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せん妄ガイドライン2022年版第2版の主な改訂点を解説

 日本サイコオンコロジー学会 / 日本がんサポーティブケア学会編『がん医療におけるこころのケアガイドラインシリーズ 1 がん患者におけるせん妄ガイドライン 2022年版』(金原出版)を刊行した。2019年の初版に続く改訂2版となる。改訂作業にあたった京都大学医学部附属病院緩和ケアセンター/緩和医療科 精神科医の谷向 仁氏に、主な変更点やポイントを聞いた。 がん患者さんは精神的な問題を抱えることが多いのですが、その対応は医療者個人の診療経験などによってばらつきが認められています。この経験による判断はもちろん大切なのですが、一方でさまざまなバイアスによる影響も懸念されます。 『がん医療におけるこころのケアガイドラインシリーズ』は、がん患者さんの精神的問題に対する対応法の基本となる部分の均てん化を図ることを目的として、多くの医療分野で近年使用されている「Minds診療ガイドライン作成マニュアル」に基づきまとめられています。 2019年の『せん妄ガイドライン』初版にはじまり、今夏刊行の『患者-医療者間のコミュニケーションガイドライン』『遺族ケアガイドライン』、そして現在シリーズ4冊目となる不安と抑うつをテーマとした『がん患者の気持ちのつらさ(仮)』を作成中です。せん妄ガイドラインはオピオイドほかがん特有のトピックを主に解説 せん妄とは、身体的異常や使用薬剤が直接的原因となって引き起こされる意識障害です。あらゆる疾患で起こり得るものですが、がん患者ではその頻度が高く、特に終末期がん患者では80~90%に認められると報告されています。また、骨転移に伴う高カルシウム血症や脳転移、症状緩和の目的で使用されるオピオイドやステロイドなど、がん患者に特有ともいえる背景を有します。さらには、がん患者のみならず家族も含めてのケアが重要となります。 せん妄ガイドラインではこのようながん特有のせん妄に関するトピックに対して、がん患者でのこれまでの質の高い研究報告を中心にシステマティックレビューを行い、検討したものをまとめています。せん妄ガイドライン改訂版ではせん妄予防視点の臨床疑問を追加 せん妄ガイドライン2019年版を発刊以後、その内容について多くの紹介の機会を頂きました。その際、さまざまなコメントと共に、今後の改定に際しての要望も頂いておりました。今回のせん妄ガイドライン改訂版では、それらの貴重なご意見を可能な限り採用して補強するように努めました。せん妄ガイドライン第2版の主な改訂点は主に以下の通りです。1)総論5「終末期せん妄のケアとゴール」の章を新設2)総論6「病院の組織としてせん妄にどう取り組むか」の章を新設3)III章の臨床疑問に「1.予防のための非薬物療法」「2.予防のための抗精神病薬」「6.症状軽減のためのトラゾドン」の3つを追加4)IV章「臨床の手引き」を新設 せん妄は発症後の対応が中心であった一昔前と異なり、近年では「せん妄を発症させない」予防が非常に重要と考えられるようになってきています。2020年度診療報酬改定で新設された「せん妄ハイリスクケア加算」はまさにせん妄予防を評価するという流れを反映したものです。せん妄予防では医師、看護師、薬剤師など多職種によるチーム医療、そして、組織としての取り組みが非常に重要となります。 また、ガイドラインの結果を臨床にどのように活かすことができるかという具体的な手引きの要望も多く聞かれたことから、まず薬物療法についての解説を加えました。さらに、可逆性のせん妄対応とは大きく異なり、不可逆性の転帰が多い終末期せん妄に対する解説を充実させました。せん妄ガイドラインをがん診療に携わるすべての医療者に がん患者さんのせん妄に初めに遭遇するのは、せん妄診療を行う精神科医や心療内科医ではなく、がん治療に携わる医療者です。また、予防、早期発見と対応(原因検索とその対応)が大切であり、これらをチームで展開することが求められます。がん治療に携わる医師はもちろんのこと、看護師、薬剤師の方々などがん医療に携わるすべての医療者に手に取っていただき、せん妄ガイドラインを日々の診療に役立てていただきたいと思っています。書籍紹介『がん患者におけるせん妄ガイドライン 2022年版』

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医療訴訟を回避するカルテ術【Dr.倉原の“俺の本棚”】第54回

【第54回】医療訴訟を回避するカルテ術医療トラブルになったとき、証拠としてのカルテが非常に重要になります。この理由は、医療訴訟での事実認定がカルテに依存していることが挙げられるようです。医師と弁護士のダブル免許を持っている山崎 祥光氏が、北野病院で講演してきた「カルテの書き方」のスライドを、北野病院院長の吉村 長久氏が中心となって編さんされた本で、非常に完成度が高いです。『トラブルを未然に防ぐカルテの書き方』吉村 長久, 山崎 祥光/編. 医学書院. 2022年2月発売私は臨床医を約15年続けていますが、幸運なことにこれまで医療訴訟を起こされたことはありません。しかし、医療トラブルの経験はあります。進行期の悪性疾患で助かる見込みがない患者が急変して亡くなったときに、遠方から初めて会う家族がやってきて激怒したのです。私は怒りに対して申し訳ないという謝罪の意を示しましたが、これは当初「非を認めた」ととられてしまいました。終末期がんがどのようなものかを後日しっかりと説明することで納得されたのですが、「場合によっては訴訟」と言われたことは、今でも記憶に残っています。「遠方の家族も含めて、みんなで情報を共有すべきであったし、死が近づいていることを本人が家族に話しやすい方向にもっていくべきだった。あなたの怒りももっともだ」という意味での謝罪だったのですが、医療内容に関して非を認めてしまうような印象を与えてしまったようです。一番ベストな方法は、「医療責任ではなく、患者家族のつらいお気持ちに対して謝罪の意を表明した」などというカルテ記載を心掛けて、決して責任に対して謝罪したわけではないことがわかればよいそうです。その時に罵倒されることを回避できるわけではありませんが、後日医療訴訟に発展した場合の防衛策になります。この本は病状説明、同意書、処置などに関する医療トラブルの例を挙げつつ、プロによる「カルテにはこう書こう」という具体案が提示されています。医療訴訟の医学書なんて、これまでになかったので、かなり新鮮でした。「患者の病状理解が悪い」「進言するが聞き入れられず」みたいな感じで、感情を入れてカルテを書いてしまいがちな人は必読です。当院は外国人結核の患者さんがよく入院してくるんですが、片言で日本語を話す外国人のカルテに「S)大丈夫デス!」のように書いてしまう自分がいます。悪意があるわけではないのですが…。『トラブルを未然に防ぐカルテの書き方』編集吉村 長久, 山崎 祥光出版社名医学書院定価3,960円(税込)刊行年2022年

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新型コロナ自宅死亡例は高齢者が多い/アドバイザリーボード

 4月27日に開催された政府の新型コロナウイルス感染症対策アドバイザリーボードで「新型コロナ患者の自宅での死亡事例に関する自治体からの報告について」が公開された。 本報告では、令和4年1月1日~3月31日までの間に自宅で死亡された5態様(例:自宅療養中に死亡、入院調整中などに死亡、死亡後に陽性確認など)の新型コロナウイルス感染症患者について、都道府県を通じ、年齢、基礎疾患、同居の有無、ワクチン接種歴、死亡に至るまでの経過などを調査、集計したもの。【死亡者の概要】対象者:計555人(男性352人、女性203人)1)死亡時の年齢構成:80代(55%)、70代(24%)、60代(10%)2)基礎疾患の有無:あり(64%)、なし(25%)、不明(11%)3)ワクチン接種歴:2回(39%)、不明(38%)、未接種(16%)4)単身・同居などの状況:家族などと同居(46%)、不明(40%)、単身(14%)5)死亡直前の診断時の症状の程度については、軽症・無症状が43.4%、中等症が7.0%、重症が2.2%、不明または死亡後の診断が47.4%6)生前に陽性が判明して自宅療養中に死亡した者は65.8%、死後に陽性が判明した者は34.2%7)発生届の届出日が死亡日よりも前であった事例が36.2%、発生届の届出日が死亡日と同日であった事例が39.8%、発生届の届出日が死亡日以降であった事例が24.0%8)自宅療養の希望ありが20.4%、希望なしが11.5%、不明者および死後に陽性が判明した者が68.1%【具体的な死亡事例について(抜粋)】・陽性が判明したが、本人や家族の意思により自宅療養を希望するケースがあった。・救急搬送の搬入時の検査で陽性が判明するケースがあった。・高齢であることや末期がんであることにより自宅での看取りを希望するケースがあった。・入院調整や宿泊療養の対象となるも、直後に死亡するケースがあった。・本人の意思により医療機関での受診や検査を希望しないケースがあった。 政府は、今後の対応として、保健・医療体制を強化しながら、オミクロン株の特徴を踏まえ、自宅療養者が確実に医療を受けることができる環境整備が重要であり、自宅療養者に対応する医療機関や発熱外来の拡充、重症化リスクのある患者を対象とした経口治療薬や中和抗体薬の迅速な投与体制の確保などの対応を実施していくことで、地域における医療体制の充実に取り組むとしている。【参考:各都道府県の自宅療養への取組事例(抜粋)】(健康観察の重点化)・陽性判明後、当日届出があった患者の携帯電話あてにショートメッセージで夜間などの緊急時連絡先などを知らせるようにした。また、固定電話のみの患者への連絡を優先するようにした。・保健所から電話連絡を取る対象を、重症化リスクの高い対象に重点化するため限定した。1月下旬からは40歳未満で基礎疾患などのない、ワクチン2回接種済みの方以外、2月上旬からは50歳未満で基礎疾患等の無い方以外の方に注力。(外注による休日対応)・自宅療養者と2日間連絡が取れなかった場合、平日のみ消防局職員の協力により自宅を訪問していたが、土日についても、別事業で委託している業者に訪問の協力を依頼することとし、毎日訪問できる体制に改めた。(看取りの対応)・コロナに感染する前から基礎疾患のため終末期で、家族が自宅での看取りを希望した場合には、在宅医、訪問介護と連携し、自宅看取りの対応を行った。

