱抑制、中毒せん妄)を引き起こすリスクがあります。しかし、精神科を専門としない医師がよくやってしまう間違いとして、もともとの脱抑制やせん妄の患者に対して、落ち着かせようとしたり眠らせようとして、ベンゾジアゼピン系薬剤を投薬し、その後に症状を悪化させるケースがあります。脱抑制やせん妄には、原則として、ベンゾジアゼピン系薬剤を投薬しないように注意する必要があります。(2)行動をコントロールできない―行動の依存症安行は、入院中、周りの患者たちがカレーライスを食べているのに自分だけ食べられないことに腹を立てて、「何だよ、ケンカを売る気かよ」「売られたケンカは買ってやろうじゃないの」とわざと独り言を言って看護師を威圧しています。患者同士が言い争いをしている時、安行は直接関係がないのに、良く思っていない方に「てめえが帰れ、くそじじい」とぼそっと小さな声でわざと挑発し、殴られてしまいます。また、かつて戦場カメラマンとして命の危険にさらされたり、作家として生計を立てようとしたりと、ギャンブルのような不安定な生活をあえて選んでいます。一見、男らしくも見えます。この男らしさに由紀は惚れてしまっているのでした。このように、安行にはアルコール依存症ならではの独特な行動パターンがあります。本来、行動パターンとは、生存や生殖に有利になるために進化した本能・習性や学習能力です。これは、脳の神経回路に刻み込まれるもので、一度覚えたらなかなか忘れません。例えば、自転車の運転や水泳のような運動神経から、食事や睡眠リズムのような生活習慣、プラス思考やマイナス思考のような思考パターンまで様々あります。生存や生殖という目的に向かって、遺伝的な傾向をもとに記憶や経験が快感(報酬)と結び付いて、そう行動するようにエンジン(ドパミン)の回転数が上がるというわけです。安行の行動パターンの問題点は、アルコールをコントロールできていない以前に、自分の感情や行動をコントロールできていないことです(行動の依存症)。言うならば、飲む前から酔っ払っている、つまり、しらふでも行動が酔っ払っています(空酔い、ドライドランク)。これは、アルコール依存症にまだなっていない人で、アルコールでトラブル(問題飲酒)を繰り返し起こす人にも当てはまります(プレアルコホリズム)。本来、アルコール依存症にならない人は、ストレスを溜め込んで飲酒量が増えたり、問題飲酒などうまく行かないことが起きた時点で、周りの意見に耳を傾け、自分を振り返り、早い段階で行動パターンを修正します。しかし、アルコール依存症になる人は、この修正をなかなかしません。その原因は、「まだ大丈夫」「それほど重くない」「やめようと思えばやめられる」と考えて、問題の深刻さに薄々気付いてはいるのですが、それをはっきり認めようとしない否認の心理があるからです。アルコール依存症は「否認の病」とも呼ばれます。この否認の心理によって、アルコール依存症を完成させてしまうのです。それでは、安行にはなぜ否認の心理があるのでしょうか? その答えは、彼の父親が「教えた」からです。安行は、母親から「2人の子どものことだけはよーく考えてください」と言われると、「おやじは考えてくれなかったよね、子ども(安行)のこと」と言い返します。実際に、「(父親は)毎日のように酒を飲んでは母親に暴力をふるっていました」と入院患者たちに語っています。ここから分かるのは、彼の父親は、子ども(安行)のことだけでなく、自分のことも考えることができない不安定な行動パターン(否認)の悪いお手本(モデル)を見せていたことです。そして、安行は、父親から否認の仕方を「学んだ」のでした。安行は飲酒を中学生から始めています。本来、父親というものは子どもに生き方(社会)のルールを教える役割(父性)があるはずですが、それがないのです(父性不在)。安行は、入院中に「やっちゃったよ。父さんの真似なんかしたくないのに」と嘆いています。体験発表で「けっきょく嫌いだった父親と同じことをしてしまっていたんです」と振り返ります。一方、お見舞いに来た小学生の息子は、安行に「父さん、何やってんだよ」と笑っていいます。まさに否認という行動パターンの「文化」が脈々と受け継がれようとしている危うさが読み取れます(世代間連鎖)。(3)人間関係をコントロールできない―人間関係の依存症安行は、入院して、初対面の若い看護師にいきなり下の名前を聞き出します。また、主治医の女医に「なんでコンタクトにしないんですか?」と個人的な質問をします。人懐っこくて相手の懐に飛び込むのにとても長けていることが分かります。このように、安行には心理的距離が近すぎる独特の人間関係があります。本来、人間関係とは、生存や生殖に有利になるために、約300万年前に進化した社会性(社会脳)です。これは、周りとうまくやる能力であり、助け合い(協力)の心理であり、人間関係における行動パターンとも言えます。安行が築く人間関係の問題点は、心理的距離が近すぎて相手との境界(バウンダリー)が弱まっているために、その人間関係をコントロールできていないことです(人間関係の依存症)。言うなれば、人間関係も酔っ払っています。例えば、安行は、母親の保護や由紀の支援に甘んじて頼り切ってしまい、迷惑をかけっぱなしです。「すいまんせん」「反省しています」と言うわりに、同じことを繰り返しています。これは依存の心理(依存パーソナリティ)です。それでは、安行にはなぜ依存の心理があるのでしょうか? その答えは、彼の母親が「教えた」からです。彼女のかかわり方は、良く言えば優しくて献身的ですが、悪く言えば過保護で過干渉で支配的です。彼女は、必要とされることを必要としている、言い換えれば依存されることに依存しています(共依存)。そのかかわり方を、かつてアルコール依存症の自分の夫にし続けました。彼女は華道の先生ですが、生徒たちに「この枝は『私はここ(生ける場所)に入りたい』と言っていました」「なんて、枝がそんなこと言うわけありませんよね」「ただ私が勝手にそう思っただけです」「でも昔、私はこの勘で夫の浮気を見破りました(笑)」と冗談を交えて説くシーンにその傾向が現れています。そして、当時に同じようなかかわり方を子ども時代の安行にもし続けてきたのです。安行は、母親を相手に人間関係での依存の仕方を小さい頃から「学んだ」のでした。本来、母親というものは子どもに安心感や安全感を与える役割(母性)があるはずですが、それが行きすぎています(母性過剰)。そして、実は、由紀はこの安行の母親と似ています。由紀の父親もアルコール依存症で、由紀の母親はそんな夫に尽くしてきました。由紀はその母親の悪いお手本(モデル)を見て育ちました。そして、由紀は、父親と同じような依存的な安行に惚れてしまい、母親と同じように共依存的に接するのです。このように、アルコール依存症を助長する家族などの周りをイネーブラー(enabler)と呼びます。アルコール依存症を「enable(可能にする)+er(人)」という意味です。そもそもアルコール依存症でい続けるには、依存する体だけでなく、依存するためのお金や依存する相手が必要です。つまり、安行の望ましくない行動パターンを下支えしてしまっているのは、母親や由紀です。逆に言えば、健康とお金と人間関係が続く限り、依存症はなかなか回復しないということです。由紀と安行の子どもである息子と娘は、由紀と安行が夜中に激しい夫婦喧嘩をしていても、寝たふりをして静かにしています。由紀は「大丈夫。あの子(娘)は泣いた顔を人に見せない子です」と胸を張って言っています。娘も息子も、母親の由紀の姿を見て、もの分りが良く我慢をする「良い子」にもなっています。そして、彼らが思春期になった時、その我慢の反動により依存的に振れるか、またはその我慢の順応により共依存的に振れるか、さらにはその両方を行ったり来たりするかといういずれかのこのような極端で独特の人間関係を築いてしまうのです。まさに依存と共依存の「文化」が脈々と受け継がれようとしている危うさが読み取れます(世代間連鎖)。なぜアルコール依存症は「ある」の?―図3これまで、「なぜアルコール依存症になるのか?」という疑問の答えを解きあかしてきました。それでは、そもそもなぜアルコール依存症は「ある」のでしょうか? その答えを探るために、アルコールの歴史をひも解いてみましょう。アルコールの自然発酵が発見されたのは、旧石器時代(数万年前?)と考えられています。それは、人類が手にした最も古いバイオテクノジーです。当時から、アルコールの摂取による一時の酩酊感や高揚感は、非日常(非現実)を味わう神秘体験の道具として祝祭(宗教的儀式)で重宝されてきました。しかし、当初はまだアルコール依存症として問題になることはほとんどありませんでした。その理由は、製造技術が原始的なために、低純度で希少で高価で、手に入りにくかったからです。その後、1万5千年前に農耕牧畜が開発され、それまでの狩猟採集社会から農耕牧畜社会へと社会構造が変わっていきました。特に東アジアでは早くから米作が広まり、それに伴い早くからアルコールの醸造が広まっていたと考えられています。なお、このことが原因で、ヨーロッパ人(コーカソイド)やアフリカ人(ネグロイド)と比べて、東洋人(モンゴロイド)はアルコールに弱い体質が多くなったという説があります。実際に、飲酒後すぐに表れる赤ら顔はフラッシング反応と呼びますが、東洋人に独特であるため、別名はオリエンタルフラッシュ(Oriental flush)と呼ばれます。例えば、日本人は、アルコールに強い人(ALDH1型)が50%強、アルコールに弱い人(ALDH2型部分欠損型)が45%弱、アルコールが全く飲めない人(ALDH2型完全欠損型)が5%です(グラフ1)。この東洋人はアルコールに弱いという説の根拠として、3つの可能性が考えられます。1つ目は、アルコールに強い遺伝子の淘汰がより早い時代からあった可能性です。これは、アルコールに強い人は、それだけアルコールを多く飲むので、アルコール依存症になりやすいということです。そして、アルコール依存症によって、働けなくなります(生存の困難)。また、配偶者として選ばれにくくなり(生殖の困難)、子孫を残しにくくなります。かつてアルコールは「きちがい水」とも呼ばれていました。結果的に、アルコールに強い遺伝子を持つ人は減っていくということです。2つ目は、アルコールに強い遺伝子の淘汰がより広い地域であった可能性です。狩猟採集民族が多く残るヨーロッパやアフリカは、狩りなどで衝動性や独自性が求められる社会です。そこでは、アルコールに強い人に寛容になります。その理由は、衝動性からアルコールを多く飲み酔っぱらって一時だらしなくなっても、酔いから醒めて、また本人のペースで狩りをすれば良いからです。また、飲みっぷりの良さは、豪快さ(衝動性)として男らしさに結び付いていきました。その価値観は現在でも根強いです。もともと狩猟採集と衝動性(ADHD)は関連性が高いですが、同時にアルコール依存症と衝動性(ADHD)も関連性が高いと言えます。一方、農耕牧畜民族が多く広まった東アジアは、田植えや稲刈りなどで計画性や協調性が求められる社会です。そこでは、アルコールに強い人に不寛容になります。その理由は、アルコールを多く飲み酔っぱらって一時でもだらしなくなったら、計画的にそして協調的に働けないからです(生存の困難)。そして、配偶者として選ばれにくくなり(生殖の困難)、子孫を残しにくくなります。結果的に、アルコールに強い遺伝子を持つ人は減っていくということです。3つ目は、アルコールに弱い遺伝子の選択がより多くあった可能性です。これは、アルコールに弱い方がより適応的であるという逆転の発想です。もともとアルコール摂取は、単なる気晴らしなどの娯楽ではなく、神聖な儀式の一環でした。この時、少しのアルコールですぐに酔えて非日常を味わえるアルコールに弱い人は、より神に近付ける人としてステータスが高まります。結果的に、アルコールに弱い遺伝子を持つ人は、配偶者として選ばれやすくなり、子孫を残しやすくなります。つまり、アルコールに弱い遺伝子を持つ人は増えていくということです。なお、アルコールが全く飲めない遺伝子は、ほんの少しのアルコールですぐに気持ち悪くなるだけで酔えないので、神に近付くことはできないため、この遺伝子を持つ人は増えなかったという解釈ができます。アルコール依存症が世界的に社会問題となっていったのは、18世紀の産業革命です。その理由は、10世紀以降にアルコールの蒸留法が発明されて純度を高めることが可能になった上に、産業革命による大量生産や広範囲の流通が可能になったからです。つまり、高純度で大量で安価で、手に入りやすくなったからです。もともとアルコールは、自然界に限りあるもので、人はなかなかアルコール依存症になれませんでした。しかし、文明が進歩した現在、ほとんど限りなく手に入るようになり、人は簡単にアルコール依存症になれるようになってしまったのです。つまり、アルコール依存症とは、文明の代償と言えます。もともと自然界にある水、糖、塩、タンパク質、脂肪などの物質は、調節をするメカニズムが進化しています。ところが、アルコールは、人工的に作られ始めてからまだせいぜい1万5千年です。そのため、その調節(フィードバック)をするメカニズムが進化するには、あと数万年以上は必要と思われます。もしかしたら東洋人(モンゴロイド)にアルコールに弱い体質が多いのは、その進化の先駆けかもしれません。 なぜ欲しがる心(嗜癖)は「ある」の?ここまで、アルコール依存症の起源が明らかになってきました。それでは、アルコール依存症などの嗜好の依存症(物質依存)から、行動の依存症(過程依存)、人間関係の依存症(関係依存)までを全て含んで、そもそもなぜ欲しがる心(嗜癖)は「ある」のでしょうか? 由紀と安行の生き方を通して、進化心理学的に解き明かしてみましょう。安行の母親は、「(安行は)何から逃げるためにあんなにお酒飲むのか」と由紀に呆れて言います。一方、安行は主治医に「(夢で)何か探してるんだけど、探しているものが何か分からなくてイライラする」と言います。由紀は、知り合いの医師から「離婚した相手のことをどうしてそんなに心配するんですか?」と聞かれて、「一度好きになった人はなかなか嫌いになりにくいし」と答えます。また、「体を満たしているのがたとえ(安行を末期がんで失う)悲しみであっても、とにかく体がいっぱい満たされているわけだから、悲しいんだか嬉しいだか分かんなく(なって)」と言っています。安行と由紀に共通する心理は、心が「何か」で満たされていないことです。そして、その「何か」を「代わりの何か」で満たそうと駆り立てられ、必死で追い求めます(渇望)。これが、欲しがる心(嗜癖)です。安行は、戦場カメラマンとしてベストショットを追い求め、がむしゃらで無茶でギャンブルのような生き様をしました。そして、追い求めるものはお酒にすり替わっていきました。由紀は、離婚しても安行を追い求め、安行を最期はがんで失うという「悲しみ」で心を満たそうとしています。この映画のラストシーンで、由紀は安行の母親に「子どもたちのいる場所だと思います、(死期が間近な)あの人の帰るところ」と言うと、母親は「居場所があるのねえ、まだあの子に」と言います。ここでようやく、心を満たす「何か」とは、家族の絆という心のよりどころ、つまりは「心の居場所」であることが分かります。安行や由紀は、この「心の居場所」の感覚が幼少期にうまく育まれなかったため、この感覚が充分に満たされていないのです。この心理は、オキシトシンとドパミンという神経伝達物質によって調整されています。この心理が満たされないと、オキシトシンと結び付いているドパミンによって、他の「何か」を欲しがる心理(嗜癖)が強まってしまうのです。オキシトシンが「心の居場所」の心理として働くようになったのは、私たちの祖先が人類として社会脳が進化して大家族をつくるようになった約300万年前と考えられます。さらに、このオキシトシンの起源は、私たちの祖先が哺乳類として授乳(哺乳)するようになった2億年以上前です。ドパミンの起源は、さらに遡って、私たちの祖先が原始生物として捕食対象に接近するようになった数億年前以上前です。これが私たちの欲しがる心(嗜癖)の起源であると言えます。私たちは、本能的に何かに近付いて欲しがる心(嗜癖)を持っており、問題はその相手(対象)や程度であるということです。 1)鴨志田穣:酔いがさめたら、うちに帰ろう。講談社文庫、20102)斎藤学:アルコール依存症に関する12章、有斐閣新書、19863)ディヴィッド・J・リンデン:快感回路、河出文庫、20144)アンソニー・スティーブンズほか:進化精神医学、世論時報社、20115)長尾博:図表で学ぶアルコール依存症、星和書店、2005

11.

