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第21回 処方ミスは誰の責任?主治医か薬剤師か、はたまた双方か!?

■今回のテーマのポイント1.呼吸器疾患で一番訴訟が多い疾患は肺がんであり、争点としては、健診における見落としおよび診断の遅れが多い2.薬剤師は、自らの責任において用法・用量などを含めた処方せんの内容について問題がないか確認をしなければならない(薬剤師法24条)3.医師の書いた処方箋が誤っていた場合、それを修正させなかった薬剤師も誤投与に対し責任を負う事件の概要60歳男性(X)。平成17年3月、頸部リンパ節腫脹精査目的にてA病院に入院しました。検査の結果、右中下葉間を原発とする肺腺がん(T2N3M1(膵、リンパ節転移):StageIV)と診断されました。4月13日より、Xに対し、化学療法が開始されたものの、徐々にXの全身状態は悪化していき、8月末には脳転移も認められるようになりました。10月よりXの主治医はW医師および3年目の医師(後期研修医)Yに変更となりました。Xの全身状態は悪く、10月11日には、発熱、胸部CT上両肺野にびまん性のスリガラス状陰影が認められました。Y医師は、抗がん剤(ビノレルビン)による薬剤性肺障害を疑い、ステロイドパルス療法を開始しましたが、改善しませんでした。β‐Dグルカンが79.6pg/mLと上昇していたことから、Y医師は、ニューモシスチスカリニ肺炎を疑い、18日よりST合剤(商品名:バクトラミン)を開始しました。治療によりβ‐Dグルカンは低下し、胸部CT上もスリガラス状陰影の改善が認められたものの、バクトラミン®によると考えられる嘔気・嘔吐が増悪したため、28日の回診時に呼吸器科部長Z医師よりY医師に対し、ペンタミジンイセチオン(商品名:ベナンバックス)に変更するよう指示がなされました。Y医師は、W医師に対し、ベナンバックス®の投与量を尋ねたところ、「書いてある通りでよい」旨指示されたため、医薬品集をみてベナンバックス®の投与量を決めることとしました。なお、W医師は、午後外勤であったため、上記やり取りの後、Y医師が実際に処方するのを確認せずに病院を離れました。ところが、Y医師は、ベナンバックス®の投与量(4mg/kg/日)を決定する際に、誤って医薬品集のバクトラミン®(15~20mg/kg/日)の項をみて計算してしまったため、結果として、5倍量の注射オーダーがなされてしまいました。A病院では、薬剤の処方にオーダリングシステムが導入されていたものの、過量投与への警告機能は薬剤の1回量について設定されているのみで、投与回数や1日量については設定がされていませんでした。そのために、本件のベナンバックス®の処方に対して警告が発せられなかったこともあり、調剤した薬剤師および調剤監査に当たった薬剤師は過量投与に気づきませんでした。その結果、Xは、収縮期血圧が70mmHgまで低下し、意識状態の悪化、奇異性呼吸が認められるようになり、11月10日、Xは、低血糖による遷延性中枢神経障害、肝不全、腎不全により死亡してしまいました。これに対し、Xの遺族は、病院だけでなく、主治医であった後期研修医YおよびWならびに呼吸器センター部長Z、さらに調剤した薬剤師および監査した薬剤師2名の計6名の医師・薬剤師に対し、約1億800万円の損害賠償請求を行いました。事件の判決●主治医の後期研修医Yの責任:有責「被告Y医師は、臨床経験3年目の後期研修医であったけれども、医師法16条の2の定める2年間の義務的な臨床研修は修了しており、また、後期研修医といえども、当然、医師資格を有しており、行える医療行為の範囲に法律上制限はなく、しかも、前記のとおり、被告Y医師の過失は、医師としての経験の蓄積や専門性等と直接関係のない人間の行動における初歩的な注意義務の範疇に属するものである」●主治医W医師の責任:無責「ベナンバックスへの薬剤変更が決定された10月28日、被告W医師は、外勤のため、被告病院を離れなければならないという事情があり、被告Y医師から、投与量について相談をされた際に、書いてあるとおりでよいと、概括的ながら、添付文書や医薬品集に記載されている投与量で投与する旨の指示は出している。そして、被告W医師としては、特別の事情がない限り、被告Y医師が、医薬品集などで投与量を確認し、その記載の量で投与するであろうことを期待することは、むしろ当然であるといえる。すなわち、本件事故は、被告Y医師が、医薬品集の左右の頁を見間違えて処方指示をしたという初歩的な間違いに起因するものであるが、このような過誤は通常想定し難いものであって、被告W医師において、このような過誤まで予想して、被告Y医師に対し、あらかじめ、具体的な投与量についてまで、指示をすべき注意義務があったとは直ちには認められないというべきである」●呼吸器センター部長Z医師の責任:無責「被告Z医師は、Xの主治医や担当医ではなく、呼吸器センター内科部長として、週に2回の回診の際、チャートラウンドにおいて、各患者の様子について担当医師らから報告を受け治療方針等を議論し、前期研修医を同行し、患者の回診をするなどしていた。本件でも、Xの診療を直接に担当していたわけではなく、チャートラウンドなどを通して、主治医や担当医の報告を受けて、治療方針を議論するなど、各医師への一般的な指導監督、教育などの役割を担っていたといえる。被告Z医師は、10月28日のチャートラウンドにおいて、被告Y医師からXの容態について報告を受け、薬剤をベナンバックスに変更することを指示している。その際、ベナンバックスの投与量や投与回数、副作用への注意などについては、特に被告Y医師に対して具体的な指示をしていない。しかし、被告Z医師の前示のとおりの役割や関与の在り方から見ても、10月28日当時で約95名にのぼる被告病院呼吸器センター内科の入院患者一人一人について、極めて限られた時間で行われるチャートラウンド等の場において、使用薬剤やその投与量の具体的な指示までを行うべき注意義務を一般的に認めることは難しいといわざるを得ない」●薬剤師3名の責任:有責「薬剤師法24条は、「薬剤師は、処方せん中に疑わしい点があるときは、その処方せんを交付した医師、歯科医師又は獣医師に問い合わせて、その疑わしい点を確かめた後でなければ、これによって調剤してはならない」と定めている。これは、医薬品の専門家である薬剤師に、医師の処方意図を把握し、疑義がある場合に、医師に照会する義務を負わせたものであると解される。そして、薬剤師の薬学上の知識、技術、経験等の専門性からすれば、かかる疑義照会義務は、薬剤の名称、薬剤の分量、用法・用量等について、網羅的に記載され、特定されているかといった形式的な点のみならず、その用法・用量が適正か否か、相互作用の確認等の実質的な内容にも及ぶものであり、原則として、これら処方せんの内容についても確認し、疑義がある場合には、処方せんを交付した医師等に問合せて照会する注意義務を含むものというべきである。・・・(中略)・・・薬剤師はその専門性から、原則として、用法・用量等を含む処方せんの内容について確認し、疑義がある場合は、処方医に照会する注意義務を負っているといえるところ、特に、ベナンバックスは普段調剤しないような不慣れな医薬品であり、劇薬指定もされ、重大な副作用を生じ得る医薬品であること、処方せんの内容が、本来の投与量をわずかに超えたというものではなく、5倍もの用量であったことなどを考慮すれば、被告薬剤師としては、医薬品集やベナンバックスの添付文書などで用法・用量を確認するなどして、処方せんの内容について確認し、本来の投与量の5倍もの用量を投与することについて、処方医である被告Y医師に対し、疑義を照会すべき義務があったというべきである」(*判決文中、下線は筆者による加筆)(東京地判平成23年2月10日判タ1344号90頁)ポイント解説1)呼吸器疾患の訴訟の現状今回は、呼吸器疾患です。呼吸器疾患で最も訴訟となっているのは肺がんです(表1)。やはり、どの診療科においても、重篤な疾患が訴訟となりやすくなっています。肺がんの訴訟は、原告勝訴率が52.9%とやや高い一方で、認容額はそれなり(平均3,200万円)というのが特徴です(表2)。これは、肺がんが、がんの中では5年生存率が比較的低い(予後が不良)ことが原因であると考えられます。すなわち、訴訟においては、不法行為責任が認められた後に、当該生じた損害を金銭に換算し、損害額を決定するのですが、肺がんのように5年生存率が低い疾患の場合、損害額の多くを占める逸失利益があまり認められなくなるのです。逸失利益とは、「もし医療過誤がなかった場合、どれくらい収入を得ることができたか」ですので、まったく同じ態様(たとえば術後管理の瑕疵)の過失であったとしても、生命予後が比較的良好な胃がんの患者(ここ10年間の検索可能判決によると平均6,520万円)と肺がんの患者では、認められる逸失利益に大きな違いが出てくることとなるのです。肺がんの訴訟において、最も多く争われるのが第17回でご紹介した健診による見落としなどであり、その次に多いのが診断の遅れと手技ミスです(表2)。また、表2をみていて気づくかもしれませんが、福島大野病院事件医師逮捕があった平成18年の前後で原告勝訴率が66.7%(平成18年以前)から37.5%(平成18年以降)と大きく落ち込んでいる点です。これは、医療崩壊に司法が加担したことに対する反省なのか、医療訴訟ブームによる濫訴が原因なのか、負け筋は示談されてしまい判決までいかないことが原因なのかなど、さまざまな理由によると考えられますが、結果として、医療訴訟全体において原告勝訴率が低下しており、肺がんにおいても同様のトレンドに沿った形(平成18年以前 40%前後、平成18年以降 25%前後)となっているのです。2)処方ミスは誰の責任?今回紹介した事例は、肺がん訴訟の典型事例ではありませんが、チーム医療を考えるにあたり非常によいテーマとなる事例といえます。本件では、病院だけでなく、医師、薬剤師を含めた多数の個人までもが被告とされました。その結果、各専門職および専門職内における役割の責任につき、裁判所がどのように考えているかをみることができる興味深い事例といえます。チーム医療とはいえ、病院スタッフはそれぞれ専門領域を持つプロフェッションです。国家資格もあり、法律上業務独占が認められています。したがって、チーム医療とはいっても、それぞれの専門領域については、各専門家が責任を負うこととなり、原則として他の職種が連帯責任を負うことはありません。これを法律的にいうと「信頼の原則」といいます。「信頼の原則」とは、「行為者は、第三者が適切な行動に出ることを信頼することが不相当な事情がない場合には、それを前提として適切な行為をすれば足り、その信頼が裏切られた結果として損害が生じたとしても、過失責任を問われることはない」という原則で、いちいち他の者がミスをしていないか確認しなければならないとなると円滑な社会活動を行うことが困難となることから、社会通念上相当な範囲については、他人を信頼して行動しても構わないという考えで、この原則は、医療従事者間においても適用されます。それでは、本事例のような処方箋の書き間違えは、誰の責任となるのでしょうか。医師法、薬剤師法上、医薬分業が定められています。すなわち、「医師は、患者に対し治療上薬剤を調剤して投与する必要があると認めた場合には、患者又は現にその看護に当つている者に対して処方せんを交付しなければならない」(医師法22条)とされ、これを受けて、「薬剤師は、医師、歯科医師又は獣医師の処方せんによらなければ、販売又は授与の目的で調剤してはならない」(薬剤師法23条1項)とされています。そして、薬のプロである薬剤師は、「薬剤師は、処方せん中に疑わしい点があるときは、その処方せんを交付した医師、歯科医師又は獣医師に問い合わせて、その疑わしい点を確かめた後でなければ、これによつて調剤してはならない」(薬剤師法24条)とされており、患者に投与される薬は原則として、薬剤師が防波堤として、最終的なチェックをすることとなっています。したがって、法が予定する薬の処方に関する安全は、薬剤師に大きく頼っているといえます。本判決においても、処方ミスを水際で食い止めることが薬剤師に課せられた法的義務であることから、薬剤師は医師の処方箋が正しい内容であると信頼することは許されず、自らの責任において用法・用量などを含む処方せんの内容について確認しなければならないとされたのです。裁判例のリンク次のサイトでさらに詳しい裁判の内容がご覧いただけます。(出現順)東京地判平成23年2月10日判タ1344号90頁

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乳がん手術のインフォームドコンセント

癌・腫瘍最終判決平成15年3月14日 東京地方裁判所 判決概要乳がんの疑いでがんセンターを受診した48歳女性。生検目的で約2cmの腫瘤を摘出したところ、異型を伴う乳頭部腺腫と診断された。病理医からは、「明らかに悪性とは言い切れないが異型を伴う病変であり、断端陽性のため完全に取り切ることが望ましい」というアドバイスがあったので、単純乳房切除術を施行した。ところが、切らなくてもよい乳房を切除されたということで、医事紛争に発展した。詳細な経過患者情報48歳の既婚女性、ご主人が内科医経過昭和61年6月12日左鼻出血が続き、近医で上顎洞がんの疑いと診断された。6月20日夫(内科医)の紹介でがんセンターを受診し、がんではなく上顎洞炎であると診断され手術を免れた(その後がんセンター専門医の診断能力を強く信頼するようになる)。平成4年4月20日右乳頭から黄色分泌物、乳頭部の変形、しこりに気付く。4月23日近医を受診して、乳がんの疑いがあるといわれた。5月6日がんセンター受診。右乳頭部上方に1.8×1.2cmの腫瘤、右乳頭部より黄色分泌物を認め、乳管内がん(乳頭腫)の疑いで細胞診検査を施行したが、がんは陰性であった。5月13日マンモグラフィー:乳がんまたは乳頭腫乳腺超音波検査:乳管内乳頭腫5月25日右乳頭の真上を水平に約28mm切開して腫瘤を摘出。病理診断:「組織学的には著しい乳頭状増殖を示す異型的な乳管上皮の増加からなる。それらの中には筋上皮細胞を伴い二層性構造を示す部もあるが、そのような所見が不明瞭な部もある。そのような部では個々の乳管上皮細胞の異型性は一段と強くなっており、やや大型の核を有す。ただし核質は微細であり、核小体も小型のものが多い。病変自体の硬い変化もある。かなり異型性の強い病変であるが、その発生部位も考慮に入れると乳頭部腺腫がもっとも考えられる。断端に病変が露出し、明らかに悪性とは言い切れないが異型を伴う病変であり、完全に取り切ることが望ましい」との所見から、「右乳房の異型を伴った乳頭部腺腫」と診断。6月5日患者への説明:悪性とは言い切れないが異型を伴う病変であり、切除断端が陽性であること、病名は異型を伴う乳頭部腺腫であること、経過観察をした場合相当数の浸潤性がんが認められること、小範囲の部分切除を行ったとしても乳頭・乳輪を大きく損傷し、病変の再遺残の可能性があることから、単純乳房切除術が望ましいと説明した(しかし診療録には説明の記載なし)。患者:「がんではないのだから悪いところだけを部分的に取ればよいのではないですか」医師:「部分的に取ると跡が噴火口のようになり、そのような中途半端な手術はできない」として単純乳房切除術を勧めた。6月11日手術目的で入院。6月12日夫である内科医が、病理診断が悪性であるかどうかの確認を求めたところ、「悪性と考えてよい」、「完全に取り切れば治癒するが残しておけば命にかかわる」と答えた。手術の立会を申し入れたが担当医師は拒否。6月22日病状については境界領域という説明を受けただけで、その具体的内容は理解できなかったこと、同室の患者が術後苦しそうにしているのをみたことから不安になり、手術の延期を申し出た。医師:「構いませんよ。こちらは何も損はしませんからね。そちらが損をするだけですからね」看護師:「手術の予定が決まっていたのだから医師が立腹するのもやむを得ないですよ」といわれ、そのまま帰宅した。6月26日外来を受診して病状の確認とその後の指示を求めたが、同医師は答えず、内科医である夫を連れてくるよう指示した。6月29日内科医の夫がナースセンターの前で面談したが、「2~3ヵ月先に予約を入れておいてください」とだけ述べてそのまま立ち去ったので、担当医師の応対および病状などについて詳しい説明をしない態度に不信を抱き、患者に転院を勧めた。7月3日なおも不安になった患者は再度診察を希望。患者:「境界領域の意味を教えてください。2~3ヵ月後の予約で手遅れになりませんか」医師:「あんたのはたちが悪い。再発するとがんになって危険ですよ。飛ぶかもしれませんよ」などと述べ、病状や予後について詳しい説明はしなかった。患者は自身の病気がいつ転移するかもわからないものであり、早急に手術を受けなければ手遅れになると考えて、がんセンターで手術を受けることを決意し、入院を予約した。7月17日再入院。7月23日担当医師は病室を訪れ、「一応形式ですから」と告げて、「手術名:右乳房切除術」「このたび上記の手術を受けるにあたり、その内容、予後などについて担当の医師から詳細な説明を受け、了解しましたので、その実施に同意いたします」と記載された手術同意書をベッドの上に置いて立ち去る。患者は手術の詳細な説明は受けていなかったものの、手術前に詳細な説明があるはずで命にかかわることは医師に任せるしかないと考えて、承諾書に署名捺印した。7月27日手術当日、切除部分および切除後の傷の大きさがよくわからなかったので病室を訪れた担当医師に質問したが、無言のまま両手で20~30cm位の幅を示しただけで退室した。当日、単純乳房切除術を施行。病理所見:「乳頭部腺腫の遺残を認めず、乳腺組織にはアクポリン腺、盲端腺増生症および導管内乳頭腫症といった病変が散見される」との所見から「線維性のう胞性疾患」と診断。7月29日ドレーンを抜去。8月3日退院。8月12日全抜糸施行。患者と夫の内科医に、病理検査の結果遺残はないこと、今回の治療は終了したこと、残存した左乳房について年に1回か半年に1回検査すればよいことを説明した。患者は手術後、精神的に落ち込む日が続き、手術創の突っ張り感、乳房を喪失したことにより左右の均衡が取れない不快感、物を背負ったりシートベルトを着用した際の痛みを感じるようになった。また、温泉などの公衆浴場に入ったり、病院で上半身の診察や検査を受けることがためらわれるようになり、薄い服を着る際には容姿を整えるための下着およびパッドを入れなければならなくなった。10月27日乳がんの患者団体「あけぼの会」から乳がんに関する知識を得て、乳房再建手術を考えるようになり別病院を受診。がんセンターからの入院証明書(診断書)や病変の標本を取り寄せることによって、ますますがんセンターに不信感をいだき、提訴を決意した。当事者の主張単純乳房切除術は過大な措置であったか患者側(原告)の主張乳頭部腺腫は前がん状態ではない良性腫瘍であり、がん化の報告はきわめて少なく、がんとの関連性はないとされ、切除後の再発、転移の報告もみられない。そのため身体に対する侵襲は必要最小限度にとどめるべき基本的な注意義務があったのに、必要もない侵襲の大きな単純乳房切除術を採用したのは明らかな過失である。病院側(被告)の主張一般に乳頭部腺腫とは、乳頭内または乳輪直下乳管内に生ずる乳頭状ないし充実性の腺腫であり、良性の場合と、がんと断定できないが異型(悪性と良性との境界領域)に属する場合がある。本件では生検の結果、異型性が強く悪性に近い病変で切除断端に露出し取り残しの可能性があったため、病変部などの切除が必要不可欠であった。そして、摘出生検後は、病変の遺残の程度は推定できず、適切な切除範囲を設定することは不可能であるから、乳頭・乳輪を含む広範囲切除である単純乳房切除術によらざるを得なかった。説明義務違反があったかどうか患者側(原告)の主張担当医師は手術の前後にはっきりとした診断名、「境界領域」の意味、病気の内容、治療方法についての内容、危険性、治療を回避した場合の予後などについて一切説明しなかったのみならず、「再発したらがんになる、飛ぶ」などの誤った説明をし、患者の自己決定権が侵害されたことは明らかである。病院側(被告)の主張担当医師は患者と内科医の夫に対し、手術前に検査結果や正確な病名、手術方法などについて十分に説明し、患者の選択、同意を得たうえで単純乳房切除術を施行した。このような十分な説明がありながらも、1回目の入院で手術を取りやめ、ほかの病院あての紹介状の発行を依頼、受領し、積極的にセカンドオピニオンを求めて行動していることや、2回目の入院から手術までの10日間、複数の看護師に対し自分の意思によって手術を受ける決断をしたという意向を複数回表明していることからみても、担当医師の説明に過失はない。裁判所の判断単純乳房切除術は過大な措置であったか乳頭部腺腫は、一般に前がん状態ではない良性腫瘍とされているので、病変部ががん化する可能性は高かったとはいえないが、乳頭部腺腫とがんとの因果関係についてはいまだ不明な点が多く、病変部ががん化する可能性をまったく否定することはできない。そして、患者の腫瘤は乳頭、乳輪の近くに存在し、しかも生検後病変部が断端に露出していたため、乳管内に造影剤を注入することは困難で遺残腫瘍がどの範囲で広がっているかを特定することは不可能であった。そのため、残存腫瘍ががん化する可能性を必ずしも否定できないこと、遺残腫瘍の広がりの範囲を特定できないことから、がん化の危険を避けるために残存腫瘍を完全に除去する方法として、単純乳房切除術を実施したことに過失はない。説明義務違反があったかどうか単純乳房切除術は、女性を象徴する乳房を切除することにより身体的障害を来すばかりか、外観上の変ぼうによる精神面・心理面への著しい影響ももたらし、患者自身の生き方や人生の根幹に関係する生活の質にもかかわるものであるから、手術の緊急性がない限り、手術を受けるか否かについて熟慮し判断する機会を与える義務がある。患者にとっては、「がんではないのに単純乳房切除術が必要である」という医師の診断は理解困難なものであった。さらに、生検において摘出した部位を中心に部分切除にとどめることも不相当な処置とはいえず、腫瘍の一部を残す危険と一部でも乳房を残す利益とを比較衡量し、単純乳房切除術を受けるか部分切除にとどめるか、患者に選択させる余地があった。しかし担当医師は、「悪性と良性の境界領域」という程度の説明に終始し、部分切除の可能性を断定的に否定したうえで、「そちらが損をするだけですからね」「再発するとがんになりますよ」「飛ぶかもしれませんよ」などと危険性をことさらに強調し、不安をあおるような発言をした。そのためただちに単純乳房切除術を受けなければ生命にかかわると思い込み、病状や治療方針について理解し熟慮したいという希望を断念し、納得しないまま単純乳房切除術を受けた。このような対応は、単純乳房切除術を受けるか否かを熟慮し選択する機会を一切与えず、結果的に医師の診断を受け入れるよう心理的な強制を与えたもので、診療契約上の説明義務違反が認められる。原告側2,413万円の請求に対し、120万円の判決考察先生方は「ドクターハラスメント(通称ドクハラ)」という言葉を聞いたことがありますでしょうか。最近では、新聞でも取り上げられていますし、ドクハラの書籍(ドクターハラスメント 許せない!患者を傷つける医師のひと言)までもが、書店に並ぶようになりました。普段の患者さんとの対話で、こちらはそれほどきつい言葉とは思っていなくても、受け取る患者の方は筆舌に尽くしがたいダメージととらえるケースがあるようです。今回の症例をふりかえると、乳がん疑いで生検を行った48歳の女性の病理診断で、異型を伴う乳頭部腺腫が疑われ、切除断端に病巣が露出していたので完全切除を目指し、単純乳房切除術を施行しました。裁判では、このような治療方針自体は過失でないと認定しましたが、問題は術前術後のインフォームドコンセントにありました。つまり、患者との信頼関係が破綻した状態で手術となってしまい、間違ったことはしなかったけれども、説明義務違反という物差しを当てられて敗訴した、というケースではないかと思います。多くの先生方にも経験があると思いますが、真摯な態度で患者を診察し、自らがこれまでに培ってきた最大限の知識を提供したうえで、その時点で考えられる最良の治療を提案したにもかかわらず、患者の同意が得られないということもあり得ると思います。そのような場合、どのような対応をとりますでしょうか。まあしょうがないか、そのような考え方もあるので仕方がないなあ、と割り切ることができればよいのですが、つい、自らが提案した治療方針が受け入れられないと、不用意な発言をしたくなる気持ちも十分に理解できると思います。今回の症例では、手術予定まで組んだ乳がん疑いの患者が、手術を土壇場でキャンセルし、以下のような発言をしてしまいました。「そちらが損をするだけですからね」「再発するとがんになりますよ」「飛ぶかもしれませんよ」あとから振り返ると、このような言葉はなるべくするべきではなかったと判断できると思います。しかし、きわめて多忙な診療場面で、入院予約、検査のアレンジ、手術室の手配など、患者のためを思って効率的にこなしてきたのに、最後の最後で患者から手術を拒否されてしまうと、このような発言をしたくなる気持ちも十分に理解できます。そのことは看護師にもよく伝わっていて、「手術の予定が決まっていたのだから医師が立腹するのもやむを得ないですよ」という援護射撃とも思える発言がありました。しかし、こうして不毛な医事紛争へ発展してしまうと、ちょっとした一言を巡って膨大な時間が忙殺される結果となってしまいます。ましてや、間違った医療行為はしていないのに、インフォームドコンセントも自分としては十分と考えていたにもかかわらず、「説明義務違反」などといわれるのは到底納得できないのではないでしょうか。本件でも結局のところは、「言った言わない」という次元の争いごとになってしまい、そのような細かいことまで診療録に記載しなかった医師側が、何らかの形で賠償責任を負うという結末を迎えました。このような医事紛争を避けるためには、不用意な発言はなるべく避けるとともに、患者に説明した内容はできるだけ診療録に残すようにするといった配慮が望まれると思います。癌・腫瘍

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気管支喘息で入院中に、自宅から持ち込んだ玩具で窒息した乳児例

小児科最終判決判例時報 1790号119-131頁概要気管支喘息、上気道炎と診断されて入院治療を受けていた1歳男児。家族の常時付添を許可しない完全看護体制の病院であり、母親は普段から一番気に入っていたおもちゃのコップを病室に持ち込んだ。入院翌日13:30頃看護師が訪室してみると、おもちゃのコップによって鼻と口が塞がれ心肺停止状態であり、ただちにコップを外して救急蘇生を行ったが、重度脳障害が発生した。詳細な経過患者情報平成4年5月21日生まれの1歳男児。既往症なし経過平成5年5月31日発熱、咳を主訴として総合病院小児科を受診し、喘息性気管支炎と診断された。6月1日容態が改善しないため同病院小児科を再診、別の医師から気管支喘息、上気道炎と診断され、念のため入院措置がとられた。この時患児は診察を待っている間も走り回るほど元気であり、気管支喘息以外には特段異常なし。同病院では完全看護体制がとられていたため、平日の面会時間は15:00~19:00までであり、母親が帰宅する時には泣いて離れようとしないため、普段から一番気に入っていた玩具を病室に持ち込んだ(「コンビコップがさね」:大小11個のプラスチック製コップ様の容器で、重ねたり、水や砂を入れたり、大きなものに小さなものを入れたりして遊ぶことができる玩具)。6月2日10:00喘鳴があり、息を吸った時のエア入りがやや悪く、湿性咳嗽(痰がらみの咳)、水様性鼻汁がでていたが、吸引するほどではなかった。12:40~12:50担当看護師が病室に入って観察、床頭台においてあった「コンビコップがさね」を3~4個とって患児に手渡した。13:00担当看護師が検温のため訪室したが、「コンビコップがさね」を重ねたりして遊んでいたので、検温は後回しにしていったん退室。13:30再び看護師が検温のために訪室すると、患児は仰向けになってベッドに横たわり、「コンビコップがさね」によって鼻と口が塞がれた状態であった。ただちにコップを強く引いて取り外したが、顔面蒼白、チアノーゼ、心肺停止状態であり、駆けつけた医師によって心肺蘇生が行われた。何とか心拍は再開したものの低酸素脳症に陥り、精神発達遅滞、痙性四肢麻痺、てんかんなどの重度後遺障害が残存した。当事者の主張患者側(原告)の主張患児は気管支喘息の大発作を起こしていたので、担当医師は玩具によって患児の身体に危険が及ばないように、少なくとも10分おきに病状観察をするよう看護師に指示する義務があった。完全看護体制をとっている以上、ナースコールを押すことができず危機回避能力もない幼児を担当する看護師は、頻繁に(せめて10分おきに)訪室して監視する義務があった。ナースコールもできず、付添人もいない幼児を病室に収容するのであれば、ナースステーションに患者動静を監視する監視装置をつけなければならない安全配慮義務があった。病院側(被告)の主張担当医師、担当看護師ともに、「コンビコップがさね」のような玩具で窒息が生じることなどまったく予見できなかったため、10分毎に訪室する義務はない。そして、完全看護といっても、すべての乳幼児に常時付き添う体制はとられていない。病室においても、カメラなどの監視装置を設置するような義務があるとは到底いえない。裁判所の判断事故の原因は、喘息の発作に関連した強い咳き込みによって陰圧が生じ、たまたま口元にあった玩具を払いのけることができなかったか、迷走神経反射で意識低下が起きたため玩具が口元を閉塞したことが考えられる。患児の病状のみに着目する限り、喘息の観察のために10分おきの観察を要するほど緊急を要していたとはいえないので、医師としての注意義務を怠ったとはいえない。幼児の行動や、与えた玩具がどのような身体的影響を及ぼすかについては予測困難であるから、看護師は頻繁に訪室して病状観察する義務があった。そのため、30分間訪室しなかったことは観察義務を怠ったといえるが、当時は別の患者の対応を行っていたことなどを考えると、看護師一人に訪室義務を負わせることはできない。しかし、家族の付添は面会時間を除いて認めないという完全看護体制の病院としては、予測困難な幼児の行動を見越して不測の事態が起こらないよう監視するのが医療機関として当然の義務である。そして、喘息に罹患していた幼児に呼吸困難が発生することは予測でき、玩具によって危険な状態が発生することもまったく予見できなかったわけではないから、そのような場合に備えて常時看護師が監視しうる体制を整えていなかったのは病院側の安全配慮義務違反である。原告側合計1億5,728万円の請求に対し、1億3,428万円の判決考察今回の事故は、喘息で入院中の幼児が、おもちゃのコップによって口と鼻を塞がれ、窒息して心肺停止状態になるという、たいへん不幸な出来事でした。もしこのおもちゃを用意したのが病院側であれば、このような紛争へ発展しても仕方がないと思いますが、問題となったおもちゃは幼児にとって普段から一番のお気に入りであり、完全看護の病院では一人で心細いだろうとのことで母親が自宅から持ち込んだものです。したがって、当然のことながら自宅でも同様の事故が起きた可能性は十分に考えられ、たまたま発生場所が病院であったという見方もできます。判決文をみると、わずか30分間看護師が病室を離れたことを問題視し、常時幼児を監視できる体制にしていなかった病院側に責任があると結論していますが、十分な説得力はありません。完全看護を採用している小児科病棟で、幼児は何をするかわからないからずっと付きっきりで監視する、などということはきわめて非現実的でしょう。そして、「玩具によって危険な状態が発生することもまったく予見できなかったわけではない」というのも、はじめて幼児に与えた玩具ではなく普段から慣れ親しんでいたお気に入りを与えたことを考えれば、かなり乱暴な考え方といえます。ちなみに、第1審では「病院側の責任はまったく無し」と判断されたあとの今回第2審判決であり、医療事故といってもきわめて単純な内容ですから、裁判官がかわっただけで正反対の判決がでるという、理解しがたい判決でした。今回の事例は、医師や看護師が当然とるべき医療行為を怠ったとか、重大なことを見落として患者の容態が悪化したというような内容ではけっしてありません。まさに不可抗力ともいえる不幸な事件であり、今後このような事故を予防するにはどうすればよいか、というような具体的な施策、監視体制というのもすぐには挙げられないと思います。にもかかわらず、「常時看護師が監視しうる体制を整えていなかったのは病院側の安全配慮義務違反である」とまで言い切るのであれば、どのようにすれば安全配慮義務を果たしたことになるのか、具体的に判示するべきだと思います。ただし医療現場をまったく知らない裁判官にとってそのような能力はなく、曖昧な理由に基づいてきわめて高額な賠償命令を出したことになります。このケースは現在最高裁判所で係争中ですので、ぜひとも良識ある最終判断が望まれますが、同様の事故が起きると同じような司法判断が下される可能性も十分に考えられます。とすれば医療機関側の具体的な対策としては、「入院中の幼児におもちゃを与えるのは、家族がいる時だけに限定する」というような対応を考えること以外に、不毛な医事紛争を避ける手段はないように思います。小児科