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医師の命狙う凶悪事件に何を思う【在宅医インタビュー】

 医師の命を狙った、卑劣な事件が相次いでいる。記憶に新しいところでは、今年1月27日、埼玉県ふじみ野市で、男(66)が死亡した母親の訪問診療を担当していた在宅クリニック関係者を自宅に呼び出し、散弾銃を発砲。担当医(44)を殺害したほか、同行していた理学療法士(41)に大けがを負わせた。男は自宅内に立てこもった末、殺人および殺人未遂容疑などで逮捕、送検された。さいたま地検は3月3日より鑑定留置を行い、男の刑事責任能力の有無などを調べている。 昨年12月には、大阪・北新地で、雑居ビル4階の心療内科・精神科の医療機関に、男(61)がガソリンを撒いて放火。中にいた医師やスタッフ、患者合わせて26人が殺害された。いずれの容疑者も、相識の医師らを巻き込み自殺を企図したとみられる背景が共通しており、「拡大自殺」などとも言われているが、後者は事件後に死亡しており、全容の解明は不可能になってしまった。 命を救ってくれる、あるいは治療により社会活動に適応できる状態にしてくれるはずの医師が、期待に応えてくれなかったことへの報いか、あるいは処罰感情か―。 こうした事件の報に触れるたびに、医師がみずからの身の安全を守ることと、応召義務を果たすことの難しさを感じる。また、何か事が起こるたびに安全マニュアルや設備点検の徹底が叫ばれるが、それは本質的な解決につながるのだろうかと疑問を感じていた。 社会を動揺させる事件が起きても、現場の在宅医は今日も担当する患者宅を訪問し、心療内科では疾患を抱える患者の診療に忙しい。しかし、その胸中では何を思っているのか。今回、匿名を条件に1人の在宅医に話を聞くことができた。前述のふじみ野市の事件で亡くなった鈴木医師と同年代。答えづらい内容の質問に対しても、慎重に言葉を選びながら真摯に応じていただいた。<今回取材した医師プロフィール>40歳(男性)の訪問診療医。麻酔科医として4年間の病院勤務の後、在宅診療所を設立。東京西部エリアにて、主に末期がん患者の終末期ケアや神経難病患者の訪問診療を行っている。◇◇◇ ふじみ野の事件で亡くなった鈴木 純一先生と直接の面識はなく、人となりも想像するしかできませんが、志をもって在宅医療に携わり、患者さんを大事に考えていらっしゃったということを報道などで見聞きし、そういう実直な人柄の先生がこのような事件で命を落とされたことは、同じ在宅医療に携わる同士として、ただただ悲しく、同時に憤りも感じました。 事件に対する一般の方たちの意見として、医師が亡くなった患者の弔問に行ったことについて疑問視するような声もありましたが、ケースバイケースだと思います。 当院では行っていませんが、規模の大きな診療所では、遺族会をつくり、家族を看取った後の精神的なケア(グリーフケア)をやっているところもあります。診療時はもちろん患者さんのケアが最優先ですが、在宅医療は同時に家族もケアしていくことになるので、そうしたつながりで、亡くなった後に線香を上げに行くということとイコールではないですが、弔問のようなことを絶対にしないということはないと思います。――患者が亡くなった時点で関係が断たれるということではなく、グリーフケアなどで引き続き関係性が継続することはあるということ? その通りです。当院では、亡くなった後ご家族と継続的に連絡を取ることはありませんが、夫婦のどちらかをお看取りしたことのご縁で、何年か後にその連れ合いの方から看てほしいと依頼されるケースもありますし、親族や知り合いの診療を依頼されることもあり、必ずしも完全に関係が切れるというわけではない。それは、在宅じゃなくても地域の診療所ではよくあることではないでしょうか。こういう事件があると、亡くなった患者家族と関わらないほうがいいという世論や、学会や関連団体の指針が出ることがあるかもしれませんが、本来、人と人との関係性なので、やみくもに規制すればいいわけではないと思います。 ただ、クレームを収めることを目的に弔問に行くのは危ないことだということは、改めて認識しました。あくまで報道を見聞きする範囲ですが、今回のケースに限って言えば、生前から関係性が良好で、とくに思い入れの強い患者さんだからというよりは、当初からトラブルを解決する目的の訪問だったように見受けられます。相手もそのつもりで待ち構えていて、結果的に重大な事件に発展してしまいました。 どうすれば防ぎ得たのか。私も100点の答えは持ち合わせていません。患者さんや、家族との関係性次第というところでしょうか。あとは対面する目的。今回のように、不満を持った遺族に呼び出されたような経緯であるならば、なおさら慎重な対応が必要なのだろうとは思います。――自身の診療経験で、実際に危害を加えられたり、危険を感じたりしたことはある? 自身で言うと、後になって納得がいかないというクレームを受けた経験はありますが、直接的な危害の経験はありません。見聞きする範囲ですが、医師に直接という人は少ないものの、看護師などに暴力を振るったとか、そういうケースはよく聞きますね。ただ、精神的に警戒した、ちょっと怖いなと思ったことはありました。明らかに精神的・医学的に異常を感じる方で、言っていること、考えることが噛み合わないケースです。だからといって具体的に何か危害を加えられたわけではないですが、やはりそういう場合はこちらも警戒するというか、物理的に背中を向けないで対面を心掛けるなど、そういうことは気を付けました。 私の場合、往診はまったくの1人。これは診療所によって大きく異なるところで、中には診療所付のドライバーや看護師がいて、常に複数人での往診ができるところもあります。訪問診療は、特別な事情がないかぎり診療所から半径16キロ以内と法的に決まっていますが、32キロ圏内というのはかなり広いです。1人ひとりに時間が掛かることもあり、私の場合は1日に平均8~10件を車で往診しています。麻酔科が専門というのもあり、末期のがん患者さんを多く診ています。それ以外には、ALSなどの神経難病、老衰、脳梗塞後の方なども。そういった事情もあり、入った時点で1年以内に亡くなる患者さんが多く、何年も診療が継続する方は少数です。診療所としては、年間で70人くらいの方をお看取りしていて、感覚としては、3ヵ月から半年というケースが多いように思います。――在宅を選ぶ方、選ばざるを得ない方とは? 人生の最期が視野に入ってきたとき、病院か家かと聞かれたら家を選ぶ人は多いです。ある程度家族がいて受け入れられる場合は、とくに家を望まれます。がん治療で急性期病院に通った後に家かホスピスかという選択になり、ホスピスを選びたいが相当な費用が掛かる。そういう経済的な理由もあって、家で最期を迎える人もいます。――整った条件で在宅を選ぶか、消去法として家を選ばざるを得ないという二極化している? それはあるかもしれないですね。でも、独居の患者さんを家で看取るというケースも多いですよ。看護師やヘルパーに毎日入ってもらって、それでも誰もいない時間帯に亡くなっているケースはもちろんありますが、孤独死で何日も発見されないというような最悪の状態にならずとも、家で最期を迎える方も多くいます。消去法的な選択肢であっても、家にいたいという方にとっては価値ある、有意義なことなのかなと。これは在宅医をやってみるまではわからなかったことです。――訪問診療では、患者さんや家族とどのようなコミュニケーションを? やはり、在宅のほうが家族も含めた密なコミュニケーションになってくると思います。ただ、これもやってみてわかったことですが、在宅医療というのは、完全に治るとか治すということより、家でいかにして苦痛を少なくして楽しく過ごせるかというところを手伝う側面が強いと思います。したがって、病を治すことよりも心身の状態のケアが在宅にはより強く求められる。それは病院でも診療所でも大切なことには変わりないのですが、患者のみならず、家族も含めて行うことが大事です。そうなると、医学的に妥当なこと、正しいこと以上に、最期を見据えた患者の思いに寄り添うことが大事になってくる。あくまで極端な例ですが、末期がんで余命も長くない患者さんが、酒やタバコを楽しみたいという思いがあれば、病院だと止められるのは当然だが、家ならばそれで1日、2日寿命が仮に短くなったとしても、好きな酒を飲み、タバコも吸っても構わないと考えます。もちろん、患者さんの望みを何でもやみくも聞くというわけではないし、そうした望みを患者さんが持っていることを家族に丁寧に説明することも大事です。私は在宅医歴10年くらいですが、やっていく中で1つひとつ気付いて軌道修正を加えて行った感じで、当初はちょっと慣れないところもありました。在宅の中でも、厳格な先生はもちろんいらっしゃいます。そこは、患者さんとの関係なども含めた総合的な判断、ケースバイケースです。私自身は、患者さんが家で過ごす時間をいかに楽しく有意義にできるかというところが、1日でも1分でも長く命を生かすことより大事だと思うので、ある程度楽しく過ごせるように緩めるところは緩めるという考え方ですね。――在宅であっても医療は医療として、患者や家族からの期待感があると思う。それに対する責任は重くない? たしかに重い部分もありますが、家族と頻回に顔を合わせているからこそ、患者さんが弱っていくことを徐々に受け入れていってもらい、最期の看取りの瞬間に着地することができる。もちろん、頻回に顔を合わせているからこそのしんどさはあるけれど、逆にあまり会わずにコミュニケーションも少ない中で残念な結果になった場合のしんどさもあるので、どちらがいいとも言えないですね。――看取りを多く経験して、先生自身が患者さんの死に対する「慣れ」を自覚することは? 正直なところ、それはあると思います。とくに在宅を始めた最初のころの看取りの気持ちを考えると、今は自分の中でも冷静で、気持ちがそれほど乱れることもないし、看取りをすることに慣れてきているという自覚はあります。ただ、ご遺族にとっては唯一の関係性の肉親であったり家族であったりする人との別れです。そういう中で掛けるべき言葉は慎重に選ぶように心掛けています。それもやはり患者さん1人ひとり、それぞれの家族との関係性によります。基本的には、家族の方が看取りをやり切ったと思える気持ちになるよう前向きな言葉掛けを意識しています。――自宅を訪問すると、その家が抱えている問題なども見えてくるのでは? なかなかうまく社会的な関わりを持てないご家族や患者さんはたしかにいらっしゃいます。在宅はチーム医療の側面が大きく、ケアマネや訪問看護師も関わってくるので、実務的な部分では訪問看護師のほうが、訪問頻度が高いです。普段の話し相手という部分ではケアマネの役割もとても大きい。皆でみて、精神的なケア、悩みを一緒に解決することは多いです。ただ、そこからはみ出してしまう人もいて、相手側からもう関わらないでほしい、来ないでほしいと拒絶されるケースはある。そういう形で、訪問が続かなくなるケースも少なくありません。 いずれにしても、お宅に入ってみて初めてわかることですが、社会的関わりのみならず、家庭内の人間関係も成り立っていない、破綻しているご家庭も少なからずある。そういった場合は、ケアマネなどと連携しながらあらゆるアプローチは試みてはみるものの、結局は受け入れられずにみずから関係を断って、支援の枠から飛び出してしまう方は少なくないというのが実感です。 家族関係のケアはとくに難しいです。医療者として訪問して、どこまで踏み込んでいいのか迷うし、入って来るなと拒絶されることで、医療的にもケアできなくなってしまうのは本末転倒なので。――今回の事件を巡り、メディアではさまざまな課題が提起された。危機管理対策や、そのための人員確保やマニュアル整備、また、そもそも在宅医療に携わる人員不足に言及する内容も。在宅医として、この事件に対するメディアや世間の捉え方に対し思うことは? 何より、鈴木先生を悼み、故人の尊厳がきちんと守られていたのは妥当だと思いました。先生の人柄がよく、ただそれが故に理不尽にも凶弾に倒れてしまったという内容がほとんどでした。ゴシップ的な記事だと、襲撃された側にも問題があったのではないかというような、無関係なことまで根掘り葉掘り書かれるようなものもあったりしますから。ただ、在宅医が足りないというような視点は…半分は正しく、半分は当たっていないかもしれない。それを言えば、場所にもよるし、産婦人科医が足りないとか、離島には医師そのものが足りないという事情もあるので、在宅医だけがことさら不足しているという論調はどうなのかな、とは思います。たしかに十分ではないですが、この事件に絡めて論じる問題ではないかな。 安全対策が手薄だったから起きたという報道もありました。これも、在宅医療に携わるすべての人が、より手厚く安全が守られるようになればいいなと思う反面、例えば、警備スタッフのような人が同行したとしても、いきなり攻撃されたのでは避けられないケースもあります。 病院、診療所、在宅、いずれも同じようなリスクは常にあると思います。ただし、相手のホームに入っていく以上、その分のリスクの高さはたしかにあるのでしょう。ならば、訪問をやめれば安心かというと、そういうものでもない。それはもう臨床をやっている以上は逃れられないことです。私としては、あるかもしれない危険にどう備えるかというところを考えるしかないかなと思います。 たとえば警察官同行のような強い実効力があるルール整備をしたら解決なのか―。ちょっと極端かもしれませんが、一時期ストーカー規制が叫ばれ、さまざまな法整備も進められてきましたが、現実を見ると、それでも結局命を失うケースが後を絶ちません。医療におけるルール、法整備もそれと似ている部分があると思っていて、完全に犯行を実行しようと相手が決意をしたら、なかなかその危害を未然に防ぐことは難しいというのが現実だと考えます。患者とは一切接触しないオンライン診療のみに振り切るとか、患者との対面頻度を極端に減らして、大勢の目がある中でしか診療しないとか、そこまでやれば防げることもあるかもしれませんが、現実的ではない。在宅をやっている以上、調子が悪いと連絡を受ければすぐに往診するし、物理的なルール、マニュアル整備では難しく、いかに人間関係を構築するかということや、こういう人は高リスクと、より注意をして対応することで、少しでも可能性のパーセンテージを減らすことに尽きると思うのです。 ちょっと飛躍的かもしれませんが、議論を突き詰めていくと、この国における死生観というところと関連があるのではないかと私は考えます。ある程度年老いて衰えてくると、死は避けられない、仕方のないことなのだということを、もっと社会や政治が考えることが大事なのではないかと思うのです。医療が進展し、健康寿命が延びることは喜ばしいけれども、医療費の問題もさらに加速するでしょう。豊かな人はどんどん医療を受け、貧しい人は諦めざるを得ないという格差も、より拡がるかもしれない。死が理不尽なものと考えれば、「拡大自殺」という形で他者を巻き込んだ攻撃にもなってしまう。しかし、どんな人であっても避けることはできず、等しく訪れる「死」というものに対し、どう向き合うのかということは、社会全体でもっと真剣に考えてもいいのではないかと思います。そして、生きた長さよりも、心の充足、どういう人生を生きたかというところを重視することを、医師も考えながら医療をしたほうがいいのではないかと―。在宅医療に従事する中で、私はそう強く思うようになりました。

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膵がん末期患者の下痢をコデインリン酸塩でコントロール【うまくいく!処方提案プラクティス】第34回

 今回は、末期がんの患者さんの下痢に対して、コデインリン酸塩錠で対処した症例を紹介します。代表的な副作用である便秘を活用することで、最終的には疼痛・排便の両方がコントロールできましたが、もっと早くから介入できていたら…という後悔が残った事例です。患者情報87歳、女性基礎疾患膵体部がん(c Stage4b、本人へは未告知)、左加齢性黄斑変性症既往歴子宮筋腫手術、腰椎圧迫骨折、左大腿部頸部骨折診察間隔毎週訪問処方内容1.トラセミド錠4mg 1錠 分1 朝食後2.スピロノラクトン錠25mg 1錠 分1 朝食後3.ナイキサン錠100mg 2錠 分2 朝食後・就寝前4.酪酸菌配合錠 4錠 分2 朝食後・就寝前5.パンクレリパーゼカプセル150mg 2カプセル 分2 朝食後・就寝前6.乾燥硫酸鉄徐放錠 2錠 分2 朝食後・就寝前7.ポラプレジンク錠75mg 2錠 分2 朝食後・就寝前8.ロペラミドカプセル1mg 2カプセル 分2 朝食後・就寝前9.スボレキサント錠15mg 1錠 分1 就寝前10.ロフラゼプ酸エチル錠1mg 1錠 分1 就寝前本症例のポイントこの患者さんは、膵体部がんの進行による疼痛と頻回の下痢で体力消耗が激しく、その便処理のために同居する長女の介護負担が非常に大きい状態でした。内服薬の管理も本人では難しく、出勤前と帰宅後に内服支援をする長女のために朝食後と就寝前で統一していました。下痢に関しては以前から悩みの種で、過去の治療において半夏瀉心湯やタンニン酸アルブミンで治療をするも抑えることはできず、現在の治療でも整腸薬のみではまったく効果はありませんでした。ロペラミドも追加しましたがコントロールには至らず、本人と長女の精神的・身体的な疲弊が限界に達していました。そのような中、医師より、どうにか今の服薬管理環境で下痢をコントロールできる内服薬はないかという電話相談がありました。この患者さんは、過去に子宮筋腫の手術歴があり、イレウスのリスクもあることから止瀉作用の過剰発現には注意を払う必要があります。しかし、今も疼痛があり、今後も病勢が進行する可能性から、オピオイド導入のタイミングと考えて、腸管内のオピオイド受容体を刺激して腸管蠕動を抑制するコデインリン酸塩錠の投与について検討しました。処方提案と経過医師に、疼痛と排便コントロールの両方を兼ねて、現行のロペラミドに加えて、弱オピオイドのコデインリン酸塩錠の追加を提案しました。用法については、長女より夜間から明け方の便失禁で困っているという話があったため、20mg錠を朝・夕食後(長女帰宅時に服用)・就寝前の分3で服用する方法を伝えました。医師からは、強オピオイドの導入も考えていたが段階を踏んで治療をしよう、と承認を得ることができ、早速当日の夜より服用開始となりました。投与開始3日目にフォローアップのため訪問したところ、夜間の便失禁が減り、本人と長女の心身の負担が軽減できていました。しかしその後、これまでの度重なる便失禁や病状悪化が影響してか、食事がほとんど摂れずに水分摂取がやっとの状態になっていきました。そして、病状悪化から内服も困難な状態となり、フェンタニルクエン酸塩貼付薬とモルヒネ塩酸塩水和物液での緩和医療へ切り替えることになりました。複数の止瀉薬を検討していた段階で提案することができず、医師から相談を受けるまでなかなか知恵を絞りきれなかったことを反省する事例となりました。

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テネット【なんで時間を考えるのが癒しになるの?(アクセプタンス&コミットメント・セラピー[ACT])】Part 2

【ネタバレ】これからこの映画を見る人は、2ページ目はネタバレになりますので、ご注意ください。(1)ニールの正体は?ニールの正体は、キャットとセイターの息子、マックスであることが映画ではほのめかされています。それは、以下の4点です。ニールもマックスも金髪である点(身体的特徴)ニールはイギリス英語を話しており、マックスはロンドンの学校に通っている点(言語的特徴)セイターはウクライナ出身であり、ニールはウクライナ語が話せることが示唆されるシーンがある点(言語的特徴)ニールは、大学で物理学の修士号を取ったと言っている。また、未来で名もなき男(未来のテネット創設者)にリクルートされたと最後に打ち明けている。一方、名もなき男とキャットが結ばれることで、マックスと名もなき男が親子関係になることが推測される。よって、マックスが物理学に興味を持ち、大学で修士号を取っても不思議ではない点(学問的興味)。(2)ニールのコミットメントは?ニール(34才)とマックス(10才)が同一人物であると仮定すると、マックスが少なくとも大卒の22才の時点で、10才の時点に戻るために、12年間の逆行生活を送ったことが推測されます。途中で何度か順行生活の「休憩」を入れたとしても、それだけですさまじい人生です。そして、22才+12年間=34才になって、ニールと名乗り、「若い」育ての父親(名もなき男)に再会するのです。ニールのコミットメントは、育ての父親(名もなき男)を助け、さらには守り、世界を救うことであると言えます。再会シーンで、ニールは名もなき男の飲み物をオーダーする時、「ダイエットコークだよね」と父親の好きな飲み物をさりげなく言います。そして、任務を遂行する中、2人には親子愛のような友情のような不思議な関係性が見えてきます。また、キャットがセイターに撃たれて負傷した時、逆行状態の中で、ニールが献身的に看病していたのも、キャットが母親であるなら納得がいきます。ラストシーンで、プリアに殺される予定であったキャットとマックスは、機転を働かせた名もなき男によって密かに救われます。ニールが名もなき男を命がけで守ろうとするのは、父親が命の恩人であるからとも言えるでしょう。なお、セイターは、末期がんで死期が近いことを知って、世界を道連れにして死のうとします。彼は、コミットメントのかけらもない人間として対照的に描かれています。彼は、死のうとする直前、「私の最大の罪は、息子を生んだこと」と言います。息子を道連れにして死なすことではなく、生んだこと自体が罪であると表現するのは、彼の非情さをよく表しており、過去への逆行を駆使している彼ならではの発想のように思えます。また、自分の計画が、結果的に息子によって阻止されてしまうことを暗示しているようも思えます。(3)なんで戦いのラストシーンが「お葬式のメタファー」なの?名もなき男は、2回ほど赤いストラップの付いたカバンを背負う謎の防護服の男に救われます。その男は、2回目には死んでしまいました。名もなき男は、その赤いストラップがニールのカバンに付いていることに、戦いのラストシーンのニールとの別れ際で気付くのでした。ニールがこのあとに逆行して名もなき男への2回目の援護によって自己犠牲を遂げることを名もなき男はその瞬間に勘付くのです。これは、名もなき男と私たちの視点です。一方で、ニールの視点で考えてみましょう。父親(名もなき男)は、未来でテネットの創設者になり、息子(ニール)を現在に送り込むわけです。ここで、育ての親とは言え、自分の息子を死ぬと分かっていてそこまでするのかという疑問が残ります。これは、名もなき男がもともとどういう人物かを考えれば納得がいきます。それは、冒頭シーンで、名もなき男は拷問に耐えて仲間のために死を選ぶ生き方をしていることです。名もなき男のコミットメントは、世界を救うことであり、自己犠牲であることはすんなり理解できます。よって、それを息子に託すことも理解できます。きっと未来の名もなき男なら、死ぬ可能性が高いことも息子(ニール)に伝えているでしょう。だからこそ、現在にやってきたニールはあれほどまでにひょうひょうとしていて、運命を「現実」と言うのです。ニールと名もなき男の別れ際のラストシーン。ニールは、これから過去の名もなき男を守るために死ぬことを悟っています。ニールにとって、この時の名もなき男の眼差しは、すでにニールの心の中に内在化された未来の名もなき男の眼差しに重なっているでしょう。立ち去るニールの背中は、「見ててくれよ、父さん」と語っているように思えてきます。このニールの心理状態こそ、このシーンが「お葬式のメタファー」である理由と言えるでしょう。 << 前のページへ

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がん患者、抗凝固薬の中止時期を見極めるには/日本癌治療学会