積木崩し真相

今回のキーワード非行(素行障害)安全基地承認進化心理学あまのじゃく(受動攻撃性)ヤンキー「あの人はなんでいつもあまのじゃくなの?」皆さんは、職場で「あの人はなんであの人はいつもあまのじゃくなの?」と困ったことはありませんか? 世の中には、むやみに反対する人が必ずいます。本来は、このような反抗の心理は、特に思春期(反抗期)に高まり、成人すると目立たなくなります。小児科や小児精神科では、両親からの思春期相談として、その接し方の相談がなされることもよくあります。なぜ反抗するのか? そもそもなぜ反抗は「ある」のか? 今回は、反抗の心理の過剰な状態である非行(素行障害)をテーマに、反抗を進化心理学な視点からとらえ直します。また、反抗の文化としての「ヤンキー」も掘り下げます。そして、反抗的な人への接し方を探っていきます。今回、取り上げるのは、2005年に放映されたドラマ「積木くずし真相」です。これは1980年代に放映された「積木くずし」のその後の真相を盛り込んだリバイバルです。当時、社会問題になっていた「家庭内暴力」や「シンナー中毒」によって、家族という「積木」が音を立てて崩れていくさまが生々しく描かれています。そして、登場人物たちが再び家族の「積木」を積み上げていこうとする姿勢に私たちは心を動かされます。原作は娘との実体験を父親が書いたもので、ドラマはその原作に脚色を加えたフィクションになっています。「積木」はどう崩れたのか?―「うっせんだよ!」主人公の朋美は中学1年生。それまで母親の言うことをよく聞く素直で明るい良い子でした。しかし、不良グループから暴行を受けたことをきっかけに、彼女は様子が変わっていくのです。朋美の初めての朝帰りのシーン。「眠い、私もう寝るよ」と言い部屋にこもろうとする朋美に、母親はあわてて「第一、あなた学校じゃない!」「ママ、怒ってるんですからね。(部屋のドアを)開けなさい!」と強く言い続けます。すると、朋美は「うっせんだよ!」と叫びます。通常の思春期の反抗は、挨拶や返事をしないなど親を無視するレベルです。しかし、朋美はそのレベルを遥かに超えてしまいました。その後に、威圧的な風貌、不登校、家出、家庭内暴力、暴走族への参加、万引き、シンナー乱用などあらゆる非行にのめり込んでいきます(素行障害)。そんな朋美の豹変ぶりに、両親は訳が分からず、うろたえ怖じ気付くばかりです。「積木」はなぜ崩れ続けたのか?―「いじり過ぎましたね」朋美の非行はなぜエスカレートしたのでしょうか? いくつかのシーンから読み解いていきましょう。夜遊びをして繁華街にいる朋美を父親は無理やり家に連れ帰ります。朋美は「近藤(友人)、1人で家に帰れたかなあ」「あの子、一銭も持ってないんだよ」と友達を気遣います。しかし、父親は「夜にあんなとこをふらついているようなやつは友達でも何でもない」「おまえにはね、もっとふさわしい友達がいるはずだろう?」「おまえはね、あんな子とは違うんだよ」と説教をします。実際に、父親はその直前にその友達宅まで行って、その友達の母親に「お宅の娘がうちの朋美をたぶらかしている」と抗議していました。母親は「パパはね、(役者業で)テレビにも出てるし、みんなに知られている有名人なの」「あなたが変なことしたら、パパは仕事を続けられなくなるのよ」「そしたら私たちだって生活できなくなるじゃない」「それぐらい分かるでしょ?」とたしなめます。しかし、言い合いになり、最後に父親は朋美に平手打ちをします。ここから読み取れるのは、子どもが選んだ友人が認められていない、親が体裁や都合ばかり気にしている、親が暴力で子どもをコントロールしようとしていることです。つまり、親が先回りして子どもの考えや行動を認めないことです(過干渉による承認の欠如)。思春期になって、親が子どもの自己(アイデンティティ)を認めないと、子どもは精神的に不安定になりやすくなります。その1つの反応として、反抗がほどほどではなく、過剰になるのです。最終的に、警視庁の専門家に全てを打ち明けますが、その時、専門家から最初に一言「いじり過ぎましたね」と言われてしまいます。「積木」はそもそもなぜ崩れたのか?―「産みたくないのに産んだんですから」朋美の幼少期のシーンを見てみましょう。朋美は体が弱く、入退院を繰り返していたため、両親と離れていた時間がかなりありました。朋美は、何本も爪楊枝が刺されたぬいぐるみを持って、「点滴ごっこ」と主治医の先生に言います。親との愛着形成の不足(反応性愛着障害)から共感性がうまく育まれていない可能性がほのめかされています。父親は、仕事の役者業に打ち込み、巡業で家を空けていることが多く、子育てへの介入はあまりありません。一方、母親は、自分自身が病弱なのに加えて、子育ての負担から気持ちに余裕がなくなり、夫に「あなたはものだけ与えて、たまにいい顔すればいいから楽よね」と当たり散らしています。そして、「産みたくないのに産んだんですから」と幼い朋美の前で言い放ってしまいます。また、先ほどの夜遊び後のシーンで、朋美が友達の家族を擁護すると、父親は「そんなに近藤(友達)がいいんなら、あのうちの子になりゃいいだろ!」と突き放しています。これらから読み取れるのは、幼少期の入退院の繰り返しによる情緒の不安定さ(ホスピタリズム)のリスク、父親の不在による母親の心理的な負担、両親が言い争いをして子どもが板挟みになっている(ダブルバインド)、自分は大切にされていない感覚(自己否定)、従わなければ愛されないという恐怖(条件付きの愛情)です。つまり、子どもに家族という心のよりどころがないことです(安全基地の欠如)。幼少期は、そんな親の気を引くために、必死で「良い子」を演じます。しかし、思春期は、親から心理的距離を取り、自分の考えで自分の行動を決める心理が高まります。この時期に、この心のよりどころがないと、子どもは精神的に不安定になりやすくなります。「良い子」の反動として、反抗がほどほどではなく過剰になる、つまりあえて「悪い子」になるのです。非行の心理とは?―(1)「今が良ければ良い」朋美の非行のきっかけとなった不良グループから暴行を受けた直後のシーンを見てみましょう。身も心もボロボロになって帰ると、家には誰もいません。もともと父親は巡業でほとんど家にいないのですが、その時、母親も「たまにはママも息抜きに出かけてきます」という書き置きを残していなかったのです。この時、朋美は「(暴行を受けたことを)言わない。絶対言わない」と心に誓います。後に、朋美は唯一心を開ける主治医の先生に「私が一番いてほしい時にいつもいなかった」と打ち明け、暴行の真相を告白します。さらに、「(暴行の真相を)パパとママが知ったらまたケンカになって、私のせいで離婚しちゃうかもしれない」「全部私のせいだ」「だからこのことは絶対に言っちゃいけないと思った」「一生誰にも言わずにいようって心に決めたの」「私はこのままでもいいと思った」「世間にもパパやママにも誤解されたままでもいいと思った」と打ち明けます。そして、笑顔で「大丈夫だよ先生。私は大丈夫」と言うのです。ここから読み取れるのは、常に緊張状態にある両親を離婚させない「良い子」として、自分がスケープゴート(生け贄)となっていることです。もともと自分は大切にされていないと思う心理(自己否定)から、「自分を大切にしない」(自己評価の低下)つまり「自分はどうなっても良い」「失うものは何もない」という心理(自己破壊性)や「今が良ければ良い」という心理(刹那主義)が高まっています。これが、非行の心理の根っこにあるものです。非行の心理は、よりどころがない満たされない心を手っ取り早く何かで満たすことです。朋美は、暴走族のような悪い仲間との絆やシンナーによる酔いで心を満たそうとしています。一般的な非行でも、特に女子は、心を満たすために、自分を安売りする援助交際や、気晴らしのための自傷行為(過量服薬・リストカットなど)をあまりためらわずにやってしまいます。非行の心理とは?―(2)「一人前(大人)に早くなりたい」朋美は、家出を繰り返し、派手な特攻服を着て暴走族に参加します。朋美の部屋は、たまり場となり、仲間たちとシンナーを吸い、我が物顔でやりたい放題をしています。原作では「ハンパ(中途半端)はしたくない」と言っています。ここから読み取れるのは、心のよりどころとして当てにできない家族に早く見切りを付けて、「ハンパ」ではない自分、つまり「一人前(大人)に早くなりたい」という心理が高まっています。その手段として、普通の子にはマネできない「すごいこと」をやってのけようとします。望ましいのは、学業やスポーツに打ち込むことです。しかし、それには努力と時間が相当にかかります。ですので、手っ取り早い「すごいこと」に飛び付きやすくなります。例えば、それは、派手な格好、飲酒、喫煙、セックスなどの大人の真似事です(逸脱行動)。さらには、薬物の乱用、バイクや車での暴走、万引きなどやってはいけないことです(反社会的行動)。彼らにとっては、悪いこと(非行)をあえてできる自分を周りに示すこと、そして見捨てられても大丈夫な自分を演出ことに意味があるのです。つまり、彼らは「普通の子」という型にはめられようとされればされるほど反発(反抗)するというわけです。家族の力とは? ―家族機能―表1これまで、朋美がなぜ非行に走ったのかを読み解いてきました。ここで、非行(素行障害)を防ぐためには何が大事なのかを大きく2つに分けて整理してみましょう。それは、「母性」と「父性」という家族の力です(家族機能)「母性」とは、無償の愛を注ぎ(無条件の愛情)、心のよりどころ(安全基地)となることです。この「母性」による見守りよって、子どもの「愛されたい」という心理(愛情欲求)が満たされ、そこから「自分は大切にされている」という共感性や信頼感が育まれ、「自分を大切にする」という自尊心が高まります。そして、相手を信じ頼ろうとする信頼感や相手を大切にしようという他者への尊敬が高まります。逆に言えば、心のよりどころ(安全基地)がないと、共感性や信頼感が充分に育まれず(反応性愛着障害)、人間不信に陥りやすくなります。朋美にも、幼少期の入退院から情緒の不安定さ(ホスピタリズム)による共感性の危うさがありました。「父性」とは、社会の一員として認めていくことです(承認)。この「父性」による幼少期のしつけ(ほめ叱り)によって、子どもの「期待に応えたい」という心理(承認欲求)が満たされ、ルールの学習や攻撃性のコントロールが高まります(規範意識)。こうして、自分は期待に応えているという自信や自尊心が高まります。しかし、親が叱ってばかり(厳格)の場合、子どもは叱られる不安におびえて、自信や自尊心は高まりません。逆に親がほめてばかり(溺愛)やほめも叱りもしない(放任)という場合、ルールの学習や攻撃性のコントロールができにくくなります(規範意識の欠如)。表1 家族機能 「母性」「父性」特徴安全基地(見守り)しつけ(ほめる+叱る)子ども愛されたい(愛情欲求)→自分は大切にされている(共感性、信頼感)→自分を大切にする(自尊心)期待に応えたい(承認欲求)→ルールの学習や攻撃性のコントロール(規範意識)→自分は期待に応えている(自信、自尊心)→相手を信じ頼る(信頼感)、相手に期待する→相手を大切にする(他者尊敬)非行(素行障害)の危険因子―表2一般的な非行(素行障害)の原因をまとめましたが、ここでさらに広げて、非行の危険因子を、個体因子(生物学的因子)と環境因子に整理してみましょう。個体因子(生物学的因子)としては、衝動性(ADHD) 、共感性の欠如(広汎性発達障害)、知的能力の制限(知的障害)などが挙げられます。特に、これらの個体因子は、これだけでは非行(素行障害)を引き起こしにくく、環境因子と絡み合うことで非行のリスクを高めます。環境因子としては、非行の原因でもすでに触れました。それは、心のよりどころ(安全基地)がないこと、子どもの考えや行動が尊重(承認)されないこと、つまり家族の力がうまく発揮されていない状況と言えます(機能不全家族)。また、原作では、「殴られるくらいなら、殴る方の仲間に入ってやれと思って先輩の仲間に近づいた」と朋美が友達に話しています。ここからも分かりますが、不良グループに繰り返し暴行を受けるという体験や親から虐げられる体験(虐待)は、不適切なモデルを学習しやすくなります(モデリング)。さらに、父親が「積木くずし」を出版したことで、朋美は「積木の子」というレッテルを張られ、普通の就労が難しくなり、悪の道から抜けられなくなっていきます(ラベリング)。表2 非行の危険因子個体因子(生物学的因子)環境因子衝動性(ADHD)共感性の欠如(広汎性発達障害)知的能力の制限(知的障害)機能不全家族承認の欠如→規範意識の欠如安全基地の欠如(反応性愛着障害)モデリングラベリング「積木」はどうやって元に戻すのか? ―家族機能の回復絶望的になった両親は、ついに警視庁の専門家に相談をします。そこで、専門家の先生から5つの約束事とシンナーを現場で見つけた時の対応が提案されます。親の方から話し合いをしない。子どもから話してきたら愛情を持って、相づちを打つだけ。親の意見は言わない。交換条件を出さない。相手の条件も受け入れない。他人を巻き込まない。どんなに悪い友達でも、その友達や親に抗議をしたり電話をかけない。日常の挨拶は、子どもがするしないにかかわらず、「おはよう」「おかえり」「おやすみなさい」などは親の方からきちんとする。子どもが応じなくても、叱ったり小言を言ったりしない。友達からの電話連絡は、内容のいかんにかかわらず、事務的に正確に本人に伝える。シンナーを吸っている現場を見つけたら取り上げる。ただし絶対に怒らない。その提案は自分たちがやってきたこととは真逆であることに両親は気付き、打ちのめされます。両親が戸惑っていると、専門家の先生はさらに付け加えます。「親が怒ってシンナー止められるんだったら、シンナー吸ってる子なんかいません」「あれは本人が止めようと思わない限り、絶対に止められないんです」「もし万が一のことがあればそれがお子さんの寿命です」と。これらの提案から読み取れることは、2つです。1つは、本人を叱ったり小言を言ったりせずにそばで見守ることで、本人が大切にされていること、家族が一番安心で安全な場所であることを示すことです(安全基地)。例えば、朋美の初めての朝帰りのシーンを振り返ってみましょう。母親は学校に行けと焦って連呼していました。しかし、そうではなく、一呼吸入れてどっしり構えて「とても心配しているよ」「あなたは大事なんだから」と伝えることです。実際に母親は、朋美の成人後に「ママの子どもに産まれてきてくれてありがとう」と言っています。もう1つは、本人を一人の大人、個人として認め、本人の生活スタイルを本人の自由にさせ、責任感を持たせることです(承認)。本人の世界(自己)を尊重(承認)すると同時に、シンナー乱用、暴力、万引きなどの絶対にやってはならないことについては、感情的にならず、社会のルールにのっとって接することです。警察への通報もためらわないことです。こうして、本人がルールを守ることで本人をさらに認めていくことです(承認)。もちろん死んでしまったらそれがその子の寿命とする割り切り方は、そんなに簡単にはできるものではないでしょう。しかし、そうしなければならないくらいに、この家族の関係(家族機能)は追い詰められていたのです。さらに、ストーリーの後半で描かれていることとして、親が何かに一生懸命に取り組んで生き生きと楽しんでいる背中を見せることです(モデリング)。朋美は、成人後に「積木くずしの娘なんてどこも雇ってくれないわよ」「積木くずしを逆手に取って恥さらして生きていくしかしょうがない」と父親に言います。父親も、世間のバッシングから職を失いかけていました。しかし、父親の幼馴染みから「稲ちゃん(父親)が立ち直れば朋美ちゃんも絶対に立ち直れる」と励まされたことで、父親は立ち直り、役者業に励みます。そして、朋美もその姿を見て立ち直るのです。親が言葉であれこれ言うのではなく、実際に良いお手本(モデル)をやって見せ続けていることが、悪いお手本に子どもの目を向けさせにくくなるのです。表3 非行の心理の特徴とその対応 刹那主義逸脱行動の演出特徴もともと自分は大切にされていない(自己否定)→自分を大切にしない(自己評価の低下)→自分はどうなっても良い(自己破壊性)→今が良ければ良い(刹那主義)家族が心のよりどころとして当てにできない(信頼感の欠如)→家族に見切りを付ける→一人前(大人)に早くなりたい→その手段として普通の子にはできないすごいことをやる→見捨てられても大丈夫な自分を演出する対応見守ることで、本人が大切にされていること、家族が一番安心で安全な場所であることを示す(安全基地)本人を一人の大人、個人として認め、自由と責任感を持たせる(承認)親が何かに一生懸命に取り組んで生き生きと楽しんでいる背中を見せる(モデリング)反抗はなぜ「ある」のか?これまで、「なぜ反抗するのか?」という反抗のメカニズムを解き明かしてきました。それでは、そもそもなぜ反抗は「ある」のでしょうか?その答えを進化心理学的に考えれば、反抗は、親から独り立ちするために必要な心理だからです。反抗は大人になるための証とも言えます。本来、多くの動物は、生まれ出たらすぐに独りで生きていきます。ところが、人間は、養育の期間(幼少期)が圧倒的に長く、その期間に親に従順であることで生存率が高まります。そして、脳の発達が90%を超える8~10歳頃から少しずつ親に反抗していくことで、独り立ちして繁殖率を高めます。逆に言えば、反抗の心理がなければ、いつまでも親から離れていかなくなり、子孫を残せないということになります。子孫を残せない種は存在しないです。思春期の反抗とは、もともとあるものです。視点を変えれば、反抗とは、子どもが親の言う通りにならなくなったことを好ましく思わない親側の発想と言えます。本来は、ほどほどの反抗で収まるはずです。しかし、これまで触れてきた原因や危険因子によって反抗の心理が過剰になると、親だけでなく学校を含む世の中(社会)に対してまで反抗的になり、非行に走るのです(素行障害)。反抗的な人とは?―二面性―表4本来は、実際に大人(20歳)になったら、反抗の心理は低まります。なぜなら、社会的な責任がもう反抗して自分が大人であることをアピールしなくても大人になってしまっているからです。しかし、大人になっても反抗の心理が残り、行動パターンとなっている場合があります。それは、不平不満を言い続けるあまのじゃくように消極的(受動的)な反抗(攻撃)を繰り返す性格です(受動攻撃性)。これは、さきほど触れた安心感(安全基地)や自尊心(承認)が充分に満たされていないため、相手(社会)への敬意が払えず、自分が損をすることに敏感になっているためです。ただ、あまのじゃくは裏を返せば、問題意識が高いとも言えます。つまり、反抗の心理には、マイナス面だけでなく、プラス面として見ることもできるということです。特に、プラス面として、旧来の価値観(安全基地)では満たされないために、見切りを付け、新しい価値観(安全基地)を探索しようとする心理とも言えます。また、反抗の行動パターンが、法律に触れるレベルで固定化する場合もあります。それは、反社会的行動を繰り返す犯罪者の性格です(反社会性パーソナリティ障害)。彼らは、不良グループ→暴走族→暴力団や犯罪集団などの反社会的勢力というアウトローな道を歩み続けます。これも、さきほど触れた共感性や信頼感が充分に育まれていないため、相手(社会)を大切に思えず、自分が損をしないために相手(社会)を利用しようとするためです(搾取性)。表4 反抗の心理の二面性マイナス面プラス面あまのじゃく、へそ曲がり、ひねくれクレーマー、言いがかり、揚げ足取り斜に構え、皮肉屋、辛辣、毒舌反逆児高い問題意識、観察眼反骨精神、革新、改革、革命パラダイムメーカー、パイオニアハングリー精神ヤンキーとは? ―文化としての反抗さきほど反抗の心理で触れました一人前に見せるために「すごいこと」をする文化があります。それが、ヤンキー文化です。ヤンキーとは、もともとはアメリカ人(yankee)の金髪などの格好を真似た不良に由来するという説があります。さらに遡れば、伝統的な農村にあった年齢階梯制の「若い衆」に由来します。それが、戦後の都市化によってヤンキー文化として形を変えていったのです。それでは、このヤンキー文化を、彼らが好きな言葉である「舐めんな」「気合い」「絆」の3つから解き明かしてみましょう。そして、その二面性を考えてみましょう(表5)。(1)「舐めんな」―強さへの葛藤1 つ目は「舐めんな」です。これは、相手に舐められない、つまり「すごい」と思われるために、周りを威嚇する強そうな格好や行動をすることです。そのためには、普通の人とは違ったことをする必要があります。それが、彼らの独特のファッションやキャラクターを生み出しています。例えば、ファッションとしてはリーゼント、サングラス、改造学生服、特攻服、革ジャン、改造車(いわゆるヤン車)などです。これらの光るもの(発光性)や尖っているもの(屹立性)は、とにかく目立ち、人目を引くことに意味があります。その一方で、やり過ぎにより、悪趣味(バッドセンス)になっているとも言えます。また、キャラクターとしては、オラオラ系、ちょいワル、ツヨメなどです。日頃から周りに威圧的な態度を取り、トラブルになった時は、睨んで威嚇して「かかって来いよ」と挑発します。ただし、彼らは、実際に相手がかかって来て殴り合いになることを望んではいません。あくまで彼らの目的(心理)は、法に触れないぎりぎりを渡り歩いて「ワルっぽさ」や「ヤバそうな雰囲気」を「武勇伝」として周りに誇示することです。なぜなら、本当のワル(犯罪者)になることは周りから蔑まれるのを彼らは知っているからです。そもそもなぜ彼らはそこまで強がるのでしょうか? それは、彼らに強さへの憧れ(葛藤)があるからです。そして、この心理は、さきほど述べた非行の危険因子によって強まります。進化心理学的に考えれば、野性的な強さの誇示は、彼らの本能的な生存戦略であり繁殖戦略であると言えます。これは、ちょうどクジャクの羽がきれいな理由に通じるものがあります。他の同性よりも目立って強そうに見えることは、同性への牽制と異性へのセックスアピールとなり、生存率や繁殖率を高めるからです。(2)「気合い」―承認への葛藤2つ目は「気合い」です。これは、「すごいこと」をしようとするための意気込みです。例えば、「ビッグになる」「グレートになる」「成り上がり」「パナイ(半端じゃない)」という言い回しです。ただし、これらの言葉には、意気込みはとても感じられるのですが、具体的ではなく、中身が見えません。実は、彼らにとって中身や結果はそれほど重要ではないのです。その裏付けとして、彼らが「すごいこと」を意気込みつつ、同時に「ありのまま」「本音でぶつかる」という言葉も好きだと言うことです。彼らは現状肯定的で迎合的でもあるということが読み取れます。そもそも本当にビッグになる人は、揺るがないビジョン(中身)を持って、本音と建て前をうまく使い分けて出世して、世の中を変えていく人です。つまり、ヤンキーの彼らにとっては、「何を(what)やっているか」ではなく「どう(how)やっているか」、つまり普通ではない生き方という美学が大切なのです。そもそもなぜ彼らはそこまで意気込むのでしょうか? ほどほどではだめなんでしょうか? それは、彼らに「すごいこと」をして認められること(承認)への憧れ(葛藤)があるからです。さきほどの非行の心理でも触れましたが、期待に応えたいという心理(承認欲求)が幼少期に十分に満たされてこなかったという現実があります。そこから、「すごいこと」をして周りを見返したい、つまり期待に応えたいという心理(承認欲求)が人一倍強いのです。(3)「絆」―安全基地への葛藤3つ目は、「絆」です。これは、家族や仲間との結び付きを過剰に意識することです。本来、思春期は、親から離れて、同性同年代の仲間(ギャング)をつくる時期(ギャングエイジ)です。そこで、自分と相手(社会)との距離感を探っていきます(アイデンティティの確立)。そして、成人期には、反抗の心理が低まり、親とほどほどの良い関係が再び築かれていきます。ところが、反抗の心理が強い場合、思春期に親や世の中(社会)に過剰に反抗します。その間、仲間との結び付きを強めます。そして、成人期になると、親との関係は両極端のパターンに分かれます。一方はそのまま親と絶縁するパターン。もう一方は、過剰に親思いになるパターンです。そのまま絶縁するパターンは分かりやすいですが、逆になぜ彼らは過剰に親思いになるのでしょうか? なぜほどほどに親思いにならないのでしょうか? それは、彼らに心のよりどころ(安全基地)への憧れ(葛藤)があるからです。さきほどの非行の心理でも触れましたが、愛されたいという心理(愛情欲求)が幼少期に十分に満たされてこなかったという現実があります。自分の味方がほしいという心理が人一倍強いのです。その憧れ(葛藤)が、反抗の心理が低まる成人期には、大きな揺り戻しとなり高まるのです。また、この揺り戻しにより、世の中(社会)に対しては、逆に伝統的な保守派になります。実際に、成人したヤンキーの彼らは、地元愛や愛国心が強い人が多いです。これは、さきほど触れた彼らの現状肯定的で迎合的な態度につながります。心のよりどころへの執着が、親から地元、国家へと広がっていることが分かります。さらに、心のよりどころは、動物や子どもに向けられやすいです。例えば、ヤンキーは猫に優しくします。その姿を見ると私たちはそのギャップに驚き、心温まるかもしれません。しかし、よくよく考えると、ヤンキーだからこそ猫に優しいという可能性も考えられます。その理由は、複雑な家庭環境で生き抜いてきた彼らの心の底には大人の人間への不信感があるからです。一方、子どもや動物は、無邪気で純粋なため、安心して接することができるからです。ヤンキーは、人間関係に葛藤があるからこそ、人が好きです。人助け(絆)が好きです。ヤンキー文化は、モノ(二次元)が好きないわゆる「オタク文化」とは対照的であると言えます。オタクが頭でっかちなのに対して、ヤンキーは「心でっかち」と言えそうです。ヤンキー上がりの人が、一見意外な介護士や看護師などの対人援助職に就くことが多いのも納得がいきます。進化心理学的に考えれば、心のよりどころへの憧れから、早く結婚し早く子どもをつくり新しい自分の家族をつくることは彼らの繁殖戦略と言えます。実際には、結婚が長続きしないカップルが多いのも現実ですが、その機能不全家族で育つ彼らの子どもが再び同じ心理を持つことで、世代間連鎖していくことも考えられます。さらに、仲間(集団)を大切にして仲間(集団)のために一生懸命になる心理は、保守派として世の中(社会)の安定に大きく貢献している点で集団の文化として生存戦略が高いとも言えます。表5 ヤンキー文化の二面性 マイナス面プラス面強さへの葛藤悪趣味目立つ承認への葛藤中身が薄い美学安全基地への葛藤親との葛藤家族愛、地元愛反抗的な人にどう接するか?以上の反抗の心理を踏まえて、反抗的な人、例えばあまのじゃく(受動攻撃性)やヤンキーにどう接するかを考えてみましょう。私たちは、ついその人の言動そのものに目が行きがちです。しかし、そもそも反抗的な人がなぜあまのじゃくやヤンキーなのかを理解していると、より良いコミュニケーションが見えてきます。例えば、その人が部下なら、単純にその人の反抗的な態度を叱って力で抑えてもその人はあまり変わらないでしょう。むしろ、逆です。まずは、叱る前に、些細なことでも何でも良いので、その人をほめ続け、部下として信頼して認めていることを伝えることです。もちろんその人は表面的には素直には受け取らないかもしれませんが、確実にその人の職場での安心感や自尊心は満たされるでしょう。すると、以前よりも不平不満を言うことが減り、改善点を指摘された時の受け入れが良くなることが期待されます。極端な言い方をすれば、コミュニケーションのコツとしては、ほめたいからほめるのではなく、叱る(のを受け入れてもらう)ためにほめるのです。例えて言うなら、叱るという高い買い物をするために、ほめるという貯金をコツコツするということです。このように、反抗の心理をより良く知ることで、私たちが苦手としがちなあまのじゃくやヤンキーな人ともより良いコミュニケーションができるのではないでしょうか? さらには、私たちの中のあまのじゃくっぽさやヤンキーっぽさに気付き、自分を俯瞰(ふかん)して見ることでより良いコミュニケーションができるのではないでしょうか?1)穂積隆信:積木くずし、角川文庫、19822)小栗正幸:行為障害と非行のことがわかる本、講談社、20113)五十嵐太郎:ヤンキー文化論序説、河出書房新書、20094)斎藤環:世界が土曜の夜の夢なら、角川書店、20125)斎藤環:ヤンキー化する日本、角川書店、2014

