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昼顔【不倫はなぜ「ある」の?どうすれば?】Part 1

今回のキーワードモラルハザード愛着形成承認欲求信頼関係モラル脳生殖戦略精子競争社会構造みなさんは、誰かの不倫が気になりますか?最近、芸能人や政治家たちへの報道によって、不倫はますます注目されています。なぜ不倫をするのでしょうか?逆に、なぜ不倫をしないのでしょうか?そもそもなぜ不倫は「ある」のでしょうか? だとしたら不倫はして良いのでしょうか?けっきょく、どうすれば良いでしょうか?これらの疑問に答えるため、今回は2014年のドラマ「昼顔」を取り上げます。このドラマの続編は2017年夏に映画として公開されています。不倫とは?主人公の紗和は、夫と平凡に暮らす結婚5年目の主婦。夫とはセックスレスで子どもはいません。一方、最近、紗和の近所に引っ越してきた利佳子は、裕福な夫と2人の娘と何不自由なく暮らしながら、遊び感覚で不倫を楽しむ人妻です。紗和は、利佳子に仕向けられたこともあって、たまたま知り合った近所の高校教師の裕一朗と惹かれ合いながら、やがて本気の恋愛に発展していきます。裕一朗も結婚2年目で子どもはおらず、いわゆる「ダブル不倫」の関係です。紗和、利佳子、裕一朗のように、不倫とは、婚姻関係にあるパートナー以外の人とセックスをすることです。ちなみに、浮気とは、婚姻関係だけでなく恋人関係にあるパートナー以外の人とセックスをすることであり、より広い意味合いになります。また、紗和と裕一朗のように恋愛の要素が強い場合は「婚外恋愛」と呼ばれ、利佳子のようにセックスの要素が強い場合は「婚外セックス」と呼ばれることはありますが、セックスをしているという点では、同じく不倫です。なぜ不倫をするの?なぜ不倫をするのでしょうか? 彼らを通して、その危険因子を環境因子と個体因子に分けて、整理してみましょう。(1)不倫の環境因子不倫の環境因子として、夫婦の片方または両方が離れていることが考えられます。その距離を3つに分けてみましょう。1)物理的に離れている紗和の夫は、残業や出張を理由に、平日の夜や休日に紗和といっしょにいる時間をあまりつくろうとはしていません。裕一朗の妻は、大学の准教授になるほど仕事熱心で、家事は裕一朗に任せて、裕一朗との時間は二の次になっています。また、紗和がパートの仕事をしているのに対して、利佳子は完全な専業主婦で、平日午後3時から5時の間の時間を持て余しており、自由に使えるお金がある程度あります。不倫の環境因子の1つ目は、夫婦の物理的な距離です。言い換えれば、夫婦でいっしょにいる時間をつくるのが難しくなっていたり、怠っている状況です。夫の単身赴任、妻の妊娠中の里帰りなどもそうです。2)心理的に離れている紗和の夫は、紗和よりもペットのハムスターのことばかり気に掛けています。裕一朗の妻は、子作りのタイミングなど自分の考えや気持ちを一方的に伝えるだけで、裕一朗の考えや気持ちを聞こうとはしていません。また、利佳子が紗和に言ったのが「3年も経てば、夫は妻を冷蔵庫同然にしかみなくなる。ドアを開けたらいつでも食べ物が入っていると思っている。壊れたら不便だけど、メンテナンスもしたことがない」というあきらめのセリフです。利佳子と彼女の夫の間にあるのは、信頼関係ではなく、力関係であることが分かります。不倫の環境因子の2つ目は、夫婦の心理的な距離です。言い換えれば、夫婦がお互いを大事にするのを怠っている状況です。結婚という制度は、簡単には離れられないという安心感が得られる一方、それに甘んじて、結婚生活での相手の不満への歩み寄りを怠ってしまうという倫理的な危うさがあります(モラルハザード)。一方的な経済支援をする利佳子の夫はとても傲慢になり、家事を独占する利佳子はとても堕落しています。3)性的に離れている紗和の夫は、子どもがいないにもかかわらず、紗和が望んでいないにもかかわらず、紗和を「ママ」と呼び、自分を「パパ」と呼ばせています。また、紗和は姑から急かされたこともあり、子作りをしようと夫を誘いますが、夫は避けています。夫は、「家族になったんだよ」「愛情がないわけではない」ということを強調して、セックスをしない理由付けをしています。毎晩、夫が紗和と手をつないで寝る儀式からほのめかされるのは、紗和は夫の母親代わりの「ママ」として見られていても、もはや女性としては見られていないようです。不倫の環境因子の3つ目は、夫婦の性的な距離です。言い換えれば、体の温もりや喜びを通して夫婦がお互いを大事にする行為を怠っている状況です。セックスは、単にお互いの性欲を満たすだけでなく、愛情や信頼関係を確かめるための重要なコミュニケーションです。(2)不倫の個体因子不倫の個体因子として、夫婦の片方または両方に満たされないものがあることが考えられます。その不足を3つに分けてみましょう。1)性欲が満たされない利佳子は、出会い系サイトを利用して、不特定多数の男性とセックスを繰り返しています。夫は利佳子に「おれの言うとおりにしてたら間違いない」「おまえはおれの稼ぎで生きている」と言うなど傲慢であり、たとえセックスをしたとしても、利佳子が満たされるセックスにはならなさそうです。不倫の個体因子の1つ目は、性処理の不足です。言い換えれば、夫婦の性欲に極端な差があることです。例えば、夫婦の力関係などによって、夫のセックスが一方的で妻の性欲が満たされない状況です。または、妻がセックスに淡泊で、夫の性欲が満たされない状況です。特に男性は性欲が満たされない場合、風俗店を利用する風俗不倫が多いです。なお、性欲が強すぎる極端な状態で、社会生活に差し障りがある場合は、セックス依存症と呼ばれます。2)愛情欲求が満たされない紗和の夫が紗和と夫婦の距離を縮めようとしないのは、そもそも彼の生い立ちに原因があることがほのめかされています。彼の父親もまたかつて不倫をしていて、彼は、母親が嫉妬で嘆き悲しみ、あきらめているのを見てきたのでした。彼には、夫婦としてお互いを大事にするというモデルがそもそもないのです。どうして良いかわからず、結果的に、夫婦関係を深めることを避けてきたのです(愛着回避)。また、彼は、積極的な女性部下に押されて、紗和と同じく不倫に近い関係に至っています。その女性部下は、「既婚者専門」と言い、言い寄っていくのです。なぜ彼女は「既婚者専門」なのでしょうか? ストーリーの中では明かされていませんが、最初から不倫を望む人の根っこの心理には、他人への不信感と自尊心の低さがあります。つまり、本当は選ばれたいけれど、選ばれないという結果が怖くて(見捨てられ不安)、それを避けるため、最初から選ばれないことを前提にした関係を望んでしまうのです。けれども、やはり選ばれたいという欲求が強くなってしまえば、結果的に相手にのめり込んでしまい、不安定になります(愛着不安定)。不倫の個体因子の2つ目は、安定した愛着形成の不足です。言い換えれば、特別に相手を選び、特別に自分が選ばれることによって、相手を大事にすると同時に自分が大事にされるという信頼関係を深めることがうまくできず、愛情欲求が満たされない状況です。さらに、最近の研究では、愛着形成のしやすさは、生育環境だけでなく、遺伝的傾向もあることが分かってきています(バソプレシン受容体)。性欲と同じように、愛着形成にも個人差があると言えるでしょう。なお、愛着回避型と愛着不安定型が極端な状態で、社会生活に差し障りがある場合は、それぞれ回避型パーソナリティ障害、境界性パーソナリティ障害(情緒不安定性パーソナリティ障害)と呼ばれます。3)承認欲求が満たされない利佳子は、「夫が自分を愛していないことを知ってるの」「私のことを見てくれる人がいなきゃ生きてる意味ない」と言っています。彼女は、好き勝手で奔放に見えますが、自分が夫から生身の女性として扱われていないことに寂しさや空しさを感じています。不倫の個体因子の3つ目は、承認の不足です。言い換えれば、夫が女性としての妻に無関心となり、妻は自分の女性としての価値が認められていない、承認欲求が満たされていない状況です。不倫をすることで、その欲求を満たそうとしたり、紛らわそうとしています。なお、この承認欲求が強すぎる極端な状態で、社会生活に差し障りがある場合は、自己愛性パーソナリティ障害と呼ばれます。なぜ不倫をしないの?紗和も裕一朗も、不倫の関係になっていることに葛藤し、強い罪悪感にさいなまれています。利佳子も、夫に対しては必死に不倫を隠し通そうとしています。彼らのように、なぜ不倫をしないようにしようとするのでしょうか? そして、不倫をしてしまったら、なぜ隠すのでしょうか?これまでは、なぜ不倫をするのかという問いへの答えが分かってきました。それでは、逆に、なぜ不倫をしないのでしょうか? そして、なぜ不倫をする人をよく思わないのでしょうか? まとめると、なぜ私たちは一夫一妻制を好むのでしょうか? その答えを、進化生物学的に考えてみましょう。私たちヒトは、近縁の種であるチンパンジーやゴリラとの共通の祖先から数百万年以上前に分かれて、進化しました。チンパンジーは不特定のオスと不特定のメスが生殖を行う乱婚型(多夫多妻型)に、ゴリラは特定の1頭のオスと特定の複数のメスが生殖を行うハーレム型(一夫多妻型)になりました。その違いの起源は生活環境です。チンパンジーはエサが豊富で密集していたのでオスとメスが出会いやすいのに対して、ゴリラはエサが少なく散在していたので出会いにくいことが考えられています。そして、ヒトは、特定のオス(男性)と特定のメス(女性)が生殖(セックス)を行う一夫一妻型になりました。その起源は性別分業です。ヒトは、二足歩行をするようになったことで、手が自由になり、食料を余分に運ぶことができるようになりました。そして、男性が食料を調達し、女性がその見返りにセックスを受け入れ、その男性との子どもを育てるという性別で役割を分業するようになりました。これが家族の始まりです。やがて、家族が血縁によっていくつも集まって100人から150人の大家族の村(生活共同体)をつくるようになりました。これが、社会の始まりです。ここから、家族や社会をつくったヒトの心(脳)の進化の歴史を踏まえて、なぜ不倫をしないのかの問いへの答えを、3つに整理してみましょう。1)夫婦の信頼関係を壊す紗和の不倫騒動で、夫は、けっきょく「何で一番そばにいる人の気持ちが分からないんだろうな」とつぶやき、離婚を決意します。夫は紗和を信頼できなくなっていたのでした。不倫をしない理由の1つ目は、夫婦の信頼関係を壊すからです。言い換えれば、夫婦関係を維持するためには、夫婦がお互いとだけセックスするとお互いに信じている必要があるからです。そうしなければ、例えば夫が不倫して別の女性に食料を渡した分、妻の食料の取り分が減り、妻の生存が危うくなります。一方、妻が不倫して別の男性からのセックスを受け入れた分、夫の子どもができる可能性が減り、夫の生殖が危うくなります。2)子どもとの信頼関係を壊す利佳子が家を出て行ったあと、代わりに家政婦さんが子どもたちのお世話をしています。訪ねてきた紗和に長女は「不倫した人がつくったご飯よりも家政婦さんのご飯の方が100倍おいしい」と叫んでいます。裕一朗の教え子は、ある事件を起こしたきっかけとして「おれ、(不倫の末にいなくなった)母親のことがあるから、大人が薄汚く見えるんだよね」「(捨てられると)生まれちゃった方はいい迷惑なんだよ」と言っています。彼の自尊心は傷付いていました。不倫をしない2つ目の理由は、子どもとの信頼関係を壊すからです。言い換えれば、子育てに責任を持つためには、父親と母親がはっきりしている必要があるからです。そうしなければ、父親が不倫して別の女性に食料を渡した分、子どもの取り分が減り、子どもの生存が危うくなります。また、母親が不倫して別の男性からのセックスを受け入れた分、父親がはっきりしなくなり、食料が確保できる可能性が減り、子どもの生存が危うくなります。結果的に、紗和の夫や夫の同僚女性のように、その子どもが成長して大人になった時に親と同じように他人と安定した信頼関係を築きにくくなる危うさもあります。3)社会との信頼関係を壊す裕一朗の上司である校長は「(不倫は)相手の家族に迷惑がかかる」と心配しています。不倫を知った裕一朗の妻が紗和のパート先に不倫の事実をバラしたことで、紗和は職場に居づらくなり、退職を迫られます。不倫をしない3つ目の理由は、社会との信頼関係を壊すからです。言い換えれば、村の秩序を維持するためには、男性と女性がお互いにセックスする相手を特定している必要があるからです。また、そうするように私たちの心(脳)は進化してきました(モラル脳)。例えば、結婚式という儀式によって、村人たちの前で、夫婦は「永遠の愛」を誓います。自分ではなくても、村の誰かが不倫をしているということを知ったら、とても気になり、好ましくは思いません。そうしなければ、不倫をされた妻の生存が危うくなったり、不倫をされた夫の生殖が危うくなることで、安定した社会の維持が危うくなります。ただし、例外があります。それは、身内やとても親しい友人が不倫をしている場合です。この時、私たちは、逆に、味方になり応援をすることもあります。そのわけは、身内であれば、自分たちの血縁(遺伝子)がより生き残るように動機付けられるからです。また、親しい友人であれば、不倫への懲罰欲(モラル脳)よりも、友情の心理(これもモラル脳の1つ)が上回るからであると言えるでしょう。次のページへ >>

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重度な精神疾患+物質使用障害、自殺リスクへの影響

 重度の精神疾患患者における物質使用障害(SUD:substance use disorder)と自殺や自殺企図との関連性について、デンマーク・コペンハーゲン大学のMarie L D Ostergaard氏らが評価を行った。Addiction誌オンライン版2017年2月13日号の報告。 時間変動を共変量して、SUDの調整されたCox回帰を用いた、デンマークにおけるレジストリベースのコホート研究として実施した。対象者は、1955年からデンマークで生まれた統合失調症患者3万5,625例、双極性障害患者9,279例、うつ病患者7万2,530例、パーソナリティ障害患者6万3,958例。アルコールおよび非合法物質のSUD治療、自殺企図は、治療レジストリより確認した。自殺は、死亡原因レジストリより確認した。共変量は、診断時の性別および年齢とした。 主な結果は以下のとおり。・いずれかのSUDを有する患者は、非SUDと比較して、自殺リスクが3倍以上であった。・アルコールの乱用は、ハザード比(HR)1.99(95%CI:1.44~2.74)~2.70(95%CI:2.40~3.04)のすべての集団において、自殺リスク増加と関連していた。・他の非合法物質は、双極性障害を除く集団において、自殺リスクの2~3倍の増加と関連していた。大麻は、双極性障害患者における自殺企図リスクの増加とのみ関連していた(HR:1.86、95%CI:1.15~2.99)。・アルコール(HR:3.11[95%CI:2.95~3.27]~3.38[95%CI:3.24~3.53])および非合法物質(HR:2.13[95%CI:2.03~2.24]~2.27[95%CI:2.12~2.43])は、それぞれ自殺企図と強い関連性を示した。・大麻は、統合失調症患者の自殺企図とのみ関連していた(HR:1.11、95%CI:1.03~1.19)。関連医療ニュース 双極性障害の自殺企図、“だれ”よりも“いつ”がポイント 日本成人の自殺予防に有効なスクリーニング介入:青森県立保健大 自殺念慮と自殺の関連が高い精神疾患は何か

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ADHD女児に併存する精神疾患は

 ADHD児は、併存する精神疾患リスクが高い。ADHDは、女児で最も一般的な小児疾患の1つであるにもかかわらず、男児と比較し、臨床的相関が少ないと考えられている。米国・カリフォルニア大学のIrene Tung氏らは、女児における、ADHDの有無と内在的(不安、抑うつ)、外在的(反抗挑戦性障害[ODD]、行為障害[CD])精神障害の併存率をメタ分析により要約した。Pediatrics誌2016年10月号の報告。 女児における、ADHDの有無と精神疾患を調査した研究を、PubMed、Google Scholarより検索を行った。18件(1,997例)の研究が、選択基準を満たし、メタ分析のための十分なデータを有していた。利用可能なデータより、各併存疾患のオッズ比を算出した。患者背景(たとえば、年齢、人種/民族)と研究特性(たとえば、参照ソース、診断方法)はコード化された。 主な結果は以下のとおり。・ADHD女児は、そうでない女児と比較すると、各併存疾患を評価したDSM-IVの診断基準を満たす可能性が有意に高かった。・相対オッズは、内在的障害(不安:3.2×うつ病:4.2×)と相対し、外在的障害(ODD:5.6×、CD:9.4×)で高かった。・メタ回帰では、より若年、クリニック受診の女児において、複数の診断方法を用いた研究より不安に対するより大きなADHDのエフェクトサイズが明らかとなった。ODDは、診断提供情報に基づいて変化した。 著者らは「ADHD女児は、頻繁に外在的および内在的障害を併発している。今後の研究の優先順位を検討し、ADHD女児の併存精神疾患に対する介入の影響を考える必要がある」としている。関連医療ニュース 自閉症とADHD症状併発患者に対する非定型抗精神病薬の比較 日本でのADHDスクリーニング精度の評価:弘前大学 ADHDに対するメチルフェニデートは有益なのか