 がん患者は合併症とどのように付き合い、そして医師はどこまで治療を行うべきか。治療上で起こりうる合併症治療とその中止タイミングは非常に難しく、とりわけ、がん関連血栓症の治療には多くの腫瘍専門医らは苦慮しているのではないだろうかー。 10月23日(金)~25日(日)にWeb開催された第58回日本癌治療学会学術集会において、会長企画シンポジウム「緩和医療のdecision making」が企画された。これには会長の弦間 昭彦氏の“decision makingは患者の治療選択時に使用される言葉であるが、医療者にとって治療などで困惑した際に立ち止まって考える機会”という思いが込められている。今回、医師のdecision makingに向けて発信した赤司 雅子氏(武蔵野赤十字病院緩和ケア内科)が「合併症治療『生きる』選択肢のdecision making-抗凝固薬と抗菌薬-」と題し、困惑しやすい治療の切り口について講演した。本稿では抗凝固療法との向き合い方にフォーカスを当てて紹介する。医師のバイアスがかからない意思決定を患者に与える がん治療を行いながら並行して緩和医療を考える昨今、その場に応じた1つ1つの細やかな意思決定の需要性が増している。臨床上のdecision makingは患者のリスクとベネフィットを考慮して合理的に形成されているものと考えられがちであるが、実際は「多数のバイアスが関係している」と赤司氏は指摘。たとえば、医師側の合理的バイアス1)として1)わかりやすい情報、2)経験上の利益より損失、3)ラストケース(最近経験した事柄)、4)インパクトの大きい事象、などに左右される傾向ある。これだけ多数のバイアスのかかった情報を患者に提供し、それを基にそれぞれが判断合意する意思決定は“果たして合理的なのかどうか”と疑問が残る。赤司氏は「患者にはがん治療に対する意思決定はもちろんのこと、合併症治療においても意思決定を重ねていく必要がある」と述べ、「とくに終末期医療において抗凝固薬や抗菌薬の選択は『生きる』という意味を含んだ選択肢である」と話した。意思決定が重要な治療―がん関連血栓症(CAT) 患者の生死に関わる血栓症治療だが、がん患者の血栓症リスクは非がん患者の5倍も高い。通常の血栓症の治療期間は血栓症の原因が可逆的であれば3ヵ月間と治療目安が明確である。一方、がん患者の場合は原因が解決するまでできるだけ長期に薬物治療するよう現時点では求められているが、血栓リスク・出血リスクの両方が高まるため薬剤コントロールに難渋する症例も多い。それでも近年ではワーファリンに代わり直接経口抗凝固薬(DOAC)が汎用されるようになったことで、相互作用を気にせずに食事を取ることができ、PT-INR確認のための来院が不要になるなど、患者側に良い影響を与えているように見える。 しかし、DOACのなかにはP糖タンパクやCYP3A4に影響する薬物もあることから、同氏は「終末期に服用機会が増える鎮痛剤や症状緩和の薬剤とDOACは薬物相互作用を起こす。たとえば、アビキサバンとデキサメタゾンの併用によるデキサメタゾンの血中濃度低下、フェンタニルやオキシコドン、メサペインとの相互作用が問題視されている。このほか、DOACの血中濃度が2~3倍上昇することによる腎機能障害や肝機能障害にも注意が必要」と実状を危惧した。DOACの調節・中止時の体重換算は今後の課題 また、検査値指標のないDOACは体重で用量を決定するわけだが、悪液質が見られる場合には筋肉量が低下しているにも関わらず、浮腫や胸水、腹水などの体液の貯留により体重が維持されているかのように見えるため、薬物投与に適した体重を見極めるのが難しい。これに対し、同氏は「自施設では終末期がん患者の抗凝固療法のデータをまとめているが、輸血を必要としない小出血については、悪液質を有する患者で頻度が高かった。投与開始時と同量の抗凝固薬を継続するのかどうか、検証するのが今後の課題」と話した。また、エドキサバンのある報告2)によると、エドキサバンの血中濃度が上昇しても大出血リスクが上昇するも脳梗塞/塞栓症のリスクは上昇しなかったことから、「DOACの少量投与で出血も塞栓症も回避することができるのでは」とコメント。「ただし、この報告は非がん患者のものなので、がん患者への落とし込みには今後の研究が待たれる」とも話した。 さらに、抗凝固薬の中止タイミングについて、緩和ケア医とその他の医師ではそのタイミングが異なる点3)、抗凝固薬を開始する医師と中止する医師が異なる点4)などを紹介した。 このような臨床上での問題を考慮し「半減期の短さ、体内での代謝などを加味すると、余命が短め週の単位の段階では、抗凝固療法をやめてもそれほど影響はなさそうだが、薬剤選択には個々の状況を反映する必要がある」と私見をまとめ、治療の目標は「『いつもの普段の自分でいられること』で、“decision making”は合理的な根拠を知りながら、その上で個別に考えていくことが必要」と締めくくった。

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第17回 安楽死? 京都ALS患者嘱託殺人事件をどう考えるか(前編)

医師2人を嘱託殺人の容疑で逮捕こんにちは。医療ジャーナリストの萬田 桃です。医師や医療機関に起こった、あるいは医師や医療機関が起こした事件や、医療現場のフシギな出来事などについて、あれやこれや書いていきたいと思います。梅雨空とGo To トラベルキャンペーンに翻弄され、結局、越後の山にはいきませんでした。それなら、とやっと開幕した米国のメジャーリーグをテレビで何試合か観戦しました。大谷 翔平選手やダルビッシュ 有選手はさておき、今年、満を持して米国に渡った筒香 嘉智、秋山 翔吾の2選手には、「日本人野手の大成は難しい」という常識を覆すよう、頑張ってほしいと思います。開幕については2人ともまあまあの立ち上がりで、少し安心しました。さて、この週末は、大きなニュースが飛び込んで来ました。医師によるALS患者の嘱託殺人です。ALS(筋萎縮性側索硬化症)の女性患者から依頼を受け、京都市内の患者自宅で薬物を投与して殺害したとして、京都府警は7月23日、宮城県で診療所を開業する男性医師(42)と、東京都の男性医師(43)の2人を、嘱託殺人の容疑で逮捕しました。各紙の報道をまとめると、2人は昨年11月、京都市の女性のマンションに知人を装って訪問、薬物(バルビツール酸系の睡眠薬)を投与し、殺害したとのことです。女性は24時間介護が必要な状態であり、当日はヘルパーもいましたが、2人と女性だけになった瞬間に胃ろうから薬物を投与した、とみられています。滞在時間はわずか10分程度だったとのことです。2人の帰宅後、部屋に戻ったヘルパーが意識不明になっている女性を発見、駆けつけた主治医が119番通報し、病院に運ばれた後、死亡が確認されています。体内で普段使っていない薬物が検出されたことなどから事件性が疑われ、京都府警が捜査を開始。SNS上での女性と医師とのやりとりや金銭授受の証拠などが明らかとなり、事件から約8カ月後の先週、逮捕に至ったわけです。「安楽死」議論の流れをおさらいするさて、この事件、SNSで女性が嘱託殺人の依頼をしていた点や、宮城県の医師のブログでの発信内容の過激さ(自身のものとみられるブログに「高齢者を『枯らす』技術」とのタイトルで、安楽死を積極的に肯定するかのような死生観をつづっていたそうです)、さらには東京都の男性医師の医師免許不正取得疑いなども出てきて、事件の本筋が見えにくくなってきていますが、一般向けメディア含め、ALS患者の置かれた状況や、この事件が安楽死にあたるかどうかに注目が集まっているようです。報道によれば、京都府警は、女性の死期が迫っていなかったことや2人が主治医ではなかったことなどを挙げて、「安楽死とは考えていない」としているようです。しかし、この事件をきっかけに、安楽死の是非が改めて議論されることは間違いありません。ということで今回は、日本における「安楽死」に関係するこれまでの代表的な事件と、その時に医師に課せられた「罪」について、簡単に整理しておきたいと思います。家族の要望あっても殺人罪確定の2例「安楽死」については、回復が見込めない患者の死期を医師が薬剤を使用するなどして早める「積極的安楽死」と、終末期の患者の人工呼吸器や人工栄養などを中止する「消極的安楽死」の2つの概念があり、前者の「積極的安楽死」は、現在の日本においては殺人罪や嘱託殺人罪などに問われます。積極的安楽死の罪の根拠となっているのは、1991年に起きた「東海大学安楽死事件」と 1998年に起きた「川崎協同病院事件」です。東海大学安楽死病院事件では、家族の要望を受けて末期がんの患者に塩化カリウムを投与して、患者を死に至らしめた医師が殺人罪に問われました。1995年、横浜地裁は、被告人を有罪(懲役2年執行猶予2年)とする判決を下しました(控訴せず確定)。患者自身による死を望む意思表示がなかったことから、罪名は嘱託殺人罪ではなく、殺人罪になりました。この判決では、医師による積極的安楽死が例外的に許容されるための要件として、1)患者が耐えがたい激しい肉体的苦痛に苦しんでいること2)患者は死が避けられず、その死期が迫っていること3)患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし他に代替手段がないこと4)生命の短縮を承諾する患者の意思表示が明示されていることという4つが提示されています。もう一つの川崎協同病院事件は、医師が気管支喘息重積発作から心肺停止へ陥り昏睡状態となっていた患者から、家族の要請を受けて人工呼吸器を外したところ、患者の苦悶様呼吸が続いたため、最終的に看護師に筋弛緩剤を静脈注射させ、死に至らしめたという事件です。2007年、東京高裁は家族の要請があったとしても余命が明らかではなく、患者自身の治療中止の意思も不明だとして殺人罪を認め、懲役1年6ヵ月(執行猶予3年)を言い渡しました。医師は上告しましたが、最高裁でも医師の行為は「法律上許容される治療中止にはあたらない」とされ、上告は棄却され刑が確定しました。なお、棄却理由として最高裁は「十分な治療と検査が行われておらず、回復可能性や余命について的確な判断を下せる状況にはなかったこと」「家族に適切な情報が伝えられた上での行為ではなく、患者の推定的意思に基づくということもできないこと」の2点を挙げています。終末期ガイドラインのきっかけとなった事件一方、終末期の患者の人工呼吸器や人工栄養などを中止する「消極的安楽死」については、日本において「認められている」というか、少なくとも「刑事責任を問わない」という一定のコンセンサスが形成されてはいます。ただ、そのコンセンサスは、何十年も前からあったわけではなく、ほんのここ15年あまりの間に起きたいくつかの事件を経て、なんとか形づくられてきたものです。延命治療中止については、2004年の「北海道立羽幌病院事件」と、2006年に発覚した「射水市民病院事件」が有名です。いずれも医師が人工呼吸器を外して患者(羽幌は90歳男性、射水は50代~90代の男女7人でうち5人は末期がん)が死亡した事件で、ともに医師は殺人容疑で書類送検されましたが、その後不起訴になっています。これらの事件をきっかけに、終末期や救命救急の医療現場で「刑事責任を問われかねない」との懸念が広がり、行政や学会で終末期医療に関するガイドラインを作る動きが活発化、そこで厚生労働省が検討会を組織し、2007年に策定、公表したのが「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」1)です。「消極的安楽死」は繰り返しの本人確認を重視このガイドラインにおいては、医療・ケアチームと患者・家族らによる慎重な手続きを踏まえた決定の必要性が強調されています。なお、このガイドラインの冒頭には「生命を短縮させる意図をもつ積極的安楽死は対象としない」と書かれており、消極的安楽死に関する指針であることが明示されています。その後、日本救急医学会や日本老年医学会も、治療を中止する手順を盛り込んだ消極的安楽死に関する指針を公表しています。厚労省のガイドラインは、最期まで本人の生き方を尊重し、医療・ケアの提供について検討することが重要であることから、2015年に「終末期医療」から「人生の最終段階における医療」へと名称変更され、さらに、2018年には内容が大きく改訂2)されています。この時の改訂のポイントはACP(アドバンスド・ケア・プランニング)の考え方が盛り込まれたことで、特に以下の3つの点が強調されています。1)本人の意思は変化しうるものであり、医療・ケアの方針についての話し合いは繰り返すことが重要であることを強調すること。2)本人が自らの意思を伝えられない状態になる可能性があることから、その場合に本人の意思を推定しうる者となる家族等の信頼できる者も含めて、事前に繰り返し話し合っておくことが重要であること。3)病院だけでなく介護施設・在宅の現場も想定したガイドラインとなるよう、配慮すること。さて、以上の流れを踏まえ、この事件についてもう少し考えてみようと思いましたが、長くなってきましたので、今回はここまでとします。京都の事件は、先述したように、逮捕された医師のSNSやインターネット上での発言や金銭授受の事実、主治医でないこと、身元を偽っての女性宅訪問、医師免許不正取得など、いかにも事件事件しており、ある有識者は「安楽死議論の対象にもならない」と語っています。でも、果たして本当にそうでしょうか。少なくとも、医療関係者も目を逸らしてきた、積極的安楽死についての議論を再開するきっかけにはなると思うのですが、どうでしょう(この項続く)。参考サイト1)終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン/厚生労働省2)人生の最終段階における医療・ケアの決定プロセスに関するガイドライン/厚生労働省

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医療小説の最高峰【Dr.倉原の“俺の本棚”】第22回

【第22回】医療小説の最高峰久坂部 羊という名前を聞いたことがない医師はいないでしょう。彼の数ある医療小説の中で、この『悪医』が好きです。第3回日本医療小説大賞(日医主催、厚生労働省後援、新潮社協力)を受賞した、名作。『悪医』久坂部 羊/著. 朝日新聞出版. 2013主人公は、3ヵ月の余命宣告を受けた52歳の末期がん患者さんと、その主治医である35歳の外科医です。この小説の特筆すべき点は、恐ろしいほどのリアリティ。互いの思いが交互に綴られる形で進んでいきます。外科医は、「もうこれ以上の治療法はないので、副作用で命を縮めるよりも、残された時間を有意義に過ごしてほしい」と伝えますが、患者さんは「死ぬよりましだと思ってつらい治療に耐えてきたのに、治療法がないというのは死ねということか!」と激昂します。主人公たちの思いが交互に綴られるのを読んでいるうちに、末期がんに対する医師と患者さんの認識が、ここまで違うものかと身につまされます。この両者の埋まらない溝が、しつこいくらいに何度も登場します。患者さんは、セカンドオピニオンだけでなく、新しい抗がん剤、免疫細胞療法といろいろな治療に手を出します。外科医は、どうすれば患者さんに正しい情報が伝わるだろうかと苦悩し続けます。医療情報という観点からは、すれ違いばかりの2人でしたが、患者さんは最期に緩和ケア病棟にたどり着き、外科医に対して「自分は時間を無駄にしたとは、思っていない。(外科医の言った)その通り、有意義にすごした」と伝えます。患者さんにとって何が有意義か、など医師にはわかりません。がんと向き合い、死と向き合い、少しでも回復できる見込みがある新たな治療法を求めて奔走することが、有意義と感じる患者さんもいるかもしれません。終末期に医師がよく言う、“有意義”の意味を今一度考えたい。患者さんにとって、有意義の定義なんて、それぞれ違うのですから。『悪医』久坂部 羊/著出版社名朝日新聞出版定価本体1,700円+税サイズ四六版刊行年2013年

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旧友からの相談【Dr. 中島の 新・徒然草】(288)

二百八十八の段 旧友からの相談皆さんもよくあることと思います。小中学時代の旧い友達から突然の連絡があって、病気の相談に乗ってくれ、というもの。大抵は専門違いなので、あまり役に立つ具体的なアドバイスはできません。でも、相手も必死なので、とりあえず一般的な話をすることになります。今回の相談は、小中学校時代の級友。母親同士が親しかったこともあり、大学生くらいまでは時々顔を見ることがありました。その後、彼女がどこで何をしていたのかは不明。で、娘さんが厄介な病気になったということで、40年ぶりに連絡がありました。20代にして手術を受ける娘の親として、これ以上ないくらい狼狽しています。級友「主人が調べて何人かの先生に会ったのよ」中島「それで?」級友「自分の手術時間は何時間だとか傷が小さいとか、そんな話ばっかり」中島「ふむふむ」級友「そこじゃないでしょって私は言いたかったのよ。もちろん言わなかったけど」中島「なるほどねえ」級友「でも、主人はその先生の話を聞いて、すごく感心してしまって」中島「じゃあそこで手術するわけ?」級友「いやいや、その後に会った別の病院の先生がすごく良かったのよ」すごく良かった先生とは?これは興味深々です。級友「明るくてあっさりしていて」中島「だいたい自信のある人ほど明るいよな」級友「もちろん怖い話もされたけど、淡々としているの。『手術の後にこういう事が起こることもありますけど、その場合はこう対処します』って。それを聞いたとき、この人、もう何もかも見えているんだって、そう思ったわ」中島「何があっても想定内ってことやろうね」揺るがぬ自信……って素晴らしいですよね。級友「『手術の後は3ヵ月ごとに外来に来てください。それで、妊娠した時はこう、お産のときはこういうふうに対応しましょう』って言われたの。思わず、娘と『子供を作っていいんですか。そんなに長生きできるんですか?』と聞いてしまったのよ」中島「すごい!」級友「すごいでしょ。そこまで考えてくれているんだって」名医とは、まさにこのこと。級友「娘も私もこの先生しかないって思ったの。ねえ、直観で選ぶっていけないことなの?」中島「好き嫌いってのは、結構当たるんじゃないかな、あまり医学的じゃないけど」級友「私、これまでに尊敬できる先生が2人いてね、今度の先生も同じオーラを感じたのよ」中島「へええ、尊敬できる先生って?」これも聞いておこう。級友「1人は母の主治医の先生。どこの病院でも治療できないと言われた末期がんの母を快く引き受けてくれて。それからの2年間、母は死ぬまで機嫌よく暮らすことができたの」中島「すごいなあ。ちなみに何病院の誰先生?」こういう情報はメモしておくにかぎります。級友「もう1人は、父の心臓の手術をしてくれた先生。手術直後に私たちのところにやって来て、『うまくいきました。今、若いモンが閉めていますが、もう心配いりません』と言ってくれたの。お蔭で父は90過ぎても元気にしているわ」中島「そういう台詞が言えたらいいなあ」級友「は?」中島「いやいや、こっちのこと」名医の話も面白いものでしたが、この級友も立派になったものです。独身時代に会社を作って以来、何度も世間の荒波を乗り越えてきたのでしょう。全く医療に関係のない立場でありながら、我々の世界をよく見ています。社長の貫録か、娘の病気に立ち向かう母親としての本能か。とにかく強い、たくましい!頼りなかった小中学校時代の彼女からは、想像もできません。私にとってもいろいろと考えさせられる再会でした。何か、読者の皆さんの参考になれば幸いです。ということで最後に1句名医には 自信と明るさ ともにあり