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点滴ヘパリンロックの際に間違えて消毒薬を注入したケース

整形外科最終判決平成16年1月30日 東京地方裁判所 判決概要関節リウマチによる左中指の疼痛・腫脹に対し、左中指滑膜切除手術を行った58歳女性。手術翌朝、術後の抗菌薬を点滴静注後、ライン内にヘパリンナトリウム生理食塩水を注入してヘパリンロックをしようとしたところ、間違えてヒビテン®・グルコネート液を注入し、まもなく急性肺血栓塞栓症で死亡した。遺族の了解を得て病理解剖を行ったが、所轄警察署への届出が死亡から11日後となってしまい、病院長は医師法第21条違反で実刑判決を受け、主治医は3ヵ月の医業停止処分となった。詳細な経過患者情報約20年前から、関節リウマチ、高血圧で通院治療を受けていた58歳女性経過平成11(1999)年1月8日左中指の疼痛および腫脹が増強したため、都立病院整形外科を受診。関節リウマチによる滑膜病変と考え、左中指滑膜切除手術が予定された。2月8日入院、全身状態は問題なし。2月10日左中指滑膜切除手術施行(手術時間1時間24分)。術後経過は良好で、10日程度で退院できる予定であった。2月11日08:15看護師Aがヘパリンナトリウム生理食塩水(以下ヘパ生)10mL入り注射器(注射筒部分に「ヘパ生」と黒色マジックで記載)を保冷庫から取り出して処置台に置く。その直後、看護師Aが洗浄用のヒビテン®・グルコネート液(以下ヒビグル)を新しい10mLの注射器に入れ、ヘパ生入り注射器と並べて処置台に置いた。このときメモ用紙に黒色マジックで「○○様洗浄用ヒビグル」と手書きし、処置台に置かれた2本の注射器のうちの1本に貼り付けた(実際にはヘパ生入り注射器にヒビグルと書いた手書きメモを貼り付けてしまった)。08:30看護師Aが術後の抗菌薬アンピシリン(商品名:ビクシリン)を点滴するため訪室。抗菌薬と点滴セット、アルコール綿に加えて、メモ用紙の貼られていない10mL注射器1本(実際には洗浄用ヒビグル入り注射器)を持参した。08:35抗菌薬の点滴を開始。09:00ナースコールあり、点滴終了。09:03看護師Bが点滴ラインにヘパ生を注入してヘパリンロックした。実はこのとき注入したのはヘパ生ではなくヒビグルであり、約1mLが体内に注入され、残り約9mLは点滴ライン内に残留した。09:05訪室した看護師Aに対し、「何だか気持ち悪くなってきた。胸が熱い気がする」といって苦痛を訴え、胸をさする動作をした。09:15顔面蒼白となり、「胸が苦しい。息苦しい。両手がしびれる」などと訴えたので、ただちに当直医師をコール。指示により既存の点滴ルート(ライン内にはヒビグルが充満)からソルデム3Aの点滴静注が開始された。血圧198/78mmHg、心電図V1で軽度ST上昇、V4で軽度ST低下がみられたが、不整脈なし。このとき看護師Aは処置室で「ヘパ生」と黒色マジックで書かれた注射器を発見し、ヘパリンロックの際に薬剤を取り違えたことに気づき、病室内の当直医師を手招きして呼び出し、「ヘパ生とヒビグルを間違えたかもしれない」と告げた。すでにソルデム3Aが点滴ラインにつながれ急速点滴された結果、点滴ライン内に残留していたヒビグル約9mL全量が体内に静注された。09:30突然意識レベル悪化、眼球上転、心肺停止状態。ただちに救急蘇生を開始。10:20主治医到着。心臓マッサージを行いながら、容態急変した前後の状況および看護師が薬剤を間違えて注入したかもしれないといっていることを聞かされた。蘇生の気配はまったくなし。10:44死亡確認。11:00遺族へ説明:抗菌薬点滴直後に容態が急変したことから、心筋梗塞または大動脈解離を起こした可能性があるが、死因は今のところ不明。その解明のために病理解剖の必要性を説く。遺族に誤投薬の可能性を聞かれたが、「わかりません」と答え、看護師による誤投薬の可能性を伝えないまま病理解剖の承諾書をとる。なお、蘇生措置から死後処置をしている間に、右腕血管部分に沿って血管が紫色に浮き出ているという異常な状態にスタッフは気づいていた。事後経過平成11年2月11日(死亡翌日)08:30病院の幹部職員9名(病院長、副院長、主治医、医事課長、庶務課長、看護部長、看護科長)による対策会議。看護師:「ヒビグルとヘパ生を間違えたかもしれない。それしか考えられない」と涙声になりながら、現場で回収した点滴チューブなどを使用しながら状況説明。主治医:「所見としては心筋梗塞の疑いがあります。病理解剖の承諾をすでに遺族からもらっています」事務長:「ミスは明確ですし、警察に届けるべきでしょう」病院長:「でも、主治医は心筋梗塞の疑いがあるといっているし」と非常に迷いながら優柔不断ともいえる態度を示す。副院長:「医師法の規定からしても、事故の疑いがあるのなら、届け出るべきでしょう」病院長:「警察に届け出るということは、大変なことだ」事務長:「やはり、仕方がないですね。警察に届け出ましょう」医療事故について警察に届け出ることにいったんは決定。その後都衛生局の幹部職員に電話で相談。衛生局:「本部に判断しろといわれても困るよな。病院が判断してくれなくちゃ。これまで都立病院から警察に事故の届出を出したことがない。すでに病理解剖の承諾はいただいているとのことだが、誤薬の可能性も含めてすべて事情を話して、その結果再度承諾が得られれば、その線でいったら良いのではないか。詳しい事情もわからないから、おれが今から病院へ行くから警察に届け出るのは待ってくれ」衛生局の幹部職員到着。病院長:「どうしてこれまで病院から届け出た例がないんだろう」衛生局:「病院自ら警察に届け出るということは、職員を売ることになるから、これまで例がないんじゃないですか」事務長:「どんな場合に警察に届け出るんですか。これまではどうだったのですか」衛生局:「過失が明白な場合に届けなければいけない。今まで都立病院自ら警察に届け出た例はありません。遺族から病理解剖の承諾をもらっているということですけれども、薬の取り違えの可能性もあるんなら、包み隠さずお話しないといけませんね。遺族が病院を信用できないというなら、警察に連絡して監察医務院で解剖する方法もあるということも説明してください。それでも遺族が病院での病理解剖を望まれるなら、それでいいじゃないですか。もし遺族が警察に届け出るというならそれはそれで仕方ないですね」副院長:「医師法の規定からしても、事故の疑いがあるのなら、届け出るべきでしょう」病院長:「警察に届け出るということは、大変なことだ」事務長:「やはり、仕方がないですね。警察に届け出ましょう」病院長、主治医は、「病院事業部としては誤投薬の可能性を遺族に話さずに済ませることは避けねばならない」としながらも、遺族の理解が得られるなどの事情により、医療事故を警察に届け出ることについては「可能であればできるだけ避けたい」という意向を読みとる。すなわち、衛生局は医療事故については警察への届出を必ずしもしなくとも良いという見解であると解釈した。病院長:「じゃ、それでいきましょうか。しょうがないでしょう」出席者全員に対し、それまでの方針を変更してとりあえず警察への届出をしないまま、遺族の承諾を得たうえで病理解剖を行う方針で臨むことを了承させ、対策会議は散会。11:50院長室において遺族と面談。病院長:「実はこれまで病死としてお話してきたのですが、看護師が薬を間違えて投与した事故の可能性があります」遺族:「間違いの可能性は高いのですか」病院長:「今は調査中としかいえない。病院が信用できないというのであれば、監察医務院やほかの病院で解剖してもらうという方法もありますが、どうしますか」決定的な確証はまだないのに、遺族に薬剤取り違えの可能性を伝えてくれたものと解釈して、ある意味では病院側が公平で誠実な対応をしてくれているものと受け止め、病院の医師らを信用できないというまでの気持ちはなかったため、遺族は当該病院で病理解剖することを承諾した。病院長:「改めて遺族に薬の取り違えの可能性を伝えたうえで、病院で病理解剖をすることの承諾を頂きました」衛生局:「病院自ら警察に届けると、ひいては職員を売ることになりますよね」病院長:「そうですよね」病理解剖:外表所見で右手根部に静脈ラインの痕があり、右手前腕の数本の皮静脈がその走行に沿って幅5~6mm前後の赤褐色の皮膚斑としてくっきりみえ、前腕、手背、上腕下部に及んでいるのが視認された。この赤色色素沈着は静脈注射による変化で、劇物を入れた時にできたものと判断し、解剖を担当した病理学の大学助教授(法医学の経験あり)は、警察または監察医務院に連絡することを提案した。ところが、病院長から「警察に届けなくても大丈夫です」という回答を得たので、病院幹部が監察医務院に問い合わせた結果、監察医務院のほうから後は面倒をみるから法医学に準じた解剖をやってくれとの趣旨の回答があったものと理解した。解剖の結果、右手前腕静脈血栓症および急性肺血栓塞栓のほか、遺体の血液がサラサラしていること(溶血状態:薬物が体内に入った可能性を示唆)が判明し、心筋梗塞や動脈解離症などを疑う所見はなく、病院長へポラロイド写真を持参して、右腕の血管から薬物が入った模様であること、90%以上の確率で事故死、それも薬物の誤注射によって死亡したことはほとんど間違いないと報告病院長は遺族へ、「肉眼的には心臓、脳などの主要臓器に異常が認められなかったこと、薬の取り違えの可能性が高くなったこと、今後は保存している血液、臓器などの残留薬物検査などの方法で必ず死因を究明すること」を伝えた。2月20日遺族の自宅を訪問し、それまでの経過、異常所見としては右上肢の血管走行に沿った異常着色を認めたこと、ヘパ生とヒビグルとを取り違えたため薬物ショックを起こした可能性が一層強まったといえることなどを報告。これに対し遺族は、事故であることを認めるように要求し、病院のほうから警察に届け出ないのであれば「自分で届け出る」と主張。それを受けて病院関係者と話し合った結果、医療事故を警察に届け出ることを決定した。2月22日衛生局長と面談して医療事故を警察に届け出る旨を報告。病院から誤投薬という過失があったことをはじめから認めるかたちでの届出ではなく、むしろ死因を特定して欲しいという相談を警察に対して行うかたちでの届出をするように指示を受け、所轄警察署に届け出た。3月5日組織学的検査の結果が判明:前腕静脈内および両肺動脈内に多数の新鮮凝固血栓の存在が確認され、前腕の皮静脈内の新鮮血栓が両肺の急性血栓塞栓症を起こしたと考えられた。心臓の冠動脈硬化はごく軽度(内腔の狭窄率は25%以下)であり、組織学的に冠動脈血栓や心筋梗塞は認められず、そのほかの臓器にも死因を説明できるような病変なし3月11日主治医は診断書の交付を求められたが、死因の記載を病死にするのか中毒死にするのか悩み、病院長に記載方法について相談。病院長は「困りましたね」といって、副院長らと死亡診断書の死因をどのように記載するかを話し合った。この時点では血液鑑定結果が出ていなかったので、死因の記載を「病死」としてもまったくの間違いとはいえず、むしろ入院患者の死因を不詳の死とするのはおかしいなどとの発言もあった。副院長の「病名がついているので病死でもいいんじゃないですか」とのコメントを受けて、病院長は「そういうことにしましょう」と決定。主治医は死亡診断書に、死因の種類「病死および自然死」、直接の死因「急性肺血栓塞栓症」、合併症欄に「関節リウマチ」などと記載した。これをみた病理医は、「死亡の種類」が病死とされていたため、病院長に「この病死はまずいんじゃないですか」と意見を述べたが、病院長は「昨日みんなで相談して決めたことだからこれでいいです」と答え、遺族からクレームがついたら「現時点での証明であることを説明するように」と指示した。5月31日血液からヒビグルに由来すると考えられる物質(クロルヘキシジン)がかなりの高濃度で検出されたという鑑定結果がでた。当事者の主張患者側(原告)の主張1.死亡自体に関する義務違反抗菌薬点滴終了後、点滴ライン内にヘパ生を注入するべきであったのに、誤って消毒液ヒビグルを注入されることにより死亡したものであるが、担当看護師は薬剤の準備に当たってその内容を取り違えたうえに、点滴後の処置に当たり投与する薬剤の確認を怠ったことは、看護師としての基本的注意義務に違反した結果であるさらに病院組織としても、薬剤の専門家でない看護師に調剤行為を行わせていたため、当該薬剤に応じた扱いを怠る可能性があった複数の人間が薬剤の準備から投与までの作業を分担して行っていたため、自分が担当する前後の作業内容をよく把握しないまま自分の作業を行う危険があった薬剤容器への記入方法が統一されていなかったため、注射器にメモ紙を貼り付けることにより充てんされている薬剤を表示しようとしたが、メモ紙を間違えて貼り付けることにより間違った薬剤を表示してしまう危険があったヒビグルとヘパ生の計量に、同形状の注射器を計量器として使用していたため、注射器の外形上からは内容物の区別がつかず取り違えを防ぐことができない態勢がとられていた消毒薬と点滴液用の注射器を同じ処置台の上で同時に準備したうえ、患者ごとに個別のトレーを用意し、薬札を付けるなどしなかったため、薬剤の取り違えを防げなかったという諸事情が存在し、このような事故を誘発する危険な態勢を除去するシステムが構築されなかったために、看護師らの注意義務違反を誘発し、医療事故を引き起こすことになった2.死亡後の行為に関する義務違反医師法21条の異状死体届出義務により、刑事司法の手続上で医療事故の原因や責任が明らかにされるので、医療事故による患者死亡の原因究明の端緒として機能する場面がある。そのため診療上の事故によって患者が死亡した可能性のある場合には、当該病院で病理解剖をするのではなく、所轄警察に届け出ることが、診療契約の当事者である患者またはその遺族に対する原因究明義務として課される。本件はそもそも医療事故である可能性が明白であったから、病理解剖は許されず、警察に届け出たうえで司法解剖が行われるべきであった。医療事故について病院としての対応方針を決定づける立場にあった病院長は、対策会議終了後ただちに警察へ届け出る義務があったそれにもかかわらず病院長は、医療事故を警察に届け出る方針にいったん決定したにもかかわらず、「院長が警察に届けるとは何事だ」、「職員を売ることはできませんね」との衛生局の意向を受けて、遺族に誤投薬の可能性を説明したうえで病理解剖の承諾をとる方針に転換した。そして、病理解剖を担当した医師らからポラロイド写真や具体的事情を示されたうえで、誤投薬の事実はほとんど間違いがないとの報告を受けても、医療事故を警察に届け出なかった。対策会議の時点で、事故死の無視し得ない可能性の認識はおろか、事故死の原因が誤投薬である可能性が高い旨の認識を有しており、病理解剖の結果の報告を受けた以降は、事故死の原因が誤投薬であることはほぼ確実であるとの認識に達していた。したがって病院長には原因究明義務違反行為につき確定的故意が認められる主治医については、死亡後に死体検案し、医師法21条の届出義務があるうえに、主体的に原因を究明すべきであった。それにもかかわらず医療事故の可能性を示唆する形跡を残さないために、平成11年2月22日に至るまで死亡を警察に届け出なかった。カルテにも事故の可能性を示唆する形跡を残さないため、看護師が誤投薬の可能性を申告しているという重要な事実を記載しなかった。そして、診療中の患者が死亡した場合には医師法21条の届出義務がないとの考え方があったこと、遺族が病理解剖に承諾したら警察に届け出る必要はないとの考えのもと、原告ら遺族に事故の可能性を告げず、夫から薬物性ショックの可能性について問われても、一般論としてその可能性もある旨の返答をするにとどめたうえで、原告ら遺族から病理解剖の承諾書をとった。看護師の誤投薬の可能性について報告を受けた一方で、病死したとの説を支持するさしたる根拠はなかったにもかかわらず、対策会議においてことさら病死説を唱えたことから、可能な限り医療事故の可能性を打ち消そうとしていた3.死亡診断書について死亡直後の平成11年2月11日付け死亡診断書には死因を「不詳の死」と記載したが、誤投薬の事実が明らかになりつつあった以上、新たに作成する死亡診断書の死因は「外因死」と記載するか、前回同様不詳の死と記載すべきであった。ところが、平成11年3月11日に依頼された死亡診断書には、主治医、病院長、副院長と相談のうえで、死亡の種類欄に「病死および自然死」と虚偽の記載をすることで合意し、誤投薬の事実を原告ら遺族に伝えず、死亡診断書に医療機関の都合の良いように変更した虚偽の事実を記載した病院側(被告)の主張主治医の主張1.死亡後の行為に関する義務違反患者が死亡した場合には遺族に対し死亡の経過を説明すれば十分であり、死因解明を希望するか、希望するならどのような手段をとるかは遺族が任意に決めることであって、医療機関に死因解明に必要な措置を提案する法的義務は存しない。また、医療機関が医療事故を警察に届け出たとしても、捜査は犯罪の嫌疑を明らかにするためになされるものであり、遺族に対して死亡原因を究明するためのものではないから、医療機関の警察に対する医療事故届出義務を根拠に、遺族への説明義務を導き出すことはできないさらに、医療機関に警察への届出義務を課すのは、不利益なことを自らなすように法的に強制することであり、憲法が黙秘権を保障した趣旨に抵触するおそれがあることに加えて、人間の自然の情に反するものであって、同義務を課すとかえって事故防止のための情報の収集を阻害しかねない。仮に医療機関が、遺族に対する関係で医療事故を警察に届け出るとの法的義務と負うとしても、病院長は平成11年2月12日の昼前頃に遺族に対し、死亡原因としては心疾患などの疑いがある一方で、薬の取り違えの可能性もあること、死亡原因究明のために病院で病理解剖させて欲しいこと、もし遺族の側で病院が信用できないというのであれば警察に連絡したうえで監察医務院などで解剖を行う方法もあることを説明したうえで、遺族の承諾を得て病理解剖を実施し、臓器や血液を保存し、できる限り真相を究明することを目指して臓器および血液の組織学的検査や残留薬物検査を行うように病院職員らに指示した2.死亡診断書厚生労働省の講習会では、不詳の死は白骨死体の場合に限るという意見を聞いていたし、さらに不詳の死では保険金がおりないのではないかという心配や、血液の残留薬物検査などの警察の捜査の結果が出ておらず、事故死とも書けないと考えた。そして、最終的には、病理解剖で急性肺血栓塞栓症と診断されていたため、現段階では「病死および自然死」と記載するという方向で良いのではないかという意見に落ち着いたことに基づき、病院長の立場で主治医へその旨助言したにすぎない。診断書の作成は主治医の全権に属するから、院長の助言は単なる参考意見である主治医の主張1.死亡後の行為に関する義務違反医療事故が発生した場合には、医療現場は混乱し、医師または看護師のひとりが組織体と無関係に対応ないし行動すべきではなく、医療現場全体が組織として対応することが重要であって、警察への届出も病院長がすべきものである。本件医療事故は、病院という組織体が一体としてすべての対応をすることとなったので、具体的には警察への届出も病院長がすべきであった2.死亡診断書死亡診断書記載は、病院長らとの協議の結果指示を受けて記載したものであり、主治医は事実の隠ぺいなどを考えたわけではない。せめて遺族らによる保険金請求手続がスムーズに進むほうが良いと思って、死因の種類を「病死および自然死」と記載した裁判所の判断死亡自体に関する義務違反ヘパ生入りの注射器には「ヘパ生」と黒色マジックで記載されていたにもかかわらず、2本の注射器のうち、ヘパ生入り注射器における「ヘパ生」との記載を確認することなく、ヒビグル入り注射器であると誤信し、他方、もう1本のヒビグル入り注射器には「ヘパ生」との記載がないにもかかわらず、これをヘパ生入り注射器と誤信して病室に持参し、床頭台に置いたという注意義務違反が認められる。看護師は医師から投与を指示された薬剤を取り違えてはいけないという、いついかなる場合においても患者に対して怠ることを許されない義務があるにもかかわらず、きわめて初歩的な態様によってこの義務を怠ったものであるから、これは病院の看護および投薬システムに何らかの問題があったからこそ生じたものではなく、もっぱら看護師両名の個人的注意義務の懈怠によって生じたものである。死亡後の行為に関する義務違反診療契約の当事者である病院開設者としては、患者が死亡した場合には、具体的状況に応じて必要かつ可能な限度で死因を解明すべき義務があり、遺族から説明の求めがある以上、遺族に対し事案の具体的内容、保有する情報の内容などに応じて、死亡に至る事実経過や死因を説明すべき義務を、信義則上診療契約に付随する義務として負うと考えられる。病院長は対策会議の主催者であり、本件医療事故についての病院としての対応方針を決定するに当たり、大きな影響力を有していた。平成11年2月12日の対策会議において、看護師をはじめとする関係者から薬剤の取り違えの具体的可能性がある旨の話を聞き、いったんは医療事故を警察に届け出るとの方針に決めたにもかかわらず、衛生局の見解としては警察への届出を消極的に考えているものと解釈したうえで、方針を転換して本件医療事故を警察に届け出ないことに決定した。さらに同日病理解剖に協力した大学助教授から警察へ連絡することを提案されたにもかかわらず、これを受け入れずに病理解剖するよう指示し、右腕の静脈に沿った赤色色素沈着を撮影したポラロイド写真を示されたうえで薬物の誤注射によって死亡したことはほぼ間違いがないとの解剖の結果報告を受けたにもかかわらず、警察に届出をしないという判断を変えなかった。後日遺族から、病院のほうから警察に届け出ないのであれば自分で届け出るといわれ、ようやく2月22日警察に届け出た。このような経過から、病院長は解剖結果の報告を受けた段階で医療事故を警察に届け出なければならなくなったにもかかわらず、あえて同月22日まで届出をせず、死因解明義務を果たしたとはいえない。医師法21条が異状死体について届出義務を課していることからすれば、法は犯罪の疑いがある場合には、当該医療従事者が自ら死因を解明するのではなく、警察に死因の解明をゆだねるのが適切である。ここにいう警察への届出とは、「異状死体があったことの届出」に過ぎず、それ以上の報告が求められるものではないから、憲法38条1項において黙秘権が保障されている趣旨に抵触するとはいえない。主治医は死体を検案し、医師法21条の届出義務を負っていたのであるから、主体的に死因解明および説明義務を履行すべき立場にあった。看護師が薬剤を間違えて注入したかもしれないといっていることを知らされたうえ、症状が急変するような疾患などの心当たりがまったくなく、さらに死亡翌日に行われた病理解剖で死体の右腕の静脈に沿って赤い色素沈着がある異状を認めたのであるから、警察へ届け出る必要があった。ところが、漫然と病院の方針に従い、自ら警察へ届け出なかったのは死因解明義務違反にあたる。東京都原告(遺族)側、1億4,410万円の請求に対し、5,988万円の判決病院長原告(遺族)側、600万円の請求に対し、80万円の判決主治医原告(遺族)側、360万円の請求に対し、40万円の判決病院長平成15年5月19日東京高等裁判所において、医師法違反、虚偽有印公文書作成および同行使罪につき、懲役1年および罰金2万円(執行猶予3年)。主治医医師法違反の罪で罰金2万円の略式命令。厚生労働省医道審議会から3ヵ月の医業停止処分。担当看護師業務上過失致死罪で禁固1年(執行猶予3年)考察この事件は、医療ミスとしてはきわめてエポックメイキングな「横浜市大患者取り違え事故」からわずか1ヵ月後に発生し、その後はご存知のように、マスコミの医療ミス報道がますます過熱するようになりました。事故の内容は、消毒薬を間違えて静脈注射したというとてもショッキングな出来事であり、この事件を契機として、医療現場には透明の注射器以外に「色つきシリンジ」が急速に普及し始め、内服薬をはじめとする誤注射の頻度はかなり減少しました。もう1つの大事な教訓は、患者へ輸血や注射薬を投与した直後に容態急変した場合、できる限り同じルートから補液や救急薬品を注入してはならないということです。このケースでは静脈内に留置した持続点滴針から、抗菌薬の静脈投与を行っていて、注射が終わると点滴ルート内をヘパ生で満たしていました。その状況でヘパ生とヒビグルを間違えて注入したのですが、当初体内に入ったのは約1mLで、残りの9mLは点滴ルート内に止まっていました。そして、患者の容態が急変し輸液が必要ということで、同じルートを用いてソルデム3Aを接続したため、点滴ルート内に残っていた約9mLのヒビグルがすべて体内へ移行してしまいました。合計10mLものヒビグルが注入された結果、前腕皮静脈内に血栓が生じ、さらに急性肺血栓塞栓症へ発展して短時間で死亡に至りました。もし、異物が静注されたかもしれないということが早期に報告されていれば、既存の点滴ルートはすぐさま抜針され、別の静脈ルートを確保していたと思います。そうしていれば、もしかすると救命の余地がわずかながらも残されていたかもしれません。その次に問題となるのが、普段の診療ではあまり意識することのない「異状死体」の取り扱いです。医師法第21条では、「医師は異状死体を検案した場合、24時間以内に所轄警察署に届け出なければならない」と規定され、これに違反すると2万円の罰金が科せられます。そもそもこの法律がつくられた背景には、多くの遺体が死因を解明されないままにされるという実情があり、異状死体の届け出を契機として、殺人事件をはじめとする犯罪捜査の端緒にしようという目的がありました。これに対し日本法医学会は、「病死と考えられても、DOA(到着時死亡)や死因を確定するのが困難な場合には異状死体として取り扱う」という見解を示し、「異状死体」の概念をかなり広げてしまいました。その結果、前述した医師の「異状死体届出義務」が広い概念の「異状死体」とセットで議論されるようになり、医師が「合併症」による死亡と思っても、家族が不幸な結果を受け入れられず医療ミスを疑えば、ただちに警察が医療現場に介入する可能性があるという事態になっています。ところが、警察には医療内容を詳細に評価する知識や能力はありませんので、いたずらに医療関係者が捜査対象となってしまいます。しかも、医療機関が「医師法第21条」に沿って異状死体の届出をしたと思っても、警察の側では刑法第211条「業務上過失致死」の疑いで捜査を開始する可能性があり、医師や看護師が不当に「犯人扱い」されることも考えられます。本件では、死亡直後から消毒薬の誤注射が疑われていたので、あとから振り返れば死亡から24時間以内に異状死体として届け出なければならないケースでした。ところが、病院内の調整や都の衛生局との関係から届出をめぐって明確な方針が決まらず、死亡から11日後の通報となりました。それも、「病院が警察へ届けないのならば遺族が届ける」ということで、ようやく重い腰を上げたので、遺族の不信感は相当大きなものだったと思います。ところが、医師の側からみれば、消毒薬の誤注入が早い段階から疑われて当初は警察へ届けるつもりだったのに、死因を確定することはできなかったし、「病院自ら警察に届けると、ひいては職員を売ることになる」という心配から、病院幹部職員のコンセンサスとして届出を躊躇してしまったのも十分に理解できることです。また、これまでみたこともない異例の事故であっただけに、病院長、衛生局、主治医などの意見が錯綜し、警察署への届出のみならず死亡診断書の記載内容も不適切となってしまいました。さらに裁判過程でも、病院長は「届出義務は主治医に責任があり病院長はアドバイスしただけ」と主張する一方で、主治医は「病院長の方針に従っただけ」と発言するなど、身内同士の言い合いにまでなっています。そもそもこのケースは看護師による単純ミスであり、判決でも病院組織としての問題ではなく、看護師個人の問題を重視しました。つまり、行政処分を受けた病院長や主治医には明らかな医療ミスといえるほどの医療行為はまったくなかったと思います。問題とされた警察への届出についても、別に悪意があったために遅くなった訳ではなく、その間にも衛生局の職員と綿密な打ち合わせを行っていたし、大勢での意思決定であったといってもよいでしょう。それなのに、医師法第21条違反ということで病院長には実刑判決、主治医には3ヵ月もの医業停止処分が下ったのですから、こんな理不尽な結末はないといっても過言ではありません。もしこの事件の当事者となった場合には、おそらくほとんどの医師が同様の処罰を受けた可能性が高いと思います。なお、現状でも異状死体届出については混沌としているのに、日本外科学会から出された異状死体のガイドラインがさらに波紋を広げてしまいました。このガイドラインは、「重大な過失で障害が発生すれば届け出ること」を前提とし、「患者に同意を得た合併症であれば医師法第21条の対象外である」という内容です。これはよく考えると、外科学会のいうとおりに死亡直後は患者の同意を得て異状死体を届け出ず、24時間経過したあとの検証で実は合併症ではなかったというような症例は、事後的に医師法第21条違反として処罰される余地が残ることになってしまいます。さらに、異状死体届出の対象者は本来「死体検案医」であったのに、医師の高い倫理性を理由に「診療を行った医師自身」と別の基準も作ってしまいました。このため、ますます警察介入の範囲を拡大してしまうことになり、当初外科学会が想定した意図とは異なる方向へ進むことになりました。やはりここで重要なのは、少々極論となってしまうかもしれませんが、異状死体、あるいは患者の急死に際しては、一歩間違えると警察署への届出をめぐって「刑事事件」に発展しかねないので、自らの医師免許をかけるつもりで、対応を心がけなければならないということだと思います。だからといって、病院内の急死をすべて警察に届けるということではありません。なかには事前に予想された合併症で亡くなるようなケースも数多くありますし、医師の医療行為とはまったく関係なく死亡するような重篤例もあります。法律の知識に明るくないわれわれ医師にとって、警察へ届けるということは「自首する」と同じことだと思いがちですが、実際の運用場面ではけっしてそうではありません。ましてや、本件で問題となったように「警察へ届け出るのは職員を売ること」と短絡すべきものでもないと思います。この場合の明確な届出基準を提示するのは難しいと思いますが、本件のような消毒薬の誤注入など、争いようのない医療過誤の場合には必ず届出するべきでしょう。問題なのは、家族が急死という事実を受け入れがたい場合や、医師の立場で死因をはっきりと特定できない症例だと思います。そのような時には、「警察の見解を聞く」という考え方で所轄警察署に一報だけ入れておく、ということでも対応可能な場合があります。そうすると警察から「事件性はありますか」と質問されるようですから、医療行為に問題がないと考えられる時には「事件性はないと思います」と回答すると、警察のほうもむやみな介入はしないのが一般的なようです。そして、警察へ連絡を入れておいたこと(連絡した時間、医師の氏名、相手の警察官の氏名、連絡内容など)をカルテに記載しておくことによって、少なくとも医師法第21条の問題はクリアできるようにも思います。ただし、都道府県によっては対応が異なる場合がありますので、できれば病院内でどのようにするのかあらかじめ話し合っておく必要があるでしょう(たとえば東京都23区内の場合には、病院から警察へ異状死体の届出があると、必ず警部補以上の担当者が検視を行うと同時に、監察医務院の医師が死体検案に立ち会うという内規があるようです)。また、数々のストーカー事件などで初動捜査が遅れ、世論の非難を浴びたという苦い反省から、患者の遺族から告訴、告発があった場合には、警察は必ず捜査に着手するようです。この場合は刑法211条(業務上過失致死)を念頭においた捜査ですので、告訴・告発という最悪のかたちにならないように、医師からの事後説明をおろそかにせず、患者家族とのコミュニケーションを十分にはかる必要があると思います。整形外科