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ツレがうつになりまして。【うつ病】

今回のキーワード診断基準危険因子進化医学偏桃体社会脳かかわり方うつ病とは?皆さんの周りに、うつ病で休んでいる人はいますか? またはみなさんの中にうつ病で休んだ人はいますか? 今やうつは、日本だけでなく、世界的にも広がりを見せています。「なぜ現代にうつ病は増えているの?」「なぜうつ病になるの?」という疑問を率直に持つ人も多いでしょう。今回は、さらに踏み込んで、そもそも「なぜうつ病は『ある』の?」というところまで迫ってみたいと思います。そして、そこから、うつ病を良くして、防ぐヒントを探っていきましょう。今回、取り上げるのは、2011年の映画「ツレがうつになりまして。」です。ほのぼのとした絵のタッチの原作マンガのカットが映画の要所で織り交ぜられ、とても心温まる夫婦の愛と成長が描かれています。また、うつ病の人へのかかわり方のエッセンスが詰まっていて、とても勉強になります。うつ病にはどんな症状がある?―診断基準(表1)主人公のハルさんは売れない漫画家で、そのツレ(夫)の幹男はサラリーマン。この夫婦とペットのイグアナとの3人で暮らしています。結婚5年目のある時、ツレの様子が変わっていきます。ツレは「何だか食欲がないんだ」「体がダルいし」「何もできない」と打ち明けます。促されてようやく受診した病院では、医師からうつ病と診断されます。「うつとは気分が落ち込んだ状態」「普通は気持ちを切り替えたり割り切ったりして、落ち込んだ状態から脱するわけですが、それを自力ではできなくなってしまっている状態」と説明されます。薬の治療が始まりますが、その後、良くなったり悪くなったりを繰り返します。「こんな飼い主でイグ(ペット)に申し訳ないよ」「ハルさんのマンガが売れないのも全て僕のせいだ」と言い出します(罪業妄想)。そして、涙を流し、自殺を試みるのです。ツレの様子は、以下のうつ病の診断基準に照らし合わせると、9項目のほとんどを満たしています。表1 うつ病の診断基準(DSM-5) 感情意欲思考項目(1)抑うつ気分(2)無関心(興味・喜びの喪失)(3)体重変化(食欲)>5%/月(4)睡眠障害(不眠or過眠)(5)精神運動焦燥or精神運動制止(6)疲労感(無気力)(7)無価値感、罪責感(8)思考抑制(思考制止)(9)自殺念慮、自殺企図備考(1)か(2)必須9項目中5項目以上がほとんど毎日(ほとんど1日中)(9)については反復するだけで満たされる症状の持続は2週間以上なぜうつ病になるの?―危険因子(表2)(1)環境因子ツレは、外資系のパソコンサポートセンターに勤務しています。仕事をバリバリこなすデキるサラリーマンで、最近のリストラで生き残った数少ない1人でした。もともとの仕事の激務に加え、リストラ後の職場環境の変化、毎日の満員電車での通勤などストレス負荷が強まっていることが分かります。また、ツレは、パソコン操作に苦労する顧客の「できないさん」から度々、理不尽なクレームを付けられます。さらには、「できないさん」からツレの応対へのクレームの手紙が社長にまで行ってしまい、ツレは上司から「センター全体の査定に響く」と理不尽に問い詰められます。上司は、クレームの詳細を確認せず、一方的に部下のツレのせいにします。けっきょく、ツレは上司にも顧客にも謝罪しています。これは、人間関係のストレスです。職場で、競争や評価にさらされて味方や頼れる人がいない中、家でも、当初ハルさんはツレがうつうつとしていても、寄り添う雰囲気にはなっていません。食欲がないツレに「どうせ私の料理はまずいよ」とふてくされたり、「治す気がないから治んない」と言い捨てています。ツレは周りの助け(ソーシャルサポート)がないまま孤立していました。(2)個体因子ツレは、毎朝、自分でお弁当を作ります。入れるお気に入りのチーズは曜日によってあらかじめ決めています。締めるネクタイも曜日によって決まっています。「できないさん」のクレームの文書にツレの名前が間違って表記されていた時、ツレは「人の名前ですから間違ってもらったら困ります」と「できないさん」につい言ってしまいます。同僚の若者が、仕事や人間関係の愚痴を吐いていると「お客様の悪口は言わない」「適当じゃだめだよ」とたしなめます。ツレのもともとの性格(病前性格)は、一言で言えば、生真面目で几帳面すぎます(執着器質)。いつもきっちりしていないと気がすまないのです。その性格で、仕事を抱え込み、責任を全てかぶり、自分で自分を追い込んでもいます。物事のとらえかたが偏っていると言えます(認知の偏り)。一方、同僚の若者は、「(クレームの顧客は)何でもすぐに分からない、できないって電話する前に自分の頭で考えろって」「(退職する同僚の送別会は)マジかったるくないですか」と愚痴を吐きます。ツレが食べないお弁当をもらっておきながら、チーズは苦手だと言い、端に避けています。彼は、おおざっぱで図々しくもあります。ツレとは性格が対照的です。うつ病の危険因子として、認知の偏り(病前性格)を挙げました。性格(パーソナリティ)は厳密には生育環境因子も絡んでいますが、ここではこれを除いた遺伝的要素に注目してみましょう。そもそも多くの病気には複数の遺伝子(多因子)が絡んでいます。1つ1つは生存に有利でも、それらが組み合わされると、生存に不利になりえます。例えば、「真面目な遺伝子」「敏感な遺伝子」「慎重な遺伝子」のそれぞれは生存に有利ですが、これらの遺伝子が集積すると、まさにこの映画のツレのようになり、生存に不利になってしまいます。つまり、うつ病になりやすい人となりにくい人が遺伝的にいるということです。その他、ホルモン変化があげられます。ライフサイクルにおいて、特に女性は、妊娠や出産で女性ホルモンが劇的に変化して、マタニティブルーズからの産後うつ病になるリスクがあります。また、男性も含めて、更年期や加齢によるホルモンの減少から、うつ病のリスクが高まります。表2 うつ病の危険因子個体因子環境因子遺伝的要素認知の偏り(病前性格)ホルモン変化妊娠、出産、更年期、加齢などストレス負荷過重労働、環境変化、人間関係など周りの助け(ソーシャルサポート)の乏しさ(孤立)なぜうつ病は「ある」の?―進化の代償これまで、「なぜうつ病になるのか?」といううつ病の直接的な危険因子(直接要因)を見てきました。それでは、そもそもなぜうつ病は「ある」のでしょうか? その答えは、うつ病は、私たちが進化の過程で手に入れた脳の働きの負の側面であるからです。つまり、進化の代償です。これから、このうつ病の起源(究極要因)である主に4つの脳の働き(能力)を、進化医学的に詳しく探っていきましょう。(1)無理にがんばる能力―「がんばりすぎ脳」1つ目は、無理にがんばる能力です。その起源は、5億年前に遡ります。当時、まだ魚であった私たちの祖先に、「危険感知センサー」(偏桃体)が進化しました。これは、天敵がやってきたり環境が変わるなどで身に危険が及びそうになった時に、作動(興奮)します。すると、危険から逃げたり敵と戦ったりするために体を活性化させるストレスホルモン(コルチゾールなど)が分泌されます。そして、交感神経が高まり、攻撃性(不安)や活動性(焦燥)が増えるのです。しかし、このストレスホルモンには、欠点がありました。それは、分泌がある一定期間なら、いつもよりも脳は働き続けるのですが、分泌が長期間続くと、脳の神経ネットワーク(樹状突起)が消耗してしまい(BDHF生成の減少)、逆に脳が働かなくなるのです。例えるなら、脳が全速力で走り続けて息切れをしている状態です。実験的に、魚(ゼブラフィッシュ)がずっと天敵(リーフフィッシュ)に食べられることなく追われ続けるという特殊な生態環境をつくったところ、最初は必至に逃げ回っていたのに、やがて、じっとして動かなくなる様子、つまり魚のうつ状態が確認されています。現代の私たち人間に当てはめれば、ノルマ(過重労働)や環境変化という「敵」に対して、疲れても休めず、無理にがんばり続けると(過剰適応)、不安や焦燥が強まります。そして、その後に力尽きて、うつ病になってしまうということです。本来は、無理にがんばる能力が進化したわけで、それ自体は適応的なのですが、問題はその能力に期限があり、その期限を超えると、その後に長期間、普通にがんばれなくなってしまうということです。つまり、うつ病は、一時的に無理にがんばることができるようになった進化の代償と言えます。また、このストレスホルモンの分泌には、遺伝的な個人差があるようで、特にそれほどストレスがないのに、ストレスホルモンが誤作動を起こして分泌される場合もあります。だから、明らかなストレスがないのに、うつ病になる患者もいるというわけです(内因性)。(2)群れ(集団)をつくる能力―「上下関係脳」2つ目は、群れ(集団)をつくる能力です。その起源は、2000万年前に遡ります。当時、類人猿となった私たちの祖先は、天敵から身を守るなど個体の生存に有利になるため、群れ(集団)をつくるように進化しました。この時、集団としてより機能的になるために、ヒエラルキー(上下関係)を築く心理(習性)も同時にできました。例えば、猿山の猿たちをイメージしてみましょう。ボス猿は、大きな態度をとり、下っ端の猿にひれ伏す態度を求め、地位を維持しようとします(進軍戦略)。一方、下っ端の猿は、目線を合わせずにひれ伏し、こわばらせて大人しい態度をとり、被害を最小にしようとします(退却戦略)。また、自分よりも強い猿によってボスの座を奪われた元ボス猿は、態度が急変して元気がなくなります。体力が残っていても、もはや再び反撃することはありません。このように、集団において、より優位な個体はより高揚的(支配的)になり、より劣位な個体はより抑うつ的(服従的)になります(ランク理論)。言い換えるなら、集団の中で、食糧や繁殖パートナーなどの自分のなわばり(資源)が奪われ不利になった時に、大人しくして歯向かわない自分を周りに見せること(服従の信号)、これがうつとも言えます。うつは地位(資源)の喪失によって生じるストレス反応でもあります。現代の私たち人間に当てはめれば、命令をされ続けたり、謝罪をさせられ続けたりするなどの人間関係のストレスによって自己評価(地位)が低まります(自尊心の喪失)。すると、意識せず意図せずに、抑うつ(服従)の心理が高まるわけです。例えば、現代で一番価値が置かれる資源はお金です。よって、「(ある程度あるはずなのに)お金がない」と思い込むこともあります(貧困妄想)。また、その次に価値の置かれる資源は、人にもよりますが健康が多いでしょうか。そこで、「(特に大病があるわけではないのに)不治の病にかかっている」と思い込むこともあります(心気妄想)。さらに、現代の人間関係は、常に評価にさらされ、より競争的で勝ち負けや格差がはっきりしていたり、また職業的に気を使ったり謝ることが増えています。「上下関係」脳が刺激されやすくなっており、うつ病を引き起こしやすいのです。つまり、うつ病は、集団をつくることができるようになった進化の代償と言えます。特に、男女差で見た場合、男性の方が女性よりもうつ病による自殺既遂率が高いです。この理由は、男性の方が、地位(仕事)や繁殖のパートナー(恋愛)などの資源の奪い合いで闘争をより行うため、上下関係をより意識して、その地位の喪失をより感じる傾向があるからではないでしょうか。例えば、退職後にうつ病のリスクが高まります。(3)集団でうまくやっていく能力―「つながり脳」3つ目は、集団でうまくやっていく能力です。その起源は、300万年以上前に遡ります。当時、ようやく人類となった私たちの祖先は、草原で天敵から身を守ると同時に、食糧を手に入れるなどして協力して生き残るために、より大きな集団をつくるように脳が進化しました。この時、集団でうまくやっていく能力(社会脳)が進化しました。それは、周り(相手)を打ち負かそうとするもともとの競争の心理だけでなく、周り(相手)と仲良くなろうとする協力の心理でもあります。そしてこの2つの心理をうまく使い分け、バランスをとることです。例えば、協力するために、周りと同じ動きをすることで心地良くなります(同調)。また、周り(相手)の気持ちを察することです(心の理論)。さらには、集団の一員として認められるために、役割を全うして役に立とうとすることです(承認)。そのために、集団で価値の置かれること(集団規範)を重んじる性格傾向になることです。それが極端なのが、映画のツレの性格でもある「真面目で几帳面」です(執着気質)。逆に言えば、周りから相手にされなかったり、一人ぼっちになると、ストレスを感じることでもあります。その感覚が、「自分はだめだ」「自分は役立たずだ」という無価値感や自責感です。そこから「周り(社会)に迷惑をかけている」と極端に思い込むこともあります(罪業妄想)。このように、集団において、つながりが強まるとより心地良く感じ、つながりが弱まったりなくなるとより心地悪くなります(愛着理論)。この心地悪さを、私たちは悲しみと呼んでいます。このつながる先は、心のよりどころ(愛着対象)であり、一番は家族です。言い換えるなら、家族を初めとする集団のつながりを失った時に、その人が悲しみ続けること、これもうつと言えます。うつはつながり(人間関係)の喪失によって生じるストレス反応でもあります。このストレスを感じなかった種は、一人ぼっちのままで、生存率や繁殖率を極端に低め、子孫を残せません。現代の私たちに当てはめると、家族を含む自分の味方(仲間)がいることに安心する一方、逆にその味方がいなくなったり(死別反応)、自分が仲間外れにされると、悲しみを感じます。例えば、いじめ自殺への介入が難しい点は、いじめ被害者が抑うつ的になり、「疎外は嫌だ」「孤独は嫌だ」と思い、必死になっていじめ加害者の言いなりになり、いじめを被害者が隠そうとしてしまうことです。そして、いじめがますますエスカレートしてしまうことです。また、現代は、都市化や核家族化が進み、その人間関係は希薄化や孤立化が進んでいるとよく言われます。「つながり」脳が満たされなくなってきており、うつ病を引き起こしやすいのです。つまり、うつ病は、集団でうまくやっていくようになった進化の代償と言えます。特に、男女差で見た場合、女性の方が男性よりもうつ病の発症率が高いです。さきほど男性の方が女性よりも自殺既遂率は高いとご紹介しましたが、この違いは、女性はうつ病になりやすいですが、なっても軽いのに対して、男性はうつ病になりにくいですが、なったら重いということです。この理由は、ホルモン変化による発症を差し引いても、女性の方が、共感性が高く、言い換えれば傷付きやすいため、つながりをより意識して、その喪失をより感じる傾向があるからではないでしょうか。例えば、情緒不安定な人(情緒不安定性パーソナリティ障害)はうつ病の合併率が高いです。(4)自分自身を振り返る能力―「先読み脳」4つ目は、自分自身を振り返る能力です。その起源は、10万年から20万年前に遡ります。当時、ついに現生人類(ホモ・サピエンス)となった私たちの祖先は、喉の構造が進化して、複雑な発声ができるようになり、言葉を使う脳が進化しました。そして、言葉によって抽象的思考もできるようになりました。それは、相手の視点に立つ心理から(メタ認知)、自分自身を振り返る心理、さらには過去、現在、未来の時間軸で自分を俯瞰(ふかん)して見る心理です。例えば、私たちは、過去から現在までの流れから、未来に見通しを立てます。その時、望ましいことが起こるなら、私たちは希望を持ちます。一方、全く望ましくないことが起こるなら、私たちは絶望します。「このつらさはこれからも続く」「これから生きていく意味がない」「死んだら楽になる」と考えれば考えるほど、うつの心理は増幅して自殺のリスクが高まります。よくよく考えると、人間だけが唯一自殺ができる生き物です。つまり、うつ病は、自分自身を振り返り、先が読めるようになった進化の代償と言えます。私たちは、希望を抱くようになったと同時に、絶望も抱くようにもなってしまったのです。うつ病にはどうしたらいいの?-それぞれの「脳」へのアプローチ(表3)うつ病を治すには、まず薬の治療が効果的です。特に、抗うつ薬は、ストレスホルモンによって傷付いた脳の神経ネットワークを修復したり、興奮した偏桃体を鎮める働きがあります。ただ、これまで明らかにしてきたうつ病の起源を理解することで、薬だけではなく、うつ病へのより良いアプローチが理解できます。それでは、うつ病を引き起こすさきほどの4つの「脳」に分けて見てみましょう。(1)がんばりすぎない―環境調整「がんばりすぎ」脳に対しては、がんばりすぎ(過剰適応)の予防やがんばりすぎた後の休養の徹底(環境調整)が重要であることが分かります。訪ねてきたツレの兄は、「こいつちっちゃい頃から細かいこと気にするたちでさあ。だからうつ病になっちまうんだよっ」「がんばって早く治さないとな」「男ってのはさ、一家の大黒柱なんだよ」「だからどんなに辛くても家族のためだと思えばがんばれるもんなんだよ」と説教をします。すると、その後にツレは「何をどうがんばればいいんだよぉ・・・」「今の僕には無理だよ」とさらに症状を悪化させています。うつ病の人には「がんばれ」と励ますのではなく、「よくがんばったね」と受容するのがポイントです。ツレは、徐々に回復していく中、「自分のために治りたいんです」「他の誰かのためじゃなくて」と言うようになります。そして、招待された講演で「あ・と・で」という3つのうつ病への心のあり方を紹介します。それは、「焦らない、焦らせない」「特別扱いしない」「できることとできないことを見分けよう」です。一方、ハルさんは離婚して焦っている友達に「がんばらなくていいんです」「そのまんまでいいんです」と言うようになります。まさに、がんばりすぎない心のあり方が描かれています。(2)自尊心を保つ―アサーション「上下関係脳」に対しては、自尊心を保つために感謝し合うポジティブなコミュニケーション(アサーション)が重要であることが分かります。謝罪を求めてばかりいたかつての顧客の「できないさん」は、ツレの講演の参加者として最後にツレに対して「ありがとう」と感謝したことで、ツレが報われていました。コミュニケーションのコツとしては、「困るじゃないか」「だめじゃないの」と単にネガティブに叱るのではなく、「こうしたら良くなる」とポジティブに伝えることです。さらに、前後に「いつもよくがんばってる」「これからも頼もしく思う」というほめ言葉や感謝の言葉で挟むのです。ツレは、講演で「人は誰でもどんな時でも自分の生きている姿を誇りに思うことができる」「恥ずかしいとか情けないとか思ってしまった自分も含めてちょっと誇らしく思っています」と言い、自尊心を保つ心のあり方が描かれています。(3)周りとつながる―ソーシャルサポート「つながり脳」に対しては、家族を初めとする周りとつながっていること(ソーシャルサポート)が重要であることが分かります。ツレが自殺未遂をした直後に「僕なんていなくても誰も困らない」「僕はここにいていいのかな?」とハルさんに漏らします。「つながり脳」が危うくなっている瞬間です。ハルさんは、「ツレはここにいていいんだよ」と優しく受け止め、寄り添います。ハルさんは、ツレにさりげなく「はい、これ。消しゴムかけて」とマンガのアシスタントを任せるようになります。あえて本人に役割を持たせるのです。「夫婦で助け合っている」「夫婦としてどんな時も味方である」「自分には居場所がある」というつながりの心理を強めています。ただ、説教臭いツレの兄に対してハルさんが「静かに見守ってほしい」と心の中でつぶやいているように、過干渉にならずにほど良い心の間合い(心理的距離)を保つことへの注意も必要です(温かい無関心)。役割や居場所を実感する心のあり方が描かれています。(4)バランスよくものごとをとらえる―認知行動療法「先読み脳」に対しては、バランスよくものごとをとらえること(認知行動療法)が重要であることが分かります。ハルさんは、自分の母親に「私、最近思うんだ」「ツレがうつ病になった原因じゃなくて、うつ病になった意味は何かって?」と言うようになっています。ツレには「そのうちできるようになるよ」「またすぐ良くなるよ」「できないんじゃなくて、しないって思えばいいんだよ」と言っています。一方のツレは、結婚の同窓会で「この1年は、(自分がうつ病になって)私たちにとって苦しい年でした」「でも、夫婦としていろいろなことを得た1年でもありました」と言い、状況のポジティブな面に目を向けています。うつ病という試練を通して、夫婦の絆が深まり、ハルさんもツレも人間的に成長している様子がうかがえます。ものごとをバランスよくとらえ、絶望ではなく希望を抱く心のあり方が描かれています。表3 うつ病を引き起こすそれぞれの「脳」へのアプローチ アプローチ「がんばりすぎ脳」がんばりすぎ(過剰適応)の予防やがんばりすぎた後の休養の徹底(環境調整)「上下関係脳」自尊心を保つために感謝し合うコミュニケーション(アサーション)「つながり脳」家族を初めとする周りとつながっていること(ソーシャルサポート)「先読み脳」バランスよくものごとをとらえる(認知行動療法)うつ病とは?―かかわり方のポイント(表4)うつ病を単なる病気の1つとしてとらえるのではなく、私たちの心の進化の産物ととらえることができた時、なぜそのかかわり方が望ましいのかということに納得できるようになります。その時、私たちはうつ病をより身近にそしてより温かみを持って感じることができるのではないでしょうか? そして、うつ病の人たちへのより良い理解とかかわり方をすることができるようではないでしょうか?表4 かかわり方のポイント(精神療法)望ましい望ましくない「何か困っていますか」(探索、傾聴)「どうなの?」(質問攻め)「つらいのですね」(共感)「その気持ち分かります」(受容)「だめじゃない!」(説教、批判、非難、叱責)「その考え方いいですね」(支持、肯定)「あなたは間違っています」(否定、議論)「誰でもそうですよ」(標準化)「家族を悲しませますよ」(審判)「(こうすれば)大丈夫です」(保証)「がんばれ!」(叱咤激励)「困ったら言ってください」(温かい無関心)「○○しなさい」「△△してあげます」(過干渉)1)アンソニー・スティーブンズほか:進化精神医学、世論時報社、20112)井村裕夫:進化医学、羊土社、20133)NHK取材班:病の起源、うつ病と心臓病、宝島社、20144)北村英哉・大坪康介:進化と感情から解き明かす社会心理学、有斐閣アルマ、2012

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人間失格【傷付きやすい】[改訂版]