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末期がん患者、併発疾患への薬物療法の実態

 終末期緩和ケアを受けているがん患者において、併発している疾患への薬物療法はどうなっているのか。フランス・Lucien Neuwirth Cancer InstituteのAlexis Vallard氏らは、前向き観察コホート研究を行い、緩和ケア施設に入院した終末期がん患者に対する非抗がん剤治療が、一般的に行われていることを明らかにした。著者は「それらの治療の有益性については疑問である」とまとめている。Oncology誌オンライン版2019年6月20日号掲載の報告。 研究グループは、緩和ケア施設のがん患者に対する抗がん剤治療および非抗がん剤治療の実態と、非抗がん剤治療を中止するか否かの医療上の決定に至る要因を明らかにする目的で調査を行った。 2010~11年に緩和ケア施設に入院したがん患者1,091例のデータを前向きに収集し、解析した。 主な結果は以下のとおり。・緩和ケア施設入院後の全生存期間中央値は、15日であった。・緩和ケア施設入院後、4.5%の患者を除き、最初の24時間以内に特定の抗がん剤治療は中止されていた。・非抗がん剤治療については、患者が死亡するまで、強オピオイド(74%)、副腎皮質ステロイド(51%)、および抗うつ薬(21.8%)について十分に投与が続けられていた。・抗潰瘍薬(63.4%)、抗菌薬(25.7%)、血栓症予防療法(21.8%)、糖尿病治療薬(7.6%)、輸血(4%)もしばしば、継続して処方されていた。・多変量解析の結果、ECOG PS 4は、モルヒネについては継続の独立した予測因子であり、副腎皮質ステロイド、プロトンポンプ阻害薬、糖尿病治療薬、予防的抗凝固療法については中止の独立した予測因子であった。・感染症症状はパラセタモール継続の、麻痺および触知可能ながん腫瘤は副腎皮質ステロイド中止の、脳転移は抗潰瘍薬中止の、出血は予防的抗凝固療法中止の、それぞれ独立した予測因子であった。

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第4回 重症度と緊急度、救急のABC【薬剤師のためのバイタルサイン講座】

薬剤師である皆さんが患者さんのご自宅を訪問する時、患者さんは慢性的な病態であることが多く、容態の急変はないと思いがちです。しかし、慢性疾患であっても,急に容態が変化・悪化することはあります。そのような時、主治医や訪問看護師にすぐに連絡した方がよいかどうか迷うことがあるかもしれません。今回は、急を要するか否かの判断の仕方と、その判断に必要なバイタルサインの測定法について紹介します。急を要するか否かの判断の仕方◎重症度と緊急度まず、「重症度」と「緊急度」の違いについて説明しましょう。「重症度が高い」とは、「生命の危険や後遺症の危険が高い」状態を指します。それに対して、緊急度は時間の要素を加えた概念です。「緊急度が高い」とは、「速やかに治療が行われないと生命の危険や後遺症の危険が高い」ことを意味します。私たち医療従事者が具合の悪そうな患者さんを前にする時、「急がなくてはならないかどうか」、つまり「緊急度が高いかどうか」をまず判断しなくてはいけません。例えば、末期がんの患者さんについて考えてみましょう。末期がんであることは生命の危険性が高いわけですから重症度は高いといえます。しかし小康状態を保っていれば、今すぐに新たな治療を開始しなくてはならない状態ではないので、緊急度は高くありません。一方で、この患者さんがご飯を食べている時に食物をのどに詰まらせて呼吸ができなくなってしまったとすると、一刻も早く詰まったものを取り除かなくては命にかかわります。つまり緊急度が高いということになります。◎急を要するか否か? 「緊急度」の判断のために救急のABCを知っていますか?気道(A:Airway)・呼吸(B:Breathing)・循環(C:Circulation)です。生命を維持させるためには、これらが安定していることが必須の条件であるため、このABCが危機に陥っている時、急を要する状態(緊急度が高い)と判断します。そこで、ABCの状態を評価するために、私たちはバイタルサインといわれる5つの生命徴候(呼吸・脈拍・血圧・体温・意識レベル)をチェックします。バイタルサインを観察・評価することにより、気道・呼吸・循環の状態を知り、それにより急を要するか否かを判断します。すなわち、バイタルサインに異常がある時には「緊急度が高い」と考えられるわけです。日本高血圧学会高血圧治療ガイドライン作成委員会編.高血圧治療ガイドライン2014.東京,ライフサイエンス出版,2014.太田富雄,他.急性期意識障害の新しいgradingとその表現方法.第3回脳卒中の外科研究会講演集.東京,にゅーろん社,1975,61-69.Teasdale G, et al. Assessment of coma and impaired consciousness: a practical scale. Lancet.1974; 2: 81-84.脳卒中合同ガイドライン委員会.脳卒中治療ガイドライン2009.東京,協和企画,2009.

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腰痛や肩こりなどの「痛み」による経済損失約1兆9千億円

 働き方改革のもと、仕事へのかかわり方や働き方が変化しつつある。その中でも見過ごされやすい問題として、健康問題を抱えて就業ができない、効率を上げることができないという就労問題がある。今回、健康に起因する就労問題の中でも「痛み」に焦点をあて、ファイザー株式会社とエーザイ株式会社が共催で、2018年8月8日にプレスセミナーを開催した。セミナーでは、「健康経営時代に欠かせない『痛み』の早期診断と治療」をテーマに、「痛み」がもたらす社会的損失と神経障害性疼痛のスクリーニングツールについて講演が行われた。腰痛などの慢性疼痛による経済損失は1兆9,530億円にのぼる はじめに「痛みによる労働生産性への影響とその経済損失?」をテーマに、五十嵐 中氏(東京大学大学院 薬学系研究科・医薬政策学 特任准教授)が、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践する方策と労働生産性を阻む「痛み」とその損失について講演を行った。 少子高齢化で労働人口が減少する中で、労働者1人当りの労働生産性はこれまで以上に重要とされ、「健康経営」という概念が登場した。「健康経営」とは、従業員の健康保持・増進の取り組みが、将来的に収益性などを高めるという考えの下、健康管理を経営的視点から考え、戦略的に実践することである。この実践により従業員の活力向上、生産性向上と組織の活性化をもたらし、結果として業績向上や組織としての価値向上につながることが期待されている。 この健康経営で問題となるのが、従業員の健康問題である。健康問題に関するコストとして、直接かかる医療費とは別にアブセンティーズム(病欠)とプレゼンティーズム(健康問題で効率・生産性が低下している状況)の2つがある。そして、企業における従業員の健康コストの内訳では、アブセンティーズムが11%、プレゼンティーズムが64%で、プレゼンティーズムの比率が高く、就労問題の中でも2大要因として精神関連症状と筋骨格系障害がある1)。また、医療費と生産性でみた場合の疾病コストでは「肩こり・腰痛」がトップで、こうした慢性疼痛による損失は1週間平均で4.6時間に及ぶという試算がある。そして、時間ベースの経済損失は、1兆9,530億円にのぼるという報告2)もあり、「企業は健康経営として身体の痛み対策に取り組むべきときだ」と同氏は述べる。 おわりに「健康経営では人件費だけでなく、保健指導やそのシステムの充実、診療施設やフィットネスルームの設置など投資をすることで、経営には生産性の向上、医療コストの削減、モチベ―ションの向上など企業価値を高める効果が予想される。企業はこうした視点も踏まえ、従業員の健康対策を図ってもらいたい」と語り、レクチャーを終えた。腰痛などの神経障害性疼痛患者のQOLはがんの終末期と同等 つぎに紺野 愼一氏(福島県立医科大学 医学部整形外科学講座 主任教授)を講師に迎え、「痛みの種類に応じた適切な治療と最新スクリーニングツール」をテーマに、主に神経障害性疼痛の診療とスクリーニングツールについて説明を行った。 慢性疼痛の保有率は、成人の22.5%(患者数2,315万人)とされ、男女ともに「腰痛」「肩こり」が上位を占める。この慢性疼痛の中でも診療が難しいとされる神経障害性疼痛について触れ、臨床的特徴として刺激がなくとも起こる痛み、非侵害刺激での痛み誘発、侵害刺激による疼痛閾値の低下、しびれがあるという。また、疼痛領域は損傷部位などと同一ではなく、神経、神経根、脊髄、脳の支配領域で発生し、通常NSAIDsに反応しにくく、COX阻害薬以外の鎮痛薬が必要となる。神経障害性疼痛が患者のQOLに与える影響について、健康関連QOLを評価するために開発された包括的な評価尺度(EQ-5D-3L:0は死亡、1.0は健康な人)で調査した結果によれば、終末期がん患者のQOL(0.4~0.5)と比較し、神経障害性疼痛のQOLはそれと同程度の値を示し、さらに重症の神経障害性疼痛のQOLは心筋梗塞で絶対安静状態の患者のQOL(0.2)と同程度の結果だったという3)。 神経障害性疼痛の診断では、VASなどの痛み評価の多種多様なツールが使用される。なかでも“Spine painDETECT”は、脊椎疾患に伴う神経障害性疼痛のスクリーニング質問票として開発されたツールであり、8つの質問事項の素点から算出される(開発試験での感度78.8%、特異度75.6%)。さらに簡易版のSpine painDETECTでは、2つの質問事項の素点から算出される(開発試験での感度82.4%、特異度66.7%)。 紺野氏は、「神経障害性疼痛は、早期に診断できれば患者の痛みを治療・軽減できる疾患なので、病院やクリニックを問わず、プライマリケアの場などで、このスクリーニングツールを積極的に活用してもらい、診断に役立ててほしい」と期待を語り、講演を終えた。■参考1)Nagata T, et al. J Occup Environ Med. 2018;60:e273-e280.2)Inoue S, et al. PLoS One. 2015;10:e0129262.3)日本ペインクリニック学会神経障害性疼痛薬物療法ガイドライン改訂版作成ワーキンググループ. 神経障害性疼痛薬物療法ガイドライン 改訂第2版.真興交易医書出版部;2016.p.43.■関連記事eディテーリング その痛み、神経障害性疼痛かも?

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患者さんにとって福音である迅速審査の実態が好ましくなさそうだ(解説:折笠 秀樹 氏)-730

 米国FDAが迅速審査で承認された薬剤を対象として、承認前と承認後の臨床研究について調査がなされた。迅速審査は悪性腫瘍や難病などの重篤な疾患に対して適用される制度であり、代替エンドポイントの結果に基づいて承認がなされる。その代わり、承認後に真のエンドポイントで科学的に立証することが求められている。2009~13年に迅速承認された22剤(24適応)が、今回の調査対象となった。そのうちの79%(=19/24)は悪性腫瘍領域であった。承認前に実施された臨床研究は30件、承認後に実施された臨床研究は18件であった。 迅速承認された薬剤のうち、3年以内に求められた臨床研究を完了して論文化されたのは半分しかなかった。また、24適応のうち42%は承認後に必須事項を終わらせたが、58%(14適応)では完了できなかった。その中で、臨床効果を立証できなかったのが2適応、途中中止が2適応、1年以上も遅延したのが3適応、そして継続中が7適応あった。8つの適応については、5年以上経過しても臨床効果が確認できていなかった。 代替エンドポイントで迅速審査することは規制緩和の一環で出現したようだが、確かに末期がんや難病などの患者にとっては福音になったことだろう。しかしながら、承認後に行うべき臨床研究が遅延したこと、真のエンドポイントで立証できなかった例も多々あったこと、これは由々しき事実であろう。安倍内閣の岩盤規制緩和もそれ自体は良いことだが、その中身に疑問が呈されると崩壊しかねない。迅速審査制度もそれに似ている。承認後の臨床研究デザインが十分とはいえないようだった。抗がん剤が多いためか、承認前は腫瘍縮小という代替エンドポイントが70%を占めていたが、承認後でも50%で腫瘍縮小を評価していた。一方で、生存率という真のエンドポイントを使用した例は39%にとどまっていた。また、RCTは理想の試験デザインといわれるが、承認前40%に対して承認後56%までしか増えていなかった(統計学的に非有意な増加)。 このような研究はレギュラトリーサイエンス研究と呼ばれる。規制科学と呼ばれることもある。海外では医学領域のみならず、公衆衛生や経済などの研究者が実施する例も多い。日本でもレギュラトリーサイエンス学会が7~8年前に設立されたが、研究水準は欧米に比べるとまだ見劣りする。

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酔いがさめたら、うちに帰ろう。(後編)【アルコール依存症】