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第20回 診療ガイドライン その3:望まれる診療ガイドラインのかたち

■今回のテーマのポイント1.検察官には診療ガイドラインの「行間」を読むことはできない2.したがって、素人が読んでも理解できるようなガイドラインを作成することが肝要である3.システムエラー型であることを明記した事故報告書を作成しても、刑事訴追されるのがわが国の現状である。速やかにWHOドラフトガイドラインに即した事故調査制度に変更しなければならない事件の概要44歳女性(X)。乳がんと診断されたため、平成20年4月、左乳房部分切除術実施目的にてA病院に入院しました。手術当日午前8時55分。Xに対し、麻酔科医であるY医師が麻酔導入を行いました。その結果、Xは、人工呼吸器管理下に置かれ、自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態となりました。Y医師は、Xに対する麻酔導入が終わり、バイタルサインも安定したことから、インチャージ(責任者)として別の手術室で後期研修医の麻酔導入を指導・補助するため、9時7分頃、手術室を出ました。なお、Y医師は、連絡用のPHSを携帯しており、手術室を出る際、看護師に対し、「インチャージのため退室するが、何かあったら知らせてほしい」と告げていました。9時15分頃、執刀医であるZ医師は、Y医師が不在のまま、看護師に手術台の高さおよび角度の調整をさせ、手術を開始しました。9時16分頃、Xに酸素を供給していた蛇管が麻酔器の取付口から脱落し、Xへの酸素供給が遮断されてしまいました。しかし、蛇管の脱落あるいはそれによるXの状態の異変に気が付く者はいませんでした。9時31分頃、看護師が、モニター上にSpO2の表示がないことに気付き、執刀医であるZ医師に伝えるとともに、PHSでその旨をY医師に伝えました。連絡を受けたY医師は、直ちに手術室に引き返したところ、蛇管が麻酔器から脱落しているのを発見しました。9時34分頃、直ちに用手換気に切り替えるなど応急措置を行いましたが、9時37分頃、Xは心肺停止となりました。Z医師や応援に駆け付けた医師らによる蘇生措置により、心拍の再開は得られたものの、Xには、低酸素脳症による高次脳機能障害および四肢不全麻痺が残ることとなりました。これに対し、横浜区検は、Y医師を「Xの身体の状態を目視するほか、同人に装着されたセンサー等により測定・表示された心拍数・血圧・酸素飽和度等を注視するなどの方法で同人の全身状態を絶え間なく看視し、異変があれば適切に対処すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、同日午前9時7分頃、漫然と同室から退室して約27分間にわたって前記手術室を不在にし、その間、同人の全身状態を看視するなどせずに放置した過失により、Xに完治不能の低酸素脳症に基づく高次脳機能障害及び四肢不全麻痺の傷害を負わせた」として、起訴(刑事訴追)しました。事件の判決検察官は、(1)麻酔担当医である被告人は、Xに全身麻酔を施したことにより、Xを自発呼吸のできない意識消失・鎮痛・筋弛緩状態にしたのであるから、Xの生命維持のため、呼吸管理をするなどして、Xの全身状態を適切に維持・管理することが不可欠となった、(2)したがって、被告人には、Xの身体の状態を目視するほか、Xに装着されたセンサー等により測定・表示された心拍数等を注視するなどの方法で、Xの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務があると主張するので、これについて付言する。(1)の点は、一般論としては、全くそのとおりである。しかも、(1)でいう、患者の全身状態を適切に維持・管理することが、麻酔担当医の役割であることも、異論はない。ここまでは、弁護人も認めるところである。しかし、そうであるからといって、(2)のように、麻酔担当医が、常時、手術室にいて、患者の全身状態を絶え間なく看視すべきであるとして、具体的な注意義務を導くのは、余りにも論理が飛躍しているというほかない。(1)のような事情は、別に本件に特有のものではなく、他の全身麻酔が行われる場合にも、共通していえることである。それでは、我が国の麻酔担当医が、当該医療機関での職務の体制や患者の容態、麻酔や手術の進行状況を問わず、全身麻酔をした患者に対し、手術室にいて絶え間ない看視をしているかといえば、決してそうではない(少なくとも、そうであるとの立証は、本件では全くされていない。)。確かに、検察官が援用する日本麻酔科学会作成の「安全な麻酔のためのモニター指針」によると、麻酔中の患者の安全を維持確保するため、「現場に麻酔を担当する医師が居て、絶え間なく看視すること。」という指針の記載がある。しかし、このモニター指針は、モニタリングの整備を病院側に促進させようという目的から作成されたものであり、麻酔科学会として目標とする姿勢、望ましい姿勢を示すものと位置づけられている(甲医師証言)。すなわち、この指針に適合せず、絶え間ない看視をしなかったからといって、許容されないものになるという趣旨ではない。なお、乙医師及び丙医師は、麻酔科医は絶え間ない看視を行うべきであるとの見解を、証人として述べているが、これは、麻酔科医が専門家として追求すべき手術中の役割は何かといった観点からの見解であって、我が国での麻酔科医の実情を述べるものではない。以上みてきたところによると、手術室不在という被告人の行動は、その不在時間の長さ(手術室に戻るまでに約27分間、蛇管が外れたときまででも、約9分間)からして、インチャージの担当として後期研修医の指導・補助をしていたという事情があったとはいえ、いささか長過ぎたのではないかとの問題がなくはないが、被告人の置かれた具体的状況、更には当時の我が国の医療水準等を踏まえてみたとき、刑事罰を科さなければならないほどに許容されない問題性があったとは、到底いいがたい。したがって、本件事故について、被告人には、検察官が主張するような、常時在室してBの全身状態を絶え間なく看視すべき業務上の注意義務を認めることはできない。以上のとおりであるから、被告人には、本件事故について過失は認められないから、本件公訴事実については、犯罪の証明がないことに帰着し、刑訴法336条により、被告人には無罪の言渡しをする。(*判決文中、下線は筆者による加筆)(横浜地判平成25年9月17日)ポイント解説予定では、各論の4回目となるところでしたが、診療ガイドラインに関する重要な判決が出ましたので、今回は「診療ガイドライン その3」として紹介させていただきます。本事例では、日本麻酔科学会が作成した「安全な麻酔のためのモニター指針」に、麻酔中の患者の安全を維持確保するため、「現場に麻酔を担当する医師が居て、絶え間なく看視すること」と記載されていたことから、検察は、Y医師を刑事訴追したものと考えられます。しかしながら、判決にも記載されているように、医師不足が問題となっているわが国の医療現場において、同ガイドラインが勧告する「麻酔科医が絶え間なく看視すること」をすべての医療機関・手術室において実施することが不可能であることはご存じのとおりです。したがって、少しでも医療現場を知っている者が本ガイドラインを読めば、このガイドラインが述べているのは「あるべき理想的な姿」であって、将来的にそれに近づくことが望まれるものの、現在の医療現場においてそれを義務づけると、行える手術件数が著しく低下する結果、手術が受けられず死亡する患者が多数生じてしまうことから、現状における本ガイドラインの記載は、あくまで「目標」、「道標」に過ぎないと読み取ることができます。ですが、検察は、医療の素人ですし、医療現場を知りませんので、この医療従事者ならば当然把握できる「行間」を読むことができません。その結果、検察は、本ガイドラインの字面だけを捉え、Y医師を刑事訴追してしまったのです。裁判の結果、Y医師は無罪となりましたが、裁判中のY医師の心労は計り知れないものであったと思われます。このような不幸な事態が生じないよう、ガイドラインの作成に当たっては、その記載内容が医療従事者以外の者、特に検察官、弁護士に読まれることを十分に意識して作成する必要があるといえます。なお、報道によると、「毛利晴光裁判長は、言い渡しの後、『捜査が十分ではないのに起訴した疑いが残る。このような捜査処理がないことを望む』と検察側に注文をつけた」(読売新聞 2013年9月17日)と報道されており、現在でも裁判所が、医療現場に対する刑事司法の介入に謙抑的な姿勢を持っていることがうかがえます。本事例では、院内事故調査が行われ、事故調査報告書が公表されています。平成20年12月に作成された事故調査報告書では、「7.再発防止に向けた提言」において、1麻酔科医、外科医、看護師間の役割分担、連携が十分でなかったこと。さらに、麻酔科医不在時における全身管理の取り決めがないこと2麻酔器及び生体情報モニターに関する教育が不足していたこと3医師は経験を優先し、マニュアル等を重要視しないことがあること以上3つの根本原因を前提に、次のとおり再発防止策を提言する。と示しており、「8.終わりに」において、「今回の事故は、技術の巧拙の問題ではなく、それぞれの職種間あるいは個人の間の連携や意思疎通が十分でなかったこと、麻酔器モニターなど機器への慣れや過信等が根本的な原因であると考え、再発防止策を提言した。今後、病院をあげてこうした取組を進め、安全で安心な医療を確立しなければならない。特に医師は、指針やマニュアルが継続して遵守され、質の高い医療を提供していくよう、その中心となって取り組むよう要請する」と示し、本事例は、システムエラー型の事案であり、誰か特定の個人の責任に帰せしめることは適当ではない旨を示していたものの、残念ながら刑事訴追がなされてしまいました。本事故調査報告書に記載されているように、今後、同種事例が発生しないためにも、医療機関において改善すべき点はいくつもあります。したがって、本事例は広く知識として共有されるべきものと思われます。しかしながら、当事者が正直に話した結果、刑事訴追されるとすれば、だれも事故調査において正直に話せなくなってしまいます。本事例のような事故調査報告書の記載でも、刑事訴追がなされるのであれば、現状の事故調査システム自体に欠陥があると言わざるを得ません。「WHO draft guidelines for adverse event reporting and learning systems」にも明記されているとおり、報告制度によって処罰されないこと(non-punitive)、そのためには情報が秘匿(confidential)されなければならないことという世界標準に沿った事故調査システムが、速やかに構築されなければいけません。裁判例のリンク次のサイトでさらに詳しい裁判の内容がご覧いただけます。(出現順)横浜地判平成25年9月17日

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NSAIDsにより消化性潰瘍が穿孔し死亡したケース

消化器概要肺気腫、肺がんの既往歴のある67歳男性。呼吸困難、微熱、嘔気などを主訴として入退院をくり返していた。経過中に出現した腰痛および左足痛に対しNSAIDsであるロキソプロフェン ナトリウム(商品名:ロキソニン)、インドメタシン(同:インダシン)が投与され、その後も嘔気などの消化器症状が継続したが精査は行わなかった。ところがNSAIDs投与から12日後に消化性潰瘍の穿孔を生じ、緊急で開腹手術が行われたが、手術から17日後に死亡した。詳細な経過患者情報肺気腫、肺がん(1987年9月左上葉切除術)の既往歴のある67歳男性。慢性呼吸不全の状態であった経過1987年12月3日呼吸困難を主訴とし、「肺がん術後、肺気腫および椎骨脳底動脈循環不全」の診断で入院。1988年1月19日食欲不振、吐き気、上腹部痛が出現(約1ヵ月で軽快)。4月16日体重45.5kg5月14日症状が安定し退院。6月3日呼吸困難、微熱、嘔気を生じ、肺気腫と喘息との診断で再入院。6月6日胃部X線検査:慢性胃炎、「とくに問題はない」と説明。6月7日微熱が継続したため抗菌薬投与(6月17日まで)。6月17日軟便、腹痛がみられたためロペラミド(同:ロペミン)投与。6月20日体重41.5kg、血液検査で白血球数増加。6月24日抗菌薬ドキシサイクリン(同:ビブラマイシン)投与。6月26日胃もたれ、嘔気が出現。6月28日食欲低下も加わり、ビブラマイシン®の副作用と判断し投与中止。6月29日再び嘔気がみられ、びらん性胃炎と診断、胃粘膜保護剤および抗潰瘍薬などテプレノン(同:セルベックス)、ソファルコン(同:ソロン)、トリメブチンマレイン(同:セレキノン)、ガンマオリザノール(同:オルル)を投与。7月4日嘔気、嘔吐に対し抗潰瘍薬ジサイクロミン(同:コランチル)を投与。7月5日嘔気は徐々に軽減した。7月14日便潜血反応(-)7月15日嘔気は消失したが、食欲不振は継続。7月18日体重40.1kg。7月19日退院。7月20日少量の血痰、嘔気を主訴に外来受診。7月22日腰痛および膝の感覚異常を主訴に整形外科を受診、鎮痛薬サリチル酸ナトリウム(同:ネオビタカイン)局注、温湿布モムホット®、理学療法を受け、NSAIDsロキソニン®を1週間分投与。以後同病院整形外科に連日通院。7月25日血尿が出現。7月29日出血性膀胱炎と診断し、抗菌薬エノキサシン(同:フルマーク)を投与。腰痛に対してインダシン®坐薬、セルベックス®などの抗潰瘍薬を投与。7月30日吐物中にうすいコーヒー色の吐血を認めたため外来受診。メトクロプラミド(同:プリンペラン)1A筋注、ファモチジン(同:ガスター)1A静注。7月31日呼吸不全、嘔気、腰と左足の痛みなどが出現したため入院。酸素投与、インダシン®坐薬50mg 2個を使用。入院後も嘔気および食欲不振などが継続。体重40kg。8月1日嘔吐に対し胃薬、吐き気止めの投薬開始、インダシン®坐薬2個使用。8月2日10:00嘔気、嘔吐が持続。15:00自制不可能な心窩部痛、および同部の圧痛。16:40ブチルスコポラミン(同:ブスコパン)1A筋注。17:50ペンタジン®1A筋注、インダシン®坐薬2個投与。19:30痛みは軽快、自制の範囲内となった。8月3日07:00喉が渇いたので、ジュースを飲む。07:30突然の血圧低下(約60mmHg)、嘔吐あり。08:50医師の診察。左下腹部痛および嘔気、嘔吐を訴え、同部に圧痛あり。腹部X線写真でフリーエアーを認めたため、腸閉塞により穿孔が生じたと判断。15:00緊急開腹手術にて、胃体部前壁噴門側に直径約5mmの潰瘍穿孔が認められ、腹腔内に食物残渣および腹水を確認。胃穿孔部を切除して縫合閉鎖し、腹腔内にドレーンを留置。術後腹部膨満感、嘔気は消失。8月10日水分摂取可能。8月11日流動食の経口摂取再開。8月13日自分で酸素マスクをはずしたり、ふらふら歩行するという症状あり。8月15日頭部CTにて脳へのがん転移なし。白血球の異常増加あり。8月16日腹腔内留置ドレーンを抜去したが、急性呼吸不全を起こし、人工呼吸器装着。8月19日胸部X線写真上、両肺に直径0.3mm~1mmの陰影散布を確認。家族に対して肺がんの再発、全身転移のため、同日中にも死亡する可能性があることを説明。8月20日心不全、呼吸不全のため死亡。当事者の主張患者側(原告)の主張慢性閉塞性肺疾患では低酸素血症や高炭酸ガス血症によって胃粘膜血流が低下するため胃潰瘍を併発しやすく、実際に本件では嘔気・嘔吐などの胃部症状が発生していたのに、胃内視鏡検査や胃部X線検査を怠ったため胃潰瘍と診断できなかった。さらに非ステロイド系消炎鎮痛薬はきわめて強い潰瘍発生作用を有するのに、胃穿孔の前日まで漫然とその投与を続けた。病院側(被告)の主張肺気腫による慢性呼吸器障害に再発性肺がんが両肺に転移播種するという悪条件の下で、ストレス性急性胃潰瘍を発症、穿孔性腹膜炎を合併したものである。胃穿孔は直前に飲んだジュースが刺激となって生じた。腹部の術後経過は順調であったが、肺気腫および肺がんのため呼吸不全が継続・悪化し、死亡したのであり、医療過誤には当たらない。ロキソニン®には長期投与で潰瘍形成することはあっても、本件のように短期間の投与で潰瘍形成する可能性は少なく、胃穿孔の副作用の例はない。インダシン®坐薬の能書きには消化性潰瘍の可能性についての記載はあるが、胃潰瘍および胃穿孔の副作用の例はない。たとえ胃潰瘍の可能性があったとしても、余命の少ない患者に対し、腰痛および下肢痛の改善目的で呼吸抑制のないインダシン®坐薬を用いることは不適切ではない。裁判所の判断吐血がみられて来院した時点で出血性胃潰瘍の存在を疑い、緊急内視鏡検査ないし胃部X線撮影検査を行うべき注意義務があった。さらに検査結果が判明するまでは、絶食、輸液、止血剤、抗潰瘍薬の投与などを行うべきであったのに怠り、鎮痛薬などの投与を漫然と続けた結果、胃潰瘍穿孔から汎発性腹膜炎を発症し、開腹手術を施行したが死亡した点に過失あり。原告側合計4,188万円の請求に対し、2,606万円の判決考察今回のケースをご覧になって、「なぜもっと早く消化器内視鏡検査をしなかったのだろうか」という疑問をもたれた先生方が多いことと思います。あとから振り返ってみれば、消化器症状が出現して入院となってから胃潰瘍穿孔に至るまでの約60日間のうち、50日間は入院、残りの10日間もほとんど毎日のように通院していたわけですから、「消化性潰瘍」を疑いさえすればすぐに検査を施行し、しかるべき処置が可能であったと思います。にもかかわらずそのような判断に至らなかった原因として、(1)入院直後に行った胃X線検査(胃穿孔の58日前、NSAIDs投与の45日前)で異常なしと判断したこと(2)複数の医師が関与したこと:とくにNSAIDs(ロキソニン®、インダシン®)は整形外科医師の指示で投与されたことの2点が考えられます(さらに少々考えすぎかも知れませんが、本件の場合には肺がん術後のため予後はあまりよくなかったということもあり、さまざまな症状がみられても対症療法をするのが限度と考えていたのかも知れません)。このうち(1)については、胃部X線写真で異常なしと判断した1ヵ月半後に腰痛に対して整形外科からNSAIDsが処方され、その8日後に嘔吐、吐血までみられたのですから、ここですぐさま上部消化管の検査を行うのが常識的な判断と思われます。しかもこの時に、ガスター®静注、プリンペラン®筋注まで行っているということは、当然消化性潰瘍を念頭に置いていたと思いますが、残念ながら当時患者さんをみたのは普段診察を担当していない消化器内科の医師でした。もしかすると、今回の主治医は「消化器系の病気は消化器内科の医師に任せてあるのでタッチしない」というスタンスであったのかも知れません。つまり(2)で問題提起したように、胃穿孔に至る過程にはもともと患者さんを診ていた内科主治医消化器系を担当した消化器内科医腰痛を診察しNSAIDsを処方した整形外科医という3名の医師が関与したことになります。患者側からみれば、同じ病院に入院しているのだから、たとえ診療科は違っても医者同士が連絡しあい、病気のすべてを診てもらっているのだろうと思うのが普通でしょう。ところが実際には、フリーエアーのある腹部X線写真をみて、主治医は最初に腸閉塞から穿孔に至ったのだろうと考えたり、前日までNSAIDsを投与していたことや消化性潰瘍があるかもしれないという考えには辿り着かなかったようです。同様に整形外科担当医も、「腰痛はみるけれども嘔気などの消化器症状は内科の先生に聞いてください」と考えていたろうし、消化器内科医は、「(吐血がみられたが)とりあえずはガスター®とプリンペラン®を使っておいたので、あとはいつもの主治医に任せよう」と思ったのかも知れません。このように本件の背景として、医師同士のコミュニケーション不足が重大な影響を及ぼしたことを指摘できると思います。ただしそれ以前の問題として、NSAIDsを処方したのであれば、たとえ整形外科であっても副作用のことに配慮するべきだし、もし消化器症状がみられたのならば内科担当医に、「NSAIDsを処方したけれども大丈夫だろうか」と照会するべきであると思います。同様に消化器内科医の立場でも、自分の専門領域のことは責任を持って診断・治療を行うという姿勢で臨まないと、本件のような思わぬ医事紛争に巻き込まれる可能性があると思います。おそらく、各担当医にしてみればきちんと患者さんを診察し、(内視鏡検査を行わなかったことは別として)けっして不真面目であったとか怠慢であったというような事例ではないと思います。しかし裁判官の判断は、賠償額を「67歳男性の平均余命である14年」をもとに算定したことからもわかるように、大変厳しい内容でした。常識的に考えれば、もともと肺気腫による慢性呼吸不全があり、死亡する11ヵ月前に肺がんの手術を行っていてしかも両側の肺に転移している進行がんであったのに、「平均余命14年」としたのはどうみても不適切な内容です(病院側弁護士の主張が不十分であったのかもしれません)。しかし一方で、そう判断せざるを得ないくらい「医師として患者さんにコミットしていないではないか」、という点が厳しく問われたケースではないかと思います。今回のケースから得られる教訓として、自分の得意とする分野について診断・治療を行う場合には、最後まで責任を持って担当するということを忘れないようにしたいと思います。また、たとえ専門外と判断される場合でも、可能な限りほかの医師とのコミュニケーションをとることを心掛けたいと思います。消化器

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老人保健施設内の転倒事故

内科最終判決平成15年6月3日 福島地方裁判所 判決概要老人保健施設入所中の95歳女性、介護保険では要介護2と判定されていた。独歩可能で日中はトイレで用を足していたが、夜間はポータブルトイレを使用。事故当日、自室ポータブルトイレの排泄物をナースセンター裏のトイレに捨てにいこうとして、汚物処理場の仕切りに足を引っかけて転倒した。右大腿骨頸部骨折を受傷し、手術が行われたが、転倒したのは施設側の責任だということで裁判となった。詳細な経過患者情報明治38年生まれ、満95歳の女性。介護保険で要介護2の認定を受けていた経過平成12年10月27日老人保健施設に入所。入所動機は、主介護者の次女が入院することで介護者不在となったためであった。■入所時の評価総合的な援助の方針定期的な健康チェックを行い、転倒など事故に注意しながら在宅復帰へ向けてADLの維持・向上を図る。骨粗鬆症あり、下半身の強化に努め転倒にも注意が必要である。排泄に関するケア日中はトイレにいくが夜間はポータブルトイレ使用。介護マニュアルポータブルトイレ清掃は朝5:00と夕方4:00の1日2回行う。ポータブルトイレが清掃されていない場合には、患者はトイレに自分で排泄物を捨てにいったが、容器を洗う場所はなかったので排泄物の処理と容器の洗浄のために、ときおり処理場を利用していた。どうにか自分で捨てにいくことができたので、介護職員に頼むことは遠慮して、自分で捨てていた。1月8日05:00ポータブルトイレの処理状況「処理」17:00ポータブルトイレの処理状況「処理していない」夕食を済ませ自室に戻ったが、ポータブルトイレの排泄物が清掃されておらず、夜間もそのまま使用することを不快に感じ自分で処理場に運ぼうとした。18:00ポータブルトイレ排泄物容器を持ち、シルバーカー(老人カー)につかまりながら廊下を歩いてナースセンター裏のトイレにいき(約20m)、トイレに排泄物を捨てて容器を洗おうと隣の処理場に入ろうとした。ところが、その出入口に設置してあるコンクリート製凸状仕切り(高さ87mm、幅95mm:汚物が流れ出ないようにしたもの)に足を引っかけ転倒した。職員が駆け寄ると「今まで転んだことなんかなかったのに」と悔しそうにいった。そのまま救急車で整形外科に入院し、右大腿骨頸部骨折と診断された。平成13年1月12日観血的整復固定術施行。3月16日退院。事故の結果、創痕、右下肢筋力低下(軽度)の後遺症が残り、1人で歩くことが不自由となった。3月7日要介護3の認定。誠意の感じられない施設側に対し、患者側が損害賠償の提訴に踏み切る(なお事故直後の平成13年1月20日、仕切りの凸部分を取り除くための改造工事が施工された)。当事者の主張入所者への安全配慮義務患者側(原告)の主張施設側は介護ケアーサービスとして入所者のポータブルトイレの清掃を定時に行うべき義務があったのに怠り、患者自らが捨てにいくことを余儀なくされて事故が発生した。これは移動介助義務、および入所者の安全性を確保することに配慮すべき義務を果たさなかったためである。病院側(被告)の主張足下のおぼつかないような要介護者に対しては、ポータブルトイレの汚物処理は介護職員に任せ、自ら行わないように指導していた。仮にポータブルトイレの清掃が行われなかったとしても、自らポータブルトイレの排泄物容器を処理しようとする必要性はなく、ナースコールで介護職員に連絡して処理をしてもらうことができたはずである。ところが事故発生日に患者が介護職員にポータブルトイレの清掃を頼んだ事実はない。したがって、入所者のポータブルトイレの清掃を定時に行うべき義務と事故との間に因果関係は認められない。工作物の設置・保存の瑕疵患者側(原告)の主張老人保健施設は身体機能の劣った状態にある要介護老人の入所施設であるという特質上、入所者の移動などに際して身体上の危険が生じないような建物構造・設備構造が求められている。処理場の出入口には仕切りが存在し、下肢機能が低下している要介護老人の出入りに際して転倒などの危険を生じさせる形状の設備であり「工作物の設置または保存の瑕疵」に該当する。病院側(被告)の主張処理場内の仕切りは、汚水などが処理場外に流出しないことを目的とするもので、構造上は問題はなく、入所者・要介護者が出入りすることは想定されていない。したがって、工作物の設置または保存の瑕疵に該当しない。入所者への安全配慮義務患者側(原告)の主張ポータブルトイレの清掃を他人に頼むのは、患者が遠慮しがちな事項であり、職員に頼まずに自分で清掃しようとしたからといって、入所者に不注意があったとはいえいない。病院側(被告)の主張高齢であるとはいえ判断力には問題なかったから、ナースコールで介護職員に連絡して処理をしてもらうことができたはずである。そのように指導されていたにもかかわらず、自ら処理しようとした行動には患者本人の過失がある。裁判所の判断記録によれば、ポータブルトイレの清掃状況は、外泊期間を除いた29日間(処理すべき回数53回)のうち、ポータブルトイレの尿を清掃した「処理」23回トイレの中をみた「確認」15回声をかけたが大丈夫といわれた「声かけ」が2回「処理なし」3回「不明」10回とあるように、必ずしも介護マニュアルに沿って実施されていたわけではない。しかも、実施したのかどうか記録すら残していないこともある。居室内に置かれたポータブルトイレの中身が廃棄・清掃されないままであれば、不自由な体であれ、老人がこれをトイレまで運んで処理・清掃したいと考えるのは当然である。施設側は「ポータブルトイレの清掃がなされていなかったとしても、自らポータブルトイレの排泄物容器を処理しようとする必要性はなく、ナースコールで介護職員に連絡して処理をしてもらうことができたはずである」と主張するが、上記のようにポータブルトイレの清掃に関する介護マニュアルが遵守されていなかった状況では、患者がポータブルトイレの清掃を頼んだ場合に、施設職員がただちにかつ快くその求めに応じて処理していたかどうかは疑問である。したがって、入所者のポータブルトイレの清掃をマニュアルどおり定時に行うべき義務に違反したことによって発生した転倒事故といえる。また、老人保健施設は身体機能の劣った状態にある要介護老人が入所するのだから、その特質上、入所者の移動ないし施設利用などに際して、身体上の危険が生じないような建物構造・設備構造がとくに求められる。ところが、入所者が出入りすることがある処理場の出入口に仕切りが存在すると、下肢の機能の低下している要介護老人の出入りに際して転倒などの危険を生じさせる可能性があり、「工作物の設置または保存の瑕疵」に該当するので、施設側の賠償責任は免れない。原告側合計1,055万円の請求に対し、合計537万円の判決考察このような判決をみると、ますます欧米並みの「契約社会」を意識しなければ、医療従事者は不毛な医事紛争に巻き込まれる可能性が高いことを痛感させられます。今回は、95歳という高齢ではあったものの、独歩可能で痴呆はなく、判断力にも問題はなかった高齢者の転倒事故です。日中はトイレまで出かけて用を足していましたが、夜は心配なのでベッド脇に置いたポータブルトイレを使用していました。当初の介護プランでは、1日2回ポータブルトイレを介護職員が掃除することにしました。ところが律儀な患者さんであったのか、排泄物をどうにか自分でトイレに捨てにいくことができたので、施設職員に頼むことは遠慮して、時折自分で捨てていたということです。そのような光景をみれば誰しもが、「ポータブルトイレの汚物をトイレまで捨てにいくことができるのなら、リハビリにもなるし、様子を見ましょう」と考えるのではないでしょうか。そのため、最初に定めたマニュアル(1日2回ポータブルトイレの確認・処理)の遵守が若干おろそかになったと思われます。ところが、ひとたび施設内で傷害事故が発生すると、どのようなマニュアルをもとに患者管理を行っていたのか必ずチェックされることになります。本件では「ポータブルトイレ清掃は朝5:00夕方4:00の1日2回行う」という介護マニュアルが、実態とはかけ離れていたにもかかわらず、変更されることなく維持されたために、施設側が賠償責任を負う結果となりました。したがって、はじめに定めた看護計画や介護計画については、はたして実態に即しているのかどうか、定期的にチェックを入れることがきわめて重要だと思います。もし本件でも、本人や家族とポータブルトイレの汚物処理について話し合いがもたれ、時折自分で処理をすることも容認するといったような合意があれば、このような一方的な判断にはならずにすんだ可能性があります。次に重要なのが、一見転倒の心配などまったく見受けられない患者であっても、不慮の転倒事故はいつ発生してもおかしくないという認識を常に持つことです。ほかの裁判例でもそうですが、病院あるいは老人施設には、通常の施設とは異なる「高度の安全配慮義務」が課せられていると裁判所は考えます。そのため、自宅で高齢者が転倒したら「仕方がない事故」ですが、病院あるいは老人施設では「一般の住宅や通常の施設とは違った、利用者の安全へのより高度な注意義務が課せられている」と判断されます。つまり、わずかな段差や滑りやすい床面などがあれば、転倒は「予見可能」であり、スタッフが気づかずに何も手を打たないと「結果回避義務をつくさなかった」ことで、病院・施設側の管理責任を必ず問われることになります。高齢になればなるほど、身体的な問題などから転倒・転落の危険性が高くなりますが、24時間付きっきりの監視を続けることは不可能ですから、あらかじめリスクの高いところへは、患者さんができる限り足を踏み入れないようにしなければなりません。たとえば、防火扉、非常口、非常階段などは、身体的に不自由な患者さんにとってはハイリスクエリアと考え、そこへは立ち入ることがないよう物理的なバリアを設けたり、リハビリテーションを兼ねた歩行練習は安全な場所で行うようにするなど、職員への周知を徹底することが肝心だと思います。内科