今回のキーワード愛着障害境界性パーソナリティ障害空虚感情緒不安定自己愛依存「そんなに傷付く!?」みなさんが患者さんや学生さんと接している時、「そんなに傷付く!?」とびっくりしてしまったことはありませんか?世の中にはいろんな人がいます。気が強い人もいますし、逆に感じやすい人もいます。できることなら誰とでもうまくやっていきたいですよね。でも、うまくいかなくなった時、どう考えたら良いでしょうか? どう接したら良いでしょうか?「大人とは、裏切られた青年の姿である」今回は、この感じやすい心について、2010年の映画「人間失格」を取り上げてみました。原作は、永遠の青年文学と言われる太宰治の代表作であり、また彼の人生そのものであるとも言われています。いまだに多くの人たち、特に迷える若者たちの心をわしづかみにしています。彼の名言の1つに「大人とは、裏切られた青年の姿である」という文があります。この「裏切られた」という感傷的な表現をあえて使い、裏切るか裏切らないか、つまり人を信じることについて敏感になっているのは、そもそも人間不信が根っこにあり、人に対しての信頼感が揺いでいることがうかがえます。主人公はなぜ傷付きやすいのか? なぜ人間不信があるのか? そして、私たちはなぜ彼が気になるのか? これらの疑問も踏まえて、これからストーリーを追って詳しく探っていきましょう。トラウマ―心の傷まずは、冒頭の幼少期のシーンです。主人公の葉蔵が独りつぶやきます。「生まれて、すいません」と。いきなりの謎です。なぜ、子どもがそんなことを言うことができるのでしょうか? その謎の答えは、映画では描かれていません。しかし、原作で告白されています。実は、葉蔵にはトラウマ(心的外傷)があったのです。そのうちの1つは、家の女中や下男から性的虐待を受けていた可能性があることです。原作では「哀しい事を教えられ、犯されていました」という表現だけのため、どの程度なのか、または象徴的な言い回しなのかなどの解釈が分かれるところです。もう1つは、家族のような存在である女中や下男たちがお互いの悪口を陰で言い合っているのを幼少期から聞かされました。一貫して信じたい人を信じられなくさせる矛盾した二重の縛り、ダブルバインドです。さらに、太宰本人は実際に幼少期に、育ての母親とも言える女中と突然別離させられています(喪失体験)。だからでしょうか? 作品中では葉蔵の母親は登場しません。しかし、彼は物分かりが良すぎたのです。そして、それらを全て受け入れたのでした。そして、子ども心ながら「生き残りたい」「これ以上誰にも見捨てられたくない」という思い込みから、その究極の答えとして、自分を抑圧して本心を言えずに言われたままに従う良い子、そしてみんなの気を引く道化役を死に物狂いで演じ始めました。これが、彼の人間不信、自己否定の原点であったようです。だからこそ、生存の謝罪が口から突いて出てきたのでした。代償性過剰発達―研ぎ澄まされた能力生き残るためのサバイバーとしての必死の演技は、葉蔵に特別な能力を開花させました。それは、嫌われないようにそして演技がばれないようにするため、常に彼は相手の顔色を伺い、表情、動作、言動に敏感になっていきました。そして、観察力、感受性が研ぎ澄まされていったのです(代償性過剰発達)。ちょうど視覚障害者の聴覚が敏感になるように、生きづらさを代わりの能力で補いカバーしようとして、その能力が過剰に発達することです。自分の生き死にがかかっていることのない普通の家庭で育った子どもは、このような能力は備わらず、無邪気なままです。数々の太宰作品はなぜ感性が鋭く描かれているのかにも納得がいきます。学校での彼は、笑い者として実に見事に演じ、常にお茶目で人気者でした。ある時、学校の体育の時間にいつものように面白おかしく失敗してクラスメートたちみんなの笑いを誘うことに大成功をおさめます。しかし、その演技はよりによって、あるサエないクラスメートの竹一にだけこっそり見破られるのです。その瞬間、葉蔵は心の底から震え上がります。道化役に全てを捧げていた彼にとっては自分が自分でなくなるような感覚でしょうか。次に彼のとった行動は、竹一を自分の友人として味方につけて、取り込んだのでした。そもそも竹一ももしかしたら「さえない生徒」を演じていたのかもしれません。葉蔵と同じように観察力が鋭いのであれば、演技で人を欺くことができます。二人はそんな同じ匂いに惹き合ったようにも見えます。失体感症―失われる空腹感原作では、幼少期から葉蔵は空腹感を感じない体質であると描かれています。この原因は、トラウマによる不安や葛藤を押し殺す抑圧の心理メカニズムにより、空腹感などの身体的欲求などの感覚までもが押し殺され鈍くなっている状態が考えられます(失体感症)。私たちにも、周りへ気を使い過ぎると(過剰適応)、体の感覚が鈍くなる症状として現れます。さらに、自分の感情そのものにも鈍くなってしまう場合もあります(失感情症)。愛着障害―結べなくなる絆太宰が母親代わりの女中を喪失した外傷体験の代償は、計り知れません。もともと父親は地元の名士で議員でもあり、多忙でほとんど家を空けており、お世話をする女中たちや下男たちや兄姉たちとのかかわりがほとんどで、親からの愛情によるかかわりが乏しかったことが伺えます。そもそも、親、特に母親という特別な存在から無二の愛情を受けることで、子どもは自分が特別な存在であると実感します。自分にとって親が特別であり、同時に親にとっても自分が特別であること、この特別な結びつきの感覚こそ信頼感を育み、愛着という強く固い絆を生み出します。その絆の安心感を基に、やがて成長した青年は、様々な人たちと巡り会い、自分が選び同時に選ばれるというプロセスを経て、親友や恋人などとの新たな絆を作ろうとします。そして、選び取ること、選び取られることの大切さを知り、その特別な絆を深めようとします。葉蔵は、もともとこの愛着という絆がうまく育まれていなかったのでした(愛着障害)。愛着障害により、そもそも相手を信頼する時に安心感がないのです。その代わりに、「いつか捨てられるんじゃないか」「裏切られるんじゃないか」という強い恐れ(見捨てられ不安)が常に彼を支配していました。その後も、多くの女性が彼を求め、その女性たち全てが彼の居場所となりました。しかし、同時に、彼の心そのものはどこにも居場所がありませんでした。なぜなら、彼は、戦場のような場所で過ごした幼少期の体験によって、安心できる「居場所」という感覚そのものがなかったからです。そして、自分が選び抜いた誰か特別な人に愛情(愛着)を持つという発想そのものがなかったからです。空虚感―全てが空しい映画では、原作には登場しない中原中也との出会いが描かれます。最初は、絡み酒です。中原中也は「おまえは何の花が好きだ」「戦争の色は何色だ」と吹っかけてきます。その強がりは、彼の作風に反映されている不安や寂しさの裏返しであることが垣間見えます。見捨てられ不安で蝕まれた心は、世界が広がる青年期の多感な時期を迎えると、空しさで空っぽになってしまいます(空虚感)。自分の弱さや存在の危うさに敏感で繊細な点で、葉蔵と中原中也は似た者同士で、やがて惹き合っていきます。中原中也は、葉蔵にとって憧れであり、唯一の友情らしき感覚を味あわせてくれる存在でした。葉蔵が大切にしていた画集を質入れした直後に、中原中也が買い取り、葉蔵に渡すシーンは印象的です。しかし、葉蔵と中原中也はお互いに通じるものがあったのにもかかわらず、中原中也は自殺してしまいます。この出来事は、葉蔵の空虚感をさらに助長させていきます。操作性―巧みな人使い見捨てられ不安や空虚感があると、人はそれを満たすため、自分から人に働きかけて自分の思い通りにしようとして、人の気を惹くのがうまくなります(操作性)。葉蔵が従姉に優しくする場面が印象的ですが、何をしたら相手が喜ぶか完全に心得ています。その後も、持ち前のルックスに加えて、この操作性で次々と女性と関係を持つようになります。細かいところにも目が行き届くため、キャバレーであえて目立たない女給の常子にさり気なくお礼を言い、惚れられます。原作でも「女は引き寄せて、突っ放す」と語られています。情緒不安定―感受性の鋭さの裏返し子持ちの未亡人の静子と同棲するようになった時です。その娘から「本当のお父ちゃんがほしいの」という何気ない無邪気な言葉に、葉蔵は傷付き、打ちのめされます。彼は、感受性があまりに強くて繊細なため、子どもの言うことだから仕方がないとは思えないです。葉蔵の鋭い感受性は、裏を返せば、傷付きやすさを意味しています(情緒不安定)。その時に「裏切られた」「自分の敵だ」と感じたのでした。その後、静子が娘に「お父ちゃんは好きでお酒を飲んでいるのではないの」「あんまり良い人だから」と葉蔵を幸せそうにかばう会話を盗み聞きして、決意します。そして、そのまま立ち去り、二度と戻って来ることはありませんでした。その真意は、「自分のような馬鹿者は平和な家庭を壊してしまう」という自己否定、この幸せに自分は入れないという疎外感や嫉妬心(人間不信)、そして自分が消え去ることでこの幸せに水を差して懲らしめたいという懲罰欲などの複雑な思いが絡んでいそうです。スプリッティング(分裂)―貫けない愛情葉蔵は、「敵か味方か」「完璧な家庭でなければ別れる」と極端に白黒付けようとする感覚に囚われています(スプリッティング、分裂)。良い感情と悪い感情がバランスよく保てず、その中間のグレーゾーンであるちょうど良い「ほどほど」の関係性やささやかな「ほどほど」の幸せを実感するのでは物足りず、納得いかないのです。彼が求めるのは、究極的な信頼であり、究極的な幸福でした。発想が極端なのです。だからこそ、その後に出会うタバコ屋の良子とあっさり結婚してしまうのもうなずけます。良子は、葉蔵が酔っ払い断酒を破ったと打ち明けているのに、「だめよ、酔ったふりなんかして」「お芝居がうまいのね」といっこうに信じず、葉蔵に「信頼の天才」と言わしめたのでした。しかし、のちに妻の良子が不幸にも顔見知りにレイプされている現場に遭遇しても、彼は何とも声をかけられず、その場を立ち去ってしまいます。その後は、良子とは情緒的な交流なく、表面的に接することしかできません。彼は、完璧な信頼や幸福を失うという凄まじい恐怖におののいているばかりで、けっきょくその現実に向き合えず、良子と辛さを分かち合えず、逃げ出してしまいます。持ち前の意気地のなさとスプリッティングにより、たとえ不幸があっても何とか現状を維持して乗り越えていこうとするバランス感覚が欠けているのでした。パーソナリティの偏り葉蔵は、家財を遊びの軍資金にするため次々と質入れしています。そして、財産を食い潰す放蕩ぶりが仇となり、父親の引退をきっかけに、経済的に困窮し、落ちぶれていきます。現実が行き詰れば、空虚感はやがて自殺衝動を駆り立てます。そして、初めて自分が恋した常子と共に入水自殺を図ります。しかし、常子だけ死なせてしまい、自分は生き延びるのです。実際に、太宰も何度も自殺を企てています。そして、毎回違う女性が一緒でした。彼の自殺衝動は、本気で死を決しているというよりは、「生と死のギリギリの境をさ迷うスリルをあえて味わいたい」「そのスリルを通して生きている実感を噛みしめたい」という無意識の心理が働いているようです。他人を巻き込み、手の込んだことをするのは、逆に、生への執着を確かめたいからとも言えます。この心理は、昨今、話題になるリストカットや過量服薬などの自傷行為につながる心の揺らぎと言えます。葉蔵は、情緒不安定、空虚感、見捨てられ不安、スプリッティング、操作性、自殺衝動などの症状が揃っており、境界性パーソナリティ障害(情緒不安定性パーソナリティ障害)があると言えます。ただ、パーソナリティとは、あくまでその人のものごとの捉え方(認知)や感情の偏りなので、その良し悪しは周りとの相性や見方によって二面性があるとも言えます(表1)。表1 葉蔵の情緒不安定の二面性マイナス面プラス面「情緒不安定」「単純」「短絡的」「愛が重い」「感受性豊か」「観察力が鋭い」「純粋」「繊細(ナイーブ)」「愛が深い」自己愛―何ごとも自分の思いどおりにしたい葉蔵は、幼い頃から召使いを何人も抱えるお屋敷に住み、端正な顔立ちで何人もの幼なじみの女の子たちにチヤホヤされて過ごしてきました。そんな家柄、経済力、容姿に恵まれてしまったら、何ごとも自分の思い通りにしたいという気持ち(自己愛)が強く、思い通りにならなくなった時に、そのギャップで傷付きやすさも強まります。実際に、太宰も名誉欲しさに芥川賞の推薦を選考委員の大御所に懇願したという逸話はあまりにも有名です。葉蔵は、定職に就かず、ヒモのような生活を続け、「きっと偉い絵描きになってみせる」「今が大事なとこなんだ」といつまでも叶わぬ夢を追い、不健康なこだわりを持ち続けて、健康的なあきらめができないのです。幸せの青い鳥を追い続ける「青い鳥症候群」とも呼ばれ、現代でもある程度の年齢を重ねても「いつかビッグになる」と言い続ける男性や「いつか白馬の王子様が迎えに来る」と言い続ける女性が当てはまりそうです。ただ、自己愛のパーソナリティも二面性があり、高過ぎる理想と現実のギャップに苦しむ一方、自分を大切に思う気持ちが向上心として生きる原動力になることもあります(表2)。依存―すがりつき、のめり込み、歯止めが利かない葉蔵の空虚感は、果てしない底なし沼であり、人間関係ではけっきょく満たされません。この満たされない心は、やがてお酒や薬物で満たされるようになります。バーで居候していた時は、いつも酔っ払い、痩せていきます。何かにすがり、のめり込み、歯止めが利かないのです。健康的な人の「もうこれぐらいで止めておこう」という節度、限度の加減がないのです。例えば、「もっと命がけで遊びたい」「生涯に一度のお願い」「そこを何とか頼む」などの葉蔵のセリフが分かりやすいです。このようにある一定の枠組み(決めごと)から外れやすい性格傾向は、依存と呼ばれます。人間関係に溺れるだけでなく、アルコールに溺れ、やがて、睡眠薬、麻薬にも溺れていき、依存の対象が広がっていきます。依存のパーソナリティも二面性があります(表2)。人間関係に溺れるためには、相手をしてくれるだれかがいなければなりません。そのため、とても甘え上手になっていきます。さらに、特にアルコール、薬物などの依存物質を乱用してしまうと、やがて止めることだけで手足が震えたり自律神経が乱れたりする離脱症状(いわゆる禁断症状)と呼ばれる体が欲して言うことを聞かなくなる症状が現れ、アルコール依存症や薬物依存症に陥っていきます。最終的に、アルコールと薬物で体がボロボロになってしまった葉蔵は、後見人の平目の助けにより、入院隔離されます。ようやく、断酒、断薬が強制的ながら徹底されるのです。依存症の患者は、もともと枠組みが外れやすいということがあるので、生活や考え方の枠付けを徹底する治療を行います。例えば、規則正しい生活リズムや「ダメなものはダメ」というルールを守ることです。表2 葉蔵のパーソナリティの偏りの特徴特徴マイナス面プラス面情緒不安定性感じやすく、常に生きるか死ぬかの極限にいる。感受性が豊かで、観察力が鋭く、気配りに長けている。自己愛性高過ぎる理想と現実のギャップに苦しむ。自分を大切に思う気持ちが、向上心として生きる原動力になる。依存性すがりつき、のめり込み、溺れやすい。甘え上手共依存―依存されることに依存する病葉蔵の、美形に加えて、陰のある物憂げな表情や、漂う孤独の匂い、弱弱しくよろめきそうなたたずまいは、女性に助けてあげたいという気にさせる魅力や魔力が潜んでいるようです。これは、実際の太宰のポートレートを見てもそう感じさせます。また、雰囲気だけでなく、「金の切れ目が縁の切れ目ってのはね、解釈が逆なんだ」とさりげなく知性を披露するインテリぶりや、言葉少なげで独特の間があることは、守ってあげたいという女性の母性本能をさらにくすぐるようです。実際に、彼が巡り会う女性は、人一倍世話焼きで母性本能が強いです。「いいわよ、お金なんか」という下宿先の世話焼きな礼子、「うちが稼いであげてもダメなん?」という女給の常子、居候させマンガの仕事の依頼をとってきてあげる静子、「信頼の天才」である良子、キスされて麻薬を渡してしまう寿、そして母性本能に溢れる鉄など強烈なキャラが多いです。彼女たちに共通するのは、特別に華があるわけではなく、どこか訳ありで陰や引け目があり、彼女たちは自分に対する自己評価が低く劣等感がありそうです。このような劣等感のある女性が「この人の苦しみを分かってあげられるのは私だけ」と優越感に浸ることができるからこそ、葉蔵はもてはやされるのです。世話焼きとしてお世話をすることで、「私はこんなにこの人の役に立っている」と、自己評価を保とうとします。葉蔵の方も、そんな劣等感や母性本能の強い匂いのする女性をあえて嗅ぎ分けています。このように、必要とされることを必要とする、言い換えれば、依存されることに依存する状態は、共依存と呼ばれます。ややこしいですが、これも一つの依存の形です。そして、実際に、依存症の人が依存症であり続けることができる大きな原因として、その人のパートナーや家族が共依存であり、依存症の治療の妨げになっていることがよくあります。ただ、この共依存のパーソナリティも二面性があり、その良し悪しは人それぞれとも言えます(表3)。表3 葉蔵を取り巻く女たちの共依存の二面性マイナス面プラス面「お節介」「過保護」「過干渉」「押しつけがましい」「甘やかし」「世話焼き」「母性本能に溢れる」「面倒見がいい」「尽くす」「献身的」「優しい」退行―幼少期の生き直し父親の死に伴い、一切の面倒を見るという兄の働きかけにより、葉蔵は故郷の津軽に帰り、療養生活という名目で、年老い世話係の鉄と二人で暮らすことになります。父親にゆかりのある人ということで、どうやら昔の父親の愛人のようです。もともと子どもに恵まれなかった鉄は、葉蔵に強い母性的な無二の愛情を注ぎます。「こんな僕でも許してくれるのか」と言う葉蔵に対して、鉄は優しくそして力強く言い放ちます。「いいんだ」「神様には私が謝るので」「何があっても私が護(まも)る」と。その後に、駐在とのやり取りで、鉄が葉蔵をかばう様子は母そのものです。母性本能の強い鉄と過ごす日々は、葉蔵に安らぎを与えてくれました。どんどんと子ども返り、赤ちゃん返りしていきます(退行)。童心に返ったように無邪気に海岸ではしゃぎ、子守唄で心地良くなります。胎内回帰の寝像のポーズは、子宮の中にいる心地良さを表しているようです。退行を通して、かつて手に入らなかった愛着を育み、幼少期を生き直そうとしているようです。客観視―自分を俯瞰(ふかん)して見つめ直す視点原作では、鉄との愛着を育む他愛のない日々が綴られ、締めくくられます。そして、葉蔵は最後に語ります。「今の自分には幸福も不幸もありません」「ただ、一切は過ぎていきます」と。最後は、「現実は何も解決してくれない」という受身の虚しさに堕ちていく退廃的な美学を描こうとしているようです。諸行無常の響きさえ聞こえてきそうなエンディングです。実際に、太宰はこの作品の完成後に自殺を遂げています。一方、映画ではもう一つのエンディングが用意されていました。原作とは一味違った展開です。葉蔵は、鉄の愛情に育まれてついに巣立つのです。愛情に満たされた、平穏でのどかな故郷から東京に出発する電車の中では、軍人たちの間で戦争に入っていくという緊張感ある会話がなされ、現実世界に引き戻されています。その後、突然、乗客が過去に出会った全ての人たちに変わり、楽しく騒ぎます。まるで走馬灯のように過去を振り返る幻想的なシーンです。その中には、子ども時代の自分と向き合うシーンがあります。それは、過去から現在に至る自分を俯瞰(ふかん)して見つめ直す視点が身に付いたことを象徴しているようです。そして、葉蔵はつぶやきます。「今の自分には幸福も不幸もありません」「ただ、一切は過ぎていきます」と。そこには、かすかな希望が見えます。スプリッティングという両極端なものごとの捉え方による「阿鼻叫喚」な生き様を乗り越えて、安定した情緒で「現実を見つめ直して受け入れていく」という、淡々として自分を客観視できる能動的な人生へと回復していく可能性をほのめかしているようにも思えます。コミュニケーションのコツ臨床現場などで、患者さんやその家族が私たちに対して「よくしてくれる」とか「ちゃんとしてくれない」とかと感じる(転移)と、それが態度に表れることがあります。そんな態度を見た私たちも彼らを「良い人だ」とか「困った人だ」と感じてしまい(逆転移)、最悪のシナリオは、関係がとても悪くなり、関係を続けることが難しくなることです(巻き込まれ)。これは、教育の現場で、学生が相手でも同じです。もしも患者や学生が、葉蔵のような情緒不安定なパーソナリティの偏りがある人だった時、どうすればいいでしょうか?その人は、相手が良い人と思ったらすぐに大好きになり、いつもべったりになります(理想化)。一方、期待し過ぎるあまりちょっとした行き違いが起こると、すぐに裏切られたと思い込み、大嫌いになって、絶交します(幻滅)。このように、すぐに近付いたり、すぐに遠ざかったりして、安定していないのです。そのような時、私たちがその人の不安定な対人距離をよく理解すると、コミュニケーションのコツが見えてきます。巻き込まれコミュニケーションのコツは、3つあります。まず、相手をよく知ることです。相手の心(認知パターン)をよく理解し、次の動き(行動パターン)を予測することです。「世の中に怖いものはない。怖いものがあるとすれば、それは理解がないことだ」(キュリー夫人)という名言がありますが、ものごとは、得体が知れないと不気味ですが、正体が知れると面白味があるものです。私たちは、むしろ興味を持って、「不思議な人だな」とじっくり観察する心の余裕を持つことが大切です。次に、こちらがどっしりと構え、その人の動きに振り回されないことです。つまり、もともとあるべき一定の心の間合い(心理的距離)をとり続けることです。例えば、その人に好かれているから、または文句を言われるからとの理由で特別扱いをして対応を変えないこと、つまり間合いを詰めないことです。近付きすぎたら一歩退きますが、逆に、遠ざかっても見放さず、温かく見守り続けることです。この間合いが、長い目で見ると本人に安心感を与えます。スタッフで足並みを揃えるのも大事です(標準化)。また、たとえ「傷付いた」と言われても、むやみに動揺せず、「この人はこういう人なんだ」と受け流すことです(客観視)。しかし、だからと言って見限らず、見捨てず、見守ることです。相手を怖がってとにかく距離を置くのと、相手をよく理解して必要だから距離を置くのでは、その心の余裕は全く違います。もう1つは、その人は私たちに何かと期待し過ぎる傾向があるので、私たちが自分にできることとできないことの線引き(限界設定)をして、その人になるべく前もって伝えることです。「言った、言わない」のドツボにはまらないために、誠実に、さりげなく書面にするのも得策です。これらのコツは、「巻き込み」「巻き込まれ」を防ぐために、私たちのためだけでなく、その人のためにもなります。表4 コミュニケーションのコツ相手をよく知る相手の心(認知パターン)をよく理解する。次の動き(行動パターン)を予測する。じっくり観察する心の余裕を持つ。心の間合いどっしりと構えて対応を変えない(心理的距離)。スタッフ同士で足並みを揃える(標準化)。「この人はこういう人なんだ」と受け流す(客観視)線引きできることとできないことを線引きする(限界設定)。前もって伝える。書面にする。「人間失格」を乗り越えて「人間合格」になる私たちは10代から20代の間の多感な青年期に、勉強、部活、仕事、恋愛を通して、人間関係の幅や深みが一気に広がり、世界が開けていきます。そして、気付かないうちに人の心を傷付けたり、逆に傷付けられたりする経験を通して、人をどこまで信じていいのか不安や迷いが生まれます。そんな時期に、その感受性を過激に、そして必死に体現してくれるこの「人間失格」の葉蔵は、さ迷える私たちに衝撃を与え、重なり合い、そして自分の状況を振り返らせ、人を信じることとはどうあるべきかを気付かせてくれます。この作品を足がかりとして、その青年期の信じることの危うさを乗り越えた私たちは、ほどよい信頼感や自信(自己肯定感)を実感できる「大人」に成長しているのではないでしょうか?そんな私たちは「人間合格」と胸を張ることができるのではないでしょうか?1)「人間失格」(集英社文庫) 太宰治2)「愛着障害」(光文社新書) 岡田尊司3)「境界性パーソナリティ障害」(幻冬舎新書) 岡田尊司4)「リストカット」(講談社現代新書) 林直樹