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Mother(中編)【母性と愛着】

母性と愛着みなさんは、仕事や日常での生活で「誰かに見守られたい」「誰かとつながっていたい」と思うことはありませんか?この感覚の根っこの心理は愛着です。そして、この愛着を育むのは母性です。今回も、前回に引き続き、2010年に放映されたドラマ「Mother」を取り上げます。そして、母性と愛着をテーマに、見守り合うこと、つながること、つまり絆について、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。あらすじ主人公の奈緒は、30歳代半ばまで恋人も作らず、北海道の大学でひたすら渡り鳥の研究に励んでいました。そんな折に、研究室が閉鎖され、仕方なく一時的に地域の小学校に勤めます。そこで1年生の担任教師を任され、怜南に出会うのです。そして、怜南が虐待されていることを知ります。最初は見て見ぬふりの奈緒でしたが、怜南が虐待されて死にそうになっているところを助けたことで、全てをなげうって怜南を守ることを決意し、怜南を「誘拐」します。そして、継美(つぐみ)と名付け、渡り鳥のように逃避行をするのです。実のところ、奈緒をそこまで駆り立てたのは、奈緒自身がもともと「捨てられた子」だったからです。その後に、奈緒が奈緒の実母に出会うことで、奈緒はなぜ捨てられたのかという衝撃の真実を私たちは目の当たりにして、母性とは何かを考えさせられます。奈緒の母性―喜び奈緒は、怜南の母の虐待によって死にかけていた怜南を偶然に救いました。その時、以前から自分が入るための「赤ちゃんポスト」を怜南が探していることを奈緒は知り、心を打たれます。そして、怜南が飛んでいる渡り鳥に「怜南も連れてって~!」と叫んだ時、今まで眠っていた奈緒の母性に火が着いてしまったのです。奈緒は、大学の研究員に戻れるというキャリアを捨てて、そして、たとえ捕まって「牢屋」に入れられるとしても、「私、あなたのお母さんになろうと思う」と思い立ちます。その後、奈緒は「人のために何かしたことなんてなかったから」「子どもが大きくなる」「ただそんな当たり前のことが嬉しかった」と語ります。また、奈緒は、追いかけてやってきた継美(怜南)の実の母に告げます。「あの子はあなたから生まれた子どもです」「あなたに育てられた優しい女の子です」「ホントのお母さんの温もりの中で育つことがあの子の幸せなら」「あの子をお返しします」「あなたがまだあの子に思いがあって、まだあの子を愛して心からあの子を抱き締めるなら」「私は喜んで罰を受けます」「道木怜南さんの幸せを願います」と。母性とは、母の子どもの幸せを一番に願う喜びなのです。施設の母(桃子さん)の母性―安全基地奈緒と継美(怜南)は、逃避行の途中、栃木のある児童養護施設を訪ねることになります。そこは、かつて奈緒が捨てられた5歳から里親に拾われる7歳までの2年間を過ごした場所でした。その施設の母である桃子さんは、「ここで育った子どもたちには故郷がない」「ここで育った子どもたちにとってはここが故郷で、私が親代わりだ」と言っていました。施設、そして桃子さんは、心の拠りどころとなる存在や場所としての役割を果たそうとしていたのです(安全基地)。それは、困った時に逃げられる場所、困った時に必ずそばにいてくれる人です。しかし、奈緒が訪ねた時、施設にいたのは、年老いて認知症になった桃子さんだけでした。そして、桃子さんが高齢者介護施設に引き取られる日が迫っていました。桃子さんは、最初、奈緒のことが分かりませんでした。しかし、最後には、「奈緒ちゃんがお母さんになった」と繰り返し言い、心の底から喜びます。かつて幼い奈緒が「子どもがかわいそうだから」「生まれるのがかわいそうだから」「絶対にお母さんにはならないの」と言ったことを桃子さんは覚えていたのでした。桃子さんは、認知症になりながらも、奈緒の幸せを一番に思っていたのです。育ての母(藤子)の母性―決意その後に、奈緒が身を寄せたのは、育ての母(藤子)の元、つまり現在の東京の実家です。藤子は、2人の実の子たちと分け隔てなく、むしろ奈緒を一番に気遣っています。そこには、藤子なりの決意があったのです。かつて幼い奈緒が、閉ざした心を開きかけた時、藤子は決意します。「世界中でこの子の母親は私1人なんだって」「たとえ奈緒の心の中の母親が誰であろうと」と。このように、育ての母であることは、母性という本能だけでなく、意識する、決意するという理性によっても、親子の関係を強める必要があります。例えば、それは、藤子が「甘えることは恥ずかしいことじゃないの」「愛された記憶があるから甘えられるんだもん」と奈緒に諭すようなブレない心です。実の母(葉菜)の母性―本能奈緒は、継美(怜南)を連れて東京に戻ってきた時、偶然にも、奈緒の実の母である葉菜に、30年ぶりに見つけられます。その時から、葉菜は、奈緒に正体がばれないように「うっかりさん」として継美に近付いていきます。やがて、葉菜は、継美が北海道で行方不明になった怜南という子であること、つまり奈緒の子ではないことを知ってしまいます。しかし、継美(怜南)に「うっかりさん、あなたの味方ですよ」「あなたのお母さんを信じてる人」「ウソつきでも信じるのが味方よ」と告げます。さらに、その後に葉菜は、自分が実の母であることを奈緒に気付かれ、激しく拒絶されます。それでも、奈緒や継美を助けようとします。奈緒が、真相を追いかける雑誌記者(藤吉)に金銭を揺すられた時は、葉菜は嫌がられても自分の貯金を全額、無理やり奈緒に渡そうとします。また、継美(怜奈)の母が追いかけてきたことを知った葉菜は、奈緒と継美に「あなたたちは私が守ります」と力強く言い、自分の家にかくまいます。奈緒と継美と葉菜の3人で遊園地に行った時のことです。奈緒は「(かつて遊園地でいっしょに楽しんだ後に自分を捨てたのにまた楽しんでいて)ズルイなあ」とつぶやきます。すると葉菜は「ウフフ、そうズルイの」「楽しんでるの」とほほ笑み、言い訳などせず、奈緒の気持ちをそのまま受け止めます(受容)。また、葉菜は奈緒に「一番大事なものだけ選ぶの。大事なものは継美ちゃん」と言い、非合法的に2人の戸籍を入手しようともします。そして、「大丈夫、きっとうまくいく」と安心させます(保証)。藤子(奈緒の育ての親)が、実の子どもたちを守るために苦渋の選択で、理性的に奈緒の戸籍を外そうとしていたのとは対照的です。このように、母性とは、どんな時でもどんな場所でも自分の子どもを許し、存在そのものを肯定する心理です(無条件の愛情)。もはや理性や理屈ではありません。ラストシーンでは、葉菜の真実が明かされます。その時、私たちは、葉菜が奈緒を捨てなければならなかった本当の理由、そして葉菜が自分の人生をなげうってでも十字架を背負ってでも奈緒を守る、ただただ奈緒の幸せを願う、そして自分が犠牲になることに喜びさえ感じる葉菜の究極の母性を目の当たりにします(自己犠牲)。それは、本能であり、突き動かされる「欲望」でもあったのです。母性の心理の源は?これまで、奈緒、施設の母(桃子さん)、育ての親(藤子)、そして実の母(葉菜)のそれぞれの母性を見てきました。母性には、喜び、安全基地の役割、決意、無条件の愛情、自己犠牲の本能など様々な心理があることも分かってきました。このドラマのキープレーヤーとして登場する雑誌記者(藤吉)は、葉菜(奈緒の実の母)の真実を追い求める中、葉菜がかつてある事件を起こしていた事実に辿り着きます。そして、葉菜の友人であり、かつて葉菜を取り調べた元刑事から、「人間には男と女と、それにもう1種類、母親というのがいる」「これは我々(男性)には分からんよ」と聞かされます。そして、「聖母」という母性に辿り着きます。それほど母性とは、独特なものであると言えます。タイトルの「Mother」の「t」が十字架のように浮き彫りになって教会の鐘が鳴る毎回のオープニングクレジットは、とても象徴的です。それでは、なぜ母性はこのような心理になるのでしょうか?そもそもなぜ母性はあるのでしょうか?その答えは、母性とは私たち哺乳類などの動物が、進化の過程で手に入れた生理的なシステムだからです。哺乳させる、つまり乳を与えるという授乳の行為は、自分の栄養を与えるという自己犠牲の上に成り立っています。そこから、身の危険を冒してでも、子どものためにエサを取ってくる行為に発展していきます。そして、人間においても、母が子どものことに全神経を傾けて過ごし(母性的没頭)、子どもが生き延びるためにその子にありったけのものを与えます。これは、命をつなぐために不可欠な生物学的な営みです。このような行為を動機付ける心理が母性です。そこに見返りはありません。「そうしたいからしている」という欲求なのです。哺乳類が誕生した太古の昔から、この「子どもを守りたい」と思う種ほど生き残り、より多くの子孫を残す結果となりました。そして、この心理がより働く遺伝子が現在の私たち、とくに女性に引き継がれています。母性と愛着―親と子どもを結ぶ絆奈緒は、葉菜が自分の実の母だとは知らずに語ります。「無償の愛ってどう思います?」「親は子に無償の愛を捧げるって」「あれ、私、逆だと思うんです」「小さな子どもが親に向ける愛が無償の愛だと思います」「子どもは何があっても、たとえ殺されそうになっても捨てられても親のことを愛してる」「何があっても」「だから親も絶対に子どもを離しちゃいけないはずなんです」と。また、奈緒は、押しかけてきた継美(怜南)の実の母にはこう訴えます。「親が見ているから、子どもは生きていけるんじゃないでしょうか」「目を背けたら、そこで子どもは死んでしまう」「子どもは親を憎めない生き物だから」と。さらに、その後に奈緒は、実の母と知った葉菜に言います。「(継美が)あなたに愛されていること」「何のためらいもなく感じられてるんだと思います」「子どもを守ることは、ご飯を作ったり食べたり、ゆっくり眠ったり、笑ったり遊んだり」「(子どもが)愛されてると実感すること」と。このように、母から子どもへの母性と子どもから母への愛着によって結ばれる絆は、もともとそのままあるものではありません。母の母性と子の愛着がお互いを求め合って、固く太く育まれていくものです(相互作用)。この絆が土台となり、やがて大人になった時に、他人との新しい絆を作っていくことができるようになります。そして、やがてその子どもがさらにその子どもの子どもに対して母性を注ぐことができるようになるのです。こうして、命は引き継がれていくのです。愛着ホルモン―オキシトシン継美(怜南)は、一時期、奈緒の実家に落ち着きます。その時、部屋で奈緒に「大事、大事」とささやかれ、髪を撫でられて、心地良さそうです。また、葉菜(奈緒の実の母)は理髪店を営んでいたこともあり、奈緒に髪を切ってあげることで、奈緒は幼い時にも同じように葉菜に髪を切ってもらっていたこと、そして思い出せなかった葉菜の顔を思い出します。これは、ちょうど私たちと遺伝的に近いチンパンジーやサルが毛づくろいをして、体が触れ合うことで親近感や社会性を増す場面と似ています。このように心や体が触れ合い絆を育む時、脳内では、オキシトシンなどの神経伝達物質が活性化していることが分かっています。つまり、愛着形成とオキシトシンの分泌や受容体の増加は、密接な関係があります。もともとオキシトシンは脳内のホルモンで、出産の時の子宮の収縮やその後の乳汁の分泌を促します。しかし、それだけではなく、抱っこや愛撫などの肌の触れ合い(スキンシップ)によっても、母子ともに分泌が促されるのです。オキシトシンは、母性の心理の原動力となるものです。と同時に、子どもの愛着の心理の原動力ともなっているのです。つまり、母性や愛着の心理は、オキシトシンなどの神経伝達物質によって、生物学的に裏付けられていると言えます。絆の土台作りの締め切り日―愛着形成の臨界期―グラフ奈緒は5歳の時に捨てられており、継美(怜南)は4、5歳の時から継美(怜南)の実の母やその恋人から虐待を受け続けています。しかし、奈緒は継美への母性を発揮することができて、継美は奈緒への新たな愛着を発揮することができました。奈緒も継美も、かつて絆壊し(脱愛着)が起きているのに、どうしてまた新たな絆作りができたのでしょうか?その理由は、奈緒は5歳の時まで実の親(葉菜)によって大切に育てられていたからです。そして、継美(怜南)は4、5歳の時まで継美(怜南)の実の母によって一生懸命に育てられていたからです。また、継美(怜南)は、子守り(ベビーシッター)をしてくれる愛情深い近所の人(克子おばさん)によってかわいがってもらっていたからです。母性が注がれることによって育まれる愛着の心理(能力)は、その基礎を育む期間に期限があります(臨界期)。つまり、絆の土台作りには、締め切り日がすでにあるということです。それは、まさに乳児期、厳密には生後1年半(長くて2年)までということが分かっています。ラストシーンの奈緒から継美(怜南)への手紙の中で、「(渡り)鳥たちは星座を道しるべにするのです」「それをヒナの頃に覚えるのです」「ヒナの頃に見た星の位置が(渡り)鳥たちの生きる上での道しるべとなるのです」とあります。これと同じように、この臨界期は遺伝的に決まっているのです。オキシトシンのパワー(1)精神的に安定する力この臨界期のオキシトシンの活性化によって高められる心理(能力)は、愛着だけでなく、人間的な共感性や安心感、そして知性であることが科学的に裏付けられてきています。昔からのことわざである「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものです。数え年を差し引けば、「三つ子」は生後1年から2年であり、愛着形成の臨界期にほぼ一致します。厳密には、この心理を左右するのは、オキシトシンだけでなくバソプレシン(オキシトシンと同じ下垂体後葉のホルモン)の分泌や受容体がどれほど働いているかということも分かってきています(オキシトシン・バソプレシン・システム)。さらに、この2つのホルモンは、快感や学習に関する脳の領域を刺激することも判明しています。つまり、この心理は、それ自体が快感であり(ドパミン・システム)、安心であり(セロトニン・システム)、さらに知性を高め、精神的に安定する力を強めます(レジリエンス)。逆に言えば、親の多忙やネグレクト(育児放棄)によって、2歳までに母性が子どもに十分に注がれていないと、その後にどうなるでしょうか?愛着ホルモン(オキシトシンやバソプレシン)が活性化しないので、共感性や信頼感が育まれにくく、情緒が不安定になりやすくなります(反応性愛着障害、情緒不安定性パーソナリティ障害)。また、連鎖的に安心ホルモン(セロトニン)が活性化しないので、不安やうつになりやすくなります(不安障害、うつ病)。そして、快感ホルモン(ドパミン)が活性化されないので、いつも欲求不満で、その満たされない心を別の何かで満たそうとして、食べ物、お酒、ギャンブル、薬物にはまりやすくなります(摂食障害、依存症)。さらに、学習ホルモン(ドパミン)が活性化しないので、知的な遅れや発達の偏りにも影響を与えるリスクが高まります(知的障害、発達障害)。このように、乳児期の母性の不足は、様々な精神障害を引き起こすリスクを高め、精神的にとても脆く弱くなってしまうのです(脆弱性)。「すきなものノート」―愛着対象の代わり怜南(継美)は、奈緒に出会った時にあるものを見せます。そして、「私の宝物」「好きなものノート」「好きなものを書くの」「嫌いなものを書いちゃだめだよ」「嫌いなもののことを考えちゃだめなの」と言います。怜南が実の母やその恋人から虐待を受け続ける中、怜南の愛着は大きく揺らいでいました。そんな中、見いだされたのがこの「すきなものノート」、つまり愛着の相手(対象)の代わりです。本来、愛着の対象が代わるのは、母性により十分な愛着が育まれた上で、愛着の対象が広がり移っていくことです(移行対象)。しかし、怜南の場合は、実の母の虐待により愛着が壊されたことで(脱愛着)、代わりの愛着の対象を見いだしています。この「すきなものノート」は、大切にできるものを持とうと怜南なりに何とか自分の心のバランスを保とうとして生まれたものだったのです。オキシトシンのパワー(2)誰かを大切に思える力葉菜(奈緒の実の母)は、実は自分が白血病で命の期限が迫っていることを隠していました。そんな葉菜の主治医が「目の前に死を実感してあんなに元気な人、初めて見ました」と奈緒に打ち明けます。奈緒は葉菜に「(こんなにしてくれるのは)罪滅ぼしですか?」と問いかけると、葉菜は穏やかに答えます。「今が幸せだからよ」「幸せって誰かを大切に思えることでしょ」「自分の命より大切なものが他にできる」「こんな幸せなことある?」と。そして、告知された余命の期限を過ぎても生き生きと生き続けるのです。葉菜は、30年前に奈緒を連れて警察に追われていた時の気持ちを奈緒に打ち明けます。「何をやってもうまくいかなくてね」「心細くて怖かった」「でもね、内緒なんだけどね」「あなた(奈緒)と逃げるの楽しかった」と。たとえどんな困難でも、わが子を守るために必死だったからこそ、その恐怖は喜びに変わるのです。亡くなる直前も、「ラムネのビー玉、どうやって入れてるのかしらね」と継美(怜南)の質問を気にかけて幸せそうです。そして、葉菜の死に際の走馬灯を通して、葉菜が一生をかけて守ろうとした真実を私たちは知ることになります。このように、「誰かを大切に思えること」の源の心理は母性です。この心理から、ライフパートナーや家族や親戚との絆(家族愛)、近所や地域との絆(郷土愛)へと「大切に思える」対象が次々と広がっていきます。これらの心理も、オキシトシンの活性化に支えられています。例えば、結婚式の誓いの言葉の瞬間には、オキシトシンの分泌が高まっていることが分かっています。つまり、オキシトシンは、母子の体のつながりの温かさだけでなく、人と人の心のつながりの温かさを求める働き(欲求)があります(求温欲求)。オキシトシンは、愛着ホルモンであるというだけでなく、人と人とをつなげる信頼ホルモン、献身ホルモン、そして絆ホルモンであるとも言えます。そして、この心理の高まりによって、私たちは恐怖や困難を前向きに感じるようになります(レジリエンス)。葉菜と同じように奈緒も、継美(怜南)を守り気にかけることで成長し強くなっています。奈緒は20歳の継美(怜南)への手紙に「あなたの母になったから、私も最後の最後に(1度自分を捨てた)母を愛することができた」「あなたと出会って良かった」「あなたの母になれて良かった」「あなたと過ごした季節」「あなたの母であった季節」「それが私にとって今の全てであり」「そして(大人になった)あなたと再びいつか出会う季節」「それは私にとってこれから開ける宝箱なのです」と感謝します。子どもを養うことは、自分の心が養われることでもあるのです。つまり、「誰かを大切に思えること」は、負担ではなく、原動力なのです。さらに、最近の研究で、オキシトシンの活性化は、ストレスへの耐性など精神的な健康を高めるだけでなく、葉菜が長生きをしたように免疫力などの身体的な健康を高めることも分かってきています。つながり(絆)の心理の人種差―遺伝的傾向愛着の心理は、つながり(絆)の心理の土台であることが分かってきました。この心理の過敏さ(過敏性)には人種差があるでしょうか?答えは、あります。最近の遺伝子の研究によって、人種差があることが判明しています。欧米人の子どもに比べて、日本人などのアジア人の子どもは、愛着に敏感な遺伝子をより多く持っています。欧米人の遺伝子は愛着に敏感なタイプが3分の1、鈍感なタイプが3分の2です。それに対して、アジア人は敏感タイプが3分の2、鈍感タイプが3分の1です。ちょうど割合が逆転しています。つまり、欧米人は愛着に鈍感なので、母性が不足した環境で育っても充足した環境で育ってもあまり影響を受けずにドライに育ちます。一方、アジア人は愛着に敏感なので、母性が不足した環境で育つと大きく影響を受け、精神的に不安定になり、傷付きやすくなります。逆に、母性がより充足した環境で育つと、やはり大きく影響を受け、精神的により安定し、つながり(絆)の心理が高まり、よりウェットに育つということです。以上から言えることは、そもそも遺伝的傾向の違いがあるため、欧米で当たり前に行われている早期の自立や甘えを許さない子育ての方法をそのまま安易に日本で真似することは危ういということです。日本人の生活スタイルが欧米化しつつあります。だからこそ、よりつながりを意識した子育てや人間関係のあり方を見つめ直す必要があります。集団主義の源は?―3つの仮説それでは、そもそもなぜアジア人と欧米人でこの割合の違いが起きているのでしょうか?言い換えれば、なぜアジア人はつながりに過敏な遺伝子を多く持っているのでしょか?3つの仮説が考えられます。1つ目は、人類大移動のために必要な遺伝子だったという仮説です。6万年前に私たち人類の祖先たちは、生まれたアフリカの大地を出て、世界に広がっていきました。その時、ヨーロッパに比べてさらに遠いアジアの地に辿り着くためにはより協力する、つまりつながり(愛着)の心理を敏感に持つ必要がありました。その遺伝子を持つ祖先がより生き残り、現在の私たちアジア人、特にアフリカから比較的に遠い日本人により多く受け継がれている可能性が考えられます。なお、アメリカ人の多くは、もともとヨーロッパからの移民なので、遺伝的にはヨーロッパ人と同じと考えます。2つ目は、過酷な風土に居つくために必要な遺伝子だったという仮説です。特に日本は、地震、津波、台風、火山などの不安定な風土であるため、人々は絶えず絆を意識して助け合いました。また、島国で国土が狭いため、隣人に気遣いを忘れないようにしました。つまり、つながり(愛着)の心理を敏感に持つ必要がありました。その遺伝子を持つ人が、子孫を残す結婚相手としてより選ばれたと言うことです。3つ目は、つながりに過敏な遺伝子は多数派になることで強化されていったという仮説です。大移動が終わり、過酷な風土に適応した後も、文化として根付いていき、多数派になりました。つまり、文化的な価値観として、この遺伝子を持つ人が結婚相手としてより選ばれ、子孫を残し続けてきたと言えます。従来から、欧米人は個人主義的で甘えを許さないドライな民族で、アジア人、特に日本人は集団主義的で甘えを許すウェットな民族であると言われてきました。この違いは、単なる文化(環境因子)によるだけでなく、遺伝的傾向(個体因子)にもより、さらにはこの2つ要因がお互い絡み合った結果(相互作用)によると言えます。特別な誰かに大切にされた記憶―愛着の選択性奈緒が捕まった時のエピソードでは、継美(怜南)は児童養護センターに入り、他の子どもたちと楽しそうにしています。しかし、執行猶予が付いて解放された奈緒に、継美は電話をかけ続けます。そして、「お母さん、いつ迎えに来るの?」「もう1回、誘拐して」と涙を流して言うのです。本当のところ、心は満たされていないのでした。愛着という絆は、必ずしも相手が、実の母である必要はなく、育ての母でも良くて、祖母でも良くて、母性的にかかわることができる父でも良いのです。大事なのは、子どもと絆を結ぶ相手が特別な誰かであるということです。特別な誰かに母性を注がれること、つまり愛されることです(愛着の選択性)。これは、イスラエルの農業共同体キブツでの実験的な試みの失敗が裏付けています。そこでは、乳幼児を交代制で集団的に育児して、育児する母と育児される子が同じにならないようにしました。その後、そこで成長した多くの子が、愛着や発達の問題を多く認め、精神的に脆く弱くなってしまったのです。渡り鳥の道しるべ―絆奈緒は病床の葉菜(奈緒の実の母)に「もう分かっているの」「離れていても」「今までずっと母でいてくれたこと」「だから今度はあなたの娘にさせて」と打ち明けます。奈緒と葉菜が、30年の時を経てつながりを確認し合った瞬間です。奈緒は、渡り鳥として最後は実の母の元に戻ることができました。奈緒は、自分が「牢屋」に入ってでも、継美(怜南)を守ろうとしました。そんな奈緒は、継美にとって特別な存在です。奈緒は警察に捕まった時、継美に「覚えてて」「お母さんの手だよ」「継美の手、ずっと握ってるからね」と伝えます。また、最後のお別れの時、「離れてても継美のお母さん」「ずっと継美のお母さん」「そしたら(大人になったら)また会える日が来る」「お母さん、ずっと見てるから」と言います。奈緒から20歳の継美への手紙には「幼い頃に手を取り合って歩いた思い出があれば、それはいつか道しるべとなって私たちを導き、巡り合う」と記されます。特別な誰かが身を犠牲にして守ってくれた、大切にしてくれたという確かな記憶、そして自分の幸せを心から願い続ける誰かがいるという実感が、子どもにとっては心の拠りどころや支え(安全基地)、つまり絆となっていくのです。それはまさに、渡り鳥の「道しるべ」です。そして、やがてその子どもが大人になった時、自分が新しい特別な誰かの心の拠りどころや支えになり、新しい「道しるべ」をつくっていくのです。1)愛着崩壊:岡田尊司、角川選書、20122)進化と人間行動:長谷川眞理子、長谷川寿一、放送大学教材、20073)人類大移動:印東道子、朝日新聞出版、2012