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院内の転倒事故で工作物責任を問われたケース

リハビリテーション科最終判決判例時報 1736号113-118頁概要脳内出血後に生じた右不全片麻痺に対し入院リハビリテーションを行っていた71歳女性。病院内の廊下を歩行していたところ、子供が廊下の壁に沿って設置されていた防火扉の取っ手に触れたため、防火扉が閉じ始めて患者と接触、その場に転倒し、右大腿骨頸部骨折を受傷した。患者側は、防火扉の設置保存に瑕疵があったために負傷したとして、病院に損害賠償を請求してきた。詳細な経過患者情報脳内出血による左不全片麻痺を発症し、急性期治療を他院で受けた71歳女性経過1996年11月5日リハビリテーション目的で某病院に入院となる。ADL(日常生活動作)については、T字杖を用いて200m程度歩行可能。手摺を使えば階段昇降も可能、ベッド上からの起き上がり、車椅子からベッドへの乗り移り、更衣、食事、排泄、入浴も一人で行うことができた。12月6日病院の廊下を歩行中、子供が廊下の壁に沿って設置されていた防火扉の取っ手に触れたため、防火扉が閉じ始めて患者に接触、その場に転倒するという事故が発生した。X線写真で右大腿骨頸部骨折と診断され、人工骨頭置換手術が行われた。術後もリハビリテーションを続けたが、T字杖ではなく、もっぱら4点杖を使用して50m程度しか歩行できなくなり、転倒への恐怖心や病院への不信感などから、リハビリテーションに対しては消極的となった。それ以外のADLでは、入浴の際、膝から下を洗うことが困難となった以外には目立った変化はみられなかった。その他、右臀部痛がひどく、ベッドから起き上がる際には介助が必要となった。もともと患者は一人暮らしを希望していたが、介助が必要になったため娘との同居を余儀なくされた。当事者の主張患者側(原告)の主張1.防火扉の設置保存の瑕疵により発生した傷害事故であるため、病院側は工作物責任を負うべきである2.もともと労災等級で第3級に相当する状態であったところへ、人工骨頭置換術により下肢の三大関節の用廃第8級が追加されたため、両者を併合して第1級の後遺障害である病院側(被告)の主張1.子供が触れた防火扉を避けきれずに転倒したのは、脳内出血による右片麻痺が寄与していたし、転倒して骨折したことには重度の骨粗鬆症が寄与しているため、7割の過失相殺がある2.後遺障害の等級は事故前後ともに第3級相当である裁判所の判断1.病院内は高齢者や身体に疾患を有するものが多数往来しているため、今回のような事故を回避するために、一般の住宅や通常の施設とは違った、利用者の安全へのより高度の注意義務が課せられている。したがって、本件は病院内工作物の設置保存の瑕疵により生じた事故である2.患者は現在一人で生活をおくることはきわめて困難であり、随時介護を要する状態にあるので、後遺障害は第2級に該当する3.患者の年齢、骨折の際の肉体的苦痛、リハビリテーションの負担などは原告にとって相当程度のものであったことを斟酌すると、後遺障害の等級を減じる要素や過失相殺の要因とはならない原告側2,590万円の請求に対し、2,010万円の支払命令考察このような事件は、患者さんにしてみればとても不幸なことですが、病院側に「全面的な責任あり」という判決が下っても、もなかなか容易には受け入れ難いように思います。そもそも、病院を建設する時には消防法にしたがって適切な場所に防火扉を設置する義務があるわけですし、その防火扉を病院職員が誤って閉じたのならまだしも、面会に来ていた子供がいたずらして閉じてしまったのですから、「そこまで責任を負わなければならないのか」、という感想をもちます。なかには、子供の保護者に責任をとってもらうべきだというようなご意見もあるでしょう。ただし、このような事件が実際にあるということは、われわれ医療従事者にとっては病院内の設備を見直すときのとてもよい教訓となりますので、今後同じような紛争が起きないように配慮を行うことが肝心だと思います。まず第一に、将来的には欧米並の訴訟社会に移行することを念頭において、病院内の設備にはリスクがないかどうか、細心の注意を払って見直す必要があります。少々極端な話にも聞こえますが、「病院内で滑って転んだのは掃除の時に水をこぼしたのが悪い」ですとか、「玄関の自動ドアに手を挟まれたのは病院の責任だ」、「職員が非常口のドアを反対側から突然開けたので転倒した」などなど、例を挙げればきりがないと思います。今回の事件では防火扉が予期せぬところで閉じてしまったために、たまたま居合わせた患者が負傷するという事故が発生しました。そのような場合には、「病院は一般の住宅や通常の施設とは違った、利用者の安全へのより高度の注意義務が課せられている」と判断されますので、あらかじめリスクの高いところへは患者さんがいかないようにしなければなりません。すなわち、防火扉、非常口、非常階段などは、身体的に不自由な患者さんにとってはハイリスクエリアと考え、そこへは立ち入ることがないよう物理的なバリアを設けたり、リハビリテーションを兼ねた歩行練習は安全な場所で行うようにするなど、職員への周知を徹底することが肝心だと思います。また、普段病院に常駐しているスタッフにとっては、いつもと違った角度で施設内のリスクを見直すにはどうしても限界があると思いますので、定期的に外部の人間にチェックしてもらうなどの方策を講じるのがよいと思います。なお今回と同様の事故として、高齢の入院患者が窓際に設置されたベッドから窓の外に転落し死亡したケースに対し、病院側の工作物責任を認めたもの(判例タイムズ 881号183頁)、見舞いに来た幼児が窓際に設置したベッドから窓の外に転落した事故(判例時報 693号72頁)などがあります。次に、不幸にして院内で転倒そのほかの事故が発生してしまい、結果的に患者さんへの不利益が生じた場合には、スタッフ全員ができる限り誠意のこもった対応をするよう心がける必要があります。今回の事件でも、病院側は「やむを得なかった」という弁解をくり返し、自らの責任を認めようとしなかったため、患者側は著しい不信感を抱き、かえって話がこじれてしまいました(もし当初からきちんと話し合いをしたうえで、できる限り力になりましょうという態度をとっていれば、訴外で解決できた可能性も十分にあると思います。もちろん、その場合にも損害保険会社の施設賠責保険が使用可能です)。では具体的にどのようにすればよいのか、という点に明快な回答を用意するのは難しいのですが、少なくとも病院内で発生した外傷事故、あるいは結果的に患者さんにとっての不利益が院内で生じた場合には、病院側にも責任の一端があるという態度で臨むべきではないかと思います。その際の責任範囲をどこまで設定するのかということについては、さまざまな考え方があるかと思いますので、必ず院内の安全管理委員会で検討するとともに、弁護士をはじめとする外部の顧問にアドバイスを求めるのがよいと思います。リハビリテーション科

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ガラス片による切創の縫合後にX線写真をとらなかったことが医療過誤と認定されたケース

救急医療最終判決平成14年11月26日 札幌地方裁判所 判決概要割れたガラスで右手指の切創を受傷した男性。救急病院を受診して10数針の縫合処置を受けたのち、近医で縫合部位の抜糸が行われたが、受傷部位の疼痛や違和感を訴えなかったために、患部のX線撮影は施行されないまま治療は終了した。ところが、受傷から9年後にガラス片の残存が発覚し、別病院でガラス片の摘出手術が行われ、受傷後にX線撮影を行わなかったことをめぐって医事紛争へと発展した。詳細な経過経過平成3年2月15日午前4:30グラス(直径約7cm、高さ約8cmのクリスタル製)を右手に持ったまま床に転倒、右手に体重がかかってグラスが割れ、かなりの出血を来たしたため、右手にタオルを巻いて救急当番医を受診。担当医師は右第1指、第3指の切創に対し10数針の縫合処置を行ったが、明け方の受診でもあり、あえて患部のX線撮影は施行しなかった。2月16日受傷翌日に別病院を受診。右第1指、および第3指の縫合部位を消毒し、抗菌薬および伸縮包帯を処方した。右第2指については疼痛または違和感などの申告なし。ここでも患部のX線撮影は施行しなかった。2月22日右第3指の縫合部位の全抜糸、および第1指の縫合部位の半抜糸施行。2月25日右第1指の縫合部位の全抜糸施行、治療終了となった。 その後約9年間にわたって受傷部位に関連した症状なし。平成12年11月10日自動車を運転しようとハンドルを握った際に、右手の内側に何かが刺さったような感じを自覚。よくみると右第2指内側の付け根付近に堅いものがあり、そこに触れると鋭い痛みが走るようになる。11月13日別病院を受診し右手X線撮影の結果、右第2指にガラス片様のものがあることが発見された。12月4日右第2指ガラス片(幅約4mm、長さ約8mm)の摘出手術をうける。当事者の主張患者側(原告)の主張縫合処置を担当した救急病院の医師、およびその後創部の抜糸を担当した医師は、右手の切創が割れたガラスによるものであることを認識していたのであるから、右手にガラス片の残存がないかどうか確認するべき注意義務があった。ところが各医師は切創部位のX線撮影を行わなかったため、9年間もガラス片が発見されずに放置され、多大な精神的苦痛を受けた。病院側(被告)の主張右第2指のガラス片は、本件負傷の際に刺さって皮下に入り込んだものではなく、その後の機会に刺さって入り込んだものである。右第2指にガラス片があったとしても、診察当時その存在を疑わせるような事情はなかったため、X線撮影をする注意義務はない。ちなみに、異物の存在を疑わせるような事情がない場合にX線撮影をすることは、国民健康保険連合会における診療報酬の査定において過剰診療と指摘されるものでる。裁判所の判断本件は異物であるガラス片の存在を疑わせるような事情があったと認定できるので、「異物の存在を疑わせるような事情がない場合のX線撮影は国民健康保険連合会から過剰診療と指摘される」という、病院側の主張は採用できない。縫合部位の消毒・抜糸を担当した医師としては、受傷直後に縫合処置を行った前医を信頼し、かつ患者の負担を避けるため改めてそのX線写真撮影をしなくてもよいという考え方もあるが、前医においてX線撮影をしていなければ、ガラス片を確認するためにX線撮影をする注意義務があった。本件では担当した医師がいずれも、受傷部位のX線撮影を行うという注意義務を果たさなかったために、9年間にわたって体内にガラス片が残存するという事態となったので、精神的苦痛に対する慰謝料を支払うべきである。原告側合計281万円の請求に対し、合計44万円の判決考察明け方5:00頃の救急外来に、割れたコップのガラスで右手を切った患者が来院したので、10数針の縫合処置を行なったというケースです。当然のことながら、十分な消毒、局所麻酔ののち、縫合する部位にガラス片が残っていないかどうかを肉眼で確認したうえで、創痕が残らないように丁寧に縫合したと思われます。そして、午前5:00頃の時間外診察ということもあり、あえて(緊急で)患部のX線撮影をすることはないと判断し、もし経過中に疼痛や違和感があれば、その時点で対応するという方針であったと考えられます。ところが、患者は自らの都合で、縫合処置を行った病院ではなく別病院に通院を開始し、とくに疼痛を申告することもなく、抜糸が行われて治療終了となりました。このような状況で、たった1回だけの診察・縫合処置を行った初診時の医師に対し、「手の外傷でX線撮影を行わないのは医療過誤である」とするのは、少々行き過ぎのような判決に思えてなりません。前医から治療を引き継いで抜糸を担当した医師にしても、合計3回の通院治療は縫合した部分の経過観察が主たる目的であり、受傷部位の疼痛や感覚障害などの申告がない限り、あらためてX線撮影を指示することはないというのが、現場の医師の認識ではないでしょうか。確かに、米国手の外科学会編の「手の診察マニュアル」のような医学書レベルでは、「手の切創の診察をする場合には、正面・側面・斜位のX線写真を必ずとっておく。ガラス片は、X線に写り、みつかることがある。しかし、木片やプラスチックや、時にはガラスも写らないことがあるので注意を要する」という記載があります。しかし実際の臨床現場では、とくに痛みや違和感の申告がなければ、あえてX線写真までは撮影しないこともあるのではないでしょうか。もしフロントガラスが割れるような交通事故であれば、鉛入りのガラスがX線写真にも写るので、X線写真を撮ってみようか、という判断にもつながると思います。ところが上記医学書にも「時にはガラスも写らないことがあるので注意を要する」という記載があるように、X線撮影によってすべてのガラス片が確認できるわけではありません。結局のところ、医療現場にたずさわる医師と、医学書などの書証からしか医療の世界を垣間見ることのできない法律家との間に、埋めることのできない認識の相違があるため、このような判決に至ったと考えられます。そして、今後同じような医事紛争に巻き込まれないためには、やはり医学書通りに「手の切創の診察をする場合には、正面・側面・斜位のX線写真を必ずとっておく」という姿勢で臨まざるを得ないように思います。救急医療

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ジャクソンリースと気管切開チューブの接続不具合で死亡した乳児のケース

小児科最終判決平成15年3月20日 東京地方裁判所 判決概要生後3ヵ月乳児の気管切開術後に、a社製のジャクソンリース回路とT社製の気管切開チューブを接続して用手人工呼吸を行おうとしたところ、接続不具合のため回路が閉塞して換気不全に陥り、11日後に死亡した事故について、企業の製造物責任ばかりでなく、担当医師の注意義務違反が認定された。詳細な経過経過2000年12月8日体重1,645gで出生、呼吸障害がみられ、しばらく気管内挿管による人工呼吸器管理を受けた。2001年3月13日声門・声門下狭窄および気管狭窄を合併したため、手術室で気管切開術を施行。術後の安静を目的として筋弛緩薬が静脈注射され、自発呼吸がないままNICU病棟へ帰室することになった。その際、患児を病棟へ搬送するために、気管切開部に装着された気管切開チューブ(T社シャイリー気管切開チューブ小児・新生児用)にa社ジャクソンリース小児用麻酔回路を接続して用手人工呼吸を行おうとした。ところが、使用したジャクソンリースは新鮮ガス供給パイプが患者側接続部に向かってTピースの内部で長く突出したタイプであり、他方、シャイリー気管切開チューブは接続部の内径が狭い構造になっていたため、新鮮ガス供給パイプの先端が気管切開チューブの接続部の内壁にはまり込んで密着し、回路の閉塞を来した。そのため患児は換気不全によって気胸を発症し、全身の低酸素症、中枢神経障害に陥った。3月24日消化管出血、脳出血、心筋脱落・線維化、気管支肺炎などの多臓器不全により死亡。当事者の主張患者側(原告)の主張1.企業の責任a社のジャクソンリースは、T社のシャイリー気管切開チューブに接続した時に呼吸回路が閉塞され、患者が換気不全に陥るという危険性を有していたにもかかわらず、適切な指示・警告を出さなかった。さらに1997年に愛媛大学医学部附属病院で、ジャクソンリースの新鮮ガス供給パイプとT社販売の人工鼻の閉塞による換気不全事故が2件発生している。人工鼻とジャクソンリース回路の接続の仕組みと、T社シャイリー気管切開チューブとジャクソンリース回路の接続の仕組みは同じであるから、a社、T社は閉塞の危険性を認識し得なかったとはいえない2.病院側の責任担当医師がジャクソンリースとシャイリー気管切開チューブの構造や特徴を理解し、組合せ使用時の構造や特徴に関心を持ち、呼吸回路の死腔量や換気抵抗を理解することに努めていれば、接続部の目視点検を行うことで接続部で閉塞していることを発見するのは可能かつ容易である。さらに今回使用したジャクソンリースとシャイリー気管切開チューブ以外の器具を選択する余地も十分にあったので、死亡という最悪の結果を回避することは可能であった本件事故と同一のメカニズムにより生じた接続不具合は、過去に麻酔科の専門誌や学会で発表され、ジャクソンリースの添付文書にも、不充分な内容ではあるが注意喚起がなされている。これらの情報を集約すれば、接続不具合は予見できない事象ではない。また、ジャクソンリース回路であればどれでも同じという発想で、医療器具の安全性よりも数を優先して導入したことが、被告病院の医療従事者らがジャクソンリースの構造や特徴を理解しないままに使用することにつながった医療器具製造業者側の主張a社の主張a社ジャクソンリースは、呼気の再吸入を防止するために新鮮ガス供給パイプを長くしたもので、昭和50年代終わり頃から同一仕様で販売されて10年以上も経過し、医療機関に広く採用されている。そのような状況で被告T社がシャイリー気管切開チューブを「標準型換気装置および麻酔装置と接続できる」と説明して販売したのであるから、a社ではなくT社がジャクソンリースとの不具合の発生回避対策を講じるべきであった。さらに病院が医療機関に通常要求される注意義務を尽くせば、不具合は容易に確認できたはずであるので、a社の過失はないT社の主張シャイリー気管切開チューブの接続部は、日本工業規格(JIS規格)に準拠し通常の安全性は満たしているから欠陥はない。シャイリー気管切開チューブは汎用性が高く、本国内はもとより世界中で数多く使用されている。また、当製品は接続する相手を特定して販売していたものではなく、a社ジャクソンリースのような特殊な形状を有した製品との接続は想定されていなかったまた愛媛大学の事故については、T社人工鼻と同様の接続部の形状をもつ製品はきわめて多いからその中のひとつにすぎないシャイリー気管切開チューブについて接続不具合を予見することは不可能であったさらに、医療現場において医療器具を創意工夫して使用することは医療従事者の裁量に任されており、その場合リスク管理上の責任も医療現場に委ねられるべきである。本件事故は、担当医師が基本的注意義務を怠り発生させたものであるから、医療器具の製造業者には責任がない。病院側(被告)の主張ジャクソンリース回路に気管切開チューブ類を接続して安全性を確認する点検方法は、一般には存在せず、いかなる医学専門書にもその方法に関する記載はない。また、気管切開チューブなどを接続した状態で点検を行えるテスト肺のような器具自体も存在しないうえ、器具を口に咥えて確認する方法も感染などの問題から行い得ない。したがって、ジャクソンリースと気管切開チューブとの組合せによる接続不具合を確認することは不可能であった。また、本件と類似の接続不具合事故についての安全情報は、企業からも厚生労働省からも医療機関に対し一切報告されなかった。また本件事故発生以前に、別の患児に対して同様の器具の組合せによる換気を600回以上行っているが、原疾患に起因すると考えられる気胸が2回発生した以外は何のトラブルもない。したがって担当医師は本件事故の発生を予見できなかった。裁判所の判断企業側の責任小児・新生児に対しジャクソンリース回路を用いて用手人工換気を行う場合、マスク、気管内チューブ(経口・経鼻用)、気管切開チューブなどの呼吸補助用具にジャクソンリース回路を組み合わせ、相互に接続して使用することが通常の使用形態であり、a社およびT社は、医療の現場においてジャクソンリース回路に他社製の呼吸補助用具が組み合わされて接続使用されている実態を認識していた。ところがa社の注意書には、換気不全が起こりうる組合せにつき、「他社製人工鼻など」と概括的な記載がなされているのみで、そこにシャイリー気管切開チューブが含まれるのか判然としないうえ、換気不全のメカニズムについての記載がないために、医療従事者が個々の呼吸補助用具ごとに回路閉塞のおそれを判断することは困難で、組合せ使用時の回路閉塞の危険を告知する指示・警告上の欠陥があったと認められ、製造物責任を負うべきである。同様にT社も、シャイリー気管切開チューブを販売するに当たり、その当時医療現場において使用されていたジャクソンリースと接続した場合に回路の閉塞を起こす危険があったにもかかわらず、そのような組合せ使用をしないよう指示・警告しなかったばかりか、使用説明書に「標準型換気装置および麻酔装置に直接接続できる」と明記し、小児用麻酔器具であるジャクソンリースとの接続も安全であるかのごとき誤解を与える表示をしていたので、シャイリー気管切開チューブには指示・警告上の欠陥があった。医療器具の製造・輸入販売企業には、医療現場における医療器具の使用実態を踏まえて、医療器具の使用者に適切な指示・警告を発して安全性を確保すべき責任があるので、たとえ医療器具を使用した医師に注意義務違反が認められても、企業が製造物責任を免れるものではない。病院側の責任小児科領域の呼吸管理においては、呼吸回路の死腔が大きいと換気効率が低下するため、死腔が小さい器具が用いられることが多いが、回路の死腔を小さくすると吸気・呼気の通り道が狭くなって換気抵抗が増加する関係にあることが知られている。そのため小児科医師は、ジャクソンリース回路と気管切開チューブを相互接続するに当たり、それぞれの器具につき死腔と換気抵抗に注意を払うのが一般的である。もし担当医師が、死腔を減らすために接続部内径が狭くなっているというシャイリー気管切開チューブの構造上の基本的特徴、および死腔を減らすために新鮮ガス供給パイプが患者側接続部に向かって長く伸びているというジャクソンリースの構造上の基本的特徴を理解していれば、両器具を接続した場合に、新鮮ガス供給パイプの先端が上記接続部の内壁にはまり込んで呼吸回路の閉塞を来し事故が発生することを予見することが可能であった。たとえ医学専門書に接続不具合の点検方法について記載がないからといって、ただちに結果回避の可能性がなかったということはできない。担当医師は、両器具が相互に接続された状態でその本来の目的に沿って安全に機能するかどうかを事前に点検すべき注意義務に違反したために起きた事故である。医師は人間の生命身体に直接影響する医療行為を行う専門家であり、その生命身体を委ねる患者の立場からすれば、医師にこの程度の知識や認識を求めることは当然であって、医師に理不尽や不可能を強いるものとは考えられない。原告側合計8,204万円の請求に対し、企業と連帯して合計5,063万円の支払い命令考察ジャクソンリースと気管切開チューブ接続不具合による死亡事故は、われわれ医療関係者からみて、当然医療器具を製造・販売した企業側がすべての責任を負うべきもの、と考えていたと思います。担当医師はミスとされるような間違った医療行為はしていませんし、どの医師が担当しても事故は避けられなかったと考えられます。もう一度経過を振り返ると、気管内挿管を継続していた生後3ヵ月の低出生体重児に、声門・声門下狭窄および気管狭窄がみられたため、全身麻酔下で耳鼻科医師が気管切開を行いました。手術後は安静を保つため筋弛緩薬を投与してNICUで管理することになり、小児科担当医師がNICUに常備していたジャクソンリースを携えて手術室まで出迎えにいきました。ところが、ジャクソンリースと気管切開チューブの接続不具合で気胸を起こしてしまい、最終的には死亡に至ったというケースです。ご遺族にとってはさぞかし無念であり残念な事故とは思いますが、出迎えにいった小児科医にとっても衝撃的な出来事であったと思います。あとから振り返ってみても、どこをどうすれば患児を助けることができたのか、という反省点を挙げにくいケースであると思います。小児科担当医師の立場では、筋弛緩薬により自発呼吸がない状態で帰室するため、用手人工喚気をする必要があり、となればNICUに常備していたジャクソンリースを用いるのが当然、ということになります。ジャクソンリースを携行する段階で、よもやこのジャクソンリースと気管切開チューブが接続不具合を起こすなど、100%考えていなかったでしょう。なぜなら、この医師がこの病院に勤務する以前から購入されていたジャクソンリースであったと思われるし、手術では耳鼻科医師がこの乳児に最適と思って選んだ気管切開チューブを装着したのですから、「接続がうまくいくのが当然」という認識であったと思います。まさか、接続がうまくいかない医療器具をメーカー側が作るはずはないし、製品として世に登場する前に、数々の臨床試験をくり返して安全性を確かめているはずだ、という認識ではないでしょうか。もし、この担当医師(小児科医師)がジャクソンリースを選定・購入する立場であったとしたら、院内で使用する呼吸器関連の器具との接続がうまくいくかどうか配慮する余地はあったと思います。しかし、もともとNICUに常備されているジャクソンリースに対し、「接続不具合が発生する気管切開チューブが存在するかどうか事前にすべて確認せよ」などということは、まったく医療現場のことを理解していない法律専門家の考え方としか思えません。ましてや、事故発生当時に企業や厚生労働省から、ジャクソンリースと気管切開チューブの接続不具合に関する情報は一切提供されていなかったのですから、事故前に確認する余地はまったくなかったケースであると思います。にもかかわらず、「医師は人間の生命身体に直接影響する医療行為を行う専門家であり、その生命身体を委ねる患者の立場からすれば、医師にこの程度の知識や認識を求めることは当然であって、医師に理不尽や不可能を強いるものとは考えられない」などという判断は、いったいどこに根拠があるのでしょうか、きわめて疑問に思います。本件のように、医師の過失とは到底いえないような医療事故でさえ、医師の注意義務違反を無理矢理認定してしまうのは、非常に由々しき状況ではないでしょうか。このような判決文を書いた裁判官がもし医師の道を選んで同様の事故に遭遇すれば、必ずや今回のような事態に発展したと思います。ただし本件ほどの極端な事例ではなくても、人工呼吸器関連の医療事故には、病院側に対して相当厳しい判断が下されるようになりました。なぜなら、呼吸器疾患などにより人工換気が必要な患者では、機器の不具合が生命の存続を直接脅かすような危険性を常に秘めているから思われます。たとえば、人工呼吸器が知らないうちにはずれてしまったがアラームを消音にしていた、人工呼吸器の回路にリークがあるのに気づくのが遅れた、あまりアラームがうるさいので警報域を低めにしておいたら呼吸が止まっていた、加湿器のなかに蒸留水以外の薬品を入れてしまった、などという事故が今までに報告されています。個々のケースにはそれなりに同情すべき点があるのも事実ですが、患者が病院というハイレベルの医療管理下にある以上、人工呼吸器に関連したトラブルのほとんどは過失を免れない可能性が高いため、慎重な対応が必要です。なお今回のような事故を防ぐためにも、院内で使用している医療機器(人工呼吸器、各種カテーテル類、輸液ポンプ、微量注入器など)については、なるべく一定のフローに沿って定期的な点検・確認を行うことが望まれます。同じメーカーの製品群を使用する場合にはそれほどリスクは高くないと思いますが、本件のように他社製品を組み合わせて使用する場合には、細心の注意が必要です。今回の事例を教訓として、ぜひとも院内での見直しを検討されてはいかがでしょうか。■日本麻酔科学会 麻酔機器・器具故障情報,薬剤情報,注意喚起 情報 より故障情報2001年2月28日都立豊島病院におけるジャクソンリース回路およびシャイリー気管切開チューブの組み合わせ使用による死亡事故に関して3月24日付きの毎日新聞およびインターネットの記事で紹介されました、a製ジャクソンリース回路(旧型)とマリンクロット社製シャイリー新生児用気管切開チューブを併用しての人工呼吸による患児の死亡事故について、現在まで判明した情報は次の通りです。a製旧型ジャクソンリース回路(現在まで新型と並行販売していた)では、フレッシュガス吹送用ノズルが、Lコネクターの中央湾曲部から気管チューブ接続口へ向けて深く挿入されています。一方、M社が発売しているシャイリー気管切開チューブの新生児用(NEO)と小児用(PED)はチューブの壁厚が厚く(従って内径が狭く)、この両者を併用すると、ジャクソンリース回路のノズルが気管切開チューブに嵌入して、フレッシュガスが肺のみへ送り続けられ、呼気および換気が不可能となったことが今回のおよび昨年11月の死亡事故の原因です。2001年4月6日ジャクソンリース回路と気管切開チューブの接続についてa製ジャクソンリース回路とM製シャイリーの気管切開チューブによる事故の続報をお知らせします。厚生労働省は日本医療器材工業会(代表 テルモ株式会社 山本章博氏)に対して、上記以外のジャクソンリース回路と気管切開チューブのあらゆる組み合わせについての危険性の調査を命じました。日本医療器材工業会は3月30日の時点で、リコーと小林メディカルを除く他社の製品の組み合わせについてチェックを終了しております。その結果、ジャクソンリースとしてはa製に加えて五十嵐医科工業製、気管切開チューブとしてはマリンクロット製に加えて泉工医科工業製、日本メディコ製の一部のものを組み合わせた時に、危険性のあることが判明しました。2001年5月2日ジャクソンリース回路と気管切開チューブの接続についてa製ジャクソンリース回路とM製シャイリー気管切開チューブによる事故後の日本医療器材工業会のその後の調査で、アネス(旧アイカ)取扱のデュパコ社製ノーマンマスクエルボに関しても、問題の生じる可能性があるということで、回収が開始されました。小児科