13.

Mother(中編)【母性と愛着】

母性と愛着みなさんは、仕事や日常での生活で「誰かに見守られたい」「誰かとつながっていたい」と思うことはありませんか?この感覚の根っこの心理は愛着です。そして、この愛着を育むのは母性です。今回も、前回に引き続き、2010年に放映されたドラマ「Mother」を取り上げます。そして、母性と愛着をテーマに、見守り合うこと、つながること、つまり絆について、皆さんと一緒に考えていきたいと思います。あらすじ主人公の奈緒は、30歳代半ばまで恋人も作らず、北海道の大学でひたすら渡り鳥の研究に励んでいました。そんな折に、研究室が閉鎖され、仕方なく一時的に地域の小学校に勤めます。そこで1年生の担任教師を任され、怜南に出会うのです。そして、怜南が虐待されていることを知ります。最初は見て見ぬふりの奈緒でしたが、怜南が虐待されて死にそうになっているところを助けたことで、全てをなげうって怜南を守ることを決意し、怜南を「誘拐」します。そして、継美(つぐみ)と名付け、渡り鳥のように逃避行をするのです。実のところ、奈緒をそこまで駆り立てたのは、奈緒自身がもともと「捨てられた子」だったからです。その後に、奈緒が奈緒の実母に出会うことで、奈緒はなぜ捨てられたのかという衝撃の真実を私たちは目の当たりにして、母性とは何かを考えさせられます。奈緒の母性―喜び奈緒は、怜南の母の虐待によって死にかけていた怜南を偶然に救いました。その時、以前から自分が入るための「赤ちゃんポスト」を怜南が探していることを奈緒は知り、心を打たれます。そして、怜南が飛んでいる渡り鳥に「怜南も連れてって~!」と叫んだ時、今まで眠っていた奈緒の母性に火が着いてしまったのです。奈緒は、大学の研究員に戻れるというキャリアを捨てて、そして、たとえ捕まって「牢屋」に入れられるとしても、「私、あなたのお母さんになろうと思う」と思い立ちます。その後、奈緒は「人のために何かしたことなんてなかったから」「子どもが大きくなる」「ただそんな当たり前のことが嬉しかった」と語ります。また、奈緒は、追いかけてやってきた継美(怜南)の実の母に告げます。「あの子はあなたから生まれた子どもです」「あなたに育てられた優しい女の子です」「ホントのお母さんの温もりの中で育つことがあの子の幸せなら」「あの子をお返しします」「あなたがまだあの子に思いがあって、まだあの子を愛して心からあの子を抱き締めるなら」「私は喜んで罰を受けます」「道木怜南さんの幸せを願います」と。母性とは、母の子どもの幸せを一番に願う喜びなのです。施設の母(桃子さん)の母性―安全基地奈緒と継美(怜南)は、逃避行の途中、栃木のある児童養護施設を訪ねることになります。そこは、かつて奈緒が捨てられた5歳から里親に拾われる7歳までの2年間を過ごした場所でした。その施設の母である桃子さんは、「ここで育った子どもたちには故郷がない」「ここで育った子どもたちにとってはここが故郷で、私が親代わりだ」と言っていました。施設、そして桃子さんは、心の拠りどころとなる存在や場所としての役割を果たそうとしていたのです(安全基地)。それは、困った時に逃げられる場所、困った時に必ずそばにいてくれる人です。しかし、奈緒が訪ねた時、施設にいたのは、年老いて認知症になった桃子さんだけでした。そして、桃子さんが高齢者介護施設に引き取られる日が迫っていました。桃子さんは、最初、奈緒のことが分かりませんでした。しかし、最後には、「奈緒ちゃんがお母さんになった」と繰り返し言い、心の底から喜びます。かつて幼い奈緒が「子どもがかわいそうだから」「生まれるのがかわいそうだから」「絶対にお母さんにはならないの」と言ったことを桃子さんは覚えていたのでした。桃子さんは、認知症になりながらも、奈緒の幸せを一番に思っていたのです。育ての母(藤子)の母性―決意その後に、奈緒が身を寄せたのは、育ての母(藤子)の元、つまり現在の東京の実家です。藤子は、2人の実の子たちと分け隔てなく、むしろ奈緒を一番に気遣っています。そこには、藤子なりの決意があったのです。かつて幼い奈緒が、閉ざした心を開きかけた時、藤子は決意します。「世界中でこの子の母親は私1人なんだって」「たとえ奈緒の心の中の母親が誰であろうと」と。このように、育ての母であることは、母性という本能だけでなく、意識する、決意するという理性によっても、親子の関係を強める必要があります。例えば、それは、藤子が「甘えることは恥ずかしいことじゃないの」「愛された記憶があるから甘えられるんだもん」と奈緒に諭すようなブレない心です。実の母(葉菜)の母性―本能奈緒は、継美(怜南)を連れて東京に戻ってきた時、偶然にも、奈緒の実の母である葉菜に、30年ぶりに見つけられます。その時から、葉菜は、奈緒に正体がばれないように「うっかりさん」として継美に近付いていきます。やがて、葉菜は、継美が北海道で行方不明になった怜南という子であること、つまり奈緒の子ではないことを知ってしまいます。しかし、継美(怜南)に「うっかりさん、あなたの味方ですよ」「あなたのお母さんを信じてる人」「ウソつきでも信じるのが味方よ」と告げます。さらに、その後に葉菜は、自分が実の母であることを奈緒に気付かれ、激しく拒絶されます。それでも、奈緒や継美を助けようとします。奈緒が、真相を追いかける雑誌記者(藤吉)に金銭を揺すられた時は、葉菜は嫌がられても自分の貯金を全額、無理やり奈緒に渡そうとします。また、継美(怜奈)の母が追いかけてきたことを知った葉菜は、奈緒と継美に「あなたたちは私が守ります」と力強く言い、自分の家にかくまいます。奈緒と継美と葉菜の3人で遊園地に行った時のことです。奈緒は「(かつて遊園地でいっしょに楽しんだ後に自分を捨てたのにまた楽しんでいて)ズルイなあ」とつぶやきます。すると葉菜は「ウフフ、そうズルイの」「楽しんでるの」とほほ笑み、言い訳などせず、奈緒の気持ちをそのまま受け止めます(受容)。また、葉菜は奈緒に「一番大事なものだけ選ぶの。大事なものは継美ちゃん」と言い、非合法的に2人の戸籍を入手しようともします。そして、「大丈夫、きっとうまくいく」と安心させます(保証)。藤子(奈緒の育ての親)が、実の子どもたちを守るために苦渋の選択で、理性的に奈緒の戸籍を外そうとしていたのとは対照的です。このように、母性とは、どんな時でもどんな場所でも自分の子どもを許し、存在そのものを肯定する心理です(無条件の愛情)。もはや理性や理屈ではありません。ラストシーンでは、葉菜の真実が明かされます。その時、私たちは、葉菜が奈緒を捨てなければならなかった本当の理由、そして葉菜が自分の人生をなげうってでも十字架を背負ってでも奈緒を守る、ただただ奈緒の幸せを願う、そして自分が犠牲になることに喜びさえ感じる葉菜の究極の母性を目の当たりにします(自己犠牲)。それは、本能であり、突き動かされる「欲望」でもあったのです。母性の心理の源は?これまで、奈緒、施設の母(桃子さん)、育ての親(藤子)、そして実の母(葉菜)のそれぞれの母性を見てきました。母性には、喜び、安全基地の役割、決意、無条件の愛情、自己犠牲の本能など様々な心理があることも分かってきました。このドラマのキープレーヤーとして登場する雑誌記者(藤吉)は、葉菜(奈緒の実の母)の真実を追い求める中、葉菜がかつてある事件を起こしていた事実に辿り着きます。そして、葉菜の友人であり、かつて葉菜を取り調べた元刑事から、「人間には男と女と、それにもう1種類、母親というのがいる」「これは我々(男性)には分からんよ」と聞かされます。そして、「聖母」という母性に辿り着きます。それほど母性とは、独特なものであると言えます。タイトルの「Mother」の「t」が十字架のように浮き彫りになって教会の鐘が鳴る毎回のオープニングクレジットは、とても象徴的です。それでは、なぜ母性はこのような心理になるのでしょうか?そもそもなぜ母性はあるのでしょうか?その答えは、母性とは私たち哺乳類などの動物が、進化の過程で手に入れた生理的なシステムだからです。哺乳させる、つまり乳を与えるという授乳の行為は、自分の栄養を与えるという自己犠牲の上に成り立っています。そこから、身の危険を冒してでも、子どものためにエサを取ってくる行為に発展していきます。そして、人間においても、母が子どものことに全神経を傾けて過ごし(母性的没頭)、子どもが生き延びるためにその子にありったけのものを与えます。これは、命をつなぐために不可欠な生物学的な営みです。このような行為を動機付ける心理が母性です。そこに見返りはありません。「そうしたいからしている」という欲求なのです。哺乳類が誕生した太古の昔から、この「子どもを守りたい」と思う種ほど生き残り、より多くの子孫を残す結果となりました。そして、この心理がより働く遺伝子が現在の私たち、とくに女性に引き継がれています。母性と愛着―親と子どもを結ぶ絆奈緒は、葉菜が自分の実の母だとは知らずに語ります。「無償の愛ってどう思います?」「親は子に無償の愛を捧げるって」「あれ、私、逆だと思うんです」「小さな子どもが親に向ける愛が無償の愛だと思います」「子どもは何があっても、たとえ殺されそうになっても捨てられても親のことを愛してる」「何があっても」「だから親も絶対に子どもを離しちゃいけないはずなんです」と。また、奈緒は、押しかけてきた継美(怜南)の実の母にはこう訴えます。「親が見ているから、子どもは生きていけるんじゃないでしょうか」「目を背けたら、そこで子どもは死んでしまう」「子どもは親を憎めない生き物だから」と。さらに、その後に奈緒は、実の母と知った葉菜に言います。「(継美が)あなたに愛されていること」「何のためらいもなく感じられてるんだと思います」「子どもを守ることは、ご飯を作ったり食べたり、ゆっくり眠ったり、笑ったり遊んだり」「(子どもが)愛されてると実感すること」と。このように、母から子どもへの母性と子どもから母への愛着によって結ばれる絆は、もともとそのままあるものではありません。母の母性と子の愛着がお互いを求め合って、固く太く育まれていくものです(相互作用)。この絆が土台となり、やがて大人になった時に、他人との新しい絆を作っていくことができるようになります。そして、やがてその子どもがさらにその子どもの子どもに対して母性を注ぐことができるようになるのです。こうして、命は引き継がれていくのです。愛着ホルモン―オキシトシン継美(怜南)は、一時期、奈緒の実家に落ち着きます。その時、部屋で奈緒に「大事、大事」とささやかれ、髪を撫でられて、心地良さそうです。また、葉菜(奈緒の実の母)は理髪店を営んでいたこともあり、奈緒に髪を切ってあげることで、奈緒は幼い時にも同じように葉菜に髪を切ってもらっていたこと、そして思い出せなかった葉菜の顔を思い出します。これは、ちょうど私たちと遺伝的に近いチンパンジーやサルが毛づくろいをして、体が触れ合うことで親近感や社会性を増す場面と似ています。このように心や体が触れ合い絆を育む時、脳内では、オキシトシンなどの神経伝達物質が活性化していることが分かっています。つまり、愛着形成とオキシトシンの分泌や受容体の増加は、密接な関係があります。もともとオキシトシンは脳内のホルモンで、出産の時の子宮の収縮やその後の乳汁の分泌を促します。しかし、それだけではなく、抱っこや愛撫などの肌の触れ合い(スキンシップ)によっても、母子ともに分泌が促されるのです。オキシトシンは、母性の心理の原動力となるものです。と同時に、子どもの愛着の心理の原動力ともなっているのです。つまり、母性や愛着の心理は、オキシトシンなどの神経伝達物質によって、生物学的に裏付けられていると言えます。絆の土台作りの締め切り日―愛着形成の臨界期―グラフ奈緒は5歳の時に捨てられており、継美(怜南)は4、5歳の時から継美(怜南)の実の母やその恋人から虐待を受け続けています。しかし、奈緒は継美への母性を発揮することができて、継美は奈緒への新たな愛着を発揮することができました。奈緒も継美も、かつて絆壊し(脱愛着)が起きているのに、どうしてまた新たな絆作りができたのでしょうか?その理由は、奈緒は5歳の時まで実の親(葉菜)によって大切に育てられていたからです。そして、継美(怜南)は4、5歳の時まで継美(怜南)の実の母によって一生懸命に育てられていたからです。また、継美(怜南)は、子守り(ベビーシッター)をしてくれる愛情深い近所の人(克子おばさん)によってかわいがってもらっていたからです。母性が注がれることによって育まれる愛着の心理(能力)は、その基礎を育む期間に期限があります(臨界期)。つまり、絆の土台作りには、締め切り日がすでにあるということです。それは、まさに乳児期、厳密には生後1年半(長くて2年)までということが分かっています。ラストシーンの奈緒から継美(怜南)への手紙の中で、「(渡り)鳥たちは星座を道しるべにするのです」「それをヒナの頃に覚えるのです」「ヒナの頃に見た星の位置が(渡り)鳥たちの生きる上での道しるべとなるのです」とあります。これと同じように、この臨界期は遺伝的に決まっているのです。オキシトシンのパワー(1)精神的に安定する力この臨界期のオキシトシンの活性化によって高められる心理(能力)は、愛着だけでなく、人間的な共感性や安心感、そして知性であることが科学的に裏付けられてきています。昔からのことわざである「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものです。数え年を差し引けば、「三つ子」は生後1年から2年であり、愛着形成の臨界期にほぼ一致します。厳密には、この心理を左右するのは、オキシトシンだけでなくバソプレシン(オキシトシンと同じ下垂体後葉のホルモン)の分泌や受容体がどれほど働いているかということも分かってきています(オキシトシン・バソプレシン・システム)。さらに、この2つのホルモンは、快感や学習に関する脳の領域を刺激することも判明しています。つまり、この心理は、それ自体が快感であり(ドパミン・システム)、安心であり(セロトニン・システム)、さらに知性を高め、精神的に安定する力を強めます(レジリエンス)。逆に言えば、親の多忙やネグレクト(育児放棄)によって、2歳までに母性が子どもに十分に注がれていないと、その後にどうなるでしょうか?愛着ホルモン(オキシトシンやバソプレシン)が活性化しないので、共感性や信頼感が育まれにくく、情緒が不安定になりやすくなります(反応性愛着障害、情緒不安定性パーソナリティ障害)。また、連鎖的に安心ホルモン(セロトニン)が活性化しないので、不安やうつになりやすくなります(不安障害、うつ病)。そして、快感ホルモン(ドパミン)が活性化されないので、いつも欲求不満で、その満たされない心を別の何かで満たそうとして、食べ物、お酒、ギャンブル、薬物にはまりやすくなります(摂食障害、依存症)。さらに、学習ホルモン(ドパミン)が活性化しないので、知的な遅れや発達の偏りにも影響を与えるリスクが高まります(知的障害、発達障害)。このように、乳児期の母性の不足は、様々な精神障害を引き起こすリスクを高め、精神的にとても脆く弱くなってしまうのです(脆弱性)。「すきなものノート」―愛着対象の代わり怜南(継美)は、奈緒に出会った時にあるものを見せます。そして、「私の宝物」「好きなものノート」「好きなものを書くの」「嫌いなものを書いちゃだめだよ」「嫌いなもののことを考えちゃだめなの」と言います。怜南が実の母やその恋人から虐待を受け続ける中、怜南の愛着は大きく揺らいでいました。そんな中、見いだされたのがこの「すきなものノート」、つまり愛着の相手(対象)の代わりです。本来、愛着の対象が代わるのは、母性により十分な愛着が育まれた上で、愛着の対象が広がり移っていくことです(移行対象)。しかし、怜南の場合は、実の母の虐待により愛着が壊されたことで(脱愛着)、代わりの愛着の対象を見いだしています。この「すきなものノート」は、大切にできるものを持とうと怜南なりに何とか自分の心のバランスを保とうとして生まれたものだったのです。オキシトシンのパワー(2)誰かを大切に思える力葉菜(奈緒の実の母)は、実は自分が白血病で命の期限が迫っていることを隠していました。そんな葉菜の主治医が「目の前に死を実感してあんなに元気な人、初めて見ました」と奈緒に打ち明けます。奈緒は葉菜に「(こんなにしてくれるのは)罪滅ぼしですか?」と問いかけると、葉菜は穏やかに答えます。「今が幸せだからよ」「幸せって誰かを大切に思えることでしょ」「自分の命より大切なものが他にできる」「こんな幸せなことある?」と。そして、告知された余命の期限を過ぎても生き生きと生き続けるのです。葉菜は、30年前に奈緒を連れて警察に追われていた時の気持ちを奈緒に打ち明けます。「何をやってもうまくいかなくてね」「心細くて怖かった」「でもね、内緒なんだけどね」「あなた(奈緒)と逃げるの楽しかった」と。たとえどんな困難でも、わが子を守るために必死だったからこそ、その恐怖は喜びに変わるのです。亡くなる直前も、「ラムネのビー玉、どうやって入れてるのかしらね」と継美(怜南)の質問を気にかけて幸せそうです。そして、葉菜の死に際の走馬灯を通して、葉菜が一生をかけて守ろうとした真実を私たちは知ることになります。このように、「誰かを大切に思えること」の源の心理は母性です。この心理から、ライフパートナーや家族や親戚との絆(家族愛)、近所や地域との絆(郷土愛)へと「大切に思える」対象が次々と広がっていきます。これらの心理も、オキシトシンの活性化に支えられています。例えば、結婚式の誓いの言葉の瞬間には、オキシトシンの分泌が高まっていることが分かっています。つまり、オキシトシンは、母子の体のつながりの温かさだけでなく、人と人の心のつながりの温かさを求める働き(欲求)があります(求温欲求)。オキシトシンは、愛着ホルモンであるというだけでなく、人と人とをつなげる信頼ホルモン、献身ホルモン、そして絆ホルモンであるとも言えます。そして、この心理の高まりによって、私たちは恐怖や困難を前向きに感じるようになります(レジリエンス)。葉菜と同じように奈緒も、継美(怜南)を守り気にかけることで成長し強くなっています。奈緒は20歳の継美(怜南)への手紙に「あなたの母になったから、私も最後の最後に(1度自分を捨てた)母を愛することができた」「あなたと出会って良かった」「あなたの母になれて良かった」「あなたと過ごした季節」「あなたの母であった季節」「それが私にとって今の全てであり」「そして(大人になった)あなたと再びいつか出会う季節」「それは私にとってこれから開ける宝箱なのです」と感謝します。子どもを養うことは、自分の心が養われることでもあるのです。つまり、「誰かを大切に思えること」は、負担ではなく、原動力なのです。さらに、最近の研究で、オキシトシンの活性化は、ストレスへの耐性など精神的な健康を高めるだけでなく、葉菜が長生きをしたように免疫力などの身体的な健康を高めることも分かってきています。つながり(絆)の心理の人種差―遺伝的傾向愛着の心理は、つながり(絆)の心理の土台であることが分かってきました。この心理の過敏さ(過敏性)には人種差があるでしょうか?答えは、あります。最近の遺伝子の研究によって、人種差があることが判明しています。欧米人の子どもに比べて、日本人などのアジア人の子どもは、愛着に敏感な遺伝子をより多く持っています。欧米人の遺伝子は愛着に敏感なタイプが3分の1、鈍感なタイプが3分の2です。それに対して、アジア人は敏感タイプが3分の2、鈍感タイプが3分の1です。ちょうど割合が逆転しています。つまり、欧米人は愛着に鈍感なので、母性が不足した環境で育っても充足した環境で育ってもあまり影響を受けずにドライに育ちます。一方、アジア人は愛着に敏感なので、母性が不足した環境で育つと大きく影響を受け、精神的に不安定になり、傷付きやすくなります。逆に、母性がより充足した環境で育つと、やはり大きく影響を受け、精神的により安定し、つながり(絆)の心理が高まり、よりウェットに育つということです。以上から言えることは、そもそも遺伝的傾向の違いがあるため、欧米で当たり前に行われている早期の自立や甘えを許さない子育ての方法をそのまま安易に日本で真似することは危ういということです。日本人の生活スタイルが欧米化しつつあります。だからこそ、よりつながりを意識した子育てや人間関係のあり方を見つめ直す必要があります。集団主義の源は?―3つの仮説それでは、そもそもなぜアジア人と欧米人でこの割合の違いが起きているのでしょうか?言い換えれば、なぜアジア人はつながりに過敏な遺伝子を多く持っているのでしょか?3つの仮説が考えられます。1つ目は、人類大移動のために必要な遺伝子だったという仮説です。6万年前に私たち人類の祖先たちは、生まれたアフリカの大地を出て、世界に広がっていきました。その時、ヨーロッパに比べてさらに遠いアジアの地に辿り着くためにはより協力する、つまりつながり(愛着)の心理を敏感に持つ必要がありました。その遺伝子を持つ祖先がより生き残り、現在の私たちアジア人、特にアフリカから比較的に遠い日本人により多く受け継がれている可能性が考えられます。なお、アメリカ人の多くは、もともとヨーロッパからの移民なので、遺伝的にはヨーロッパ人と同じと考えます。2つ目は、過酷な風土に居つくために必要な遺伝子だったという仮説です。特に日本は、地震、津波、台風、火山などの不安定な風土であるため、人々は絶えず絆を意識して助け合いました。また、島国で国土が狭いため、隣人に気遣いを忘れないようにしました。つまり、つながり(愛着)の心理を敏感に持つ必要がありました。その遺伝子を持つ人が、子孫を残す結婚相手としてより選ばれたと言うことです。3つ目は、つながりに過敏な遺伝子は多数派になることで強化されていったという仮説です。大移動が終わり、過酷な風土に適応した後も、文化として根付いていき、多数派になりました。つまり、文化的な価値観として、この遺伝子を持つ人が結婚相手としてより選ばれ、子孫を残し続けてきたと言えます。従来から、欧米人は個人主義的で甘えを許さないドライな民族で、アジア人、特に日本人は集団主義的で甘えを許すウェットな民族であると言われてきました。この違いは、単なる文化(環境因子)によるだけでなく、遺伝的傾向(個体因子)にもより、さらにはこの2つ要因がお互い絡み合った結果(相互作用)によると言えます。特別な誰かに大切にされた記憶―愛着の選択性奈緒が捕まった時のエピソードでは、継美(怜南)は児童養護センターに入り、他の子どもたちと楽しそうにしています。しかし、執行猶予が付いて解放された奈緒に、継美は電話をかけ続けます。そして、「お母さん、いつ迎えに来るの?」「もう1回、誘拐して」と涙を流して言うのです。本当のところ、心は満たされていないのでした。愛着という絆は、必ずしも相手が、実の母である必要はなく、育ての母でも良くて、祖母でも良くて、母性的にかかわることができる父でも良いのです。大事なのは、子どもと絆を結ぶ相手が特別な誰かであるということです。特別な誰かに母性を注がれること、つまり愛されることです(愛着の選択性)。これは、イスラエルの農業共同体キブツでの実験的な試みの失敗が裏付けています。そこでは、乳幼児を交代制で集団的に育児して、育児する母と育児される子が同じにならないようにしました。その後、そこで成長した多くの子が、愛着や発達の問題を多く認め、精神的に脆く弱くなってしまったのです。渡り鳥の道しるべ―絆奈緒は病床の葉菜(奈緒の実の母)に「もう分かっているの」「離れていても」「今までずっと母でいてくれたこと」「だから今度はあなたの娘にさせて」と打ち明けます。奈緒と葉菜が、30年の時を経てつながりを確認し合った瞬間です。奈緒は、渡り鳥として最後は実の母の元に戻ることができました。奈緒は、自分が「牢屋」に入ってでも、継美(怜南)を守ろうとしました。そんな奈緒は、継美にとって特別な存在です。奈緒は警察に捕まった時、継美に「覚えてて」「お母さんの手だよ」「継美の手、ずっと握ってるからね」と伝えます。また、最後のお別れの時、「離れてても継美のお母さん」「ずっと継美のお母さん」「そしたら(大人になったら)また会える日が来る」「お母さん、ずっと見てるから」と言います。奈緒から20歳の継美への手紙には「幼い頃に手を取り合って歩いた思い出があれば、それはいつか道しるべとなって私たちを導き、巡り合う」と記されます。特別な誰かが身を犠牲にして守ってくれた、大切にしてくれたという確かな記憶、そして自分の幸せを心から願い続ける誰かがいるという実感が、子どもにとっては心の拠りどころや支え(安全基地)、つまり絆となっていくのです。それはまさに、渡り鳥の「道しるべ」です。そして、やがてその子どもが大人になった時、自分が新しい特別な誰かの心の拠りどころや支えになり、新しい「道しるべ」をつくっていくのです。1)愛着崩壊:岡田尊司、角川選書、20122)進化と人間行動:長谷川眞理子、長谷川寿一、放送大学教材、20073)人類大移動:印東道子、朝日新聞出版、2012