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妹の恋人【統合失調症】

統合失調症統合失調症を描く映画やテレビドラマは、深刻で重い作品が多いようですが、「妹の恋人」は軽いタッチで現代風です。コミカルでラブロマンスもあり、安心して見ることのできる映画です。主役のサムは若かりし頃のジョニーデップが演じており、これは見逃がせません。ヒロインのジューンは、幼い頃に火事で両親を亡くして以来、そのショックで心を病んでしまい、統合失調症を発症してしまいます。家で気ままに好きな絵を描いて過ごしていますが、兄に雇われてやってくる家政婦が気に入らず難癖をつけてしまうので、家政婦は毎回すぐにやめてしまいます。遊びで兄と卓球をしていても、「ズルしたのは兄だ」と言い張り、挙句の果てにものを投げるなど聞き分けのない一面もあります。そして、腹いせに火遊びを部屋の中で悪びれもなくしてしまいます。また、外出する時にシュノーケルをかぶり片手に卓球のラケットを持ち交差点で騒ぎを起こし、事態を収拾させようとする警官に「私には外出する権利がある」と告げるなど、まとまりのない言動も見られます。これは、支離滅裂と呼べる病気の症状です。このように、もともとの気ままな性格に加えて病気の症状も重なると、自立して日常生活を送ることは難しくなっていきます。一方、兄ベニーはただ一人の家族であるそんな妹ジューンを自分のこと以上に大切に見守ってきました。町の自動車修理屋で働いていますが、仕事中もいつもジューンのことが気になり、しょっちゅう電話をしています。ジューンの世話に追われてしまうため、せっかく魅力的な女性からデートに誘われても断ってしまう始末です。このままだと自分の生活が潰れてしまうと思いつつも、妹の主治医から勧められるグループホームに入れるかどうかで頭を抱えます。そんな折、ポーカーゲームで負けた罰ゲームとして友人の従兄弟であるサムを居候させることになります。学習障害転がり込んできた居候のサムは、風変わりな出で立ちでほとんど無口ですが、パントマイムなどの大道芸に才能があり、彼のしぐさや芸は見る者を虜にしていきます。そして、そんなサムにジューンは好意を寄せていきます。サムはビデオ屋でちゃんと接客ができていますが、読み書きができないという点で学習障害が疑われます。ジューンとサムは出会った瞬間からお互い惹かれあい、その素朴で純粋に相手を思う気持ちが、見ている私たちにも伝わってきます。もともと、精神障害者も根は私たちと同じです。しかし、いまだに、精神障害者=「頭がおかしい」=「何をするか分からない」という図式が昔から根強く残っているのも事実です。実際、テレビや映画の中で怪物のような犯罪者が描かれ、よく誤解を招いています。この映画の中で触れられている劇中映画「高校生連続殺人鬼」でも相手を切り刻み返り血を浴びて高笑いしている殺人鬼のシーンがあり、衝撃的です。これはあえて反面教師として教訓的に出した脚本家の意図があると思いますが、皮肉なものを感じます。精神障害者と犯罪者は全く別の次元で捉えてほしいです。まれに凶悪な犯罪者が精神障害者であったというニュースが流れると、それが誇張されていくのではないかと悲しい気持ちになります。この映画では、ジューンとサムは偶然的な出会いをしますが、実際には作業所、デイケア、障害者のイベント、病院・クリニックの外来などで障害者同士が出会い仲良くなることは多々あり、結婚することも少なからずあります。2人の惹き合う気持ちがクライマックスに達し、手で油絵を描くシーンや風船でメロディを奏でるシーンは他愛もないですが、BGMがぴったりで幻想的でロマンチックです。一方、兄ベニーとウェイトレスで友達のルーシーとの恋仲は、お互いの気持ちを薄々感じつつもその気持ちの表し方が儀式的で遠回し、時にひねり過ぎて回りくどく、そして自分の気持ちとは裏腹の態度を示し駆け引きをしようとします。ちょうどジューンとサムとの純で正直な関係とは対照的で、その違いが際立っていておもしろいです。心理教育ベニーは自分の人生を犠牲にしてまでジューンのことを大切に思うわけですが、この兄ベニーの妹ジューンへの関わり方は、強く愛しているだけに過干渉で批判的になりがちです。これは、「家族の感情表出(EE, expressed emotion)」と呼ばれ、ベニーのような家族を「高EE家族」と呼んでいます。ベニーは、介護疲れのストレスも溜まるなか唐突に妹とサムとの恋仲の関係を聞かされたことを引き金に、ジューンに「おまえはクレイジーだ」「施設行きだ」と言い放ってしまいます。そして、ジューンの緊張と不安はピークに達してしていきます。ジューンは兄ベニーにサムとの恋愛を否定され、サムと駆け落ちしようとバスに飛び乗るわけですが、あまりの緊張と不安でストレスが極限状態に達します。バスの中で病状は悪化し、周りの物音に対して過敏になり、幻聴も聞こえてきます。その辛さでパニックになり、言動がまとまらなくなります。結局、バスの中で暴れてしまい、救急隊に取り押さえられて閉鎖病院に運ばれてしまいます。以前の診察の時に主治医の先生が兄ベニーに説明する場面でも「彼女にはストレスと神経のイラつきが一番の敵なの」と言っているように、ストレスは病状に大きく影響します。幸いにも、サムの人を惹きつける個性に影響を受けベニーの視野は広くなっていたのと、サムの「あんたは何を怖がっているんだ?」との一言で、自分と妹との関係を見直すようになります。ベニーは自分が妹のことで頭がいっぱいになり過ぎていたことにようやく気付いたのでした。心の病を持つ人に対しての適度な距離感を意識することの大切さをこの映画から学び取れることができます。その後のベニーとサムが協力して閉鎖病棟に忍び込むシーンはコミカルで楽しいですし、ジューンの3階の病室の窓の外にサムが宙にぶら下がって飛んでいるシーンはメルヘンチックで感動的です。グループホーム前半の部分でジューンの主治医が兄ベニーに勧めていた「グループホーム」は、日本語の字幕が「施設」となっているので、私は少し違和感を持ってしまいました。施設という言葉の響きが「孤児院」「矯正施設」などのネガティブなイメージを連想してしまうからです。「グループホーム」は、場所にもよりますが、もっと自由で寮みたいなところです。世話人さんと呼ばれる寮長さんみたいな人がいます。病院生活と独り暮らしの間を取り持つクッション的な存在で中間施設の一つです。主治医の先生自身がグループホームを勧める理由はいくつかありました。まず、そもそも家に閉じこもりっきりで、かかわるのは兄だけというのは人間関係がとても閉鎖的で社会性が乏しくなってしまう点です。さらに、兄のかかわり方にも問題があり病状に悪い影響を与えていた点です。さらに、グループホームで仲間ができるという点です。仲間との人間関係を築いていく中で社会性を養うことができるからです。最後に、そこで職業訓練を受ければ、パートの仕事に就ける可能性がある点です。ここまで来ると、精神障害者と言えども仕事をして自立して立派に社会適応できていると言えます。これは、本人のためにも当然いいことですし、また、自分の生活が潰れそうな兄にとっても妹の面倒を見続ける精神的、肉体的、経済的負担が減り、喜ばしいことです。最終的には、ジューンとサムは結ばれ、仲良く2人でアパート生活を始め、とても微笑ましいハッピーエンドで終わります。これはこれで人間関係を築き、社会生活を営んでいるという点で、素敵なことだと思います。果たしてこのままうまくいくかどうかは実際にやってみないと分かりませんが・・・主治医の先生の言うように「心配だけど試してみましょう」という気持ちは良く分かります。うまくいかないことがあったとしても、アパートの家主はベニーの恋人となったルーシーですし、ベニーも様子を見に伺うことをマメにすれば、すばらしいサポート体制になりそうです。ライフイベントジューンの統合失調症の発症は、幼い頃に両親を火事で亡くしたことがきっかけとなっているようで、これはストーリーの途中でエピソードとして触れられています。その影響からか、ジューンは火遊びをやめようとしませんでした。実際に、統合失調症の発症メカニズムは様々な要素が考えられていますが、その中で、「脳の機能異常」と「心理社会的なストレス」が大きな割合を占めています。「脳の機能異常」は遺伝負因、胎児期・出生時のトラブルなどの原因が上げられます。「心理社会的なストレス」は、そのまま心理的なストレスのことなのですが、よく「ライフイベント」と呼び、「人生の出来事」と言い換えることができます。例えば、受験、就職、学校や会社や家族(嫁姑関係)でのいじめなどです。その中で、統計的に最も発症の引き金となっているのが、この映画にもある親の死なのです。家族療法もともとの原題“Benny & Joon”は、そのまま兄のベニーと妹のジューンを並べたもので、なかなかアメリカの映画にありがちな淡白なタイトルだったのですが、邦題の「妹の恋人」は、聞いた瞬間にいろいろと想像力を描き立てられます。「妹の恋人」とはつまりサム(ジョニーデップ)のことで、確かに主役的に演出されているので、邦題でフォーカスをあえてサムに向けたことは納得がいきます。それをさらに、兄ベニーと妹ジューンの関係性で表している点はあっぱれだと思います。もともとの兄妹仲を描きつつ、そこに転がりこんできたサムを含めての3人の関係をうまく一言で言い表しています。紆余曲折ありましたが、結果オーライの「家族療法」とも言えそうです。

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グッドウィルハンティング【反応性愛着障害

ヒューマンドラマこの映画は、まさに心揺さぶるヒューマンドラマです。信頼できる人生の指導者を見出せずにさ迷っている若者と、信頼していた人生のパートナーである妻を失い絶望しているセラピストが巡り合い、反発しながらも触れ合い、化学反応を起こします。そして、お互いの癒されなかった心が開かれ、それぞれが新しい人生の旅路へ足を踏み出すのです。素行障害主人公のウィル・ハンティングはボストンの下町育ちの20歳です。気の置けない3人の幼なじみたちに囲まれて暮らし、建設作業や清掃などの仕事をともにしています。彼の仲間が唯一の家族で、小さな世界ですが、その世界を抜け出す必要を感じてはいないようです。しかし、別のグループとのケンカにより、彼の心の中に潜んでいた攻撃性が露わになります。逮捕後の裁判のシーンでは、傷害、窃盗など数々の非行を繰り返す生い立ちが明かされます。実際に、彼は仲間以外に対してはとても口汚く、素行にはかなり難がありました。未成年でこのような反社会的な行動パターンを繰り返す場合は、素行障害と呼ばれ、いわゆる「不良」「暴走族」などが当てはまります。そして、成人後にも同じような犯罪行為を繰り返せば、反社会性パーソナリティ障害に診断変更されます。後半でセラピストのショーンが案じるような爆弾テロリストもこの診断に含まれます。高知能ウィルはブルーワーカーでありながら図書館で教科書を借りて独学で数学の勉強を熱心にしていました。そして、あえて大学の清掃員になり、廊下に提示された数学の難問を夜な夜なこそこそと解きます。また、裁判では弁護士抜きで巧みな理論武装で自分の弁護をしています。実は、彼には高い知能と才能があったのです。その才能を見出していた大学教授のランボーの計らいにより、ウィルは条件付きで刑務所行きを免れます。その条件とは、ランボーの下で数学の問題を解くこととセラピーを受けることでした。ウィルは、渋々セラピーを受けさせられるわけですが、全く素直ではありません。事前にセラピストの著書を読破して、セラピー中に逆にセラピストの本性を暴いたり、悪ふざけをしたりするため、次々とセラピーたちは手を引いていきます。特に6人目のセラピストのショーンとの出会いは最悪でした。逆上したショーンは、ウィルの首をつかんでしまいます。一般的には、この時点でセラピーは続行不能ですが、ショーンは違っていました。あえて、セラピーを引き受けたのです。見捨てられ不安ショーンはウィルの心の闇に気付きます。そして、率直に指摘します。「今の君は生意気な怯えた若者」「自分の話をするのが恐いんだろ」と。彼は一見傲慢で突っ張っているように見えますが、実は心の奥底では怖くて不安で、だからこそ強がって相手を攻撃することで自分を必死に守っていたのでした。強がりは恐れの裏返しなのでした。セラピーを重ねることで徐々に心を許し始めたウィルは、新しい恋人がいかに素晴らしいかをショーンに誇らしげに語りますが、次に会うのをためらっていることを打ち明けます。その訳は、「今のままの彼女は完璧」で次に会うとそのイメージを壊してしまうかもしれないからだと。すると、ショーンは問います。「君も彼女にとって完璧な自分を壊したくないのでは?」「スーパー哲学だ」と。ショーンは見抜いていたのでした。ウィルが人間関係を深めようとしないのは、実は自分に自信がなく、本当の自分のことを知られるともう受け入れてもらえず、捨てられてしまうのではないかという不安の表れであることを。これは、見捨てられ不安と呼ばれます。ウィルは、隠れて数学の問題を解いていたのも、大人たちに悪態を突いていたのも、恋人にその後に連絡をとろうとしないのも全て、見捨てられるかもしれないという不安から、先に「見捨てる」という行動パターンをとっていたのです。反応性愛着障害ショーンに自分の本心を気付かされたウィルは、恋人のスカイラーにウソの家族の話をしながらも、関係を深めようとして、その2人の距離は徐々に縮まっていきます。裕福で恵まれた環境で医者になろうとするハーバード大生のスカイラーと孤児で貧乏な下町育ちのブルーカラーのウィルは、育ちも生活水準も際立った違いがありとても対照的ですが、お互いの魅力に惹かれていきます。しかし、スカイラーが医学校に進学するためにカリフォルニアに共に引っ越すことをウィルに誘ったところで、2人の関係は山場を迎えます。ウィルは答えます。「もしその後におれのことが嫌いになったら?」と。彼の見捨てられ不安が極度に高まり、彼は立ち去ってしまいます。なぜウィルは自分に自信がなく、見捨てられ不安が強いのでしょうか?その理由は、彼の暗い生い立ちにありました。実は、彼は孤児で里親をたらい回しにされた揚句、継父から虐待を受けていたのでした。心に傷を負い、その癒えない傷から親への愛着は芽生えません。愛着がなければ情緒的な交流が乏しくなり、やがては他人への恐れや警戒心が強まり、親密になればなるほど自分が傷付くことを極端に恐れ、見捨てられ不安が募っていきます。愛着とは、幼少期に親からの無条件な愛情により育まれ、何があっても絶対に親に守ってもらえるという「安全基地」が出来上がることで、そこを心のよりどころに親を含む家族から他人への信頼感や外界への積極性に広がっていくものです。この信頼感や積極性はエリクソンが唱える乳幼児期の発達課題です。反応性愛着障害は小児期に診断されるもので、他人との情緒的な交流に問題を認めることを成人後も繰り返すなら、情緒不安定性パーソナリティ障害に診断変更されます。相手に対する不信や見捨てられ不安が強いため、信頼関係が築けず、人間関係が深まらない問題を抱えます。受容ショーンは、その他の権威的で格式ばったセラピストとは対照的でした。自分の過去をざっくばらんに語る明け透けさ、散らかった部屋などありのままの飾らなさ、沈黙が続く時に居眠りをする無邪気さがウィルの警戒心を解き、心を許していったようです。ウィルは自分のことを話すとなると言葉が見つからないことをショーンから指摘されます。「君自身の話なら喜んで聞こう」「君って人間に興味がある」「答えを知ってても君には教えない」「答えは自分で探すんだ」と。実は、ウィルは相手に対してだけでなく、自分自身に対しても、自分のことをさらけ出すのに臆病になっていたのです。その後、スカイラーを振ってしまったことで荒れて、刹那的になっているウィルにショーンは静かに核心をつきます。「自分が孤独だと思う?」「心の友(ソウルメイト)はいないか?」と。もちろんウィルには気の置けない仲間たちがいますが、自分が本気で何かに打ち込むために刺激してくれる友としては、物足りなかったのでした。その後、セラピーは行き詰まります。そのことで、ランボーがショーンのところに怒鳴り込み、大口論となります。しかし、その場面にたまたま、ウィルが遭遇したことで、これが突破口となります。実は2人は20年来のライバルで大きなわだかまりがありました。その思いの丈をついにお互いが吐き出した直後でした。まずは関係者の2人が本音をぶつけ自分をさらけ出したのでした。ランボーは数学のノーベル賞とも呼ばれるフィールズ賞を過去に受賞した栄光にすがって俗物的な生き方をする一方、ショーンは最愛の妻を失ったことで影のある生き方をしており、とても対照的です。その後のセラピーで、ショーンは自身もかつて虐待を受けた当事者であったことを明かし、ウィルに心の底から共感し、何度も語りかけ優しく抱きしめます。「君のせいじゃない、君のせいじゃないんだよ」と。セラピーのクライマックスです。ショーンがウィルの存在を丸ごと受け止めたことで、ショーンがウィルにとっての安全基地であり、ソウルメイトとなり、それまでの「自分は無力でダメな存在だ」という自己嫌悪や罪悪感から解放され、心の傷が癒されていったのです。アイデンティティの確立ウィルは仕事中に、一番の親友チャッキーから言われます。「お前は宝くじの当たり券を持っている」「皆その券が欲しい」「でもおまえはその宝くじを換金する度胸がないだけ」「それをムダにするなんておれはお前を許せない」と。一番の親友だからこそ、ウィルの幸せを考えて言えるセリフでした。ウィルは、仲間と働きながら暮らす素朴な日常の世界から、才能によって手に入れられる新しい世界へ踏み入れるのに尻込みしている自分に気付かされます。そして、自分の才能を行かせる会社の就職面接を真面目に受け、自分の社会での役割をようやく見出そうとしています。これは、エリクソンが唱える青年期の発達課題であるアイデンティティの確立です。自分が自分を受け入れ、自分とは社会の中でこういう人間であると納得することです。ウィルの仲間も薄々気付いていました。そして、ウィルの21歳の誕生日にオンボロの車をプレゼントします。それは、スカイラーを追ってカリフォルニアへ行き、新しい自分の未来を拓けとの暗黙のメッセージのようです。死別反応セラピーでショーンが亡くなった妻のことについて語った言葉が印象的です。「僕だけが知っている癖・・・それが愛おしかった」「愛していれば恥ずかしさなど吹っ飛ぶ」と。人は全く完璧ではないことを知り、むしろ不完全なところも含めてその人の全てを受け入れられるか、その人を特別な人であると感じることができるかということです。自分にとって特別な誰かであり、そして、誰かにとって自分が特別であるということです。それは、自分が自分自身と真正面から向き合い、そして、相手とも真正面から向き合って初めて育まれるものです。そして、その固い絆により、その相手こそがソウルメイトとなります。しかし、ショーンはそのソウルメイトを失っていたのでした。そして、その喪失感を2年間引きずり、生きる張り合いを見出せていません。亡き妻への思いから抜け出せなくなっていました。大事な人の死別による反応、つまり死別反応は誰でも起こりうる正常な反応ですが、それが長引いています。ウィルは、ショーンに切り返します。「自分はどうなんだ」「(今は)心を開ける相手なんているか」「いつか再婚をしないのか?」「燃え尽きてる」「人生を降りたのでは?」「これこそスーパー哲学だ」と。ウィルの言葉により、ショーンは過去に囚われ、行き詰っている自分に気付かされたのです。ウィルのアイデンティティの危機を心配する一方、自らの危機も自覚します。シネマセラピー最後の別れでウィルはショーンに心の底から言います。「これからも連絡をとりたい」と。ウィルにとってのソウルメイトがショーンであることをお互いに確信した瞬間でした。そして、ウィルは、恋人のスカイラーというもう一人のソウルメイトのいるカリフォルニアへ車を走らせるのです。ラストシーンの真っ直ぐに伸びる道路は、これからウィルが切り拓いていく澄み切った未来を象徴しているようでした。見ている私たちは、ウィルが人間不信から回復する姿を目の当たりにして、ウィルと同じ心地良さを追体験することができます。巡り逢いにより癒されなかった孤独が未来を切り開く活力に変わっていく様が生き生きとそして爽やかに描かれています。ショーンはウィルを見事に癒すことができました。そして、実は同時に、ショーンはウィルによって癒され、救われたのでした。亡き妻への失意を乗り越え、世界を旅する決意を固めます。なぜなら、ショーンはウィルのソウルメイトとなったことで、自分の役割を再確認し、前に進む勇気をもらったのです。自分が誰かのために特別であることは勇気や活力を与えることを私たちに教えてくれます。私たちも、ウィルやショーンと同じように人生を旅しています。人間関係に行き詰りを感じる時こそ、私たちはこの映画を見ることで、ウィルやショーンの生き様に刺激を受け、ソウルメイトという絆の大切さを再確認して、さらに人生の奥深い旅を続けていくことができるのではないでしょうか?