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褥瘡患者の体位交換が3時間おきでも不適切と判断されたケース

皮膚最終判決判例タイムズ 949号192-197頁概要小脳出血により寝たきり状態となった59歳男性。既往症として糖尿病があった。発症当初は総合病院にて治療が行われ、状態が安定した約3ヵ月後に後方病院へ転院した。転院後は約3時間おきの体位交換が行われていたが、約1週間で仙骨部に褥瘡を形成、次第に悪化した。そして、約6ヵ月後に腎不全の悪化により死亡したが、家族から褥瘡の悪化が全身状態の悪化を招き、ひいては腎不全となって死亡したと訴えられた。詳細な経過患者情報59歳男性経過1992年1月5日意識障害で発症し、A総合病院で小脳出血と診断され、開頭血腫除去手術を受けた59歳男性。既往症として糖尿病に罹患していた。術後の回復は思わしくなく、中枢性失語症、両側不全麻痺、四肢拘縮により寝返りも打てない状況であり、食事は経管栄養の状態であった。4月18日後方のB病院(32床)へ入院、A病院からの看護サマリーには、「褥瘡予防、気道閉鎖予防にて2時間毎の体位交換を励行しておりました。どうぞよろしく」「DMのため仙骨部、褥瘡できやすい」と記載されていた。なお、A病院では褥瘡形成なし。また、B病院では寝たきりの患者に対し、体位交換は3時間毎に行われていた。この時のBUN 40.4、Cre 0.94月26日仙骨部に第I度の褥瘡形成。イソジン®ゲルとデブリサン®の処置。6月15日患者独自の判断でエアーマット使用開始。6月25日第II度の褥瘡へと悪化。11月5日BUN 33.2、Cre 1.411月26日褥瘡のポケットが深くなり浸出液が多量、第III度の褥瘡へと悪化。次第に全身状態や意識状態が悪化。12月3日BUN 77、Cre 3.6透析が必要であるとの説明。12月26日呼吸困難に対し気管切開施行。12月28日家族の強い希望により、初期治療を行ったA総合病院へ転院。12月30日腎不全により死亡した。当事者の主張患者側(原告)の主張入院患者の褥瘡発生予防、褥瘡改善は医療担当者の責任であるのに、頻繁な体位交換、圧迫力の軽減、局所の保温、壊死組織物質の除去、適切なガーゼ交換などを怠り、褥瘡を悪化させて全身的衰弱を招き、腎機能を悪化させ腎不全となり、敗血症を併発させ、遂に死に至らしめてしまった注意義務違反、債務不履行がある。病院側(被告)の主張基準看護I類、患者4人に対し看護師1名という限られた看護師数では、事実上3時間毎の体位変換が限度である。死亡原因は小脳出血に引き続き併発した腎不全であり、褥瘡の悪化はその結果である。褥瘡は身体の臓器病変と完全に関連しており、単に褥瘡の治療を行えばよいと考えるのは早計である。裁判所の判断褥瘡を予防するために少なくとも2時間おきの体位交換が必要であったのに、看護体制から事実上3時間毎の体位変換が限度であることをもって、褥瘡の予防と治療に関する診療上の義務が免除ないし軽減される筋合いのものではない。そもそも2時間毎の体位変換を実施できないのであれば、それを実施できる医療機関に転医させるべきである。直接の死因である腎不全については、腎機能障害が原因と考えられるけれども、その一方で、褥瘡も腎機能を悪化させる要因として少なからざる影響を及ぼしたため、債務不履行ないし注意義務違反が認められる。原告側合計2,800万円の請求に対し、842万円の判決考察われわれ医療従事者がしばしば遭遇する「床ずれ」に対し、「寝たきりの患者には2時間毎の体位変換が医学常識であり、過酷な勤務態勢を理由に褥瘡をつくるとは何ごとか!褥瘡をつくることがわかっているのなら、褥瘡をつくらない病院へ転送すべきである」という、きれいごとばかりを並べた司法の判断がおりました。いったい、この判決文を書いた裁判官は、今現在の日本の病院事情をご存じなのでしょうか。ことに本件のような日常生活全面介護、意思の疎通もままならない患者が急性期をすぎて3~6ヵ月経過すると、2時間毎の体位変換が可能な総合病院に長期にわたって入院することは難しいのが常識でしょう。判決文では、最初の総合病院を退院した際、「病院の体制上、ある程度回復した患者をこれ以上入院させておくことが難しい」と裁判官は認識しておきながら、褥瘡をつくる心配があるからといって、再びこの患者に退院勧告をしたような病院に対し、褥瘡だけを治療目的としてもう一度入院治療をお願いするのはきわめて難しいことを、まったく考慮していません。一方本件では、最初の病院を退院する時には全身状態は安定していたと思われるし、その時点でさらなる積極的な治療が行われるとはいえない状態なので、自宅につれて帰るという選択肢もあったと思います。しかし往々にして、寝たきり状態の患者をすぐに家に連れて帰るような家族はむしろまれであるため、B病院に転院した背景には、家族の事情も大いにあったと思います。つまり、諸般の事情を勘案したうえで、2時間毎の体位変換が難しい看護体制の病院を選択せざるを得なかったのではないでしょうか。にもかかわらず、このB病院だけに責任を求めるのは、家族の役割を軽視しているばかりか、行政(厚生労働省の診療報酬)と司法の矛盾をもあらわにしていると思います。ただ残念ながら、今後同じような訴訟が起きるたびにこの判決が引用されて、「2時間毎の体位変換ができないような病院はけしからん」と判断される可能性がきわめて高くなります。そこで、今後同様のトラブルに巻き込まれないためには、「2時間毎の体位交換」を大原則とするしか方法はないと思います。なお、本件では細かい点をみてみると、患者と病院側とのコミュニケーションに問題があったことは否めません。たとえば、患者側に対し、「床ずれなんか痛くないよ、治るよ、治るよ」とか、「褥瘡のことについてうるさいのはあんただけだ」などと説明し、相手にしなかった点をことさら問題視しています。さらには、褥瘡に対し効果的といわれているエアーマットを、患者自らの判断で購入して使用するようになったことも、かなり裁判官の心証を悪くしていると思います。また、看護記録がつぶさに検討され、体位変換の記録が残っていないのは体位変換が行われなかったと認定されました。中には夜間一度も体位変換されなかった点が強調され、「3時間毎の体位変換といいながら、ちっともやっていなかったではないか」という判断に至ったと思われます。おそらく、体位変換したことをすべて看護記録に残すわけではないと思いますので、本当は体位変換を行っていたのかも知れず、この点は病院側に気の毒であったと思います。後々のためにも、記録はきちんと残しておく習慣を付ける必要があると思われます。現状では「2時間毎の体位交換」を完璧にこなすのが難しいのは、誰もが認めることではないかと思われます。そのため、なかなか難しい問題ではありますが、褥瘡に対しては医療者側は最大の努力を行っていることを患者側に示し、いったん褥瘡ができてしまっても、不用意な言葉は慎み、十分なコミュニケーションをとるのが現実的な対処方法ではないでしょうか。皮膚

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第17回 健康診断の落とし穴 紛争化する原因を考える

■今回のテーマのポイント1.集団健康診断における胸部X線写真の読影に求められる医療水準は、通常診療における医療水準より低い2.しかし、ひとたび異常を発見し、前年度の写真と比較読影するに到った場合は、通常診療と同等の医療水準が求められる3.国民の健康診断に対する「期待感」を過剰に保護することは、実医療現場に有害な作用を及ぼすおそれがある事件の概要患者X(死亡時57歳)は、毎年、Y病院にて会社の定期健康診断として胸部X線撮影を行っていました。昭和62年4月21日に行われた会社の定期健康診断において、胸部X線上、右肺上部に空洞を伴う陰影が認められたことから、読影を行ったA医師は、一旦、Xの健康診断票に要精密検査としました。その後、A医師は、前年度の定期健康診断時の胸部X線写真と比較したところ、変化がなく、形態も悪性を示しておらず逐年的な健康診断で足りると判断して、Xの健康診断票の要精密検査の記載を抹消し、精密検査は不要としました。Xは、特に病院を受診することもなかったところ、翌昭和63年6月に行われた定期健康診断において、右肺上部の陰影の増大を指摘されました。2日後に再度検査(直接撮影)を行ったところ、やはり右肺上部の陰影が増大していたことから、Xは、要受診と指示されました。しかし、Xは病院を受診することはありませんでした。平成元年3月にY病院で行われた胃の精密検診を受けた際に撮影した胸部X線上、右肺上部に異常があると診断されたことから、Z病院を紹介されました。Xは、同年4月にZ病院で精密検査を受け、肺がんと診断され、同年6月に、右肺切除術を受けましたが、翌平成2年10月、肺がんにて死亡しました。これに対し、Xの妻と子は、昭和62年の胸部X線撮影の際に要検査とすべきであったなどと争い、2050万円の損害賠償を請求しました。事件の経過患者X(死亡時57歳)は、毎年、Y病院にて会社の定期健康診断として胸部X線撮影を行っていました。昭和62年4月21日に行われた会社の定期健康診断において、胸部X線上、右肺上部に空洞を伴う陰影が認められたことから、読影を行ったA医師は、一旦、Xの健康診断票に要精密検査としました。その後、A医師は、前年度の定期健康診断時の胸部X線写真と比較したところ、変化がなく形態も悪性を示しておらず逐年的な健康診断で足りると判断して、Xの健康診断票の要精密検査の記載を抹消し、精密検査は不要としました。Xは、特に病院を受診することもなかったところ、翌昭和63年6月に行われた定期健康診断において、B医師から右肺上部に空洞を伴う陰影の増大を指摘されました。2日後に再度検査(直接撮影)を行ったところ、やはり右肺上部の陰影が増大していたことから、B医師は、Xの健康診断票に「昨年と変化あり」「要受診」と記載した上で、Xにもう一度検査を受けるよう伝えてほしいと看護師に伝え、看護師、会社の衛生管理代理を介して、口頭でXに対し、また検査を受けるよう指示がなされました。しかし、B医師は、胸部X線についてはすでに直接Xに伝えていたことから、定期健康診断の検査医意見欄や指導票の病名欄および指導事項欄には記載しませんでした。それをみたXは、直接撮影を行ったことでこれでよかったのかと思い、病院を受診することはありませんでした。平成元年3月にY病院で行われた胃の精密検診を受けた際に撮影した、胸部X線上、右肺上部に異常があると診断されたことから、Z病院を紹介されました。Xは、同年4月にZ病院で精密検査を受け、肺がんと診断され、同年6月に、右肺切除術を受けましたが、翌平成2年10月、肺がんにて死亡しました。事件の判決Xの胸部エックス線間接撮影フィルムの所見から肺癌を疑うことは困難であり、A医師が右所見から肺癌を疑い肺癌に対する精密検査を指示すべきであったとはいえない。しかしながら、昭和62年度の定期健康診断における胸部エックス線間接撮影フィルムにおける陰影は前年度のものと比較して変化していたものであるから、前年度のフィルムと比較して右陰影に変化がないとしたA医師の判断は、誤っていたものと認められる。これに対して、被告は、昭和62年度のエックス線撮影フィルムに発見された陰影を前年度のものと比較して変化がないとしたA医師の判断は、医師に求められる一定水準に満たす専門的知識に基づくものであり、医師に認められた裁量の範囲内の問題であるとし、また、肺癌である可能性の少ない陰影がある場合に安易に精密検査に付することを義務づけるのは妥当ではないと主張する。確かに、定期健康診断においては、短時間に大量の間接撮影フィルムを読影するものであるから、その中から異常の有無を識別するために医師に課せられる注意義務の程度にはおのずと限界があり、鑑定人が供述するように、昭和62年度定期健康診断時に撮影されたエックス線間接撮影フィルムにおける陰影は、短時間の読影では見逃されるおそれがあることも否定できないところ、右読影の過程において本件異常陰影を発見しフィルムの比較読影を試みたA医師の判断は、一面において要求される水準を十分に満たすものであったと認められる。しかしながら、A医師が本件異常陰影を発見し、一度は精密検査が必要と考え、Xのフィルムにつき前年度のものと比較読影して右陰影につき医学的判断を下す段階においては、前記のように大量のフィルムを読影するという状況ではなく、認識した個別の検査結果の異状の存在を前提に一般的に医師に要求される注意を払って判断しなければならないものと考えられる。そして、前述のとおり鑑定の結果によれば、本件異常陰影が前年度の陰影と対比して客観的に変化しているのであるから陰影の変化の有無という判断自体には裁量の余地はないものと認められ、A医師は右判断において要求される注意義務を怠ったものといわざるを得ない。(*判決文中、下線は筆者による加筆)(富山地判平成6年6月1日 判時1539号118頁)ポイント解説今回からは、各論として、各診療領域における代表的な紛争を取り上げていきます。各論の最初は、健康診断です。「事業者は、労働者に対し、厚生労働省令で定めるところにより、医師による健康診断を行なわなければならない」(労働安全衛生法66条1項)と定められており、行われる健康診断の内容も、労働安全衛生規則44条において、表のように定められています。表 一般定期健康診断の内容●労働安全衛生規則(定期健康診断)第四十四条1項 事業者は、常時使用する労働者(第四十五条第一項に規定する労働者を除く。)に対し、一年以内ごとに一回、定期に、次の項目について医師による健康診断を行わなければならない。 一  既往歴及び業務歴の調査 二  自覚症状及び他覚症状の有無の検査 三  身長、体重、腹囲、視力及び聴力の検査 四  胸部エックス線検査及び喀痰検査 五  血圧の測定 六  貧血検査 七  肝機能検査 八  血中脂質検査 九  血糖検査 十  尿検査十一  心電図検査2項  第一項第三号、第四号、第六号から第九号まで及び第十一号に掲げる項目については、厚生労働大臣が定める基準に基づき、医師が必要でないと認めるときは、省略することができる。4項  第一項第三号に掲げる項目(聴力の検査に限る。)は、四十五歳未満の者(三十五歳及び四十歳の者を除く。)については、同項の規定にかかわらず、医師が適当と認める聴力(千ヘルツ又は四千ヘルツの音に係る聴力を除く。)の検査をもつて代えることができる。健康診断に関する紛争において、最も多いのが「胸部X線写真における肺がんの見落とし事例」です。ただ、医療者からしてみると、他の情報に乏しい受診者のX線フィルムのみを短時間の間に大量に読影しなければならないこと、健康診断の目的としても、明らかな異常影が発見されれば足りるものであること、通常の診療のように特定の疾患を疑って読影する場合とは異なる状況であることなどから、あまりに要求水準が高くなると現場に不可能を強いることとなりますし、本件において被告が主張しているように何でもかんでも要精密検査にせざるを得なくなります。この健康診断の特殊性については、裁判所も一定の理解を示しており、「集団健診におけるレントゲン写真を読影する医師に課せられる注意義務は、一定の疾患があると疑われる患者について、具体的な疾患を発見するために行われる精密検査の際に医師に要求される注意義務とは、自ずから異なるというべきであって、前者については、通常の集団健診における感度、特異度及び正確度を前提として読影判断した場合に、当該陰影を異常と認めないことに医学的な根拠がなく、これを異常と認めるべきことにつき読影する医師によって判断に差異が生ずる余地がないものは、異常陰影として比較読影に回し、再読影して再検査に付するかどうかを検討すべき注意義務があるけれども、これに該当しないものを異常陰影として比較読影に回すかどうかは、読影を担当した医師の判断に委ねられており、それをしなかったからといって直ちに読影判断につき過失があったとはいえないものと解するのが相当である」(仙台地判平成8年12月16日 判タ950号212頁)としたものや、傍論ではありますが、最高裁においても「多数者に対して集団的に行われるレントゲン健診における若干の過誤をもつて直ちに対象者に対する担当医師の不法行為の成立を認めるべきかどうかには問題がある」(最判昭和57年4月1日 民集36巻4号519頁)などと一般の診療とは異なる医療水準で判断すべきと判示しています。しかし、本判決は、同様に定期健康診断において読影に求められる医療水準は通常診療におけるそれとは異なるとしたものの、ひとたび医師が異常陰影を認め、前年度の写真と比較読影すると判断した段階においては、求められる医療水準は、もはや集団健診時のものではなく、通常の診療と同等のものが求められると判示しました。確かに、健康診断における胸部X線写真の読影に求められる医療水準を2段階でとらえる裁判所の考え方は一見妥当なようにみえます。しかし、このような厳しい判決の結果、実医療現場において、従来なら比較読影の結果、「著変なし。経過観察」としていた事例が「要精密検査」とされることが増加し、本来ならば不要な検査が行われるなど、萎縮医療・過剰診療が行われるようになりました。そもそも、胸部X線撮影による肺がん検診によって、肺がんによる死亡率は減少しないという報告がなされるなど、検診自体の有効性にも疑問が呈されています。そのような中、健康診断に対する国民の「期待感」を過剰に保護することは、バランスを失することとなるのではないでしょうか。裁判例のリンク次のサイトでさらに詳しい裁判の内容がご覧いただけます。(出現順)富山地判平成6年6月1日 判時1539号118頁本事件の判決については、最高裁のサイトでまだ公開されておりません。仙台地判平成8年12月16日 判タ950号212頁本事件の判決については、最高裁のサイトでまだ公開されておりません。最判昭和57年4月1日 民集36巻4号519頁

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下肢の創傷処置後に発症したガス壊疽は医療ミスであると判断されたケース

外科最終判決判例タイムズ 495号167-176頁概要交通事故によって右脛骨・腓骨複雑骨折、約30cmの右下腿挫創を受傷した44歳女性。来院後直ぐに生理食塩水2,500mLを用いてデブリドマンを行い、ドレーン2本を留置して縫合後、下腿の鋼線牽引を行った。ところが、受傷後1週間目の抜糸時に強烈な悪臭を発し、ガス壊疽を発症していることが判明。右下腿切断を余儀なくされた。詳細な経過患者情報とくに既往症のない44歳女性経過1973年10月22日16:00自転車に乗って交差点を直進中、出会い頭に貨物自動車と衝突し、道路端の溝に落ちて受傷。16:20救急病院に到着。意識は清明で、血圧110/70mmHg、脈拍88/分。右脛骨・腓骨複雑骨折、右下腿部挫創と診断。とくに右下腿の挫創はひどく、長さ約30cm、筋肉、骨に達する不整形の傷口であり、内部は泥や土砂で著しく汚染されていた。ただちに創部に対し生理食塩水2,500mLを用いたデブリドマン(所要時間約30~40分)を行い、ドレーンを2本残して創傷を縫合した。下腿骨折に対しては鋼線牽引を行い、感染予防の抗菌薬、破傷風トキソイドを投与した。10月24日ドレーンからは排液がなかったので抜去。10月29日縫合部位の抜糸を行ったところ、傷口から特異かつ強烈な悪臭がみられガス壊疽と診断。生命の危険があると判断し、右大腿の切断手術を行った。当事者の主張患者側(原告)の主張ひどく汚染された骨折であったのだから、ガス壊疽発症を予防する注意義務があるのに、病院側は十分なデブリドマンを行わず、しかも創傷を開放性に処置しなかったためにガス壊疽を発症し、右大腿切断を余儀なくさせた。病院側(被告)の主張下肢挫創に対し30~40分もの時間を費やして十分なデブリドマンを行っているので医師に落ち度はない。本件のようなガス壊疽は相当の注意を払っても防ぎようがない。裁判所の判断事故直後からひどく汚染されていた右下腿挫創は、通常の医師がみればガス壊疽の危険性がきわめて高い状態であったことを容易に予見できた。そのため、まず創傷部位の徹底したデブリドマンを行うべきであり、デブリドマンの徹底さに自信がなければ創傷を開放性に処置すべき注意義務があるのに、担当医師はガス壊疽が発症する割合は低いものと軽信し、適切な初期診療を行わず右大腿切断へ至ったのは過失である。原告側4,660万円の請求に対し、2,937万円の判決考察外傷を扱う第一線の医師にとりまして、このケースはとても厳しい判決内容だと思います。汚染された創部に対し、通常の創傷処置を施してはいるものの、「ガス壊疽発症・下腿切断」という最悪の結果だけに注目して医療過誤と判定されたようなものだと思います。そもそも、医療技術の進歩や抗菌薬の発達にともなって、ベテランの整形外科医でさえもガス壊疽に遭遇するチャンスは少なくなったようですが、ひとたびガス壊疽を発症すると、医事紛争へと発展する危険があるということを考えておく必要があります。本件のように交通事故で運ばれた患者さんの右下腿に、長さが30cmにも及ぶざっくりと割れたような挫創があり、しかも土や砂がこびりついて汚染がひどければ、誰でも感染予防を第一に考えて徹底的なデブリドマンを行い、とりあえずは傷を縫合して抗菌薬、破傷風トキソイドなどを投与する、というのが普通の考え方だと思います。今回の担当医師は、生理食塩水2,500mLを用いてブラシによる創部洗浄を行い、土砂をできる限り取り除き、ドレーンを2本留置して創部を縫合しました。もちろん、感染症予防のために抗菌薬を投与し、破傷風トキソイドも注射し、毎日包帯交換を行って創部の確認をきちんとしていたはずです。そして、ドレーンからの排液はみられなかったため、受傷後2日目にはドレーンを抜去、創部に感染傾向はないことを確認しながら受傷7日目の抜糸へと至りました。その後、抜糸の時にはじめてガス壊疽発症に気付いたことになります。裁判官は、「デブリドマンの徹底さに自信がなければ創傷を開放性に処置すべき注意義務がある」と判断しましたが、はたして、ざっくりと口を開けた30cmにも及ぶ筋肉や骨にまで達した下腿の傷を、「ガス壊疽が心配だ」という理由で最初から縫合しないで開放創にするということができるでしょうか。もし最初から開放創とした場合には、創部の乾燥による2次的な神経損傷や筋肉の障害が引き起こされ、長期的にみた予後として下肢の筋力低下、尖足などが予想されるため、ほとんどの医師はまず縫合を試みると思います。すなわち、受傷直後のひどく汚染された創をみて、のちのち感染症のおそれはあるけれども、あえて開放創として下肢の筋力低下や尖足を招くよりも、いったんは縫合して様子をみる、という治療方法を選択するのが一般的だと思います。しかも、500mLの生理食塩水を5本も使って洗浄・デブリドマンを施していますので、処置としては十分といえるレベルではないでしょうか。「デブリドマンの徹底さに自信がなければ・・・」と裁判官はいいますが、自分の処置に完璧な自信を持つというのはとても難しく、結果が悪かったことに注目して医師にすべての責任を求めるという考え方にはどうしても納得がいきません。このように、本件は医師の立場では到底承服できない点が多々ありますが、一方で判決が確定した背景には、もう一つきわめて重要な要素がありました。それはこのコーナーでもたびたび取り上げている、「カルテの記載不備」です。担当医師のカルテには、受傷1週間後のガス壊疽発症に気付くまで、創部を観察した記載はほとんどありませんでした。本件は日本でも一流とされている総合病院で発生した事故でしたので、おそらく、毎日創部の消毒・包帯交換を行っていたと推測されます。ところが、抜糸するまで創部の感染傾向はみられなかったことをきちんとカルテに記載していなかったために、「ひどく汚染された創なのにきちんと経過観察をしていないではないか」という判断につながったと思われます。日頃の臨床では、何か陽性所見があれば必ずカルテに記載すると思いますが、異常がみられなければ(陰性所見は)あえてカルテには記載はしない、という先生方が多いと思います。本件でも担当医師は、「毎日傷をみて異常がないことを確認していた。カルテに何も書かないということは異常はないことと同じである」と主張しましたが、そのことを裏付ける書面は一切存在しないため、裁判では採用されませんでした。もし、抜糸に至るまでのカルテ記載のなかで、「創部に発赤・腫脹なし。感染傾向なし」という記載があれば、「毎日の診療の中でガス壊疽を含む創部感染に注意を払っていた」ということが証明され、「ガス壊疽発症は不可抗力である」という考え方にも説得力があることになり、「デブリドマンの徹底さに自信がなければ創傷を開放性に処置すべき注意義務がある」などという理不尽な判決には至らなかった可能性が高いと思います。あらためて、日々のカルテ記載はきわめて重要であることを痛感しますし、もし医事紛争へと発展した場合には、自分の身を守る唯一無二の証拠は「カルテ」であることを再認識させられる貴重なケースです。外科

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第16回 診療ガイドライン その2: 「沿う」以上に重要な「適切なガイドライン」作り!!