今回のキーワード進化医学報酬系(ドパミン)問題飲酒(プレアルコホリズム)否認共依存心の居場所毒をもって毒を制すどうすればアルコール依存症は良いの?―治療の3つのポイント―これまで、「なぜアルコール依存症になるの?」「なぜアルコール依存症は『ある』の?」という疑問を解き明かしてきました。アルコール依存症は、単にアルコールだけの問題(嗜好の依存症)ではなく、アルコール摂取に至るその人の行動パターンの問題(行動の依存症)でもあり、さらにはその行動パターンを支えてしまう周りとの人間関係の問題(人間関係の依存症)でもあることが分かりました。それでは、この点を踏まえて、どうすればアルコール依存症は良いのでしょうか? ここから、安行の状況に照らし合わせながら、アルコールのコントロール、行動のコントロール、人間関係のコントロールの3つの要素に分けて整理してみましょう。 1)アルコールをコントロールする(1)生涯の断酒安行は、断酒中に「たかがビールだもんな」「大丈夫だよ、これ(1本)くらい」とつい飲んでしまいますが、飲酒が止まらなくなり、最終的には公園で泥酔しています。ここから分かることは、アルコールをコントロールするために必要なのは生涯の断酒です。飲酒量を制限する節酒や期間をもうける期限付きの断酒は無効です。よく聞く断酒の失敗は、アルコール依存症の人が数年間断酒を続けていて、あるお葬式でお酒を勧められた時、一杯だけと思って飲んだら、その後に飲酒が止まらなくなって、元通りになったという話です。これは、脳がアルコールの味(依存物質)をずっと覚えているからです。ちょうどしばらく禁煙してからまた喫煙しても、すぐに元の本数に戻るのと同じです。これは脳がニコチンの「味」をずっと覚えているからです。また、離れ離れになっていた親(愛着対象)と数年間ぶりに再開したら、かつての安心感や安全感がすぐに湧いてくる状態にも似ています。これは脳が一度固く結ばれた絆(愛着)の「味」を覚えているからです。つまり、断酒の基本は、「死ぬまで一滴も飲まない」ということです。(2)薬物療法―表3断酒の補助として、主に3つの種類の薬物療法があります。1つ目は、この映画でも登場する抗酒薬です。この薬は、あえてアルコールに弱い体質(ALDH欠損)になる薬です。つまり、この薬を飲んだ後に、アルコールを摂取すると、悪い二日酔いになります。そうして、飲酒が不快であることを体(脳)に新しく覚えさせて、飲酒行動を抑えるという荒治療です。そのため、この薬を飲もうとする患者に事前に忠告すべきなのは、この薬を飲んだ後に大量飲酒をした場合は、意識障害や劇症肝炎などの重篤な合併症を引き起こすリスクがあることです。2つ目は、睡眠薬や抗不安薬などのベンゾジアゼピン系薬剤です。この薬は、アルコールと同じようにベンゾジアゼピン受容体に作用するので、アルコールの代わりになる薬です。ちょうど、禁煙療法に対して処方されるニコチン代替薬(ニコチン受容体作動薬)と同じ原理です。ただし、ベンゾジアゼピン系薬剤は、アルコールと同じように、依存性があるので、用量用法を守るよう注意を促すことが必要です。3つ目は、2013年から新薬として注目されている抗渇望薬です。この薬は、アルコールによって過剰になった興奮系神経伝達物質のグルタミン酸を抑制します。つまり、お酒を欲しがる気持ち(渇望)を減らし、飲酒そのものを防ぐものです。ただし、効果は限定的のようで、あくまで補助薬であり特効薬ではありません。表3 アルコール依存症の薬物療法 抗酒剤(抗酒薬)抗不安薬、睡眠薬(ベンゾジアゼピン系薬剤)抗渇望薬例ノックビン(ジスルフィラム)シアナマイド(シアナミド)セルシン(ジアゼパム)ベンザリン(ニトラゼパム)レグテクト(アカンプロサート)特徴飲酒行動の抑制アルコールの代替薬飲酒欲求の抑制2)行動をコントロールする(1)認知行動療法安行は、入院して「やっちゃったよ。父さんの真似なんかしたくないのに」「どうしてこうなるんだろう」と自分に問いかけます。健康とお金と人間関係が「底」を突いた瞬間です。これは、「底突き体験」と呼ばれます。依存症の人は、失業、借金、離婚、大病などのどん底を味わうことで、もう頼るものや当てにするものがない現実をようやく思い知るのです。その時、「まだ大丈夫」(否認)ではなく「もう大丈夫じゃない」「何とかしなければ」という考えに至るのです(障害受容)。それを促すように、主治医から「そこまでお酒を飲み続けるようになった理由、自分で言えますか?」「良かったら、あなたの生い立ちを聞かせてきただけますか?」と聞かれます。「いろいろ反省しています」と良い子ぶると、「良い傾向ですね」「で、何、反省してるのかな?」と鋭く突っ込みます。退院間近には、それぞれの患者が、アルコール依存症になった自分の体験発表をしています。このように、自分を振り返ることで、飲酒に至る自分の行動パターンや人間関係のパターンについて、整理して、原因を探ります。そして、生涯の断酒を貫くための別の行動パターンや人間関係のパターンを身に付けていくことができるようになります(認知行動療法)。また昨今の新しい取り組みとして、動機付け面接法があります。これは、「変わるとしたらどうなりますか?」「そのメリットは?」「その経費(コスト)は?」などの質問を通して、変化についての話(チェンジ・トーク)をして、その意識や動機付けを高める技法です。否認や抵抗の根強い人に特に有効であることが分かっています。(2)行動療法病棟で、ある患者が「(禁止されている電話をかけるために)貸してくれよ、20円」と興奮して訴えると、看護師は「貸し借りはだめなの、決まりだから」と諭します。由紀と子どもたちが安行のお見舞いに病院へ訪れた時、「喫煙所内(面接室)に食べ物を持ち込まないこと」という張り紙を気にせずに、差し入れのお弁当を広げていました。それに気付いた看護師が「あれはまずいですよね」と注意しようとします。このように、行動のコントロールの基本は、「ちょっとだけ」ではなく「だめなものはだめ」という一貫した行動の枠組みを作ることです(行動療法)。それは、規則正しい食事や睡眠、規律正しい運動や人間関係など生活の全般に及びます。さらには、飲酒に至る行動パターンを徹底的に避けることです。安行は、アルコール成分が入った一口の奈良漬けから、最終的には連続飲酒に至りました。奈良漬けや洋菓子など少しでもアルコール成分があるものは引き金になるのでだめです。また、ノンアルコールビールも、味を思い出して(条件反射)、本物が飲みたくなりますので、だめです。さらには、例えばギョーザなどお酒のつまみとしていつもセットにしていたものも、お酒を連想させるので(条件反射)、だめです。疲れていらいらしている生活も、お酒で忘れたいと思いやすくなるのでだめです。つまり、できる限り、アルコールから遠ざかる生き方をするということです。断酒の基本は、「死ぬまで一滴も飲まないし、近付かない」ということです。 3)人間関係をコントロールする(1)集団療法病棟では、入院患者たちが自治会をつくり、自治会長をトップとして、食事係や書記係などの役職に就いています。1つの小さな社会です。そのメンバーの1人が、食事係として独りよがりなやり方をしてしまいます。すると、自治会長はそのメンバーに一方的にクビを言い渡たします。そのメンバーはそれに腹を立て、何でも箱(投書箱)に「会長がクビにした。プライドが傷付いた。責任とれ」という投書を入れ、看護師が立ち合う自治会ミーティングの議題に上げます。しかし、最終的には言い争いになり、挑発した安行は殴られてしまいます。このように、依存症の人は、安定した人間関係を築くのがうまくはなく、周りに依存的になるだけでなく、すぐにケンカ沙汰にもなりがちです。そんな人たちが集まって共同生活をする自治会は、まさに人間関係を学ぶ打ってつけの場になります(ソーシャルスキルトレーニング、SST)。その理由は3つあります。まず1つ目は、相手が健常者だと気を回すためトラブルが回避されがちですが、トラブルメーカー同士だとぶつかり合って、お互いのだめな部分が浮き彫りになりやすくなるからです。安行を殴ったメンバーは、周りから除け者にされ、懲りてしおらしくなっています(集団力動)。2つ目は、他のメンバーのダメなところを見ることで、自分のだめなところに気付きやすくなるからです。入院したばかりの患者が、看護師ともめている様子を見て、退院間近の患者たちが、かつての自分を見るようにニヤニヤしています。3つ目は、健常者や権威者(医師や看護師)よりも、自分と同じ境遇の人からの意見は受け入れやすいからです。安行も他の人の体験発表を聞いて、感銘を受けます。まさに、「中毒者」には「中毒者」が相手をする、「毒をもって毒を制す」ということです。また、入院の最終段階や退院後は、自助グループ(AA)に定期的に通所することが勧められます。最初は週2、3回のペースです。そこでの原則は「言いっぱなし、聞きっぱなし」です。これは、何を言っても受け入れ合うことで、お互いが支え合う仲間として「心の居場所」の役割を果たします。彼らは、寂しがり屋の傾向から独りではアルコールを止め続けることが難しいのです。しかし、自助グループで、自分が大切にされている、自分が必要とされているという感覚が得られることで、断酒を継続する大きなモチベーションになるのです。同時に、自助グループやの通所と医療機関への通院を定期的に行うことで、さきほど触れた行動の枠組みの強化にもつながります。さらに、数年以上断酒が継続できた人は、自助グループ関連のスタッフになることもあります。この意義は、アルコール依存症の治療の舞台裏に回ることで、自分自身にとってより治療的な意味合いを持つからです。(2)家族療法―表4安行は、最後に不幸にも末期がんを宣告され、余命が短いことを知ります。そして、ますます子どもたちといっしょにいたいと思うようになります。人生の期限を意識することも、先に触れた行動の枠組みの1つと言えます。そんな安行を見た由紀は、家族の一員として再び安行と同居することを許します。このように、本人が親となる家族(生殖家族)も、重要な「心の居場所」となります。注意したいのは、本人が子どもとなる家族(原家族)は、「心の居場所」として危ういということです。理由は2つあります。1つ目は、安行のように本人が親から「子ども扱い」されがちだからです。2つ目は、親は本人より先にいなくなるため、いつまでも「心の居場所」があるわけではないからです。また、本人が親となる家族でも、かつての由紀のようにパートナー(配偶者)が親のように世話を焼いて本人を「子ども扱い」している場合は危ういです。つまり、人間関係のコントロールのポイントは、本人が「子ども扱い」されない、つまり「大人扱い」されることです。そして、本人が誰かに支えられる側から誰かを支える側に回ることです。それは、特別な誰かのために生きることで、それが生きる原動力にもなります(アスピレーション)。これは、先ほど触れた自助グループのスタッフになることにも通じます。つまり、「心の居場所」とは、誰かに支えられるだけの「子ども扱い」される場でなく、誰かを支えるようにもなる「大人扱い」される場であるということです。本人を「大人扱い」できる機能的な家族(家族機能)とは、ほど良いまとまり具合(凝集性)、ほど良い母性と父性(家族役割)、ほど良い力関係の変化(世代交代)の3つが重要であると言われています。これらの知識や実践を学ぶために、医療機関が家族教室を開いたり、家族同士が集まり、家族会を開いたりしています(家族療法)。具体的に、家族が安行に対してすべきだった「大人扱い」を3つあげてみましょう。a. 周りが流されない―心理的な「大人扱い」1つ目は、問題飲酒(プレアルコホリズム)が続くなら、由紀はもっと早くに別居や離婚を言い渡すことです。これは、周りが流されないという心理的な「大人扱い」です。由紀は離婚するのが遅すぎました。由紀は、酔っ払って絡んでくる安行の相手を一生懸命にしています。由紀が我慢し過ぎた分、安行のアルコール依存症は進行してしまったと言えます。由紀は、おそらく「酒癖が悪いだけ」「酒を飲まなければ良い人」と言うでしょう。これは、アルコール依存症の人をお世話する家族が共通して言う言い回しです。しかし、これは、裏を返せば、酒を飲むなら「良い人」ではないわけですし、「酒癖が悪い」ことを知っていて酒を飲むなら、これまた「良い人」とは言えません。家族は、酔いが醒めた後の本人の平謝りに毎回流され、心理的距離を失っています。家族がすべきことは、絡み酒は無視する、暴力から逃げる、しらふの時の話し合い、暴言、暴力、近所迷惑などの問題が繰り返される場合に別居や離婚などの限界設定をすることです。そのタイミングは、友人や医療機関に相談しても良いでしょう。逆に、家族がすべきでないことは、おだて、説教、絡み酒の相手、暴力に立ち向かうなどです。つまり、問題行動は本人に任せて責任を取らせるのが基本です。 b. 周りが助けすぎない―経済的な「大人扱い」2つ目は、母親はアルコール依存症の安行を実家に引き取らないことです。これは、周りが助けすぎないという経済的な「大人扱い」です。安行の母親は、彼の離婚後に、彼を実家に引き取りました。こうして、彼は、働かなくても、衣食住が確保され、おまけに酒代までも確保されています。見方を変えれば、彼は母親に実家で飼い馴らされているとも言えます。これは、昨今に社会問題となっているひきこもりの問題に通じるものがあります。安行の母親は「かわいそう」「放っとけない」と言うでしょう。これも、アルコール依存症の人をお世話する家族が共通して言う言い回しです。しかし、この言い回しは、言い換えれば、「いつでも助けるわよ」という意味にもなります。もちろん、困った時に親が助けてくれるのはセーフティネットとしてはありがたいのですが、それはいざという時に限定されるべきです。安行の母親は助けすぎていて、心理的距離を失っています。家族がすべきことは、基本的には親と世帯分離をして生活が維持できる定期的な最低限の金銭援助の限界設定をする、金銭管理や生活維持などは本人に任せることです。その金額は、親の懐事情によりますが、生活保護の受給金レベルの生きるために最低限であることが望ましいです。なぜなら、お金が余分にあると、それだけ経済的な自立への動機付けが低まるからです。逆に、家族がすべきでないことは、実家暮らしの受け入れ、本人の要望に沿った金銭援助、借金の肩代わり、飲酒によるトラブルの尻拭いなどです。飲酒によるツケは本人が自分で支払うということを学ぶ必要があります。その人の先々のためを思えば、助けられる限度を先に示し、それ以上は「助けない」「何もしない」のも優しさです。つまり、生活設計は本人に任せて責任をとらせるということです。 c. 周りが手なずけない―身体的な「大人扱い」3つ目は、飲酒による体調不良に対して看病しないことです。これは、周りが手なずけないという身体的な「大人扱い」です。安行の母親も由紀も、安行の体調不良のたびに駆け付けています。そして、酔ってだらしない本人の身の周りのお世話をしすぎています。由紀も安行の母親も「何とかしなきゃ」と思っているでしょう。これも、アルコール依存症の人をお世話する家族が共通して言う言い回しです。もちろん、死にそうな時に救急車を呼ぶなどは必要なことですが、その後に付きっ切りで看病したり、手とり足とりお世話をしないことです。なぜなら、周りがやってあげすぎると本人は困らないので、状況が深刻だと気付かず、「まだ大丈夫」「何とかなる」「誰かが何とかしてくれる」との否認や依存の心理をますます強めてしまうからです。さらには、家族の「何とかしなきゃ」という支援の心理は、やがて「私が何とかしていれば本人も何とかなる」という支配の心理にすり替わっていきます。家族が、何事もなかったように取り繕い、本人の人生をコントロールしている感覚を味わおうとするのです。こうして、本人が「底突き」を味わうのが遅れてしまい、アルコール依存症を進めてしまうのです。特に安行の母親は、安行を手なずけようとして、心理的距離を失っています。家族がすべきことは、断酒をした方が良いと助言はしつつも最終的に飲酒するかは決めるのは本人に任せること、飲酒による体調不良への対応は最低限に止めることです。逆に、家族がすべきでないことは、付きっきりの看病、酒を隠す、欠勤の連絡、家族以外の周りへの取り繕いなど本人の自立を損ねるかかわり方です。ラストシーンで、由紀は「それ(原因)が分かったとしても誰に(飲酒を)止められたでしょうねえ」と言います。母親は「けっきょく私は何の役にも(立たなかった)」と言い、由紀は「同じです、私も」と同意します。家族は最終的に、自分たちではコントロールできないことに気付くのです。コントロールできる、つまりお酒を止められるのは本人だけということです。かかわり方のコツとして、家族は、相手をしているのは、自分の子ども(夫)でなく、お隣のお子さん(夫)であるというイメージを持つことです。子ども(夫)だと思うと心理的距離を失いがちですが、お隣のお子さん(夫)だと思えば、親切に接しつつもやり過ぎは良くないという視点が働くでしょう。つまり、良かれ悪かれ本人の生き方を尊重して、生活習慣などの健康維持は本人に任せて責任をとらせるということです。表4 アルコール依存症への周りのかかわり方 心理経済身体望ましくない流されやすい助けすぎる手なずけたがる例、おだてる、説教、絡み酒の相手、暴力への対抗例、実家暮らし、本人の要望に沿った金銭援助、借金の肩代わり、飲酒によるトラブルの尻拭い例、付きっきりの看病、酒を隠す、欠勤の連絡、家族以外の周りへの取り繕い本人に任せず責任を取らせない(子ども扱い)望ましい流されない助けすぎない手なずけない例、絡み酒の無視、暴力からの逃げ、しらふの時の話し合い、別居や離婚の限界設定例、世帯分離、援助の限界設定例、断酒の助言のみ、飲酒による体調不良への対応の限界設定本人に任せて責任を取らせる(大人扱い)アルコール依存症は本人のせい?病気のせい?由紀の知り合いの医師が由紀に「この病気(アルコール依存症)が他の病気と決定的に違う一番の特徴」「世の中の誰も本当には同情してくれないってことです」「場合によっては医者さえも」と言います。由紀も「みんな自業自得だと思っています」と言います。世の中では、アルコール依存症の人を「意志が弱い」「だらしない」と言う言葉だけで片付けてしまいがちです。しかし、これまで解き明かしてきたアルコール依存症の原因、存在理由、そして治療内容を知った時、アルコール依存症は、単に酒癖(行動のコントロール)の問題だけでなく、体質(生物学的感受性、アルコールのコントロール)の問題や共依存(人間関係のコントロール)の問題などが絡み合っていると理解できます。そして、「アルコール依存症は本人のせいか?または病気のせいか?」との問いへの答えも見えてきます。社会(司法)では、本人のせい(責任)であることが強調されます。これは、社会(司法)は秩序が目的だからです。病気とされて特別扱いされると、社会の秩序が成り立たなくなるからです。ただし、本人のせいで病気のせいじゃないとなると、治療介入が難しくなります。一方、医療では、病気のせい(責任)であることが強調されます。これは、医療は治療が目的だからです。また、アルコール依存症になった人を意志が弱いだけと片付けてしまうのは公平ではないからです。理由は、「意志が弱い」として、同じようにアルコールを摂取しても、体質(生物学的感受性)の違いによって、アルコール依存症になる人とならない人がいるからです。そして、アルコール依存症になった人にとっては、アルコールはコンビニやスーパーで手軽に手に入る「覚せい剤」になっているからです。ただし、病気として治療しつつも、本人の責任(自律性)も重要になってきます。なぜなら、病気のせいで本人のせいじゃないとなると、本人に責任逃れをする口実を与えてしまい、本人を「大人扱い」することができなくなるからです。以上を踏まえると、「意志が弱いから本人のせい」として切り捨てるのも「やめられない体質になったから病気のせい」として抱え込むのもどちらも望ましくないということです。つまり、答えは「アルコール依存症になるのは病気のせい(責任)であるが、治すのは本人のせい(責任)でもある」、言い換えれば、アルコール依存症の発症は本人の責任ではないが、アルコール依存症からの回復は本人の責任であるということです。アルコール依存症になったのはどうしようもないことです。大事なのは、そのなってしまったアルコール依存症とどう向き合うか、その後にどう生きるかということです。注意したいのは、「意志が弱い」「だらしない」などの価値判断は少なくとも医療関係者がするべきではないということです。なぜなら、医療の目的が患者を良くするということを踏まえると、価値判断は患者の自尊心を低くするだけで、マイナスにはなってもプラスにはならないからです。アルコール依存症はどうなっていくの?―グラフ2アルコール依存症に対しての世の中の否定的な味方も相まって、アルコール依存症の予後は不良です。実際にアルコール依存症で入院治療をして、退院後に断酒がどれだけ続けられるかという統計があります。それを見ると、2か月半で50%、1年で70%、2年で80%の人が再びお酒を飲んでいます。2年以上経過すると、もうお酒を飲むことはなくなります。つまり、少なくとも、2年以上の断酒の継続で回復(寛解持続)と言えます。お酒のことが気にならなくなるために、最低1年から2年はかかります。このように、生活習慣を変えるには時間がかかるというわけです。よって、断酒後、少なくとも半年は仕事をしないことが望ましいと言えます。断酒後1年の記念日は「バースデー」と呼ばれていますが、その時につい気が緩んでお酒を飲んでしまうという事態も起きます。そして、前に触れましたが、治癒して再び健康的にお酒が飲めるということはありません。生き方をコントロールする―表5アルコール依存症の人が酔っているのは、お酒だけでなく、行動でもあり、そして人間関係でもあり、つまりは生き方そのものでもあることが分かりました。そして、その治療とは、アルコールをコントロールするだけでなく、行動のコントロールや人間関係のコントロールでもあり、つまりは生き方のコントロールであると言えます。それは、偏った嗜好、偏った行動、偏った人間関係を見つめ直し、バランスの良い嗜好、バランスの良い行動、バランスの良い人間関係を身に付けていくことです。例えば、嗜好品で言えば、破滅的な飲酒から、まだマシな喫煙、コーヒー、スナック菓子、さらにはより健康的な美味しいご飯やグルメに切り替えていくことです。行動で言えば、不安定な仕事やケンカ腰から、より安定した仕事、趣味、スポーツ、そして人生の希望や目標を掲げることです。人間関係でいえば、不安定な依存の関係から「心の居場所」となる安定的な協調の関係を築くことです。前に触れた欲しがる心(嗜癖)のメカニズムを踏まえれば、生き方をコントロールするとは、近付いて欲しがろうとする「何か」をアルコール以外のものや行動や人間関係で占めることです。アルコール依存症の人はいつもお酒のことを考えています。頭がお酒という「毒」(依存対象)で占められています。よって、大事なのは、お酒ではない別のより健康的な「毒」(依存対象)に目を向け、その「毒」でバランスよく頭を占めることです。まさに、これも「毒をもって毒を制す」と言えます。こうして、お酒のことを考えなくても済む生き方をして、お酒からできるだけ遠ざかることです。断酒の基本は、「死ぬまで一滴も飲まないし、近付かなし、代わりに別のいろいろな何かにバランスよく近付く」ということです。言い換えれば、お酒はもはや飲むか飲まないかの問題ではなく、日々をどう振る舞うか、どう人間関係を築くかという本人の生き方の選択の問題でもあるということです。このような生き方のコントロールは、何もアルコール依存症の人たちだけの話でないです。私たちが人生につまずいたり行き詰っている時も、同じように何かの「毒」(依存対象)に心を奪われていることがあります。その「毒」(依存対象)とは、光景・音・臭いなどの記憶や感情、そして社会的意味付けによって味付けられ彩られた快感であるとも言えます。その快感のバランスとは、依存の豊かさ、人生の豊かさでもあります。つまり、私たちは、幸福感のバランスを見つめ直し、新たな夢や目標、人間関係を見いだし、それに近付く喜びを味わうことで、より良い生き方のコントロールができるのではないでしょうか?表5 アルコール依存症の治療 アルコールのコントロール行動のコントロール人間関係のコントロール例生涯の断酒薬物療法抗酒剤抗不安薬抗渇望薬認知行動療法障害受容行動療法規則正しい睡眠と食事規律正しい運動や人間関係集団療法ソーシャルスキルトレーニング自助グループ家族療法家族教室家族会 生き方のコントロール例飲酒↓喫煙、コーヒー、スナック菓子、美味しいご飯、グルメ不安定な仕事、ケンカ腰↓より安定した仕事、スポーツ、人生の希望や目標を掲げる不安定な依存の関係↓安定的な協調の関係1)鴨志田穣:酔いがさめたら、うちに帰ろう。講談社文庫、20102)斎藤学:アルコール依存症に関する12章、有斐閣新書、19863)ディヴィッド・J・リンデン:快感回路、河出文庫、20144)アンソニー・スティーブンズほか:進化精神医学、世論時報社、20115)長尾博:図表で学ぶアルコール依存症、星和書店、2005