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私は「うつ依存症」の女【情緒不安定性パーソナリティ障害】

毎日がメロドラマこの映画は、もともと原作者の自伝的小説を映画化したもので、実話に基づいているだけに、主人公とその母親の暴力的なまでの心の揺れが生々しく痛々しく描かれており、見ている私たちはその迫真の演技に引き込まれていきます。主人公にとってはまさに毎日がメロドラマであり生きるか死ぬかの極限にいるのです。そんな主人公が思春期を生き抜いた80年代をこの映画は忠実に再現しており、バックに流れる当時流行したメロディも感傷的です。主人公の心の揺れは、情緒不安定性パーソナリティ障害によるもので、この映画はその特徴やメカニズムを忠実に分かりやすく描いています。今回は、この映画を通して、この障害の理解をみなさんといっしょに深めていきたいと思います。逸脱行動―自分を大切にできない主人公のリジーは、2歳の時に両親が離婚してから、その後は母親と2人で暮らしていました。教育熱心な母親は、子育てを一生懸命にやり抜き、そして、晴れてリジーを念願であったハーバード大に入学させることに成功しました。そして、リジーに言います。「あなたは自慢の娘よ」と。まさに理想の娘、優等生の良い子です。リジーも不安な面持ちを見せながらもまんざらでもない様子です。入学後、大学の授業に真面目に参加して、学生寮のルームメイトと親友になり、彼氏もできて、パーティではしゃぎ、そして音楽雑誌のジャーナリズム大賞を受賞するなど華やかで輝きのある有望な学生生活を送り、全てがうまく行っているかに見えました。しかし、彼女にはどこかしら陰がありました。実は、すでに歯車は狂い始めていたのでした。4年ぶりに突然父親が訪問にやってきて心が乱れたのをきっかけに、恋人と初めて夜を共にしたことをネタにパーティを開き、遊び半分のはずだったドラッグを眠気覚ましに乱用し、人の話を聞き入れず徹夜を続けて生活が乱れ、自分の誕生日会では母親や祖父母に悪態を付くなど逸脱行動が目立つようになります。さらには、かつてのパーティで酔った勢いで親友の彼氏を誘惑して関係を持っていたのでした。これは性的逸脱です。そして、悪びれもせず開き直ってしまいます。まるでもともと彼女の中に潜んでいた「悪魔」が目覚め始めたようです。自分が自分であるという一体感が揺らぎ、自分を大切にできなくなっています。情緒不安定―繊細なあまりに傷付きやすい心自分の誕生日会を自分自身でメチャクチャにした翌日のリジーの様子が強烈です。母親との口論の末、「私が悪かったわ」「私を愛してくれる家族を傷付けたわ」と涙を流して母親に抱きついたと思ったら、次の瞬間、「何が誕生日会よ」「あんたのペットじゃないわ!」と泣き叫びます。そして、その数秒後にはまた「私ったら何てひどいことを・・・。ごめんなさい、許して」と漏らし、また母親に抱き付く始末です。甘えと反抗が入り乱れています。もはや母親は、あまりにも精神的に不安定な娘に呆れて戸惑うばかりです。このように、愛情、憎しみなどの感情が、些細なことで両極端に大きく揺れてしまう症状を情緒不安定と言います。「ペット」が引き合いに出されたのは、母親が「結婚後に妊娠するまで退屈で話し相手が欲しくて猿を飼っていたわ」と言っていたのを思い出し、自分がその猿と重なったからでしょう。真反対の感情がほとんど同時に湧き起こっているので、アンビバレンス(両価性)とも言えます。情緒不安定はもろく傷付きやすいことですが、裏を返せば、繊細で感性が鋭いことでもあります。ストーリーのところどころで紹介される彼女の繊細な文章表現には納得がいきます。空虚感―見捨てられ不安―愛が重すぎるリジーは通い始めたセラピストに言います。「普通の人は傷付いても自分で治っていくものだけど、私は血が出たまま」「治ればいいの」「人生は先に進むしかないもの」と。人生を歩むことに対して冷めていて、満たされない空しさがにじみ出ている特徴的なセリフです。彼女を支配しているのは、この空虚感でした。これを「憂うつが徐々にそして突然にやって来た」と受け止めています。そんな空虚感で落ち込んでいるリジーは、「レーフが救いの神に選ばれたのだ」と思い立ちます。かつてパーティでハメを外して男子トイレで出会ったレーフの登場です。レーフは会場の分からない演奏会に誘ってしまったのはまず君に会いたかったからだと素直に打ち明けるなど誠実味があります。どう見られるか表面的なことばかり気にするリジーとは対照的です。リジーが例えるようにまさに救世主で、新しい恋人となります。しかし、情緒の揺れは止まりません。レーフとデートで踊りに行っても、ほんの少しの間、レーフが別の女性とカウンターでおしゃべりをしただけで、カッとなりその場を衝動的に立ち去ってしまいます。情緒不安定によりとても傷付きやすく、見捨てられたと思い込み、悲しみや怒りが抑えられないのでした。レーフが実家に帰っている時に、電話がつながらないことに不安を募らせ、ひっきりなしに10回も電話して、挙句の果てに遠方のその実家まで飛行機で乗り込んだのでした。見捨てられまいとして、付きまとい、すがり付くなどのなりふり構わない行動をとり、結果的に相手の自由を束縛してしまうのです。この心理は、「電話魔」「メール魔」「ストーカー」などの現代の社会問題に通じるものがあります。良く言えば愛が深いのかもしれませんが、やはり愛が重いです。そして、相手はその重さに耐えられなくなってしまうのです。スプリッティング(分裂)―生きるか死ぬかリジーは親友にレーフのことを自慢します。「真の愛とは生きるか死ぬか壮絶なものよ」「あなたのは体だけでしょ」 と。その言葉に親友は怒りを通り越して呆れてしまいます。さらには、「最愛の人をあまりにも愛しているために、その人を殺してその灰を食べるということに共感できる」「それが相手を完全に所有する唯一の方法だから」と心の中で悟ります。リジーのものごとのとらえ方がとても極端で、偏って、歪んでいることが分かります。認知の歪みです。これは、空虚感や見捨てられ不安により、彼女は常に全か無か(all or nothing)、二者択一の究極の選択肢しか持ち合わせていないからでした。白黒思考、二分思考とも言います。そして、両極端の感情である心地良さと不快さのバランスがうまく保てない心理状態に陥っています。これはスプリッティング(分裂)と呼ばれます。このスプリッティングにより、「良い人か悪い人か 」「敵か味方か」という発想に行き着き、その気持ちが些細なことでコロコロと移ろいやすいのです。これが、理想化とこき下ろし(幻滅)です。リジーのセラピストに対するとらえ方が分かりやすいのです。最初は「この人に任せてもだめだ」と幻滅して、その後、レーフとうまく行っている時には理想化し頼りにしており、レーフと別れたら「期待したのに辛いだけじゃないか」と怒鳴り込んで幻滅しています。セラピストだけでなく、母親、恋人、親友などとの対人距離も、ちょっとしたことで好きになりべったりとくっ付き、その後にちょっとしたことで嫌いになり暴言を吐き離れてしまい、とても不安定です。さらには、ものごとへの取り組みも不安定で、幸せの絶頂でこれが永遠のものではないと悟ることで不安に襲われ、取り乱して目標が実現する直前で全てを台無しにする特徴もあります。自傷行為―自らを傷付ける行いリジーは、薬を飲み続けるかどうかセラピストと相談していた時、セラピストに言われたある一言で、とっさにその場を立ち去り、トイレに行き、グラスを割り、リストカットをしようとします。その一言とは、「薬を飲み続けることを私は勧めるけど、決めるのはあなたよ」です。一見、何でもないような一言ですが、リジーの受け止め方は違っていました。この時にリジーは、セラピストを理想化し全てを委ねており、セラピストに決めてもらいたかったのです。ところが、「自分が決めなければならない」「突き放された(見捨てられた)」と極端に受け止めたのです。さらに、リジーはリストカットすることで「死にたいほど辛いという気持ちを分かってほしい「助けてほしい」という無意識のメッセージであり、アピールの心理もあったのです。時々、リジーはふと幼少期を回想します。実は、リストカットのような自傷行為が始まったのは、リジーがまだ小学生の時でした。カミソリの刃で自分の足を切り付けるようになります。当時より「自分は何てだめなんだ」という自己否定感が高まり、「自分を痛め付けて罰したい」という自罰性が現れていました。逸脱行動の先駆けとも言えます。また、同時に空虚感もくすぶり始め、「その空しさを紛らわしたい」「生きている実感を味わいたい」「新しい自分になりたい という気持ちから、気分をリセットするための憂さ晴らしとして依存的に繰り返すようになります。このように、自傷行為には、アピール性、自罰性、依存性の3つの側面があります。傷付きやすい自分を自ら傷付け、そして逸脱行動により周りの人をも傷付けていってしまうのです。情緒不安定性パーソナリティ障害このように、自己否定感、空虚感から見捨てられ不安などの情緒不安定が煽られ、認知の歪み、スプリッティング、理想化とこき下ろしが現れ、自己破壊的な逸脱行動が繰り返され、その果てに自傷行為により他人を巻き込むようになり、もはやその人の性格や生き様などのパーソナリティ(人格)として根付いてしまっているので、情緒不安定性パーソナリティ障害の診断と診断されます。境界性(ボーダー)パーソナリティ障害とも呼ばれます。そして、対人トラブルを引き起こし、二次的にうつの状態に陥っていると言えます。特に、人間関係の幅や深みが広がり複雑になる思春期に症状が目立って現れるようになります。現代の情緒不安定性パーソナリティ障害の特徴的な行動パターンは、用意周到で本気の自殺行為よりも、衝動的で助かる見込みのある自傷行為が圧倒的です。例えば、動脈に達しないリストカット(いわゆる「ためらい傷」)、致死量に達しない過量服薬、3階までの低層からの飛び降りなどです。そもそもギリギリ助かることが本人によって無意識にも想定されています。さらに、アピール性がエスカレートした場合は、別れを切り出した恋人に対して「別れるなら死ぬよ」という脅し文句に使われることもあります。いわゆるお騒がせな「狂言自殺」です。これは操作性と呼ばれています。父性不在―無責任な父親それでは、なぜリジーは情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまったのでしょうか?その答えに辿り着くためには、幼い頃からのリジーの家庭環境に目を向ける必要があります。まず、もともと父親は、離婚後に気まぐれに突然現れるのみで、口先では「一番愛している」と調子の良いことを言うだけです。リジーに医療費の支払いをしていない事実を問い詰められた時は、逆切れして、全然連絡をくれなくなったからだと話をすり替え、挙句の果てに支払いは母親の責任だと言い張り、無責任な態度で開き直ります。父性不在です。母性過剰―支配的な母親次に、母親を見てみましょう。入学日の当日、独りで引っ越し荷物を運べると言うリジーを頭ごなしに否定したり、娘が書いた記事の受賞や経歴をあたかも自分の手柄のように吹聴する母親の様子は、私たちに何か嫌悪感を抱かせます。良く言えば、子煩悩で面倒見がいいように見えますが、悪く言えば、娘の考えに耳を傾けず、一方的に自分の考えを押し付けるばかりで、過保護で過干渉です。大学生になり、自活しようとする娘を完全に子ども扱いしています。また、冒頭のシーンで、母親は、リジーの自室にノックもせずに入ってきて、しかも娘が全裸であるのにも気にも留めず、部屋の中をウロウロ歩き回り、一方的に「カーペットも持っていこう」と言い出しています。一方、リジーも特に恥ずかしがることはありません。この2人の様子にはかなりの違和感があります。まるで、飼い主とペットのような振る舞いにさえ見えてきます。張り切り過ぎている母親にリジーがうんざりして、「別に作家になるのにハーバードに行かなくても」と漏らすと、母親は過剰に反応して、「何言っての?」「私が今日という日をどんなに待ち望んだことか」「ハーバードに行かなければ誰もあなたのことなんか気にも留めないわよ」と。「誰も」というのは「母親である私は」というニュアンスが暗に込められているのが明らかです。愛情を注ぐことに条件を付けています。入学後しばらくして、母親は、変わり果てたリジーを見て、苛立ち、甲高く小言を言い続けて、ついには激怒します。「何このありさま!? 「こんなことに付き合っていられないわ」と。そこには、慰め、いたわりなど共感する包容力は一切ないのでした。逆に、リジーが音信不通になったことで母親は心配していましたが、その後、娘が元気で恋人とうまく行っていると分かると素直に喜べません。娘が自分から離れていってしまうような感覚にとらわれて、泣き崩れています。これは、母性過剰と言えます。機能不全家族―家族の力が働かないリジーは過去を振り返ります。「父がいなくなり全く関わりがない分、母が執拗に関わってきた」と。父親が不在の場合、相対的に母性が過剰になり、そして、必然的に母子の密着が高まります。一人っ子であればなおさらです。さらに、男性より女性の方が共感性が強い分、母親-娘という女性同士の組み合わせが一番です。「母が母自身の男友達についてリジーに相談をしなかったのは父だけだった」という事実は強烈です。つまり、母親は自分の男友達を全てリジーに開けっぴろげにしていたのです。リジーは心の中で母親の本心を言い当てています。「自分の失敗を娘で償おうとした」と。母親は、リジーの将来に強すぎる期待を寄せる余り、要求水準が高くなっていたのでした。言い換えれば、母親による娘の支配です。過剰な期待は、愛情に条件を付けることで、支配にすり替わっていたのです。娘を一人の「個人」「大人」と見なすことができなくなっていました。「心配なの」「愛しているの」という言葉のもとに、先回りして過干渉を続け、自分の延長の存在ととらえています。娘は、自分の思い通りになる所有物であり、自分の生き直しの存在であり、自分の分身でした。もはや虐待にさえ見えてきます。実は、これこそがまさに落とし穴だったのです。良かれと思い母親が必死にやってきたことが、実は大きく裏目に出てしまっています。子どもの成長において、「自分は掛け値なく大事にされている」「無条件に愛されている」という実感があれば、自然に自己肯定感や基本的信頼感が芽生えていくものです。ところが、父親は自分を守ってくれないという父性不在、母親は条件付きの愛情しか注がないという母性過剰による愛情の歪みから、自己否定感、不信感、空虚感が煽られていき、後々に情緒不安定などの性格や歪んだ認知の問題、つまりパーソナリティ障害になっていく可能性が高いです。現代の日本の「お受験ママ」「ステージママ が子どもを追い込んでいく姿はリジーの母親に重なり、危うさを感じます。また、単身赴任の多い日本の父親は、子どもと触れ合う時間が少なく、大事な場面でいない点で、リジーの父親に重なって見えてどきっとします。勉強、スポーツ、芸能における子どもへのスパルタ式のかかわり方は、無条件の愛情という家族の固い絆が前提にあってこそ成り立つのです。アダルトチルドレン―もの分かりの良すぎる大人びた子リジーは初潮の時に母親に告げられた言葉を思い出します。「これであなたも終わり」「面倒の始まりよ」と。また、母親は「結婚は人生の墓場よ」とも言っています。娘の成長に対してとても否定的で、そこからリジーの自己否定感が募っていきます。また、幼い頃から両親が大声で罵倒し合い、いがみ合う様子を目の当たりにしてきました。両親がお互いの悪口を言い合い、そしてそのウソを見抜いてきました。信じている2人からそれぞれ矛盾したことを言われて二重に縛られること、ダブルバインドです。そんな息詰まる家庭環境でリジーは、生き残るために順応しました。そして、「ママが戻って欲しいって言ってるよ」と父親に言うなどそれぞれの両親に対して間を取り持とうとウソをついてきました。リジーはもともと物分かりが良かったのです。親に気を使い、無理に自分の気持ちを抑え込んで、良い子を演じて生きてきました。「大人びた子ども」、つまりアダルトチルドレンです。しかし、そこには子どもの発達に必要な自己肯定感、自尊心は育まれません。そしてやがてはリミッターを振り切り自分の気持ちをコントロールできなくなり、情緒は不安定になっていき、そして、ついに思春期に爆発したのでした。世代間連鎖―受け継がれる家族文化それでは、なぜ母親はこうなってしまったのでしょうか?その鍵は、実は母親と祖父母との関係性にありました。母親は祖父母が訪ねてくる前にタバコを吸っていたことがばれないように灰皿を片付けたり、リジーの悪態を必死で取り繕おうとあえて涼しい顔を装っている場面を見てみましょう。母親は祖父母に対してまさに「良い娘」、子育てを立派に成し遂げた「良い母親」を演じようとしています。一方、祖母は、リジーの態度の悪い様子に取り乱し、いい年して大人げないというか「年寄りげ」ないです。そして、祖父は呆然としているばかりで存在感がないです。その後、母親が不幸にも強盗に遭い大けがをしたことについて、祖母はリジーの目の前で「こうなったのはリジーに原因がある」と犯人探しを始めます。その時も祖父は戸惑った表情で無言のままです。リジーがかつて母親の前で良い子を演じていたように、実は母親も祖母の前で良い子を演じているのです。母親は祖母に対して腹を割って話す、本音で話すということができないため、ありのままの自分をさらけ出せず、心が通じ合っていません。体裁ばかり気にして中身のない薄っぺらな家族像が透けて見えます。母性過剰により愛情が歪んでいます。そして、祖父も父親も存在感が薄い点で、父性不在も一致しています。もしかしたら、父性不在と母性過剰で育った娘は、選ぶ夫は父親に似て存在感のない弱い男か、または強い男でも自分の方が母親のようにより強くありたいために結果的に離婚して、その子どもにとって父親の存在感をなくしてしまっているのではないかと思います。リジーの家系は、父性不在、母性過剰の典型的な機能不全が家族文化として受け継がれ、世代間連鎖していることが伺えます。つまり、祖先を遡れば、祖母も曽祖母から母性過剰による歪んだ愛情の洗礼を受けたのかもしれません。逆に、子孫を辿れば、リジーが子育てをする状況になった時は、同じような悲劇が繰り返される可能性も潜んでいるということです。もともと日本は、単一民族で集団主義的であるため、見た目や考え方が似通っており、均一な名残があります。それだけに、人柄や能力などの中身よりも、家柄、学歴、所属、年齢などの外面的な体裁を重視し、差別化を図る傾向にあります。そのため、リジーのような家族の中での取り繕い、絡み合いが、日本では生まれやすいと言えます。共依存―頼られる喜びなぜレーフは、リジーを好きになってしまったのでしょうか?もちろん、もともとタイプであったり、リジーのエキセントリックな行動が人とは違うということで魅力を感じたということはあります。しかし、それ以上にレーフを突き動かしたものがありました。実際のレーフのリジーへの関わりを見ながら探っていきましょう。まず、カフェでのデートの場面。レーフがリジーに紅茶を入れてあげるだけでもちょっと世話焼きですが、その入れ方を間違えてリジーの紅茶が飲めなくなった時、リジーがもう要らないという言葉に反して、レーフはお節介にも注文してしまいます。その後、何の根拠もなくリジーに「浮気したくせに」と言いがかりを付けられ、テーブルの食器をひっくり返されたのに、レーフは立ち去り走り続けるリジーをけなげに追い、謝り倒します。レーフは、寛容で包容力がありますが、裏を返せば世話焼きでお節介なあまりに自分を押し殺してしまっています。そんなレーフはリジーの母親と重なり、リジーは親近感を抱くと同時に苛立ってもいます。リジーがレーフの実家に乗り込んだ時、レーフの世話焼きキャラの由来が明らかになります。それは、レーフの妹が知的障害で、大声を上げたり、暴れたりするのを献身的にあやしているのでした。リジーはその妹と自分が重なって見えてしまい、ショックを受け、レーフに暴言を吐きます。「こういうのが趣味?」「快感なんでしょ」「人の不幸を楽しんでいる」と。それは、レーフにとってもショックであったかもしれません。それは、ある意味では言い当てられているからです。実際、リジーのような情緒不安定な女性は、レーフのような共依存的な男性と惹き合う傾向があります。やはり、世話焼きな男性としては、不安定な女性を放って置けず、助ける喜び、頼られる喜びで心を満たすからでしょう。認知行動療法―ものごとのとらえ方の練習リジーは「誕生日会は私のためではなく、母親が祖母から褒めてもらうためにやっていただけなんだ」とセラピストに答えます。確かにそういう理由があったとしても、精神的に健康的な人なら、「もちろん自分のためにもやってくれた」「家族が集まるきっかけとしても大切だった」という様々な理由も思い浮かぶはずです。ところが、リジーは思い込んだらその1つの極端で歪んだ認知に飛び付いてしまうのでした。セラピストは、決め付けることは一切せず、共感しながら誘導的な質問をし続けて、その認知の歪みを気付かせ、解きほぐしていきます。ものごとには様々な認知があり、バランス良くその認知を再構築していくトレーニングをします。これが認知行動療法です。そこから、ものごとにはグレーゾーンがあり、例えば相手を安易に信じるわけでもなく、無暗に疑うわけでもなく、二者択一ではないバランスをとる思考のトレーニングを繰り返しやっていきます。認知行動療法は、ある意味、ピアノのレッスンのような習い事であり、理性的に頭で理解すると同時に、様々な認知パターンを感覚的に刷り込んでいく作業が必要でもあり、労力を伴います。例えば、同じように誰かのために仕事をしたとしても、「いいように使われた」と思うか、「お仕えすることができた」と思うかは認知の大きな違いです。チャリティ精神のように、人の幸せを自分の幸せと感じることができるか、または「人の不幸は蜜の味」ということわざが示すように、人の不幸を自分の幸せと感じるかは、個人差があり、これが認知の違いでもあります。リジーは最終的に自叙伝を書き上げ、しかも映画化され、今回私たちがそのDVDを見ているわけですが、実は、自叙伝、日記など自分のことを書くという行為は自己表現であり、自分自身を客観的に見つめ直す作業です。客観的な視点を持つことで、冷静になり、様々な認知をとらえ直す格好のチャンスになりえます。まさに自分のことを書く作業は「自己認知行動療法」と言えます。家族療法―家族内のシステムへの働きかけ母親が強盗に遭い、大けがを負い、自宅で介護が必要になったことで、リジーの精神状態は一時的に落ち着いてしまいます。その理由は、母親が身体的にも精神的にもリジーに干渉できなくて、心理的な距離ができたからでした。そして、母親はついに気付き、リジーに告げます。「あなたは私の全て」「それがあなたを苦しめたのね」「私のために何かになる必要はないわ」「私のためにいい子になることもない」と。リジーは「そう、私には負担だった」と答えます。お互いが問題点を確認した瞬間です。もともと母親自身、心は満たされていませんでした。その満たされない心を娘に目をかけることで満たそうとしていたことを悟ったのでした。そして、母親が変わったことで、リジーも自分が納得する自分らしい生き方に目覚めようとしています。親は、仕事や趣味などを通して子育て以外の生きがいも見つけて、子育てだけを生きがいとしないようにすること、そして、その仕事、趣味を通して自分の子ども以外との人間関係を深めて、子どもだけとの人間関係、つまりは密着しないことを心掛けることです。そして、同時に「どんなことがあってもお前を守る」「そのままのお前を愛している」といいう無条件の愛情を子どもに注ぐことが大切です。ストーリーの中では、セラピストはあまり家族へ働きかけているようには描かれていませんが、実際はリジーが小学生の段階で特に母親に早期介入する必要がありました。情緒不安定になってしまった最大の原因が、家族内のシステムの問題であったわけですので、本来はセラピストが家族を呼んでいっしょに面接をして、家族の関係性を改善していくことが望ましいです。これが家族療法です。また、場合によっては、直接その家に第三者を定期的に送り込むことも重要です。それは、祖父母、叔父叔母、親戚などの血縁関係から、隣人、担任教師、家庭教師、医療スタッフなどの非血縁者まで様々です。最近は、メンタルフレンドというカウンセラー的家庭教師がいます。家庭に第三者の目があるというシステムが、親や子に家庭環境を客観視させることにつながるのです。行動療法―人生のルール作りリジーは、なりふり構わない行動により、親友を散々ひどい目に合わせても、その後に困ったら泣きついて助けを求めようとします。さすがの人のいい親友もあきれ果て、最後は「もう無理」と冷ややかに見限ります。限界設定です。こうして、リジーは親友、恋人を失っていき、誰からも相手にされなくなっていくということを肌で感じていきます。また、リジーがセラピストの目の前でリストカットをしようとした時のセラピストの対応は圧巻です。セラピストは無言で見つめ続け、彼女がガラスの破片を落としたところで、立ち去っていきます。決して、優しくはしないのです。これは、自分の行動は自分で責任をとらなければならないという静かでそして強烈なメッセージです。そのためのかかわりとして必要なことは、対人距離が不安定なリジーに対して、セラピストは常に冷静で節度ある一定の距離を保ち、巻き込まれないように細心の注意を払っているのです。対人関係のルールや生活の枠組みを作り、目標が達成できたら得をして、問題行動を認めたら自分で責任を取らせて損をする条件付けにより行動を変化させる仕組みも効果的です。これを行動療法と言います。現実問題として、この障害が良くならない要因の一つに、過保護な家族や共依存的な恋人が過剰な関わりをしてしまい、巻き込まれて失敗の尻拭いをするなど、本人に自分で責任を取らせていないために、同じ過ちを繰り返すという悪循環に陥ることがよくあります。ただ、年を経ると大抵の患者が落ち着いていきます。その理由として、心が揺れるエネルギーが年を経てなくなってしまう点、本人が学習する点、そして周りも学習して距離をとる点があげられます。例えば、この障害は魅力的な若い女性が多いのですが、中年になればその魅力が失われて、構ってくれる男性がいなくなるこということがあげられます。薬物療法リジーは薬を飲むことでずいぶんと「うつ」が良くなったと言っています。情緒不安定による対人トラブルで、うつ、不安、不眠などの様々は二次障害を引き起こします。これらに対しての薬物療法はあくまで対症療法であり、残念ながら特効薬はありません。原題は、“Prozac Nation”という「抗うつ薬の国」で、抗うつ薬の処方がアメリカの社会問題としてレポートしたスタイルをとっています。シネマセラピー情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまった主人公の視点を通して、彼女の心の揺れや苦しみが見ている私たち自身と重なる部分、家族や友人と重なる部分に私たちは気付き、より良く理解し、そして見つめ直すことができます。それは、自分や他人のできることとできないことの限界や境界をはっきりさせて理解することを通して、自分を大切にして自分を見失わないこと、他人を大切にして他人を失わないことです。そこから、リジーの問い続けた「真の愛」が、自分本位に相手を愛することではなく、相手の立場に立って相手を尊重し、一定の心地良い距離を保つことでもあるというより広い視野に立つことができるのではないでしょうか?その時に私たちは共により良い生き方を見い出し、自分の子どもへのかかわり方のあるべき形も自然と見えてくるのではないでしょうか?