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泣かないと決めた日【フレネミー(操作性)】 

「裏切られた!」みなさんは、友達だと思っていた人に、「裏切られた!」と思ったことはありませんか?そして、残念で悔しくて、怒りがこみ上げてきたことはありませんか?昔から、そういう偽りの友達はいました。そういう人たちは、最近ではフレネミーと呼ばれています。これは、フレンド(友達)とエナミー(敵)を重ね合わせた英語の造語から来ています。今回は、このフレネミーをテーマに、2010年のテレビドラマ「泣かないと決めた日」を取り上げます。主人公は、新入社員として夢と希望に胸を膨らませて、憧れの大企業に入社します。ところが、その職場では、理不尽ないじめが彼女を待ち構えていました。さらに追い打ちをかけたのは、最初に助けてくれていた同期の友達の裏切りです。次々と可哀想すぎるシーンが続き、見ている私たちまでも辛くなります。しかし、彼女は最初にくじけそうになりましたが、やがて持ち前の強さで這い上がります。そして、彼女が職場の雰囲気を変えていくのです。このドラマでは、様々な人の心の動きが描かれています。そして、根本的な疑問が湧いてきます。それは、「なぜ人は信じるのか?」、そして「なぜ人は裏切るのか?」です。これから、これらの心理を、新しい科学の分野である進化心理学の視点から解き明かします。そして、私たちはフレネミーからどう身を守ればよいのかをいっしょに考えていきましょう。助ける心理―協力(利他性)主人公の美樹は、入社式から同期の万里香と仲良しになり、信頼します。同じ携帯のストラップを見せ合い、友情を確認し合います。同じ境遇を分かり合い、助け合おうとしています。実際に、その後、美樹が同僚からの嫌がらせで残業を押し付けられた時は、万里香は同情し手伝ってくれていました。私たちは、このような助け合いの精神を当たり前のことだと思っています。しかし、そもそもこのような助ける心理(利他性)は、なぜ沸いてくるのでしょうか?1つは、私たちは子どもの頃からそう教えられてきたという文化の要素があげられます(環境因子)。もう1つは、私たちはそういうふうに振る舞うように遺伝子にプログラムされている、つまり心の進化の要素です(個体因子)。ヒトは、700万年前にチンパンジーと共通の祖先と別れて進化してきました。そして、3、400万年前にアフリカの森から草原へ出て、その後に100人くらいの閉鎖的な集団をそれぞれ作り、長期間、協力して生き延びてきました。つながろうと強く思う種の多い共同体が子孫を残してきたわけです。つまり、ヒトの心の進化の最大の特徴は、つながりの心理(社会性)です。ここから、さらに様々な心理が芽生え、つながるための動機付けが起こりました(表1)。例えば、「好き」という好意や「かわいそうに」という同情は、助ける心理を動機付けます。「ありがとう」という感謝は、その言葉を伝えることや実際のお返しを動機づけます。だからこそ、つながりの心理が、理性的な単なる損得勘定だけではなく、情緒的なつながりの強さをもとにしていると私たちが実感できるのです。こうして、助け合い、伝え合い、文化や文明を進歩させてもきたのでした。そして、現在まで、この心理は、私たちが普遍的に直感する正しさとしての道徳心(モラル)や倫理観の土台になっています。表1 様々な心理とつながりの動機付け心理動機付け好意(友情)「好き」助ける(協力)同情「かわいそうに」感謝「ありがとう」お返し、恩返し(協力)裏切り「いただき」騙し(非協力)噂好き「あの人どう?」裏切りのあぶり出しや抑止自尊心「よく思われたい」「なめんなよ」協力のアピール裏切り(非協力)の否定騙しの心理―非協力、裏切り(1)フレネミー(偽りの友達)とは?その後、美樹が職場の嫌がらせにけなげに耐えている中、万里香は、裏で変わってしまいます。その理由は、万里香は、美樹が付き合い始めた他の部署の男性社員に目を付けたのです。その男性が載っている社内誌を見ながら浮かべる彼女の笑みが不気味です。そして、恋敵をつぶすために手段を選びません。裏で美樹を貶(おとし)めようと、同僚たちに巧みな悪口を吹き込みます。美樹のニセブログを立ち上げて、美樹になりすまし、同僚の悪口を次々と掲載します。一方、企てがばれそうになると、良いタイミングで、「間違い」を打ち明け、徹底的に無邪気な良い人を演じます。自分に思い通りになるように周りを動かすその立ち振る舞いは実に見事です。この万里香のような行動パターンを取る人は、特に女性に多いのですが、昔から「魔性の女」「悪女」と呼ばれていました。最近では、より的確なワードとして、フレネミーと呼ばれることが増えてきています。表面的には仲良しの友達を装いつつ(演技性)、裏では周りを操作します(操作性)。(2)なぜフレネミーになるのか?1.生い立ち(環境因子)どうして、このような人が昔からいるのでしょうか?2つの要素が考えられます。1つは、ドラマでも少し触れられていますが、万里香の生い立ちです(環境因子)。彼女は、裕福な家庭の一人娘として大事に育てられました。際立って恵まれています。そこで余計に育まれてしまったものは、自分が有利であることへの敏感さ(優越感)です。「今まで欲しいものは全部、手に入れてきたの」という彼女のセリフが全てを物語っています。一方、際立って恵まれなかった人が育むものは、自分が不利であることへの敏感さ(劣等感)ですが、この2人には共通する価値観があります。それは、自分が有利か不利か、つまり大切にされているかどうかに敏感になる点です(自己愛)。そこから、「自分は特別である」「だから裏技(不正)を使っても良い」という発想に陥りやすくなります。つまり、生い立ち(生育環境)が際立って恵まれていたり、逆に際立って恵まれていない場合、つまり生育環境の偏りがある場合は、フレネミーのリスクが高まるということが分かります。2.ただ乗り遺伝子(個体因子)もう1つは、「ただ乗り遺伝子」です(個体因子)。この遺伝子は、みんながお金を払って乗り物に乗っているのに、1人だけただで乗ろうとするような心理を駆り立てます。つまり、騙しの心理、裏切りです。私たちは、助ける心理を進化させる中で、実は、この困った心理も進化させてしまったのです。みんなが信頼し合い、助け合いのルールを守り、公平(公正)を保っている中で、1人だけ抜け駆けして、食料や繁殖のパートナーなどの資源を横取りする種が、「生きるか死ぬか」の過酷な生存競争の中で、生き残ったからでした。進化の本来の姿は、競争です。私たちの祖先は、信頼による協力と騙しによる競争の心理を器用に使い分けて、バランスを取りながら進化してきたのでした。つまり、私たちの心の中には、信頼の心と同時に、常に裏切りの心が潜んでいるわけです。美樹の恋人を寝取った万里香は言います。「私、謝らないから」「恋愛にルールなんてないもの」と。実際に、世の中で振り込め詐欺などの騙しの犯罪はなくなりません。この騙しの心は、つながりの心を進化させてしまった代償と言えるかもしれません。噂好きの心理―裏切り者のあぶり出し万里香は、食堂で、美樹の同僚たちのテーブルにあえて座り、さり気なく漏らします。「寿退社するまでは、(いじめを上層部に言い付けるのを)我慢するって言ってました」と。この言葉に、美樹に対しておもしろく思っていない同僚たちは食い付きます。このように、私たちは、噂、特に葛藤を抱えている集団のメンバーについての噂に敏感です。そう私たちを駆り立てるのは、何なのでしょうか?進化論的には、噂好きの心理の役割は、他人とつながる際のリスクである騙し、つまり裏切りをあぶり出すことです。このあぶり出しにより、次の裏切りによる被害を未然に防ぐことができますし、さらには裏切りに対しての抑止も働きます。噂は、20万年前に言葉を話すようになった私たちの祖先(ホモ・サピエンス)の時代から、表情を読み取ることと並んで、裏切りの有力な判断材料であったと言えます。かつては、共同体のあるメンバーの裏切りが成功したら、残りのメンバーたちの生存が脅かされる状況があったのでしょう。だからこそ、現代の私たちは良い噂よりも悪い噂に敏感で、例えば事件、ゴシップ、ワイドショーが大好きになってしまったと言えそうです。さらに、噂は、単にその時の共同体の間だけでなく、世代を超えて続くこともありました。もはやその噂は、語り継ぎ(物語)や言い伝え(伝説、神話、宗教)として、共通の意識を持つことでもあり、共同体への帰属意識を高める役割も果たしています。また、同時に、それは、共通の生きる知識や知恵(文化)として、共同体の生存の確率を高める役割も果たしていたでしょう。この噂から語り継ぎや言い伝えを好む遺伝子を持つ種の末裔は私たちです。だからこそ、私たちは、映画、ドラマ、小説などのストーリーを好むのでしょう。自尊心―裏切り者だと思われたくない万里香が成りすました美樹のブログには、同僚たちの悪口がこれでもかと書き込まれていました。それを発見した同僚たちは、美樹に激怒します。一方、美樹は、正体不明の犯人の悪意に、もはや怒りを通り越して打ちひしがれます。このように、私たちは、他人の噂以上に、自分の噂にとても敏感です。都合の悪い自分の噂、ましてや自分が裏切り者に仕立て上げられるデマなどには、怒りがこみ上げ、傷付きます。このように揺さ振られる心の動きは何なのでしょうか?それは自尊心(誇り、プライド)です。自尊心は、自らを尊ぶ心、つまり自分を大切にする気持ちです。これは、集団の中で期待に応えたい、そしてより良い評価を得たいという欲求(承認欲求)に支えられています。よって、この大きさの物差しになるのは、周りからの評判です。つまり、私たちの自尊心は、噂を含む評判によって、揺れ動いていると言えます。だからこそ、私たちは裏切り者だと思われることが最も苦痛なのです。原始の時代、集団での狩りの際、道具を作る役、追い立てる役、仕留める役などそれぞれの役割がありました。そのどの役割が自分にできるか主張することこそが、自尊心の源です。そして、この自尊心は、「認められたい」「よく思われたい」という心理から「軽くみられたくない」「なめんなよ」という心理に置き換えられます。これは、威嚇や牽制としての怒りでもあります(ディスプレイ)。このように、言われっぱなしで好き勝手にさせない、そして、はめられないようにする心の働き、つまり自尊心を持つ種が生き延びました。私たちにとって、自尊心は、集団に貢献するだけでなく、裏切り者に仕立て上げられないためにもなくてはならない心理と言えます。フレネミーから身を守るには?万里香のようなフレネミーは、集団に潜んでいます。そして、同時に、実は、フレネミーの心は、私たちのそれぞれの心の中にも潜んでいます。知らずに、フレネミーに振り回され、そして、うっかり自分が噂を流してしまいフレネミーのように振り回しているかもしれません。大事なことは、フレネミーの特徴と接し方を具体的によく知っておくことです。(1)フレネミーの特徴まず、万里香が神出鬼没であったように、フレネミーは、情報収集の能力が高く、常に嗅ぎ回り、詮索好きです。そして、フレネミーの口癖は、それほど近い間柄ではないのに連発するワード、「ここだけの話」です。これは、親密さを装うワードで(演技性)、要注意です。なぜなら、実際には「ここ」だけの話ではないからです。そして続く言葉は、「師長(リーダー)が、あなたのこと、むかつくって言ってたよ」です。あなたが知りたくないことをあえて伝えてくるのです(操作性)。聞いたあなたとしては、心を揺さ振られます。(2)フレネミーへの接し方ここでまず大事なことは、まず、この「伝言ゲーム」の罠、つまりフレネミーの意図に気付くことです。「なぜこの人はそれほど親しくないのに、私の悪い噂をあえて伝えに来たのだろうか?」と疑うことで、フレネミーであることが特定できます。そして、他人に関してでもあなたに関してでも、それほど親しくないのに悪口を言う人には手の内を見せないことです。間違っても、「教えてくれてありがとう」と感謝しないことです。ましてや、フレネミーに師長への不満をぶちまけないことです。これでは、フレネミーの思うつぼになってしまいます。安全なかわし方としては、「ええ、そうなの?」と話は聞きつつ、「私、鈍くて分からない」と言います。また、可能な限り、1対1にならないことです。あやしいと思ったら、複数で対応することが得策です。また、日々の心掛けとして、フレネミーには、噂話だけでなく自慢話もしないことです。当たり障りのない話だけにとどめ、心の間合いを取ることです(心理的距離)。特に、自慢話は、フレネミーの最も勘に触ることです。自慢話は、味付けを変えれば、いとも簡単に悪い噂に化けてしまいます。つまり、噂や自慢はそれ自体は楽しいのですが、その話をする時は、相手を慎重に選ぶ必要があります。ドラマの後半、噂を利用した万里香の悪事は、繰り返されるうちに、逆にその噂によってばれていきます。結局、繰り返す不正はやがて明るみになるものです。こうして、彼女は、職場に居づらくなってしまったのでした。このように、フレネミーは、程度にもよりますが、時間が経てば、やがていなくなることが分かります。なぜなら、噂の本来の役目である不正(裏切り者)のあぶり出しは常に働いているからです。私たち日本人は、トラブルで目立つことは迷惑になり恥ずかしいと思いがちです。しかし、万里香の悪事から学ぶことは、職場でフレネミーとトラブルが起きた時は、客観的な事実をオープンにする、つまり泣き寝入りしないことです。少なくとも、管理者に報告することです。また、注意点は、主観的な感情まではオープンにしないことです。なぜなら、そうすると自分もフレネミーになってしまうリスクがあるからです。こうすることで、フレネミーのあぶり出しや抑止がより有効になっていきます。表2 フレネミーの特徴と接し方特徴常に嗅ぎ回り、詮索好き親密さを装う(演技性)知りたくないことをあえて伝えてくる(操作性)接し方意図に気付く手の内をみせない複数で対応する噂話や自慢話はしないトラブル時は、客観的な事実をオープンにするまとめ原始の時代、私たちの祖先は、明日の食糧の確保に不安を抱えながらも、助け合い、そして裏切りを牽制し、たいした情報のない中、生きるか死ぬかの過酷な環境を生き抜いてきました。それに比べると、現代の社会は、法律によって権利が守られ、衣食住が満たされ、情報もオープンで確かなものになってきています。原始の時代の心を引き継いでいる現代の私たちの心は、時に万里香のような心になってしまうことがあります。つまり、裏切りの心は、助ける心と同じくらい人間の本質的なものだということです。この心の働きに気付き、見つめ直すことで、私たちの中に潜むこの操作性の心をコントロールし、乗り越えていくことができるのではないでしょうか。1)北村英哉・大坪康介:進化と感情から解き明かす社会心理学、有斐閣アルマ、20122)長谷川寿一・長谷川眞理子:進化と人間行動、東京大学出版会、20003)ロビン・ダンバー:友達の数は何人?、インターシフト、2011