■今回のテーマのポイント1.ガイドラインに沿った診療は紛争化リスクを低減する2.ガイドラインに沿った診療をしていれば、違法と判断される危険性は低い3.実医療現場に沿った適切なガイドラインの作成が課題である事件の概要患者X(54歳)は、4日前より持続する呼吸困難、動悸を認めたため、平成15年10月29日、Y病院を受診したところ、重症心不全および心房細動と診断され、加療のため同日入院となりました。主治医Aは、同日よりXに対し、心不全の治療として酸素投与と利尿薬、カテコラミンの投与を、心房細動に対しヘパリン、翌日よりワルファリンカリウム(商品名:ワーファリン)(2㎎/日)を開始しました。11月4日には、トイレへ歩行しても呼吸苦を認めなくなりました。11月7日、経食道心エコーを行ったところ、左房内に明らかな血栓を認めなかったものの、モヤモヤエコーが描出されました。明らかな血栓がなかったことから、A医師は、Xに対し、電気的除細動を行ったところ、1度は正常洞調律に戻りましたが、その後、心房性期外収縮が頻発するなど不整脈が出現していました。なお、11月6日のXのPT-INRは1.15でした。Xに対するワーファリン®の投与量は、11月4日より3㎎/日に、9日より4㎎/日と順次増量しましたが、10日退院時のPT-INRは1.2でした。A医師は、心不全および心房細胞が改善したこと、Xが退院を希望したことから、ワーファリン®を4.5㎎/日として、10日に退院としました。しかし、翌11日午後7時半頃、Xは、自宅にて右片麻痺が出現し、救急搬送されたものの、脳塞栓症にて右不全麻痺と失語症が残存することとなりました。これに対し、Xは、1)電気的除細動の適応がなかったこと、2)ワーファリン®による抗凝固療法が十分ではなかったにもかかわらず電気的除細動を行ったこと、3)電気的除細動後、抗凝固療法が不十分であったにもかかわらず退院させたことなどを争い、Y病院に対し、約1億5,200万円の損害賠償を請求しました。なぜそうなったのかは、事件の経過からご覧ください。事件の経過患者X(54歳)は、4日前より持続する呼吸困難、動悸を認めたため、平成15年10月29日、Y病院を受診したところ、重症心不全および心房細動と診断され、加療のため同日入院となりました。胸部単純X線上、著明な肺鬱血を認め、心エコー上、左室駆出率は24%、心嚢液貯留を認めました。主治医Aは、同日よりXに対し、心不全の治療として酸素投与と利尿薬、カテコラミンの投与を、心房細動に対しヘパリン、翌日よりワーファリン®(2㎎/日)を開始しました。11月4日には、トイレへ歩行しても呼吸苦を認めなくなったものの、5日に行われた心エコーでは、左室駆出率21%、左房径50㎜、左室拡張末期径64㎜であり、拡張型心筋症様でした。11月7日、経食道心エコーを行ったところ、左房内に明らかな血栓を認めなかったものの、モヤモヤエコーが描出されました。明らかな血栓がなかったことから、A医師は、Xに対し、電気的除細動を行ったところ、1度は正常洞調律に戻りましたが、その後、心房性期外収縮が頻発するなど不整脈が出現していました。なお、11月6日のXのPT-INRは1.15でした。Xに対するワーファリン®の投与量は、11月4日より3㎎/日に、9日より4㎎/日と順次増量しましたが、10日退院時のPT-INRは1.2でした。A医師は、心不全および心房細胞が改善したこと、Xが退院を希望したことから、ワーファリン®を4.5㎎/日として、10日に退院としました。しかし、翌11日午後7時半頃、Xは、自宅にて右片麻痺が出現し、救急搬送されたものの、脳塞栓症にて右不全麻痺と失語症が残存することとなりました。事件の判決1)電気的除細動の適応がなかったこと平成13年ガイドラインでは、除細動により自覚症状や血行動態の改善が期待される場合には、電気的除細動の適応があるとされていること、同ガイドラインでは、除細動しても再発率が高く、効果が期待できない例として、(1)心房細動の持続が1年以上の慢性心房細動、(2)左房径が5センチメートル以上、(3)過去に除細動歴が2回以上、(4)患者が希望しないという条件が1つでもある場合は、積極的な除細動を勧めていないところ、(1)については判断できないが、(2)については11月5日の左房径は5センチメートルとぎりぎりの基準であったこと、同ガイドラインでは、重症心不全では、心房細動が持続していれば電気的除細動を行うのが望ましいとされていることなどから、平成13年ガイドラインから逸脱していない。・・・・・・(中略)・・・・・・すなわち、前記医学的知見に示した、平成13年ガイドラインによれば、重症心不全の場合、心房細動が持続していれば電気的除細動を行うのが望ましいとされているところ、前記認定のとおり、本件除細動時、原告は重症心不全の状態にあったこと、前記前提事実によれば、原告は、本件入院時から本件除細動時の約10日間心房細動が持続していたこと等が認められることから、平成13年ガイドラインによって照合しても電気的除細動を行う適応があったといえる。2)ワーファリンによる抗凝固療法が十分ではなかったにもかかわらず電気的除細動を行ったこと前記前提となる医学的知見によれば、心房細動の持続が48時間以上となると左房内に血栓が形成されて塞栓症を起こす危険が高まること、心房細動では、除細動後、洞調律に戻った後に一過性の機械的機能不全が生じ、この時期に心房内に血栓が形成され、機械的興奮が回復してから血栓が剥がれて飛んで塞栓症の原因となると考えられていること、日本では、INR2程度を目標とすることとされていること、平成13年ガイドラインによれば、心拍数が毎分99以下の発作性心房細動の項で、心房細動の持続時間が48時間を超える場合には、経食道心エコーにて左房内血栓の有無を確認し、無ければヘパリン投与下で除細動を行うとされていることが認められる。そして、前記認定事実によれば、原告のINRは、10月29日に1.15、11月4日に1.14、6日に1.15だったこと、A医師は、本件除細動前に、原告に対して経食道心エコーを行い、左房・左心耳内に血栓がないことを確認したこと、本件除細動時、ヘパリンを投与していたこと等が認められる。以上を総合すると、D医師が電気的除細動の実施に際し、抗凝固の目標値であるINR2~3でワーファリン2をかなり下回るINR1.5程度で本件除細動を行ったことは塞栓症のリスク管理という点から疑問がないとは言えないが、A医師はガイドラインの指針に従って、経食道心エコーにより、左房・左心耳内に血栓がないことを確認し、ヘパリン投与下で本件除細動を行ったのであり、鑑定意見及び医学的知見に照らすと、INRが2程度になる様に抗凝固療法を行った上で除細動を行うべき注意義務があったとまではいえない。3)電気的除細動後、抗凝固療法が不十分であったにもかかわらず退院させたこと平成13年ガイドラインで、電気的除細動施行後はワーファリンによる抗凝固療法(INR2~3)を4週間継続することが推奨されていること、ヘパリンとワーファリンの併用方法としては、ワーファリンの抗凝固療法の効果が出るまでに約72時間ないし96時間を要するため、INRが治療域に入ってからヘパリンを中止することが勧められていることが認められる。前記前提事実及び前記認定事実によれば、A医師は、原告退院時、ワーファリンを従前の4錠(4ミリグラム)から4.5錠(4.5ミリグラム)に増量した上で退院させていることが認められる。しかし、前記前提事実及び前記認定事実によれば、原告の退院時のINRは1.20と、平成13年ガイドラインの推奨するINRの値及び重大な塞栓症が発症する可能性の高いINR1.6を相当下回っていたこと、鑑定書によれば、原告は心不全を合併していたことから特に、脳塞栓症の発生リスクが高まっていたことが認められる。そして、前記認定事実によれば、原告が本件脳梗塞を発症した後の11月13日のINRは1.21であることが認められ、脳梗塞発症時には抗凝固療法のレベルがINR1.2前後であったことが推認できる。・・・・・・(中略)・・・・・・以上の事実を総合すると、原告の退院時の抗凝固レベルは不十分かつ塞栓症発生の危険が高い状態であり、原告退院後、ワーファリン増量の効果が発現するのになお数日を要する状態であったのであるから、A医師には、入院を継続してヘパリンによる抗凝固療法を中止することなく併用しつつ、ワーファリンの投与量を調節して推奨抗凝固レベルを確保する入院を継続させて原告の抗凝固レベルが推奨レベルになるまでの間、特段の事情がない限り、入院を継続し、原告の状態を観察する注意義務があったといえる。・・・・・・(中略)・・・・・・よって、A医師は原告の抗凝固レベルが推奨レベルになるまでの間、入院を継続し、原告の状態を観察する注意義務を怠ったといえる。(岐阜地判平成21年6月18日)ポイント解説今回も、前回に引き続きガイドラインについて解説いたします。前回解説したように、ガイドラインは、裁判所が医療水準を判断する際の重要な資料であり、裁判所はおおむねガイドラインに沿った判断をしていることから、ガイドラインに反した診療をした場合には、「過失」と判断されやすいといえます。それでは、「ガイドラインに沿った診療をしていた場合には、裁判所はどのような判断をするのか?」が今回のテーマとなります。「事件の判決」で挙げている3つの争点について、裁判所は、いずれも日本循環器学会が作成したガイドラインを引用し、過失判断をしています。そして、1)においては、「平成13年ガイドラインによれば、重症心不全の場合、心房細動が持続していれば電気的除細動を行うのが望ましいとされているところ、前記認定のとおり、本件除細動時、原告は重症心不全の状態にあったこと、前記前提事実によれば、原告は、本件入院時から本件除細動時の約10日間心房細動が持続していたこと等が認められることから、平成13年ガイドラインによって照合しても電気的除細動を行う適応があったといえる」と判示し、過失がなかったとしています。第14回で解説したように、判決は法的三段論法(図1)で書かれているところ、1)における大前提(規範定立)は、「平成13年ガイドラインによれば、重症心不全の場合、心房細動が持続していれば電気的除細動を行うのが望ましいとされている」であり、ガイドライン=規範となっています。そして、ガイドライン=規範に本件事案は反していないこと(小前提)から過失はなかった(結論)としているのです。同様に、2)においても、ガイドラインを規範とした上で、「D医師が電気的除細動の実施に際し、抗凝固の目標値であるINR2~3でワーファリン2をかなり下回るINR1.5程度で本件除細動を行ったことは塞栓症のリスク管理という点から疑問がないとは言えないが、A医師はガイドラインの指針に従って、経食道心エコーにより、左房・左心耳内に血栓がないことを確認し、ヘパリン投与下で本件除細動を行ったのであり、鑑定意見及び医学的知見に照らすと、INRが2程度になる様に抗凝固療法を行った上で除細動を行うべき注意義務があったとまではいえない」と判示しており、ガイドラインに沿っていることを理由にPT-INRが低くともなお適法であるとしています。この判示は、より高い医療水準を設定することが可能な場合においても、ガイドラインにさえ沿っていれば、違法と判断しないとした点で重要であるといえます。2000年代前半において、現場の実情や医療を無視した救済判決が出されたことで、医療界が大きく混乱しました。萎縮医療が生じた原因は、医療に対する要望が急速に高まっていく中、年々、求められる医療水準が上昇していったことです(図2)。すなわち、診療当時に入手可能な判例に沿った診療(診療時のルールに基づく診療)を行ったとしても、それが裁判となり争われ、判決が出されるまでの間に、求められる医療水準が上昇(判決時=将来のルール)してしまい、結果、「違法」と判断されてしまったことから、実医療を行うにあたり自身の行為が適法か否かの判断ができなくなってしまったのです。自らの診療の適法性に対する予見可能性がなくなれば、実医療現場で診療する医療従事者にとっては、結果論で裁かれるのと同じことになりますので、その結果、危険を伴う診療には関与しないという萎縮医療が生じてしまいました。本判決のように、その当時のガイドラインに従っていれば、少なくとも違法とは判断されないということは、現場の医療従事者にとっては非常に重要な意味を持ちます。特にその内容が、裁判官ではなく、その領域の専門家である医師によって定められることは、適切な医療訴訟(敗訴しても医師が納得できる)を目指す上でも価値があるといえます。昨今の判決では、裁判所は、ガイドラインを尊重していること、前回解説したように、ガイドラインに準じた治療であった場合には、そもそも弁護士が事件を受任しないことから紛争化自体を防ぐことができるということで、ガイドラインの重要性は増しています。しかしながら、現在作成されているガイドラインの中には、適法性の基準としてみると疑問といえるものも散見されます。特に、複数の選択肢があり、現場の医師の裁量に任せるべきケースに対し、他の選択肢を否定するかのような表記がなされている場合は、しばしば紛争化の道をたどることとなるので注意が必要です。いずれにせよ、医療の正しさは専門家である医師が決定していくということは、重要なことであり、不幸な時期を経て、ようやく手にしたものです。医療界は、ガイドラインを適法性の判断基準にしないで欲しいという後ろ向きの議論をするのではなく、実医療現場で働く医師が困ることのない適切なガイドラインを作成するよう努力していかなければなりません。裁判例のリンク次のサイトでさらに詳しい裁判の内容がご覧いただけます。(出現順)岐阜地判平成21年6月18日

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デイサービス介護中に失踪した認知症老人が水死体で発見されたケース

精神最終判決平成13年9月25日 静岡地方裁判所 判決概要失語症をともなう重度の老人性認知症と診断されていた高齢男性。次第に家族の負担が重くなり、主治医から老人介護施設のデイサービス(通所介護)を勧められた。約3週間後、通算6回目となるデイサービスで、職員が目を離したわずか3分間程度の間に、高さ84㎝の窓をよじ登って施設外に脱出、そのまま行方不明となった。施設や家族は懸命な捜索を行ったが、約1ヵ月後、施設からは遠く離れた砂浜に水死体として打ち上げられた。詳細な経過患者情報平成7年(1995)11月27日 失語をともなう重度の老人性認知症と診断された高齢男性経過平成8(1996)年10月31日失語症により身体障害者4級の認定。認知症の程度:妻との意思疎通は可能で、普通の感情はあり、家庭内であれば衣服の着脱や排泄は自力ででき、歩行には問題なく徘徊もなかった。ただし、妻に精神的に依存しており、不在の時に捜して出歩くことがあった。次第に家族は介護の負担が大きく疲労も増してきたため、担当医師に勧められ、老人介護施設のデイサービス(通所介護)を利用することになる。4月30日体験入所。5月2日施設のバスを利用して、週2回のデイサービスを開始。デイサービス中の状況:職員と1対1で精神状態が安定するような状況であれば、職員とも簡単な会話はでき、衣服の着脱などもできたが、多人数でいる場合には緊張して冷や汗をかいたり、ほとんどしゃべれなくなったり、何もできなくなったりした。また、感情的に不安定になり、帰宅したがったり、廊下をうろうろすることがあり、職員もそのような状態を把握していた。5月21日通算6回目のデイサービス。当日の利用者は、男性4名、女性5名の合計9名であり、施設側は2名の職員が担当した。10:15入浴開始。入浴サービスを受けている時は落ち着いており、衣服の着脱や歩行には介助不要であった。10:50入浴を終えて遊戯室の席に戻る。やがてほかの利用者を意識してだんだん落着きがなくなり、席を離れて遊戯室を出て、ほかの男性の靴を持って遊戯室に入ってきたところ、その男性が自分の靴と気づいて注意したため、職員とともに靴を下駄箱に返しにいく。その後遊戯室に戻ったが、何度も玄関へいき、そのつど職員に誘導されて遊戯室に戻った。11:40職員がほかの利用者のトイレ誘導をする時、廊下にいるのをみつけ、遊戯室に戻るように促す。ところが、みかけてから1~2分程度で廊下に戻ったところ、本人の姿はなく、館内を探したが発見することができなかった。失踪時の状況:施設の北側玄関は暗証番号を押さなければ内側からは開かないようになっており、裏口は開けると大きなベルとブザーが鳴る仕組みになっていて、失踪当時、北側玄関および裏口は開いた形跡はなかった。そして、靴箱には本人の靴はなく、1階廊下の窓の網戸(当時窓ガラスは開けられ、サッシ網戸が閉められていた)のうちひとつが開かれたままの状態となっていた。そのため、靴箱から自己の靴を取ってきて、網戸の開いた窓(高さは84cm程度)によじ登り、そこから飛び降りたものと推測された。5月22日09:03翌日から家族は懸命な捜索活動を行う。親戚たちと協力して約150枚の立看板を作ったり、施設に捜索経過を聞きにいったりして必死に捜したが、消息はつかめなかった。6月21日約1ヵ月後、施設から遠く離れた砂浜に死体となって打ち上げられているのを発見された。当事者の主張患者側(原告)の主張もともと重度の老人性認知症により、どのような行動を起こすか予測できない状態であり、とくに失踪直前は不安定な状態であったから、施設側は窓を閉めて施錠し、あるいは行動を注視して、窓から脱出しないようにする義務があったのに怠り、結果的に死亡へとつながった。デイサービスを行う施設であれば、認知症患者などが建物などから外へ出て徘徊しないための防止装置を施すべきであるにもかかわらず、廊下北側の網戸付サッシ窓を廊下面より約84cmに設置し、この窓から外へ出るのを防止する配慮を怠っていたため、施設の建物および設備に瑕疵があったものといえる。病院側(被告)の主張失踪当時の状況は、本人を最後にみかけてから失踪に気づくまでわずか3分程度であった。その時の目撃者はいないが、施設の玄関は施錠されたままの状態で、靴箱に本人の靴はなく、1階廊下西側の窓の網戸(当時窓ガラスは開けられサッシ網戸が閉められていた)が開かれたままの状態となっていることが発見され、ほかの窓の網戸はすべて閉まっていたことから、1階廊下西側の窓から飛び降りた蓋然性が高い。当該施設は法令等に定められた限られた適正な人員の中でデイサービスを実施していたのだから、このような失踪経過に照らしても、施設から失踪したことは不可抗力であって過失ではない。裁判所の判断もともと失語を伴う重度の老人性認知症と診断されている高齢者が単独で施設外に出れば、自力で施設または自宅に戻ることは困難であり、また、人の助けを得ることも難しい。そして、失踪直前には、靴を取ってこようとしたり、廊下でうろうろしているところを施設の職員に目撃されており、職員は施設から出ていくことを予見可能であった。したがって、デイサービス中には行動を十分に注視して、施設から脱出しないようにする義務があった。しかし、デイサービスの担当職員は2名のみであり、1名は入浴介助、ほかの1名はトイレ介助を行っていて、当該患者を注視する者はいなかったため、網戸の開いた窓に登り、そこから飛び降り、そのまま行方不明となった。身体的には健康な認知症老人が、84cm程度の高さの施錠していない窓(84cm程度の高さの窓であればよじ登ることは可能であることは明白)から脱出することは予見可能であった。したがって、施設職員の過失により当該患者が行方不明となり、家族は多大な精神的苦痛を被ったといえる。施設側の主張するように、たしかに2人の職員で、男性4名、女性5名の合計9名の認知症老人を介助し、入浴介助、トイレ介助をするかたわら、当該患者の挙動も注視しなければならないのは過大な負担である。さらに施設側は、法令等に定められた限られた適正な人員の中でデイサービス事業を実施しているので過失はないと主張する。しかし、法令等に定められた人員で定められたサービスを提供するとサービスに従事している者にとっては、たとえ過大な負担となるような場合であっても、サービスに従事している者の注意義務が軽減されるものではない。そして、失踪後の行動については、具体的に示す証拠はなく、施設からはるか離れた砂浜に死体となって打ち上げられるにいたった経緯はまったく不明である。当時の状況は、老人性認知症があるといっても事理弁識能力を喪失していたわけではなく、知った道であれば自力で帰宅することができていたのであり、身体的には健康で問題がなかったのであるから、自らの生命身体に及ぶ危険から身を守る能力まで喪失していたとは認めがたい。おそらく施設から出た後に帰宅しようとしたが、道がわからず、他人とコミュニケーションができないため、家族と連絡がとれないまま放浪していたものと推認できる。そうすると失踪からただちに同人の死を予見できるとは認めがたく、職員の過失と死亡との間の相当因果関係はない。原告(患者)側4,664万円の請求に対し、285万円の判決考察デイサービスに来所していた認知症老人が、わずか3分程度職員が目を離した隙に、施設を抜け出して失踪してしまいました。当時、玄関や裏口から脱出するのは難しかったので、たまたま近くにあった窓をよじ登って外へ飛び降りたと推定されます。その当時、9名の通所者に対して2名の職員が対応しており、それぞれ入浴介助とトイレ誘導を行っていて、けっしていい加減な介護を提供していたわけではありません。したがってわれわれ医療従事者からみれば、まさに不可抗力ともいえる事件ではないかと思います。もし失踪後すみやかに発見されていれば、このような医事紛争へと発展することはないのですが、不幸なことに行方不明となった1ヵ月後、砂浜に水死体として打ち上げられました。これからますます高齢者が増えるにしたがって、同様の紛争事例も増加することが予測されます。これは病院、診療所、介護施設を問わず、高齢者の医療・福祉・保健を担当するものにとっては避けて通ることのできない事態といっても過言ではありません。なぜなら、裁判官が下す判断は、「安全配慮義務」にもとづいて、「予見義務」と「結果回避義務」という2つの基準から過失の有無を推定し、かつ、医療・福祉・保健の担当者に対しては非常にハイレベルの安全配慮を求める傾向があるからです。本件では、失踪直前にそわそわして遊戯室の席に座ろうとしなかったり、他人の靴を持ち出して玄関に行こうとしたところが目撃されていました。とすれば、徘徊して失踪するかもしれないという可能性を事前に察知可能、つまり「予見義務」が発生することになります。さらに、そのような徘徊、失踪の可能性があるのなら、「結果回避義務」をつくさねばならず、具体的には、すべての出入口、窓などを施錠する、あるいは、つきっきりで監視せよ、ということになります。われわれ医療従事者の立場からすると、玄関・裏口などの出入口にバリアを設けておけば十分ではないか、外の空気を入れるために窓も開けられないのか、と考えたくもなります。そして、施設側の主張どおり、厚生労働省が定めた施設基準をきちんとクリアしているのだから、それを上回るような、通所者全員の常時監視は職員への過大な負担となる、といった考え方も十分に首肯できる内容です。ところが裁判では、「法令等に定められた人員で定められたサービスを提供するとサービスに従事している者にとっては、たとえ過大な負担となるような場合であっても、サービスに従事している者の注意義務が軽減されるものではない」という杓子定規な理由で、施設側の事情はすべて却下されました。このような背景があると、高齢者を担当する病院、診療所、介護施設で発生する可能性のある次のような事故の責任は、われわれ医療従事者に求められる可能性がかなり高いということがいえます。徘徊、無断離院、無断離設による不幸な事態(転倒による骨折、交通事故など)暴力および破壊行為による不幸な事態(患者本人のみならず、他人への危害)嚥下障害に伴う誤嚥、窒息よくよく考えると、上記の病態は「疾病」に起因するものであり、けっして医療従事者や介護担当者の責任を追及すべきものではないように思います。つまり、悪いのは患者さんではなく、医療従事者でもなく、まさに「病気」といえるのではないでしょうか。ところが昨今の考え方では、そのような病気を認識したうえで患者さんを預かるのであれば、事故は十分に「予見可能」なので、「結果回避」をしなければけしからん、だから賠償せよ、という考え方となってしまいます。誤解を恐れずにいうと、長生きして大往生をとげるはずのおじいさん、おばあさんが、家で面倒をみるのが難しくなって病院や施設へ入所したのち、高齢者にとっては予測されるような事態が発生して残念な結果となった場合に、医療過誤や注意義務違反の名目で、大往生に加えて賠償金も受け取ることができる、となってしまいます。それに対する明確な解決策を呈示するのは非常に難しいのですが、やはり第一に考えられることは、紛争を水際で防止するために、患者およびその家族とのコミュニケーションを深めておくことがとても大事だと思います。高齢者にとって、歩行が不安定になったり、飲み込みが悪くなったり、認知が障害されるような症状は、なかなか避けて通ることはできません。したがって、事故が発生する前から高齢者特有の病態について家族へは十分に説明し、ご理解をいただいておくことが重要でしょう。まったく説明がない状況で事故が発生すると、家族の受け入れは相当難しいものになります。そして、一般的に家族の期待はわれわれの想像以上ともいえますので、本件のよう場合には不可抗力という言葉はなるべく使わずに、家族の心情を十分にくみ取った対応が望まれます。そして、同様の事例が発生しないように、認知症老人を扱うときには物理的なバリアをできるだけ活用し、入り口や窓はしっかり施錠する、徘徊センサーを利用するなどの対応策をマニュアル化しておくことが望まれます。精神

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特発性間質性肺炎の経過中に肺がんを見落としたケース

呼吸器最終判決判例タイムズ 1739号124-129頁概要息切れ、呼吸困難を主訴に総合病院を受診し、特発性間質性肺炎、連発型心室性期外収縮などと診断された75歳男性。当初、右肺野に1.5cmの結節陰影がみられたが、炎症瘢痕と診断して外来観察を行っていた。ところが初診から6ヵ月後、特発性間質性肺炎の急性増悪を契機に施行した胸部CTで右肺野の結節陰影が4cmの腫瘤陰影に増大、骨転移を伴う肺小細胞がんでステージIVと診断された。特発性間質性肺炎の急性増悪に対してはステロイドパルス療法などを行ったが、消化管出血などを合併して全身状態は悪化、治療の効果はなく初診から7ヵ月後に死亡した。詳細な経過患者情報75歳男性、1日30本、50年の喫煙歴あり経過1994年3月29日息切れ、呼吸困難、疲れやすいという主訴で某総合病院循環器科を受診。医学部卒業後1年の研修医が担当となる。胸部X線写真:両肺野の微細な網状陰影呼吸機能検査:拘束性換気障害心電図検査:二段脈と不完全右脚ブロック血液検査:肝・胆道系の酵素上昇、腫瘍マーカー陰性4月5日胸部CTスキャン:肺野末梢および肺底部に強い線維性変化、蜂窩状陰影。続発性の肺気腫と嚢胞、右肺の胸膜肥厚。なお、右肺下葉背側(segment 6)に1.0×1.5cmの結節陰影が認められたが、炎症後の瘢痕と読影。慢性型の特発性間質性肺炎と診断した腹部CTスキャン:異常なし4月6日ホルター心電図:連発型の非持続性心室性期外収縮があり、抗不整脈薬を投与開始。以後胸部については追加検査されることはなく、外来通院が続いた11月頃背部痛、腰痛、全身倦怠感を自覚。12月8日息苦しさと著しい全身倦怠感が出現したため入院。胸部X線写真、胸部CTスキャンにより、右肺下葉背側に4.0×3.0cmの腫瘤陰影が確認された(半年前の胸部CTスキャンで炎症瘢痕と診断した部分)。諸検査の結果、特発性間質性肺炎に合併した肺小細胞がん、骨転移を伴うステージIVと診断した。12月20日特発性間質性肺炎が急性増悪し、ステロイドパルス療法施行。ところが消化管出血を合併し、全身状態が急速に悪化。1995年1月13日特発性間質性肺炎の悪化により死亡。当事者の主張患者側(原告)の主張1.特発性間質性肺炎に罹患したヘビースモーカーの患者に、胸部CTスキャンで結節性陰影がみつかったのであれば、肺がんを念頭においた精密検査を追加するべきであった2.肺がんのような重大な疾患を経験の浅い医師が受け持つのであれば、経験豊かな医師が指導するなど十分なバックアップ体制をとる注意義務があった病院側(被告)の主張1.精密検査ができなかったのは、原告が健康保険に加入していなかったので高い診療費を支払うことができなかったためである2.死因は特発性間質性肺炎の急性増悪であり、肺がんは関係ない。たとえ初診時に肺がんの診断ができていたとしても、延命の可能性は低かった裁判所の判断1.診察当初の胸部CTスキャンで結節性陰影がみつかり、喫煙歴が1日30本、約50年というヘビースモーカーであり、慢性型の特発性間質性肺炎と診断し、肺がんがその後半年間発見されなかったという診断ミスがあった2.直接死因は特発性間質性肺炎の急性増悪であり、肺小細胞がんが直接寄与したとはいえない。しかし、早期に肺小細胞がんの確定診断がつき、化学療法を迅速に行っていれば、たとえ特発性間質性肺炎が急性増悪を来してもステロイドの治療効果や胃潰瘍出血などの副作用も異なった経過をたどり、肺小細胞がんの治療も特発性間質性肺炎の治療も良好に推移したと考えられ、少なくとも約半年長く生存できたはずである。したがって、原告の精神的苦痛に対する慰謝料を支払うべきである原告側2,200万円の請求に対し、550万円の支払命令考察今回の事件は、ある地方の基幹病院で発生しました。ご遺族にとってみれば、信頼できるはずの大病院に半年間も通院していながら、いきなり「がんの末期で治療のしようがない」と宣告されたのですから、裁判を起こそうという気持ちも十分に理解できると思います。それに対し病院側は、たとえ最初からがんと診断しても死亡とは関係はなかった、それよりも、きちんと国民健康保険に加入せず治療費が高いなどと文句をいうので、胸部CTスキャンなどの高額な検査はためらわれた、と反論しましたが、裁判官には受け入れられず「病院側の注意義務違反」として判決は確定しました。あとから振り返ってみると、多くの先生方は「このような肺がんハイリスクの患者であれば、診断を誤ることはない」という印象を持たれたと思いますが、やはり原点に返って、どうすれば最初から適切な診断ができたのか、そして、その後の定期外来通院中になぜ肺がん発見には至らなかったのか、などについて考えてみたいと思います。1. 研修医もしくは若手医師の指導今回当事者となったドクターは、医学部を卒業後1年、そして、当該病院に勤務してから3ヵ月しか経過していない研修医でした。このような若いドクターが医師免許を取得して直ぐに医事紛争に巻き込まれ、裁判所に出廷させられるなどということは、できる限り避けなければなりませんが、今回の背景には、指導医の監督不十分、そして、当事者のドクターにも相当な思い込みがあったのではないかと推測されます。おそらく、当初の胸部CTスキャンで問題となった「右肺下葉背側(segment 6)に1.0×1.5cmの結節陰影」というのは、放射線科医が作成したレポートをこの研修医がそのまま信用し、結節=炎症瘢痕=がんではない、と半ば決めつけていたのだと思います。しかし、通常であれば「要経過観察」といった放射線科医のコメントがつくはずですから、最初につけた診断だけで安心せず、次項に述べるようなきちんとした外来観察計画を立てるべきであったと思います。そして、指導医も、卒後1年しか経過していないドクターを一人前扱いとせずに、新患のケースでその後も経過観察が必要な患者には、治療計画にも必ず関与するようにするべきだと思います。従来までの考え方では、このような苦い経験を踏まえて一人前の医師に育っていくので、最初から責任を負わせるようにしよう、とされていることが多いと思いますし、実際に多忙をきわめる外来診療で、そこまで指導医が配慮するというのも困難かもしれません。しかし、今回のような医師同士のコミュニケーション不足が原因で紛争に発展する事例があるのも厳然たる事実ですから、個人の力だけでは防ぎようのない事故については、組織のあり方を変更して取り組むべきだと思います。2. 定期的な外来観察計画上気道炎の患者さんなど短期間の治療で終了するようなケースを除いて、慢性・進行性疾患、場合によっては生命を脅かすような病態に発展することのある疾患については、初期の段階から外来観察計画を取り決めておく必要があると思います。たとえば、今回のような特発性間質性肺炎であれば(肺がんの合併が約20%と高率なので)胸部X線写真は6ヵ月おきに必ずとる、血液ガス検査は毎月、血算・生化学検査は2ヵ月おきに調べよう、などといった具合です。一度でも入院治療が行われていれば、退院後の外来通院にも配慮することができるのですが、ことに今回の症例のようにすべて外来で診ざるを得なかったり、複数の医師が関わるケースでは、なおさら「どのような治療方針でこの患者を診ていくのか」という意思決定を明確にしておかなければなりません。そして、カルテの見やすいところに外来観察計画をはさんでおくことによって、きちんと患者さんをフォローできるばかりか、たとえ医事紛争に巻き込まれても、「適切な外来管理を行っていた」と判断できる重要な証拠となります。今回の症例は、やりようによっては最初から肺がん合併を念頭においた外来観察をできたばかりか、けっして軽い病気とはいえない特発性間質性肺炎の経過観察を慎重に行うことで、結果が悪くても医事紛争にまでは至らなかった可能性も考えられます。裁判官の判断は、「がんが発見されていれば別の経過(=特発性間質性肺炎の急性増悪も軽くすんだ?)をたどったかもしれない」ことを理由に、たいした根拠もなく「半年間は延命できた」などという判決文を書きました。しかし、一般に特発性間質性肺炎の予後は悪いこと、たとえステロイドを使ったとしても劇的な効果は期待しにくいことなどの医学的事情を考えれば、「半年間は延命できた」とするのはかなり乱暴な考え方です。結局、約半年も通院していながら末期になるまでがんをみつけることができなかったという重大な結果に着目し、精神的慰謝料を支払え、という判断に至ったのだと思います。呼吸器

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病院側の指示に従わず狭心症発作で死亡した症例をめぐって、医師の責任が問われたケース