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ちびまる子ちゃん【パーソナリティ】

「いるいる、こんな人!」―パーソナリティとは?みなさんは、今までに出会った人で、「いるいる、こんな人!」と思わず別の誰かを連想してしまったことはありませんか?私たちは、いろいろな人とかかわっていく中で、新しく出会った人が、自分のすでに知っている誰かに重なってしまうことがあります。そして、その人が、国民的人気アニメ番組「ちびまる子ちゃん」のあの個性的なキャラクターたちに似ていると思ったことはありませんでしたか?普段の日常生活で私たちの心を惹きつけたり、逆にヤキモキさせる人たちが、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターたちに重なってしまうのはよくあることです。その理由は、「ちびまる子ちゃん」に登場するキャラクターたちの多様で魅力的な個性には、メンタルヘルスで扱われる性格の傾向(パーソナリティの偏り)が巧みに描かれているからです。彼らの存在こそ、「ちびまる子ちゃん」が20年を超える長寿番組となったことに大きく貢献しているように思います。今回は、「ちびまる子ちゃん」のキャラクターたちの特徴を深く探っていきましょう。そこには、魅力と同時に危うさ(リスク)も潜んでいます。そこから、私たちが実生活で人とより良くコミュニケーションをするためのヒントを見つけていきましょう。パーソナリティの源 ―個体因子と環境因子厳密には、パーソナリティは、成人後に完成するという前提があります。なぜなら、まる子の年頃はまだまだ心の成長の途中で、柔軟性(可塑性)があるので、一概にパーソナリティを決め付けることはできません。しかし、あまりにも特徴が出ているので、あくまでパーソナリティの傾向やリスクとして、みなさんにぜひご紹介したいと思います。【男子】丸尾くん―生真面目キャラ―発達の偏り、強迫性パーソナリティまず、最も強烈なキャラクターの丸尾くんです。「ズバリ!○○でしょう」が口癖で、一貫して丁寧な言葉使いで一本調子な話し方が特徴です(コミュニケーションの偏り)。学級委員としていつもハツラツとしていますが、学級委員で居続けることに執念を燃やし、そのためには並々ならぬ努力もしています。ここから、彼に強いこだわりがあることが分かります(想像力の偏り)。次の学級委員の選挙を前に、ライバルが出てくるのに神経質になった丸尾くんは、クラスメート1人1人に「困っていることはありませんか?1つくらい絶対にあるでしょう」と強引に迫っていくエピソードがあります。そして、まる子たちに「親切の押し売りだ」「何でもないのにいちいち声をかけられたら迷惑なんだよ」だと責められます。ここから、彼は、こだわりが強いあまりに融通が利かず、空気が読めずに空回りしていることが分かります(社会性の偏り)。目指すのが、みんなのお手本でありながら、日頃から女子に「奇妙キテレツ」と思われてもいます。さらには、花輪クンのきれいなお母さんを見て帰ってきた時、丸尾くんは自分のお母さんに「母さま、なぜあなたは美しくないのですか?」と悪気なく聞いてしまいます。彼は、相手の心を汲み取って(心の理論)、人に合わせるバランス感覚は鈍いのでした。これらの3つの特徴から、丸尾くんはどうやら発達の特性(発達の偏り)が際立っています。さらに、成長して空気の読みづらさが目立たなくなっても、こだわりに囚われてしまうことが癖(完璧癖)になってしまうリスクがあります(強迫性パーソナリティ)。彼のこれらの特徴は、彼の心構え(パターン認識)や周りの理解によって、良さや魅力にもなりえます。こだわりは、ひたむきさ、熱意、真面目さにもなりえます。実際に、彼は、勉強だけでなく、お楽しみ会の手品や運動会の応援や合唱の練習など何ごとにおいても一生懸命にする努力家です。学級委員として、みんなのためにみんなが嫌がることも喜んでやります。そして、女子に対しての純情な一面もあります。私たちが丸尾くんから学べるコミュニケーションのコツは、丸尾くんのような人に何かしてほしい時、まず細かく具体的な指示を出して、脱線しないようにレールをしっかり敷いてあげることです(構造化)。そして、そのレールに乗せて、本人のひたむきさを生かすことです(パターン学習)。私たちが、丸尾くんのひたむきさを高く買ってあげることができれば、「立派なサラリーマン」「マイホーム購入で親孝行」「ノーベル賞受賞」という丸尾くんの夢をきっと応援したくなるのではないでしょうか?表 丸尾くんの二面性危うさ魅力こだわり、完璧癖、融通が利かない空気が読めず空回り奇妙キテレツひたむき、熱意生真面目、努力家純情花輪クン―セレブキャラ―自己愛パーソナリティまず、家庭環境が際立って恵まれているのが、花輪クンです。彼は、いわゆるセレブです。しかも、家の財力があるだけでなく、英語やフランス語などの語学、ピアノやバイオリンの音楽、お茶とお花の教養などのあらゆる英才教育を受けてきています。通学は、車という特別扱いが当たり前です。さらに、端正な顔立ちで、クラスの女子からの圧倒的な人気があり、口癖は「ベイビー」です。唯一の欠点は、字が下手なことくらいです。このように、子どもの頃から全てにおいて恵まれた環境で、挫折も知らないまま育った場合、何ごとも自分の思い通りになると思ってしまいます(万能感)。すると、パーソナリティの傾向としては、自信に溢れてしまい(自己評価が高い)、自分に酔いしれて自惚れやすくなります(誇大性)。そして、いつもチヤホヤされたいと思うようになります(賞賛欲求)。また、自惚れが強ければ、人を見下してしまいやすくなり、自分以外の恵まれない環境の人たちの気持ちが分かりにくくなります(共感性欠如)。その一方で、もともと守られていることで、自分を大切に思う気持ちが強く(自己愛)、妥協をしません。これが向上心としてより良く生きる原動力になるので、攻めは強いです。しかし、もしもその守りがなくなってしまったら、どうでしょう?つまり、持っているものを持ち続けている限りは強いのですが、持っているものがなくなってしまった時は、どうでしょう?例えば、お父さんの会社が倒産したら?成長して端正な顔立ちではなくなったら?大病を患ってしまったら?人間関係のトラブルで信頼を失ったら?彼は、何ごとも思い通りにできるという自分のイメージ(自己イメージ)が人一倍強いです。それだけに、実は、慣れていない苦しい状況によるストレスに対しては人一倍に打たれ弱いのです。このように、自己イメージと現実とのギャップに苦しむリスクが高まります(自己愛性パーソナリティ)。つまり、攻めには強いですが、守りにはとても弱いという弱点があるのです。私たちが花輪クンから学べることは、恵まれすぎていることは、逆に、人間的な成長にとってプラスにならないという客観的な視点です。むしろ、生きていて思い通りにならないことにこそ、心を鍛え養うエッセンスが潜んでいます。失敗や挫折を跳ね返す経験は、私たちの心の糧(かて)になり、心をより豊かにするために大事なことであると言えます。表 パーソナリティの源危うさ魅力自惚れやすい(誇大性)チヤホヤされたい(賞賛欲求)人の気持ちが分かりにくい(共感性欠如)守りは弱い自信に溢れている(自己評価が高い)より良く生きる原動力(向上心)になる妥協しない攻めは強い永沢―ひねくれ者キャラ―反社会性パーソナリティ花輪クンとは対照的に、家庭環境が恵まれていないのが永沢です。彼には、火事で家を失った暗い過去があります。昔は「明るい少年だった」と言われていますが、火事を境にして、今は暗く、「どいつもこいつも」といつも不平不満を口にして(不信感)、誰に対しても口が悪いひねくれ者です(敵意感情)。火事で自分だけ惨めな思いをしたことから、「自分が損をすること」にとても敏感になのです(不公平感)。「世の中は平等で公平である」という育むまれるべき感覚(規範意識)が彼の中で揺らいでいます。彼には、気難しくてすぐに殴る父親と愛情表現が乏しく厳しい母親がいます。この両親に対して、すでに小学校3年生にして反抗的な一面があります。うっぷん晴らしで、彼を慕う藤木を冷たくあしらったり、おとしめたりします(攻撃性)。「損をしないためには他人を利用する」というものごとのとらえ方が芽生えてしまい、理屈っぽくて相手の気持ちがよく分からなくなっています(共感性欠如)。校外の社会科見学で、出発の時に、わざと姿をくらませて、出発できないようにして、みんなを困らせようとしたエピソードもありました。図書室の本「みんなに好かれる性格になる本」を、永沢が読むべきだとまる子に言われたことに腹を立てて、怒りが治まらずに本を引き裂くエピソードもあります(衝動性)。彼の攻撃性や衝動性は、やがて訪れる反抗期にエスカレートすれば、不良グループに属し非行に走るリスクがあります。そして、成人後には社会のルール違反を繰り返すリスクがあります(反社会性パ-ソナリティ)。しかし、同時に、彼の反抗心や反骨精神、闘争心は、将来的に尊敬できるロールモデルに巡り合い、良い方向付けができれば、古いしきたりや価値観に縛られることなく、新しい発想や価値観をもたらすエネルギー源にもなりえます。不信感や不公平感は、現状に甘んじることのない問題意識の高さでもあります。衝動性は、フットワークの軽さでありチャレンジ精神の旺盛さでもあります。つまり、彼は、時代のパイオニアや改革者になる可能性も秘めているということです。表 永沢の二面性危うさ魅力不信感、不公平感ひねくれ者、反抗心攻撃性衝動性問題意識が高い反骨精神、闘争心パイオニア、改革者軽いフットワーク、チャレンジ精神藤木―気にしすぎキャラ―回避性パーソナリティ藤木は、ハートはとても弱い泣き虫の臆病者です。臆病な行動をとってしまって、どんなに永沢に付け込まれて「卑怯者」呼ばわりされても、藤木は永沢を慕います。「永沢くんにもいいところがある」と永沢をかばおうとする姿勢は、健気(けなげ)で優しさがありますが、同時に、これはいじめられっ子の典型的な心理でもあります。一人ぼっちにはなりたくないという怯えがあり、たとえ意地悪な相手であっても、かかわりを持ちたいと思うのです。この状況は、永沢の気分によっては、いじめにエスカレートするリスクが潜んでいます。彼はクラスメート全員から、ことあるごとに「あいつ卑怯だからな」とからかわれ、卑怯者のレッテルを貼られます。まさに、弱々しいしい彼がターゲット(スケープゴート)にされるいじめの構図です。また、藤木自身もそれに甘んじてしまい、「どうせおれは卑怯者だから」と卑怯なことをする都合の良い言い訳にして、卑怯なことを繰り返してしまいます(ラベリング理論)。さらに、残念なことは、彼は卑怯者呼ばわりされたことを涙して両親に打ち明けたのに、その両親は「そうなった原因はお前だ」「いや、あんただ」と責任のなすり合いをして夫婦ゲンカに発展してしまったことです。全く、藤木は両親から守られておらず、ますます心の支えや安心感(安全基地)がなくなってしまいます。こうして彼は、自分に自信がなくなってしまい(自己評価が低い)、将来的に、引っ込み思案で引きこもりになるリスクが高まります(回避性パーソナリティ)。ただ、彼のパーソナリティは、裏を返せば、慎重で協調性があり、争いを好まない平和主義者という見方もできます。彼の良さである穏やかさや優しさが発揮されるには、プレッシャーをひどく与えないコミュニケーションが望まれます。表 藤木の二面性危うさ魅力臆病、引っ込み思案自分に自信がない(自己評価が低い)引きこもりのリスク慎重、穏やか協調性がある、優しさ平和主義はまじ―お調子者キャラ―演技性パーソナリティはまじは、クラス一のお調子者です。いつもいろいろな芸をして、クラスメートを笑わせています。「だいたいなぁ、長山(読書家で優等生のクラスメート)みたいに真面目ばっかじゃ面白くねえんだよ。子供らしくない子供はみんなに嫌われるぜ」と彼は力説します。この発言から読み取れるのは、彼は「みんなに嫌われる」かどうかに価値を置いている点です。つまり、彼は人一倍、「みんなに好かれたい」のです。みんなを喜ばせて注目の的になりたいという欲求が強く、派手好きで、周りへの働きかけがとても積極的です(能動性)。実際に、彼のようなキャラクターは、やり手のセールスマンに多く、世渡り上手(社交性)で出世しやすく、また、芸能界ではムードメーカーとしてもてはやされ人気者になります。はまじの教訓は、「人生なんに面白おかしく過ごしたやつの勝ちだ」です。お気楽でウケ狙いのノリの良さはあるのですが、気に入られることばかりに気をとられてしまうとどうなるでしょうか?自分自身を振り返ることが疎かになり、媚びるばかりの「中身のない薄っぺらいヤツ」になるリスクもあります(演技性パーソナリティ)。真面目さや内面性を問われる集団では、親しみやすさは馴れ馴れしさになってしまい、派手さはけばけばしさになり、目立ちたがり屋、チャラい男、ブリっ子女子として煙たがれ、疎まれるリスクもあります。表 はまじの二面性危うさ魅力目立ちたがり屋、大げさ馴れ馴れしいけばけばしい媚びる、中身がない、薄っぺらいお調子者、ムードメーカー親しみやすさ、世渡り上手派手好きノリが良い、演出がうまい【女子】まる子―愛されキャラ―依存性パーソナリティ主人公のまる子は、面白いことに好奇心があり、楽天的です。みんなに気に入られ、愛される魅力的なキャラクターです。はまじとはお調子者同士でよく似ており、気も合うようですが、まる子は、はまじほど積極的ではありません(受身)。しかし、要領が良い分、甘え上手、お願い上手で、だらしない面がたくさんあります。例えば、おじいちゃん大好きっ子で、おじいちゃんにはよくおねだりをします。また、お姉ちゃんには「まる子の一生のお願い、これで17回目だよ」と言われたり、お父さんに「お前の一生は何回あるんだ」と突っ込まれるなど、まる子は一生のお願いを連発しています。飽きっぽくて怠け癖があり、よく朝寝坊をして、遅刻ぎりぎりセーフでいつも学校に通っています。すぐにいらないものを買うなどお金の浪費癖も目立っています。このようなだらしなさは、見通しが甘く(無責任)、人を当てにして(主体性がない)、生きてしまうリスクがあります(依存性パーソナリティ)。まる子の家族(おじいちゃんを除く)は、まる子を気安く助けないようにしていますが、これは、とても良いコミュニケーションのコツと言えます。表 まる子の二面性危うさ魅力だらしない、飽きっぽい怠け癖、浪費癖無責任、主体性がない楽天的、受身甘え上手、頼み上手気に入られる、愛されるたまちゃん―しっかり者キャラ―共依存まる子と大の仲良しなのは、たまちゃんです。彼女は、ピンチになるまる子をいつも全力で助けてくれます。例えば、まる子が言いたいことをついはっきり言ってしまい、みぎわさんや前田さんとやり合った時、ハラハラしながらも仲直りさせようとします。また、まる子ができ心からカンニングをして、その後ろめたさからみんなに打ち明けようとすると、たまちゃんはまる子に「絶対に言っちゃだめ」「言ったら絶交だからね」と言います。そして、心の中で誓います。「私はまるちゃんをかばうよ。どんなことがあってもかばう。絶対にみんなから責められたりしないようにするよ」と。まる子がたまちゃんに頼りがちなだけに、たまちゃんは、いつもまる子を放っておけなくなります。実は、たまちゃんのようなしっかり者が、そのしっかりしている力を発揮するには、周りにだめな人がいてくれる必要があります。将来的には、だめな人を放っておけない、自分を頼ってくれるだめな人を探し求めてしまうお節介屋さんになる可能性もあります。頼られることに頼る、つまり必要とされることを必要とするようになり、相手も自分もだめにしてしまうリスクがあります(共依存)。たまちゃんは、なぜこんなにしっかり者なのでしょうか?その答えは、たまちゃんのお父さんの存在にありました。たまちゃんのお父さんは、カメラマニアで、「何でも記念を写真に撮っておきたい」というこだわりが強く、相手の気持ちを汲み取る心(心の理論)が鈍いようです(発達の偏り)。シャッターチャンスを逃すまいとしてしょっちゅう常識外れな行動に走ります。「風邪で苦しんでいる自分の記念だ」と自分で自分の写真を撮るほどのこだわりがあります。ですので、周りに風変わりに思われることが多々あり、たまちゃんに世話を焼かせ、困らせています。たまちゃんは、将来的には、自分には恥ずかしい父親がいるという引け目から、よりいっそうとしっかり者になって、人の役に立つ仕事(対人援助職)に就くのではないかでしょうか?表 たまちゃんの二面性危うさ魅力お節介しっかり者、頼まれ上手世話焼きみぎわさん―思い込みキャラ―妄想性パーソナリティみぎわさんは、洋服、持ち物、好きなもの全てが乙女チックで女の子らしく、学級委員を務める優等生です。そして、とにかく花輪クンのことが大好きです。花輪クンのことにはつい敏感になってしまい、彼に優しい言葉をかけられただけで、気に入られていると思い込み、大喜びしてしまいます(被愛妄想)。逆に、クラスの女子が花輪クンと仲良く話していると、「花輪クンを狙っているでしょ!」と詰め寄り、嫉妬心を燃やします (嫉妬妄想)。授業中に、まる子がクラスメートの女子から受け取る手紙を、たまたま花輪クンが回してくれた時、それを見たみぎわさんは花輪クンがまる子に手紙を渡したと思い込み、大激怒します。そして、みぎわさんはまる子に「放課後、話をつけましょう。体育館の裏で待ってるわ」と書いた手紙を渡すのでした。みぎわさんの思い込みの激しさは二面性があります。疑い深く嫉妬深くて、妄想癖があるために、花輪クン以外のクラスメートには、ヒステリックで高圧的になっていくリスクがあります(妄想性パーソナリティ)。一方、彼女は、思いこんだら一直線のエネルギーを持っているとも言えます。このエネルギーを用心深さ、勘の良さ、対抗心、想像力の豊かさに有効活用することもできます。みぎわさんの「暴走」に対して、花輪クンは、はっきりしたことを言わず(中立)、心の間合い(心理的距離)をとって、巻き込まれないようにしています。これが、まさにコミュニケーションのコツと言えます。表 みぎわさんの二面性危うさ魅力疑い深い嫉妬深い妄想癖用心深い、勘が良いすぐに対抗心を燃やす想像力が豊か前田さん―怒りんぼ泣き虫キャラ―情緒不安定性パーソナリティ登場回数は少ないわりに強烈な印象を残すのが、前田さんです。彼女は、掃除係で、掃除にかける思いは熱くて良いのですが、気が強く、掃除を盾に威張り散らすことが多いです。そして、挨拶代わりに文句を言って威圧して、周りに気を使わせます。人に指図することも多く、大晦日に通りすがりのまる子に荷物を持たせたこともありました。彼女の最大の特徴は、相手に言うことを聞かせるためにすぐに怒り出すことと、逆に反撃され、行き詰り追い込まれるとすぐに泣き出すことです(衝動性)。大激怒して散々まる子たちを困らせたあと、自分が困ったら今度は大号泣するのです。そして、泣くことで、相手から手助けや譲歩を引き出し(操作性)、問題が解決すると、ケロっと泣きやみ、また威張り散らし始めるのです。また、「私に味方はいない」と漏らし、相手は敵か味方かという発想が強いようです(スプリッティング)。このように、すぐにかっとなったり、すぐに泣き出したりする行動パターンを繰り返していると、感情が揺れやすいことが本人の生き様になり、人間関係で苦労するリスクが高まります(情緒不安定性パーソナリティ)。一方で、この心の様は、感受性の豊かでもあり、このエネルギーを文学や音楽、演技力などの芸術センスに生かすこともできます。コミュニケーションのコツは、本人の感情の揺れに振り回されないように、近付きすぎずにやはり一定の心の間合い(心理的距離)が大切になります。表 前田さんの二面性危うさ魅力感情が揺れやすい感受性が豊か野口さん―ミステリアスキャラ―統合失調性パーソナリティ野口さんは、一見、無表情、無口のネクラでひっそりしていて、クラスの中で陰が薄いです。しかし、「クックックッ」という笑い声や、「しーらない」「言えやしないよ」と低いフラットなトーンの口癖は独特です。しかも、実は、かなりのお笑い好きで、「お笑いは、まず身近な所から見つけていこうね」と言い、しょっちゅう何かしでかすまる子の様子を、電柱の陰から密かに伺うなど、神出鬼没な一面もあり、かなり強烈な印象があります。まる子が前田さんにからまれ、何とか切り抜けた後に、野口さんはまる子に「これからも前田さんのことは、温かく見守っていこうね」「あ、またそろそろ泣くぞ」とボソっと告げるなど超越した視点を持っています。野口さんの特徴は、家族や友達との親密さを求めず、周りと距離を取ろうとする一匹狼キャラであることです。音楽の歌のテストの時には、壇上に出て「歌いたくありません」ときっぱり拒否をするエピソードもあります。ミステリアスで孤高でマイペースな一方、奇妙に思われて孤立して、社会生活が送りづらくなるリスクもあります(統合失調性パーソナリティ)。本人のペースを尊重しつつ、必要な時は社会との橋渡しをしてあげることがコミュニケーションのコツと言えます。表 野口さんの二面性危うさ魅力孤立奇妙社会生活を送りづらい孤高、超越した視点ミステリアスマイペース【まとめ】個性 ―パーソナリティの偏りこれまで、ちびまる子ちゃんの代表的で個性的なキャラクターたちを見てきました。彼らをより良く知ったことで、さらに彼らが私たちの身近な誰かに重なったり、または自分自身に重なってしまったりはしていないでしょうか?実は、彼らの特徴は、傾向やリスクとして、メンタルヘルスで扱うパーソナリティの偏りをほぼ全てカバーしているのです(表)。表 メンタルヘルスで扱うパーソナリティの偏り傾向またはリスクのあるキャラクターパーソナリティ強迫性丸尾くん自己愛性花輪クン反社会性永沢回避性藤木演技性はまじ依存性まる子共依存たまちゃん妄想性みぎわさん情緒不安定性前田さん統合失調性野口さんちびまる子ちゃんの友達関係―社会の縮図その他のクラスメートとして、リーダーキャラの大野君と杉山くん、お嬢様キャラの城ヶ崎さん、おバカキャラの山田、口癖キャラのブー太郎、胃弱キャラの山根、食いしん坊キャラの小杉などがいます。彼らを加えると、ちびまる子ちゃんたちがコミュニケ―ションを織りなし繰り広げる教室は、まさに私たちの社会の縮図です。ちびまる子ちゃんのキャラクターたちをヒントとして、実生活での相手のことをよく知り、同時に自分自身のことをよく知り、そして、相手と自分の関係性を見つめ直すことに生かすことができるのではないかということです。コミュニケーションにおいて、相手がどんな人なのかというパーソナリティの傾向を踏まえた上で、その魅力の裏にある危うさ(リスク)を想定して接するのと、そうでないのでは、心の余裕は全く違ってしまいます。ちびまる子ちゃんの作品を通して、人の個性の魅力と危うさという二面性をより良く知っていくことで、私たちの人生はより豊かになっていくのではないでしょうか?1)「ちびまる子ちゃん大図鑑」(扶桑社)2)「ICD-10(精神および行動の障害、臨床記述と診断ガイドライン)」(医学書院)3)「DSM-IV-TR(精神疾患の分類と診断の手引)」(医学書院)