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ガリレオ【システム化、共感性】 

ドラマ「ガリレオ」みなさんは、「なんであの人は気遣いができないの?」と思ったことはありませんか?特に、医療の現場では気遣いが求められる状況が多くあります。気遣いがうまくできていないスタッフを、どう考えたらよいのでしょうか?そして、どうしたらよいのでしょうか?これらの疑問を、今回、2007年と今年に放送されたドラマ「ガリレオ」の主人公をモデルに、みなさんといっしょに考えていきたいと思います。システム化―パターンを見つける能力主人公の湯川先生は、大学の准教授で、世間から天才物理学者と呼ばれています。彼の口癖は「実におもしろい」「実に興味深い」「さっぱり分からない」で、好奇心の赴くままに突き進みます。そんな彼を衝き動かしている信念は、「全ての事象には必ず理由がある」です。これは、「~すれば・・・になる」という原因と結果のパターン(因果関係)を探り出そうとする衝動でもあります。このような心の働きは、システム化と呼ばれています。知的レベルによって、同じ動きを好む傾向(常同症、こだわり)から、法則や普遍性を見いだす能力(論理的思考)までと幅広くあります。そして、話し方はとても理屈っぽくなります。共感性―気遣いする能力その一方、湯川先生は言動があまりにも風変わりで、彼の同期や研究室の学生たちから「変人ガリレオ」と呼ばれています。彼は、初対面でいきなり女性で新人の内海刑事の顔を覗き込み、まるで実験対象を見るような目つきで「知らない顔だ」とつぶやきます。人としての配慮のかけらもなく、大変に失礼です。その後も湯川先生は、毎回、内海刑事を振り回し、何度も怒らせています。そんな内海刑事は、喜怒哀楽の表情が豊かです。そして、事件当事者に感情移入しやすいです。対照的に、湯川先生はいつも無表情で無感情です。事件に協力しますが、犯行の実証性(=システム化)だけに興味があり、犯人の特定や犯人の動機には一切興味を持ちません。さらに、彼は子ども嫌いです。実際に、子どもと見つめ合ってじんましんが出るというシーンもありました。子ども嫌いの理由は、「子どもは非論理的だ」からです。そして、彼は「(非論理的であるため)人間の感情に興味はない」と断言します。確かに、人、特に子どもの感情は、微妙に揺れ動くため、法則通りにならず、簡単に予測できません。しかし、わたしたちは、その時その時の微妙な顔の表情や声のトーンから、自然に相手の気持ちを察しています。同情して、場合によってはもらい泣きをすることもあります。このように、表情やしぐさから直感的に相手の気持ちになれる心の働きは、共感性と呼ばれています。共感性は気遣いをする1つの能力とも言えます。ちょうど、先ほどのシステム化の能力や、その他の語学力(言語能力)、運動能力、絵画の能力、音楽の能力などと同じです。そして、共感性にも、高い人や低い人の個人差があることが分かります。湯川先生は共感性がとても低いようです。社会性―人とうまくやっていく能力湯川先生は、「学者は世の中の役に立ちなさい」という高圧的な女性の岸谷刑事の「説教」に対して、「僕は僕の興味の惹くものに対してのみ興味を持つ」と言い放ちます。このこだわりも、彼のシステム化の心の働きから来ています。「世の中の役に立つ」「人のために何かする」などのつながりの心理や、人とうまくやっていく能力は、社会性と呼ばれます。人が集団で生きていくためにとても必要な心の働きであり能力です。この能力は、主にシステム化の能力と共感性の能力から成り立ちます。共感性の低い湯川先生は、この社会性がとても危ういのです。しかし、彼は社会性が保たれています。その大きな理由を、2つあげてみましょう。(1)高いシステム化―低い共感性をカバーする1つ目は、高いシステム化の能力で、低い共感性をカバーしていることです。よくよく彼の言動を追うと、最低限の共感的な接し方を実践しているのです。例えば、内海刑事の「悲惨」な身の上話に同情する態度を示したり、彼女が落ち込んでいる時は、気遣いの言葉も投げかけます。事件の犯人やその動機には興味がないと言いつつも、犯人の心理をよく理解しています。厳密には、共感性は、狭い意味での共感性(=感情的要素)とシステム化の心の働きも借りた広い意味での共感性(=感情的要素+認知的要素)があります。湯川先生の共感的な接し方は、感情というよりは理屈(認知、システム化)で考えてやっていると言えます(マインドリーディング)。彼は、共感性をシステム化の心の働きでカバーしていたのです。(2)共感性のある周り―理解とサポート2つ目は、共感性のある周りの理解とサポートです。湯川先生は、栗林助手を始めとする周りの理解者に恵まれています。だからこそ彼には居場所があり、研究も思う存分にできるのです。また、彼に捜査協力をお願いする刑事たちは、彼が食い付く「ありえない」というキーワードを出して、興味を持たせようとしています。こうして、湯川先生は、物理学の研究だけでなく、警察の捜査協力までしています。彼は、自分の興味で突き進んでいる割に、結果的に、世の中の役に立ち、社会性は保たれているのです。反社会性―人を傷付けても何とも思わない湯川先生と同業のある若き研究者が登場します。なんと彼は、自分の実験のために密かに殺人を繰り返していたのです。彼は、実験のために、人を殺めても何とも思いません。とても共感性が低いことが分かります。湯川先生は、犯行のトリック解明に挑み、この若き研究者と対決します。湯川先生もこの若き研究者も、システム化が高く共感性が乏しい点では似ているのですが、決定的に違うことがあります。それは、モラルです。若き研究者が湯川先生にあきれるシーンがあります。「湯川先生がモラルに縛られるなんてがっかりですね」と。この若き研究者には、モラルが全くないのでした。モラルとは、共感性を下地にしていますが(個体因子)、その上にはやはり子どもの頃から教わる「みんなと仲良くする」「ルールを守る」という価値観から生まれるものです(環境因子)。この価値観が育まれていないと、人とうまくやっていく気がない心理から、人を傷付けても何とも思わない心理へと暴走していきます(反社会性パーソナリティ障害、サイコパス)。湯川先生は、最低限のマナーや彼なりのモラル(倫理観)を、システム化の心の働きによってよく理解し、実践しています。コミュニケーションのコツ―表1もし湯川先生が、あなたの職場で仕事をするとしたら何が起きるでしょうか?どうしたらよいでしょうか?彼のようにシステム化が高く共感性が低い人は、実際に私たちの職場にもいます。私たちは、湯川先生のキャラクターをじっくり見ることで、この気遣いがうまくできていない人へのコミュニケーションのコツを導き出すことができます。それは、大きく3つあります。(1)客観化―問題点を具体的に目に見える形にする1つ目は、問題点を具体的に目に見える形に示すことです(客観化)。共感性がお互いに高ければ、そんなに言葉にしなくても、「空気」を読んで分かり合えます。ところが、共感性が低い人には、何が問題なのかをなるべく具体的な言葉にして細かく指摘することが必要です。例えば、あなたが湯川先生に「患者さんには丁寧に接するように」と指導したとしても、「丁寧」の中身が伝わりにくいのです。この場合は、「あの時、あの場所で、あの患者に対して、あのように接したのは、こういう理由でだめです」「次からはこういう時は、こうしましょう」と言います。さらに、文字や絵・イラストにして渡すのも効果的です。仰々しいように見えるかもしれませんが、目に見える形にすること(視覚化)は、システム化の心の働きを大いに刺激します。ドラマでも、湯川先生は、閃いた時は、数式を書き出し、目に見える形にしています。視覚に訴えるのが大事なのです。(2)構造化―枠組みを作る2つ目は、枠組みを作ることです(構造化)。これは、すでに湯川先生がある程度実践していることでした。共感性の低さから、暗黙の了解や常識に気付きにくいので、システム化の心の働きを借りて、問題が起こる前にあらかじめ細かい具体的な指示を出し、パターン認識やパターン学習をさせることです。例えば、あなたが湯川先生に指示することの1つとして、目の前で患者さんが泣き出した時は、不思議がって顔を覗き込むのではなく、そっとハンカチやティッシュを渡し、見守るという行動のパターンです。これらのパターンをたくさん蓄積し、引き出しを持っていれば、ある程度のコミュニケーションはスムーズに行うことができるようになります。(3)限界設定―限界を示す3つ目は、限界を示すことです(限界設定)。湯川先生なら、高いシステム化の能力で、共感性をカバーしつつ、病棟業務を行うことができるでしょう。しかし、私たちの身近にいる気遣いができない人は、彼ほどシステム化の能力が高くないかもしれません。また、わがまま、思い上がり、ひねくれなどの性格(パーソナリティ)の問題が重なっている場合もありえます。その場合は、やるべきこと(到達目標)をはっきりさせて(客観化)、試験的な期間(1年以内)を経て、それでもうまく行かない場合はその職場には向いていないことを、本人も職場の上司も納得する形に持っていくことです。また、周りのサポートも大事ですが、どこまで助けるかの線引きもあらかじめ決めておくことです(限界設定)。もちろん、その人を職場が抱え込むことを皆が良しとするなら、それは職場組織の1つのあり方(企業文化)です。しかし、情にほだされたり、とにかく何とかしなければという義務感からの上司の個人的な抱え込みは、本人も上司もお互いを不幸にしてしまうと言えます。例客観化何が問題なのかをなるべく具体的な言葉にして細かく指摘する文字や絵・イラストにして渡す構造化パターン認識やパターン学習をさせる行動パターンの蓄積をさせる構造化試験的な期間の期限を設けるどこまで助けるかの線引きもあらかじめ決めておくジョブマッチング―何に向いている?―表2それでは、気遣いがうまくいかない人、つまりシステム化が高くて共感性が低い人に向いている職種は、具体的に何があるのでしょうか?一般職については、まさに、湯川先生が携わっている研究職(専門職)です。研究は、システム化が発揮できて、共感性はあまり求められません。また、私たちが携わっている医療職については、システム化も共感性も両方必要ですが、科によってそのバランスは変わってきます。このように、その人その人の向き不向き(適性)を見極めていく必要があります(ジョブマッチング)。システム化が強い共感性が高いモデル湯川先生男性に多い内海刑事、栗林助手女性に多い特徴こだわり(職人気質)対物的気回し(商人気質)対人的例一般職専門職(研究者、学者)、製造業、事務職サービス業(営業、接客、窓口)医療職急性疾患、救命救急、手術室慢性疾患、精神疾患、リハビリテーション性差―原始の時代は?男性はシステム化が高く共感性が低い傾向があり、女性はシステム化が低く共感性が高い傾向にあります。もちろん、男性でも共感的な人はいますし、女性でもシステム化的な人はいます。これはあくまで傾向です。この性差はなぜあるのでしょうか?答えは、進化心理学的に考えることができます。それは、原始の時代から男女で性役割がはっきりしていたことです。(1)男性―システム化―自閉症スペクトラム男性は、狩猟のための追跡や自然環境を通してパターンを見つけ出し、より多くの獲物を捕まえ、住まいを居心地良くするシステム化の能力が進化していきました。そこから、外界を支配したいという闘争的で攻撃的な心理も進化したようです。その分、共感性は女性ほど進化しませんでした。さらに、システム化が高く共感性が低いこの遺伝子が、日常生活で支障を来たすほどに際立って発現する場合があります。それが、自閉症スペクトラム障害(広汎性発達障害)です。最近の研究では、胎児期の男性ホルモン(テストステロン)の過剰分泌が、原因として指摘されています。湯川先生は、大学准教授として、社会生活をむしろ華麗に送っています。医療機関にかかるような障害のレベルには至っていませんが、「障害」が付かない「自閉症スペクトラム」に入っている可能性は高いです。(2)女性―共感性―共依存、情緒不安定一方、女性は家にいて、子育てや近所付き合いなどを通して、人間関係をスムーズにする共感性の能力が進化しました。そこから、母性、感受性も進化したようです。その分、システム化は男性ほど進化しませんでした。さらに、システム化が低く共感性が高いこの遺伝子が、日常生活で支障を来たすほどに際立って発現する場合があります。特に、幼少期の家族関係が不安定であったなど、偏った生い立ちによる刺激(環境因子)が加わった場合です。女の子の方が男の子よりも、人間関係の不安定さにより敏感なため、より研ぎ澄まされていきます。それが共依存や情緒不安定などの性格(パーソナリティ)の問題です。共感とは、相手の気持ちになることですが、そこからすぐに相手の言うことに揺さ振られ感化されてしまったり(同調、感応)、感情的に流されやすくなったり(依存)、自分のことのように一生懸命になって心理的な距離が保てなくなったりするなど(共依存)、抱え込みや巻き込みの問題をはらんでいます。また、感受性の豊かさは、裏を返せば、情緒の不安定さでもあります(情緒不安定)。よって、高すぎる共感性も、システム化である程度カバーする必要があります。例えば、「これ以上はやりすぎ」「これ以上は近付きすぎ」という限界設定です。「水を得た魚」―その「水」とは?もちろん、みなさんは、システム化も共感性も両方とも高ければ良いと思うでしょう。しかし、どうやら人間の脳はそう簡単に欲張ることをさせてくれないようです。それは、人間の頭がい骨の大きさによって、脳の容量の限界がすでに決まっているからです。そして、そのために人間の能力自体にもトータルでは限界があるからです。人間の個性は様々です。まれに勉強もスポーツも両方とも際立って優れている人もいますが、たいていはどちらかが得意でどちらかが苦手なものです。これと同じように、システム化が高い人は共感性が低く(マインド・ブラインド)、共感性が高い人はシステム化が低いようです(システム・ブラインド)。能力を足したら一定なわけですから、あとは一方が高ければもう一方が低くなるという理屈です(ゼロサム説)。ドラマに登場する栗林助手は、共感性が高いためかシステム化はさっぱりのようで、研究者としてのうだつが上がらないようです。システム化と共感性のバランスがとれている人は、管理職などの集団のリーダーに向いているでしょう。部下たちの心を読みつつ(=共感性)、こうあるべきというビジョン(=システム化)を示し、帳尻を合わせるバランス感覚が必要だからです。そして、まれにシステム化と共感性が両方とも高い人がいます。そのような人は人の話をよく聞きそして話がうまいので、きっとカリスマ性のあるリーダーになるでしょう。大事なのは、本人が自分の良さ(適性)、つまりシステム化や共感性の能力がどれくらいあるのかを知り、自分の能力をなるべく発揮できる職種、つまり「水を得た魚」のその「水」を見つけることです。そして、周りはその見極めや方向付けをしてあげることであると言えるのではないでしょうか。1)サイモン・バロン=コーエン:共感する女脳、システム化する男脳、NHK出版、20052)北村英哉・大坪康介:進化と感情から解き明かす社会心理学、有斐閣アルマ、2012