循環器最終判決平成16年10月25日 千葉地方裁判所 判決概要動悸と失神発作で発症した64歳女性。冠動脈造影検査で異型狭心症と診断され、入院中はニトログリセリン(商品名:ミリスロール)の持続点滴でコントロールし、退院後はアムロジピン(同:ノルバスク)、ニコランジル(同:シグマート)、ジルチアゼム(同:ヘルベッサー)、ニトログリセリン(同:ミリステープ、ミオコールスプレー)などを処方されていた。発症から5ヵ月後、再び動悸と気絶感が出現して、安静加療目的で入院となった。担当医師はミリスロール®の点滴を勧めたが、前回投与時に頭痛がみられたこと、点滴に伴う行動の制限や入院長期化につながることを嫌がる患者は、「またあの点滴ですか」と拒否的な態度を示した。仕方なくミリスロール®の点滴を見合わせていたが、患者が看護師の制止を聞かずトイレ歩行をしたところ、再び強い狭心症発作が出現し、さまざまな救命措置にもかかわらず約2時間後に死亡確認となった。詳細な経過患者情報64歳女性経過平成11(1999)年2月10日起床時に動悸が出現し、排尿後に意識を消失したため、当該総合病院を受診。胸部X線、心電図上は異常なし。3月17日~3月24日失神発作の精査目的で入院、異型狭心症と診断。3月24日~3月27日別病院に紹介入院となって冠動脈造影検査を受け、冠攣縮性狭心症と診断された。6月2日早朝、動悸とともに失神発作を起こし、当該病院に入院。ミリスロール®の持続点滴と、内服薬ノルバスク®1錠、シグマート®3錠にて症状は改善。6月9日失神や胸痛などの胸部症状は消失したため、ミリスロール®の点滴からミリステープ®2枚に変更。入院当初は頭痛を訴えていたが、ミリステープ®に変更してから頭痛は消失。6月22日状態は安定し退院。退院処方:ノルバスク®1錠、ミリステープ®2枚、チクロピジン(同:パナルジン)1錠、シグマート®3錠、ロキサチジン(同:アルタット)1カプセル。7月2日起床時に動悸が出現、ミオコールスプレー®により症状は改善。7月5日起床時に動悸が出現、ミオコールスプレー®により症状は改善。7月7日起床時立ち上がった途端に動悸、気絶感が出現したとの申告を受け、ノルバスク®を中止しヘルベッサー®を処方。7月12日05:30起床してトイレに行った際に動悸、気絶感が出現。トイレに腰掛けてミオコールスプレー®を使用した直後に数分間の意識消失がみられた。06:50救急車で搬送入院。安静度「ベッド上安静」、排泄「尿・便器」使用、酸素吸入(1分間当たり1L)、ミリステープ®2枚(朝、夕)、心電図モニター使用、胸痛時ミオコールスプレー®を2回まで使用と指示。09:30入室直後に尿意を訴えた。担当看護師は医師の指示通り尿器の使用を勧めたが、患者は尿器では出ないのでトイレに行くことに固執したため、看護師長を呼び、ベッドを個室トイレの側まで動かし、トイレで排尿させた。排尿後に呼吸苦がみられたので、酸素吸入を開始し、ミリステープ®を貼用したところ2~3分で落ちついてきた。担当看護師は定時のシグマート®、ヘルベッサー®を内服させ、今後は尿器を使用することを促した。担当医師も訪室して安静にすべきことを説明し、ミリスロール®の点滴を勧めたが、患者は「またあの点滴ですか」と拒否的な態度を示したため、やむを得ずミリスロール®の点滴をしないことにした。その後、胸部症状は消失。15:00見舞いにきた家族が「点滴していなかったんだね」といったところ、患者は「軽かったのかな」と答えたとのこと(病院側はその事実を確認していない)。18:30尿意がありトイレでの排尿を希望。担当看護師は尿器の使用を勧めたが、トイレへ行きたいと強く希望したため、看護師は医師に確認するといって病室を離れた(このとき担当医師とは連絡取れず)。18:43トイレで倒れている患者を看護師が発見。ただちにミオコールスプレー®を1回噴霧したが、「胸苦しい、苦しい」と状態は改善せず。18:50ミオコールスプレー®を再度噴霧したが状態は変わらず、四肢冷感、冷汗が認められ、駆けつけた医師の指示でニトログリセリン(同:ニトロペン)1錠を舌下するが、心拍数は60台に低下、血圧測定不能、意識低下、自発呼吸も消失した。19:00乳酸リンゲル液(同:ラクテック)にて血管確保、心拍数30~40台。19:10イソプレナリン(同:プロタノール)1A、アドレナリン(同:ボスミン)1Aを静注するとともに、心臓マッサージを開始し、心拍数はいったん60台へと回復。19:33気管内挿管に続き、心肺蘇生を続行するが効果なし。20:22死亡確認。死因は致死性の狭心症発作と診断した。死亡後、担当医師は「点滴(ミリスロール®)をすべきでした。しなかったのは当方のミスです」と述べたと患者側は主張するが、その真偽は不明。当事者の主張1. 担当医師が硝酸薬の点滴をしなかった点に過失があるか患者側(原告)の主張平成11年から発作が頻発し、入院に至るまでの経緯や入院時の症状から判断して、ミリスロール®など硝酸薬の点滴をすべきであった。これに対し担当医師は、患者に対してミリスロール®の点滴の必要性を伝えたが拒絶されたと主張するが、診療録などにはそのような記載はない。過去の入院では数日間にわたってミリスロール®の点滴治療を受け、その結果一応の回復を得て退院したため、担当医師からミリスロール®の必要性、投与しない場合の危険性などを十分聞いていれば、ミリスロール®点滴に同意したはずである。病院側(被告)の主張動悸、失神は狭心症発作の再発であり、入院安静が必要であること、2回目入院時に行ったミリスロール®の点滴が再度必要であることを説明したが、患者は「またあの点滴ですか」といい、行動が不自由になること、頭痛がすることなどを理由に点滴を拒絶したため、安静指示と内服薬などの投与によって様子をみることにした。つまり、ミリスロール®の点滴が必要であるにもかかわらず、患者の拒絶により点滴をすることができなかったのであり、診療録上も「希望によりミリスロール®点滴をしなかった」ことが明記されている。医師は、患者に対する治療につき最適と判断する内容を患者に示す義務はあるが、この義務は患者の自己決定権に優越するものではないし、患者の意向を無視して専断的な治療をすることは許されない。2. 硝酸薬点滴を行った場合の発作の回避可能性患者側(原告)の主張入院時にミリスロール®の点滴をしていれば発作を防げた可能性は大きく、死亡との間には濃厚な因果関係がある。さらに死亡後担当医師は、「点滴をすべきでした。しなかったのは当方のミスです」と述べ、ミリスロール®の点滴をしなかったことが死亡原因であることを認めていた。病院側(被告)の主張7月12日9:30、ミリステープ®を貼用し、シグマート®、ヘルベッサー®を内服し、午後には症状が消失して容態が安定していたため、ミリスロール®の点滴をしなかったことだけが発作の原因とはいえない。3. 患者が安静指示に違反したのか患者側(原告)の主張看護師や患者に対する担当医師の安静指示があいまいかつ不徹底であり、結果としてトイレでの排尿を許す状況とした。担当医師が「ベッド上安静」を指示したと主張するが、入院経過用紙によれば「ベッド上安静」が明確に指示されていない。当日午後2:00の段階では、「トイレは夕方までの様子で決めるとのこと」と看護師が記載しているが、夕方までに決められて伝えられた形跡はない。18:30にも「Drに安静度カクニンのためTELつながらず」との記載があり、看護師は夕方になってもトイレについて明確な指示を受けていない。病院側(被告)の主張入院時指示には、安静度は「ベッド上安静」、排泄は「尿・便器」と明記している。これはベッド上で仰臥(あおむけ)または側臥(横向き)でいなければならず、排泄もベッド上で尿・便器をあててしなければならないという意味であり、トイレでの排尿を許したことはない。「トイレは夕方までの様子で決めるとのこと」という記載の意味は、トイレについての指示がいまだ無かったのではなく、明日の夕方までの様子をみて、それ以降トイレに立って良いかどうかを決めるという意味である。当日9:30尿意を訴えたため、医師から指示を受けていた看護師は尿器の使用を勧めたが、看護師の説得にもかかわらず尿器では出ないと言い張り、トイレに行くと譲らなかったので、やむを得ず看護師長を呼び、二人がかりでベッドを個室内のトイレ脇まで運び、トイレで排尿させたという経緯がある。そして、今回倒れる直前、看護師は患者から「トイレに行きたい」といわれたが、尿器で排泄するように説得した。それでも患者はあくまでトイレに行きたいと言い張ったため、担当医師に確認してくるから待つようにと伝えナースステーションへ行ったものの、担当医師に電話がつながらず、すぐに病室に戻ると同室内のトイレで倒れていたのである。4. 発作に対する医師の処置は不適切であったか患者側(原告)の主張狭心症の発作時には、速効性硝酸薬の舌下を行うべきものとされてはいるが、硝酸薬を用いると血圧が低下するので、昇圧剤を投与して血圧を確保してから速効性硝酸薬などにより症状の改善を図るべきであった。被告医師は、ミオコールスプレー®を2回使用して、その副作用で血圧低下に伴う血流量の減少を招いたにもかかわらず、さらに昇圧剤を投与したり、血圧を確保することなくニトロペン®を舌下させた点に過失がある。その結果、狭心症の悪化・心停止を招来し、患者を死に至らしめた。病院側(被告)の主張異型狭心症においては、冠攣縮発作が長引くと心室細動や高度房室ブロックなどの致死性不整脈が出現しやすくなるので、発作時は速やかにニトログリセリンを服用させるべきである。ニトログリセリンの副作用として血圧の低下を招くことがあるが、狭心症発作が寛解すれば血圧が回復することになるから、まず第一にニトログリセリンを投与(合計0.9mg)したことに問題はなく、発作を寛解させるべくニトロペン®1錠を舌下させた判断にも誤りはない。本件においては、致死的な狭心症発作が起きていたのであり、脈拍低下、血圧測定不能、自発呼吸なしなどの重篤な状態に陥ったのは狭心症発作によるものであって、ニトロペン®1錠を舌下したことが心停止の原因となったのではない。裁判所の判断1. 担当医師が硝酸薬の点滴をしなかった点に過失があるか鑑定A患者は狭心症発作が頻発および増悪したために入院したものであり、不安定狭心症の治療を目的としている。狭心症予防薬としてカルシウム拮抗薬の内服と硝酸薬貼付がすでに施行されており、この状態で不安定化した狭心症の治療としては、硝酸薬あるいはこれと同様の効果が期待される薬剤の持続静注が必要と考える。また、過去の入院で硝酸薬の点滴静注が有効であったことから、硝酸薬は、本件患者に対し比較的安心して使用できる薬剤と思われる。さらに、心電図モニターならびに患者の状態を常時監視できる医療状況が望ましく、狭心症発作が安定するまでの期間は、冠動脈疾患管理病棟(CCU)あるいは集中治療室(ICU)での管理が適当と考えられ、本件患者の入院初期の治療としてミリスロール®などの硝酸薬点滴を行わなかったのは不適切であった。不安定狭心症患者は急性心筋梗塞に移行する可能性が高いため、この病態を患者に十分説明し、硝酸薬点滴を使用すべきであったと考える。以前も同薬剤の使用により、本件患者の狭心症発作をコントロールしており、軽度の副作用は認められたものの、比較的安全に使用した経緯がある。患者が硝酸薬点滴を好まないケースもあるが、病状の説明、とりわけ急性心筋梗塞に進展した場合のデメリットを説明した後に施行すべきものであると考えられ、仮に本件患者がミリスロール®などの点滴に拒否的であった場合でも、その必要性を十分説明して、本件患者の初期治療として、ミリスロール®などの硝酸薬あるいは同等の効果が期待できる薬剤の点滴を行うべきであった。鑑定B狭心症の場合、硝酸薬は重要な治療薬である。また、冠動脈攣縮性狭心症においては、カルシウム拮抗薬も重要な治療薬である。本症例ではミリステープ®とカルシウム拮抗薬が投与されており、ミリスロール®などの硝酸薬点滴を行わなかったことだけをもって不適切な治療と判断することは難しい。仮に本件患者がミリスロール®などの点滴に拒否的であった場合についても、ミリスロール®などの点滴を行わなければならない状態であったかどうかについては判断が難しい。また、基本的に患者の了承のもとに治療を行うわけであるから、了承を得られない限りはその治療を行うことはできないのであって、拒否する場合において点滴を強制的に行うことが妥当であるかどうかは疑問である。鑑定C本症例は、失神発作をくり返していることからハイリスク群に該当する。発作の回数が頻回である活動期の場合は、硝酸薬、カルシウム拮抗薬、ニコランジルなどの持続点滴を行うことが望ましいとされており、実際に前回の入院の際には発作が安定化するまで硝酸薬の持続点滴が行われている。本件では、十分な量の抗狭心症薬が投与されており、慢性期の発作予防の治療としては適切であったといえるが、ハイリスク群に対する活動期の治療としては、硝酸薬点滴を行わなかった点は不適切であったといえる。発作の活動期における治療の基本は、冠拡張薬の持続点滴であり、純粋医学的には本件の場合、必要性を十分に説明して行うべきであり、仮に本件患者がミリスロール®などの点滴に拒否的であった場合であっても、その必要性を十分説明して、ミリスロール®などの硝酸薬点滴を行うべき状態であったといえる。ただし、必要性を十分に説明したにもかかわらず、患者側が点滴を拒否したのであれば、医師側には非は認められないこととなるが、どの程度の必要性をもって説明したかが問題となろう。裁判所の見解不安定狭心症は急性心筋梗塞や突然死に移行しやすく、早期に確実な治療が必要である。本件では前回の入院時にミリスロール®の点滴を行って症状が軽快しているという治療実績があり、入院時の病状は前回よりけっして軽くないから、硝酸薬点滴を必要とする状態であったといえる。もっとも担当医師の立場では、治療方法に関する患者の自己決定権を最大限尊重すべきであるから、医師が治療行為に関する説明義務を尽くしたにもかかわらず、患者が当該治療を受けることを拒絶した場合には、当該治療行為をとらなかったことにつき、医師に過失があると認めることはできない。そうすると、本件入院時にミリスロール®など硝酸薬点滴をしなかったことについて、被告医師に過失がないといえるのは、硝酸薬点滴の必要性などについて十分な説明義務を果たしたにもかかわらず、患者が拒否した場合に限られる。担当医師が入院時にミリスロール®点滴を行わなかったのは、必要性を十分に説明したにもかかわらず、「またあの点滴ですか」と点滴を嫌がる態度を示し、ミリスロール®の副作用により頭痛がすること、点滴をすることによって行動の自由が制限されること、点滴をすることによって入院が長くなることの3点を嫌がって、点滴を拒絶したと供述する。そして、入院診療録の「退院時総括」には「本人の希望もあり、ミリスロール®DIV(点滴)せずに安静で様子をみていた」との記載があるので、担当医師はミリスロール®の点滴静注を提案したものの、患者はミリスロール®の点滴を希望しなかったことがわかる。ところが、医師や看護師が患者の状態などをその都度記録する「入院経過用紙」には、入院時におけるミリスロール®の点滴に関するやりとりの記載はなく、担当医師から行われたミリスロール®点滴の説明やそれに対する患者の態度について具体的な内容はわからない。それよりも、午後3:00頃見舞にきた家族が、「点滴していなかったんだね」といったことに対し、「軽かったのかな」と答えたという家族の証言から、患者は自分の病状についてやや楽観的な見方をしていたことがわかり、担当医師からミリスロール®点滴の必要性について十分な説明をされたものとは思われない。担当医師は患者の印象について、「医療に対する協力、その他治療に難渋した」、「潔癖な方です。頑固な方です」と述べているように、十分な意思の疎通が図れていなかった。そのため、入院時にミリスロール®の点滴に患者が拒否的な態度を示した場合に、担当医師があえて患者を説得して、ミリスロール®の点滴を勧めようとしなかったことは十分考えられる状況であった。そして、当時の患者が不安定狭心症のハイリスク群に該当し、硝酸薬点滴をしないと危険な状況にあることを医師から説明されていれば、点滴を拒絶する理由になるとは通常考え難いので、十分に説明したという担当医師の供述は信用できない。つまり、自己の病状についてきわめて関心を抱いていた患者であるので、医師から十分な説明を受けていれば、医師の提案する治療を受け入れていたであろうと推測される。したがって、担当医師は当時の病状ならびにミリスロール®点滴の必要性について十分に説明したとは認められず、説明義務が果たされていたとはいえない。2. 硝酸薬点滴を行った場合の発作の回避可能性鑑定A不安定狭心症の治療としてミリスロール®の効果は約80%と報告されている。不安定狭心症の病態によりその効果に差はあるが、硝酸薬などの薬剤が不安定狭心症を完全に安定化させるわけではない。また、急激な冠動脈血栓形成に対しては硝酸薬の効果は低いと考える。そうするとミリスロール®点滴を実施することで発作を回避できたとは限らないが、回避できる可能性は約70%と考える。鑑定B冠動脈攣縮性狭心症の場合、ミリスロール®などの硝酸薬の点滴が冠動脈の攣縮を軽減させる可能性がある。本件発作が冠動脈攣縮性狭心症発作であった可能性は十分考えられることではあるが、最終的な本件発作の原因がほかにあるとすれば、ミリスロール®点滴を行っても回避は難しい。したがって、回避可能性について判断することはできない。鑑定C一般論からすると、持続点滴の方が経口や経皮的投与よりも有効であることは論をまたないが、持続点滴そのものの有効性自体は100%ではないため、持続点滴をしていればどの程度発作が抑えられたかについては、判断しようがない。また、本件では十分な量の冠拡張薬が投与されていたにもかかわらず、結果的に重篤な狭心症発作が起こっており、発作の活動性がかなり高く発作自体が薬剤抵抗性であったと捉えることもでき、持続点滴をしていたとしても発作が起こった可能性も否定できない。以上のように、持続点滴によって発作が抑えられた可能性と持続点滴によっても発作が抑えられなかった可能性のどちらの可能性が高いかについては、仮定の多い話で答えようがない。裁判所の見解冠動脈攣縮性狭心症の発作に対してはミリスロール®の点滴が有効である点において、各鑑定は一致していることに加え、回避可能性をむしろ肯定していると評価できること、そもそも不作為の過失における回避可能性の判断にあたっては、100%回避が可能であったことの立証を要求するものではないのであって、前回入院時にミリスロール®の点滴治療が奏効していることも併せ考慮すると、今回もミリスロール®の点滴を行っていれば発作を回避できたと考えられる。3. 患者に対する安静指示について担当医師の指示した安静度は「ベッド上安静」、排泄は「尿・便器」使用であることは明らかであり、この点において被告医師に過失は認められない。4. 発作に対する処置について鑑定Aニトログリセリン舌下投与を低血圧時に行うと、さらに血圧が低下することが予想される。しかし、狭心症発作寛解のためのニトログリセリン舌下投与に際し、禁忌となるのは重篤な低血圧と心原性ショックであり、本件発作時はこれに該当しない。さらに本件発作時は、静脈ラインが確保されていないと思われ、点滴のための留置針を穿刺する必要がある。この処置により心筋虚血の時間が延長することになるため、即座にニトログリセリンを舌下させることは適切と考える。鑑定Bニトロペン®そのものの投与は血圧が低いことだけをもって禁忌とすることはできない。本件発作時の状況下でニトロペン®舌下に先立ち、昇圧剤の点滴投与を行うかどうかの判断は難しい。しかし、まず輸液ルートを確保し、酸素吸入の開始が望ましい処置といえ、必ずしも適切とはいえない部分がある。鑑定C冠攣縮性狭心症の発作時の処置としては、血圧の程度いかんにかかわらず、まずは攣縮により閉塞した冠動脈を拡張させることが重要であるため、ニトロペン®をまず投与したこと自体は問題がない。しかしながら、昇圧剤の投与時期、呼吸循環状態の維持、ボスミン®投与の方法に問題があり、急変後の処置全般について注意義務違反が認められる。裁判所の見解ニトログリセリンの舌下については、各鑑定の結果からみて問題はない。なお、鑑定の結果によれば、発作の誘因は発作の直前のトイレ歩行ないし排尿である。担当医師からベッド上安静、尿便器使用の指示がなされ、担当看護師からも尿器の使用を勧められたにもかかわらずトイレでの排尿を希望し、さらに看護師から医師に確認するので待っているように指示されたにもかかわらず、その指示に反して無断でベッドから降りて、トイレでの排尿を敢行したものであり、さらに拒否的な態度が被告医師の治療方法の選択を誤らせた面がないとはいえないことを考慮すると、患者自身の責任割合は5割と考えられる。原告(患者)側合計5,532万円の請求に対し、2,204万円の判決考察拒否的な態度の患者についていくら説明しても医師のアドバイスに従わない患者さん、病院内の規則を無視して身勝手に振る舞う患者さん、さらに、まるで自分が主治医になったかのごとく「あの薬はだめだ、この薬がよい」などと要求する患者さんなどは、普段の臨床でも少なからず遭遇することがあります。本件もまさにそのような症例だと思います。冠動脈造影などから異型狭心症と診断され、投薬治療を行っていましたが、再び動悸や失神発作に襲われて入院治療が開始されました。前回入院時には、内服薬や貼布剤、噴霧剤などに加えてミリスロール®の持続点滴により症状改善がみられていたので、今回もミリスロール®の点滴を開始しようと提案しました。ところが患者からは、「またあの点滴ですか」「あの薬を使うと頭痛がする」「点滴につながれると行動が制限される」「点滴が始まると入院が長くなる」というクレームがきて、点滴は嫌だと言い出しました。このような場合、どのような治療方針とするのが適切でしょうか。多くの医師は、「そこまでいうのなら、点滴はしないで様子を見ましょう」と判断すると思います。たとえミリスロール®の点滴を行わなくても、それ以外のカルシウム拮抗薬や硝酸薬によってもある程度の効果は期待できると思われるからです。それでもなおミリスロール®の点滴を強行して、ひどい頭痛に悩まされたような場合には、首尾よく狭心症の発作が沈静化しても別な意味でのクレームに発展しかねません。そして、ミリスロール®の点滴なしでいったんは症状が改善したのですから、病院側の主張通り適切な治療方針であったと思います。そして、再度の発作を予防するために、患者にはベッド上の安静(トイレもベッド上)を命じましたが、「どうしてもトイレに行きたい」と患者は譲らず、勝手に離床して、致命的な発作へとつながってしまいました。このような症例を「医療ミス」と判断し、病院側へ2,200万円にも上る賠償金の支払いを命じる裁判官の考え方には、臨床医として到底納得することができません。もし、大事なミリスロール®の点滴を医師の方が失念していたとか、看護師へ安静の指示を出すのを忘れて患者が歩行してしまったということであれば、医師の過失は免れないと思います。ところが、患者の異型狭心症をコントロールしようとさまざまな治療方針を考えて、適切な指示を出したにもかかわらず、患者は拒否しました。「もっと詳しく説明していればミリスロール®の点滴を拒否するはずはなかったであろう」というような判断は、結果を知ったあとのあまりにも一方的な考え方ではないでしょうか。患者の言い分、医師の言い分極論するならば、このような拒否的態度を示す患者の同意を求めるためには、「あなたはミリスロール®の点滴を嫌がりますが、もしミリスロール®の点滴をしないと命に関わるかもしれませんよ、それでもいいのですか」とまで説明しなければなりません。そして、理屈からいうと「命に関わることになってもいいから、ミリスロール®の点滴はしないでくれ」と患者が考えない限り、医師の責任は免れないことになります。しかし、このような説明はとても非現実的であり、患者を脅しながら治療に誘導することになりかねません。本件でもミリスロール®の点滴を強行していれば、確かに狭心症の発作が出現せず無事退院できたかもしれませんが、患者側に残る感情は、「医師に脅かされてひどい頭痛のする点滴を打たれたうえに、病室で身動きができない状態を長く強要された」という思いでしょう。そして、鑑定書でも示されたように、本件はたとえミリスロール®を点滴しても本当に助かったかどうかは不明としかいえず、死亡という最悪の結果の原因は「異型狭心症」という病気にあることは間違いありません。ところが裁判官の立場は、明らかに患者性善説、医師性悪説に傾いていると思われます。なぜなら、「退院時総括」の記述「本人の希望もあり、ミリスロール®DIV(点滴)せずに安静で様子をみていた」というきわめて重大な記述を無視していることその理由として、「入院経過用紙」には入院時におけるミリスロール®の点滴に関するやりとりの記載がないことを挙げている裁判になってから提出された家族からの申告:当日午後3:00頃見舞にきた家族が、「点滴していなかったんだね」といったことに対し、「軽かったのかな」と患者が答えたという陳述書を全面的に採用し、患者側には病態の重大性、ミリスロール®の必要性が伝わっていなかったと断定つまり、診療録にはっきりと記載された「患者の希望でミリスロール®を点滴しなかった」という事実をことさら軽視し、紛争になってから提出された患者側のいい分(本当にこのような会話があったのかは確かめられない)を全面的に信頼して、医師の説明がまずかったから患者が点滴を拒否したと言わんばかりに、医師の説明義務違反と結論づけました。さらにもう一つの問題は、本件で百歩譲って医師の説明義務違反を認めるとしても、十分な説明によって死亡が避けられたかどうかは「判断できない」という鑑定書がありながら、それをも裁判官は無視しているという点です。従来までは、説明が足りず不幸な結果になった症例には、300万円程度の賠償金を認めることが多いのですが、本件では(患者側の責任は5割としながらも)説明義務違反=死亡に直結、と判断し、総額2,200万円にも及ぶ高額な判決金額となりました。本症例からの教訓これまで述べてきたように、今回の裁判例はとうてい医療ミスとはいえない症例であるにもかかわらず、患者側の立場に偏り過ぎた裁判官が無理なこじつけを行って、死亡した責任を病院に押し付けたようなものだと思います。ぜひとも上級審では常識的な司法の判断を期待したいところですが、その一方で、医師側にも教訓となることがいくつか含まれていると思います。まず第一に、医師や看護師のアドバイスを聞き入れない患者の場合には、さまざまな意味でトラブルに発展する可能性があるので、できるだけ詳しく患者の言動を診療録に記載することが重要です(本件のような最低限の記載では裁判官が取り上げないこともあります)。具体的には、患者の理解力にもよりますが、医師側が提案した治療計画を拒否する患者には、代替可能な選択肢とそのデメリットを提示したうえで、はっきりと診療録に記載することです。本件でも、患者がミリスロール®の点滴を拒否したところで、(退院時総括ではなく)その日の診療録にそのことを記載しておけば、(今回のような不可解な裁判官にあたったとしても)医療ミスと判断する余地がなくなります。第二に、その真偽はともかく、死亡後に担当医師から、「(ミリスロール®)点滴をすべきでした。しなかったのは当方のミスです」という発言があったと患者側が主張した点です。前述したように、診療録に残されていない会話内容として、裁判官は患者側の言い分をそのまま採用することはあっても、記録に残っていない医師側の言い分はよほどのことがない限り取り上げないため、とくに本件のように急死に至った症例では、「○○○をしておけばよかった」という趣旨の発言はするべきではないと思います。おそらく非常にまじめな担当医師で、自らが関わった患者の死亡に際し、前向きな考え方から「こうしておけばよかったのに」という思いが自然に出てしまったのでしょう。ところが、これを聞いた患者側は、「そうとわかっているのなら、なぜミリスロール®を点滴しなかったのか」となり、いくら「実は患者さんに聞いてもらえなかったのです」と弁解しても、「そんなはずはない」となってしまいます。そして、第三に、担当医師の供述に対する裁判官への心証は、かなり重要な意味を持ちます。判決文には、「担当医師は当公判廷において、患者が『またあの点滴ですか』といったことは強烈に覚えている旨供述するものの、患者に対しミリスロール®点滴の必要性についてどのように説明を行ったかについては、必ずしも判然としない供述をしている」と記載されました。つまり、患者に行った説明内容についてあやふやな印象を与える証言をしてしまったために、そもそもきちんとした説明をしなかったのだろう、と裁判官が思い込んでしまったということです。医事紛争へ発展するような症例は、医療事故発生から数年が経過していますので、事故当時患者に口頭で説明した内容まで細かく覚えていることは少ないと思います。そして、がんの告知や手術術式の説明のように、ある一定の緊張感のもとに行われ承諾書という書面に残るようなインフォームドコンセントに対し、本件のように(おそらく)ベッドサイドで簡単にすませる治療説明の場合には、曖昧な記憶になることもあるでしょう。しかし、ある程度の経験を積めば自ずと説明内容も均一化してくるものと思いますので、紛争へと発展した場合には十分な注意を払いながら、明確な意思に基づく主張を心がけるべきではないかと思います。循環器

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健康診断の採血で右上肢が廃用となったケース

内科最終判決平成14年9月5日 松山地方裁判所 判決概要経験年数20年のベテラン看護師が、健康診断目的で来院した42歳女性の右肘尺側皮静脈から採血を試みた。針を挿入直後に患者が「痛い!」と訴え、血液の逆流がなかったので左側から改めて採血した。ところが、採血直後から右上肢の知覚障害、痛み、浮腫、運動障害が出現し、大学病院整形外科で反射性交感神経異栄養症(RSDS)と診断され、労災等級第7級に相当する後遺障害が残存した。詳細な経過患者情報42歳女性。特記すべき既往症なし経過平成8年7月17日09:40定期健康診断時に、尺側皮静脈から採血するため右腕肘窩部分に針を刺したが、血液の逆流はなく、針が刺された後で「痛い!」といったため針を抜き、針やスピッツを新しいものに変えて、改めて左腕に針を刺して採血は完了した。ところが、採血直後から右手第1-第2指にしびれを自覚し、同日総合病院整形外科を受診して、「右正中神経麻痺、反射性交感神経性萎縮症」と診断された。12月16日大学病院整形外科医師は、右上肢の知覚障害、痛み、浮腫、運動障害があることから「カウザルギー」と診断した。平成11年3月10日労災認定。右上肢手関節と肘関節の中心部より右手指にかけて、常時疼痛を中心とした異常感覚および知覚低下、右上肢肘関節以下の神経症状による運動障害があるとして、障害等級第7級3号に該当すると認定。平成13年11月9日本人尋問。右手、とくに親指の付け根付近から上肢にかけての約20cmの部分に強い痛みがあると訴え、被告ら代理人が少し触れようとすると激しく痛がった。本人の上申書右腕は痛くて伸ばせない右手指も無理に伸ばそうとすると歯の神経にさわったような電撃的な痛みが出るし、不意に痛むこともある右手指から肘までの1/2の範囲は、常時、火傷したようなきりきりとした痛みがある肘の内側にはじくじくとした鈍痛がある肩と肘の真ん中あたりから指先にかけて、いつもむくんでいる右手指のうち、小指以外は何かに触れただけで飛び上がるような痛みがある。指先から遠位指節間関節(指先にもっとも近い関節)までほとんど感覚がないため、物を握れないこのため右手はほとんど用をなさないし、寝る時は右手が下にならないように気をつける。手首を内側に向けて捻っている状態は楽だが、その反対はできないなどの障害が残っている当事者の主張患者側(原告)の主張採血時、血液の逆流がなく血管内に注射針を刺入できていないことがわかったのに、注射針をそのまま抜こうとせず、注射針の先を動かして血管を探すような動作をし、痛みを訴えたにもかかわらず同様の動作を続けた結果、右腕正中神経を注射針の先で傷つけたため、右手第1-第2指にしびれ、疼痛を生じる障害を負った。看護師は肘窩の静脈に針を刺す場合、正中神経を傷つけないように注射針を操作するべき注意義務があるのに、不用意に操作した過失によって正中神経を損傷しRSDSを併発した。病院側(被告)の主張担当看護師は勤続20年のベテラン保健師・看護師であり、通算数千件もの採血を実施しているが、一度もミスなどしたことはない。採血の際は、皮膚から約15度の角度で針先カット面を上にして血管穿刺を行っており、かつ、血液の逆流が認められないため、スピッツを数ミリ手前に引いたのみであり、注射針の先を動かして血管を探すなどした事実はない。このような採血によって皮膚の表面上を走る尺側皮静脈から、遠く離れた深部にある正中神経を傷つけることはあり得ない。また、右腕の痛みに対し星状神経ブロックなどの医師の勧める基本的治療を行わず、痛みのまったくない軽度な治療を行うのみであった。また、日常行動を調査したビデオによれば、右手を普通に用いて日常生活を送っていると認められ、法廷の本人尋問での言動は事実と異なる演技に過ぎない。各医師の診断結果や、これらに基づく労働基準監督署長の判断も、同様に原告が演技をし、またはその訴えたところに従って作成され判断されたものに過ぎず、誤っている。仮に採血による後遺障害が残っているとしても、それは医師から再三の治療上のアドバイスがあったにもかかわらず拒否し、特異な気質と体質により複雑な病態となったものと考えられる。裁判所の判断原告は採血直後から右手のしびれなどを訴えるようになり、現在でも右手は触れられただけでも強い痛みを訴え、大学病院医師は採血を原因とする「右上肢カウザルギー」ないし「RSDS」と診断している。痛みに関する供述にはやや誇張された面があると感じられるが、およそ障害がない、あるいはその障害が軽微であるとの根拠とすることはできない。したがって、採血時に肘窩の尺側皮静脈に注射針を深く刺し、正中神経を傷つけたため右手が使えなくなったのは、採血担当看護師の過失である。原告側合計3,254万円の請求に対し、2,419万円の判決考察たった1回の採血失敗によって、右手が使えなくなるという重度後遺障害が残存し、しかも2,419万円もの高額賠償につながったという衝撃的なケースです。肘の解剖学的な構造をみると、尺側皮静脈は腕の内側を走行し、比較的太い静脈の一つです。ただその深部には、筋膜の内側に上腕動脈と伴走するように正中神経が走行しています。本件では、結果的にはこの正中神経に針が届いてしまい、右腕が使い物にならなくなるほどの損傷をうけて医事紛争に発展しました。本当にこの神経を刺してしまうほど、深く注射針を挿入してしまったのかは、おそらく担当した看護師にしかわからないことだと思いますが、採血直後から正中神経に関連した症状が出現していますので、正中神経に損傷が及んだことを否認するのは難しいと思います。ただし、今回問題となったRSDSには特有の素因があることも知られていて、交感神経過反応者、情緒不安定、依存性、不安定性を示す性格の持ち主であることも知られています。今回の採血では、担当看護師の主張のように、けっして針をブスブスとつき刺すような乱暴な操作をしていないと思います。にもかかわらず重篤な障害に至ってしまったということは、今後私たちが採血や注射を担当する以上、一定の確率で否が応でも今回のような症例に遭遇する可能性があることになります。ではどうすればこのような紛争を未然に防ぐことができるかというと、あらかじめ採血をする時には、危険な部位には針を刺さないようにすることが必要です。通常は肘の外側に太い神経はみられないので、可能な限り内側の尺側皮静脈から採血するのは避け、外側の皮静脈に注射するのが懸命でしょう。もしどうしても採血可能な静脈が内側の尺側皮静脈以外にみつからない場合には、なるべく静脈の真上から針を挿入し、けっして針が深く入らないようにすることが望まれます。また、採血時に普通ではみないほどひどく痛がる患者の場合には、RSDSへと発展しやすい体質的な素因が考えられますので、無理をして何回も針を刺さないように心がけるとともに、場合によっては医師の判断を早めに仰ぐようにするなどといった配慮が必要だと思います。内科