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海を飛ぶ夢【自殺、安楽死】

実話だからこそ伝わる真実―もしもあなたの大切な人が生きることを諦めたら?安楽死は日本でも古くからある社会的なテーマで、森鴎外の「高瀬舟」などが有名です。また、「苦しそうだから死なせてやろう」という本人の死ぬ意思の確認のない慈悲殺とイメージが重なってしまうこともあり、よりいっそう私たちは安楽死という言葉の響きに後ろめたさを感じてしまうのも事実です。この映画は、安楽死を願う四肢麻痺の主人公の生き様とその家族や恋人たちなどの周りのかかわりをストレートに描いた実話に基づくドラマです。主人公の死を望む気持ちが、穏やかで揺るぎないものであればあるほどほど、家族は受け入れ難い葛藤で揺れます。そして、私たちが主人公と同じ目線に立てば立つほど、私たちの心も揺れていきます。日本の自殺率は先進国で長年トップクラスというありがたくない記録を更新しており、自殺に手を貸す(自殺幇助)という安楽死について、私たちが独りよがりになって感情的にタブー視せず、いっしょになって理性的に向き合うのは意味のあることではないでしょうか?自殺念慮―なぜ生き生きと死を追い求めるのか?主人公のラモンは、青春時代、船乗りとして世界中を旅して、多くの女性たちと情熱的な出会いをしてきました。そんな彼にとっては、生きること=人生を楽しむ自由があることでした。しかし、25歳のある時、彼に悲劇が襲いました。人生の最高潮にいる彼は、婚約者の目の前でかっこいいところを見せるために、海辺の高い岩場から海面に飛び込みました。そして、引き潮に気付かず、浅瀬に激突し、首の骨を折ってしまったのでした。その後は、首から下の全身の自由を完全に奪われて、寝たきりになってしまいます。彼は、婚約者に一方的に別れを告げ、その後は実家で家族に支えられ、静かに暮らすことになります。海まで自由に飛び回れるという想像力だけを残して。身の回りの介護は、母親の死後、義姉である兄嫁が献身的に続けます。排泄の処理だけでなく、床ずれを防ぐため3時間ごとに姿勢を変えることまでやっています。体の自由を奪われて26年経った51歳の時、彼は意を決します。死を持って自分の運命に折り合いをつけようとしたのです。彼の死を望む理由は、「尊厳がないから」でした。彼にとっての尊厳、つまり自分らしさとは自立していること、自分で自分をコントロールできることだったのです。そして、自分らしく生き抜くため、死ぬことに一生懸命になっていくのでした。スピリチュアルペイン(実存的苦痛)―存在していることへの心の痛み彼は自らをこう形容します。「死んだ体にくっついた生きた頭」と。また、「なぜいつも笑顔なの?」と尋ねられた彼が、「人の助けに頼るしか生きる方法がないと自然に覚えるんだ」「涙を隠す方法をね」と答えるシーンは印象的です。彼の精神的な苦痛や苦悩を一言で物語っています。実話で明かされていることとして、母親がラモンの近くで倒れた時、動けないラモンは母親が死んでいくのをただ見守っていることしかできなかったことがありました。万能であった彼にとって無能で無力な状態に置かれることは惨め過ぎて耐えられなかったです。彼にとってのその後の人生は、動かない肉体に心を囚われ、飼い馴らされて生き続けるという生き地獄だったのでした。そして、死とは、囚われの身から解放されることなのでした。「唯一、死が自由をもたらしてくれる」と確信しているのです。このように、人生や存在していることに対する無価値感、家族などの他者への依存や罪悪感などから生まれる心の痛みは、スピリチュアルペイン(実存的苦痛)と呼ばれます。体の痛みとは違い、癒すのには一筋縄ではいかないようです。自殺の共感―なぜフリアは一緒に自殺することを一度決意したのか?ラモンと同居している家族は、義姉、兄、甥、そして父です。家長でもある兄は語気を強めて言い放ちます。「(自殺に)おれは絶対に手を貸さん。誰にもさせん」と。もともと兄も船乗りでしたが、ラモンの介護のために、農業に転業したというわだかまりや意地もありそうです。また、父は言います。「神様がお望みになる限り生を全うせねば」と。彼の自殺の手助けをする人は家族にはいません。かと言って、餓死や舌噛みによる自殺は望んでいません。彼はあくまで苦しまずに死にたい、安らかに死にたい、それが尊厳ある死だと考えているからです。そんな中、彼を支える人権団体の弁護士の1人であるフリアは、彼の考えを理解していきます。なぜなら、彼女自身、体も心もだんだん衰えていく難病(多発性硬化症)を患っていたのです。足腰が弱り、記憶があやふやになるという発作を繰り返し、自分が自分でなくなる恐怖を肌で感じていたのでした。彼女には夫がいますが、ラモンに共感し好意を寄せていくのでした。そして、彼の本ができたら、いっしょに自殺する約束をしたのです。ラモンが死を追い求めるのに対して、フリアは死に迫って来られるという境遇の違いがあります。彼女は頭がしっかりしている間に自分からその恐怖を終わりにさせたいと考えていました。しかし、最後には自殺を思い留まります。そのわけは、「それが人生」「任せよう」と言う夫の必死の説得により、夫の支えで生き続けることを心変わりしたからでした。自殺の受容―なぜロサは自殺の手助けをしたのか?ラモンは、テレビで自分のありのままの姿をさらけ出したことで、世の中に波紋を呼びます。個人の権利として安楽死を社会に訴えたのです。たまたまテレビで彼を知ったロサはたまらず彼を訪ねます。都会的で知的でクールなフリアと対照的に、ロサは子連れで離婚歴があり、田舎臭くておしゃべりで世話焼きな女性です。当初、ラモンに対するロサの思いは、愛情というより母性に溢れています。ラモンはロサの世話好きな母性本能をくすぐってしまい、ロサはとにかくラモンのお世話をしたい気持ちでいっぱいになります。「どんなに辛いことがあっても逃げちゃだめよ」と励ましてしまい、ラモンをイラつかせもします。 そんなロサでしたが、ラモンとのかかわりの中で少しずつ変わっていきます。辛い時に押しかけても話を聞いてくれてユーモア溢れるラモンに「あなたから多くのものをもらっていると深い感謝と情愛を寄せます。その後、「僕を本当に愛してくれる人は死なせてくれる人だ」とのラモンの言葉が彼女に心に響き、ついに彼を愛している証として、自殺の手助けを受け入れたのでした。それは、ラモンが死んでいなくなっても、自由になった彼の魂に抱きしめられて、彼の魂を愛し続けることができると悟ったからでした。支持的精神療法―反面教師的な神父の説教テレビに出演した四肢麻痺の神父はラモンについてコメントします。「彼の周りからの愛情が足りないからだ」と。これは、当時の教会の実際の声明のようで、家族はかなりのショックを受けています。その後、その神父はわざわざラモンの家まで訪ねてきて、説教を始めます。その様子はコミカルでもあり、シリアスでもあります。この映画での神父の描かれ方は、正論ぶって尊大で押しつけがましく、まさにメンタルヘルスのかかわり方において反面教師です。この神父を見て、単に「がんばれ」とか「信じれば救われる」などの一方的な激励、説教、議論、犯人探しが逆効果であることに気付かされます。有効なかかわりとしては、まずは患者の話に耳を傾けること(傾聴)です。患者の考え方に関心を寄せ、よく分かってあげることです。周りに理解され、その患者がそのまま周りに受け入れられていると実感できることで、心を開き、病気を受け入れていくことにつながります。このかかわりは、特に末期がんのメンタルヘルスなどで見受けられます。障害の受容―なぜラモンはありのままの自分を受け入れられないのか?ラモンは車椅子を嫌う理由を問われると、「失った自由の残骸にすがりつくことだ」と言い切り、車椅子生活などの他の選択肢を拒み続けました。そこには、自立的に生きることこそが全てであるという彼の強い信念が私たちに伝わってきます。と同時に、それは彼の頑固な一面でもあり、彼の新しい人生にチャレンジ(価値の範囲の拡大)するチャンスや、彼の劣等感を封じ込める方法(障害の与える影響の制限)を阻んでいます。例えば、彼は、聞き上手でユーモアがありました。彼にはカウンセラーとしての才能があり、人の役に立つことができました。そこから、その役割に打ち込むことが彼の喜びになりうるのです。これは、新しい自分らしさの発見(価値の転換)によって立ち直ること(障害の受容)です。また、兄とのやり取りの場面でラモンはこうも言います。「もしも明日兄さんが死んだら、僕は家族を養えるか?と。身体的な自立の他に、経済的な自立の問題、つまり生活の苦しさも陰にあります。生活に余裕がないため、心にも余裕がなくなっている可能性も考えられます。実存的精神療法―生きていることそのものに意味がある家族との最後の別れのシーンで、甥は、無言でラモンを抱き込みます。ここで、ラモンと甥の特別な関係が伺えます。もともとラモンが甥を言い諭す場面がたびたびある一方で、甥はラモンといっしょにテレビでサッカーの試合を見たがるなどかなり慕っていたのです。まさに父子の関係のような雰囲気を醸し出します。しかし、甥の実際の父はラモンの兄であり、そこにラモンと甥の間には完全には父子の関係になれない一線があることにも気付かされます。 もし仮にラモンに子どもがいたとしたら、どうでしょうか?彼にはすでに妻がいて、息子や娘がいたとしたら、彼はそれでも死を望み続けたでしょうか?興味深いことに、彼が執筆した本の一節に、生まれてこなかった息子への思いを綴った詩があります。それを甥に読ませ、どういう意味か問うシーンがあります。甥を我が子と重ね合わせているのです。ここから読み取れるのは、誰かに独り占めで愛されると同時に、その誰かを独り占めで愛することができたら、そんな誰かがいたとしたら、その愛自体が大きな希望になり、生きる原動力になり、彼の無力感から来る心の苦痛は乗り越えられていたのかもしれません。そもそも我が子の存在する喜びは本能的なものです。つまり、親子という特別な絆が存在していたとしたら、そこには、自分が生きなければならない責任感や義務感と同時に、生きて見守りたいという喜びが湧き起こってくるように思われます。どんなに辛くても生きていることそのものに意味がある、喜びがあると思えたのではないでしょうか? このような考え方は実存的精神療法と呼ばれます。また、実話によると、彼が死にたいという思いを口にするようになったのは、母親が亡くなってからでした。自分を生んでくれた母親を苦しめたくなかったのです。また、父親には死にたい気持ちを直接には一度も語っていません。つまりは、もし仮に母親が生き続けていたとしたら、彼は母の愛で死ぬことを踏み止まっていたようにも思えます。親子愛は、兄弟愛にも増した特別な絆があるようで、自殺を踏み止まらせる強い力があるようです。安楽死を合法化する文化―自由主義のオランダラモンは、わざわざ嫌いな車椅子に乗り、安楽死の権利を得るために裁判所に出向きます。ところが、法廷では「手続きの不備」を理由に取り合ってもらえません。また、挙句の果てに訴えを却下されてしまいます。ラモンのいるスペインの社会で、安楽死の是非は一筋縄ではいかず、判断すること自体がためらわれ、避けられてしまいます。日本を始め多くの国で、尊厳死は認められています。これは、リビングウィル(生前意思)により延命治療を開始しないことです。延命治療とは、例えば、呼吸が止まった時に人工呼吸器を装着することや食事を摂るのが難しくなった時にお腹に穴を空けること(胃瘻)によって直接栄養を胃に送ることです。一方、安楽死とは、ラモンが青酸カリを用意してもらったように、直接死なせる介入を行うことです。このように、尊厳死と安楽死には、一線があるのです。現在、安楽死が合法な国は、オランダを初めとしていくつかあります。オランダはもともと大麻、売春、賭博、同性結婚から安楽死までいち早く合法化しているお国柄です。ここまで自由で寛容な国になった理由は、オランダの風土や歴史に見出すことができます。オランダはもともと国土を干拓で増やした歴史があり、自然環境をコントロールする欲求がとても強い文化を育んでいます。また、中世に絶対君主がいなかったことで商業都市として自由貿易が栄えました。オランダの文化圏の人々は、世界一、合理的で自由主義的であり、自立性を重んじます。それは、自分の死についても同じで、死もコントロールすべきだという価値観が強いようです。安楽死の適応―誰が安楽死できるかの線引き安楽死を認めた場合、誰が安楽死していいかという線引きの問題が新たに出てきます。もともとは末期がんの身体的苦痛に対して適応となっていましたが、緩和ケアが進んだ現在はほとんどの身体的な痛みは取り除くことができるになりました。安楽死の適応は、精神的苦痛に広がり、オランダではリビングウィル(生前意思)による認知症患者への安楽死がすでに行われています。また、本人と両親の同意で未成年の安楽死も認められています。さらに、本人意思の確認のできない重度の障害を持った新生児に対する安楽死も条件付きで認められるようになりました。その根拠となったのは「人間的尊厳のない人生を続けさせるべきではない」という理由でした。これらのことから、安楽死が広がれば、自殺や慈悲殺を推し進めてしまう懸念があります。そもそも、命の価値を自分で決められることを社会が良しとしたら、「人の命は平等でかけがえのないもの」という価値観や倫理観による社会を形作る前提を覆してしまうおそれがあります。命に格差を付け、命のランキングを作ってしまうことになり、「生きていなくていい命」という発想が出てきてしまいます。人の命は平等だからこそ、私たちは社会から公平な扱いを受けることができるという社会システムの根幹を揺るがしてしまいかねない危うさをはらんでいます。安楽死の危うさ―集団主義の日本ラモンと兄の口論が印象的です。兄に安楽死を強く反対されたラモンは「僕を奴隷にするのか?」と訴えますが、兄は「おれこそお前の奴隷だ」「家族みんなお前の奴隷だ」と心中のわだかまりをぶちまけてしまいます。兄はラモンを養うために一生懸命になり過ぎていました。もともとラモンのいるスペインのガリシア地方は気候条件の厳しい地域で、そのためにガリシア人は無骨だが結束力が強いと言われています。ラモンの義姉は、介護に一生懸命で前向きです。介護を自分の役割だと言い、ロサとお世話を取り合うシーンもあります。ここから分かることは、義姉にとってラモンを支えることは喜びでもあるようです。そのことを、ラモンはもっと心を開いて感じ取ることができれば良かったのです。支えることも支えられることも喜びになりうるということです。これを確かめるには、家族の風通しの良いコミュニケーションが必要です。ガリシア人は、家族に気兼ねして息苦しい家庭生活を送る日本人と何か通じる点があるかもしれません。ラモンは「死は感染しやしない」と言っていますが、この日本においては、本当に「感染」しないでしょうか?もともと日本は、武士が切腹することから「死んでお詫びをする」という表現があり、トラブルを解決するための自殺を美学とするメンタリティが根付いていました。切腹の介錯は、安楽死とも受け止められます。特攻隊や集団自決を良しとした歴史もありました。心中や後追い自殺も独特です。現在でも私たちは流行りに気を配り過ぎます。つまり、私たちはいつも世間に気を遣い、とても流されやすく、世間と同じことをしていないと落ち着かない集団主義の文化(同調圧力)を持っています。ラモンは「生きる権利」を「生きる義務」ととらえて、そこから「死ぬ権利」を要求しています。日本人の集団主義の文化の中で「死ぬ権利」が広がっていけば、「同じ状況でなんでおまえは死なないんだ」という理屈で「死ぬ義務」が生まれるおそれが高いのです。同じ状況でも生きていたい人に無言のプレッシャーがかかりやすくなります。実際に「未亡人」という言葉は、「(夫ともに死ぬべきなのに)まだ死なない人」という意味合いがあります。他者配慮の強い日本人ならではの発想で、「周りに気を遣って死ぬ義務」が広がるおそれがあります。シネマセラピーラモンが安楽死を望んだ理由は、自立性の喪失だけではなかったのです。その背景には、頑固さから障害の受容ができず自分の役割を見出せなかったこと、生活の余裕のなさ、家族への気兼ね、特別な絆を持てる誰かがいなかったことなどがあります。これらのことから、自殺や安楽死に至らないようにするために私たちのメンタルヘルスの課題が見えてきます。それは、失った体の自立性を補える医療テクノロジーの進歩や社会が豊かになっていくことに期待しつつ、柔軟な考え方を持つこと、自分の役割を見出すこと、家族と風通しの良いコミュニケーションを通して支えられることを喜びに感じること、そして日々の絆を育んでいくことです。私たちは、ラモンに真っ向から自殺や安楽死について突き付けられました。彼から、単に彼が死ぬべきかどうかということだけでなく、私たち自身がどう生きるか、社会はどうあるべきかということについても様々に考えさせられました。死は忌むべきものではないのです。私たちが死についてもっとオープンにもっと深く語り合う心構えがあれば、私たちがより良く生きていくこと、社会がより良くなっていくことにつながっていくのではないでしょうか?1)「海を飛ぶ夢(地獄からの手紙)」 ラモン・サンペドロ アーティストハウスパブリッシャーズ2)「安楽死問題と臨床倫理」 日本臨床死生学会 青海社3)「安楽死のできる国」 三井美奈 新潮社4)「『尊厳死』に尊厳はあるか」 中島みち 岩波新書5)「僕に死ぬ権利をください」 ヴァンサン・アンベール NHK出版6)「標準リハビリテーション医学」 上田敏 医学書院