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酔いがさめたら、うちに帰ろう。(前編)【アルコール依存症】

今回のキーワード進化医学報酬系(ドパミン)問題飲酒(プレアルコホリズム)否認共依存心の居場所毒をもって毒を制すアルコール依存症の映画とは?皆さんは、アルコール依存症の人たちとかかわったことはありますか? 彼らは、なぜアルコール依存症になるのでしょうか? そもそもなぜアルコール依存症は「ある」のでしょうか? そして、どうすれば良いのでしょうか?これらの疑問を解き明かすために、今回、2010年の映画「酔いがさめたら、うちに帰ろう。」を取り上げます。 この映画の原作者は、「毎日かあさん」などを代表作とする漫画家の西原理恵子さんの元夫です。実際にアルコール依存症になり、最後は末期がんが判明するまでの彼とその家族の様子が赤裸々に描かれ、 笑いと共感を誘います。また、描写が忠実であるため、アルコール依存症の理解を深める教材としても最適です。 この映画を通して、依存症の心理を、進化医学的な視点で解き明かし、回復のポイントを探っていきましょう。どんな症状がある?―表1主人公の安行は38歳の元戦場カメラマン。 本を書いたことはありましたが、定職には就かず、毎日、酒をひたすら飲み続けてきました。 彼は、それを「朝から晩までのノンストップの飲酒マラソン」と言い表します(連続飲酒)。 かつて、酒を飲んでは妻の由紀に絡み、暴言を吐き、引っぱたくなどの暴力を振るい、 挙句の果てに、妻が一生懸命に描いた大切な漫画の原稿を破り捨てたことがありました(脱抑制)。 そして、「(実の子どもたちを)おれの子じゃねえ」「太田(安行の親友)とやったんだろ!?」と言い出し、怒り出したこともありました。 アルコール依存症の人は、自分に引け目があるため、妻が自分に愛想を付かせて浮気をするのではないかという不安から妄想に発展しやすくなります(嫉妬妄想)。現在、安行は、由紀とは離婚し、2人の子どもとも別れて、実家で母親と暮らしています。居酒屋では飲み過ぎて気を失い(ブラックアウト)、嫌がる店員たちに介抱されます。意識がもうろうとする中、介抱する由紀と子どもたちの幻覚が現れます。帰り道に酒を買い、自宅でさらに飲み続けると、「何とかなるよ、まあ酒でも飲めよ」という自分に都合の良い幻覚も現れます(願望充足型の幻覚)。 その後、失禁をして、吐血もします。吐血(食道静脈瘤破裂)はとうとう10回目に達していました。安行は、断酒を決意します。クリニックで処方された抗酒薬(アルコールを飲むと体調不良になる薬)を飲むのですが、それも束の間。すぐにお酒が欲しくてたまらなくなり(渇望)、ふらふらと探し求め(探索行動)、けっきょくお酒を飲んでしまいます。そして、抗酒薬の効き目で倒れてしまいます。安行の様子は、以下のアルコール依存症の診断基準に照らし合わせると、11項目のほぼ全てを満たしています。安行は、典型的なアルコール依存症です。表1 アルコール使用障害(アルコール依存症)の診断基準(DSM-5) 精神依存身体依存耐性項目(1)長期間で大量の摂取(2)コントロールの失敗(3)探索行動(4)渇望(5)無責任(6)対人的問題(7)のめり込む(仕事や他の娯楽の放棄)(8)身体的な危険性(9)身体的または精神的問題(10)離脱(11)耐性備考上記11項目中2つ以上苦痛があるなぜアルコール依存症になるの?―表2由紀の友人の医師が「(原因は)環境もありますね」「挫折感とか劣等感とかそういったものが引き金になることもある」と言います。ここで、安行がアルコール依存症になった原因として、その危険因子を、個体因子と環境因子に分けて、整理してみましょう。(1)個体因子個体因子としては、まず体質(生物学的感受性)、つまりアルコールの欲しやすさ(嗜癖性) が挙げられます。これは、お酒が好きになる人とならない人という個人差です。嗜癖性が強ければ強いほど、機会飲酒から習慣飲酒、そして連続飲酒に至りやすくなります。昨今の双子研究や養子研究により、酒好き(嗜好性)は約50%遺伝することが分かっています。実際に安行の父親もアルコール依存症でした。さらに、アルコール摂取が1日5合以上、週5日以上、5年以上で多くの人はアルコールをやめられなくなる、つまりアルコール依存症になることが指摘されています。一方、法律で禁止されている覚醒剤は、一度摂取するとすぐにやめられなくなります。つまり、アルコールは、欲する体質に加えて、量と時間をかけることで、人にとって覚醒剤と同じものになってしまうということです。 もう1つは、アルコール依存症に関連した独特の気質、つまりアルコール依存症ならではの性格(パーソナリティ特性)が挙げられます。これには、3つの特徴があります。1つ目は、ついやってしまう軽々しさです(衝動性)。安行は、10回目の吐血をした時、由紀に「あーごめん、またやっちゃったよ」と謝ります。断酒を誓って抗酒剤を飲んだ直後、食べた奈良漬けのアルコール分が引き金となり、「たかがビールだもんな」「大丈夫だよ、これくらい」とつい飲んでしまいます。また、入院中に、制限されている食事であると言われているのに、診察中に「(回復の兆し)だったらカレー食わせろよ!」と主治医につい怒鳴っています。この特徴は、注意欠如多動性障害(ADHD)との関連も指摘されています。2つ目は、とても寂しがり屋であることです(愛着不全)。安行は再び飲んでしまう直前に、由紀と子供たちと別れて「寂しいよ」「悲しい」とつぶやいています。この特徴は、 反応性愛着障害との関連も指摘されています。3つ目は、助けを当てにすることです(依存性)。安行は、「ほんとのほんとに(酒を)やめるよ」と断酒の宣言を繰り返しています。飲んだ直後に、抗酒薬の影響で、倒れて頭を打って流血して、由紀と母親にまた迷惑をかけた時、呆れて何も言わない2人に向かって「なんか言わないの?」「説教とかないんだ」と物足りなく感じています。説教されることで関係性が保たれ、今後も助けてもらえる保証を得たいのです。この特徴は、依存性パーソナリティ障害との関連も指摘されています。 これらの性格の傾向が強ければ強いほど、お酒をやめられなくなります。さらに、長期間の大量の飲酒によって、頭の働きが弱まり(認知機能障害)、この特性がますます際立っていくのです。(2)環境因子環境因子としては、まずストレスが適度に一定ではないことが挙げられます。安行は、もともと戦場カメラマンです。危険な仕事であることやフリーランスで収入が不安定であることは大きなストレスです。そのストレスが多ければ多いほど、そのストレスを和らげるための飲酒量が増えていきます。それでは、逆にストレスが全くない状況が良いでしょうか? 仕事をしていないなどやることがない状況では、刺激を求めて暇つぶしで飲酒量が増えてしまいます。これは、仕事人間だったサラリーマンが退職後に暇を持て余して、朝からお酒を飲み続けてしまうことと同じです。つまり、ストレスは、多すぎることもなく少なすぎることもなく、適度で一定であることが望ましいのです。もう1つは、アルコール依存症を助長する周りとの独特な人間関係(共依存)が挙げられます。これには、3つの特徴があります。1つ目は、周りが流されやすいことです(同調)。母親のかかわり方をみてみましょう。安行が病院で3日ぶりに目覚めて起き上がろうとすると、母親は「だめ!ベッドで安静にって言われてる」と言いつつ、「ちょっとだけ上げてみよっか」と言います。この「ちょっとだけ」は依存症の人たちやその家族がよく使うキーワードです。「だめなものはだめ」とは対照的な言い回しです。2つ目は、周りが助けすぎることです(過保護)。母親は「そんなに死にたけりゃ独りでどっか行って勝手に死んでちょうだい」「家族を巻き添えにしないで」「あとはどうとでも好きにすればいいわ」と厳しく言っていますが、無職の安行を実家で養い、酒を買う金を与え、毎回、トラブルが起きると助けます。入院中も付きっきりです。放っておかずに、毎回、巻き込まれています。言っていること(言語的コミュニケーション)とやっていること(非言語的コミュニケーション)が一致しません(ダブルバインド)。このような状況では、やっていることの方がまさって伝わるため、けっきょく厳しい言葉に逆の意味が込められてしまいます。それは、このパターンが繰り返されることで、「(なんだかんだ言うけど)けっきょくどんな時もあなたを助けるわよ」という逆のメッセージとして強調されて伝わっていくのです。由紀も同じコミュニケーションのパターンをとっています。由紀が入院中の安行のお見舞いに来た時、「そのうちコロッと逝くね、あんた」と子どもたちの前で悪い冗談を言います。そして、子どもたちがいなくなると、「このばかちん」と言い、すでに離婚しているのに、安行にキスをします。由紀は、子どもたちのためとは言え、けっきょく安行が好きで放っておけないのです。3つ目は、周りが手なずけたがることです(過干渉)。母親は、アルコール依存症の専門病棟に入院させるために、有無を言わさず安行を連れ出し、「ここは精神病院。あなたは入院するんです」と一方的に言い放ちます。安行が手ぶらなのに対して、母親は安行の重そうな荷物を運んでいます。なお、映画では強制的に入院されているように描かれていますが、実際は、人権擁護の観点から、そして本人の主体性が治療動機に重要であるという観点から、依存症病棟には、本人の同意による任意入院が一般的です。表2 安行がアルコール依存症になった原因個体因子環境因子体質(生物学的感受性)遺伝気質(パーソナリティ特性)ついやってしまう軽々しさ(衝動性)寂しがり屋(愛着不全)助けを当てにする(依存性)ストレスが適度に一定ではない危険な仕事不安定な収入やることがない共依存的な人間関係周りが流されやすい(同調)周りが助けすぎる(過保護)周りが手なずけたがる(過干渉)依存症の3つの要素とは?―図1依存とは、「依(よ)って存(あ)ること」、つまり何かに頼って生きることで、私たち人間に必要なことです。その何かとは、食べ物や飲み物など体に取り入れるもの(物質の依存)であり、生活習慣などの行動パターン(過程の依存)であり、家族やその周囲とのつながり(人間関係の依存)です。そして、依存症とは、これらにのめり込んでコントロールできなくなること、つまりはやめたくてもやめられなくなることです。 ここから、安行の状況に照らし合わせながら、アルコール依存症を、飲酒そのもの(嗜好の依存症)、飲酒までに至る行動パターン(行動の依存症)、その行動パターンを支える人間関係(人間関係の依存症)の3つの要素に分けて整理してみましょう。(1)アルコールをコントロールできない―嗜好の依存症―図2安行は、入院してしばらくの間、アルコールによる胃腸の障害から、食事が制限されていたため、定期的に献立になっているカレーライスを食べることができませんでした。その後に食事制限がなくなり、目の前のカレーライスを見た時、彼の胸は高まります。そして、病院食の普通のカレーライスを格別な気分で幸せそうに頬張るのです。また、私たちは喉がカラカラの時に水をとてもおいしく感じます。しかし、普段、水はただの水で、おいしいとは感じません。水に限らず、塩、糖、タンパク質、脂肪などもともと自然界にあるものも同じです。このように、私たちの脳は、不足すると気になり(サリエンス)、欲しくなります(渇望)。摂取すると気持ち良くなります(快感)。そして満足すると飽きてきます(無関心)。そうなるように調節が働き(フィードバック)、一定の健康状態を維持しています(恒常性)。これは、私たちがより適応的な行動をするために進化したメカニズムです(報酬系)。ここで、私たちの脳を車に例えてみましょう。すると、報酬系のメカニズムはエンジン(ドパミン)です。何かが足りないストレスの状態(興奮)では、アクセル(ノルアドレナリン)が踏まれ、そのアクセルでエンジン(ドパミン)の回転数も上がります。一方、満たされているリラックスの状態(抑制)では、ブレーキ(GABA)が踏まれ、そのブレーキでエンジン(ドパミン)の回転数も下がります。ところが、アルコールを摂取すると、代わりのブレーキ(ベンゾジアゼピン受容体)が踏まれ、リラックスの状態になります。それは、本家のブレーキ(GABA)の働きを阻み、このブレーキ(GABA)が利かなくなることでエンジン(ドパミン)の回転数が逆に上がってしまうのです。これが、酩酊感や高揚感という気持ちの良い状態です。さらに、多量のアルコール摂取によってエンジン(ドーパミン)の回転数が上がりすぎる、つまり空回転するとどうなるでしょうか? これが、酒乱(中毒せん妄)、泣き上戸や笑い上戸(脱抑制)と呼ばれる悪酔いの状態です。この状態は昔では宗教的な意味付けがされていました。アルコール摂取の問題点は、エンジン(ドパミン)の回転数を上げるばかりで下げるメカニズムがないので、やがていつも欲しくなってしまうのです(精神依存)。お酒が世界の全てになってしまい、起きている時はお酒のことしか考えず、問題が起きてもお酒を飲み続けます。さらには、アルコールが一定濃度、体に満たされ続けるとやがてそれが定常状態になる、つまりアルコールが脳にとって「あるべきもの」になります。よって、アルコールを切らしてしまうと、脳が異常と誤って感知して、禁断症状(離脱症状)が出てしまうようになります(身体依存)。こうして、アルコールの摂取をコントロールできなくなるのです(物質の依存症)。 なお、覚せい剤では、エンジン(ドパミン)の回転数を直接的に上げるため、高揚感を伴う興奮が得られます。よって、アルコールが「ダウナー」(抑制性薬物)と呼ばれるのに対して、覚せい剤は「アッパー」(興奮性薬物)と呼ばれます。ちなみに、ベンゾジアゼピン系薬剤である睡眠薬や抗不安薬も、副作用としてアルコールと同じように「悪酔い」(脱抑制、中毒せん妄)を引き起こすリスクがあります。しかし、精神科を専門としない医師がよくやってしまう間違いとして、もともとの脱抑制やせん妄の患者に対して、落ち着かせようとしたり眠らせようとして、ベンゾジアゼピン系薬剤を投薬し、その後に症状を悪化させるケースがあります。脱抑制やせん妄には、原則として、ベンゾジアゼピン系薬剤を投薬しないように注意する必要があります。(2)行動をコントロールできない―行動の依存症安行は、入院中、周りの患者たちがカレーライスを食べているのに自分だけ食べられないことに腹を立てて、「何だよ、ケンカを売る気かよ」「売られたケンカは買ってやろうじゃないの」とわざと独り言を言って看護師を威圧しています。患者同士が言い争いをしている時、安行は直接関係がないのに、良く思っていない方に「てめえが帰れ、くそじじい」とぼそっと小さな声でわざと挑発し、殴られてしまいます。また、かつて戦場カメラマンとして命の危険にさらされたり、作家として生計を立てようとしたりと、ギャンブルのような不安定な生活をあえて選んでいます。一見、男らしくも見えます。この男らしさに由紀は惚れてしまっているのでした。このように、安行にはアルコール依存症ならではの独特な行動パターンがあります。本来、行動パターンとは、生存や生殖に有利になるために進化した本能・習性や学習能力です。これは、脳の神経回路に刻み込まれるもので、一度覚えたらなかなか忘れません。