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グッドウィルハンティング【反応性愛着障害】

ヒューマンドラマこの映画は、まさに心揺さぶるヒューマンドラマです。信頼できる人生の指導者を見出せずにさ迷っている若者と、信頼していた人生のパートナーである妻を失い絶望しているセラピストが巡り合い、反発しながらも触れ合い、化学反応を起こします。そして、お互いの癒されなかった心が開かれ、それぞれが新しい人生の旅路へ足を踏み出すのです。素行障害主人公のウィル・ハンティングはボストンの下町育ちの20歳です。気の置けない3人の幼なじみたちに囲まれて暮らし、建設作業や清掃などの仕事をともにしています。彼の仲間が唯一の家族で、小さな世界ですが、その世界を抜け出す必要を感じてはいないようです。しかし、別のグループとのケンカにより、彼の心の中に潜んでいた攻撃性が露わになります。逮捕後の裁判のシーンでは、傷害、窃盗など数々の非行を繰り返す生い立ちが明かされます。実際に、彼は仲間以外に対してはとても口汚く、素行にはかなり難がありました。未成年でこのような反社会的な行動パターンを繰り返す場合は、素行障害と呼ばれ、いわゆる「不良」「暴走族」などが当てはまります。そして、成人後にも同じような犯罪行為を繰り返せば、反社会性パーソナリティ障害に診断変更されます。後半でセラピストのショーンが案じるような爆弾テロリストもこの診断に含まれます。高知能ウィルはブルーワーカーでありながら図書館で教科書を借りて独学で数学の勉強を熱心にしていました。そして、あえて大学の清掃員になり、廊下に提示された数学の難問を夜な夜なこそこそと解きます。また、裁判では弁護士抜きで巧みな理論武装で自分の弁護をしています。実は、彼には高い知能と才能があったのです。その才能を見出していた大学教授のランボーの計らいにより、ウィルは条件付きで刑務所行きを免れます。その条件とは、ランボーの下で数学の問題を解くこととセラピーを受けることでした。ウィルは、渋々セラピーを受けさせられるわけですが、全く素直ではありません。事前にセラピストの著書を読破して、セラピー中に逆にセラピストの本性を暴いたり、悪ふざけをしたりするため、次々とセラピーたちは手を引いていきます。特に6人目のセラピストのショーンとの出会いは最悪でした。逆上したショーンは、ウィルの首をつかんでしまいます。一般的には、この時点でセラピーは続行不能ですが、ショーンは違っていました。あえて、セラピーを引き受けたのです。見捨てられ不安ショーンはウィルの心の闇に気付きます。そして、率直に指摘します。「今の君は生意気な怯えた若者」「自分の話をするのが恐いんだろ」と。彼は一見傲慢で突っ張っているように見えますが、実は心の奥底では怖くて不安で、だからこそ強がって相手を攻撃することで自分を必死に守っていたのでした。強がりは恐れの裏返しなのでした。セラピーを重ねることで徐々に心を許し始めたウィルは、新しい恋人がいかに素晴らしいかをショーンに誇らしげに語りますが、次に会うのをためらっていることを打ち明けます。その訳は、「今のままの彼女は完璧」で次に会うとそのイメージを壊してしまうかもしれないからだと。すると、ショーンは問います。「君も彼女にとって完璧な自分を壊したくないのでは?」「スーパー哲学だ」と。ショーンは見抜いていたのでした。ウィルが人間関係を深めようとしないのは、実は自分に自信がなく、本当の自分のことを知られるともう受け入れてもらえず、捨てられてしまうのではないかという不安の表れであることを。これは、見捨てられ不安と呼ばれます。ウィルは、隠れて数学の問題を解いていたのも、大人たちに悪態を突いていたのも、恋人にその後に連絡をとろうとしないのも全て、見捨てられるかもしれないという不安から、先に「見捨てる」という行動パターンをとっていたのです。反応性愛着障害ショーンに自分の本心を気付かされたウィルは、恋人のスカイラーにウソの家族の話をしながらも、関係を深めようとして、その2人の距離は徐々に縮まっていきます。裕福で恵まれた環境で医者になろうとするハーバード大生のスカイラーと孤児で貧乏な下町育ちのブルーカラーのウィルは、育ちも生活水準も際立った違いがありとても対照的ですが、お互いの魅力に惹かれていきます。しかし、スカイラーが医学校に進学するためにカリフォルニアに共に引っ越すことをウィルに誘ったところで、2人の関係は山場を迎えます。ウィルは答えます。「もしその後におれのことが嫌いになったら?」と。彼の見捨てられ不安が極度に高まり、彼は立ち去ってしまいます。なぜウィルは自分に自信がなく、見捨てられ不安が強いのでしょうか?その理由は、彼の暗い生い立ちにありました。実は、彼は孤児で里親をたらい回しにされた揚句、継父から虐待を受けていたのでした。心に傷を負い、その癒えない傷から親への愛着は芽生えません。愛着がなければ情緒的な交流が乏しくなり、やがては他人への恐れや警戒心が強まり、親密になればなるほど自分が傷付くことを極端に恐れ、見捨てられ不安が募っていきます。愛着とは、幼少期に親からの無条件な愛情により育まれ、何があっても絶対に親に守ってもらえるという「安全基地」が出来上がることで、そこを心のよりどころに親を含む家族から他人への信頼感や外界への積極性に広がっていくものです。この信頼感や積極性はエリクソンが唱える乳幼児期の発達課題です。反応性愛着障害は小児期に診断されるもので、他人との情緒的な交流に問題を認めることを成人後も繰り返すなら、情緒不安定性パーソナリティ障害に診断変更されます。相手に対する不信や見捨てられ不安が強いため、信頼関係が築けず、人間関係が深まらない問題を抱えます。受容ショーンは、その他の権威的で格式ばったセラピストとは対照的でした。自分の過去をざっくばらんに語る明け透けさ、散らかった部屋などありのままの飾らなさ、沈黙が続く時に居眠りをする無邪気さがウィルの警戒心を解き、心を許していったようです。ウィルは自分のことを話すとなると言葉が見つからないことをショーンから指摘されます。「君自身の話なら喜んで聞こう」「君って人間に興味がある」「答えを知ってても君には教えない」「答えは自分で探すんだ」と。実は、ウィルは相手に対してだけでなく、自分自身に対しても、自分のことをさらけ出すのに臆病になっていたのです。その後、スカイラーを振ってしまったことで荒れて、刹那的になっているウィルにショーンは静かに核心をつきます。「自分が孤独だと思う?」「心の友(ソウルメイト)はいないか?」と。もちろんウィルには気の置けない仲間たちがいますが、自分が本気で何かに打ち込むために刺激してくれる友としては、物足りなかったのでした。その後、セラピーは行き詰まります。そのことで、ランボーがショーンのところに怒鳴り込み、大口論となります。しかし、その場面にたまたま、ウィルが遭遇したことで、これが突破口となります。実は2人は20年来のライバルで大きなわだかまりがありました。その思いの丈をついにお互いが吐き出した直後でした。まずは関係者の2人が本音をぶつけ自分をさらけ出したのでした。ランボーは数学のノーベル賞とも呼ばれるフィールズ賞を過去に受賞した栄光にすがって俗物的な生き方をする一方、ショーンは最愛の妻を失ったことで影のある生き方をしており、とても対照的です。その後のセラピーで、ショーンは自身もかつて虐待を受けた当事者であったことを明かし、ウィルに心の底から共感し、何度も語りかけ優しく抱きしめます。「君のせいじゃない、君のせいじゃないんだよ」と。セラピーのクライマックスです。ショーンがウィルの存在を丸ごと受け止めたことで、ショーンがウィルにとっての安全基地であり、ソウルメイトとなり、それまでの「自分は無力でダメな存在だ」という自己嫌悪や罪悪感から解放され、心の傷が癒されていったのです。アイデンティティの確立ウィルは仕事中に、一番の親友チャッキーから言われます。「お前は宝くじの当たり券を持っている」「皆その券が欲しい」「でもおまえはその宝くじを換金する度胸がないだけ」「それをムダにするなんておれはお前を許せない」と。一番の親友だからこそ、ウィルの幸せを考えて言えるセリフでした。ウィルは、仲間と働きながら暮らす素朴な日常の世界から、才能によって手に入れられる新しい世界へ踏み入れるのに尻込みしている自分に気付かされます。そして、自分の才能を行かせる会社の就職面接を真面目に受け、自分の社会での役割をようやく見出そうとしています。これは、エリクソンが唱える青年期の発達課題であるアイデンティティの確立です。自分が自分を受け入れ、自分とは社会の中でこういう人間であると納得することです。ウィルの仲間も薄々気付いていました。そして、ウィルの21歳の誕生日にオンボロの車をプレゼントします。それは、スカイラーを追ってカリフォルニアへ行き、新しい自分の未来を拓けとの暗黙のメッセージのようです。死別反応セラピーでショーンが亡くなった妻のことについて語った言葉が印象的です。「僕だけが知っている癖・・・それが愛おしかった」「愛していれば恥ずかしさなど吹っ飛ぶ」と。人は全く完璧ではないことを知り、むしろ不完全なところも含めてその人の全てを受け入れられるか、その人を特別な人であると感じることができるかということです。自分にとって特別な誰かであり、そして、誰かにとって自分が特別であるということです。それは、自分が自分自身と真正面から向き合い、そして、相手とも真正面から向き合って初めて育まれるものです。そして、その固い絆により、その相手こそがソウルメイトとなります。しかし、ショーンはそのソウルメイトを失っていたのでした。そして、その喪失感を2年間引きずり、生きる張り合いを見出せていません。亡き妻への思いから抜け出せなくなっていました。大事な人の死別による反応、つまり死別反応は誰でも起こりうる正常な反応ですが、それが長引いています。ウィルは、ショーンに切り返します。「自分はどうなんだ」「(今は)心を開ける相手なんているか」「いつか再婚をしないのか?」「燃え尽きてる」「人生を降りたのでは?」「これこそスーパー哲学だ」と。ウィルの言葉により、ショーンは過去に囚われ、行き詰っている自分に気付かされたのです。ウィルのアイデンティティの危機を心配する一方、自らの危機も自覚します。シネマセラピー最後の別れでウィルはショーンに心の底から言います。「これからも連絡をとりたい」と。ウィルにとってのソウルメイトがショーンであることをお互いに確信した瞬間でした。そして、ウィルは、恋人のスカイラーというもう一人のソウルメイトのいるカリフォルニアへ車を走らせるのです。ラストシーンの真っ直ぐに伸びる道路は、これからウィルが切り拓いていく澄み切った未来を象徴しているようでした。見ている私たちは、ウィルが人間不信から回復する姿を目の当たりにして、ウィルと同じ心地良さを追体験することができます。巡り逢いにより癒されなかった孤独が未来を切り開く活力に変わっていく様が生き生きとそして爽やかに描かれています。ショーンはウィルを見事に癒すことができました。そして、実は同時に、ショーンはウィルによって癒され、救われたのでした。亡き妻への失意を乗り越え、世界を旅する決意を固めます。なぜなら、ショーンはウィルのソウルメイトとなったことで、自分の役割を再確認し、前に進む勇気をもらったのです。自分が誰かのために特別であることは勇気や活力を与えることを私たちに教えてくれます。私たちも、ウィルやショーンと同じように人生を旅しています。人間関係に行き詰りを感じる時こそ、私たちはこの映画を見ることで、ウィルやショーンの生き様に刺激を受け、ソウルメイトという絆の大切さを再確認して、さらに人生の奥深い旅を続けていくことができるのではないでしょうか?