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トカトントン【条件反射】

ユーモラスで奥深い作品太宰治の短編小説であるトカトントンは、タイトルからして軽やかでユーモア溢れています。しかし、同時に、主人公の内面を読み解いていくと、実は奥の深い作品であることにも気付かされます。ストーリーは、除隊後のある田舎のしがない郵便局員の若者が、ある作家に宛てた悩み相談の手紙の形をとって進みます。支配観念―軍国主義という熱狂時は敗戦直後。兵舎の広場でラジオから玉音放送が流れ、厳粛で悲壮感が漂う雰囲気の中、軍人から集団自決の覚悟が口にされます。戦争の熱狂がまだ冷めやらぬ中で、その場にいた入隊中のその若者は、「からだが自然に地の底へ沈んで行く」という感覚に囚われ、「死ぬのが本当だ という決意を固めていました。追い込まれた絶望や潔さから来る一つの答えです。 その直後、遠くの方からかすかに金槌で釘を打つ音が鳴り響いてきました。「トカトントン と。厳かなムードを吹き飛ばす能天気で間抜けな音です。すると、その瞬間です。主人公の世界は反転し、色褪せます。そして、白々しくバカらしい気分になってしまったのです。まるで沸騰していた頭に冷水を浴びせられたように、一気に冷めてしまい、もうどうでもよくなったのです。後に彼が告白する「ミリタリズム(軍国主義)の幻影」という熱狂が冷めて、そして目が覚めた瞬間でした。 当時の日本は、戦争に勝つことが全てという軍国主義による国家レベルの熱狂に支配されていました。このように、強い感情に結びついて頭の中を支配する考えは、支配観念と呼ばれます。例えば、熱愛中のカップルがお互いのことで頭がいっぱいになることや、熱狂的なスポーツファンがひいきチームの応援に明け暮れることなどです。支配観念の内容は、妄想というほどとっぴで不合理ではないのが特徴ですが、妄想との密接なつながりがあります。また、カルト宗教などでよく悪用される手口であるマインドコントロール(洗脳)に発展する可能性を秘めています。だからこそ、宗教勧誘の鉄則は、弱っている心にすかさず感情的に働きかけることになります。幻聴―聞こえるはずのない音その後は、平穏な生活を送れるかと思いきや、気分が高揚したり緊迫したりして最高潮になるたびに、トカトントンという幻聴が聞こえてくるようなったのです。そして、その直後に一瞬で気持ちが萎えて醒めてしまい、我に返るという奇妙な症状に悩まされるようになります。書きしたためていた軍隊生活の追憶記の完成を真近にトカトントン。仕事に熱中してトカトントン。デートのクライマックスでトカトントン。社会運動に感極まりトカトントン。マラソンランナーに感動してトカトントン。やがては、死のうと思ってトカトントン。今まさにこの手紙を書いていてトカトントン。そして、主人公は作家に教えを請います。「この音は、なんなんでしょう 「この音からのがれるには、どうしたらいいのでしょう」と。条件反射―心の反響作用まず、トカトントンの音の正体は何なのでしょうか?主人公がトカトントンの実際の音を初めて聞いたのは、敗戦を実感するという際立った体験をした瞬間でした。たまたま聞こえたものですが、インパクトが強烈で特異な瞬間と重なったことで、脳に記憶として鋭く刻まれてしまったのです。しかも、その時の心の動きは、まさに高まっていたテンションが落ちていく瞬間でした。そして、その後に、トカトントンの幻聴が繰り返して出てくるタイミングも、同じようなテンションがピークに達する瞬間です。このように、同じような心の動きをきっかけとして、幻聴などの症状が出てくる場合は、広い意味での条件反射のメカニズムが考えられます。もともと条件反射とは「パブロフの犬」でおなじみです。犬に餌を与えると同時にベルを鳴らすこと(条件付け)を繰り返すと、ベルの音の刺激が唾液を出す脳の働きに刷り込まれていき、やがてベルが鳴っただけで唾液が出るという自律神経の反射が起きるという実験理論です。実際に、私たちの多くが、梅干しを見ただけで唾液が出ます。泣き歌と呼ばれる歌は、それを聞いただけで泣いてしまう人がいます。さらに、実際に、東日本大震災の被災者の中には、数か月経った後でも、被災した当時に嗅いだある花の匂いを再び嗅いでしまうと、その時の出来事を生々しく思い出して、気持ちが揺れる人もいます。その逆も考えられ、感極まった時は泣き歌が頭の中を流れることがありますし、その被災者にとってその花の匂いがあまりにも強烈であれば、当時の出来事を思い出しただけでその花の匂いを嗅げてしまうという幻覚が起こりえます。言い換えれば、匂い(嗅覚性)のフラッシュバックです。フラッシュバックは条件反射の一種とも言えます。主人公の場合、高まったムードに条件付けされて、トカトントンの幻聴が心の反響として聞こえるようになっています。防衛機制―心の安全弁次に、なぜ主人公はトカトントンの音を聞いて白けてしまったのでしょうか?もちろんその音が単純に滑稽だったということもあるとは思いますが、その後の彼の行動パターンを読み解いていくと、そもそも彼の性格そのものに関係がありそうです。トカトントンの幻聴が聞こえるエピソードのいくつかの直前を振り返ってみましょう。例えば、仕事に熱中するエピソードは、もともと仕事熱心でもないのに「なんでもかでもめちゃくちゃに働きたくなって」と急に仕事に没頭しています。政治運動に感極まるエピソードでも、もともと政治には「絶望に似たものを感じて」無関心だったのにも関わらず、ある日の労働者のデモに「胸がいっぱいになり、涙が出」て「死んでも忘れまい」と突然に感動しています。もともとスポーツは「ばかばかしい」と思い、「参加しようと思った事はいちどもなかった」のに、あるマラソンランナーの必死のラストスパートに「実に異様な感激に襲われ」ています。つまり、そもそも彼のテンションが上がるきっかけがかなり唐突なのです。どうやら、彼の性格として、のめり込みやすく熱狂的な面、気分の浮き沈みが激しく感じやすい面が浮かび上がってきます。そんな主人公が、そのまま熱中や熱狂が続けば、いずれいっぱいいっぱいになり、精神的に参ってしまうことが伺えます。実際に、彼は自殺を考えながらも、トカトントンの音に救われてもいます。彼にとってトカトントンの音は、実は、まさにその暴走しパンクしそうな心をリセットさせるリミッターの役割を果たしています。つまり、無意識の心理メカニムズ(防衛機制)としても解釈できそうです。言わば、心の安全弁です。行動療法―信仰という行動の枠組みけっきょく、このトカトントンの音から逃れるにはどうしたら良いでしょうか?このストーリーの最後に、太宰自身らしきその作家からの返答が続きます。彼は聖書の一文を引用して説きます。「このイエスの言に、霹靂を感ずる事ができたら、君の幻聴はやむはずです」と。これは、イエスの教えに従うこと、つまり、キリスト教への信仰心により心の平安を保つことで心を安定させることができると言っているようです。信仰という行動の枠組みに身を置くというのは一種の行動療法でもあり、治療的にも一理あります。また、絶対的なイエスの前に身を伏せるという権威付けも一種の自己暗示療法でもあり、これも一理あります。 認知行動療法―心のあり方を冷静に見つめるただ、メンタルヘルスの治療として、主人公が知りたい「この音からのがれる」現代的な治療は、この幻聴ができるメカニズムをまず自分自身が理解することではないかと思います。それは、熱狂的で感じやすい自分自身の性格であり、敗戦により軍国主義から民主主義への価値観がひっくり返った困惑であり、戦後の混乱して落ち着かない生活状況です。原因となりうるこれらを振り返り、見つめ直すことです。つまりは、自分の心の動きを俯瞰(ふかん)してモニターし、そのための安定した生活スタイルや対処方法(コーピングスキル)を具体的に見い出すことです。この治療は、認知行動療法と呼ばれています。例えば、規則正しい生活をモニターして記録すること、対人距離やその時の気持ちをモニターして気持ちの受け止め方を整理していくことなどです。主人公は、これらを続けていくことを通して、心のあり方を冷静に見つめることができたその時、トカトントンの音が消えてしまっていることに気付くのではないでしょうか?トカトントンの幻聴は危うい気持ちの揺らぎを知らせてくれる心の奥底からのメッセージでもあります。この作品に共感する私たちも、主人公のような体験をした時、その根っこにある自分自身の心のあり方を見つめ直すきっかけを知ることができるのではないでしょうか?

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僕の生きる道【自己成長】

テーマは死と成長―もしもあなたがあと1年で死を迎えるとしたら?私たちは、人の平均寿命はだいたい80年で、事故や病気でその寿命が縮まる可能性もあるという現実を頭では分かっています。しかし、実際に、心の中ではそんなことは忘れて、「自分はいつまでも生きている」「明日は明日の風が吹く」と思い込んではいないでしょうか?2003年に放映されたテレビドラマ「僕の生きる道」は、タブー視されがちな死について、真っ直ぐに向き合っています。余命1年を宣告された主人公の一生懸命さに、平和ボケして何となく生きている私たちは、頭を一発殴られた気分にさせられ、目が覚めます。死について考えることは、どう生きるかを考えることでもあります。そして、考えることが私たちの新たな心の成長につながっていきます。今回は、このドラマを通して、みなさんと死について、生きることについて、そして生死を通して私たちがさらに成長することについて考えていきましょう。悪い知らせの伝え方―間(ま)の大切さ主人公の中村秀雄は、進学高校の生物教師です。教師としての目標もなく、老後の遠い先のことを考え、事なかれ主義で、自ら「28年間、無難な人生を過ごしてきた」と認めています。そんな彼に突然、定期健診の再検査の通知がきます。そして、再検査の結果、余命1年の胃がんと宣告されたのです。主治医の態度が印象的です。間(ま)をとりながら、神妙な表情で静かに問いかけます。「検査結果について、大切な話があります」「できたら、検査結果はご家族の方と聞いていただきたいんです」と。その間も十分な沈黙の時間をとります。告知前の間(ま)は、心の準備をしてもらう警告の合図でもあります。ドラマでは、直後には描かれてはいませんが、告知後は、時間をかけて、今後の話し合いをすることも大切です。これからの目標や秀雄らしい生き方について触れていくことです。否認―自分ががんであることが信じられないあと1年しか生きられないという現実を突き付けられた秀雄は、頭の中が真っ白になります。その日は、虚ろな目で、何とか仕事をこなしています。そして、一睡もできず、翌日から荒れていきます。朝から投げやりになって飲酒し、夜には遭遇したひったくりの少年たちに苛立ち、抵抗して、さらに暴行を受けます。翌々日、彼は主治医の診察室に押しかけ、怒りに満ちて強く訴えます。「僕がこんな目に遭うはずがない「こんなの不公平だ」「絶対何かの間違いだ」と。これらは、ショック、怒り、否認というがん告知に対する通常の心の反応です。心が一時的に現実を受け止め切れず、信じられないのです。認知行動療法―置かれた状況に対しての別の見方や考え方の援助主治医は、秀雄の行き詰った心を受け止めて、そして解きほぐすように、静かにそして力強く言います。「確かなことが一つだけある」「それは、君が今、生きているということ」と。死ばかりを考える秀雄に、残りの人生をどう生きるかに目を向けるよう促す一言です。このように、本人が置かれた状況に対して別の見方や考え方の援助をするやり取りを認知行動療法と言います。その夜、自分の小学校の卒業文集の「幸せな人間とは後悔のない人生を生きている人」という自分の文章を見て、泣き出します。彼は、後悔していたのです。「あの頃思い描いた人生を生きてこなかった」と。絶望―安楽死、自殺を望む心の叫び受験指導で、ある生徒に志望校をあきらめるよう言い切った秀雄は、心の中で思います。「僕もあきらめている」「人生最後の日がやってくるのを」「ただ待つしか道はない」と。そして、好き勝手にお金を浪費してみたものの空しいだけで、自分が棺にいる悪夢にうなされ、がんによる痛みも出てきます。耐えられなくなり、彼は主治医に「毎日が怖い」「何の痛みも感じないよう楽にしてください」と訴えます。当然ながら、安楽死は聞き入れられず、絶望した秀雄は、崖から飛び降り自殺を図ります。しかし、奇跡的に助かってしまうのです。そして、病院から母親への何気ない電話で、「僕が生まれた時、どう思った?」と質問して、母親の答えに、彼は号泣します。その答えとは、「この子のためなら、自分の命は捨てられる」だったのでした。この瞬間から、秀雄は前向きな気持ちに心が切り替わります。主治医に「1年て、28年よりも長いですよね」と噛みしめるように確認します。「僕に自分で死ぬ権利なんかない」「僕は生きる」「人生最後の日まで」と決意し、残りの人生を悔いのないように生きたいとの前向きな思いが湧き起こってくるのでした。これが、がん告知の最終段階である適応です。がん告知後の心理状態は、キューブラー・ロスによる「死ぬ瞬間」で、否認→怒り→取り引き→抑うつ→受容の5段階が有名ですが、実際には、段階的にプロセスを経るというよりは、いろいろな心理がごちゃ混ぜになっています。ちなみに、取り引きとは、「自分はまじめにやってきたのだから、きっと良い治療法が間に合うに違いない」と思い込み、手術や民間療法で何とか助かりたいとすがる心理ですが、秀雄には見られませんでした。自己成長―余命1年であることを知ったからこその成長秀雄は、授業の最初に、自らの「読まなかった本」のエピソードを取り上げます。余命1年の自分の運命と1年後に受験を迎える教え子の運命を重ね合わせ、「この本の持ち主は読む時間がなかったのではなく、読もうとしなかった」「(やるべきことを先送りせず)この1年、やれるだけのことをやろう」と呼びかけます。これは、教師として生徒のために一生懸命になろうという自分の決意表明でもありそうです。その後は、不器用ながら、秀雄なりに一生懸命に周りにかかわろうとします。このような一生懸命さは、空回りしながらも、生徒から教えられながらも、少しずつ生徒やみどりたち職員にも伝わっていきます。例えば、「ありのままの気持ちを伝えよう」「それが僕にとって、今を生きるということだから」と気持ちを固め、今まで憧れだった同僚のみどり先生に自分の恋心を素直に伝えます。医者を目指していながら妊娠騒動で命を軽々しく思っているある生徒に、心の底からのメッセージを手紙で伝えます。「命の尊さを分かってほしい」「(患者の)心の痛みも分かってあげられる医者になってほしい」と。また、本気で歌手を目指すある生徒には、「必ず歌手になってください」「僕のためにも」と言い、叶わなかった自らの夢を暗に託します。その後、彼が言い出した合唱コンクールにクラスの生徒が全員揃って参加して、一体感が生まれます。こうして、彼は、がんで余命1年であることを知ったことで、さらなる人間的な心の成長(自己成長)を遂げていきます。ナラティブアプローチ―自分自身に距離を置かせて気持ちの整理を促す秀雄が空回りして落ち込んでいた時、主治医のかける言葉がまた印象深いです。主治医は、預言者のように厳かに言います。「君が信念を貫いていれば、いつかきっと、君に味方してくれる人が現れるよ」「その人は、ある日突然やってくる。一番最初に現れたその人を絶対逃がしちゃダメだ」「その人は生涯を通じて君の味方になってくれる」と。暗示的ですが、とても心のよりどころとなる温かいかかわり方(支持的精神療法)をします。また、「彼女(恋人のみどり)が僕の病気を知ったら、どうなるんでしょうか?」といつまでも打ち明けることに恐れをなしている秀雄に、主治医が問いかけます。「(病気を知って)君の人生はどう動きだした?」と。主語を「君」とせずに「人生」として、物語ふうな語り口(ナラティブアプローチ)をすることで、問題そのものを秀雄の感情から切り離して捉えさせ(外在化)、秀雄に気持ちの整理を促します。さらに、秀雄がみどりとの結婚をためらっていた時に、主治医が秀雄に投げかけた引用が印象的です。「たとえ明日、世界が滅亡しようとも、今日、私はりんごの木を植える」と。これは、宗教改革の立役者ルターが言ったとされている名文句です。りんごの実という明日への希望を持って、今日を一生懸命に生きようというメッセージに受け止められます。と同時に、たとえ未来で全てが失われたとしても、今を一生懸命に生きていたという事実は失われないというメッセージにも受け止められます。大事なのは、自分を取り巻く世界がどうなるかではなく、世界が滅亡しようとも繁栄しようとも、自分自身がいつもどうありたいかということであることを、私たちに教えてくれます。フランクル心理学―『人生が自分に求めてきていること』秀雄は、限りある生にありがたみを感じ、そこに意味を見出そうとしています。彼にとって「今を生きる」とは、教師として創造的に仕事をすること(創造価値)、みどりや生徒たちのために一生懸命になること(体験価値)、持って生まれた運命に前向きな態度をとり続けること(態度価値)なのでした。これは、まさに『人生が自分に求めてきていること(フランクル心理学)』に当てはまります。この秀雄の成長は、「自分の考えをしっかり持っていて、それを行動に移せる人」というみどりの理想のタイプにハマったのでした。その後に、病気を知ったみどりが、秀雄との結婚に猛烈に反対する父親に対して言います。「生まれて初めて、自分の生きる理由を見つけたの」「私は今、中村先生(秀雄)と一緒にいるために生きているの」「結婚して、家族になって、彼を支えて、そして・・・彼を見送るために」「私は、自分自身の人生を生きたいの」と。みどりも、自分の人生の主体的な意味付けをしようと成長していきます。投影―他人は自分を映し出す鏡同僚の数学教師の久保は、イケメンで話や教え方がうまく生徒から人気があり、合コンに行けば、モテモテです。国から研究を任されるエリートで、みどりの父親でもある理事長からも気に入られ、全く非の打ちどころがありません。キャラクター的に正反対な秀雄を際立たせます。そんな久保が好意を寄せていたみどりが、よりによって秀雄の恋人になったことを知り、動揺します。職員室で秀雄に研究を羨ましがられても、「本当は俺のこと、バカにしてたりして」と言い放ち、秀雄をきょとんとさせます。これは、久保の心の中が、秀雄を鏡にして映し出されています(投影)。つまり、実際に秀雄は久保をバカにすることなどありませんが、久保の方がもともと優越感に浸っていたので、秀雄に負けて立場が逆転した時に、彼のその優越感が劣等感となって、溢れ出てしまったのでした。その後に、久保は秀雄の病気を知ったことで、「みどり先生が自分のものになる」とすぐに損得勘定をしてしまった自分自身が許せなくなり、仲良しの同僚に打ち明けています。「おれはずっと人生、舐めてたんだよ」と。久保も、死と向き合っている秀雄という鏡を通して、自分自身を見つめ直し、成長していくことができたのでした。カタルシス―押し殺していた気持ちを吐き出す秀雄は母に「甘えたりわがままを言う(父親のようには)」「迷惑なんかかけたりしないから」と言っていたように、ずっと自分の気持ちを押し殺して生きてきました。そんな秀雄の病気のことを知った時にみどりは、自分に何ができるか秀雄の主治医に訊ねます。主治医のアドバイスは、「話し相手になってあげてください」「彼がつらい時に、つらいって言える相手になってあげてください」でした。自分の運命を受け入れるには、秀雄独りだけではやはり太刀打ちできないことを主治医は分かっていました。そして、母も秀雄に手紙で伝えます。「誰かに甘えられたり、頼られたりすることで幸せになれることもあるんだからね」と。支えることも、支えられることも、等しく幸せであるというメッセージが伝わってきます。そしてついに、秀雄はみどりと結婚します。その後、新婚旅行で行った温泉宿で、「死にたくないよぉ」と幼い子どものように声を出して泣きじゃくり、みどりに抱き寄せられます。押し殺していた気持ちをついに吐き出したのです(カタルシス)。「僕は世界で一番幸せなのだから」と感じているからこそ、心の奥に押し込んでいた本心が溢れ出てしまったのでした。無意識に張っていた緊張の糸が緩んでしまったのです。彼は死と背中合わせの戦場にいながら、みどりがそばにいることで安らぎを感じていたのでした。ディグニティセラピー―自分の人生を尊厳あるものに秀雄は、余命1年と言われてから、ビデオ日記をつけていました。その理由は、「(今までの)僕が歩いてきた道には、足跡が付いていないような気がしたから」でした。しかし、その後、途中でビデオ日記をつけるのをやめてしまいます。その理由は、彼は、教師として生徒たちに自分の精一杯の思いを伝えて、自分の「足跡」を残すことができていると確信したからでした。彼は主治医に「合唱を通じて生徒に伝えたいことがある」と言い、生徒たちに「高校生である君たちが、今、歩いている道にしっかりと足跡をつけてほしい」と呼びかけています。また、秀雄は、みどりとの結婚式の写真を全く撮らないようにしました。その理由を「今、この瞬間の出来事が、いつか過去になってしまうと思いたくなかった」「今この瞬間を生きるほうが大事」と言っています。これは、自分が写真に残らないことで、みどりが再婚しやすくなるようにとの秀雄の配慮でもありました。人の尊厳は、究極のところ、人生にどういう意味を見出すかということです。そして、多くの人は自分の何かが誰かに受け継がれ、生き続けることを望んでいます。秀雄は、写真などの媒体ではなく、教え子たちにすでに自分のありのままの思いを伝えていくことで、自分の生きる意味を彼なりに見出すことができていました。多くの人は、なかなか秀雄のように伝えることができる恵まれた立場にいるわけではないです。最近では、家族や親しい友人へのメッセージとして、「最も誇りに思っていること」「大切な人に伝えたいこと」について本人の生前のインタビューを編集して文書に残す取り組み(ディグニティセラピー)も行われるようになってきています。死生観―つながっていた人への温かみいよいよ命の期限が近付いている中、みどりは秀雄に訊ねます。「(死後)どうしても秀雄さんに会いたくなったら、どうすればいいんだろう」と。秀雄は、「プロポーズした大きな木のある所に来てください」「必ず僕は会いに行きますから」と約束します。これは、亡くなった人との心を通わせる場の設定です。その場は、遺された人の心のよりどころとなります。秀雄は死に臨んで、死生観が研ぎ澄まされていたのです。この逝った人が遺された人たちを見守り続けるという守護霊の発想は、自分のつながっていた人やコミュニティ(地域や職場なの自分が属する集団)への温かみに溢れており、遺された人たちに安らぎを与えます。集団主義の強い日本人の多くが共感する死生観です。自分が天国に召されるかどうかに重きを置く西欧の個人主義の死生観とは対照的です。自我統合感―人生は自分なりにやり尽くしたそして、とうとう合唱コンクールの当日、「僕は最後まで生きたいんです」と言い、入院中の病院からの外出を願い出ます。しかし、主治医は心の中とは裏腹に、許可できないと言い張ります。秀雄は、「(コンクールを見届けないと)僕にとって生きたとは言えません」と言い、こっそり病院を抜け出し、みどりに支えられながら会場にぎりぎり駆けつけるのでした。実際の臨床の現場では、ほぼ外出許可が出ると思われます。ターミナルケア(終末期医療)においては、命を縮めるリスクがあったとしても、現在ではQOL(人生の質)の方が重視されるからです。よくあるのが、「今生の思い出に海を見たい」という希望を叶えてあげることです。会場で、教え子たちの歌声を聞き終えた秀雄は穏やかに言って息を引き取ります。「今では、後悔したはずの28年間が、とても愛おしく感じます」「ダメな人生だったんですけど、とても愛おしいです」と。彼は、みどりがいっしょにいてくれたかけがえのない、世界にひとつだけの人生を生き抜いたのでした。今を前向きに生きているからこそ、かつて悔んだ28年間の過去も愛おしくなります。彼は、人生は自分なりにやり尽くしたと感じていたのでした(自我統合感)。実際に、このような感覚を研ぎ澄ます取り組みとして、回想法(ライフレビューインタビュー)があります。これは、高齢者や終末期がん患者に「人生で重要なこと」「印象深い思い出」「人生の分岐点」などを問うことで、現在の自分をより肯定的に受け入れるようになること(人生の再統合)で、デグニティセラピーに通じるものがあります。生きた証―思いをつなぎ続けるリレー秀雄が亡くなって5年後、学校に新任の生物教師がやってきました。それは、何とかつての秀雄の教え子だった吉田でした。彼は、かつて久保に「絶対に官僚にならなきゃいけないんです」と勉強一筋で張り詰めてしまい、秀雄のやり方を否定していました。久保から「へぇ。なりたいんじゃなくて、ならなきゃいけないんだ」と突っ込まれたこともありました。ちなみに、これは吉田に自分自身の心の声を聴くよう仕向けた問いかけ(ロジャースのクライエント中心療法)です。だからこそ、秀雄が内実、一番気に掛けていた生徒でもありました。秀雄が合唱をやろうと言い出したのも実は吉田がきっかけだったのでした。秀雄が指揮者をできなくなった後に、代わりの指揮に託したのも、吉田でした。そんな吉田が、初めての授業で生徒に伝えたのは、かつて秀雄が吉田たちに伝えたあの「読まなかった本」でした。こうして、彼は秀雄の思いを受け継いでいくのでした。そして、また新たな芽となって次の生徒たちの中で生き続け、そして、受け継がれていくことを予感させます。人は、もちろん子どもを授かって自分の血が受け継がれていくこと強く望みます。しかし、同時に、もしかしたらそれ以上に、自分の思いが受け継がれることも望んでいるのではないでしょうか?人は、他の全ての動物とは違い、命を運ぶ単なる「器」ではなく、命と同時に思いをつなぎ続ける「リレー選手」なのです。その思いとは、人だからこそ持っている豊かな文化であり、進歩し続ける文明なのです。逆に、進化論的に言えば、思いをつなぐことを望まない遺伝子は、文化や文明を発展させることはないわけで、はるか昔に自然淘汰されてしまったのではないでしょうか。つまり、私たちがリレーする思いのバトンタッチは、科学的に言えば、遺伝子にプログラムされています。そして、文学的に言えば運命付けられており、宗教的に言えば神の思し召し通りということになります。そして、それが結果的に「足跡」としてその人の生きた証となり、つながれたバトンは遺された誰かのためになっていくのです。シネマセラピー秀雄にとっての「僕の生きる道」は「僕たちみんな人類の生きる道」の一部に確実になっていることに私たちは気付きます。そして、リレー選手として「僕の生きる道」を完走できた秀雄の喜びが最後に伝わってきます。私たちが、秀雄の目を通して死を目の当たりにすることで、今生きているという当たり前なことを特別ことに感じることができれば、私たちも秀雄と同じように、より良い自己成長をしていくことができるのではないでしょうか?1)「僕の生きる道」(角川文庫) 橋部敦子2)「精神腫瘍学クイックリファレンス」(創造出版)3)「自己成長の心理学」(コスモスイブラリー) 諸富祥彦4)「ナラティブアプローチ (勁草書房) 野口裕二5)「ナラティブセラピー」(金剛出版) アリス・モーガン6)「ディグニティセラピー」(金剛出版) 小森康永7)「死生学」(東京大学出版会) 小佐野重利8)「コンセンサス癌治療」(へるす出版)  小川朝生、内富康介

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