例えば、自転車の運転や水泳のような運動神経から、食事や睡眠リズムのような生活習慣、プラス思考やマイナス思考のような思考パターンまで様々あります。生存や生殖という目的に向かって、遺伝的な傾向をもとに記憶や経験が快感(報酬)と結び付いて、そう行動するようにエンジン(ドパミン)の回転数が上がるというわけです。安行の行動パターンの問題点は、アルコールをコントロールできていない以前に、自分の感情や行動をコントロールできていないことです(行動の依存症)。言うならば、飲む前から酔っ払っている、つまり、しらふでも行動が酔っ払っています(空酔い、ドライドランク)。これは、アルコール依存症にまだなっていない人で、アルコールでトラブル(問題飲酒)を繰り返し起こす人にも当てはまります(プレアルコホリズム)。本来、アルコール依存症にならない人は、ストレスを溜め込んで飲酒量が増えたり、問題飲酒などうまく行かないことが起きた時点で、周りの意見に耳を傾け、自分を振り返り、早い段階で行動パターンを修正します。しかし、アルコール依存症になる人は、この修正をなかなかしません。その原因は、「まだ大丈夫」「それほど重くない」「やめようと思えばやめられる」と考えて、問題の深刻さに薄々気付いてはいるのですが、それをはっきり認めようとしない否認の心理があるからです。アルコール依存症は「否認の病」とも呼ばれます。この否認の心理によって、アルコール依存症を完成させてしまうのです。それでは、安行にはなぜ否認の心理があるのでしょうか? その答えは、彼の父親が「教えた」からです。安行は、母親から「2人の子どものことだけはよーく考えてください」と言われると、「おやじは考えてくれなかったよね、子ども(安行)のこと」と言い返します。実際に、「(父親は)毎日のように酒を飲んでは母親に暴力をふるっていました」と入院患者たちに語っています。ここから分かるのは、彼の父親は、子ども(安行)のことだけでなく、自分のことも考えることができない不安定な行動パターン(否認)の悪いお手本(モデル)を見せていたことです。そして、安行は、父親から否認の仕方を「学んだ」のでした。安行は飲酒を中学生から始めています。本来、父親というものは子どもに生き方(社会)のルールを教える役割(父性)があるはずですが、それがないのです(父性不在)。安行は、入院中に「やっちゃったよ。父さんの真似なんかしたくないのに」と嘆いています。体験発表で「けっきょく嫌いだった父親と同じことをしてしまっていたんです」と振り返ります。一方、お見舞いに来た小学生の息子は、安行に「父さん、何やってんだよ」と笑っていいます。まさに否認という行動パターンの「文化」が脈々と受け継がれようとしている危うさが読み取れます(世代間連鎖)。(3)人間関係をコントロールできない―人間関係の依存症安行は、入院して、初対面の若い看護師にいきなり下の名前を聞き出します。また、主治医の女医に「なんでコンタクトにしないんですか?」と個人的な質問をします。人懐っこくて相手の懐に飛び込むのにとても長けていることが分かります。このように、安行には心理的距離が近すぎる独特の人間関係があります。本来、人間関係とは、生存や生殖に有利になるために、約300万年前に進化した社会性(社会脳)です。これは、周りとうまくやる能力であり、助け合い(協力)の心理であり、人間関係における行動パターンとも言えます。安行が築く人間関係の問題点は、心理的距離が近すぎて相手との境界(バウンダリー)が弱まっているために、その人間関係をコントロールできていないことです(人間関係の依存症)。言うなれば、人間関係も酔っ払っています。例えば、安行は、母親の保護や由紀の支援に甘んじて頼り切ってしまい、迷惑をかけっぱなしです。「すいまんせん」「反省しています」と言うわりに、同じことを繰り返しています。これは依存の心理(依存パーソナリティ)です。それでは、安行にはなぜ依存の心理があるのでしょうか? その答えは、彼の母親が「教えた」からです。彼女のかかわり方は、良く言えば優しくて献身的ですが、悪く言えば過保護で過干渉で支配的です。彼女は、必要とされることを必要としている、言い換えれば依存されることに依存しています(共依存)。そのかかわり方を、かつてアルコール依存症の自分の夫にし続けました。彼女は華道の先生ですが、生徒たちに「この枝は『私はここ(生ける場所)に入りたい』と言っていました」「なんて、枝がそんなこと言うわけありませんよね」「ただ私が勝手にそう思っただけです」「でも昔、私はこの勘で夫の浮気を見破りました(笑)」と冗談を交えて説くシーンにその傾向が現れています。そして、当時に同じようなかかわり方を子ども時代の安行にもし続けてきたのです。安行は、母親を相手に人間関係での依存の仕方を小さい頃から「学んだ」のでした。本来、母親というものは子どもに安心感や安全感を与える役割(母性)があるはずですが、それが行きすぎています(母性過剰)。そして、実は、由紀はこの安行の母親と似ています。由紀の父親もアルコール依存症で、由紀の母親はそんな夫に尽くしてきました。由紀はその母親の悪いお手本(モデル)を見て育ちました。そして、由紀は、父親と同じような依存的な安行に惚れてしまい、母親と同じように共依存的に接するのです。このように、アルコール依存症を助長する家族などの周りをイネーブラー(enabler)と呼びます。アルコール依存症を「enable(可能にする)+er(人)」という意味です。そもそもアルコール依存症でい続けるには、依存する体だけでなく、依存するためのお金や依存する相手が必要です。つまり、安行の望ましくない行動パターンを下支えしてしまっているのは、母親や由紀です。逆に言えば、健康とお金と人間関係が続く限り、依存症はなかなか回復しないということです。由紀と安行の子どもである息子と娘は、由紀と安行が夜中に激しい夫婦喧嘩をしていても、寝たふりをして静かにしています。由紀は「大丈夫。あの子(娘)は泣いた顔を人に見せない子です」と胸を張って言っています。娘も息子も、母親の由紀の姿を見て、もの分りが良く我慢をする「良い子」にもなっています。そして、彼らが思春期になった時、その我慢の反動により依存的に振れるか、またはその我慢の順応により共依存的に振れるか、さらにはその両方を行ったり来たりするかといういずれかのこのような極端で独特の人間関係を築いてしまうのです。まさに依存と共依存の「文化」が脈々と受け継がれようとしている危うさが読み取れます(世代間連鎖)。なぜアルコール依存症は「ある」の?―図3これまで、「なぜアルコール依存症になるのか?」という疑問の答えを解きあかしてきました。それでは、そもそもなぜアルコール依存症は「ある」のでしょうか? その答えを探るために、アルコールの歴史をひも解いてみましょう。アルコールの自然発酵が発見されたのは、旧石器時代(数万年前?)と考えられています。それは、人類が手にした最も古いバイオテクノジーです。当時から、アルコールの摂取による一時の酩酊感や高揚感は、非日常(非現実)を味わう神秘体験の道具として祝祭(宗教的儀式)で重宝されてきました。しかし、当初はまだアルコール依存症として問題になることはほとんどありませんでした。その理由は、製造技術が原始的なために、低純度で希少で高価で、手に入りにくかったからです。その後、1万5千年前に農耕牧畜が開発され、それまでの狩猟採集社会から農耕牧畜社会へと社会構造が変わっていきました。特に東アジアでは早くから米作が広まり、それに伴い早くからアルコールの醸造が広まっていたと考えられています。なお、このことが原因で、ヨーロッパ人(コーカソイド)やアフリカ人(ネグロイド)と比べて、東洋人(モンゴロイド)はアルコールに弱い体質が多くなったという説があります。実際に、飲酒後すぐに表れる赤ら顔はフラッシング反応と呼びますが、東洋人に独特であるため、別名はオリエンタルフラッシュ(Oriental flush)と呼ばれます。例えば、日本人は、アルコールに強い人(ALDH1型)が50%強、アルコールに弱い人(ALDH2型部分欠損型)が45%弱、アルコールが全く飲めない人(ALDH2型完全欠損型)が5%です(グラフ1)。この東洋人はアルコールに弱いという説の根拠として、3つの可能性が考えられます。1つ目は、アルコールに強い遺伝子の淘汰がより早い時代からあった可能性です。これは、アルコールに強い人は、それだけアルコールを多く飲むので、アルコール依存症になりやすいということです。そして、アルコール依存症によって、働けなくなります(生存の困難)。また、配偶者として選ばれにくくなり(生殖の困難)、子孫を残しにくくなります。かつてアルコールは「きちがい水」とも呼ばれていました。結果的に、アルコールに強い遺伝子を持つ人は減っていくということです。2つ目は、アルコールに強い遺伝子の淘汰がより広い地域であった可能性です。狩猟採集民族が多く残るヨーロッパやアフリカは、狩りなどで衝動性や独自性が求められる社会です。そこでは、アルコールに強い人に寛容になります。その理由は、衝動性からアルコールを多く飲み酔っぱらって一時だらしなくなっても、酔いから醒めて、また本人のペースで狩りをすれば良いからです。また、飲みっぷりの良さは、豪快さ(衝動性)として男らしさに結び付いていきました。その価値観は現在でも根強いです。もともと狩猟採集と衝動性(ADHD)は関連性が高いですが、同時にアルコール依存症と衝動性(ADHD)も関連性が高いと言えます。一方、農耕牧畜民族が多く広まった東アジアは、田植えや稲刈りなどで計画性や協調性が求められる社会です。そこでは、アルコールに強い人に不寛容になります。その理由は、アルコールを多く飲み酔っぱらって一時でもだらしなくなったら、計画的にそして協調的に働けないからです(生存の困難)。そして、配偶者として選ばれにくくなり(生殖の困難)、子孫を残しにくくなります。結果的に、アルコールに強い遺伝子を持つ人は減っていくということです。3つ目は、アルコールに弱い遺伝子の選択がより多くあった可能性です。これは、アルコールに弱い方がより適応的であるという逆転の発想です。もともとアルコール摂取は、単なる気晴らしなどの娯楽ではなく、神聖な儀式の一環でした。この時、少しのアルコールですぐに酔えて非日常を味わえるアルコールに弱い人は、より神に近付ける人としてステータスが高まります。結果的に、アルコールに弱い遺伝子を持つ人は、配偶者として選ばれやすくなり、子孫を残しやすくなります。つまり、アルコールに弱い遺伝子を持つ人は増えていくということです。なお、アルコールが全く飲めない遺伝子は、ほんの少しのアルコールですぐに気持ち悪くなるだけで酔えないので、神に近付くことはできないため、この遺伝子を持つ人は増えなかったという解釈ができます。アルコール依存症が世界的に社会問題となっていったのは、18世紀の産業革命です。その理由は、10世紀以降にアルコールの蒸留法が発明されて純度を高めることが可能になった上に、産業革命による大量生産や広範囲の流通が可能になったからです。つまり、高純度で大量で安価で、手に入りやすくなったからです。もともとアルコールは、自然界に限りあるもので、人はなかなかアルコール依存症になれませんでした。しかし、文明が進歩した現在、ほとんど限りなく手に入るようになり、人は簡単にアルコール依存症になれるようになってしまったのです。つまり、アルコール依存症とは、文明の代償と言えます。もともと自然界にある水、糖、塩、タンパク質、脂肪などの物質は、調節をするメカニズムが進化しています。ところが、アルコールは、人工的に作られ始めてからまだせいぜい1万5千年です。そのため、その調節(フィードバック)をするメカニズムが進化するには、あと数万年以上は必要と思われます。もしかしたら東洋人(モンゴロイド)にアルコールに弱い体質が多いのは、その進化の先駆けかもしれません。 なぜ欲しがる心(嗜癖)は「ある」の?ここまで、アルコール依存症の起源が明らかになってきました。それでは、アルコール依存症などの嗜好の依存症(物質依存)から、行動の依存症(過程依存)、人間関係の依存症(関係依存)までを全て含んで、そもそもなぜ欲しがる心(嗜癖)は「ある」のでしょうか? 由紀と安行の生き方を通して、進化心理学的に解き明かしてみましょう。安行の母親は、「(安行は)何から逃げるためにあんなにお酒飲むのか」と由紀に呆れて言います。一方、安行は主治医に「(夢で)何か探してるんだけど、探しているものが何か分からなくてイライラする」と言います。由紀は、知り合いの医師から「離婚した相手のことをどうしてそんなに心配するんですか?」と聞かれて、「一度好きになった人はなかなか嫌いになりにくいし」と答えます。また、「体を満たしているのがたとえ(安行を末期がんで失う)悲しみであっても、とにかく体がいっぱい満たされているわけだから、悲しいんだか嬉しいだか分かんなく(なって)」と言っています。安行と由紀に共通する心理は、心が「何か」で満たされていないことです。そして、その「何か」を「代わりの何か」で満たそうと駆り立てられ、必死で追い求めます(渇望)。これが、欲しがる心(嗜癖)です。安行は、戦場カメラマンとしてベストショットを追い求め、がむしゃらで無茶でギャンブルのような生き様をしました。そして、追い求めるものはお酒にすり替わっていきました。由紀は、離婚しても安行を追い求め、安行を最期はがんで失うという「悲しみ」で心を満たそうとしています。この映画のラストシーンで、由紀は安行の母親に「子どもたちのいる場所だと思います、(死期が間近な)あの人の帰るところ」と言うと、母親は「居場所があるのねえ、まだあの子に」と言います。ここでようやく、心を満たす「何か」とは、家族の絆という心のよりどころ、つまりは「心の居場所」であることが分かります。安行や由紀は、この「心の居場所」の感覚が幼少期にうまく育まれなかったため、この感覚が充分に満たされていないのです。この心理は、オキシトシンとドパミンという神経伝達物質によって調整されています。この心理が満たされないと、オキシトシンと結び付いているドパミンによって、他の「何か」を欲しがる心理(嗜癖)が強まってしまうのです。オキシトシンが「心の居場所」の心理として働くようになったのは、私たちの祖先が人類として社会脳が進化して大家族をつくるようになった約300万年前と考えられます。さらに、このオキシトシンの起源は、私たちの祖先が哺乳類として授乳(哺乳)するようになった2億年以上前です。ドパミンの起源は、さらに遡って、私たちの祖先が原始生物として捕食対象に接近するようになった数億年前以上前です。これが私たちの欲しがる心(嗜癖)の起源であると言えます。私たちは、本能的に何かに近付いて欲しがる心(嗜癖)を持っており、問題はその相手(対象)や程度であるということです。 1)鴨志田穣:酔いがさめたら、うちに帰ろう。講談社文庫、20102)斎藤学:アルコール依存症に関する12章、有斐閣新書、19863)ディヴィッド・J・リンデン:快感回路、河出文庫、20144)アンソニー・スティーブンズほか:進化精神医学、世論時報社、20115)長尾博:図表で学ぶアルコール依存症、星和書店、2005