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鎖骨下静脈穿刺後の無気肺で死亡したケース

感染症最終判決判例時報 1589号106-119頁概要金属プレス機に両手を巻き込まれた19歳男性。救急搬送された大学病院にて、手袋の繊維、機械油で汚れた手をガーゼ、ブラシで洗浄し、消毒、デブリードマンを施行した。左手には有茎植皮術、右手には一時的な創縫合手術を施行し、術後抗菌薬を投与した。投与後、創部から黄緑色の浸出液と刺激臭があり、緑膿菌感染を疑い硫酸ゲンタマイシンンなどを追加。その後、浸出液と刺激臭は消失し、壊死部の除去を含めた右手皮弁切離術、左手小指端形成術を施行した。さらに右手では左胸部有茎植皮術、左手では腹部有茎植皮術を行った。約1週間後に41.1℃の発熱があり、敗血症疑いから血液培養を施行(結果は陰性)。しかし、翌日に軽度の呼吸困難があり、突然の痙攣発作と意識障害が出現したことからエンドトキシンショックを疑い、血管確保の目的で鎖骨下静脈穿刺が行われた。穿刺中に患者が上体を起こしたことから中止し、身体拘束後に再度右鎖骨下静脈にラインを確保した。しかし、胸部X線写真で右鎖骨下に血腫を認めたため、再度右そけい部からカテーテルを挿入した。その後、瞳孔散大傾向、対光反射喪失、嘔吐もみられたので気管内挿管を施行。諸検査を行おうとしたところ、心肺停止状態となり、蘇生が開始されたが、死亡した。詳細な経過患者情報19歳男性経過1990年8月17日12:10金属プレス機のローラーに両手を挟まれて受傷した19歳男性。某大学病院に救急搬送された時には、受傷時につけていた手袋の繊維、機械油などで両手の傷は著しく汚染されていた。13:30頃創洗浄開始。14:45緊急手術のための麻酔開始。同時にガーゼ、ブラシを用いた洗浄、消毒、デブリードマン施行。洗浄用の生食水(500mL)40本使用。左手:手掌皮膚は手関節から基節骨までグローブ状に剥離:有茎植皮術施行右手:手背の皮膚欠損および筋挫滅、一部では骨にまで達する:一時的な創縫合手術施行術後抗菌薬としてセフメタゾールナトリウム(商品名:セフメタゾン)、硫酸ジベカシン(同:パニマイシン)を使用。8月30日はじめて創部から黄緑色の浸出液と刺激臭があり、緑膿菌感染が疑われたため、硫酸ゲンタマイシン(同:ゲンタシン軟膏)、セフタジジム(同:モダシン)を投与。9月4日黄緑色浸出液と刺激臭はほとんど消失。9月10日右手皮弁切離術、左手小指断端形成術(壊死部の除去も行う)。9月26日浸出液が消失する一方、壊死部もはっきりとしてきたので、右手は左胸部有茎植皮術、左手は腹部有茎植皮術施行。術後から38~39℃の発熱が持続。10月1日41.1℃の発熱があり、敗血症を疑って血液培養施行(結果は陰性)。10月2日15:20軽度の呼吸困難出現。15:30突然痙攣発作と意識障害が出現。血圧92mmHg、脈拍140、呼吸回数22回。内科医師の往診を受け、エンドトキシンショックが疑われたため、血管確保目的で鎖骨下静脈穿刺が行われた。ところが穿刺中に突然上体を起こしてしまったため、いったん穿刺を中止。その後身体を拘束したうえで再度右鎖骨下静脈にラインを確保した。ところが、胸部X線写真で右鎖骨下に血腫を認めたため、カテーテルを抜去、右そけい部から再度カテーテルを挿入した。16:30瞳孔散大傾向、対光反射がなくなり、嘔吐もみられたため気管内挿管施行。腰椎穿刺にて採取した髄液には異常なかった。そこで頭部CTを施行しようと検査室に移動したところで心肺停止状態となる。ただちに蘇生が開始されたが反応なし。19:57死亡確認。病理解剖の結果、両肺無気肺(ただし左肺は一部換気)、(敗血症性)脳内小血管炎、脳浮腫、感染脾、全身うっ血傾向、右鎖骨下血腫、右胸水が示された。当事者の主張患者側(原告)の主張生命の危険性、あるいは手指の切断についての説明がないのは説明義務違反がある適切な感染症対策を行わず、敗血症に罹患させたのは注意義務違反である鎖骨下静脈穿刺により、無気肺を生じさせたのは注意義務違反である緑膿菌などに感染し、敗血症性の呼吸困難が生じていたことに加え、鎖骨下静脈穿刺の際に生じた鎖骨下血腫および血性胸水が無気肺をもたらしたことが原因となり、呼吸不全から心停止にいたり死亡した病院側(被告)の主張容態急変する前の9月26日までは順調に経過しており、手術前にその急変を予測して説明を行うのは不可能であった創は著しく汚染されていたので、無菌化することは困難であった。感染すなわち失敗という考え方は妥当ではない鎖骨下静脈穿刺により、無気肺を生じたとしても、患者が突然寝返りを打つなどして動いたことが原因である。患者救命のための緊急事態下で行われた措置であることを考慮すれば、不可抗力であった病理解剖所見では、突然の呼吸停止とまったく蘇生不能の心停止が同時に生じるという臨床的経過と符合しないため、結局突然死と診断されており、死亡原因の特定はできない裁判所の判断1.病院側は原因不明の突然死というが、病理解剖の結果心臓には心停止をもたらすような病変は確認されておらず、敗血症性の感染症および無気肺の存在以外には死亡に結びつく病変は確認されていないので、原告の主張通り、緑膿菌などに感染し、敗血症性の呼吸障害ないしは呼吸機能の低下、ならびに鎖骨下静脈穿刺の際に生じた鎖骨下血腫および血性胸水が無気肺をもたらしたことによる換気能力の低下、呼吸不全から心停止にいたり死亡した2.ゴールデンアワー内に十分な洗浄、消毒、デブリードマンなどを徹底して行い、その後も十分な洗浄、消毒、デブリードマンを行うべき注意義務があったにもかかわらず、これを怠った。その結果、敗血症性の重篤な感染症に罹患させたものである3.鎖骨下静脈穿刺の時にはいつ痙攣や不穏状態が生じるか予測できない状態であったので、穿刺時の不測の体動を予見することは十分に可能であった。そのため、身体を拘束したうえで鎖骨下静脈穿刺を行うべき注意義務を違反した4.説明義務違反は十分な洗浄や消毒を行わなかった過失に含まれる原告側合計7,077万円の請求に対し、5,177万円の判決考察この判決内容を熟読してみて、臨床を熱心に実践されている先生方のご苦労と、ひとたび結果が悪かった時に下される司法の判断との間には、大きな相違があると感じずにはいられませんでした。まず、最大の誤解は、「手の開放創からの感染は、十分な洗浄、消毒、デブリードマンを徹底して施行すれば、ほぼ確実に防止できるものである」と断定していることだと思います。いくら抗菌薬が発達した現代であっても、本件のような難治性の感染症を完全に押さえ込むのが難しいことは、われわれが常日頃感じているジレンマのような気がします。本件で不十分と判断されてしまった創の消毒・洗浄方法をもう一度みてみると、12:40(受傷後30分)救急搬入、バイタルサインが安定していることを確かめた後、両手に付着していた線維などを取り除いたうえで、ポビドンヨード(商品名:イソジン)、クロルヘキシジングルコン酸(同:ヒビテン)で消毒。13:30(受傷後1時間20分)抗菌薬を静注しながら、両腋窩神経、および腕神経叢ブロックを施行したうえで、ただちに創洗浄を開始。14:45(受傷後2時間35分)全身麻酔下の手術が必要と考えたため麻酔導入。麻酔完了後、ガーゼ、ブラシを用いながらヒビテン®液で軟部組織、骨、皮膚に付着した油様のものなどをよく洗浄したうえで消毒し、壊死組織、挫滅組織を切除、さらに生理食塩水でブラッシングしデブリードマンを完了。この間に使用した生食は20L。とあります。裁判ではしきりに、受傷後6時間以内のゴールデンタイムに適切な処置が行われなかったことが強調されましたが、このような病院側の主張をみる限り、けっして不注意があったとか、しなければならない処置を忘れてしまったなどという、不誠実なものではなかったと思います。少なくとも、受傷6時間の間に行った処置は、他人から批判を受けなければならないような内容とはいえないのではないでしょうか。にもかかわらず、「きちんと洗浄、消毒をすれば菌は消える」などと安易に考え、「菌が消えないのならば最初の処置が悪かったに決まっている」と裁判官が即断してしまったのは、あまりにも短絡しすぎていると思います。あくまでも過誤があると主張するのならば、洗浄に用いた生食が20Lでは足りなくて、30Lだったらよかったのでしょうか?そこまで医師の措置を咎めるのであれば、当時の医師たちのどこに不適切な点があって、どのような対策を講じたら敗血症にまでいかずにすんだのか、つまり今回と同様な患者さんが来院した場合には、どうすれば救命することができるのか、(権威ある先生にでも聞いたうえで)示すべきだと思うのですが、裁判官はその点をまったく考慮せず、一方的な判決となってしまいました。それ以外にも、容態急変時の血液ガスで酸素分圧が137.8mmHg(正常値は85~105)という数値をみて、「酸素分圧が正常値を大きく越えるものであり、無気肺により換気能力の低下を来した」と判断している点は、裁判官の勉強不足を如実に示しています。この当時、当然酸素投与がなされているはずですから、酸素分圧が137.8mmHgとなっても不思議に思わないし、それをもって換気障害があるとは判断しないのが常識でしょう。にもかかわらず、ことさら「酸素分圧が正常値を越えた」というだけで「注意義務違反に該当する医療行為があった」と短絡しているのは、どうも最初から「医者が悪い」という結論を導くために、こじつけた結果としか思えません。少なくとも、そのような間違った見解を判決文に載せる前に、専門家に確認するくらいの姿勢はみせるべきだと思います。鎖骨下静脈穿刺についても、同じようなことがいえると思います。当時の内科医師は、鎖骨下静脈穿刺前の局所麻酔の時に、患者がとくに暴れたり痛がったりしなかったので、あえて押さえつけながら穿刺を行わなかったと証言しています。これはごく当たり前の考え方ではないでしょうか。この裁判官の判断が正しいとするならば、意識がもうろうとしている患者さんに注射する時には、全員身体を拘束せよ、という極端な結論となります。実際の臨床現場では、そのようなことまであえてしないものではないでしょうか。病院側は不可抗力であったと主張していますが、そのように考えるのももっともであり、すべてが終わった後で判断する立場でこのような判決文を書くのは、少々行き過ぎのような気がしてなりません。ただ一方で、前途ある19歳の若者が命を落としてしまったのも事実です。その過程では、よかれと思った医療行為が裏目に出て、敗血症に至ったり、鎖骨下血腫を形成して死亡に少なからず寄与しました。しかし、ではどこでどのような反省をして、今後どのような対処をするべきかという、前向きの考え方がなかなかこのケースでは検討しにくいのではないでしょうか。つまり、本ケースのように医療行為の結果が悪くて裁判に発展してしまい、本件のような裁判官に当たると、医師にとって不利な判決にならざるを得ないという、きわめて釈然としない「医療過誤」になってしまうと思います。感染症

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交通事故による高エネルギー外傷の死亡例

救急医療最終判決平成15年10月24日 大阪高等裁判所 判決概要38歳の男性、単独交通事故(乗用車運転席)のケース。来院時の意識レベルはJCS 30であり、頭蓋内疾患を疑って頭部CTを施行したが異常なし。体表面の外傷として頬からあごにかけて、および左鎖骨部から頸肋部にかけて打撲痕がみられた。バイタルサインや呼吸状態は安定し、胸腹部X線は異常なし。血液検査ではCPK上昇197mU/mL(正常値10~130mU/mL)を除いて貧血などもみられなかった。経過観察目的で一般病棟に入院としたが、来院から約2時間後に容態が急変し、心嚢穿刺を含む救急蘇生を行ったが改善せず、受傷から3時間半後に死亡確認となった。詳細な経過患者情報38歳男性経過平成5年10月8日16:23乗用車を運転中、民家のブロック塀に衝突する自損事故で受傷。現場にスリップ痕が認められないことから、通常走行する程度の速度で衝突した事故と考えられた。乗用車は前部が大破しハンドルは作動不能であり、シートベルトは装着しておらず、乗用車にはエアバッグ装置もなかった。救急隊到着時の意識レベルはJCS(ジャパンコーマスケール)で200(刺激で覚醒せず、少し手足を動かしたり、顔をしかめる状態)であった(なお助手席同乗者は当初意識清明であったが、外傷性心破裂のため容態急変し、三次救急医療機関へ転送され18:40死亡)。16:47救急車で搬送。脳神経外科専門医が担当し、救急隊員からブロック塀に自動車でぶつかって受傷したという報告を受けた。初診時不穏状態であり、意味不明の発語があり、両手足を活発に動かしており、呼びかけに対しては辛うじて名字がいえる状態で意識状態はJCS 30R(痛み刺激を加えつつ呼びかけをくり返すと辛うじて開眼する不穏状態)と判断された。血圧158/26mmHg。頬からあごにかけて、および左鎖骨部から頸肋部にかけて打撲痕を認めたものの、呼吸様式、胸部聴診では問題なし。明らかな腹部膨満や筋性防御はなく、腸雑音の消失、亢進はなかった。また、四肢の動きには異常なく、眼位や瞳孔に異常はみられなかったが、振り子状の眼振を認めた。17:00頭部CT検査:異常なし17:12血算:貧血なし生化学:CPK 197mU/mL(正常値10~130mU/mL)17:22頭部、胸部、腹部の単純X線撮影:異常なし以上の所見から、とくに緊急な措置を要する異常はないものと判断し、入院・経過観察を指示。18:00消化器外科専門医が診察。腹部は触診で軟、筋性防御などの所見はなく、貧血を認めず、X線写真とあわせて経過観察でよいと判断した。脳神経外科医は入院時指示票に病名を頭部外傷II型、バイタルサイン4時間(4時間毎に血圧などの測定や観察)と記載して看護師に手渡した。18:30一般病室へ入院。軽度意識障害は継続していたが、呼吸は安定。点滴が開始された。脳神経外科担当医は家族へ病状を説明し、家族はいったん帰宅した。19:00看護師から血圧測定不能との連絡あり。血液ガス分析のための採血中に突然呼吸停止となり、胸骨圧迫式(体外式)心マッサージ、気管内挿管などの蘇生術を施行。胸部ポータブルX線検査では明らかな異常を認めず。ここで外傷性急性心タンポナーデを疑い、超音波ガイドを使用せずに左胸骨弓の剣状突起起始部から心嚢穿刺を試みたが、液体を得ることはできなかった。その後も懸命の救急蘇生を続けるが効果なし。20:07死亡確認。死亡診断書には胸部打撲を原因とする心破裂の疑いと記載した。病理解剖を勧めたが家族は拒否した。被告病院の救急体制被告病院は院長ほか33名の医師を擁し、二次救急医療機関に指定されている(ただし常勤の救急認定医あるいは救急指導医はいない)。当直業務は医師2名(外科系、内科系各1名)、看護師2名でこなしていたが、時間外にも外科医、麻酔科医、看護師などに連絡し30分程度の準備時間をかければ手術をすることができる態勢を整えていた。なお県内の高度救命三次救急医療機関までは救急車で30分~1時間以上要する距離にあった。当事者の主張患者側(原告)の主張死亡原因は心筋挫傷などによる外傷性急性心タンポナーデのため、胸部超音波検査を実施すれば、心嚢内の血液の貯留を発見し、外傷性急性心タンポナーデによる容態急変を未然に防ぐことができた。病院側(被告)の主張死因を外傷性急性心タンポナーデであると推定するA鑑定がある一方で、腹腔内出血とするB鑑定もあり、わが国の代表的な救急医療専門家でも死因の判断が異なることは、死因を特定するのが難しいケースである。このうちA鑑定は特殊救急部での実践を基準とし、平均的な救命救急センターの実態をはるかに超える人的にも物的にも充実した専門施設を前提とした議論を展開しており、そのレベルの医療機関に適時にアクセスできる救急医療体制の実現を目指した理想論である。本件当時、当該病院周辺にはそのような施設はなく、他府県でも一般的に存在しなかったので、理想論を基準として病院側の過失や注意義務違反を判断することはできない。裁判所の判断患者はシートベルトを装着しない状態で、ブレーキ痕もなくブロック塀に衝突しており、いわゆる「高エネルギー外傷」と考えられる。そして、血液生化学検査によりCPK 197mU/mLと異常値を示していたこと、受傷後約2時間半は循環動態が安定していたにもかかわらず19:00頃に容態急変したこと、心肺蘇生術にもかかわらずまったく反応がなかったことなどは、A鑑定が推測したように外傷性急性心タンポナーデの病態と合致する。一方、腹腔内出血が死亡原因であるとするB鑑定は、胸部正面単純X線撮影で中心陰影が縮小していないことから、急速な腹腔内出血が死亡原因であるとは考えられず、採用することはできない。このような救急患者を担当する医師は、高エネルギー外傷を受けた可能性が高いことを前提として診察をする必要がある。まず着衣は全て取り去り、全身の体表を調べ、外力が及んだ部位を把握し、脈拍数の測定、呼吸に伴う胸壁運動の確認、呼吸音の左右差や心雑音の有無、冷汗やチアノーゼ、頸動脈怒張の有無、意識レベル、腹部所見、四肢の状態を確認する。その後、心嚢液の貯留、胸腔内出血、腹腔内出血に焦点を絞って、胸腹部の超音波検査をする(この検査は数分あれば可能である)。その他動脈血ガス分析、血液生化学検査、さらに胸部と腹部の単純X線撮影、頸椎の正・側面撮影をする。以上の診察および検査は、高エネルギー外傷患者については症状がない場合でも必須である。そして、診察および検査により特別な異常がない場合でも、高エネルギー外傷患者は入院経過観察が必要で、バイタルサインは連続モニターするか頻回に測定する。また、初回の検査で異常がなくても、胸腹部の超音波検査をはじめは1~2時間間隔でくり返し行う。本件の担当医師は、高エネルギー外傷による軽度の意識障害を伴った患者に対し胸腹部の単純X線撮影、頭部CT検査、血液検査は施行したが、高エネルギー外傷で起こりやすい緊急度の高い危険な病態(急性心タンポナーデ、緊張性気胸、腹腔内出血、頸椎損傷など)に対する検査を実施していない。しかも看護師に対しバイタルサイン4時間等チェックという一般的な注意をしただけで、連続モニターしなかったのは不適切である。本件は受傷から2時間半後に容態急変した外傷性急性心タンポナーデが疑われる症例なので、もし入院・経過観察とした時点で速やかに胸部超音波検査を実施していれば、心嚢内の出血に気づき、ただちに心嚢穿刺により血液を吸引除去し、あるいは手術的に心嚢を開放(心嚢切開または開窓術)することによって確実に救命できた可能性が高い。もし心嚢切開または開窓術を実施できなければ、すみやかに三次救急医療機関に搬送すれば救命することができたので、担当医師の過失・注意義務違反は明らかである。我が国では年間約2千万人の救急患者が全国の病院を受診するのに対し、日本救急医学会によって認定された救急認定医は2,000名程度にすぎず、救急認定医が全ての救急患者を診療することは現実には不可能である。救急専門医(救急認定医と救急指導医)は首都圏や阪神圏の大都市部、それも救命救急センターを中心とする三次救急医療施設に偏在しているのが実情である。そのため大都市圏以外の地方の救急医療は、救急専門医ではない外科や脳外科などの各診療科医師の手によって支えられているのが我が国の救急医療の現実である。したがって、本件病院が二次救急医療機関として、救急専門医ではない各診療科医師による救急医療体制をとっていたのは、全国的に共通の事情であること、一般的に、脳神経外科医は研修医の時を除けば心嚢穿刺に熟達できる機会はほとんどなく、胸腹部の超音波検査を日常的にすることもないことなどは、被告担当医師の主張の通りである。そのような条件下では、被告医師は自らの知識と経験に基づき、脳神経外科医としては最善の措置を講じたと考えられるため、脳神経外科医に一般に求められる医療水準は十分に実践したことになる。しかし救急医療機関は、「救急医療について相当の知識および経験を有する医師が常時診療に従事していること」とされ、その要件を満たす医療機関を救急病院などとして都道府県知事が認定することになっている(救急病院などを定める省令1条1項)。また、救急医療機関に勤務する医師は、「救急蘇生法、呼吸循環管理、意識障害の鑑別、救急手術要否の判断、緊急検査データの評価、救急医療品の使用などについての相当の知識および経験を有すること」が求められている(昭和62年1月14日厚生省通知)から、担当医の具体的な専門科目によって注意義務の内容、程度が異なるというわけではなく、二次救急医療機関の医師として、救急医療に求められる医療水準の注意義務をはたさなければならない。したがって、二次救急医療機関に勤務する医師である以上、本件のような高エネルギー外傷患者には初診時から胸部超音波検査を実施し、心嚢内出血と診断をしたうえで必要な措置を講じるべきであり、もし必要な検査や措置を講じることができない場合には、ただちにそれが可能な医師に連絡を取って援助を求めるか、三次救急医療機関に転送することが必要であった。以上のとおり、被告医師には明らかな注意義務違反を認めることができる。原告側6,645万円の請求に対し、4,139万円の判決考察この判決では、医療現場の実情がほとんど考慮されず、理想論ばかりが展開されて担当医師のミスと断言されたようにも思います。おそらく、救急専門医にとっては「preventable death」と考える余地があるケースでしょうけれども、日本の救急医療を支えている多くの外科医、脳神経外科医、整形外科医などからみれば、きわめて不条理な判断ではないかと思われます。なぜなら、この裁判が指摘したのは、「外傷患者に胸部超音波検査を施行できない医師は二次救急医療機関の外科系当直をするな」、ということにもつながるからです。症例は38歳の男性、単独交通事故のケースでした。来院時の意識レベル30、バイタルサインは異常なし、すぐに頭蓋内疾患を疑って頭部CTを施行したが異常なし。体表面の外傷として頬からあごにかけて、および左鎖骨部から頸肋部にかけて打撲痕がありました。その他、胸腹部X線、血算でも貧血などの異常はなく、CPKが197mU/mL(正常値10~130mU/mL)と上昇していました。緊急で処置するべき病態はなかったものの、意識障害がみられたためとりあえず経過観察の入院としたことは、妥当な判断と思われます。ところが、入院後の経過はきわめて急激でした。16:23交通事故16:47救急搬送17:00頭部CT検査:異常なし17:12血算:貧血なし、生化学:CPK 197mU/mL(正常値10~130mU/mL)17:22頭部、胸部、腹部の単純X線撮影:異常なし18:00消化器外科医の診察で腹部異常所見なし18:30一般病室へ入院、家族はいったん帰宅19:00血圧測定不能、呼吸停止20:07死亡確認、死体解剖せず脳神経外科担当医は、来院から約1時間10分で一通りの初期評価を行い、頭蓋内出血など緊急で対応しなければならない病態は除外し、バイタルサインや呼吸状態は安定していたため一般病棟に観察入院としました。ところが病棟へ上がった30分後に容態急変、外傷性急性心タンポナーデも考えて研修医時代に経験したことのある心嚢穿刺にもトライしましたが血液は得られず、蘇生への反応はなく死亡したという経過です。けっしてこのケースは見逃し、怠慢、不注意などといった、最近のマスコミがしきりに喧伝しているような事故状況ではありませんでした。しかも、結果からいえば救命できなかった残念なケースですが、死体解剖の同意は得られず死亡原因も確定しませんでした。もし当初から血圧が低いとか、呼吸状態が悪いなどの所見がみられたのであれば、胸腹部損傷を積極的に疑って急変前から精査を勧めていたと思います。しかし、胸部X線写真で肋骨骨折や血気胸はなかったし、頭部CTでも異常がなければ、それ以外の命に関わる病態を想定して(たとえ無症状でも)胸部超音波検査を積極的に施行したり、自分で検査できなければ容態が安定しているうちに高次医療機関へ転送するというのは、非常に難しい判断であったと思います。それにもかかわらず、裁判官は以下のように考えました。死亡原因は外傷性急性心タンポナーデがもっとも疑われる(注:確定されていない!)患者の受傷形態は高エネルギー外傷であった高エネルギー外傷であれば最初から胸腹部損傷を考えて、たとえ症状がなくても胸腹部超音波検査をしなければならない(数分でできる簡単な検査である)初回検査で異常なくても、胸腹部超音波検査をはじめは1~2時間間隔でくり返し行うそうしていれば心タンポナーデを診断できた心タンポナーデとわかれば心嚢穿刺または心嚢切開で確実に救命できた心タンポナーデの診断・治療ができないのなら、受傷から容態急変までの約2時間半は循環動態も安定していたので、はじめから三次救急医療機関に搬送していればよかったこのように、裁判官はすべて「仮定」を前提とした論理を展開しているのがわかると思います。そもそも、直接の死亡原因すら確定していない状況で、「外傷性急性心タンポナーデ」と診断を決めつけ、それならば数分でできる胸部超音波検査で診断できるはずだ、診断できれば心嚢穿刺で血を抜くだけで助かるはずだ、だから医者の判断ミスだ、とされました。しかし、今回担当したような脳神経外科を専門とする医師に、胸部超音波検査で外傷性急性心タンポナーデをきちんと診断しなさい、とまで要求するのは、現実的には不可能ではないでしょうか。ましてや、搬送直後には循環器系、呼吸器系の異常もはっきりしなかったのですから、専門医にコンサルトするといった考えもまったくといってよいほどなかったと思います。ところが裁判官は法令の記述を引用して、二次救急医療機関には「救急蘇生法、呼吸循環管理、意識障害の鑑別、救急手術要否の判断、緊急検査データの評価、救急医療品の使用などについての相当の知識および経験を有する」医師をおかなければいけないから、たとえ専門外とはいえ外傷性急性心タンポナーデを適切に診断する注意義務がある、と断言しました。となれば、高エネルギー外傷が疑われる交通事故患者には無症状であってもルーチンで胸部超音波検査を施行せよとなり、さらに胸部超音波検査に慣れていない一般的な脳神経外科医は二次救急医療機関の当直をするべきではない、という極論にまで発展しかねません。一方救急専門医は、外傷による死亡には多くの「preventable death」が含まれているという苦い教訓から、ことあるごとに警鐘を鳴らしています。とくに外傷急性期の「preventable death」の原因としては、以下の「TAFなXXX」が重要です。心嚢内出血(cardiactamponade)気道閉塞(airway obstruction)フレイルチェスト(flaii chest)緊張性気胸(tension pneumothorax)開放性気胸(open pneumothorax)大量血胸(massive hemothorax)本件では救急専門医による鑑定で心嚢内出血による死亡と推測されました。そのため救急医の立場では、交通事故で胸を打った患者が運ばれてきたならば、初診時にバイタルサインや呼吸状態は落ち着いていても、「頬からあごにかけて、および左鎖骨部から頸肋部にかけて打撲痕を認めた」のならば、すぐさまFAST(focused assessment with sonography for trauma)をするべきだという考え方となります。これは救急専門医だからこそ求められるのではなく、「外傷初期治療での必須の手技」、すなわち外傷医ならば救急室のエコー検査に習熟せよ、とまでいわれるようになりました(詳細は外傷初期診療の日本標準テキスト:JATEC Japan Advanced trauma Evaluation and Careを参照ください)。つまり医学の進歩に伴って、二次救急医療機関の当直医に求められる医療水準がかなり高くなってきているということがいえます。とはいうものの、二次救急医療機関で働く多くの外科医、脳神経外科医、整形外科医などに、当直帯で外傷性急性心タンポナーデを適切に診断し救命せよというのは、今の医療現場ではかなり厳しい要求ではないでしょうか。このあたりのニュアンスは、実際に医師免許を取得して二次救急医療機関で働かなければわからないと思われ、たとえこのような判決が出ようとも、同じような症例がこれからもくり返される可能性が高いと思います。しかし、たとえ救急医ではなくても「preventable death」とならないように配慮する義務がわれわれ医師にはありますので、やはり外科系当直を担当する立場では、超音波検査で出血の有無だけはわかるようにしておかなければならないと思います。そして、本件のように最初は状態が安定していても、あっという間に急変して死亡に至るケースがあることを想定しつつ、患者およびその家族へ「万が一」のことを事前に説明することが大事でしょう。本件では受傷から約2時間後に「検査の結果は大丈夫です」と説明して、家族へは帰宅を許可しました。ところがその30分後には容態急変しましたので、「誤診があったのではないか」と家族が不審に思うのも無理はないと思います。このように救急患者の場合には、できる限り「病態悪化を想定した対応」が望まれ、そうすることによって不毛な医事紛争を未然に防ぐことができるケースも数多くあると思います。救急医療

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