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私は「うつ依存症」の女【情緒不安定性パーソナリティ障害

毎日がメロドラマこの映画は、もともと原作者の自伝的小説を映画化したもので、実話に基づいているだけに、主人公とその母親の暴力的なまでの心の揺れが生々しく痛々しく描かれており、見ている私たちはその迫真の演技に引き込まれていきます。主人公にとってはまさに毎日がメロドラマであり生きるか死ぬかの極限にいるのです。そんな主人公が思春期を生き抜いた80年代をこの映画は忠実に再現しており、バックに流れる当時流行したメロディも感傷的です。主人公の心の揺れは、情緒不安定性パーソナリティ障害によるもので、この映画はその特徴やメカニズムを忠実に分かりやすく描いています。今回は、この映画を通して、この障害の理解をみなさんといっしょに深めていきたいと思います。逸脱行動―自分を大切にできない主人公のリジーは、2歳の時に両親が離婚してから、その後は母親と2人で暮らしていました。教育熱心な母親は、子育てを一生懸命にやり抜き、そして、晴れてリジーを念願であったハーバード大に入学させることに成功しました。そして、リジーに言います。「あなたは自慢の娘よ」と。まさに理想の娘、優等生の良い子です。リジーも不安な面持ちを見せながらもまんざらでもない様子です。入学後、大学の授業に真面目に参加して、学生寮のルームメイトと親友になり、彼氏もできて、パーティではしゃぎ、そして音楽雑誌のジャーナリズム大賞を受賞するなど華やかで輝きのある有望な学生生活を送り、全てがうまく行っているかに見えました。しかし、彼女にはどこかしら陰がありました。実は、すでに歯車は狂い始めていたのでした。4年ぶりに突然父親が訪問にやってきて心が乱れたのをきっかけに、恋人と初めて夜を共にしたことをネタにパーティを開き、遊び半分のはずだったドラッグを眠気覚ましに乱用し、人の話を聞き入れず徹夜を続けて生活が乱れ、自分の誕生日会では母親や祖父母に悪態を付くなど逸脱行動が目立つようになります。さらには、かつてのパーティで酔った勢いで親友の彼氏を誘惑して関係を持っていたのでした。これは性的逸脱です。そして、悪びれもせず開き直ってしまいます。まるでもともと彼女の中に潜んでいた「悪魔」が目覚め始めたようです。自分が自分であるという一体感が揺らぎ、自分を大切にできなくなっています。情緒不安定―繊細なあまりに傷付きやすい心自分の誕生日会を自分自身でメチャクチャにした翌日のリジーの様子が強烈です。母親との口論の末、「私が悪かったわ」「私を愛してくれる家族を傷付けたわ」と涙を流して母親に抱きついたと思ったら、次の瞬間、「何が誕生日会よ」「あんたのペットじゃないわ!」と泣き叫びます。そして、その数秒後にはまた「私ったら何てひどいことを・・・。ごめんなさい、許して」と漏らし、また母親に抱き付く始末です。甘えと反抗が入り乱れています。もはや母親は、あまりにも精神的に不安定な娘に呆れて戸惑うばかりです。このように、愛情、憎しみなどの感情が、些細なことで両極端に大きく揺れてしまう症状を情緒不安定と言います。「ペット」が引き合いに出されたのは、母親が「結婚後に妊娠するまで退屈で話し相手が欲しくて猿を飼っていたわ」と言っていたのを思い出し、自分がその猿と重なったからでしょう。真反対の感情がほとんど同時に湧き起こっているので、アンビバレンス(両価性)とも言えます。情緒不安定はもろく傷付きやすいことですが、裏を返せば、繊細で感性が鋭いことでもあります。ストーリーのところどころで紹介される彼女の繊細な文章表現には納得がいきます。空虚感―見捨てられ不安―愛が重すぎるリジーは通い始めたセラピストに言います。「普通の人は傷付いても自分で治っていくものだけど、私は血が出たまま」「治ればいいの」「人生は先に進むしかないもの」と。人生を歩むことに対して冷めていて、満たされない空しさがにじみ出ている特徴的なセリフです。彼女を支配しているのは、この空虚感でした。これを「憂うつが徐々にそして突然にやって来た」と受け止めています。そんな空虚感で落ち込んでいるリジーは、「レーフが救いの神に選ばれたのだ」と思い立ちます。かつてパーティでハメを外して男子トイレで出会ったレーフの登場です。レーフは会場の分からない演奏会に誘ってしまったのはまず君に会いたかったからだと素直に打ち明けるなど誠実味があります。どう見られるか表面的なことばかり気にするリジーとは対照的です。リジーが例えるようにまさに救世主で、新しい恋人となります。しかし、情緒の揺れは止まりません。レーフとデートで踊りに行っても、ほんの少しの間、レーフが別の女性とカウンターでおしゃべりをしただけで、カッとなりその場を衝動的に立ち去ってしまいます。情緒不安定によりとても傷付きやすく、見捨てられたと思い込み、悲しみや怒りが抑えられないのでした。レーフが実家に帰っている時に、電話がつながらないことに不安を募らせ、ひっきりなしに10回も電話して、挙句の果てに遠方のその実家まで飛行機で乗り込んだのでした。見捨てられまいとして、付きまとい、すがり付くなどのなりふり構わない行動をとり、結果的に相手の自由を束縛してしまうのです。この心理は、「電話魔」「メール魔」「ストーカー」などの現代の社会問題に通じるものがあります。良く言えば愛が深いのかもしれませんが、やはり愛が重いです。そして、相手はその重さに耐えられなくなってしまうのです。スプリッティング(分裂)―生きるか死ぬかリジーは親友にレーフのことを自慢します。「真の愛とは生きるか死ぬか壮絶なものよ」「あなたのは体だけでしょ」 と。その言葉に親友は怒りを通り越して呆れてしまいます。さらには、「最愛の人をあまりにも愛しているために、その人を殺してその灰を食べるということに共感できる」「それが相手を完全に所有する唯一の方法だから」と心の中で悟ります。リジーのものごとのとらえ方がとても極端で、偏って、歪んでいることが分かります。認知の歪みです。これは、空虚感や見捨てられ不安により、彼女は常に全か無か(all or nothing)、二者択一の究極の選択肢しか持ち合わせていないからでした。白黒思考、二分思考とも言います。そして、両極端の感情である心地良さと不快さのバランスがうまく保てない心理状態に陥っています。これはスプリッティング(分裂)と呼ばれます。このスプリッティングにより、「良い人か悪い人か 」「敵か味方か」という発想に行き着き、その気持ちが些細なことでコロコロと移ろいやすいのです。これが、理想化とこき下ろし(幻滅)です。リジーのセラピストに対するとらえ方が分かりやすいのです。最初は「この人に任せてもだめだ」と幻滅して、その後、レーフとうまく行っている時には理想化し頼りにしており、レーフと別れたら「期待したのに辛いだけじゃないか」と怒鳴り込んで幻滅しています。セラピストだけでなく、母親、恋人、親友などとの対人距離も、ちょっとしたことで好きになりべったりとくっ付き、その後にちょっとしたことで嫌いになり暴言を吐き離れてしまい、とても不安定です。さらには、ものごとへの取り組みも不安定で、幸せの絶頂でこれが永遠のものではないと悟ることで不安に襲われ、取り乱して目標が実現する直前で全てを台無しにする特徴もあります。自傷行為―自らを傷付ける行いリジーは、薬を飲み続けるかどうかセラピストと相談していた時、セラピストに言われたある一言で、とっさにその場を立ち去り、トイレに行き、グラスを割り、リストカットをしようとします。その一言とは、「薬を飲み続けることを私は勧めるけど、決めるのはあなたよ」です。一見、何でもないような一言ですが、リジーの受け止め方は違っていました。この時にリジーは、セラピストを理想化し全てを委ねており、セラピストに決めてもらいたかったのです。ところが、「自分が決めなければならない」「突き放された(見捨てられた)」と極端に受け止めたのです。さらに、リジーはリストカットすることで「死にたいほど辛いという気持ちを分かってほしい「助けてほしい」という無意識のメッセージであり、アピールの心理もあったのです。時々、リジーはふと幼少期を回想します。実は、リストカットのような自傷行為が始まったのは、リジーがまだ小学生の時でした。カミソリの刃で自分の足を切り付けるようになります。当時より「自分は何てだめなんだ」という自己否定感が高まり、「自分を痛め付けて罰したい」という自罰性が現れていました。逸脱行動の先駆けとも言えます。また、同時に空虚感もくすぶり始め、「その空しさを紛らわしたい」「生きている実感を味わいたい」「新しい自分になりたい という気持ちから、気分をリセットするための憂さ晴らしとして依存的に繰り返すようになります。このように、自傷行為には、アピール性、自罰性、依存性の3つの側面があります。傷付きやすい自分を自ら傷付け、そして逸脱行動により周りの人をも傷付けていってしまうのです。情緒不安定性パーソナリティ障害このように、自己否定感、空虚感から見捨てられ不安などの情緒不安定が煽られ、認知の歪み、スプリッティング、理想化とこき下ろしが現れ、自己破壊的な逸脱行動が繰り返され、その果てに自傷行為により他人を巻き込むようになり、もはやその人の性格や生き様などのパーソナリティ(人格)として根付いてしまっているので、情緒不安定性パーソナリティ障害の診断と診断されます。境界性(ボーダー)パーソナリティ障害とも呼ばれます。そして、対人トラブルを引き起こし、二次的にうつの状態に陥っていると言えます。特に、人間関係の幅や深みが広がり複雑になる思春期に症状が目立って現れるようになります。現代の情緒不安定性パーソナリティ障害の特徴的な行動パターンは、用意周到で本気の自殺行為よりも、衝動的で助かる見込みのある自傷行為が圧倒的です。例えば、動脈に達しないリストカット(いわゆる「ためらい傷」)、致死量に達しない過量服薬、3階までの低層からの飛び降りなどです。そもそもギリギリ助かることが本人によって無意識にも想定されています。さらに、アピール性がエスカレートした場合は、別れを切り出した恋人に対して「別れるなら死ぬよ」という脅し文句に使われることもあります。いわゆるお騒がせな「狂言自殺」です。これは操作性と呼ばれています。父性不在―無責任な父親それでは、なぜリジーは情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまったのでしょうか?その答えに辿り着くためには、幼い頃からのリジーの家庭環境に目を向ける必要があります。まず、もともと父親は、離婚後に気まぐれに突然現れるのみで、口先では「一番愛している」と調子の良いことを言うだけです。リジーに医療費の支払いをしていない事実を問い詰められた時は、逆切れして、全然連絡をくれなくなったからだと話をすり替え、挙句の果てに支払いは母親の責任だと言い張り、無責任な態度で開き直ります。父性不在です。母性過剰―支配的な母親次に、母親を見てみましょう。入学日の当日、独りで引っ越し荷物を運べると言うリジーを頭ごなしに否定したり、娘が書いた記事の受賞や経歴をあたかも自分の手柄のように吹聴する母親の様子は、私たちに何か嫌悪感を抱かせます。良く言えば、子煩悩で面倒見がいいように見えますが、悪く言えば、娘の考えに耳を傾けず、一方的に自分の考えを押し付けるばかりで、過保護で過干渉です。大学生になり、自活しようとする娘を完全に子ども扱いしています。また、冒頭のシーンで、母親は、リジーの自室にノックもせずに入ってきて、しかも娘が全裸であるのにも気にも留めず、部屋の中をウロウロ歩き回り、一方的に「カーペットも持っていこう」と言い出しています。一方、リジーも特に恥ずかしがることはありません。この2人の様子にはかなりの違和感があります。まるで、飼い主とペットのような振る舞いにさえ見えてきます。張り切り過ぎている母親にリジーがうんざりして、「別に作家になるのにハーバードに行かなくても」と漏らすと、母親は過剰に反応して、「何言っての?」「私が今日という日をどんなに待ち望んだことか」「ハーバードに行かなければ誰もあなたのことなんか気にも留めないわよ」と。「誰も」というのは「母親である私は」というニュアンスが暗に込められているのが明らかです。愛情を注ぐことに条件を付けています。入学後しばらくして、母親は、変わり果てたリジーを見て、苛立ち、甲高く小言を言い続けて、ついには激怒します。「何このありさま!? 「こんなことに付き合っていられないわ」と。そこには、慰め、いたわりなど共感する包容力は一切ないのでした。逆に、リジーが音信不通になったことで母親は心配していましたが、その後、娘が元気で恋人とうまく行っていると分かると素直に喜べません。娘が自分から離れていってしまうような感覚にとらわれて、泣き崩れています。これは、母性過剰と言えます。機能不全家族―家族の力が働かないリジーは過去を振り返ります。「父がいなくなり全く関わりがない分、母が執拗に関わってきた」と。父親が不在の場合、相対的に母性が過剰になり、そして、必然的に母子の密着が高まります。一人っ子であればなおさらです。さらに、男性より女性の方が共感性が強い分、母親-娘という女性同士の組み合わせが一番です。「母が母自身の男友達についてリジーに相談をしなかったのは父だけだった」という事実は強烈です。つまり、母親は自分の男友達を全てリジーに開けっぴろげにしていたのです。リジーは心の中で母親の本心を言い当てています。「自分の失敗を娘で償おうとした」と。母親は、リジーの将来に強すぎる期待を寄せる余り、要求水準が高くなっていたのでした。言い換えれば、母親による娘の支配です。過剰な期待は、愛情に条件を付けることで、支配にすり替わっていたのです。娘を一人の「個人」「大人」と見なすことができなくなっていました。「心配なの」「愛しているの」という言葉のもとに、先回りして過干渉を続け、自分の延長の存在ととらえています。娘は、自分の思い通りになる所有物であり、自分の生き直しの存在であり、自分の分身でした。もはや虐待にさえ見えてきます。実は、これこそがまさに落とし穴だったのです。良かれと思い母親が必死にやってきたことが、実は大きく裏目に出てしまっています。子どもの成長において、「自分は掛け値なく大事にされている」「無条件に愛されている」という実感があれば、自然に自己肯定感や基本的信頼感が芽生えていくものです。ところが、父親は自分を守ってくれないという父性不在、母親は条件付きの愛情しか注がないという母性過剰による愛情の歪みから、自己否定感、不信感、空虚感が煽られていき、後々に情緒不安定などの性格や歪んだ認知の問題、つまりパーソナリティ障害になっていく可能性が高いです。現代の日本の「お受験ママ」「ステージママ が子どもを追い込んでいく姿はリジーの母親に重なり、危うさを感じます。また、単身赴任の多い日本の父親は、子どもと触れ合う時間が少なく、大事な場面でいない点で、リジーの父親に重なって見えてどきっとします。勉強、スポーツ、芸能における子どもへのスパルタ式のかかわり方は、無条件の愛情という家族の固い絆が前提にあってこそ成り立つのです。アダルトチルドレン―もの分かりの良すぎる大人びた子リジーは初潮の時に母親に告げられた言葉を思い出します。「これであなたも終わり」「面倒の始まりよ」と。また、母親は「結婚は人生の墓場よ」とも言っています。娘の成長に対してとても否定的で、そこからリジーの自己否定感が募っていきます。また、幼い頃から両親が大声で罵倒し合い、いがみ合う様子を目の当たりにしてきました。両親がお互いの悪口を言い合い、そしてそのウソを見抜いてきました。信じている2人からそれぞれ矛盾したことを言われて二重に縛られること、ダブルバインドです。そんな息詰まる家庭環境でリジーは、生き残るために順応しました。そして、「ママが戻って欲しいって言ってるよ」と父親に言うなどそれぞれの両親に対して間を取り持とうとウソをついてきました。リジーはもともと物分かりが良かったのです。親に気を使い、無理に自分の気持ちを抑え込んで、良い子を演じて生きてきました。「大人びた子ども」、つまりアダルトチルドレンです。しかし、そこには子どもの発達に必要な自己肯定感、自尊心は育まれません。そしてやがてはリミッターを振り切り自分の気持ちをコントロールできなくなり、情緒は不安定になっていき、そして、ついに思春期に爆発したのでした。世代間連鎖―受け継がれる家族文化それでは、なぜ母親はこうなってしまったのでしょうか?その鍵は、実は母親と祖父母との関係性にありました。母親は祖父母が訪ねてくる前にタバコを吸っていたことがばれないように灰皿を片付けたり、リジーの悪態を必死で取り繕おうとあえて涼しい顔を装っている場面を見てみましょう。母親は祖父母に対してまさに「良い娘」、子育てを立派に成し遂げた「良い母親」を演じようとしています。一方、祖母は、リジーの態度の悪い様子に取り乱し、いい年して大人げないというか「年寄りげ」ないです。そして、祖父は呆然としているばかりで存在感がないです。その後、母親が不幸にも強盗に遭い大けがをしたことについて、祖母はリジーの目の前で「こうなったのはリジーに原因がある」と犯人探しを始めます。その時も祖父は戸惑った表情で無言のままです。リジーがかつて母親の前で良い子を演じていたように、実は母親も祖母の前で良い子を演じているのです。母親は祖母に対して腹を割って話す、本音で話すということができないため、ありのままの自分をさらけ出せず、心が通じ合っていません。体裁ばかり気にして中身のない薄っぺらな家族像が透けて見えます。母性過剰により愛情が歪んでいます。そして、祖父も父親も存在感が薄い点で、父性不在も一致しています。もしかしたら、父性不在と母性過剰で育った娘は、選ぶ夫は父親に似て存在感のない弱い男か、または強い男でも自分の方が母親のようにより強くありたいために結果的に離婚して、その子どもにとって父親の存在感をなくしてしまっているのではないかと思います。リジーの家系は、父性不在、母性過剰の典型的な機能不全が家族文化として受け継がれ、世代間連鎖していることが伺えます。つまり、祖先を遡れば、祖母も曽祖母から母性過剰による歪んだ愛情の洗礼を受けたのかもしれません。逆に、子孫を辿れば、リジーが子育てをする状況になった時は、同じような悲劇が繰り返される可能性も潜んでいるということです。もともと日本は、単一民族で集団主義的であるため、見た目や考え方が似通っており、均一な名残があります。それだけに、人柄や能力などの中身よりも、家柄、学歴、所属、年齢などの外面的な体裁を重視し、差別化を図る傾向にあります。そのため、リジーのような家族の中での取り繕い、絡み合いが、日本では生まれやすいと言えます。共依存―頼られる喜びなぜレーフは、リジーを好きになってしまったのでしょうか?もちろん、もともとタイプであったり、リジーのエキセントリックな行動が人とは違うということで魅力を感じたということはあります。しかし、それ以上にレーフを突き動かしたものがありました。実際のレーフのリジーへの関わりを見ながら探っていきましょう。まず、カフェでのデートの場面。レーフがリジーに紅茶を入れてあげるだけでもちょっと世話焼きですが、その入れ方を間違えてリジーの紅茶が飲めなくなった時、リジーがもう要らないという言葉に反して、レーフはお節介にも注文してしまいます。その後、何の根拠もなくリジーに「浮気したくせに」と言いがかりを付けられ、テーブルの食器をひっくり返されたのに、レーフは立ち去り走り続けるリジーをけなげに追い、謝り倒します。レーフは、寛容で包容力がありますが、裏を返せば世話焼きでお節介なあまりに自分を押し殺してしまっています。そんなレーフはリジーの母親と重なり、リジーは親近感を抱くと同時に苛立ってもいます。リジーがレーフの実家に乗り込んだ時、レーフの世話焼きキャラの由来が明らかになります。それは、レーフの妹が知的障害で、大声を上げたり、暴れたりするのを献身的にあやしているのでした。リジーはその妹と自分が重なって見えてしまい、ショックを受け、レーフに暴言を吐きます。「こういうのが趣味?」「快感なんでしょ」「人の不幸を楽しんでいる」と。それは、レーフにとってもショックであったかもしれません。それは、ある意味では言い当てられているからです。実際、リジーのような情緒不安定な女性は、レーフのような共依存的な男性と惹き合う傾向があります。やはり、世話焼きな男性としては、不安定な女性を放って置けず、助ける喜び、頼られる喜びで心を満たすからでしょう。認知行動療法―ものごとのとらえ方の練習リジーは「誕生日会は私のためではなく、母親が祖母から褒めてもらうためにやっていただけなんだ」とセラピストに答えます。確かにそういう理由があったとしても、精神的に健康的な人なら、「もちろん自分のためにもやってくれた」「家族が集まるきっかけとしても大切だった」という様々な理由も思い浮かぶはずです。ところが、リジーは思い込んだらその1つの極端で歪んだ認知に飛び付いてしまうのでした。セラピストは、決め付けることは一切せず、共感しながら誘導的な質問をし続けて、その認知の歪みを気付かせ、解きほぐしていきます。ものごとには様々な認知があり、バランス良くその認知を再構築していくトレーニングをします。これが認知行動療法です。そこから、ものごとにはグレーゾーンがあり、例えば相手を安易に信じるわけでもなく、無暗に疑うわけでもなく、二者択一ではないバランスをとる思考のトレーニングを繰り返しやっていきます。認知行動療法は、ある意味、ピアノのレッスンのような習い事であり、理性的に頭で理解すると同時に、様々な認知パターンを感覚的に刷り込んでいく作業が必要でもあり、労力を伴います。例えば、同じように誰かのために仕事をしたとしても、「いいように使われた」と思うか、「お仕えすることができた」と思うかは認知の大きな違いです。チャリティ精神のように、人の幸せを自分の幸せと感じることができるか、または「人の不幸は蜜の味」ということわざが示すように、人の不幸を自分の幸せと感じるかは、個人差があり、これが認知の違いでもあります。リジーは最終的に自叙伝を書き上げ、しかも映画化され、今回私たちがそのDVDを見ているわけですが、実は、自叙伝、日記など自分のことを書くという行為は自己表現であり、自分自身を客観的に見つめ直す作業です。客観的な視点を持つことで、冷静になり、様々な認知をとらえ直す格好のチャンスになりえます。まさに自分のことを書く作業は「自己認知行動療法」と言えます。家族療法―家族内のシステムへの働きかけ母親が強盗に遭い、大けがを負い、自宅で介護が必要になったことで、リジーの精神状態は一時的に落ち着いてしまいます。その理由は、母親が身体的にも精神的にもリジーに干渉できなくて、心理的な距離ができたからでした。そして、母親はついに気付き、リジーに告げます。「あなたは私の全て」「それがあなたを苦しめたのね」「私のために何かになる必要はないわ」「私のためにいい子になることもない」と。リジーは「そう、私には負担だった」と答えます。お互いが問題点を確認した瞬間です。もともと母親自身、心は満たされていませんでした。その満たされない心を娘に目をかけることで満たそうとしていたことを悟ったのでした。そして、母親が変わったことで、リジーも自分が納得する自分らしい生き方に目覚めようとしています。親は、仕事や趣味などを通して子育て以外の生きがいも見つけて、子育てだけを生きがいとしないようにすること、そして、その仕事、趣味を通して自分の子ども以外との人間関係を深めて、子どもだけとの人間関係、つまりは密着しないことを心掛けることです。そして、同時に「どんなことがあってもお前を守る」「そのままのお前を愛している」といいう無条件の愛情を子どもに注ぐことが大切です。ストーリーの中では、セラピストはあまり家族へ働きかけているようには描かれていませんが、実際はリジーが小学生の段階で特に母親に早期介入する必要がありました。情緒不安定になってしまった最大の原因が、家族内のシステムの問題であったわけですので、本来はセラピストが家族を呼んでいっしょに面接をして、家族の関係性を改善していくことが望ましいです。これが家族療法です。また、場合によっては、直接その家に第三者を定期的に送り込むことも重要です。それは、祖父母、叔父叔母、親戚などの血縁関係から、隣人、担任教師、家庭教師、医療スタッフなどの非血縁者まで様々です。最近は、メンタルフレンドというカウンセラー的家庭教師がいます。家庭に第三者の目があるというシステムが、親や子に家庭環境を客観視させることにつながるのです。行動療法―人生のルール作りリジーは、なりふり構わない行動により、親友を散々ひどい目に合わせても、その後に困ったら泣きついて助けを求めようとします。さすがの人のいい親友もあきれ果て、最後は「もう無理」と冷ややかに見限ります。限界設定です。こうして、リジーは親友、恋人を失っていき、誰からも相手にされなくなっていくということを肌で感じていきます。また、リジーがセラピストの目の前でリストカットをしようとした時のセラピストの対応は圧巻です。セラピストは無言で見つめ続け、彼女がガラスの破片を落としたところで、立ち去っていきます。決して、優しくはしないのです。これは、自分の行動は自分で責任をとらなければならないという静かでそして強烈なメッセージです。そのためのかかわりとして必要なことは、対人距離が不安定なリジーに対して、セラピストは常に冷静で節度ある一定の距離を保ち、巻き込まれないように細心の注意を払っているのです。対人関係のルールや生活の枠組みを作り、目標が達成できたら得をして、問題行動を認めたら自分で責任を取らせて損をする条件付けにより行動を変化させる仕組みも効果的です。これを行動療法と言います。現実問題として、この障害が良くならない要因の一つに、過保護な家族や共依存的な恋人が過剰な関わりをしてしまい、巻き込まれて失敗の尻拭いをするなど、本人に自分で責任を取らせていないために、同じ過ちを繰り返すという悪循環に陥ることがよくあります。ただ、年を経ると大抵の患者が落ち着いていきます。その理由として、心が揺れるエネルギーが年を経てなくなってしまう点、本人が学習する点、そして周りも学習して距離をとる点があげられます。例えば、この障害は魅力的な若い女性が多いのですが、中年になればその魅力が失われて、構ってくれる男性がいなくなるこということがあげられます。薬物療法リジーは薬を飲むことでずいぶんと「うつ」が良くなったと言っています。情緒不安定による対人トラブルで、うつ、不安、不眠などの様々は二次障害を引き起こします。これらに対しての薬物療法はあくまで対症療法であり、残念ながら特効薬はありません。原題は、“Prozac Nation”という「抗うつ薬の国」で、抗うつ薬の処方がアメリカの社会問題としてレポートしたスタイルをとっています。シネマセラピー情緒不安定性パーソナリティ障害になってしまった主人公の視点を通して、彼女の心の揺れや苦しみが見ている私たち自身と重なる部分、家族や友人と重なる部分に私たちは気付き、より良く理解し、そして見つめ直すことができます。それは、自分や他人のできることとできないことの限界や境界をはっきりさせて理解することを通して、自分を大切にして自分を見失わないこと、他人を大切にして他人を失わないことです。そこから、リジーの問い続けた「真の愛」が、自分本位に相手を愛することではなく、相手の立場に立って相手を尊重し、一定の心地良い距離を保つことでもあるというより広い視野に立つことができるのではないでしょうか?その時に私たちは共により良い生き方を見い出し、自分の子どもへのかかわり方のあるべき形も自然と見えてくるのではないでしょうか?

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境界性パーソナリティ障害患者の自殺行為を減少させるには

 英国・アバディーン大学のJohn Norrie氏らは、境界性パーソナリティ障害患者を対象とした認知行動療法(CBT)に関する無作為化対照試験「BOSCOT」において、治療時間とセラピストの能力が自殺行為の回数に及ぼす影響を検討した。その結果、有能なセラピストが適当な時間の認知行動療法を行うことで、境界性パーソナリティ障害患者の自殺行為が大幅に減少する可能性が示唆されたことを報告した。Psychology and Psychotherapy誌オンライン版2013年2月19日号の掲載報告。 BOSCOT試験は、市中のクリニックが参加し、英国国民保健サービス(UK National Health Service)によって実施された質の高い無作為化対照試験である。対象は、英国内の3地域(ロンドン、グラスゴー、エアシャイア/アラン)から登録された境界性パーソナリティ障害患者106例であった。被験者は、通常治療+パーソナリティ障害に対するCBT(CBTpd)を併用する群、または通常治療のみ群に1対1に無作為に割り付けられた。通常治療の内容は、地域や個人によりさまざまであったが、試験時の英国NHSが保障していたルーチンな治療が行われた。CBTpdは、12ヵ月間にわたり平均16のセッションが行われた。研究グループは、BOSCOT試験で報告された治療効果について、とくに治療時間とセラピストの能力が主要アウトカムである自殺行為の回数と精神科入院に及ぼす影響について、操作変数回帰モデル(instrumental variables regression modelling)を用いて検討した。 主な結果は以下のとおり。・無作為化後2年時点で、すべてのアウトカムデータが得られた患者は101例であった。・intention-to-treat(ITT)集団において、CBT群では2年の間に自殺行為が平均0.91(95%CI:0.15~1.67)に減少したことが報告された。・治療時間とセラピストの質の影響を加味すると、有能なセラピストが適当な時間のCBTを行うことで、効果は約2~3倍高くなると推察された。・以上の結果を踏まえて著者らは、「治療の量やセラピストの能力の影響の評価は複雑であるが、CBTpdにおいて研鑽を積んださらに有能なセラピストが関与することで、境界性パーソナリティ障害患者における自殺行為の回数が著しく減る可能性が示唆された」と結論した。・また、本検討のような試験について、「最適な療法の提供を目指した治療効果の評価では、治療時間とセラピストの能力の両方を、常に対照しながらデータ収集に努めるべきである」ともコメントしている。関連医療ニュース ・パニック障害 + 境界性パーソナリティ障害、自殺への影響は? ・境界性パーソナリティ障害患者の症状把握に期待!「BPDSI-IV」は有用か? ・性的強迫観念は、統合失調症患者で頻度が高く、自殺行動と独立して関連

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