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ホスピスが入院や医療コストを抑制/JAMA

 米国の終末期がん患者のうちホスピスケアの利用者は非利用者に比べ、入院やICU入室、侵襲的手技の施行が少なく、医療コストも抑制されることが、ブリガム&ウィメンズ病院のZiad Obermeyer氏らの調査で示された。近年、米国ではがん患者のホスピス利用が増えている一方、ホスピス外でのケアの増加や入所期間が短縮しているが、ホスピスが保健医療の活用に及ぼす影響や、医療コストがホスピス利用に与える影響は明らかにされていなかった。JAMA誌2014年11月12日号掲載の報告。約3万6,000例の予後不良がん患者をホスピス利用の有無別に比較 研究グループは、終末期がん患者における保健医療の利用状況や医療コストを、ホスピスケア利用の有無別に検討した。対象は、1次診断で予後不良と判定されたがん(肺、膵、脳など)や転移性悪性腫瘍、再発・非寛解血液腫瘍などの患者であった。 解析には、2011年に死亡した出来高払制(fee-for-service)メディケア受給者の20%に相当する患者データを使用した。死亡前にホスピスに登録した患者と、ホスピスに入所せずに死亡した患者の背景因子(年齢、性別、地域、診断から死亡までの期間など)をマッチさせ、ホスピスケア開始前後の入院や処置などの医療サービスの利用、死亡場所、医療コストなどの評価を行った。 予後不良がん患者8万6,851例の診断から死亡までの期間中央値は13ヵ月(四分位範囲:3~34ヵ月)であり、このうち5万1,924例(60%)が死亡前にホスピスを利用した。 背景因子をマッチさせたホスピス利用者と非利用者、それぞれ1万8,165例を比較した。平均年齢は非ホスピス群、ホスピス群とも80歳、男性が48%ずつで、予後不良がんの診断から死亡までの期間中央値は213日、210日、固形がんが88.2%、91%であった。最後の1年間の医療コストが約8,700ドル安価に ホスピスケア開始後にがん治療を受けた患者は、ホスピス群が1%、同時期の非ホスピス群は11%であった。ホスピスケア期間中央値は11日であった。6ヵ月以上の利用患者は6%。 入院率は非ホスピス群が65.1%、ホスピス群は42.3%(リスク比[RR]:1.5、95%信頼区間[CI]:1.5~1.6)、ICU入室率はそれぞれ35.8%、14.8%(RR:2.4、95%CI:2.3~2.5)であり、いずれもホスピスケアを利用した患者で有意に低かった。 医療サービスの利用は非ホスピス群がホスピス群よりも多く、ほとんどががんとは直接に関連しない急性疾患の治療であった。侵襲的手技(動・静脈カテーテル、気管内挿管、輸血など)の施行率は非ホスピス群が51.0%、ホスピス群は26.7%(RR:1.9、95%CI:1.9~2.0)であり、長期療養型病院等での死亡率はそれぞれ74.1%、14.0%(RR:5.3、95%CI:5.1~5.5)と、いずれも大きな差が認められた。 ホスピスケア開始前1年間の1日平均医療コストは、ホスピス群が145ドル、非ホスピス群は148ドルであった。また、開始前1週間のホスピス群の1日平均医療コストは802ドルに達し、非ホスピス群よりも146ドル高額であった。これに対し、ホスピスケア開始以降、ホスピス群の医療コストは急激に減少し、死亡までの最後の1週間の1日平均医療コストはホスピス群の556ドルに比べ、非ホスピス群は1,760ドルに達し、その差は1,203ドルだった。 死亡までの最後の1年間のホスピス群の平均総医療コストは6万2,819ドルであり、非ホスピス群の7万1,517ドルよりも8,697ドル(95%CI:7,560~9,835)安価であった。 著者は、「非ホスピス群の患者の多くが、ホスピス群と同時期にがんとは直接関連しない急性疾患で入院またはICUへ入室していたが、その治療は患者の望むところではない可能性が高い」とし、「今回の知見は、終末期医療の現実について医師と患者間で率直に話し合うことの重要性を浮き彫りにするもの」と指摘している。

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第26回 前立腺がんの告知は、本人だけじゃダメなのか!?

■今回のテーマのポイント1.泌尿器科疾患で1番訴訟が多い疾患は腎不全であり、2番目に多い疾患は前立腺がんである2.患者本人に説明をした場合には、その上、家族に対してまで説明する法的義務はない3.しかし、紛争予防の観点から、可能な限り家族に対しても説明することが求められる■事件のサマリ原告患者Xの家族被告Y病院争点説明義務違反結果原告敗訴事件の概要76歳男性(X)。Xは、平成10年9月11日、頻尿や腰痛を訴え、Yクリニックを受診しました。直腸診の結果およびPSAが386.0ng/mLであったことから、Xは、前立腺がんと診断されました。Xは、前立腺がんが進行性のものであり、予後が良くないこと、生検などのさらなる検査および専門医による検査および治療を受けるべきであることなどの説明を受けたのをはじめ、治療方法として内分泌療法があること、その際に使用されるクロルマジノン(商品名: プロスタール)などの薬剤については勃起障害などの副作用が見られることについて説明されました。また、その後も複数回にわたり、適宜の時期に病状を説明され、検査および治療のために泌尿器科専門医のいる総合病院への転院を勧められました。ところがXは、勃起障害を避けたかったことなどから、前立腺がんに対するさらなる検査や転院、および治療を繰り返し拒否しました。その結果、対処的にタムスロミン(同: ハルナール)やプロスタール®Lを投与していましたが、徐々に増悪してきたため、同年12月16日からは、前記の処方に加え、リュープロレリン(同: リュープリン)の投与を開始しました。その後も、Xの病態は徐々に増悪し、平成13年6月19日には、Yクリニックに入院することとなりました。このころから、Xには不穏、認知症の症状が出現するようになりました。Xの病態が改善しないことから、7月6日、Z病院泌尿器科へ転院しました。転院時のXのPSA値は1,420 であり、Xが見当識障害のため自身が前立腺がんで治療中であることを伝えなかったことから、Z病院の医師は、Xの家族に対し「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」と叱責しました。Z病院の医師は、Xを進行性の前立腺がんおよび骨転移と診断し、前立腺がんに対する手術適応はないと診断しました。Xは、同年8月18日に再びYクリニックに転院し、同クリニックにおいて入院治療を続けていましたが、同年9月19日に死亡しました。これに対し、Xの遺族は、X本人に対し病状の説明がなされていなかった、また、家族に対して説明がなされていなかったなどとして、Yクリニックに対し、990万円の損害賠償請求を行いました。事件の判決●近親者への告知義務について患者の疾患について、どのような治療を受けるかを決定するのは、患者本人である。医師が患者に対し治療法等の説明をしなければならないとされているのも、治療法の選択をする前提として患者が自己の病状等を理解する必要があるからである。そして、医師が患者本人に対する説明義務を果たし、その結果、患者が自己に対する治療法を選択したのであれば、医師はその選択を尊重すべきであり、かつそれに従って治療を行えば医師としての法的義務を果たしたといえる。このことは、仮にその治療法が疾患に対する最適な方法ではないとしても、変わりはないのである。そうだとすれば、医師は、患者本人に対し適切な説明をしたのであれば、更に近親者へ告知する必要はないと考えるのが相当である。そして、本件についてみれば、被告は、Xに対し前立腺癌であることを告知し治療法等を説明していたのであるから、更に原告らに対し、Xが癌であることを告知する法的義務はないと考える。この点原告らは、患者が治療を拒否しているような場合には、患者に対して癌を告知している場合でも、更に患者の家族への告知をすべきであると主張する。しかし、上記のとおり、疾患についての治療法等の選択は、最終的には患者自身の判断に委ねるべきであり、患者の家族に対して癌を告知したことにより、家族らが患者を説得した結果、患者の気持ちが変わることがないとはいえないとしても、そのことから直ちに家族に対して癌を告知すべき法的な義務が生じるとまではいえない。(*判決文中、下線は筆者による加筆)(名古屋地判平成19年6月14日判タ1266号271頁)ポイント解説●泌尿器科疾患の訴訟の現状今回は、泌尿器科疾患です。泌尿器科疾患で最も訴訟が多いのは腎不全で、2番目に多い疾患が前立腺がんとなっています(表1)。前立腺がん自体、進行が緩徐であること、治療方法が進歩したことなどから他のがんと比べ生命予後が良く、その結果、訴訟になり難いものと考えられます。腎不全については、第22回で解説させていただきましたので、今回は、前立腺がんをテーマとしたいと思います。数が少ないこともありますが、前立腺がんに関する訴訟において疾患に特徴的な争点というものは認められません(表2)。このような傾向の中で、今回紹介した事例には、長期間外来治療を継続した結果、最終的に認知症のためか見当識障害が生じたこと、高齢者においても勃起機能障害は治療を受けるか否かについて、心理的障害となるといった前立腺がんに特徴的ともいえる論点が見受けられました。高齢者に対し、長期間の治療を行っていると、認知症を含め見当識障害が出現することは生じ得ます。本件では、患者から伝えられなかったとはいえ、転院先のZ病院の医師が「どうしてこんなになるまで放っておいたのか」と家族を叱責したことが、紛争化を引き起こした原因の1つと思われます。前医がいないと誤認していた事例であり、Z病院の医師に悪気がないことは理解できるのですが、家族に対する発言には、やはり注意が必要といえます。また、残された遺族にとって、患者ががんであるにもかかわらず、勃起機能障害の副作用を恐れて治療を拒否していたという事実は受け入れがたいものです。本件においても、原告である遺族は訴えの中で、「平成10年12月16日以降のYクリニックの診療録には、Xが処方のみで帰宅したとか、転院を拒否したとか、不定期的な来院であったとか、勃起機能への執着があったなど、およそがんを告知された患者とは思えない行動が記されており、不自然な行動と評価せざるを得ない」とした上で、「Xに対し前立腺がんの告知及び治療法や転院等について説明を行っていなかった」と主張しています。後にも解説しますが、家族に対する説明は、可能な限り行うことが紛争化を防ぐために必要と考えられます。●説明義務の客体第9回において解説した通り、説明義務は、わが国の判例・通説によると、診療契約の付随的義務として認められるとされています。したがって、原則的には、契約の一方当事者である患者本人がその客体となり、家族は契約関係外の第三者ということになります。判例においても「緊急に治療する必要があり、患者本人の判断を求める時間的余裕がない場合や、患者本人に説明してその同意を求めることが相当でない場合など特段の事情が存する場合でない限り、医師が患者本人以外の者の代諾に基づいて治療を行うことは許されないというべきである」(東京地判平成13年3月21日判時1770号109頁)とし、家族に対し説明し、承諾を得たとしても、本人への説明、承諾がなければ違法であるとしています。その一方で、同回で紹介した事例のように、「医師は、診療契約上の義務として、患者に対し診断結果、治療方針等の説明義務を負担する。そして、患者が末期的疾患にり患し余命が限られている旨の診断をした医師が患者本人にはその旨を告知すべきではないと判断した場合には、患者本人やその家族にとってのその診断結果の重大性に照らすと、当該医師は、診療契約に付随する義務として、少なくとも、患者の家族等のうち連絡が容易な者に対しては接触し、同人又は同人を介して更に接触できた家族等に対する告知の適否を検討し、告知が適当であると判断できたときには、その診断結果等を説明すべき義務を負うものといわなければならない」(最判平成14年9月24日民集207号175頁)とする判例もあり、混迷を極めています。このような状況の中、本判決は出されており、かつ、説明義務の客体について、一定の方向を示すものとなっています。すなわち、「医師は、患者本人に対し適切な説明をしたのであれば、更に近親者へ告知する必要はないと考えるのが相当である」とした上で、末期がんなどにより余命が限られている場合であっても、「疾患についての治療法等の選択は、最終的には患者自身の判断に委ねるべきであり、患者の家族に対してがんを告知したことにより、家族らが患者を説得した結果、患者の気持ちが変わることがないとはいえないとしても、そのことから直ちに家族に対してがんを告知すべき法的な義務が生じるとまではいえない」としたことです。すなわち、本判決を踏まえ、前記判決を整理すると(図)のようになります。本判決により、説明義務の客体についてはある程度の整理が得られたものと思われます。ただし、本事例のように患者が死亡してしまったり、認知症などで意思疎通が困難となると、遺族は、診療中どのような説明がなされていたか知らない結果、無用な争いが生まれてしまう危険があります。したがって、法的義務としては、患者に説明すれば、家族に対し説明する必要はないのですが、紛争予防の観点からは、可能な限り家族に対しても説明することが望ましいということになります。裁判例のリンク次のサイトでさらに詳しい裁判の内容がご覧いただけます。(出現順)名古屋地判平成19年6月14日判タ1266号271頁東京地判平成13年3月21日判時1770号109頁本事件の判決については、最高裁のサイトでまだ公開されておりません。最判平成14年9月24日民集207号175頁

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下痢と体重減少を過敏性腸症候群と診断し、膵臓がんを見逃したケース

消化器概要約3ヵ月間続く下痢と、5ヵ月間に約9kgの体重減少を主訴に総合病院内科を受診、注腸検査、上部消化管内視鏡検査が行われ、過敏性腸症候群と診断された。担当医は止痢薬を約10ヵ月間にわたり投与し続け、その間に新たな検査は行われなかった。初診から11ヵ月後に別の病院を受診し、閉塞性黄疸を伴う膵頭部がんと診断されたが、その2ヵ月後に死亡した。詳細な経過経過1982年4月末食欲不振、下痢、全身倦怠感、体重減少に気付いた。6月30日5kgの体重減少、空腹時腹痛を主訴として近医受診。消化管X線検査、超音波検査などが行われ、膵臓にやや腫脹がみられたため膵炎疑いと診断された(アミラーゼは正常)。8月21日慢性下痢、体重減少を主訴にA総合病院内科受診。注腸検査、上部消化管内視鏡検査が行われ、出血性胃炎の所見以外は著変なしと判断し、過敏性腸症候群と診断した。その結果、下痢止めを処方し経過観察となった。12月27日血液検査で異常がないことから、下痢止めの処方を継続した。1983年1983年はじめ20kgに及ぶ体重減少、背部痛が出現し、鍼灸院などで治療を受ける。6月20日A総合病院再診し、下痢止めの処方を受ける。7月11日発熱を主訴に近医受診、担当医師は内臓の病気を疑い、B病院に紹介入院、精査の結果、閉塞性黄疸を伴う膵頭部がんと診断され、肝臓そのほかへの転移もみられる末期がんと判断された。8月15日A総合病院に転院、根治的治療は不可能と判断され、経皮胆管ドレナージなどが行われたが、9月25日死亡。当事者の主張患者側(原告)の主張下痢と体重減少を主訴とした患者に対し、胃・腸の形態的検査で異常がないという理由で過敏性腸症候群と診断した。アミラーゼが正常であったので膵がんあるいは膵疾患を疑わなかったということだが、胃・腸の形態的検査で異常がなければ膵疾患を疑うのは医学の常識である初診時に心窩部痛、全身倦怠感、食欲不振を申告したにもかかわらず、カルテにその記載がないのは問診が不十分である。さらに前医の超音波検査で膵炎疑いと診断されていながら、これを見過ごした上腹部超音波検査を行えば膵がん発見の可能性は高かった膵がんが早期に発見されていれば、延命、さらには助命の可能性があった。病院側(被告)の主張下痢と体重減少はみられたが、通院期間中疼痛(腹痛、背部痛)をはじめとして、膵がんを疑うべき特有な症状はみられなかった。便通異常は膵がんに特有な症状ではない問診では患者の協力が必要だが、当時の医師の問診に対して腹痛を否定するなど、患者の協力が得られなかった当時の医療水準(腹部超音波検査、腹部CT)で検出できるのは進行膵がんが中心であり、小膵がんを検出できるほどの技術は発達していなかったもし初診時に膵がんと診断しても、手術不能のStageIII以上であったものと推認され、延命は期待できなかった。裁判所の判断以下の過失を認定過敏性腸症候群との診断は結果的に誤診であった。顕著な体重減少、食欲不振の患者に対し、胃・大腸に著変なしとされたのであれば、腹痛・背部痛がなかったとしても胆嚢、胆道、膵臓などの腹部臓器の異変を疑うのが当然であり、患者の苦痛がない腹部超音波検査を実施するべきであったとくに見解は示さず小膵がんの発見は難しく、超音波検査は術者の技術に診断の結果が左右されるといわれているが、当時膵がんの発見が絶無とはいえない以上、病態解明のために考えうる手段をとることが期待されているので、債務不履行である初診時に膵がんと診断されていても、延命の可能性はきわめて低かった延命の可能性がまったくなかったわけではないのに、9ヵ月近く下痢止めの投薬を受けたのみで、膵がんに対する治療は何ら受けることなく推移したのであるから、患者の期待を裏切ったことになり、精神的損害賠償の対象となる。原告側合計7,768万円の請求に対し、慰謝料として200万円の判決考察本件では「体重減少」という、悪性腫瘍をまず除外しなければならない患者に対し、下痢症状に着目して消化管の検査だけを行いましたが、腹部超音波検査を行わず、約9ヵ月にわたって膵臓がんを診断できなかった点が「期待権侵害」と判断されました。もっとも、病院側に同情するべき点もいくつかはあります。おそらく、普段は多忙をきわめる内科外来においては一人の患者に割り当てられる時間が絶対的に少ないため、初診後一定の検査が終了して一つの診断に落ち着いた場合には、患者側からの申告が唯一の診断の拠り所となります。その際、「下痢と体重減少」という所見だけで腹痛の訴えがなく、さらに血液検査上も異常値がみられなかったのならば、過敏性腸症候群と考えて「しばらくは様子を見よう」と決めたのは自然な経過ともいえるように思います。さらに、止痢薬投与によってある程度下痢が改善している点も、あえて検査を追加しようという意思決定につながらなかったのかもしれません。しかしながら、慢性に下痢と体重減少に対して9ヵ月間も経過観察とした点は、注意が足らなかったいわれても仕方がないと思います。とくに、簡便にできる腹部超音波検査をあえて行わなかったことの理由を述べるのはかなり難しいと思います。裁判の判決額をみる限り、原告の請求よりも遙かに低い金額で解決したのは、膵臓がんという予後のきわめて悪い疾病を見落としたことに関連すると思います。もし、早期発見・早期治療によって予後が改善するような疾病であれば、当然賠償額も高額になったであろうと思います。消化器

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